東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 首都圏 > 記事一覧 > 12月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【首都圏】

中国残留婦人 貴重な語り 埼玉・川越元短大講師 藤沼さんが証言集出版

「残留婦人の誰もが『今が一番幸せ』と言うのを聞き、証言を残さなければと思った」と話す藤沼さん=埼玉県川越市で

写真

 第二次世界大戦の終戦時、旧満州(中国東北部)で生死の境をさまよった中国残留孤児や残留婦人。これまで帰国者ら二百人近くのインタビューを続けてきた埼玉県川越市の元短大講師藤沼敏子さん(66)が、証言集を出版した。本人たちの語りを、ほぼそのまま記し、貴重な口述の歴史資料となっている。 (中里宏)

 残留婦人は、終戦時に十三歳以上だったという理由で、「自分の意思で残った」と国からみなされ、五十年近く帰国支援がなされなかった。多くは国の移民政策である満蒙(まんもう)開拓団の一員として、貧しい農村から家族で満州に渡った。

 証言集「不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち」(津成書院、税込み二千七百五十円)によると、終戦直前、国は開拓団から男性を根こそぎ召集し、高齢者と女性、子どもだけが残された。情報も途絶する中でソ連軍が侵攻してきて、逃避行が始まる。中国人の銃撃やソ連機の機銃掃射、集団自決などで多くの犠牲者が出た。食糧のない山中では、老人や乳幼児が次々に亡くなった。歩けなくなったわが子を川に流す母親たちの姿を、複数の残留婦人が語っている。

 たどり着いた収容所では飢えと冬の寒さ、感染症による死者が続出。朝起きると、隣に寝ていた肉親が死んでいた。遺体は掘った穴に積み上げられた。ソ連兵が若い女性を暴行目的で連れ去る事件も繰り返された。

 収容所で死を待つしかなかった時、貧しさから嫁を迎えられない現地の農家に売られたり、引き取られたりして生き延びてきたのが国に「自由意思」とされた実態だ。現地の言葉で「トンヤンシー」と言われ、農作業や家族の世話をし、十代後半になると、その家の男性と結婚。貧しい農村で必死に生きてきた。

 埼玉県国際交流センターの日本語ボランティア講座のコーディネーターとして活動していた藤沼さんは一九九四年ごろ、帰国した残留婦人と親しくなり、インタビューを開始。膨大なビデオ映像を自身のホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」で公開している。

 取材は北海道から沖縄まで全国に及び、中国、台湾にも出かけた。庶民が「どう生き、どう死んだのか後世に伝えたい」との思いから。「満蒙開拓団とは何だったのか」という疑問は今も残る。

 続編となる「残留孤児編」と、満蒙開拓青少年義勇軍や元軍人、元従軍看護婦などの「証言集」も執筆中。「若い人にこそ読んでほしい」と話している。オンライン書店「アマゾン」で販売中。

証言集「不条理を生き貫いて34人の中国残留婦人たち」。筆者の主観が入るのを避けるため、本人が語った通りに記述している

写真
 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報