1990年代に日本の音楽シーンで起きた“渋谷系”ムーブメントを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。第5回は、木村カエラをはじめとする数多くのアーティストへの楽曲提供やプロデュースを手がけるギタリスト、
取材・文・編集 / 佐野郷子(Do The Monkey) 撮影 / 相澤心也
モッズ~ネオGSシーンとの出会い
──會田さんのミュージシャンとしてのキャリアはいつから、どのように始まったのでしょうか?
僕は高校時代にTHE BARRETTというバンドにいて、新宿LOFTに出たり、「YAMAHA EAST WEST 86'」のジュニア部門のグランプリとベストギタリスト賞をもらったりしたんですが、好きな音楽がMUTE BEATや「TOKYO SOY SOURCE」(JAGATARAやMUTE BEAT、TOMATOS、s-ken & hot bombomsらが出演していたライブイベント)周辺に変わってきたこともあり、大学1年のときにやめちゃったんです。ちなみに僕がやめたあとにギタリストとして加入したのが現The Birthdayのフジイケンジ(藤井謙二)くんでした。で、その頃から僕は、お茶の水の楽器店で知り合った ──かといって東京モッズ~ネオGSシーンにどっぷりというわけではなかった? そうなんですよ。その中には ──朝本さんがMUTE BEATを経て、Ram Jam Worldを結成する前ですね。 朝本さんには音楽的にもシンパシーを感じていたんですよ。僕もバンド一辺倒から、いろんなジャンルの音楽がどんどん面白くなってきて。あれもやりたい、これもやりたいという欲求が高まっていたんですが、80年代後半は、イカ天・ホコ天の時代で、なかなか同じ志向の仲間を見つけられなくて。大学にはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTやフィッシュマンズのメンバーも同じ時期にいたみたいなんですけど。のちに仲よくなるウエノ(コウジ)くんや欣ちゃん(茂木欣一)は、キャンパスですれ違っていたような気がしないでもないけど、僕はサークルに入っていなかったし、高校から上がってきたので、なんとなく環境が違ったんですよ。 ──ようやく仲間を見つけて、自分の目指す音楽で活動するようになったのは そうですね。いっちゃん(LOW IQ 01)とは高校時代から地元の仲間で、APOLLO'SにはのちにGREAT3や ──80年代後半から90年代初頭のアンダーグラウンドシーンでは、従来の邦楽とは違う音楽が生まれつつあったと? そうだと思います。当時はそんな新しい流れの中にいたバンドやアーティストをコンパイルしたアルバムがたくさんリリースされて、APOLLO'Sも「See Ya! MUSICA SERIES#1」(1991年)や「A TRIBUTE TO GODZILLA」(1991年)という作品に参加したんですよ。 ──その「A TRIBUTE TO GODZILLA」にはAPOLLO'Sと並んで、すでにEL-MALO with Ska Flames名義での曲も収録されています。 柚木(隆一郎)さんとはもう知り合いだったんですけど、そのアルバムのレコーディングで、レコ社の人が「ゴジラのテーマをスカでやってほしい」的なことを言ったんで、2人で作ったのが最初でした。 ──そのコンピのために決めたユニット名がEL-MALOだった? そうなんです。ただ、僕はAPOLLO'Sから発展したバンド、ACROBAT BUNCHでも活動していたし、Ram Jam WorldやCutemenにも参加していたから、同時期にいろんなところに首を突っ込んでいた感じだったんですよ。どこからがプロかという線引きは微妙ですが、僕の場合は90年頃からなんとなく始まった感じですね。 ──バンドをやりつつ、會田さんはセッションギタリストとしてクラブミュージックにも接近していったわけですね。 サンプリング全盛時代に、ギタリストとして呼ばれる機会が増えていったんですよ。朝本さんがプロデュースをしていた縁で 次のページ »ギタリストとしてクラブカルチャーに接近
“ジャンルを超えたミクスチャーな交流