米国の道路は歩行者にとって“危険”になっている? 交通事故死が減る一方で「歩道の死者」が増えた理由

米政府のレポートによると、自動車関連の事故による死亡者数は2018年に2.4パーセント減少した。ところが、歩行者の死亡者数は過去10年で50パーセントも増加している。いったいなぜなのか? 正直なところ、その理由は誰にもわからないというのだ。しかし、いくつかのヒントはある。

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TRAVEL WILD/GETTY IMAGES

このほど米運輸省道路交通安全局(NHTSA)から18年の米国の交通死亡事故に関する報告書が発表されたが、そこにはよいニュースもたくさんあった。

自動車の衝突事故による死亡者数は約36,560人で、17年と比較して913人(2.4パーセント)減少している。14歳以下の子どもの死亡者数は10パーセント以上も減少した。飲酒運転、スピード超過、バイクに関連する死亡者数も、すべて減少した。

これらはどれも素晴らしく改善したと言っていい。特に交通事故による死亡者数は、数十年にわたる減少傾向を経て、14~16年に増加して40,000人近くに達したものの、18年には減少している。

しかし、すべてが改善したわけではない。18年の歩行者の死亡者数は6,283人で、17年から3.4パーセント増加した。歩行者の死亡者数は過去10年にわたって増加傾向が続いている。歩行者の死亡事故は1990年に6,482人を記録して以来、2009年に最も少なくなったが、18年はそこから50パーセント増えている(NHTSAは1975年から統計を継続している)。自転車事故による死亡者数も同様に増加しており、18年には前年から6.3パーセント増加して857人になった。

誰も説明できない理由

こうした数値と同じくらい恐ろしいのは、なぜこうなったかを誰も説明できないことだ。「この事実を説明できる指標を見つけられませんでした」と、交通エンジニアリング企業サム・シュワルツ(Sam Schwartz)のゼネラルマネージャーのリチャード・レッティングは言う。彼はニューヨーク市運輸局および米国道路安全保険協会で交通安全を長年研究してきた人物でもある。

クルマの走行距離と歩行者数という、基準となる要素はともに増加している。しかし、それではレッティングが「過去20年以上にわたる進歩の完全な逆転」と呼ぶような状況を説明するには不十分だ。NHTSAは報告書のなかで理由を示しておらず、NHTSAの広報チームにコメントを求めたが回答は得られなかった。

まったく手がかりがないわけではない。交通事故死の原因としてまず考えられるのは、不注意運転だ。しかしNHTSAのデータによると、昨年の衝突死亡事故のうち、不注意運転によるものは7.8パーセントにすぎなかった。

この数字の問題は、ほかのデータ項目と同様に、警察からの報告に基づくということである。ほぼすべてとは言わないまでも、多くの場合に警察は運転手(または歩行者)が携帯電話を見ていたかどうかを知る術がない。このため、不注意運転は少なく報告される傾向にあるのだ。

「運転手が携帯電話を見ていたら、歩行者が危険に晒されるのも当然です」とレッティングは話す。iPhoneなどのスマートフォンの普及が死亡数の増加と同時に起こっているだけに、なおさらだ。ピュー研究所の調査によると、2011年の米国人のスマートフォン所有率は35パーセントだったが、18年には77パーセントになっているという。一方で自動車メーカーでは、これまで以上に大きなスクリーンをより多くのクルマに搭載する傾向が続いている。

SUV人気も一因?

常識的に考えれば、不注意と戦うことは必須だろう。しかし、スマートフォンを見るという行為すべてに等しく問題があるわけではなさそうである。ホノルルで“歩きスマートフォン”の禁止法令が発効されたあと、ニューヨーク市も同じように歩行中のスマートフォン利用の禁止を検討していた。だが、同市の運輸局は19年8月、「歩きながらのスマートフォン利用が歩行者の死亡と負傷に大きく寄与するという具体的な証拠をほとんど見つけられなかった」との研究結果を発表した。

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歩行者の死亡事故は2009年から50パーセントも増えている

米国の自動車市場ではセダンの人気が低迷し、SUVやクロスオーヴァーSUVの所有者が増加していることも、交通事故による死亡者の増加の一因になっているかもしれない。13年には米国の新車販売台数におけるSUVの比率は15パーセントだったが、20年までにこの値は50パーセントに達する見込みだ。

クルマは重ければ重いほど人体に致命的な衝撃を与えるようになり、車高があればあるほど、足ではなく胴体や頭にぶつかりやすくなる。つまり、クルマと衝突することが、以前にも増して致命的になっているということだ。

道路の設計にも課題

時系列で追跡するのは難しいが、道路の設計も重要な要素かもしれないと、交通シンクタンク「Eno Center for Transportation」の政策アナリストのアリス・グロスマンは指摘する。米国の道路網の多くは自動車用に設計されており、横断歩道や歩道、照明など、歩行者の安全にとって適切とはいえない要素があるのだ。

歩いたり、自転車に乗ったり、バイクで移動したりするうえで最適な道路をつくりたいと考えている自治体は、米都市交通担当官協議会(NACTO)の交通路設計ガイドや自転車交通に関するオランダのCROW設計マニュアルなどの情報源を参照することができる。しかし、どのような変更がどのような種類のメリットをもたらすかは、必ずしも明確ではない。より多くのデータが役に立つ場合もある。「道路設計の前後に関するしっかりとしたデータは多くありません」と、グロスマンは言う。

歩行者の死亡者数の増加傾向を減少に転じさせることは、それを理解することと同じくらい複雑であるようだ。公的機関から連邦政府まで、さまざまなレヴェルでの設計、政策、施行を組み合わせることが求められる。

グロスマンと同じEno Center for Transportationの政策アナリストのロミック・アエヴァズは、交通エンジニアは何を優先すべきかを再考する必要があると指摘する。例えば、歩行者用信号の時間を延長したり歩道の縁石を広げたりすると、縁石から縁石へと安全に移動しやすくなり、同時にクルマの走行スピードを抑えられるかもしれない。

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名作の様式を受け継いだRPG「アウター・ワールド」には、単純さゆえの構造的な問題がある:ゲームレヴュー

“ブラック企業が支配する宇宙帝国”を舞台に繰り広げられるRPG「アウター・ワールド」には、テーマ設定からシナリオ、アートディレクションにいたるまで、ゲームが成功するうえで必要な要素が詰まっている。それなのに、なぜ“重労働”のように感じられてしまうのだろうか──。『WIRED』US版によるレヴュー

TEXT BY JULIE MUNCY
TRANSLATION BY AKARI NAKARAI/GALILEO

WIRED(US)

The Outer Worlds

“ブラック企業が運営する宇宙帝国”という陰鬱なホラーが、銀河を舞台に展開する。そこでは悲劇と喜劇が入り混じった印象的な凄惨さが生まれる。IMAGE BY OBSIDIAN ENTERTAINMENT

ロールプレイングゲーム「アウター・ワールド」で最初に訪れた街には、墓地使用料を徴収する仕事をしている男が登場した。というのも、宇宙植民地であるこの街「エッジウォーター」では、墓はすべて宇宙植民地群を所有する企業の所有物なのだ。

この企業が、工場も食料も電気も所有している。さらには、法的な抜け穴があるのか、空気までも牛耳っている。だから墓地使用料を支払わないと、死んでも墓に埋葬してもらえない。伝染病の脅威が飢餓と同じくらい蔓延しているこの街では、かなり深刻な問題である。

そんなわけで、「アウター・ワールド」で初期に挑戦したクエストのひとつは、そこに暮らす人たちに手を貸し、人々がもっているリソースをどう最大限活用すればたまっている支払いを返せるのかを考え、そして死んでもその辺に放っておかれないようにすることだった。

名作のDNAを受け継いだ作品

オブシディアン・エンターテインメントによる最新作の舞台である広大な宇宙植民地群では、無法状態の資本主義が勢威をふるっている。どうやら「宇宙資本主義」は最悪なものだったようだ。

「アウター・ワールド」では、こんな経験ばかりさせられる。「ブラック企業が運営する宇宙帝国」という陰鬱なホラーが銀河を舞台に展開するので、悲劇と喜劇が入り混じった印象的な凄惨さが生まれている。広い宇宙を舞台にしたゲーム世界は美しく、色鮮やかで畏敬の念を起こさせるミステリアスな場所なのだが、とにかく心から気が滅入るのだ。

本作はそんなコントラストから、そして資本主義時代が急速に発展した19世紀の「金ぴか時代」ばりの非常に愚かな経済システムの重荷の下に生きる人たちの苦しみと決意から最高の瞬間を引き出している。ただし、できればこのゲーム世界でのプレイが、ここまで「労働」を要求されるものでなければもっとよかったのに、と思わざるをえない。

「アウター・ワールド」はその様式を、名作と名高い何本かのロールプレイングゲームから受け継いでいる。それもそのはず、オブシディアンが前回開発したRPGは、ベゼスタのゲーム「Fallout 3」の独創的な続編「Fallout: New Vegas」なのだ。

「Fallout 3」は、これまでにつくられたRPGのなかで最も深く、しっかりとしたテーマがあり、ストーリー的にも満足できるゲームとしていまも愛されている作品だ。オブシディアンはそれ以来ずっと、テーマやストーリー設計へのこだわりを受け継いできている。最近のオープンワールドRPGに多い万能型のスーパーヒーローではなく、ゲームの世界において特定の役割を担うという、昔ながらのロールプレイングのスタイルにこだわっているのだ。

「アウター・ワールド」でオブシディアンがRPGに戻ってきたという知らせは、スリリングな展開だった。まさに「わかっている」人たちの仕事が期待できる、と思えたのだ。

まるで買い物リストを消化するような体験

さすがオブシディアンというべきで、本作の刻一刻と状況が変わるシナリオは、素晴らしいのひと言である。これだけ焦点がはっきりしていて、ウィットに富み、薄っぺらさがなく、風刺的で、しかもそれが徹底されているシナリオは、ゲームでは(残念なことに)なかなかお目にかかれない。

大小問わずあらゆるゲーム内の要素が、ゲーム世界のより大きなテーマを強化するため、あるいはこの世界に予想もしなかったような深みを与えるために書かれている。それが、このゲーム独特の生き生きとした、そして筋の通った感じにつながっている。強力なアートディレクションと、探索させることに重点を置いたつくりに統合されることで、「アウター・ワールド」には、ゲームが成功するうえで必要な要素が詰まっていると言える。

それなのに、それなのになぜ、この反資本主義を楽しむゲームをプレイすることが、重労働のように感じられてしまうのだろうか。本作をレヴューする過程で、ある地点から別の地点へと移動し、目的地をクリアし、次にどう進むのか計画を立てながら、何度も自分の目が虚ろになるのを感じていた。まるで買い物リストを消化しているみたいなのだ。

「アウター・ワールド」には、その構造自体に大きな圧倒的な問題がある。本作に多大なる影響を与えている「Fallout」シリーズもそうなのだが、こうしたタイプのゲームの多くがそうであるように、「アウター・ワールド」もクエストがすべてになっている。

メインクエストとサイドクエストがあり、どのタスクにも目的がある。それぞれストーリーを進めたり、お楽しみであったり、ゲーム内に必要なリソースであったりするのだが、それらでプレイの構造がぶつ切りにされてしまうのだ。

単純でありきたりなクエスト

クエスト設計で難しいのが、ゲーム世界のなかをあちこち走り回らされていると感じさせないようにつくることだ。これはストーリーから外れたなとか、目的を達成するきっかけだなとか、感じさせないようにしなければならない。

サプライズの要素を入れたり、キャラクターに深い動機を与えたり、定番のクエストにはありえないような複雑さを設定したりしてうまく設計できれば、ゲーム世界の有機的つながりのなかで、キャラクターが自然に成長していく姿を描くことができる。だが、設計がうまくいっていないクエストは、無頓着なゲームデザイナーに押し付けられた借り物競走のように思えてしまうのだ。

「アウター・ワールド」のクエストは、ほとんどが後者のうまく設計できていないパターンだ。シナリオは素晴らしいのに、クエストが単純でありきたりすぎるため、このゲームの素晴らしいアイデアが見せかけのお飾りになってしまっている。

クエスト設計はあからさますぎてゲームの緊迫感を損なっているし、目標だけが虚しく追求される感じになってしまう。クエストといっても、ダンジョンを通り抜けたり、リソースを集めたり、ある場所から別の場所へ走ったりするだけなのだ。

ゲームが薄っぺらく感じられる理由

クエストのストーリー設定としては、「反乱を起こす」だったり「好きな人をデートに誘いたい仲間を手助けする」だったりするのだが、実際の目的は、この人と話して、これを手に入れ、この敵を殺してください、という感じで、単純すぎて全然面白くない。2世代前のゲームなら許されたかもしれないレヴェルに逆行したようなこの単純さは、いまの時代の、この系統のゲーム開発者から出てきたものとしては残念としか言いようがない。

さらには、クエストの描かれ方に明らかな問題があり、そのせいでゲームがさらに薄っぺらく感じられてしまう。最初のころに出てくる、ある仲間を助けるクエストを例に挙げよう。これはストーリー上は、ほかのタスクと並行しながら数時間かけるべきなのだが、実際にはどこへも行かずに20分で終えることができる。

キャラクターたちは、こちらの行動が道義的にどうなのかと強めに意見してくるかと思えば、これについては何か意見をもっているだろうとこちらが思うことについては奇妙に沈黙する。

こうした手抜かりは、技術的制約が原因である可能性もあり、あまり厳しく批判するのは不公平かもしれない。しかしそうした欠点が、すでに設計から損なわれていたこのゲームの力をさらに失わせ、プレイヤーはゲームがもともと目指していたであろう世界観からたびたび引き離されてしまうのだ。

ゲームデザインの遺物

「アウター・ワールド」は、いまはもうあまりプレイされないタイプのゲームデザインの遺物と言える。「Fallout:New Vegas」は、スマートで痛烈なファーストパーソンゲーム時代の始まりを告げるゲームになるはずだと誰もが思っていたが、そんな時代は訪れなかった。そして、長い間くすぶっていたその熱望に応える最初のゲームが「アウター・ワールド」だ。

本作は、ベセスダ自身がリリースしている最近の「Fallout」シリーズ作品よりは、ずっといいできだ。「Fallout」は、同社のRPGの歴史からどんどん遠ざかってしまっている。

オブシディアンの最新の試みは、その歴史の針を前に進めて、RPGの設計言語を再び取り入れようとしたものだったことは間違いない。しかし、「アウター・ワールド」で過ごす時間はたいてい、望んでいなかった時間のように感じられる。つまり、「もうひとつの仕事」のように思えてしまうのだ。

※『WIRED』によるゲームのレヴュー記事はこちら

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