バハルス帝国の首都アーウィンタール、人の街で最も活気のある場所といっても過言ではない都市。放射状に建築物が置かれたその街並みの中心、代々の皇帝が住まう城。その一室。
目を引くのは金と赤で統一された調度品たち。遮光のレースカーテンで心地よく調整された陽ざしが室内をやわらかく照らしている。バルコニーの無い窓から見える景色は街並みを展望するようになっており、ここが高所になっていることがわかる。
出入り口は窓と反対側の扉が1つだけ、丈夫そうな閂が見えている。家の主人が大切な客をもてなすために設えた部屋、そんな印象を受ける。あるいは密会をする部屋かもしれない。
その中に4人の人物がいる。対面に座る2人と、それぞれの側に立つ2人。
「そろそろ、ここに来た理由を申し上げたい。」
今しがた、椅子から身を乗り出して熱心に話しているのは、格式高い神官服に身を包む妙齢の女性。肌を露出させない衣装と薄い化粧は厳粛さを絵に描いたようだ。その立ち振る舞いは彼女がとても地位の高い人物であることを感じさせる。
そばに控えるのは立派な体躯を持つ壮年の男性。背負うのは抜き身のバスタードソード。儀礼用に装飾された柄と銀引きされた刀身は、それが本来の武装ではないことを物語っている。彼の武器以外の出で立ちは法国六色聖典の1つ、火滅聖典のものだ。
「単刀直入に言うと、3週間後にある評議国との戦いに帝国も協力していただきたい。」
女性の視線の先には皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスがいる。年若いこの皇帝は歴代でも随一の才覚を持っていると言われ、その辣腕で帝国を目覚ましい速さで発展させている。一方、政敵を徹底的に排除する彼のやり方は鮮血帝とあだ名されるほど苛烈だ。大衆の支持は厚いが、反発するものも多い。
「そうは言うが。」
ジルクニフは困ったように隣に立っている騎士、ニンブルに目配せをする。
「評議国が王国に戦争を仕掛けるなど、寝耳に水だ。」
彼は椅子に深く腰掛けながら言った。だがこれは嘘だ。本当は独自のルートから評議国が宣戦布告した情報を得ている。簡単には手の内を見せないのが外交のコツなのだ。彼は有能な為政者であり、勝負師であった。
「火の神官長殿が直々にいらしているのだ、疑うつもりはないが。」
ジルクニフはそう言って揺さぶりを掛ける。相手が何を考えているのか少しでも言葉の端から掴もうと試みた。しかし、火の神官長と呼ばれた女性は表情を変えず、笑みを浮かべたままだ。YESかNOの返事しか受け付けないつもりだろう。
「ふむ、具体的には何をすれば?」
白々しく演技を続けるつもりだったジルクニフだが、動かない相手を見てカードを切る。
「戦力と物資の捻出。今の時期はちょうど、郊外に備蓄していらっしゃるでしょう?」
帝国は王国との国境付近の丘陵地帯に駐屯地を設営しており、秋口になるとそこに大量の戦闘糧食を運び込んでいる。火の神官長はそのことを言っているのだろう。
「貴殿も知ってのとおり帝国と王国は戦争状態にある。我が軍は秋の終わり頃、例年通りカッツェ平野で布陣する予定だ。あれはそのためのものだ。」
帝国が飽きもせず王国に戦争を仕掛けるのは、王国の経済基盤にダメージを与えるためだ。大部分を民兵で構成する王国軍は組織するだけでも莫大な労力がかかる。しかも作物の収穫時期に重ねることで労働力を失った村落は更に疲弊する。
当然、軍の士気は低く、戦いは散々な結果に終わる。戦利品を得られず、ただただ徒労を積み重ねるだけ。そんな中、貴族たちは戦争の費用を補填するために無計画に税を増やして領民を苦しめるのだ。
「中止してもらいたいですね。人類の危機なのです、内輪揉めしてる場合ではない。」
火の神官長は言葉こそ畏まっているが、態度は妙にフレンドリーで押しが強い。厄介なタイプだな、とジルクニフは感じた。しかし、それでこそ相手の鼻を明かしてやりたくなる。
「…嫌だと言ったら?」
この毎年の嫌がらせによって、すでに王国はあと一押しで国が成り立たないほどにまで弱っていた。ここで手を緩める理由は無い。そもそも、法国だって両国が戦争するように仕向けていたのだ。ジルクニフは確かな情報筋から法国が王国戦士長を暗殺しようとした事を知っている。
「今年も法国から書状が来ますよ。何なら王国の味方をしてもいい。」
火の神官長は悪びれもせず宣った。
毎年の戦争の折、帝国は王国に対して書状で宣戦布告をしているのだが、同じように法国も両国に対して書状を送っている。曰く、エ・ランテル近郊は以前から法国の領土であり、王国は領土を不法に占拠している。帝国についても領有権を認めるものではなく、2国が争うのは遺憾である、と。
とは言っても、例年、成り行きを見守るばかりで手出しをすることは無く、口だけの行為だと思われている。とりわけ、ジルクニフは将来的に法国が他国に宣戦布告する為の理由作りの一環であると見なしていた。
しかし、ここに至って火の神官長は武力介入を示唆した。そして書状の内容も変えてくるつもりなのだ。おそらく、人や文化財の保護を名目に戦争の仲介をする、などと言うつもりだろう。
「なるほど、つまり、今年は我らの領土を保全する戦いをしてくれるな、そう言いたいのだな。」
冷え切ったジルクニフの声。出したカードは伏せられているが、脅しの言葉が書かれている。
「それは法国の総意だと考えてもいいのか。
ジルクニフは火の神官長を睨む。燃えたぎるような赤を湛える鮮血帝の目。鋭い眼光に当てられて、火の神官長の側に控える男が身構えた。ニンブルは剣の柄に手を添えている。皇帝が目の前の人間を切り捨てろと言った時に備えるためだ。
「我々は帝国の、王国に対する侵略行為を止めたい訳ではありません。」
火の神官長は心底心外そうに笑顔のまま答えた。城に入ってから一度も崩れてはいない。まるで笑顔が張り付いているかのようだ。
ジルクニフは殺気立つニンブルを手で押さえる。
「侵略行為とは物騒だな。心当たりが全くない。だが、
ジルクニフは顎で指して話の続きを促した。顔の険は嘘のように消えている。相手が能面だとすればこちらは百面相だ。
「この戦いに勝ったとして、最も被害を受けるのは王国でしょう。それこそ政治能力を十分に残さないほどに。誰かが代わりに国を統治しなければ。そうは思いませんか?」
「しかし、誰が行う。王国の民も何処ぞの馬の骨ともつかぬ輩を頭には置くまい。」
ふふん、と鼻を鳴らすジルクニフ。その先の答えを目の前の女から引き出したいのだ。
「戦争の中、過去の遺恨を水に流し王国と共に手を取って竜と戦った心優しい隣国の皇帝なら?力もあって知識もある。これ以上の人材が?」
「旧勢力は何とする。王国貴族達は認めまい。」
「悲しい事に戦争では多くの王国民の命が失われるでしょう。その責任は誰にあるか。その者達を排除する理由は枚挙にいとまがない。」
ジルクニフはわざとらしく息を漏らした。悔しいが、相手の巧みな交渉術に舌を巻くばかりだ。
「ははあ、わかったぞ。普段我々が行なっている戦争の費用を評議国が肩代わりしてくれるということだな。」
「何のことやら。」
口ではそう
「しかし、統治とはそう上手く行くようなものではない。後ろ盾は必要だ。王国の外からも内からも。」
「外からはもちろん法国が。そして我らは王国内に足掛かりを作っています。王族や貴族と繋がりのない有力者。」
「当ててやろうか。アインズ・ウール・ゴウンだろう。」
「御名答。お望みであればいつでも取りなしますよ。」
「それは──。」
「私個人のたわごとでは無く、法国の総意です。」
ここで皇帝は
「ならば、手を貸そう。もう素面で話すことも無いだろう。楽にするといい。」
彼は背もたれから身を起こし、テーブルの上にあった果実酒の杯に手を伸ばした。2つ用意された杯はまだどちらも口をつけられてはいなかった。
ジルクニフの言葉を聞いて、火の神官長は満足そうに杯を手に取った。そしてより一層笑みを深めて言う。
「では我らの友情と人類の繁栄を祈念して。」
2人は杯を鳴らし合わせた。咳をする様に乾いた、チン、という音が静謐な空間を満たす。そしてその音がそのまま密約の署名の代わりとなった。
ーーー
客の帰った部屋の中、ジルクニフは杯を揺らしながら思案する。眉間に皺を寄せ、いかにも不機嫌そうだ。
「信用できるのですか。」
「あれが本心ではないだろうな。」
ニンブルの問いにジルクニフは即答する。
「だが、アインズ・ウール・ゴウンの話を引き出せたのだ。手を取り合う意思はあるように思うぞ。…今はな。」
法国はいずれ打倒すべき相手。もし評議国という足枷が外れたならば法国は一気に勢力を拡大させ、帝国をも取り込みにかかるだろう。
戦力差は如何ともしがたいのが現状だ。武力ではおそらく太刀打ちできない。
しかし、相手がこちらを上手く丸め込んだと思っている今がチャンスだ。アインズ・ウール・ゴウンを先にこちらに引き込む。いつまでも高みで踏ん反り返っていられると思うなよ、法国め。
かぐわしい血の皇帝は眼の中に野望の火をくゆらせる。物心がついてからというもの彼の人生は闘争の連続であった。今もまだ道半ばである。彼は覇道の下に積み重なる数多の屍を幻視して、スン、と鼻を鳴らした。死肉の饐えた臭いを取り込むように。
「嫌な客人でしたね。あんなに顔が変わらない人は初めてですよ。」
物思いにふけるジルクニフにニンブルが声をかける。我に帰ったジルクニフは苦笑いを漏らした。
「全くだ、表情筋を固定する魔法でもかかっているのかと思ったよ。今度フールーダに聞いてみようか。」
彼は冗談めかした後、杯を空にする。続けて一杯、二杯とついでは口に流し込む。とろみのある液体で満足のいくまで乾いた喉を潤すと、立ち上がって小さく伸びをした。
「あまり飲みすぎると公務に支障が出ますよ。」
「柄にも無く緊張していたようだ。喉がからからだったよ。奴らに唾を飲む音を聞かれないで良かった。──そう言えばニンブル。」
「何ですか?」
「さっきの2人、戦いになったら勝てたか?」
「私1人なら難なく。ジルクニフ様をお守りしながらだと五分といったところでしょうか。…何をお考えで?」
「斬れと言ったら面白かったかもしれないな。くくく。」
「冗談でもやめて下さい。」
ジルクニフはカーテンの隙間から城下をちらりと覗く。そこには皇城を出て行く2人の使者の背中が見えた。
ーーー
「本当なのですか。」
アーウィンタールの防壁をくぐって、しばらく道なりに進んだ辺りで、男が声をかけた。火の神官長はいっとき足を止めて男を見る。
「何がです。」
「バハルス皇帝に王国を統治させるというのは。」
「ええそうよ。
男は短いあご髭をさすりながら、はあ、と生返事をした。開いた眉にはちょっとばかしの非難の色が浮かんでいる。
「嘘を言ってなければいいってもんじゃないでしょう。」
火の神官長はそっぽを向いて早足で歩き始めた。どうやら癇に障ったらしい。男は慌てて後を追う。
「皇帝の能力を腐らせるのは勿体ないし、有効活用よ。皇帝だって実質的に今までの立場と変わらないし、法国がバックにつくのよ。まんざらでもないでしょう。」
「首輪を嵌められるってのに今までと同じ立場はないでしょうに。野心と求心力のある人物をそんなポストに置くのは危険では?」
男は早足で歩く火の神官長の歩幅に合わせつつ、話を将来的なリスクに水を向ける。
「皇帝ほど賢明なら、彼我の戦力差を弁えているでしょう。表立って反抗するとは思えないし、武力蜂起など尚更よ。」
火の神官長は判事が規約を読み上げるように言った。そんな事は会議で散々話し合われて意見が出尽くした結果なのだと察するべきでしょう、と顔に書いてある。
「ご丁寧にエサまで付けて。アインズ・ウール・ゴウンと引き合わせるのも問題無いと神官長様達はお考えで?」
「それについてはまた別の意図。アインズ・ウール・ゴウンが王国以外の他者に靡くのかどうかが知りたい。」
「アインズ・ウール・ゴウンはぷれいやーかもしれないんでしょう。いずれは法国に引き入れたい人物ときいていますが、先に帝国と交渉させるのは危険では。」
「利益を求めて鞍替えするような人物で、まともに考える知性があるならば法国と帝国のどちらに与するのが良いかはすぐ分かる。アプローチをかけるのは遅くても速くてもダメ。タイミングを見極めなければ。」
「そうですか。」
男は訝しげに口をへの字に曲げる。対応が中途半端過ぎる。アインズ・ウール・ゴウンが情に
そこまで考えて、男は火の神官長の表情を見て気付く。彼女はやはり不機嫌そうな顔で、口の端を歪ませていた。
ああ、なるほど。自分が聞いたことは、火の神官長は全て分かっているのだ。会議の場でも同じような疑問を呈したに違いない。大方、マクシミリアンのジジイあたりに反対されたのだろう。そして意見がまとまらず、事無かれの折衷案になったと言ったところか。
大きな問題を先送りにするのは合議制の悪いところだなぁ。意見がまとまらないとすぐこれだ。と、彼はぼんやり考えていた。ただし、火の神官長の前ではそんな事は口が裂けても言えなかったが。
「あなたの言いたい事は分かるわ。でもね、土の巫女姫、占星千里、風花聖典を失って、法国の情報的優位は以前より揺らいでいるの。および腰になるのも仕方なし…。はぁ、喋りすぎたわ。愚痴っぽくなってしまったわね。」
「御苦労様です。今までの話は聞かなかった事にしておきますよ。…少し休憩しましょうか。警戒は私がします。」
「悪いわね。」
2人は木陰で迎えの馬車を待つ事にした。大きめの石に腰掛ける彼らの頬を風が撫でる。妙に冷たい草原の風はなんだか不吉な未来を呼び寄せている気がして、ひどく胸をざわつかせた。
ーーー
暗い部屋の中、何者かが会話をしている。姿は見えず、音だけの会話。もっとも、魔法による認識阻害によって当人達以外にその内容を聞くすべは無い。
「八本指の情報ルートが早速役に立ったね。帝国も
「ブルムラシュー候は期待通りの男でしたな。」
声の主達は成果を確かめるようにカラカラと笑い合う。
「さて、これで後は機を待つばかりとなったが、君の影武者としての仕事もそろそろ終わりかな?」
「ええ、早く宝物殿に戻って仕事の続きをしたいですな。」
「逸る気持ちは分かるが、アインズ様の戻りは明日だ。そこで引き継ぎと予定の確認をしてからだな。」
「失敬、そうでした。時に、随分嬉しそうですな。」
「ああ、3週間後が待ちきれないよ。きっと素晴らしい景色が見られるだろう。」
気分が高擁して自然と声が大きくなる。上ずった会話の声を囃すように、突風が窓を叩いてガタガタと音を鳴らした。悪魔が嗤っているみたいだった。
「じゃあ、また明日。」
「はい。また明日。」
その言葉を皮切りに本当の静寂が戻った。