鎌倉時代中期には既に伝説の人に…
理想的に脚色された源義経
源義経は、生存中からすでに幾多の謎めいた風聞や憶測にいろどられていた。突然の登場、あまりに鮮やかな数々の武功、栄光とその絶頂からの転落、逃走のすえのあっけない最期。それだけが義経の史実といっても過言ではない。
同時代史料をひも解けば、後白河法皇の皇子で仁和寺にあった守覚法親王は「源廷尉(義経)ただなる勇士にあらざるなり。張良の三略、陳平の六奇、その芸を携えその道を得た者」と賞讃(『左記』)、時の摂政九条兼実は義経が鎌倉方との関係悪化で西国に落ちるさまを見届け、「義経らの所行は実に義士と言うべきか。」「武勇と仁義においては後代に佳名をのこすものか」と嘆美している(『玉葉』)。
鎌倉時代もなかばを過ぎて『吾妻鏡』が編まれるころには、義経の史実と伝説はその区別がつけがたいほど混然としていた。兄頼朝との劇的な邂逅、合戦での活躍、涙の腰越状、そして衣川での自刃から首実検まで、これらのどこまでが事実であったろう。
義経の劇的な事跡は『平家物語』や『義経記』、あるいは能や幸若など中世文学や芸能にとって格好の題材として一層魅力的・理想的に脚色され、ついにはわが国における英雄の典型にまつりあげられた。
近世にいたっては、文学・芸能・絵画などを中心にまさに百花繚乱の様相を呈し、その人物像はさらに多様化する。世に云う「判官贔屓」の感情は、それらの膨大な蓄積が数世紀にわたって醸成したものであり、かつまたその伝説が全国に染みわたり生活にはいり込み、身近な存在としてあり続けたがゆえのものであったろう。
つまり、今日われわれが知る源義経の人物像あるいはその生涯というのは、「(あまりに伝説的な)史実の義経」であると同時に、いわば「(大衆が求めた)伝説の義経」が不可分に混在しあったものなのである。