現実の複雑さに向き合うために――ヤンキーの生活世界

――本日は、日本教育社会学会奨励賞〔著書の部〕に選ばれた『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー』の著者、知念歩さんにお話を伺います。なぜ「ヤンチャな子ら」を研究しようと思ったのですか?

 

卒論を書くときに、若者文化をテーマにしたいと思ったんです。そのことを、当時の指導教員であった『裸足で逃げる』の上間陽子先生に相談したところ、渡されたのがポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』とディック・ヘブディジの『サブカルチャー』という本でした。

 

とくに『ハマータウンの野郎ども』の第一部は、とても興味深く読んだことを覚えています。ただ、卒論では、自分自身が当時足繁く通っていた那覇の国際通りの裏路地にあるセレクトショップに集う若者たちの文化について書きました。

 

 

――ということは、まだ「ヤンチャな子ら」ではなかったんですね。

 

そうです。大学院は大阪大学に進み、教育の現場にフィールドワークを本格的に持ち込んだ志水宏吉先生に師事しました。せっかく志水先生の下で学ぶのだから、修士論文では学校に関わるテーマに取り組みたいと思いました。

 

私が大学院に進学したのは2009年です。当時、フリーターやニート、子ども・若者の貧困といった問題がすでに社会問題として認識されていて、若者の大人期への移行の困難といったテーマが浮上していました。そこで、とりわけ厳しい家庭環境に置かれた若者を、学校時代から卒業後まで追跡するような研究がしたいと思ったんですね。

 

そんな思いつきから、X高校で調査をすることになりました。X高校は、学校ランクで低位に置かれて、学力的にも家庭的にも厳しい生徒たちが多く通う学校で、いわゆる「しんどい」学校です。

 

調査を始めて半年くらいは、どのように調査をしようかと模索しながら教室を観察していたんですが、高校は授業によって教室が変わったり、教室にいる生徒たちも選択科目によって異なったりするので、ひとつの学級に張りついて調査を行うのは難しいということに気がつきました。

 

また、「学力的にも家庭的にもしんどい生徒」といっても、その中には色々な生徒がいることにも改めて気づかされました。要するに、どうやって調査の焦点をどう絞るかってことに悩んでいたんですね。

 

ただ、半年くらい調査を続けている中で、どうやらこの学校には、おとなしい生徒、普通の生徒、ヤンチャな生徒がいて、女の子の場合はギャルと呼ばれるわけですが、そのように生徒を分類できるし、じっさいにX高校の教師たちや生徒たちはそうやって生徒を分類しているということがわかってきました。

 

そういう若者文化の軸、つまり「オタク文化か、ヤンキー文化か」みたいな軸と、男女の軸を交差させると、X高校の生徒たちを6グループくらいに分類できるので、それぞれの生徒たちの特徴を描き出そうかなと考えたりもしました。

 

しかし修士課程2年にあがるとき、そうしたアイディアを志水先生に話したところ、「一つか二つのグループに絞ったほうがいいのでは?」とアドバイスを受けて、「ヤンチャな子ら」を対象にすることにしました。

 

 

――いわゆるヤンキーというのは、すでに研究対象として確立されていたんですか?

 

『暴走族のエスノグラフィー』といった暴走族を対象にした研究や、『ヤンキー進化論』のようにヤンキーをメディア論的に分析した研究は確かにありました。また、『ヤンキーと地元』を著した打越正行さんが、すでに沖縄のヤンキーの調査を始めていました。

 

その意味では、ヤンキーを対象とした研究はすでにありました。しかし、ヤンキーと学校は切っても切れない関係なはずなのに、学校をフィールドとしたヤンキーの研究はなかったんです。私は教育社会学を専門にしているのですが、教育社会学において非行少年は定番の対象ともいえるはずなのに、きちんと追跡した教育社会学的な質的研究はほとんどなかったんですね。

 

 

――えっ、そうなんですか!?

 

はい。少し具体的に話しますと、欧米では50〜60年代に、非行少年を対象にしたエスノグラフィックな研究がすでにあったのですが、日本ではそれらの影響を受けて、70年代に非行や反学校的な生徒文化についての研究がたくさん蓄積されました。しかし、それらの研究は質問紙調査に基づくものがほとんどでした。

 

90年代に入ると、日本でも、質問紙調査中心の方法への反省から、エスノグラフィックな生徒文化研究が出てくるのですが、それらは、女子生徒や外国籍(ニューカマー)の子どもたちを対象にしていました。つまり日本の教育社会学では、70〜80年代に行われていた生徒文化研究の焦点が、日本人の男子、いわゆるマジョリティの生徒たちに偏っていることへの反省と、研究方法が質問紙調査に偏っていることへの反省が時期的に重なったんですね。

 

 

――ああ、なるほど。質問紙調査への偏向への反省があったのだけど、同時に男子への偏向への反省があったために、男子の非行少年のエスノグラフィーへという流れにならなかったわけですね。

 

そう。そのような経緯があって、反学校的な男子生徒たちや非行少年に対する質的な研究があまり蓄積されていませんでした。そういう中で、まずはオーソドックスに非行少年を見る、というのが大事なのではないのかと思い、「ヤンチャな子ら」を研究対象にしました。ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』のような研究を日本でちゃんとやったら、すごく意義のあるものになるのでは、と思ったんです。

 

 

 

 

――若者文化や非行文化を扱った文章を読んでいると、『ハマータウンの野郎ども』がよく参照されていますが、これはどのような本なのでしょうか?

 

『ハマータウンの野郎ども』は、1977年にイギリスで出版された本で、社会学では古典といわれる一冊です。12人の「野郎ども」と呼ばれる少年たちに対する調査に基づいて、労働者階級の子どもたちがいかに親と同じような地位についていくのかが考察されています。また、そこで描き出されている事例もそれに対する分析もとても面白い。例えば、教師の言動や学校の規則を利用しながら、彼らが学校を自分たちにとって価値あるもの、楽しいものに変えていく様子が具体的に描かれていたりするんです。

 

この本は階級の再生産を主に扱っているのですが、人種差別や女性蔑視に関わる事例についてもすごく丁寧に描かれています。男性である労働者階級の「野郎ども」が、いかに女性たちを蔑視しているか、あるいはいかに人種差別をしているのか、というようなことにも焦点をあてながら、彼らの学校生活と進路選択を描き、そして仕事に就いてからは、学校生活でやっていたことと同じように、労働の現場を自分たちにとって楽しい空間に変えながら、労働をやっていくことを丁寧に描いた研究です。

 

もう少し歴史的な流れについて話すと、ポール・ウィリスはのちに、あの時代は労働者階級の黄金期の最後だったといっています。要するに、ウィリスが調査をした直後、すなわち、1980年代初頭には、かつて労働者階級の男性たちが働いていたような工場労働がどんどんイギリスからなくなっていく中で、若者の失業率が高まっていきます。そうなると、「野郎ども」も、本で描かれたような生き生きとした感じではなくなっていった。したがって、第二次産業が中心の社会の、最後の世代を描いた本だともいえるでしょう。

 

 

――現在にまで読み継がれているということは、時代をこえた普遍性があるということだと思いますが、それはどのあたりにあるのでしょうか?

 

学校のような官僚制的な制度が貫かれているように思える場所でも、人びとは自分たちの文化や価値観に引き付けながら、学校を自分たちに近い世界に変えていこうとしたり、工場労働のような、自分たちにとってあまり面白みのない空間を、できるだけ面白いものに変えていこうとしたりします。

 

そうした人々の生活実践、すなわち、人びとが自分の側にルールを近づけたり、あるいはメイン・ルールに解釈を加えながら別のルールをつくることで、自らにとって居心地のよい空間に変容させていく様が、詳細に描き出されています。そうした点に、時代や領域を超えた普遍性があるのではないでしょうか。

 

また、この本は、エスノグラフィー編の第1部と分析編の第2部に分かれているのですが、第1部では、かなり具体的かつ詳細に、生徒たちがどのようなやり取りをしているかを記述しています。そうした具体性に、いろいろな人がいろいろなところで共感できるようになっているのだと思います。

 

例えば、さきほど人種差別や女性蔑視の話をしましたが、そうした部分の具体性ないしはディティールによって、本のメインテーマとは違う問題についても考えることができます。そのような感じで、読み直すたびに新しい発見をもたらしてくれる本なんです。

 

『ハマータウンの野郎ども』は、労働者階級の子どもたちがいかに親と同じ職業についていくかという話だと一般に紹介されるのですが、そうしたメインストーリーに収まらない記述の過剰性があります。おそらく、ウィリスが想定したものをこえて、そうした記述の具体性やディティールが、時代を超えて読者に何かを伝えるのだと思います。そういう意味で、エスノグラフィーとしてとても読み応えのある本です。

 

 

――先ほどからエスノグラフィーという言葉が出てきていますが、これはどのような学問なのでしょうか?

 

簡単にいうと、現場に行って、対象となる人々と一緒に過ごしながら、話を聞いたり、振る舞いを観察したり、つまり、五感を使いながら人びとの生活を確認し、それをまとめていく、そのような研究手法であり、またそのような研究手法に基づいた本や論文をエスノグラフィーといいます。

 

 

――知念さんにとって、エスノグラフィーの魅力はどこにあるのでしょうか?

 

読む側からすると、筆者が意図する以上にいろいろなディティールが描かれているので、さまざまな読み取り方ができるのが、すごく魅力的なところだと思います。研究する側にとっては、つねに自分の想定をこえた現実に気づかされるというのが一番の魅力です。

 

『ハマータウンの野郎ども』を読んでいると、12人の「野郎ども」が出てきます。この12人は確固たるグループとして描かれるのですが、現実には仲間集団はそんなに単純ではないですよね。じっさい、教室で観察対象とするグループを定めようとしても、A君はどのグループに入るんだろうという問題が必ず出てきます。調査を始める前は、調査対象者などすぐに決まると思いがちですが(というよりもそんなことを考えてすらいませんでした)、じっさいは誰から誰までが「ヤンチャな子」なのか、というのはすごく難しい問題でした。

 

あるいは、学校に反抗している子らを「野郎ども」と比較しようと思って、そうした子らに話を聞くのですが、彼らに「学校はどう?」と聞くと、聞く前は、『ハマータウンの野郎ども』で描かれていたように、「学校なんて楽しくないよ」とか、「教師なんて学校の犬さ」みたいな語りが出てくるのかと思いきや、じっさいは「学校好き」とか「教師も尊敬できる先生とできない先生かいる」とか、そういう語りがたくさん出てきます。

 

そうすると、この現実の複雑さをいったいどう記述すればよいのか、どうすれば一貫したストーリーになるのかと困るのですが、そこがエスノグラフィーの魅力なんです。そうした現実の複雑さ、これは人が生きていれば当たり前に知っている現実なのですが、そうした現実を改めて自覚させられる、そこにエスノグラフィーの面白さがあると思います。

 

 

――われわれはともすれば、単純なストーリーに現実を回収しがちですものね。ところで、じっさいに高校に入られて、生徒と関係をつくるとき、どのような苦労があったのでしょうか?

 

「ヤンチャな子ら」のなかにも、すんなりと話をしてくれて関係を築けた子と、「あっち行けよ」とばかりいわれてなかなか関係を築けない子がいました。

 

覚えているのは、調査を始めて半年が過ぎた頃の遠足です。そのときは、彼らとの関係が築けているかいなかという微妙な時期だったんですが、目的地に向かう電車の中で、「ヤンチャな子ら」が乗っている席の近くに、わたしも座っていたんです。

 

今から思えばそうとう不自然な位置に座っていたんだと思います(笑)。「ヤンチャな子ら」の一人に、「なんだよお前、あっち行けよ」みたいにいわれて、どうしようかな、と。まだ、じゃれ合うような関係でもありませんでしたし、「そんなこというなよ」というような反応をするべきか、あっちに行くべきかと悩みながら、結局、うだうだいいながら居つづけたんです。

 

その頃は、「ヤンチャな子ら」に調査の焦点を合わせようと決めてからひと月くらいの時期でしたが、なんかそういう宙ぶらりんな時期はありました。

 

そこから、話しかけてくれる子と食堂でご飯を食べるようになると、「こいつは話してもいいやつ」かみたいな感じになって、それが少しずつ広がっていき、3カ月くらいたつと、10人くらいにインタビューできるようになりました。

 

ちょうどそのころ、食堂でわたしが試されたみたいなことがありました。彼らは食堂の裏とか、体育館の裏でタバコを吸うんですが、わたしと食堂のおっちゃんしかいないときに、食堂でタバコを吸い始めたんです。わたしがどう反応するかを試されたんですね。

 

 

――それは試されてますね(笑)。

 

ええ(笑)。「知念は先生じゃないんやろ。だったら注意しないんやろ」みたいなことをいわれて、「注意する立場ではないけど、この学校の先生に許可をもらって入れてもらっているんだから、そんなことされたら、先生たちとの関係が台無しになるだろう」みたいなことを率直にいったりして。「そんな気まずいことしないでよ」みたいなことをいったりしながら、その場を切り抜けたりしましたね。【次ページにつづく】

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.270 

・小峯茂嗣「こうすれば異文化交流は共生社会につながる――協働から育まれる共生社会」
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