東京大学特任准教授の大澤昇平が「〔自身が代表取締役をつとめる企業では〕中国人は採用しません」「そもそも中国人って時点で面接に呼びません。書類で落とします」とTwitterで投稿し、差別だという批判が殺到した。
その後、大澤は「当職による行き過ぎた言動」を謝罪し、「特定国籍の人々の能力に関する当社の判断は、限られたデータにAIが適合し過ぎた結果である「過学習」によるものです」と釈明した。
大澤には拙著『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)をぜひ熟読してもらいたい。一読すれば、みずからの発言の問題点を理解できるだけでなく、「ポリティカル・コレクトネス」について深く学ぶことができる。
「ポリティカル・コレクトネス」をめぐる状況はアイデンティティとシティズンシップの対立と整理できる。差別は特定の人種、民族、ジェンダー、性的指向や障害などをもつ人間を不当に扱うことである。
これら不当に扱われるアイデンティティ(属性)をもつ集団=マイノリティが社会的な地位の向上や偏見の解消を目指したのが、アイデンティティ・ポリティクスだった。
しかし、いまや、マイノリティではなく、マジョリティがアイデンティティ・ポリティクスを行う。つまり、日本人や男性といったマジョリティが、みずからを弱者だと訴えて、移民を排斥したり、女性を蔑視したりしているわけだ。
たいして、差別を批判する論理はシティズンシップに基づいている。つまり、マイノリティの「市民」としての尊厳を守るために、同じ「市民」としてヘイトスピーチやハラスメントを批判する。日本人か中国人か、男性か女性かといったアイデンティティは問われない。
「中国人は採用しません」というTweetが、多くの日本人に批判されたのはシティズンシップの論理によるからだ。差別を批判する論理は、アイデンティティからシティズンシップへ、と変わりつつある。ふたつのロジックの特徴を次の図にまとめておいた。