合法と違法の線引はどこに? 現代美術のアプロプリエーション

現代美術の手法のひとつ「アプロプリエーション」は、過去の他者の作品の一部または全部を自身の作品に取り込むものとして、様々なアーティストたちが実践してきた。しかしアプロプリエーションをめぐっては裁判沙汰に発展するケースもある。そこで今回は過去の判例を紹介し、時代とともに変わるアプロプリエーションの受容のされ方を紐解く。

文=木村剛大

アンディ・ウォーホル 花 1964 出典=クリスティーズ・ウェブサイト (https://www.christies.com/lotfinder/Lot/andy-warhol-1928-1987-flowers-6141800-details.aspx)

 1964年11月にニューヨークのレオ・キャステリ・ギャラリーで発表されたアンディ・ウォーホルの「花」シリーズ。コレクターの間で大人気となり1000点近く制作されたと言われるこの作品は、じつは雑誌『モダン・フォトグラフィー』1964年6月号に掲載されたハイビスカスの写真をベースとして制作されている。

 ウォーホルは他者の写真を自らの作品に取り込んだわけだが、案の定、この作品をめぐり、写真を撮影した同誌の編集長パトリシア・コールフィールドから1966年に著作権侵害で訴えられている。

パトリシア・コールフィールドによるハイビスカスの写真 出典=(https://www.warhol.org/lessons/silkscreen-printing/underpainting-and-photographic-silkscreen-printing/)

 裁判は和解で終了したが、ウォーホルが2点の「花」をコールフィールドに渡すこと、複製されるプリントの将来の利益から一定のパーセンテージを支払うことを条件としたと言われている(*1)。つまり、事実上「花」が写真の著作権侵害であることを前提としたウォーホル敗訴の和解であった。

 しかし、「花」裁判から50年以上の時が過ぎた現在、米国の司法判断には変化が見られる。

 写真家のリン・ゴールドスミスが撮影したプリンスの肖像写真を用いたウォーホルの「プリンス」シリーズに関する写真家とアンディ・ウォーホル美術財団との裁判で、2019年7月1日、ニューヨーク州南部地区連邦地方裁判所は、ウォーホル作品はフェア・ユースである、と判断したのだ(*2)。ウォーホル作品は適法となり、裁判所は「花」裁判とは真逆の結論を支持したことになる(*3)。

リン・ゴールドスミスによるプリンスの肖像写真 出典=訴状13頁
アンディ・ウォーホル プリンス 1984 出典=(https://news.artnet.com/art-world/prince-photographer-fires-back-warhol-foundation-copyright-suit-923759)

 既存の素材を意図的に取り込んで自らのアート作品として使用する手法は「アプロプリエーション」と呼ばれている(*4)。 

 アプロプリエーションがとくに注目を集めたのは1980年代であり、マルボロの広告を再撮影(リフォトグラフ)したリチャード・プリンスの「Untitled (cowboy)」シリーズはその代表的な作品である。

マルボロの広告 出典=グッゲンハイム美術館ウェブサイト(https://www.guggenheim.org/arts-curriculum/topic/cowboys)
リチャード・プリンス Untitled (cowboy) 1989 出典=グッゲンハイム美術館ウェブサイト(https://www.guggenheim.org/arts-curriculum/topic/cowboys)

 広告として流通していたイメージでは写真家の名前が出ることはなく、作家性は喪失していると言えるが、プリンスの再撮影によってトリミング、拡大してアート作品として提示されることで、写真が本来有していた広告としてのメッセージ性は排除され、広告となる前の写真本来のイメージがプリンスの作品として回復される。再撮影によってコンテクストの置き換えが行われているのである(*5)。

 このように、アプロプリエーションではより確信犯的に他人のイメージを取り込んだ作品制作が行われるようになった。しかし、当然ながらアート作品に取り込まれる他人のイメージ(取り込まれる写真を撮影した写真家のケースが多い。)に関する権利との緊張関係を抱えることになる。

 アプロプリエーションは議論の余地なく単純に著作権侵害として禁止されるべきだろうか? 

米国の現状

 冒頭で言及したように、米国ではアート作品への他人のイメージ利用を許容する傾向が強まっている。しかし、このような傾向が昔からずっと変わらずにあったわけではない。アーティストが訴訟で戦い、判例が積み上がってきた結果としてアプロプリエーションを正当化する論理が生まれている。

 米国ではジェフ・クーンズ、前述したリチャード・プリンス、アンディ・ウォーホルといった第一線のアーティストが訴えられ、裁判で主張が繰り広げられることになった。以下で紹介する事件はいずれもアートマーケットの中心地であるニューヨーク州を管轄する裁判所で争われている。アーティストによる戦いの歴史をみてみよう。

 

ジェフ・クーンズ《String of Puppies》

 クーンズについてはとくに有名な2件の判決を紹介しておきたい。

 まず、クーンズが制作した彫刻作品《String of Puppies》(1988)に対して、写真家のアート・ロジャースが著作権侵害を主張した事件に関する1992年の判決がある(*6)。 《String of Puppies》は、いまや法曹界でもっとも有名な作品かもしれない。

 ロジャースは、庭のベンチで夫婦が子犬を両腕にかかえる写真《Puppies》(1980)を撮影し、この写真のプリントはコレクターに販売されたり、絵葉書としての使用のためにライセンスされたりしていた。

 この写真を見たクーンズは、まったく同じ構図で写真を忠実にコピーした《String of Puppies》を1988年にニューヨークのソナベンド・ギャラリーで行われた展覧会「バナリティ・ショー」で発表するために4点制作し、そのうち3点を合計36万7000ドルで販売して、残りの1点はアーティスト所蔵とした。

ジェフ・クーンズ String of Puppies 1988 出典=ジェフ・クーンズ・ウェブサイト(http://www.jeffkoons.com/artwork/banality/string-puppies)
アート・ロジャース Puppies 1980 出典=アート・ロジャース・ウェブサイト(http://www.artrogers.com/portraits.html)

 クーンズの主張は、もちろんフェア・ユースだ。米国著作権法では原則として著作権侵害になる行為(複製行為など)でも、次の4つの要素を総合的に考慮してフェア・ユースに当たるかを判断する(*7)。 

(1)使用の目的と性質(使用が商業性を有するか又は非営利的教育目的かを含む)
(2)著作権のある著作物の性質
(3)著作権のある著作物全体との関連における使用された部分の量と実質性
(4)著作権のある著作物の潜在的市場や価値に対する使用の影響

 他者のイメージを取り込んだ作品が許容されるかは、多くのケースでこのフェア・ユースに当たるかが主な争点になる。

 フェア・ユースに当たるかは総合的に4つの要素を考慮するが、第1要素(使用の目的と性質)が主役になる。クーンズは、《String of Puppies》は、社会全体に対する「風刺」又は「パロディ」としての利用である、つまり、主な使用目的は消費財の大量生産やメディアによるイメージが社会の劣化を招くという社会的批判であって、取り込んだ作品自体、そしてそれを生み出した政治的、経済的システムに対する批判的コメントにあると主張した。

 しかし、裁判所の判断は、フェア・ユースには当たらない、つまり、写真家の勝利である。裁判所は、パロディが批評の価値ある形式であり、フェア・ユースの下で認められると述べながらも、パロディは取り込んだ作品自体を対象とする必要があると判示した。そうすると、《String of Puppies》は、物質主義的社会への風刺的な批判ではあっても、《Puppies》自体に対するメッセージでないので、パロディではないというわけだ。

 また、クーンズの複製行為は、商業的利用のために行われたこともフェア・ユースを否定する方向で考慮されている。

 

ジェフ・クーンズ《Niagara》

 次は、2000年に発表されたクーンズのペインティング《Niagara》を巡る2006年の判決である(*8)。

ジェフ・クーンズ Niagara 2000 出典=ジェフ・クーンズ・ウェブサイト(http://www.jeffkoons.com/artwork/easyfun-ethereal/niagara)

 この作品のなかに、『Allure』誌(2000年8月号)に掲載されたファッション・ポートレイト写真家アンドレア・ ブランチの写真《Silk Sandals by Gucci》(2000)が無断使用されていた。どこかというと、180度回転させて背景はカットしているが、《Niagara》の左から2番目のサンダルをはいた脚がブランチの写真から取り入れた部分である。

 ブランチは、2003年にクーンズを著作権侵害で訴えた。

アンドレア・ブランチ Silk Sandals by Gucci 2000 出典=Allure誌2000年8月号128頁

 裁判所は、今度はクーンズによる写真の利用はフェア・ユースに当たると判断した。

 結論が変わった理由はいくつか考えられるが、大きいのはフェア・ユースの第1要素(使用の目的と性質)に関して「変容的利用」(transformative use)という考え方を採用した最高裁判決が1994年に出たことだろう(*9)。

 最高裁によれば、変容的利用かは、「新しい作品が、たんに原作品の目的にとってかわるか否かであり、言葉を換えれば、最初の表現を新しい表現や意味又は主張を伴って変化させることで、さらなる目的や異なる性格を伴い、何か新しいものを付け加えているか否か」により判断される。また、この最高裁判決は、変容的であればある程、商業的利用などのその他の要素の重要性は落ちるとも述べていた。

 まずクーンズは、写真利用の目的は、ブランチの写真をマスメディアによる社会的、美的な影響に対するコメントのための消耗品として使用するためで、ある種のエロティックな雰囲気を与えるというブランチの目的とはまったく異なると主張した。これに対して、裁判所も、まったく異なる創造目的や伝達目的を促進するために著作物が「素材」として利用されるときにはその利用は変容的だと述べた。

 続いて裁判所は、原作品自体に対する批判、コメントをする「パロディ」と、必ずしも原作品を利用する必要がなく、それ自体でも成立するために借用に正当化根拠を要する「風刺」の区別についても述べ、メッセージは個々の写真そのものよりも、《Silk Sandals by Gucci》を典型とするジャンルをターゲットにしているので、《Niagara》は「風刺」として位置付けられるとした。

 しかし、裁判所は風刺であっても、クーンズが写真を借用するにあたり、創造のための合理性が本当にあったかを検討し、写真の利用には正当化根拠があったと認定している。裁判所は認定に際し、次のクーンズの説明を引用し、クーンズが矛盾なくなぜブランチの写真を使用したのかを説明していると認めた。

「『Allure』誌の写真にある足は単調なものに見えるかもしれないが、私は自分自身で撮影する足以上にこれらを私の作品に取り入れる必要があると考えた。写真が至るところに存在することは、メッセージの中心だ。写真はマスコミュニケーションの確立したスタイルとして典型的なものだ。どのような高級雑誌にも、その他のメディアと同様にほぼ同じようなイメージを見つけることができる。私にとっては、『Allure』誌に描かれた足は、世界における事実であって、皆が常日頃体験しているものだ。それらは特定のだれかの足というわけではない。『Allure』誌の写真の断片を私のペインティングに使用することで、『Allure』誌によって促進され、体現されている文化や態度についてコメントをしたのだ。既存のイメージを使用することにより、私はコメントを高めるための真実性を確保している。それは引用と言い換えの違いであって、鑑賞者が私のメッセージを理解することを可能にするのだ​」。

 このように、裁判所は、フェア・ユースに当たるかを判断するための重要な要素として、問題となった作品がベースとした作品とは異なるメッセージ性を持っているかを考慮している。また、アーティスト自身による説明もその判断材料としていた。

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現代美術のオリジナリティとは何か? 著作権法から見た「レディメイド」(2)

美術の世界は著作権法をはじめとする様々な法律と密接に関わっている。「Art Law」を業務分野として掲げる日本で数少ない弁護士のひとり、木村剛大が様々な法学的視点からアートと法の関わりを紐解いていくシリーズ「アートと法 / Art Law」。第2回は、第1回で提示した視点と類型を踏まえて、「レディメイド」と向き合う著作権法の解釈について検討する。

文=木村剛大

シェリー・レヴィーン 泉(ブッダ) 1996 出典=ザ・ブロード・ウェブサイト(https://www.thebroad.org/art/sherrie-levine/fountain-buddha)

 マルセル・デュシャンの 《泉》(1917)が著作物だとすると、シェリー・レヴィーンの《泉(ブッダ)》(1996)のようなデュシャンをオマージュした男性用小便器のレディメイド作品は、《泉》の著作権侵害になるのだろうか?

 この疑問に答えるためには、レディメイド作品が、1. そもそも著作物と言えるか、2. 著作物だとしてもその保護範囲(独占できる範囲)をどの程度とするかを検討する必要がある。

「アート」=「著作物」とは限らない

 「アート」だからといって必ず「著作物」になるわけではない。「著作物」の定義に当てはまる「アート」だけが「著作物」になる。

 著作権法は、「著作物」を「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」と定義している(*1)。

 もっとも、さすがにこれだけではよくわからないので、著作物と考えられている表現物の例を挙げている(*2)。

1. 小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物
2. 音楽の著作物
3. 舞踊又は無言劇の著作物
4. 絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物(美術工芸品を含む)
5. 建築の著作物
6. 地図又は学術的な性質を有する図面、図表、模型その他の図形の著作物
7. 映画の著作物
8. 写真の著作物
9. プログラムの著作物

 美術の著作物の例は、4の「絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物(美術工芸品を含む)」である。パフォーマンスもインスタレーションも掲げられていない。これを見ても、著作権法が現代美術を前提としていないことがわかってしまう。

 あくまで例なので限定されているわけではないが、著作権法が想定しているのは伝統的な彫刻である。つまり、作者が表現物の形状をデザインし、創作する作品だ。

 伝統的な彫刻と比べると、レディメイドは、まず作者自らの手でその形状をデザインしたり、つくったりしているわけではない。作者は既製品を選択しただけである。他人がつくった既製品に少し手を加えたり、署名やタイトルをつけたりして異なる文脈を付与するだけで、著作物でなかった既製品が著作物になるのだろうか、という素朴な疑問が浮かぶ。伝統的な彫刻と比べると、作者の作品への関わり方に相当な違いがありそうだ。これをどのように考えたらよいだろう?

創作性─多様な表現物を生むための境界線をどこに引くか

 レディメイドに限らず、著作物かどうかが問題になるケースでは、「創作的に」表現したか、つまり、表現に創作性があるかがポイントになる。オリジナリティがあるか、と言い換えてもよい。

 小学生の絵も著作物であると説明されるように、絵画や彫刻という典型的なカテゴリーに明らかに当てはまる表現物の場合、「創作性」は作者の個性が表れていれば十分で、高い独創性や芸術性までは必要ない。創作性のハードルはなるべく低くしておこう、というのが著作権法の基本的な考え方である。

 その理由は、文化は多様性の世界であり、科学のように究極的にはもっとも合理的な技術を志向して進歩、発展していくという画一性を追求する世界ではなく、多種多様な表現物が存在すること自体に価値がある、という考え方を前提にしているためである。このような考え方からすれば、創作性のハードルを高くする必要はなく、むしろ低くすることで、様々な表現物が生まれるほうが望ましい。

 もうひとつ理解しておくべき著作権法の基本ルールは、法律は創作的な「表現」を保護するが、「アイデア」自体は保護しないというものだ。

 ひとつのアイデアからは多様な表現が生まれる可能性があり、抽象的なアイデア自体を保護して特定の人に独占させるのは、ほかの人による創作活動を制約してしまい文化の発展を阻害するという考え方である。

 例えば、レディメイドという手法、アイデアそのものをデュシャンに独占させたら、その後のクーンズやハーストの作品は生まれなかったかもしれない。このような結果は、文化の発展にとって望ましくない。

 これと関連して、「アイデア」と「表現」が融合する場合に、その表現を保護すると結果的にアイデアの保護になるため、あるアイデアから必然的にひとつの表現になるようなケースでは、そのような表現の保護を否定するという原則もある(「マージャー(merger)理論」と呼ばれる)。

 ただ、実際には「アイデア」と「表現」の区別が非常に難しいことも多い。金魚電話ボックス事件(*3)では、原告である現代美術作家・山本伸樹の作品について、「公衆電話ボックス様の色・形状・内部に設置された公衆電話機の種類・色・配置等の具体的な表現」に創作性があるとして著作物と認められている。

 しかし、裁判所は、原告が主張する被告の作品と共通する点、つまり、1. 外観上ほぼ同一形状の公衆電話ボックス様の造作水槽内に金魚を泳がせている点、2. 同造作水槽内に公衆電話機を設置し、公衆電話機の受話器部分から気泡を発生させる仕組みを採用している点は、アイデアにすぎないとして著作権侵害は認めなかった。

左が原告作品、右が被告作品 出典=金魚電話ボックス問題と「メッセージ」(http://narapress.jp/message/)

 著作権侵害になるためには、アイデアではなく創作的な表現に共通性がなければいけない。そのため、原告側が保護範囲を広く主張するには、被告作品と共通する部分を踏まえて、ある程度創作的な要素を抽象化して主張することになる。いっぽうで、それではアイデアにすぎないと認定される可能性が高まる。

 結局のところ、創作性をどの程度で認めるかは、ある表現を著作物として扱うことで作品を創作した人に一定の独占権を与えて創作のインセンティブを与えることが多様な表現物を生むために望ましいのか、それとも後発者による表現の過度な制約につながるかを考慮したうえでなされる判断なのである。

 以上の基本ルールを踏まえて、「通常の著作物としての創作性」と「編集著作物としての創作性」の2つのアプローチでレディメイドについて検討してみよう。

通常の著作物としての創作性──作品の外観を重視するアプローチ

 第1回では、レディメイドを用いた作品を分類するために以下の3つの視点を提示した。

視点1:素材の選択行為の比重が大きいか、素材により構成される形状(視覚的外観)に比重が大きいか
視点2:素材が1つか複数か
視点3:素材に手が加えられ物理的に既製品の実用性が消されているか、手が加えられてはいないが観念的に実用性が消されているか

 また、素材の選択行為に比重が大きいレディメイド(視点1)を、視点2と3によって以下の4類型に分類した。

類型1:手の加えられたレディメイドで、素材が1つのもの
類型2:手の加えられたレディメイドで、素材が複数のもの
類型3:手の加えられていないレディメイドで、素材が1つのもの
類型4:手の加えられていないレディメイドで、素材が複数のもの

 まずは、視点2「素材が1つか複数か」を使って「複数の素材から構成される作品」「1つの素材から構成される作品」に分けて検討する。

 

複数の素材から構成される作品

 前回、スボード・グプタの《Very Hungry God》(2006)のような、素材により構成される形状に比重が大きい作品は、生け花や伝統的な彫刻と同じ扱いでよいと述べた。

 他方で、より純粋なレディメイドである素材の選択行為の比重が大きい作品は、通常の著作物としての創作性に関する考え方とは相性が悪い。

 なぜかというと、通常の著作物として創作性があるかは、作品の外観に作者の個性が表れているかによって判断されるが、レディメイド作品の外観は既製品そのものや既製品の組み合わせであって、一見するとシンプルな外観に見えるからである。掃除機は掃除機だし、薬品キャビネットは薬品キャビネットにしか見えないだろう。

 整理のために「視点1」で「素材の選択行為の比重が大きい作品」「素材により構成される形状に比重が大きい作品」に分けたが、これらは白か黒かで必ずどちらかに分類されるわけではない。実際にはどちらにより重きが置かれるかの濃さの問題である。

 とくに複数の素材を使用して作品を制作すれば、多かれ少なかれ作品の外観にはなんらかの作者の個性が出てくるとも言えるだろう。例えば、ダミアン・ハーストの「薬品キャビネット」シリーズは、素材の選択の比重が大きい作品と言えそうだが、色の選択、構成について計算して制作されているのである(*4)。

ダミアン・ハースト Enemy 1988-89 出典=ダミアン・ハーストの公式ウェブサイト(http://damienhirst.com/enemy)

 また、作品の外観が一見シンプルに見えても、作品に込められた意味やコンセプトを、創作性を認める方向で考慮することもできると考える(*5)。そのためには、アーティストが作品について語れることは重要である。

 創作性は個性の表れである。そして、繰り返しになるが、創作性のハードルは低い。表現の選択に幅があり、その後のアーティストにより創作を行う余地が多く残されているときには、著作権を与えても何も不都合はない。表現の選択に幅があるかを検討するためには、その表現のベースとなった思想や感情(コンセプト)を把握することが重要である(*6)。

 裁判例でも、創作性の判断の際に表現のベースとなった思想や感情を検討していると思われるものがある。例えば、大阪梅田シティの庭園が著作物かどうか争点になったケースでは、裁判所は「本件庭園は、新海田シティ全体を一つの都市ととらえ、野生の自然の積極的な再現、あるいは水の循環といった施設全体の環境面の構想(コンセプト)を設定した上で、上記構想を、旧花野、中自然の森、南端の渦巻き噴水、東側道路沿いのカナル、花渦といった具体的施設の配置とデザインにより現実化したものであって、設計者の思想、感情が表現されたものといえる」と認定している(*7)。

 このように、表現のベースとなった思想や感情として作品に込められた意味、コンセプトを考慮して、作品の創作性を判断することができる。

 以上のように、「類型2」(手の加えられたレディメイドで、素材が複数のもの)「類型4」(手の加えられていないレディメイドで、素材が複数のもの)については「素材の選択行為の比重が大きい作品」であっても、なお作品の外観に作者の個性が表れていると言える余地が十分にあるし、また、作品に込められた意味やコンセプトを考慮して創作性を認めることができる作品も多いだろう。

 もっとも、作品に著作物性が認められても、色や形状の異なる素材を使用した類似作品については外観上の表現の相違から、保護範囲から外れることが多くなると思われる。

 

1つの素材から構成される作品

 1つの素材から構成されるレディメイド作品は、生け花との比較で言えば一輪挿しに近い。一輪挿しについては創作性が認められないこともあるとされており、創作性の判断にはより慎重な検討が必要になる。

 1つの素材から構成されるレディメイド作品を保護すると、結果的にアイデアの保護になってしまうのではないか、という点が問題になるだろう(*8)。

 しかし、《泉》で考えてみると、シェリー・レヴィーンの《泉(ブッダ)》のようなデュシャンをオマージュした男性用小便器のレディメイド作品は数多く発表されている(*9)。

 《泉》はデュシャンの作品として長年にわたり著作物として扱われているが、その後のアーティストの創作活動を過度に制約しているとは思えない。そのため、《泉》についてアイデアと表現が融合しているとまでは言えないことは、歴史がすでに証明しているのではないか。

 レディメイド作品のタイトルも鑑賞者の思考を促すため重要である(*10)。そのため、作品のタイトルも作品の創作性を基礎づける要素と評価すべきだろう。

 以上のように、「類型1」(手の加えられたレディメイドで、素材が1つのもの)「類型3」(手の加えられていないレディメイドで、素材が1つのもの)についても、表現のベースとなった思想や感情を把握するためにコンセプトを考慮し、また、タイトルの意味合いも踏まえて作品に作者の個性が表れているかを判断すべきである。

 このような考え方からすると、類型1と類型3の例として挙げた《泉》や《折れた腕の前に》(1915)についても、創作性を認めてよいと考える。

 ただし、1つの素材から構成されるレディメイド作品の保護範囲はきわめて狭く、著作権侵害になるのは作品をそのまま複製するようなケースに限られるだろう。

編集著作物としての創作性──作品のアイデアを重視するアプローチ

 仮に、あるレディメイド作品について「通常の著作物としての創作性」が認められる要素では類似作品と共通しないケースでも、さらに「編集著作物としての創作性」を検討するアプローチもありうる。

 レディメイドでアーティストが素材を選択し、作品として提示することは、編集著作物と親和性がある。

 そもそも「編集著作物」とは何かを説明しておこう。著作権法には「編集物[...]でその素材の選択又は配列によって創作性を有するものは、著作物として保護する」という規定があり、「編集著作物」と呼ばれる(*11)。

 「編集著作物」といっても様々なものがあり、画集のように伝統的な著作物を素材とするものもあれば、職業別電話帳のように事実を素材とするものも編集著作物になる(*12)。

 著作権法の条文では、素材の選択「又は」配列によってとあるから、「素材」の「選択」か「素材」の「配列」かのどちらかに創作性があればよい(もちろん両方でもよく、そのように主張することが多い)。そして、編集著作物では「素材」自体が著作物である必要はない。そのため、既製品でも編集著作物の「素材」となる。

 したがって、伝統的な彫刻との大きな違いである、アーティストが自らレディメイド作品の形状を創作していない点は、編集著作物として考えると容易にクリアすることができる。

 美術の分野で編集著作物の例として挙げられるのは画集、美術全集であり、レディメイドを編集著作物として考えるアプローチは筆者の知るかぎり聞いたことがない。

 しかし、条文上の限定は何もないから、レディメイドでも編集著作物になりうるし、編集著作物としての創作性を検討することで、レディメイドの実態により即した解釈ができると考えている。

 やはり「視点2」(素材が1つか複数か)を使って「複数の素材から構成される作品」と「1つの素材から構成される作品」に分けて検討してみよう。

 

複数の素材から構成される作品

 「編集著作物としての創作性」は、「通常の著作物としての創作性」が素材を使用した結果の作品の外観を重視するのと違い、素材の選択、配列に創作性があるかを判断することになるから、創作性の対象が異なる。素材の選択、配列に個性があるかを検討する際には、編集方針といういわばアイデアを考慮することになるから、アイデア保護に近づく面があると従来から指摘されている(*13)。

 アイデアを重視するといっても、あくまで保護されるのは素材の選択、配列の結果としての編集物(表現)なので、誤解のないように注意してもらいたい。

 編集著作物の創作性も、通常の著作物と同じく、作者の個性が表れていればよい。素材の選択について実質的な選択の幅があるかが重要な考慮要素になる(*14)。

 仮に艾未未(アイ・ウェイウェイ)の《フォーエバー》(2003)を模倣した自転車を素材とした円筒状の形状の作品があったとして、フォーエバー社製の異なるタイプ(形状)の自転車を使用していた場合、外観にある程度差異があるために通常の著作物としての創作性は共通しないと判断される可能性が高い。

アイ・ウェイウェイ フォーエバー 2003
出典:Tiroche DeLeon Collection(http://www.tirochedeleon.com/item/307281)

 しかし、「フォーエバー社製の自転車」であることが作品のコンセプトにおいて重要である。《フォーエバー》は、42台の自転車を解体して円筒状に組み立てた作品であり、中国の国民的ブランドであったフォーエバー社(永久社)製の自転車が使用されている(*15)。

 《フォーエバー》からは、かつてはメジャーな移動手段であった自転車もいまや自動車に置き換えられ、自転車はアート作品の素材として使われるようになったという皮肉や、永遠に続くものは存在しないというメッセージが読み取れるだろう。

 作品のコンセプトを考慮して「素材」を「フォーエバー社製の自転車」とすれば、模倣作品に対して素材の選択が共通すると言える余地が生まれることになる。「素材」を、実際に《フォーエバー》で使用した「フォーエバー社製の自転車」とするか、タイプを限定しない「フォーエバー社製の自転車」とするか、たんに「自転車」とするか、というように「素材」にも様々な階層が考えられる。

 作品ごとの判断になるが、アーティストの作品に対するコンセプトを編集方針としてとらえて、具体的な素材の選択と配列にどのように表現されているかを明らかにしていくことが求められる。編集方針は作品の外観からだけでは覗きにくいことが多いため、実際には作品の創作過程から認定していくことになるだろう(*16)。

 レディメイド作品におけるコンセプトは、編集著作物の編集方針と位置付けて考慮することができると考える。

 したがって、「類型2」(手の加えられたレディメイドで、素材が複数のもの)と「類型4」(手の加えられていないレディメイドで、素材が複数のもの)のように複数の素材から構成される作品は、編集著作物としての創作性判断になじむものがあるだろう。

 そして、編集著作物としての保護が認められれば、模倣作品に対して素材の色や形状といった外観上の差異にもかかわらず、素材の選択、配列が共通するとしてレディメイド作品が保護される余地が生まれることになる。

 

1つの素材から構成される作品

 悩ましいのはどの程度の素材の選択、配列によって編集著作物としての創作性を認めてよいかである。「編集物」というからには、「素材」は少なくとも複数であることを想定している(*17)。

 《泉》を例にすると、「素材」の「選択」はたった1つの既製品(男性用小便器)であり、「配列」はポジションを変更しているにすぎない。

 編集著作物であっても、マージャー理論は当てはまる。つまり、編集著作物では、「素材」自体が保護されるわけではない。結果的にアイデアの保護と同じになってしまうからである。

 「編集物」という規定になっている以上、「類型1」(手の加えられたレディメイドで、素材が1つのもの)と「類型3」(手の加えられていないレディメイドで、素材が1つのもの)のように1つの素材から構成される作品が編集著作物に当たるという解釈はさすがに厳しいだろう。

創作性のまとめ

 まとめると、「通常の著作物としての創作性」を判断する際は、表現のベースとなった思想や感情の把握として作品のコンセプトを考慮することができる。それに加えて、複数の素材から構成される「類型2」と「類型4」は「編集著作物としての創作性」も検討すべきであり、作品のコンセプトを編集方針と位置付けて考慮することができる。

 これに対して、1つの素材から構成される類型1と3は「編集著作物としての創作性」を認めるのは解釈上難しい、というのが現時点での筆者の見解である。

「美術の範囲」──実用品のデザインとの切り分け

 もう一度著作物の定義を確認しておこう。「著作物」とは、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」であった。

 では最後に、レディメイドはこの定義の後半にある「文芸、学術、美術又は音楽の範囲」(以下ではたんに「美術の範囲」という)に当てはまるだろうか。

 この後半部分は、知的・文化的な包括概念の範囲に属するものであると解釈されている(*18)。「知的・文化的な包括概念」といってもピンとこないと思う。どのような機能を果たすのかというと、これは著作権法で保護するカテゴリーの表現物とそうでないものを切り分けるための文言である。つまり、この文言に当たることが著作権法の世界への入り口になる。

 著作権法で例として挙げているのは、「絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物(美術工芸品を含む)」であった。

 他方で、この範囲に原則として含まれない表現物がある。それは、実用品のデザイン(とくに立体的なプロダクトデザイン)である。なぜだろうか? 簡単に言うと、著作権法で実用品のデザインを広く保護すると、実用品のデザイン保護のために用意されている意匠法を利用しなくなってしまうからである。

 意匠権を取得するためには特許庁での審査が必要になる。著作権は創作と同時に発生し、特許庁での手続きは必要ないから権利を取得するためのコストはかからない。保護期間も著作権は著作者の死後70年であるのに対して、意匠権は出願日から25年と短かい(*19)。

 レディメイドの場合は何が問題だろうか? 伝統的な「絵画」や「彫刻」が「美術の範囲」に当たることは明らかである。しかし、とくに手の加えられないレディメイド作品の場合、外観からはたんなる実用品と区別がつかない。

ジェフ・クーンズ ニュー・フーバー・コンバーチブル ニューシェルトン・ウェット/ドライ・5ガロン ダブルデッカー 1981-87 出典=ジェフ・クーンズの公式ウェブサイト(http://www.jeffkoons.com/artwork/the-new/new-hoover-convertibles-new-shelton-wetdrys-5-gallon-doubledecker)

 クーンズの「ニュー・フーバー・コンバーチブル」シリーズと家電量販店で販売するための掃除機の陳列は、外観だけからは同じように見える。

 しかし、クーンズの作品は家電量販店での陳列と決定的に違う。それは、伝統的な彫刻と同様の美術の形式を有している点だ。

 つまり、実用品のデザインと外観は異ならないけれども美術の形式を有している表現物について「美術の範囲」に当たると言ってよいかが、ここでの問題意識である。

 「視点3」を使って「物理的に実用性が消された作品」と「観念的に実用性が消された作品」に分けて検討してみよう。

物理的に実用性が消された作品

 デュシャンの《泉》や《自転車の車輪》(1913)が例である。まず、強調しておきたいことは、レディメイドは美術史上すでに確固たる地位を確立しており、世界中で美術作品として扱われているという事実である。

 著作権法の観点からも、物理的に実用性が消されたレディメイド作品について「美術の範囲」に当たらないと主張する論者は見当たらない(*20)。

 このように理解しても何も不都合がないからであろう。誰もが美術作品として鑑賞する表現物が「美術の範囲」に当たるのは当然だからである。

観念的に実用性が消された作品

 クーンズの「ニュー・フーバー・コンバーチブル」をイメージしてもらいたい。結論から言うと、物理的には実用性を有しており、観念的に実用性が消された作品も「美術の範囲」に当たるといってよい。

「美術の著作物」に含まれる「美術工芸品」も、物理的な実用性はあるけれども、鑑賞の対象になることから「美術の著作物」に含まれるとされているのである。

 レディメイド作品も、選択行為によりつくられる点では異なるが、物理的な実用性はあっても鑑賞の対象とされる点で「美術工芸品」と共通する。

 なお、創作性の検討は作品ごとに別途しなければならない。

結局どのように判断するのか?

 裁判所は、実用品のデザインについて、実用目的に必要な構成と分離して、美的鑑賞の対象となる美的特性を備えている部分を把握できるものについては著作権法で保護するといった基準を使って判断している(*21)。もう少し砕いた言い方をすると、通常の実用品が有するデザインとは大きく離れるようなデザインであれば著作物になることもある、ということだ。実際の判断を見ていると、裁判所は外観を重視した認定をしているように思う。

 しかし、レディメイドという窓を通して眺めると、違う景色が見えてくる。

 表現物の外観からは「美術の範囲」に当たるかは判断できない。とくに観念的に実用性が消されたレディメイド作品について「美術の範囲」に当たるという結論に支持が得られるとすれば、それはレディメイドという表現形態が「美術の範囲」に当たるものとして、つまり、著作物になりうるカテゴリーの表現物として扱われている社会的コンセンサスや社会的実態があるからである(*22)。レディメイド作品に接する人が伝統的な彫刻と同じ扱いの表現物であると認識できるということだ。

 こう言うと、ジョージ・ディッキーの制度理論を思い浮かべる人もいるかもしれない(*23)。簡略化して説明すると、芸術とは何かを論じた分析美学の著名な論文で、結局のところ何が芸術かはある社会制度、つまり、アートワールド(アーティスト、キュレーター、批評家、美術館など)が決定しているという理論である。

 発想は似ているが、「著作物」は著作権法で枠組みが決められたものなので(勝手に複製してはいけない、氏名の表示権がある、など)、裁判所は事実に基づく客観的な判断ができる。

 家電量販店の掃除機の陳列とクーンズの作品との違いは、クーンズの作品が作者により署名とタイトルが付され、作品として展示される、という絵画や彫刻の形式を有している点にある。「美術の範囲」に当たるかを判断するためには、表現物の外観だけではなく、彫刻のように著作物になりうるカテゴリーの表現物として扱われている社会的コンセンサスや社会的実態があるのか、が問われなければならない。

 レディメイドは、類型1~4のいずれも伝統的な彫刻のように著作物になりうるカテゴリーの表現物として扱われている社会的コンセンサスや社会的実態があるからこそ、「美術の範囲」に当たるのである。

おわりに

 レディメイドをはじめとする現代美術作品は、作品の外観よりもコンセプトに比重がある作品が多く、一見して著作権法の守備範囲から外れるアイデア保護に見えがちである。

 いかに斬新であってもアイデア自体を保護することはできない。いっぽうで、作品の外観だけを見ていても、現代美術作品の本質は見えてこない。

 これまで検討したように、著作権法の解釈としても、作品のコンセプトを創作性の判断の際に考慮したうえ、作品に現れた具体的な表現を保護することはできるし、そうすべきである。

 しかし、金魚電話ボックス事件で問題となったように、現代美術作品の保護範囲をどの程度とするかは難しい。似た作品に対しても、どうしても細かな外観上の表現の違いはあるため、共通部分はアイデアにすぎないという判断になりやすいからである。

 《泉》で言うと、あくまで創作性はタイトルや署名も含めたうえで認めるとしても、保護範囲はきわめて狭いという解釈になり、シェリー・レヴィーンの《泉(ブッダ)》のような作品は《泉》の保護範囲の外に存在すると考える(*24)。基本的にはこのような解釈が結論としても妥当だろう。

 現代美術作品に限ったことではないが、個別の事案で妥当な結論を導くためには新たな論理が必要になる。具体的には、後発者がことさらに先行者の作品を模倣しようという強い依拠性がある場合に、類似の範囲を通常よりも広げる解釈は成り立ちうるかもしれない(*25)。

 チェックメイトとまではいかないにしても、今回の検討が著作権法学の駒を現代美術の世界に向けて一歩でも前に進めることを願っている。