↑ 上記の本に収録されているヤン・エルスターの「酸っぱい葡萄:功利主義と、欲求の源泉」を読んだのでメモを残す。実は以前にもエルスターの単著の方の『酸っぱい葡萄』を図書館で借りていた*1。だが、内容が難しくて途中の読むのを諦めてしまった。今回も途中から体調不良になったこともあって、ちゃんと理解できているかどうかは自信がない。でもまあせっかく読んだので備忘録的にメモを残すことにした。
・いちばん面白く思えたのは、「適応的選好形成」と「経過的性格形成」の区別をしているところ。これに関しては、訳者による単著の方の「あとがき」から引用する。
適応的選好形成とは、大まかに言えば、実行可能な選択肢に応じて選好が変化すること、とりわけ、実行可能な選択肢が貧弱である場合に、そこからでも十分な満足を得られるように選好を切り詰めてしまうことである。…(略)…
適応的選好形成の最重要の特質は、そこにおいては「自律」と「厚生」が衝突するということにある。というのも、適応的な選好は、実行可能性によって非意図的な形で形成されたという点で非自律的な選好であるが、実行可能性に応じた選好を持つことによってその人が達成する厚生は高まっているからである。したがって、適応からの解放が生じた場合には、自律は高まるが厚生は下がってしまうかもしれない。このトレード・オフが重要なポイントである。
エルスターは本書において、適応的選好形成と「計画的性格形成」との区別を重視する。計画的性格形成においても適応的選好形成と同様に、選択肢集合に応じた選好の変形が生じ、それによって厚生が上昇している。しかし計画的性格形成の場合には、その変形が自律的なものとみなされうるので、倫理学的に問題はない。あとがきたちよみ/『酸っぱい葡萄 合理性の転覆について』 - けいそうビブリオフィル
論文のなかで、エルスターは計画的性格形成を「ストア派、仏教徒、あるいはスピノザ派の哲学者」が擁護する「欲求の意図的な変形」としている(p.310)。なんでこれが面白く思えたかというと、私自身が最近はストア派に関する本をちらほら読んでいて、まさに自分自身の欲求を意図的に変形しようと思っているところだからだ*2。ストア派を持ち出さなくても、計画的性格形成は生活の知恵として、多くの人々が意識的に行なっていることかもしれない。一方で、適応的選好形成も多かれ少なかれ多くの人々に生じていることだろう。適応的選好形成と計画的性格形成との区別をきちんと付けようとすることや、それと同時に「適応的選好形成と計画的性格形成との区別を付けることはなかなか難しい」と認識することは、たしかに重要であるように思われる。
また、産業革命などによる社会の生産性が上がって人々の生活レベルが向上したことで人々が物事に対して抱く欲求も増えてしまい、むしろ生活レベルが上がる以前よりも欲求不満が増してしまったのだとすれば、人々の構成水準は上がったと言えるのか?…という、経済学や心理学でもよく注目される問題についても検討されている。
・この論文の議論のポイントは、功利主義理論は「正義の理論あるいは社会選択の理論」として適切であるのか?ということであり、適応的選好形成の問題をふまえると功利主義は「行動の指針であるべき」と「特定のケースにおいて我々の倫理的直感を大きく裏切るということがない」という二つの基準を満たしていないからダメ、という結論になる(p.325-326)。厳密に言うと、序数的な功利主義は前者の基準をもたさず、基数的な功利主義は後者の基準を満たさないということだ。*3
そして、正義の理論や社会選択の理論には「後方視アプローチ」、すなわち「過去についての情報」を取得して「現実の選好の歴史を調べること」の重要性が強調される(p.331-332)。
私としては、そもそも「行動の指針」と「直観」の両方を満たす社会的な規範理論がほんとうにあり得るのか、という疑問がある。このような批判に対する功利主義側からのよくある反論は「直観というものは育った社会の文化や進化的適応に影響されてしまうそもそも恣意的なものであり、規範理論の是非の判断に直感を持ち出すこと自体が間違っている」という、直観の重要性自体を否定してしまう論法だろう。しかし、そのような反論はエルスターも想定していて、「…私は正義の理論がどうしたらまるっきり直観抜きでやっていくことができるのかわからない」と返している(p.326)。このエルスターの返答もまっとうなものだろう。とはいえ、直観に適する社会的な規範理論は往々にして「行動の指針」としては曖昧で役に立たないものになってしまうことも否めない。
個人的には、最近は「正義の理論あるいは社会選択の理論」としての倫理学理論よりも、より個人的な選択なり実存的な問題なりを考えるための理論としての倫理学理論に興味が移っているところだ。そして、「適応的選好形成」と「経過的性格形成」の区別の問題や欲求不満の問題は、ミクロな倫理学理論においても色々と重要になってきそうなところだ。たとえば、職場における昇進と欲求不満の関係に関する以下の一文なんかはある種の人々の図星を付いているかもしれない。
…欲求不満が生じるのは、昇進が十分にありふれていて、そして十分に普遍的な根拠をもって決定され、したがって適応的選好からの解放と私が呼ぶところのものが起こる時である…
(p.312)
「酸っぱい葡萄」における議論を個人単位の倫理に活かすとすれば、たとえば「このことを欲求することは自分を不幸にするだけだから、このことに対する欲求は捨てよう」と自分が下した判断が、ほんとうに自律的・積極的に下した判断なのか、それとも環境や状況的な要因からしぶしぶ下した判断なのか、という点の区別を意識する習慣を身に付けるようにする、などになるだろうか。
*1:
*2:
読書メモ:『良き人生について - ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』 - 道徳的動物日記 や
ストア哲学の知恵を現代の生活に活かす(読書メモ:『迷いを断つためのストア哲学』) - 道徳的動物日記 など。
*3:序数と基数については以下の通り。
効用を測定する方法としては、基数的効用(Cardinal Utility)と序数的効用(Ordinal Utility)とがある。前者が効用の大きさを実数値として測定可能であるとするのに対して、後者は効用を数値として表すことは出来ないが順序付けは可能であるとする