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INTERVIEW - 2019.12.20

映画監督・片渕須直と女優・のんが語る『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』で伝えたいこと

2019年12月20日より公開される、片渕須直監督によるアニメーション映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』。前作『この世界の片隅に』に250カット以上の新規シーンを加え、主人公・すずのみならず戦時中の広島で生きる「さらにいくつもの」人々の心の動きを描き出した新作だ。引き続き主人公・すずを演じた女優・のんと片渕監督に、新作に対する思いやアニメを演じることについて話を聞いた。

聞き手・構成=藤津亮太(アニメ評論家) 撮影=井上佐由紀

左から、のん、片渕須直

──『この世界の片隅に』の公開から3年が経ち、いよいよ『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開になります。『(さらにいくつもの)』は約30分ほどの新たなシーンが加わっているそうですが、のんさんの3年ぶりのアフレコはどうでしたか?

片渕 3年前ののんちゃんは、映画が完成してみて初めて「ああ、こんなものに自分は携わっていたのか」と思っていた感じでした。そこで目の当たりにしたものを踏まえて、今回は、最初から「すずさんはこういう人ですよね」とすごく自覚的に演じてくれました。演出家としてはそこは助かりましたけれど、アフレコがスムーズすぎて……(笑)。

のん 「もう終わり!?」っていう感じでしたものね(笑)。

片渕 あまりキャラクターの心情の解釈とかを説明せずに済んだので、スーッと録ることができたんです。でもそれは、3年前の収録時にやりとりしたことを、のんちゃんがちゃんと飲み込んでくれていたということでもあるわけで。そういう意味でとてもありがたかったです。

のん 今回の収録は、前回と違って安心感がありましたね。完成した作品を見て片渕監督の狙いと自分が演じたものをすり合わせることもできたし、片渕監督がどんな思いで作品をつくっているのかのお話を聞く機会も、このあいだにたくさんありましたし。だから今回は演じることのひとつひとつを、そういう経験と合致させたうえで収録に臨むことができたんです。収録の時は、まず自分の解釈を構築して表現に落とし込んでいく感じなんですが、片渕監督と表現や解釈についてちゃんとすり合わせていけていたので、現場で色んな演出指示を受けても心配せずにできました。

のん

──今回はすずというキャラクターの人間臭い部分にも踏み込んだ内容になっています。その点についてはどう感じましたか?

のん 3年前、初めて台本を読んだときは、終戦の日にすずさんがあそこまで感情を外に出すということをかなり意外に感じました。こんなに強い気持ちを持っている人だったんだって発見がありました。今回もそれと似ている部分があって、改めてすずさんと向かい合うなかで、すずさんが自分の居場所を見つけようとして必死に生きているということを強く感じました。知らない男の人と結婚して、知らない家族の中で主婦として生きるということが、すごく不安で、そのなかで生きている人なんだなと実感しました。

──『(さらにいくつもの)』は、一度完成した前作に、新たにシーンを付け加えて新たな映画にする、というなかなか例のないかたちの映画です。そこについてどんな姿勢で臨んだのでしょうか? もともと前作の段階でも、原作漫画を全編映像化したいと構想していたわけですよね?

片渕 確かに、前作の時も(すずが出会う遊郭の女性である)リンさんとテルちゃんは出てくる予定で準備を進めていました。でも、あの映画としては話の本筋から逸れるものなのであえて、映像化から外しました。そのときのリンさんやテルちゃんの映画の中での扱いというのは、いまとは全然違っていたんです。前作のときに構想していたのは「すずさんと径子さんの物語」で、そういう意味ではリンさんやテルちゃんの存在は、ある意味添え物的というかサイドストーリーでした。でも、今回『(さらにいくつもの)』を制作するにあたっては、リンさんやテルちゃんの存在に、ストーリーとしての意味をより重く持たせるよう、改めて考えたんです。だから前作のときに想定していたよりも、ずっと登場時間も長くて、ストーリーに対する影響力も大きくなっている。2人の存在からすずさんがどう影響を受けるのか、という部分を大事にしています。

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』より、左からすずとリン  (C)2019 こうの史代・双葉社 /「この世界の片隅に」製作委員会 

──リンさんやテルさんとの関わり合いのなかで、すずがどう変化しているのかが、今回の映画の重要な部分ということなのですね。

片渕 すずさんというのは受け身なキャラクターという印象を持っているかたも多いと思います。でも、病気のテルちゃんと遊郭の窓越しに会話をするシーンを見ると、とてもかいがいしく面倒を見ているんです。だからアフレコのときには「ここのすずさんは受け身じゃないよね」という話をして、のんちゃんには「ここで一度、“おかあさん”やってみようか」とお願いしました。前作では、最後の最後で浮浪児を拾って呉に帰ってくるところで、おかあさんとして演じてもらいました。でも今回はそこにつながるように、さらに前に一度、すずさんの“おかあさん”を見せようと。のんちゃんにそのことを言ったら、「はい、わかりました」ってすぐにやってくれて、こちらが狙おうとしていることが通じてる感じがありました。

──前作も登場していたリンさんについても、昭和20年の花見のシーンなど重要なシーンが加わっています。

片渕 この受け身ではないすずさんというのは、その花見のシーンのリンさんとの会話にも出てきているんです。桜の木の上でふたりが会話するシーンでは、リンさんは「人間は所詮ひとり」と思っているんだけれど、それに対してすずさんは「自分はひとりでないほうがいい」と思っている。そこで、すずさんという人の自我が、ぐっと浮かび上がる感じになっています。

──のんさんはテル役の花澤香菜さんと一緒に収録されたそうですね。

のん 花澤さんが第一声から、テルちゃんの声を完璧に出されていて「プロの声優さんってこういう感じなんだ」って驚きました。職人技というかすごいことだな、と。一緒に収録すると、肌で相手を感じながらやりとりをする感覚があって、影響しあう感じがおもしろかったです。ただその分、テルちゃんの九州弁に影響を受けて、広島弁がつい抜けちゃったりしましたけれど(笑)。

片渕 テルちゃんは本当に難しい役だったと思います。九州弁で、風邪をひいていて、さらに体調も悪いというキャラクターなので。足かせを二重三重にはめたうえで感情表現をしてもらう感じでした。なので花澤さんは大変だったと思います。

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』より、テル  (C)2019 こうの史代・双葉社 /「この世界の片隅に」製作委員会 

──新たに加わったシーンのなかで、のんさんが演じるうえで「ここは山場だな」と思ったシーンはどこでしょうか?

のん 山場と言いますか、自分でも未知の世界で「どうなるのかな」と思いながら臨んだのは、夫の周作さんにとって自分は代用品ではないかと考える一連のシーンです。とくに夜、周作さんを拒むシーンは、片渕監督に委ねようという部分もあったのですが、片渕監督からは「周作さんを異物のように感じて、嫌悪感があるんだ」という説明を受けて、そこで「そうなのか」とわかる感じになりました。

片渕 先日の取材で女性の記者さんから「色っぽいシーンがありますが……」という質問が出てきたことがあったんです。それに対して「どこも色っぽくないですよね。あそこは女性のか細い体が暴力にも似たものにさらされているシーンであって……」とお話したら、その記者さんも感じ入るところがあったようで涙ぐんでおられた。繊細なニュアンスのところをすごくちゃんと受け止めていただけたんだなと思いました。

のん すずさんにとってリンさんは、孤独ななかで出会った特別な人だと、私は思っていて。だから周作さんが過去にリンさんと結婚しようと思っていた、ということを知ったとき、すずさんはリンさんではなく、周作さんのほうに嫉妬するんじゃないかと考えていたんです。自分だけの秘密の友だちを周作さんにとられたように感じて。だから片渕監督がおっしゃった「異物」という意味あいも、自分の感覚とつながる感じがあるなと思いました。

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』より、左からすずとリン  (C)2019 こうの史代・双葉社 /「この世界の片隅に」製作委員会 

──のんさんが演じているとき、キャラクターと自分の距離感はどんな感じなのでしょうか? キャラクターを憑依させるような感覚なんでしょうか?

のん いえ、乗り移るというようなことはないですね。自由に演じればいいというふうには考えていなくて、まずつねに冷静に見ている自分がいます。そうして監督のディレクションも加えながら、キャラクターを構築していくなかで、役が生きてくるんじゃないかと思っています。それは声のお芝居だけじゃなくて、普通のお芝居のときもそう考えています。

片渕 以前、のんちゃんのインタビューを読んだら、演じた役柄についてすごく客観的にコメントをしていたんですよ。だから「そういう距離感を持っている人なんだ」ということはずっと思っています。そういう意味で、のんちゃんとすずさんを同一視したことはないですね。

──アニメのキャラクターは、演出家・アニメーターによる映像と、声を担当する俳優の組み合わせでできあがっています。こうしたアニメーションならではの特性について、片渕監督はどうお考えですか。

片渕 自分としては絵による演技を細くコントロールすることで作品を演出しているというつもりだし、実写よりはアニメーションのほうがそういうコントロールをできる、できてしまうということは実感しています。そういう意味では、演じ手の領分を狭くしてしまっているのかもしれない、という感覚はあります。でもいずれにしても演じ手に委ねることで、キャラクターが完成するということは間違いないことではあります。しかも実際問題としては、絵ができあがっていなくてもアフレコをせざるを得ない場合もあり、そういう場合は、役者さんとのやりとりのなかでキャラクターを固めて、それを映像のほうにフィードバックさせるということはあります。今回だと、子供時代の水原哲(すずの幼馴染)はそうでしたね。

片渕須直

──子供時代の水原哲はどんなキャラクターになったのでしょうか。

片渕 子供の頃の水原哲は乱暴者ではあるんですが、あれはたんなる乱暴者なんだろうかと考えたんです。そこで、きっと思春期になってきたからああいう言動になっているだなと思い当たって。ということは、すずさんとちゃんと目を合わせないだろうと。そこで、声を担当してくれた小野大輔さんには「これから演じてほしいのは目をあわせていない声です」とお願いをしたんです。まだ画面は未完成だったんですが。そして絵のほうも、全カットすずさんに目を合わせていないお芝居をつけていきました。

のん 「目を合わせてない声」ですか。

片渕 うん。そして、そういう声を録ってしまったからには、それに合わせた絵をつくらなくちゃならないんですよ(笑)。

のん そういう意味でいうと、私はアニメのキャラクターを演じるのはおもしろかったです。現場で、違う脳みその人たちがそれぞれの発想を積み重ねていって、それがひとつのものに収まっていくという感覚が心地よいんです。だから絵に声のお芝居をつけるということも違和感はなくて。今回の作品であれば、片渕監督からお話を聞いたり、方言を指導してくれた新谷真弓さんがいたり、ミキサー(録音調整)の小原さんの意見があったり、そういういろいろな要素が混ざっていくのがすごく楽しかったです。

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』より、左からすずと周作  (C)2019 こうの史代・双葉社 /「この世界の片隅に」製作委員会 

──ここでちょっとくだけた質問を聞かせてください。片渕監督とのんさんはキャンペーンなどで一緒に行動することも多かったと思います。そのなかで知った「お互いの意外な側面」を教えてもらいたいのですが。

片渕 そうですね……。メキシコにキャンペーンに行ったときに、ホテルでのんちゃんの部屋にサソリが出たんですよね。外国でそんなトラブルにひとりで対処したというのは、ちょっと意外といえば意外でしたね。

のん 夜中の出来事だったんですけれど、まずスタイリストさんのところに行っても起きてくれなくて。それで、ホテルの人を呼んで。

片渕 でも、メキシコだからスペイン語なんだよね。

のん そうなんです。英語でスコーピオンといっても通じないんです。それでも、拙い英語でいろいろ伝えようとしても、なかなか伝わらなくて。それでもなんとか退治してもらって。

片渕 翌朝にそんな大変なことがあったという話を聞いて、驚いたんですよ。

──のんさんのほうはどうでしょう?

のん 私は……監督が合間を見ては、Twitterをやっているのが意外といえば意外で(笑)。映像のほうがすごく忙しいなか、プロモーションの現場で会うと「目が開かないんだけど」おっしゃっていて。私としては制作に疲れた目に、Twitterはよくないのでは……なんて思ってました。いま初めて打ち明ける話なんですけれど(笑)。

片渕 (笑)。Twitterを始めたのは10年前、映画『マイマイ新子と千年の魔法』を公開した時からなんですよ。お客さんがなかなか入らないという話を聞いて、「ここの劇場でやっていますよ」みたいな情報を自分のTwitterで流すようにしたんです。そうしたら映画館の動員にもいい影響があって。そこで映画ってつくったら終わりじゃないということを実感できました。こういうツールを使ってコミュニケーションしながら広げていけるんだ、という発見があったんです。新しい世界が開けたようなそういう感覚がありました。

のん そうだったんですね。

片渕 だから、のんちゃんがさっき話していた通り、ひとつの作品をひとりでつくらないというのは大事なことなんですよ。映画はみんなでつくるのが楽しいし、そこにいろんな人を巻き込んでいくのが重要で。そう考えると映画をつくって届けていくという過程には、まだまだ新しい道があるんだなというふうに感じていますね。

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』より  (C)2019 こうの史代・双葉社 /「この世界の片隅に」製作委員会 

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INTERVIEW - 2019.12.21

植物と人間の交錯があらわにする無意識の選別。平子雄一インタビュー

植物と人間の関係性への疑問から、ペインティングを中心にドローイングや彫刻、インスタレーション、サウンドパフォーマンスなど、多岐にわたるメディアで作品を発表してきた平子雄一。12月21日より始まる新作個展『Memories』では、平子自身の記録から制作した新シリーズ「Perennial」も発表する。平子のアトリエにて、探求を続けてきたテーマや作品制作の手つきについて聞いた。

聞き手・構成=編集部

平子雄一、東京・練馬区のアトリエにて

「植物と人間の関係」を追求し続ける

──平子さんはこれまで、「植物と人間の関係」を大きなテーマとして扱い、アクリルのペイント作品を中心に作品を制作してきました。高校卒業後すぐに渡英し、ロンドン芸術大学のウィンブルドン・カレッジ・オブ・アーツで学ばれましたが、その過程で「植物と人間の関係」が平子さんのなかでどのように重要なテーマとなっていったのか、まずはそこから教えていただければと思います。

 在学中はいろんなことを試していたので、ピンポイントでテーマが決まることはなかなかありませんでした。最後の卒業制作のためにつくっていたドローイングのひとつに、植物と人工物を重ねた風景を描いたものがありました。このドローイングを掘り下げるなかで、植物と人間というテーマにおもしろさを感じるようになったんです。

 僕は岡山県の地方の出身で、身のまわりにたくさんの自然がある環境で生まれ育ちましたが、高校を卒業してから渡英し、ロンドンという大都会に移り住みました。ロンドンには広大な公園が多くあって、週末にはたくさんの人が訪れます。ある日公園を訪れたとき、人々が「自然って良いよね」と話をしているのを耳にして、大きな違和感を覚えました。僕自身の自然に対する認識と、その人たちの持つ認識が、明らかに違うと感じたんです。以来、どうして人はそこまで自然を求めるのか、都市の生活のなかで自然を求める感覚とはいったいなんなのか、と問うようになります。

 都市では、公園をはじめ、植物をキープしコントロールしないと景観が継続できない場所をつくります。都市の中に自然が存在しているのですが、いっぽうでそれは人為的にコントロールしないと手に入らないという構造に、大きな違和感と興味を持ったんです。

 学校では、自分の生い立ちや、イギリスという異文化圏に修学場所があるということを、もっと考えた方がいいと言われていました。考えを深めるなかで、自然が多い田舎で育った日本人の自分と、海外の大都市にある大学で美術を学ぶ日本人の自分という、そのふたつの要素が組み合わさったときにできるものがあると気がついたんです。卒業制作においてはセルフカウンセリングのように、自分の経験を見つめ直すことを繰り返し、結果的に、自然と人工物の組み合わせを描いた、鉛筆による細密なドローイング作品ができあがりました。

「Memories」(WAITINGROOM、2019-20)の展示風景

──卒業制作は鉛筆によるドローイングだったとのことですが、現在の平子さんの作品のなかで大きな比重を持つのはアクリルペイントの作品です。ペイントに取り組むようになったのはなにかきっかけがあったのですか?

 日本に帰国後、自分の作品が感覚的にはフォービズムの絵画に近いことに気がつき、色味が必要ではないかと考えるようになったんです。また、サイズについてもダイナミックに、大きくつくりたいという欲求が出てきました。ペインティングに移行していく段階で「植物と人間の関係」というテーマも拡張しており、そのスケール感と作品のスケールが連動したのかもしれません。

──アトリエの壁に、大きなキャンバスを直接画鋲で止めて描くのも、平子さんが意図するスケール感の表現と関係しているように感じられます。

 キャンバスを壁面に貼って描くことで、筆に圧がかけられるんですよね。木枠にキャンバスを貼ってから描くと弾力を持ってしまって、それがあまり好きじゃないんです。使用するブラシも多種を使い分けていて、なかには強く押しつけて描くものも結構ありますし、その場合は毛先をカットした強いものを使用します。

 この方法を選んでいるのは、たしかにスケール感も関連している気がします。木枠に貼って描けるところの限界が見えてしまっていると、その範囲内に描かなくてはいけない気がしますし、かっちりしすぎて「製品」に近くなるようにも感じます。壁に貼れば勢いをつけられるし、木枠に貼った時に側面に絵が回り込むのも好きなので、あえてキャンバスからはみ出しながら描いています。そっちのほうが楽しいですしね。

平子雄一のアトリエにて、絵筆と絵具

──ドローイングからペインティングへと制作の幅が広がっていったとのことですが、2013年ごろから立体作品にも積極的に取り組んでいますね。

 絵は僕にとってすごく楽しいメディアで、一対一で対峙しながら描きあげることができ、テクニックもプロセスもよくわかっている媒体です。ただ、客観的に鑑賞者として見たときに、絵画だけではその世界に入り込めないことも起こり得るのではないかと考えました。自分でその制限をつくってしまっているのかもしれない、ということですね。

 二次元の限界というのはやはり存在していて、触れないですし、描かれていることが壁の向こうのことのように感じてしまう可能性があります。僕の絵画は具象だし、奥行きが存在する絵画なので、自分がいる世界との隔たりが簡単に生まれてしまうんです。二次元の作品とともに三次元の作品があることで、作品のコンセプトから逃げられない空間をつくってしまうのはおもしろいと思い、立体作品に取り組むようになりました。

──立体の制作を経験したことで、絵画作品への影響はありましたか?

 いい立体をつくると、それに勝る絵画をつくらなければいけないので、自分のなかでコンペティションが生まれます。絵画と立体、双方の表現を豊かにしていると思いますが、立体制作によって空間への認識に強く意識が向いてしまう自分もいて、立体のあとにペインティングを実施するときは、空間認識やパースを意識的に崩すようにはしています。

平子雄一のアトリエにて、立体作品

──パステルを使用したドローイングの作品も制作されていますが、ペイント作品や立体作品とはまた異なった自由な印象を受けます。

 パステルの場合はもっと無心でつくっていますね。ほぼ手だけで机上のスペースでつくれるので、自分のなかではすごく原初的な動きによる、落書きに近いようなものです。コンセプトとしては一番、自分らしさが出ているかもしれません。

──絵画作品の場合、制作の過程で即興的に要素や展開を加えていくのでしょうか?

 制作しながら、壺や本といったキーとなるアイテムが自分の頭のなかに増えていきます。それらを即興で組み合わせ、隣りあう色が一番心地いいところを探求していくんです。実験的にそれらを置いてみて、ダメだったら消すことも多いです。僕の場合、構想だけではなく、キャンバスや紙の上で手を動かしている過程で起こるおもしろいことがないと、いい作品にならない。絵を描くことそのものを楽しめないと、いい絵にならないんです。

──平子さんの絵に登場したり、立体作品のモチーフになったりしている、植物と人間が組み合わさったような興味深い人物、これはどのような存在だととらえればいいのでしょう?

 植物と人間というテーマで制作を始めた当初は、植物と建造物の組み合わせを描いていたのですが、それだとただ状況を描ているだけなのではないか、と考えるようになりました。僕がおもしろいと思っているのは、人間の植物や自然に対する行動です。

 ブラジルのアマゾンの熱帯林がどんどん焼かれていて、そこには経済的に豊かになるために地下資源を採掘しようとする資本の原理が大きく関わっています。いっぽうで自然を守りたいという意識も多くの人が当然持っている。人の行動によって、植物の扱われ方が変わっていくし、それに応じて関係もどんどん変わっていく。つまり、人がいるから自然との関係が生まれるわけです。これが一番掘り下げていきたいところで、この関係性を象徴する登場人物として「彼」が必要となりました。

 ただ「彼」は登場人物であると同時に、あくまで世界の一部であってほしいんです。よく、「彼」は僕自身の象徴ではないかと聞かれます。もちろんそうでもあるのですが、同時に鑑賞するみなさんでもあると僕は思います。

「Memories」(WAITINGROOM、2019-20)の展示風景

──壺も、平子さんがよく描かれるモチーフですね。

 壺はかたちとしてのおもしろさもあるのですが、植物を入れて延命させ、美を継続させる装置としての側面もあります。美に引きずられた人間が、行為の残酷さを忘れていることを象徴しているようで、すごくおもしろい存在だと気がつきました。歴史のなかで壺自体に装飾性が生まれましたが、人間で例えると人工呼吸器に花柄をつけたりとか、チューブをピンクにしたりとかしているようで、奇妙なことですよね。

──作品に多くの色を使用されている印象がありますが、色についてのこだわりはありますか?

 絵画の景色のなかで色をつなげていくために、筆をあまり洗わないようにしています。水も、1枚を描ききるまで変えないほうが、全体でまとまったトーンになります。イラストに近づいてしまうのが一番怖いんですよね。パレットも、売っているなかで一番大きいサイズのタッパーを使っていて、描いているうちに混ざり合い、1色になっていきます。

 僕は、佐伯祐三の明るくなりすぎない絶妙な色使いが好きで、制作において意識しているところがあります。佐伯の描くパリは混沌としていて、文字が汚いくらいに描いてある。それが、人の営みと歴史、そしてヨーロッパ特有のどんよりとした空気感を出していて、高校時代から惹かれていました。

平子雄一のアトリエにて、パレットとして使用するタッパー

──佐伯祐三のほかに影響を受けたアーティストはいますか?

 現代美術のアーティストになってしまいますが、オラファー・エリアソンでしょうかね。テート・モダンのタービン・ホールで展示されていた《Little Sun》(2013)。人工の太陽に自然を感じてくつろぐ人たちがいるあの空間を見たときに、作品の力を感じました。あの世界観を構築できるのは本当にすごい。自分が植物や自然について考えてきたこともそこにリンクしたのかもしれません。

──海外での展覧会も積極的に開催されていて、国外のコレクターも多いと思うのですが、各国のコレクターさんからはどのような反応があるのでしょうか。

 アジア圏の日本、台湾、韓国のお客さんは、まずキャラクター的な視点から入ってこられる方が多いですね。アイコンが強い絵は響きやすいようです。いっぽうでドイツのギャラリストと話したときは、情報として強すぎると言われましたね。キャラクターという異物が作品のなかに存在することに対しての抵抗感だと思います。

 ヨーロッパでも北欧やオランダは他の各国とは反応が違う感じがしますね。北欧圏は神話の伝承があったり、オランダもミッフィーをはじめキャラクター文化が根付いている。キャラクターが展示されているということは、現実的ではないものが社会に出てくるわけで、ある種の「エグさ」があるとも言えますよね。オランダなどは性をはじめ、様々なことにオープンだし、そういう考え方があったから受け入れられやすかったのかなと思います。

無意識のなかの自然、無意識の選別と選択

──12月21日から東京・江戸川橋のWAITINGROOMで始まる個展「Memories」について伺います。個展では、ホワイトキューブ全体で自分が表現したいことを考えると思うのですが、今回の展覧会ではどういった全体像をイメージし、どのようなことを提起しようとしましたか?

 今回は自分がまだ表現したことのない領域に手を出したいと思い、ストックしてきた問いのひとつである「認識していない、無意識のなかの植物と自然」をテーマに「Memories」というタイトルにしました。

 この展覧会では「Perennial」という新作シリーズを発表します。無意識のうちに通り過ぎていて、思い返せばあったな、くらいの植物や自然を扱いたいと考えました。例えば、表参道の街路樹のディティールって、存在していることは知っているけれど、はっきりと記憶しているわけではないですよね。

 今回、そういった植物を扱うための道具として、自分の撮ったスマートフォンの写真を使用することにしたんです。無意識のうちに植物が写っている写真、例えば背景にある畑だとか、親戚の結婚式に行ったときの庭園だとか、3年ほど遡ってそういったものをカウントしたら、意識して撮ったものを除いた1割強くらいに写り込んでいました。そのなかから写真をピックアップし、イメージを拡張させて制作したわけです。

 また、そうやって積み上がっていく記憶の象徴としての櫓のようなものをギャラリーの中心に配置して、その周囲には四季を通じた様々な記憶が続いていくように作品を展示します。シリーズ名の《Perennial》というのは「多年草」という意味ですが、継続して続いていく世界や人との関係性、そして自分の人生が続いていくという意味も込めました。

「Memories」(WAITINGROOM、2019-20)の展示風景

──「Perennial」は新しいシリーズということで、苦労した点もあるのではないでしょうか。

 写真というしっかりとしたビジュアルを絵に落とし込む難しさはありました。1枚の写真だと、絵にするための情報量が少なすぎるんです。写真から読み取れるビジュアルを増やすことは難しいので、関連する要素やキーワードを増やしたりします。これまでは拡張した多くの要素のなかから選んで描くことが多かったのですが、今回は要素が少ないところから拡張して描く必要があり、新しいチャレンジとなりました。

──個人的な写真をもとに制作した「Perennial」ですが、ご自身のパーソナルな部分と作品制作が接続することによって、新たに発見することもありそうですね。

 僕の作品は「ファンタジックですね」と言われることもあるのですが、テーマもコンセプトも、現実に起こっていることから抽出して組み合わせているので、自分ではまったくそういう意識がないんです。今回の作業で、改めて自分は現実に沿ったテーマで作品をつくっているんだなと認識できました。

 僕の作品にはビジュアル的に強い世界ができあがっているので、現実の世界ではないものが描かれているような感覚を持つ人もいると思うのですが、僕はみなさんの周りで起こっていることを再認識してほしいと思って描いています。今回は、それを少し異なるアプローチで試みられたと思います。

──10代のスウェーデン人環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんが世界各国のメディアに露出するような状況をはじめ、環境問題が時代のトピックとして叫ばれています。そういった社会の状況と、平子さんが扱う植物と人間というテーマは無関係ではないと思いますが、平子さんはどのようにとらえているのでしょうか?

  前提として、植物や自然に対し、国家から個人に至るまで、無意識かつ合理的な判断に基づいて行動していることはたくさんありますよね。例えば、いらない植物は廃棄し、必要な植物はキープする。いらない森の木は切って、必要な木は森として保持する。そういった選別が自分たちのなかに常に存在していることを、多くの人は認識していないと思います。

 僕は作品を通じて、人や社会が無意識に対象を選別しているということに意識を向けてほしいと思っています。環境問題については、今後人々の態度がシビアになっていくのか、あるいは考えるのをやめて市場原理に基づいて自然を淘汰していくのか、僕はどちらの可能性もあると思いますが、まずはそこに人間による何かしらの選別が存在することを認識することが重要ではないでしょうか?

──以上のような提案も踏まえて、今後挑戦したい表現はありますか?

 条件がそろえばですが、モキュメンタリー(フェイク・ドキュメンタリー)の映像作品をつくりたいと思っています。四国で、質の良い大木を求めた材木業者が夜間に神木を薬剤で枯らし、回収してしまうという事件がありました。この事件における、神殺しともいえる神木を枯らすという所業と、資本主義の要請という興味深いストーリーを拡張して、ドキュメンタリータッチで作品をつくれないかと思っています。状況と人によって自然の扱い方がまったく違うということについて、もう少し現実的な表現に挑戦してみてもいいのかもしれません。

「Memories」(WAITINGROOM、2019-20)の展示風景