12/18/2019

【第二幕】沖縄で起きているどんでもないこと

~ニッポンドタンバ劇場~

辺野古の人々のありがたい思いに泣けてくる


沖縄にも深刻な問題が露呈している。
戦後の本土返還以降、米軍基地を巡ってさまざまな問題が生じてきた沖縄。その焦点になったのは普天間基地だった。普天間基地は民家に隣接していることで騒音と事故の危険をはらんでいるため辺野古基地への移設が検討された。決定後も紆余曲折の騒動があって中止していたが2016年に工事は再開。ところが知事や市長が変わるたびに再び異を唱え始め、反対派の活動は激しさを増す一方である。
一体いつになったら解決するのか。多くの県民は呆れ果てて県民投票が行われても6割が棄権する始末である。
しかし沖縄のメディアは、その4割の投票数の8割が反対だったことを切り取って「沖縄県民投票8割が辺野古移設反対!」と大々的に報道し、印象操作に走った。
そして2018年、デニー玉城が知事に就任して以来、沖縄の状況は益々混迷を深めているようである。

そもそも沖縄の辺野古基地移設については本土においても多くの人々の誤解があるらしい。
辺野古の8割の人は反対していないというのだ。その理由というのが心を打たれる。
「ここ沖縄は日本防衛のために重要だ。私たちが守らないで誰が守るんだ?」
恐らく投票を棄権した6割の住民を含む多くの沖縄県民も、日本の事情を理解して受け入れてくれているということなのだ。

ところが辺野古基地では、過激派とも思えるような反基地派の妨害が日々繰り広げられている。そのやり方は、子どもたちを乗せたスクールバスにまで暴言を書きなぐったプラカードを突きつけるという、目に余る暴力的行動となっている。この逸脱した状況を知っていながら新聞もテレビも、メディアはまったく報道しないということだ。
しかも邪魔をしている集団は沖縄県外からやってきている人々であり、不思議なことにハングル文字の旗を持った人々まで座り込みに参加しているという。
朝鮮半島の人々が辺野古移設に反対行動を起こす意味は?何が起こっているのだろう?
これは明らかに過激な活動家たちのしくまれたものに違いない。

このようなフェイク活動は最初は無視されていても、長く続けられるうちにいつの間にか人々の中に浸食されていく。今では沖縄独立の声まで噂されているという。
その状況を知らない本土の我々は、いかにも沖縄対日本という図式を思い描き始めてしまう。

沖縄は、"琉球王国"という呼び名こそあるが、日本が創られた時から日本であったのだ。ところが地理的関係で中国の脅威も常にあった。そのため複雑な立ち位置に置かれた沖縄は、日本本土と中国の間に立ちながらある程度の自立を保たねばならなかった。

沖縄が日本に返還されてからというもの、日本人にとって沖縄は最も癒しの地となった。若者たちの中には、沖縄で暮らすことに憧れ移り住みたいと願う人も多くいる。窮屈な本土で生活している人々にとって、沖縄という南国の、汚染されていない、純粋な人々が住む島があるということが、支えでもあり誇りにもなっていたのではないだろうか。
「日本には沖縄という美しい島がある」

なぜそのように日本の人々は、沖縄への憧れや、あるいは郷愁のような安堵を感じるのか、その謎がうっすら分かってきた。
それはおそらく、遠い縄文の頃を遺伝子が思い出すからではないだろうか。沖縄人の遺伝子には、混血がなされて薄まってしまった本土の人々より2割ほど多いという。言葉も異なるように思えるが、沖縄言葉の方が古代の言葉により近く、むしろ本土の日本語はだいぶ変わってしまっている。
たとえば、沖縄言葉で祈るとき「うーとーとー」という。それは「御尊い」という意味であり、「あなとうと」とは「安名尊」で、日本古文でよく見られる「あな尊い」と同じである。

首里城は沖縄の心ではない?

10月の終わり、首里城の正殿が炎上し燃え尽きた。
「沖縄の心が燃えてしまった…」
日本中が沖縄を想い無念と悲しみを共有したのだったが、その後、沖縄の人から意外な声が聞こえてきた。
「あんなもの、かえって燃えて良かったんじゃないのか?」「天罰だろう」

どういうことだろう。
その話を訊いてみると、そもそも首里城とは、ひどい圧政が行われた当時を思い出させるものでしかないのだという。それに首里城は本当は赤い屋根ではなかったともいう。もともとは日本の神社と同じ黒色だったと主張する人が多い。
※米軍によって撮影された戦前の首里城

その経緯をたどってみる。
※参考動画(チャンネル桜沖縄支局より)
  • 首里城の正殿は沖縄神社として弓の名手といわれた源為朝が祭られていた。
  • そして旧国宝に指定されていた。
  • その後戦争ですべて焼失し、ご神体は仮の場所に移された。
  • 戦後、再建されることになった際にご神体を戻すように要請したが拒否された。
  • 再建された首里城は赤い屋根だったが、本来は黒い屋根であった。燃えた正殿と北殿は特に中国風のものになった。しかも昨年まで中国の方向に向かって礼拝の儀式が行われていた。
  • 世界遺産といっても厳密には首里城はそのひとつに過ぎず、正確には城跡部分が世界遺産である。
  • こうした数々の要因から、燃えた首里城は沖縄の人々の心の支えとはいえなかった。
  • 首里城再建は急ぐ必要などない。歴史をよく見直してきちんと計画して欲しいというのが沖縄県民の思いだ。

また、デリー知事に対する問題も指摘されている。
  • デリー知事は原因究明をする前に直ぐに再建の支援を求めるために東京へ向かった。
  • 首里城はそもそも国が管理していたが沖縄県が管理したいと国に要請し、その後は沖縄県の管理下にあったのだから、沖縄県が責任をもって原因の究明をしなければならなかったはずだ。実際、県側が後から増設した延長コードが原因で発火したことが判明したが、デリー記事は説明責任を行っていない。
  • メディアは日本人の同情を煽る報道ばかりで、デリー知事の不可解な行動を追求しない。
沖縄に浸食している黒い影を感じざるを得ない。
沖縄をあるべき姿に正そうと活動している若い勇士、我那覇真子さんという方がいるが、彼女の話によると沖縄はメディアも大学も、共産主義的な思想に飲み込まれているという。沖縄が、最後の戦場として多大な犠牲を被った歴史を背負っているため、対日本という図式を描きやすい素地があったからであろう。実際、日本近代史において、沖縄は日本軍にとって捨て石だったと伝えることが多いのだった。しかしそれもまた、事実とは異なる。沖縄の人ほど日本を守る気概に溢れた人々はおらず、日本軍と共に戦った戦士たちであり、それが結果的に多くの犠牲者を出してしまったのだった。

昭和天皇の思い

沖縄の人々の、この逞しさはどこから来るのだろう。
一説によれば、天照大御神が最初に降り立ったのは沖縄ではなかったかといわれている。また、沖縄が重要な地点になっていることは、「神示」でも「オイカイワタチで」も言及されているのだ。沖縄が、日本列島の重要な入り口の役割を果たしているのだとすれば、日本が万一それを失えば、日本のエネルギーは甚だしく削がれてしまうのかもしれない。

昭和天皇は戦後、全国を巡り、人々を慰め慰霊を弔う巡幸を行われた。1972年に沖縄が返還されると、沖縄への巡幸を強く願われていたのだが、とうとう叶わなかった。
昭和天皇は、1988年に倒れられた病床でこうつぶやかれたという。
「やっぱりもう、だめか」
傍にいた侍従は、ご自分の命がもう終わりかという意味だと思ったそうだが、続けて仰られた。
「沖縄へはもう行けないのだろうな」

昭和天皇は、ご自分の足で沖縄の地を踏み、戦争の傷を癒さねばならないことをご存知だった。
無念だったに違いない。

日本人として、昭和天皇と代々の神々に謝りたい。
命をかけて貴方がたが御守りになったこの日本を、私たちはこのように粗末に扱い貶めてしまった。

今からでもまだ間に合うでしょうか。
日本には、目覚めた若者たちが西にも東にも育ち始めております。
どうか、この地球の変容を無事遂げるまで、辛抱強く御守り下さいますように。