映画「男はつらいよ」の22年ぶりのシリーズ最新作が27日から、全国で劇場公開される。1969年(昭44)の第1作公開から50年。寅さんは亡くなり、学生運動もベトナム戦争も終わって、沖縄は日本に還ってきた。時代が移り、昭和史の1ページにとじ込まれた「1969年の車寅次郎」を改めて見返すと、人々に愛された国民的映画の別の顔が見えてくる。フリーライターの藤木TDCが分析した。

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観客動員が戦後初めて3億人を割り込むなど、苦境にあった1969年の映画界で、ひとり気を吐いていたのが、高倉健や鶴田浩二による東映のアウトロー路線でした。学生や労働者による反体制的な大衆運動の高まりと、大きな悪に対し、個人で立ち向かう「健さん」の姿がマッチして、60年代の大ヒットシリーズとなっていた。邦画各社は、東映に倣えと、アウトロー路線の作品を手がけ始めた。「男はつらいよ」は、そうした時代に公開されたのです。

松竹は家族映画、文芸映画を得意とする会社ですが、主人公の車寅次郎は、暴力団員ではないものの、テキ屋というやくざ者、暴力的な一面も持つ、アウトロー寄りの存在です。映画の主題歌も「私、生まれも育ちも葛飾・柴又」と、やくざ者の仁義切りで始まります。やくざ映画全盛の時代に合わせて、松竹なりにアウトロー路線を模索した作品と言えるでしょう。

寅次郎の妹、さくらのキャラクターにも、69年という時代性が見えます。60年代はウーマン・リブの時代。東映の藤純子や70年代に登場する池玲子らのやくざ映画、スケバン映画のヒロインが人気となります。さくらも、自らの意思で結婚相手を選び、時には、乱暴者の兄に対しても、はっきりモノを言う女性として描かれる。物陰で泣いてるだけじゃない、ウーマン・リブの時代の自立した女性像が、垣間見えるのです。

しかし、やがて過激な大衆運動が終息し、一億総中流の穏やかで豊かな時代になると、本来、アウトローが主人公の暴力性をはらんだコメディーだった「男はつらいよ」は「ホームドラマ」の色合いを濃くして「人情喜劇」として受け入れられていく。山田洋次監督は、時代や社会の変容を読み取り、作品に反映させる人です。時代とともに作品の味わいを変えていったことが、後年、「国民的」と称されるシリーズへと育っていった理由だと考えています。

◆藤木TDC(ふじき・てぃーディーシー) 1962年(昭37)生まれ、秋田県出身。アダルトビデオや風俗のほか、日本映画、東京の歓楽街について執筆活動を続ける。主な著書に「アウトロー女優の挽歌~スケバン映画とその時代」。