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【社会】

<孤独と罪 ある児童養護施設で>(上) 19歳の心、守れなかった

事件から36年。元児童養護施設職員は今も、千葉刑務所の和彦(仮名)への面会を続けている=千葉市若葉区で

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 36年前、東京都練馬区で女子大生を殺害したとして、当時19歳の少年が逮捕された。乳児院と児童養護施設で育ち、孤独感を抱えた少年は今、55歳になり、刑務所で服役している。事件は当時、関係者を震撼(しんかん)させ、施設のあり方を考える分岐点となった。関係者の今を追い、事件をあらためて見つめた。 (木原育子)

 明治時代に建てられた赤レンガ造りの千葉刑務所(千葉市若葉区)。今月上旬、その重厚な門扉の前に、白髪交じりの二人の姿があった。年二回、面会に訪れている元児童養護施設職員の小田知明(76)=仮名。「彼をもっと理解したいからね」とつぶやくと、隣の元同僚の女性(68)も静かにうなずいた。

 面会相手の「彼」は、和彦(55)=仮名=だ。一九八三年四月、東京都練馬区のアパートの部屋に侵入し、静岡県出身の女子大生=当時(19)=を暴行する目的で首を絞めて殺害した。和彦は当時十九歳だった。

 和彦が生まれたのは、前回の東京五輪が開かれた六四年。母親は売春防止法違反罪で服役していた。身ごもった和彦を中絶する費用を稼ぐための売春だったが、警察に逮捕された時には手術可能な時期を過ぎていた。和彦が母親と過ごしたのは、刑務所近くの病院にいた生後数日間だけ。その後は乳児院や児童養護施設で育った。

 殺人罪に問われた和彦の裁判で明らかになったのは、乳児院職員のネグレクト(育児放棄)や、少年七十人が共同生活する児童養護施設で受けた上級生からの執拗(しつよう)ないじめだった。

 自分より強い者たちの暴力におびえ、泣くことも笑うことも、親に甘えることもできずに心を閉ざした和彦は、他人とのコミュニケーションが極端に苦手な少年に育った。特に女性を前にすると、全く会話ができない状態だった。

 ◇ 

 「子どもが好きで、子どもに関わる仕事を探していた」。小田は二十五歳で、児童養護施設に就職した。ここで出会った和彦は当時小学三年。笑顔を見せず、いつも一人で部屋の隅にいる目立たない子だった。その静けさが逆に気になり、よく声を掛けた。

 だが、小田は五年後に施設を去る。子どもたちを家庭的な環境に迎え入れて養育する「グループホーム」を新たに開くためだった。

 施設を辞めて六年後。和彦が殺人容疑で逮捕されたとの知らせを受け、警視庁練馬署に駆け込んだ。「なんで、あんなことしたんだ」。再会を懐かしむ暇もなく、刑事の隣でうなだれる和彦と向き合った。

 「苦しさに気付いてやれなかった」。既に施設を辞めていたとはいえ、子どもの心を守れなかった職責に胸がつぶれそうだった。

 そんな後悔を抱え、三十六年。「僕が面会をやめたら、和彦は社会とのつながりを完全に断たれてしまう。自分しかいなかった」

 小田によると、和彦は数年前から、刑務所内で高齢者や障害者の世話係を任されている。車いすを押したり、介助をしたり。この頃から、次第に他人との会話が成り立つようになったという。「人と触れ合って生きることで、心がやっと育ち始めたんだと思う」

 面会室のアクリル板越しに、和彦の好きな宇宙や天文の話に花を咲かせた小田。「空の大きな町で暮らせたら」と願う和彦に、刑務所の寒さを思い、声を掛けた。「体には気をつけるんだぞ」 (敬称略)

<女子大生殺人事件> 1983年4月27日午前2時すぎ、東京都練馬区の木造2階建てアパートの部屋に侵入し、就寝中の私立大2年の女子大生(19)を乱暴する目的でネクタイや手で首を絞め窒息死させたとして、同6月に19歳の少年が殺人容疑で逮捕された。84年3月、東京地裁で無期懲役の判決を受け、東京高裁で控訴が棄却され、判決が確定した。

 

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