PVアクセスランキング にほんブログ村

こひー書店(cohii book store)

コーヒー愛好家の大学生です。主に人生の役に立ちそうな事を発信します。お問い合わせkazudasa@gmail.com

「東京オリンピック(五輪)」国策はアスリートへの侮辱?なぜ日本はスポーツ選手を死を与えてしまうのか?

今回は、なぜ日本は過去の事例から学べないのか疑問におもいました。2019年12月16日に日本陸連は都内で理事会を行い、東京五輪男子400メートルリレー代表の選考基準として、個人種目の出場を「原則として1種目のみとする」とした異例の案が出され、継続審議とされました。

f:id:kalogchange:20191218154008j:image

2019/12/18media

 

念願の求め続けた金メダルために、個人種目での負担を少なくして体力を温存させることが目的だと考えます。

 

今注目の男子サニブラウン・ハキーム選手、小池祐貴選手ら100m、200mとも出場を狙っていた選手が、男子4×100mRに出場するには、種目を絞ることが選手たちに迫られます。

 

日本陸連は12月16日に、都内で理事会を開き、2020年東京五輪の100m、200m代表選考基準について「個人種目は原則として1種目のみとする」とする選考要項を提案されました。

 

金メダルを目標とする男子4×100mRメンバーの負担軽減が目的で、来年3月までに結論を出す方針だそうです。

 

リレーも含めた3種目での代表入りを目指すサニブラウン選手はこの日、都内で行われた日本陸連の年間表彰式に出席し方針に対し、異論を唱えました。

 

サニブラウン選手は100m、200m、4×100mRの出場を狙っていると発言していました。

 

この時に、思ったことが日本はオリンピックメダリストの自殺率が高いといわれています。

 

正直オリンピック開催後が恐怖ですよね?

 

この時に円谷幸吉さんが思い浮かびました。

 

円谷幸吉さんは1940年、福島県須賀川町(現在の須賀川市)で農家の七番目の子、六男として生まれました。

 

厳格な父親のもとで育った生真面目な末っ子が、兄の影響を受けて長距離を走り始めたのは高校生の時でした。

 

県大会、東北大会で健闘してインターハイに出場できたのは、努力家で真面目に練習を積み重ねたたまものだったといわれています。

 

 

そのインターハイでは5000mで予選落ちでした。この時点でも、何年もたたないうちに日本のトップの一角に上りつめるとは、それにとどまらず、オリンピックに出場して活躍するようになるなどとは、周囲の誰一人として思いませんでした。

 

 しかし、円谷幸吉さんはじわじわ、じわじわと力をつけていき高校を出て陸上自衛隊に入り、勤務のかたわら郡山自衛隊陸上部をつくって走り続けていた時も、まだ全国的に注目される存在ではありませんでした。

 

日本選手権の5000mで入賞したり、青森―東京間を走る青東駅伝で活躍したりはしたものの、将来のトップ選手候補と目されるほどの実績は残していませんでした。

 

  円谷幸吉さんの急上昇は二つの出来事がもたらしたとされています。

 

ひとつは、自衛隊で陸上のコーチをしていた畠野洋夫との出会い

 

もうひとつは、1962年に自衛隊体育学校に入校して、オリンピックを目指す特別課程の選手となったことです。

 

それまでは、練習といってもひたすら走り込むだけでした。

 

持病の腰痛もありました。強い信頼関係で結ばれた畠野のもとで、ようやくバランスのとれた本格的なトレーニングを始めました。

 

すると、ひたむきな走り込みで培われたスタミナに加えてトラック選手としてのスピードも身につき、走力は驚くほどに向上しました。

 

その年、早くも日本選手権で5000m、10000mの2冠を達成しました。

f:id:kalogchange:20191218152956j:image

 

長く我流の練習で蓄えてきた分厚い底力は、一気に花開くためのきっかけをいまかいまかと待っていました。努力の賜物です。

 

  ここから急激に成長し1963年になるとさらに成長加速する。ニュージーランド遠征などの新たな経験を積むたびに飛躍し、5000mで立て続けに日本新をマークするなどして、トラック長距離の頂点へ登り詰めました。

 

こうして翌1964年の東京オリンピック代表の座を確実にしたところで、彼はさらに大きな飛躍を遂げることになります。

 

オリンピックの年を迎えると、トラックでのスピードを買われてマラソンにも進出し、選考会の好成績でマラソンの代表入りを果たしました。

 

 

 円谷幸吉さんが10000mとマラソンの日本代表に決まってから、体育学校の同僚として練習パートナーを務めた宮路道雄氏は、練習で円谷を引っ張りながら、その急成長ぶりを強く実感していました。


「ああ、ずいぶん力がついたなあ、と。(前を走っていても)伝わってくるんです。いまにもスッと追い越されそうな感じなんですね」

 


ペースメーカーを追い越してしまいそうな勢い。それを育んだのはこんな姿勢だったと宮路氏は指摘しています。

 

  「彼は後ろからついていくのは好きじゃなかった。レースでは、自分から積極的にいって引っ張るんですね。それで力がついたと思います」

 

 後ろについて最後だけ前に出ようとするのではなく、最初から積極的に自分の力をぶつけていきます。

 

後続の目標になるのもいとわず、先頭に立ってぐいぐいと引っ張っていきました。その真っすぐな姿勢もまた、原動力の一つということです。

 

迎えた1964年10月の東京オリンピック、まず10000mでは積極的なレース運びで6位入賞を果たしました。

当時の世界とのレベル差からして、これは快挙と評して差支えない成績でした。

 

そして陸上最終日、10月21日のマラソン円谷幸吉さんは歴史に名を刻むことになります。

 

世界の強豪に伍しての銅メダルは、日本マラソン史上初めてのメダルであり、また、この大会での日本陸上陣唯一のメダルでもありました。

 

日本国中からかつてない喝采が寄せられたのは、この若者が勝利のため、国のために自らの力で勝ち取りました。

 

まったくの無名から、ひたむきな努力と、生真面目で真っすぐな姿勢によって少しずつ、また少しずつ力をつけ、ついには頂点の一角まで到達した、その足どりは私たちの模範です。

 

それは「時代」とぴったり歩調が合っていました。

 

高度成長によって戦後の復興をなし遂げ、オリンピックを開くまでに成長を日本は遂げました。

 

そのころ人々は、その上昇はずっと続くのだと信じ、真面目に、ひたむきに努力しさえすれば必ず報われるとも信じて疑いませんでした。

 

円谷幸吉は、まさしく時代を象徴する存在だったのであります。だからこそ、誰もが彼に熱烈な喝采を送ったのです。

 

         しかし

 

国を挙げての喝采の裏側には等量の重圧があったのです。

 

ヒーローとなった円谷幸吉さんにはすぐさま、次のメキシコオリンピックでは金メダルを取ってほしいという期待がかけられるようになりました。

 

それが取り返しのつかない悲劇を呼んだのは、メキシコ大会を翌年に控えた1967年のことです。

 

  東京大会の後、円谷にはさまざまな心労が襲いかかっていました。

 

腰痛で調子を崩し、思うように走れない毎日でレースでも結果を出せないでいました。

 

畠野コーチの転任により、信頼する指導者とも離れ離れになりました。

 

私生活では、進んでいた結婚話が破談になってしまい結婚の件もコーチの件も、体育学校の新たな上層部が干渉したためと指摘されています。

 

追いつめられた円谷は、自分の四方すべてが閉ざされたように感じたに違いありません。

 

孤独を強いられました。

 

  「絶対に弱音を吐かない。決めたことはやり通す」円谷幸吉さんの持論でした。

 

自分に厳しく、責任感は人一倍で、そのかたわら、周囲に気を配るのも忘れない性格だったとされています。

 

多くの期待にこたえられなくなり、私生活でも希望を失った彼は行き場を失い、自死を選んだ。体育学校宿舎の自室で、かみそりで頸動脈を切って亡くなっているのが発見されたのは1967年1月9日です。

 

両親や兄弟、親戚にあてた遺書には、それぞれへの感謝の言葉だけが連ねられていました。

 

f:id:kalogchange:20191217212404j:image

2019/12/17media

 

父上様 母上様 三日とろろ美味しゅうございました干し柿、もちも美味しゅうございました

 敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました勝美兄姉上様、ぶどう酒、リンゴ美味しゅうございました巌兄姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しゅうございました喜久造兄姉上様、ぶどう液、養命酒美味しゅうございました又いつも洗濯ありがとうございました幸造兄姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございましたモンゴいか美味しゅうございました正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃんひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃんゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君立派な人になって下さい父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません何卒お許し下さい気が安まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました

 

これは、日本のスポーツ史の中で最も悲しい出来事だと思っています。

 

それもまた、時代の空気を映し出すものだったかもしれません。

 

かつて天才小説家の芥川龍之介は自殺しました。原因は

 

ぼんやりとした不安

 

これが原因です。

 

世の中で言われる自殺の原因は病気の苦しみ、精神的苦痛が自殺の原因の全てではないと芥川龍之介は記述しています。

 

芥川龍之介の場合は将来に対するぼんやりとした不安が動機でした。

 

将来に対するぼんやりとした不安が自殺の人は多いとおもいます。

 

円谷幸吉さんや芥川龍之介のように天才は将来に世間に期待されて、追い詰めてしまいます。

 

 

とある、パラリンピックの金メダリストだったベルギーの元選手が、自らの意思で安楽死を選んで死去されました。

 

40歳で亡くなったのは、2012年のロンドン・パラリンピックで金メダルを獲得したマリーケ・フェルフールトさん。

 

脊髄の疾患のために絶え間ない苦痛に悩まされ、眠ることさえ難しい状態でした。

 

フェルフールトさんは2012年パラリンピック陸上競技の車椅子レース100メートルで金メダル、200メートルで銀メダルを獲得。16年のリオデジャネイロ大会でも2個のメダルを獲得しました。

 

ベルギーでは安楽死が合法化されており、フェルフールトさんは2008年、3人の医師の承諾を得て、安楽死の申請が認められていました。

 

フェルフールトさんは2016年にCNNのインタビューの中で、安楽死を申請したことで自分自身の主導権を取り戻すことができたと語り、

私はもう死を恐れない」「眠りに就いて、二度と目を覚まさない。私にとって、それは安らぎに満ちている」

と発言されました。

 

パラリンピックは「自分の身体にとって過酷になった」という理由で2016年に引退されました。

 

安楽死はわずか数カ国を除き、世界のほとんどの国で非合法です。

 

確認書に署名したフェルフールトさんは、耐え難い苦痛に苦しむ人が安楽死できない国に向けた啓発になればと話し、

 

「全ての国が安楽死法を制定すれば、自殺者は減ると思うと発言されました。これは殺人ではなく、もっと生きてもらうための措置と受け止めてほしい」と訴えていた。

 

これは、自殺防止の一例であって今の時代、スポーツだけではなく、活躍した栄光の背景には必ず闇があります。

 

今後のスポーツ界は過去事例を無駄にせずに選手ファーストをぜひ実践して欲しいです。

 

選手は道具じゃありません。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます

 

 

参考文献

 

https://www.sanspo.com/sports/news/20191217/ath19121705040001-n1.html2019/12/18現在

 

https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/20_14619.html 2019/12/18現在