70を過ぎて、いつ死ぬかわからない、だから会いたい人には今会っておくんだ・・
とつい2ヶ月前、大森駅からそのまま入れる東急ホテルのラウンジで会ったときに彼はそういっていた。手押し車を押して現れたのにはビックリした。
EMの信奉者で、EMのお陰で今も生きながらえているんだ、西洋医学の医者からはとうに、見離されているんだ、とも話していた。
40年もの間、糖尿病と闘い、10年前には足を切断すると、医者の脅されてから西洋医学と縁をきり、EMだけで今日まで来たのだ。
昨年12月、私の娘が皮膚病で慶應病院に入院中に、EMの話をきいた。「おだにあきらブログ」でEMが効くよ、と盛んに啓蒙していたのを思い出し、小谷氏に権威の田中先生をご紹介していただいた。娘はEMを飲み始めてから驚異的といってよいほど回復している。もう普通人並みかそれ以上の食欲がある。
そういうご縁がある小谷氏が突然なくなった。20日午前中に告別式を終え、大森の自宅に帰ったところを奥様と電話でお話することが出来た。
以下、奥様が最後の様子を語ってくれた。
「16日の朝でした。昨夜 明日はお医者さまにゆきましようね、といっていたんです。朝になり、パソコンの前にいつものように座ったままでしたから、声をかけたのですけど、返事がありません。行って肩をゆすったのですけど、返事がありません。
それでビックリして救急車を呼びましたが、もうその時は息がありませんでした。
何が原因かはわかりません。座ったままの大往生でした。
本人はいつも言っていました。俺が死んでも、連絡はするな、と。
だから、こちらからは親族以外は誰にも知らせなかったのです。ブログが停まったままになっている、どうしたんですか・・との問い合わせの電話が何本かはありました。そのお方には、事実をしらせました。ですから、東京放送も知らないと思います」
20日家族だけの密葬で、目下、そのほかの予定はない。
小谷氏が逗子市によせる並々ならぬ深い愛着と諌言はブログでよく知られていた。
逗子市にはほかに見るべき市政に関するブログがない。
逗子市の市民は大きな情報発信のツールを失ったことになる。
大変惜しい。享年75歳。
小谷様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 合掌。
●本人のバイオグラフイです。本人のブログから。
昭和11年 中国(旧満州国 大連市 生まれ)
昭和34年 慶応義塾大学法学部法律学科卒 (学生時代 体育会庭球部選手として活躍)
同年4月 ㈱東京放送(TBS)入社 30年在職 その間、NHKから野村泰治、森本毅郎、草野仁ら、花形アナウンサーを引き抜き、TBSのヘッドハンターとなる。スポーツでは日本で最初のプロテニス公式戦「セイコー スパーテニス」の招聘を実現、陰の仕掛け人を務める。
平成元年 TBS退職(在職中 スポーツ部、事業部、営業局、経営企画部等の各専任部長を歴任)
国務大臣環境庁長官秘書官に就任
平成2年 (有)ヒューマン アセット ネットワーク代表取締役・プロデューサー
平成10年 逗子市議会議員に当選 教育民生常任委員長
平成12年 建設環境常任委員長
平成13年 議会運営委員会委員長 議会改革協議会会長
平成14年 逗子市議会議員選挙 落選
以降 「おだにあきらブログ」で逗子市政に関して市民の立場から発言をしていた。
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鎌倉のホテルメトロポリタン建設現場のタワークレーン。
『七十過ぎて、いつ死ぬかわからない。だから・・・』と謂う一言、気に入った。
昭和11年生まれ、昭和34年、慶應義塾大學卒業とは吾と同年。
一点、本人のバイオグラフ(旧満州国 大連市生まれ)と謂うところが、ちと気になる。
大連市は大日本帝國が帝政露西亜からポーツマス條約で支那清朝から租借権を引き継いだ「関東洲」の中の「大連市」。 満洲國成立後も国際的statusに変更なく、関東洲大連市であって、満州國の一部ではない。 蘇聯が開戦と同時に 落下傘部隊を降下させて大連をいち早く占領した理由も その辺にあり。
TBSの大先輩であり、「北帰行」の作詞者である宇田 博さんに その辺の蘊蓄を聞いて欲しかったなー。
露西亞皇帝ニコライ二世は義和團による北清事變収束後も滿洲の荒野に軍隊を駐屯、西太后に強要して遼東半島を租借。青泥圭口を「DALINI」と改称して都市・港湾を建設し、
旅順に軍港と要塞を建設。
明治38年、ポーツマス條約で遼東半島の租借権を継承した日本はダーリニーを「大連」と改称し、關東洲大連市として 關東都督府・關東廳により民政を施行。
滿洲國成立後も行政機構に変更を加えず。
昭和二十年八月十五日以降も、蘇聯軍が戰車を南下させたのは 租借地遼東半島の失地回復が名分であった。
蒋介石率いる國民政府軍が滿洲へ進駐後も、昭和二十四年十月一日 中華人民共和國成立後も關東洲の軍事占領を継続。 蘇聯軍が大連から撤退を開始するのは、1950年、中ソ友好同盟相互援助條約が締結されて以降の事である。
中華人民共和国政府としては失地回復後も「關東洲」「大連市」と謂う名稱には屈辱があり 1951年以降、長らく「旅大市」の呼稱を使って来たが、1880年(光緒帝六年)の公文書に「大連灣」の呼稱を見つけ出し、1981年に至り「遼寧省大連市」の名前を復活。
旅順が解放區として外國人に一般開放されたのは 実に2009年3月20日の事である。
旅順高校第一期生の宇田博による 解放前の旅順決死突入ルポルタージュはスリル、迫力満点の旅行記である。
茨城県 結城市議会議員の立川と申します。
小谷章さんに指導を頂いていたものです。
私のブログにも、
私が小谷さんにお世話になったことを
お礼をこめて書いたのですが、
小谷さんの訃報に関する記事を
リンクさせて頂きたく、宜しくお願いします。
http://tacho.blog52.fc2.com/
市行政の批判等に止まらず、最近では、市議会議員のスキャンダルを知らしめ、特定の市民による条例違反の開発について警鐘を鳴らし、当該市民に対する市議約2名の口利きを問題視するなど、多岐にわたる情報を提供なさっていらっしゃいました。
よりよいまちづくりに向けて市民が自発的に行動することを、まさに命を懸けて教えてくださいました。心から感謝しております。