真実の日本の歴史 ~ 戦前教科書 尋常小学 国史より ⑥
第二十七 足利氏の僣上
(2017.4.1) (戻る)
これまでの吉野朝の足利への奮戦、いかがですか? 今の学校で教えられていない華麗な吉野側の武将たち。対して己の利得のためだけに集まった烏合の衆 足利陣営。この通り、吉野朝 官軍側は親子兄弟揃って忠義をまっとうし続け、理想を体現化した集団。対して足利側は利得に目が眩んで帝に叛き、兄弟でも殺し合うような、疑念と背信うずまく規律なき集団。ここまで読まれれば、どうして私が戦前の国史(日本史)教科書の建武の中興をここに掲載しなければならないと考えていたか、しっかりおわかりになれたことと思います。今の学校教育は唯物的でそのような人の心に触れる歴史教育がされておらず、南北朝時代ではなく吉野時代、南朝ではなく吉野朝と呼んでいた戦前までの教育を知っておかないと、先人たちと心をつなげることができないのです。しかもその辺の情報でも大概が、吉野側の武士は皆、惨めな死に方したとか、後醍醐天皇は傲慢だったとか、非常に恣意的に書かれています。逆に尊氏の方が立派で人に好かれるタイプだったとか、悪意のイメージ作りムチャクチャ。先の大戦で英霊たちが皆、惨めな無駄死にしたとするような、自虐左翼史観と共通の描かれ方がなされているのです。これでは稀有で偉大な後醍醐帝や吉野の英雄武将たちへの敬意が育つはずもありません。
正当だった吉野朝、しかし正義が勝つとは限らず、賊軍 足利側が事実上の勝利をおさめるわけですが、以後の義満も天皇ないがしろで支那に対して国王を名のるありさま。この不徳な流れは後の応仁の乱、下剋上・戦国時代突入と、国全体の混乱につながり、足利室町の時代は乱れに乱れ、やがて室町幕府は織田信長に滅ぼされることになります。
尊氏の無道
尊氏は、さきに後醍醐天皇からお手厚い恩賞をいただきながら、その御恩を忘れて、朝廷にそむき、忠義な人々を殺し、おそれ多くも皇族を害し申すようなことさえした。かような無道の行が多かった上に、自分の家をもよく治めることが出来ず、兄弟互いに憎みあい、はては弟の直義を毒殺してしまった。部下の将士もたびたびそむき、また互に争っていたので、いつも騒ぎが絶えなかった。その間に、足利氏は、尊氏の子 義詮(よしあきら)から孫の義満(よしみつ)の代となった。
細川頼之が義満をたすけた
義満が年ようやく十歳の時、父 義詮は重い病にかかって、もはや回復の望がなくなったので、日頃 信頼している細川頼之(ほそかわよりゆき)に遺言して、義満をたすけ導かせることにした。頼之は、足利市の一族であるが、いたってつつしみ深い人であったから、義満のそばに仕えている人々には、常におごりを戒め、またわがままな大名をおさえるなど、真心こめてその主をたすけた。それ故、これから足利氏の基はだんだん固くなった。
後亀山天皇が京都におかえりになった
義満は、やがて使を吉野にさしあげて、天皇に、京都へおかえりなさるようにお願いした。後村上天皇の御子 第九十九代 後亀山天皇は、かねがね、長い間の戦乱で、万民が苦しんでいることを不憫(ふびん)に思っていらっしゃったので、ただちにその願をお許しなさって、京都におかえりになり、神器を第百代 後小松天皇にお伝えになった。時に紀元2052年(元中9年)、後醍醐天皇が吉野へ行幸をなさってから、およそ60年ばかり経っていた。今までたいへん乱れていた世の中も、これから、やっと静まった。けれども、義満は征夷大将軍となって、大いに勢を振るうようになり、ふたたび武家政治の世となった。
義満がおごりをきわめた
義満は、まもなく将軍職を子の義持に譲ったが、自分は太政大臣になりたいと望んだ。武人で太政大臣に任ぜられたことは、平清盛から後 全く例がなかったのである。それにもかかわらず、義満はたびたび朝廷にお願いして、とうとう望をとげた。
金閣
このように、義満のわがままは次第につのり、はてはおごりの生活にふけるようになった。その室町(むろまち)の邸は、この上ない立派なもので、庭には美しい花がたくさん植えてあったから、人々はこれを花の御所といった。義満はまた、京都の北山(きたやま)に別荘を造り、庭に三層の楼閣(ろうかく)を建てて、壁といわず、戸と言わず、すべて金箔(きんぱく)で張りつめた。その美しさは、言葉にも、筆にもつくせないほどで、人々は、これを金閣と呼んだ。義満は髪をそってここに住み、なほ政治をとっていたので、朝廷の官吏も、皆 義満の威勢に恐れて、この別荘に来てその命令を受けるという有様であった。
義満の僣上(僣上とは、身分をわきまえない、さしでた行為をすること)
義満は、勢の盛なのにまかせて、臣下の分をわきまえぬわがままな行が、いよいよ多くなった。かつて比叡山に登った時などは、関白以下の公卿を従えて、おそれ多くも上皇の御幸(みゆき)の御儀式にまねたほどであった。
義満が國體をかろんじた
この頃、支那は、元がほろびて明の時代となっていた。義満は使を明にやって交際をはじめたが、明主(みんしゅ)が義満を指して日本国王といっても、義満は別にはばかる様子もなく、自分からも進んで日本国王と名のって、書を送った。わが国には、天皇の外にまた国王があろうか。義満の行は、実にわが國體(こくたい)をかろんじたものというべきである。
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