どうも、『パプリカ』監督の今 敏です。
先のテストで無事に書き込めたようなので、大作を投稿します。
『パプリカ』宣伝の関係者から「公式ブログに監督も登場せよ、その際には劇場に足を運んでくれるありがたき観客、とりわけありがたいリピーターというお客様に何か『パプリカ』を観賞する上でヒントになるようなものを紹介せよ」という指令を受けたのでここに「7つの手引き」と題して、その名の通り7回に分けて映画を順に追いながら映像の背後に隠してあることなどを御紹介して行きたいと思います。
プロモーション活動の媒体取材などにおいては「なるべく先入観を持たずに映画を御覧いただきたい」とか「お客さんそれぞれに解釈を楽しんで欲しい」などと口にしておきながら、監督自ら種明かしめいたことをすることに矛盾を感じますが、なあに、世の中は矛盾に満ちあふれておりますので、ここで私が一つや二つの矛盾を積みましたところで何ほどのことでありましょう。
矛盾があってこそ良し、と。
そうは言うものの、いわば「ネタバレ」には間違いないので『パプリカ』をまだ御覧になっていない方はなるべくお読みにならない方が宜しいかと思います。
前置きはそのくらいにして、では早速第一の手引きの御紹介に移りたいと思います。
●第一の手引き/「無意識を照らすもの」
映画『パプリカ』は、暗闇にスポットライトが差してオモチャの車が現れる……というカットから始まります。
夢を題材にしている映画で暗闇というと、これはもう「無意識の象徴」以外にないといっても過言ではありますまい……おっといけない。
だからといって「暗闇=無意識の象徴」だとか「サーカスや劇場=夢そのものの象徴」であるとか、「道化師=トリックスター」「蝶=魂」「ブランコ乗り=男女の結合」「演技する動物=根元的な本能の表象」(参考『夢の世界』D・フォンタナ)……といった一対一の対応で考えたりなどなさらぬようご注意下さい。
とはいえ、『パプリカ』を「夢の中のサーカス」というシーンから始めたのは、この『夢の世界』という本でも、
「夢の世界とは劇場のようなものである。その舞台において、魔法のような変容が起こり、イメージがイマジネーションの深淵から湧き上がり、人生のドラマが繰り広げられるのだ」(P134)
と書かれているように、夢を題材とする映画に相応しいファーストシーンだと考えたからです。というか、この本を読んでいて思いついたシーンだったかもしれません(笑)
さらに引用を続けますと、
「劇場やサーカスが(夢の)舞台として用いられた場合、その夢は「大きな夢」を思わせるような独特の鮮明さと活気で満ちあふれる」
とありまして、ここに言われる「大きな夢」とは「集合的無意識から発生する夢」のことで、
「ユングの言う「人類の巨大な歴史的宝庫」、すなわち神話的世界の入口」(同/P30)
である、と。
『パプリカ』の映画化にあたってこんな文章に出会えば、当然採用したくなるのが人情というものでしょう。
さて、本篇の映像に戻りまして、オープニングカットの「暗闇からスポットライトの中に現れるオモチャの車」のイメージについて。
暗闇は無意識を象徴していると先に記しましたが、このカットではザワザワとした人の声(開演を待つ観客の声)も入っており、「暗闇で蠢く何だか分からないもの」という意味で尚のこと無意識的な感じがするのではないかと思います。
この暗闇にサッと差すスポットライト。この明るみがつまりは夢にあたるもの、というイメージです。無意識のすべてなど人間の力でつまびらかに出来るものではありませんが、その広大な無意識にスポットライト程度に差した明るみが夢であり、そのわずかな明るい面積から深遠な無意識を伺い覗くことが出来る、という可憐な乙女の願いがこめられて……願いじゃねぇよ、乙女って何だよ、といったツッコミは無しにしていただくとして、ともかくそうしたイメージが重ね合わされております。
で。この夢というスポットライトの中に現れる「オモチャの小さな車」が、夢に現れてくる者や物にあたるわけでして、「その中には見た目からだけでは伺いしれないほど大きなものが入っている」という意味を込めて、「オモチャの車の中から無理矢理収まっていたピエロが現れる」としてみました。
我々が普段眠っているときに見る夢、そこに現れる人や物は、見た目のままの直接的な意味合いとは限らず、その背後に無意識の豊饒なイメージが隠されている、ということを少しでも表してみたかったわけです。
ただ「オモチャの車の中から無理矢理収まっていたピエロが現れる」というアイディアは別に私が考えついたものではなく、参考資料として見た映画『地上最大のショウ』(THE GREATEST SHOW ON EARTH/1952、米/監督 セシル・B・デミル)のサーカスシーンでそういう芸が紹介されていて、「おお!これだ」と思った次第です。
発想の順序としては次のような感じです。
『パプリカ』冒頭はサーカスのシーンにしたい
↓
しかしファーストシーンは粉川の夢だから映画にまつわるイメージでないとならない
↓
サーカスの映画でメジャーといえば『地上最大のショウ』だ
↓
大昔に一度見ただけだからちゃんと見てみよう
↓
おお!サーカスの芸がいっぱいで参考になるぞ!とりわけ小さな車から道化が出てくるってのは使えるではないか!
とまあ、いつもそんな感じでアイディアを拾ってきたりします。
余談ですが、冒頭の2カットはシナリオに記述はなく、監督がコンテを描く際につけ加えたものでした。そういうことをしているから予定外に尺が伸びてしまうんです。少し反省。でもいいアイディアはすぐに採用したくなるのが演出家の性です。
「暗闇に差すスポットライト」というイメージは、ファーストシーンから比較的近いところでもう一度使われています。『パプリカ』のタイトル文字が出た直後、軽快にして心地よい平沢さんの曲「媒介野」に乗って、パプリカがヴェスパで走って行くカットです。
先に記した冒頭のカットのイメージを分かっていただけると、こちらのカットのイメージも概ね想像が付くのではないかと思います。
じゃ、そういうことで。
不親切なのは本篇だけでたくさんだ、というツッコミは無しにしていただくとして、ちゃんと親切にこちらのカットの意味も御紹介いたします。
冒頭では、「暗闇に差すスポットライト=夢」ということでしたが、こちらでは「暗闇を差すヘッドライトの光=科学」であるとお考えいただけるとお分かりいただけると思います。
暗闇から高速道路の路面が手前に流れてくるところへ、小さなヘッドライトの光を灯すバイクで走って行く、ということは、「科学の力(つまりはDCミニ)を借りて無意識の世界に切り込んで行くパプリカ」を象徴する、と考えたわけです。でもその光は暗闇(=無意識)にくらべて実に小さな物だよ、と。
そういうイメージを重ねていたので、このカットでは流れる路面以外は見えません。街頭であるとか、道路外にある建物の光とかを描いてしまうと、暗闇というイメージが弱くなってしまうためで、決して作業的に楽をしたわけではありません。
その証拠に、この「流れる高速道路」(3Dのデータ)は後に使い回されていますが、こちらの方ではちゃんと道路の奥に建物が幾重にも描かれております。作品中盤あたり、粉川の夢にパレードが混じり込んできたシーンの直後、赤い車に乗った島所長が携帯電話で話している2カット。ここではビルが描かれています。
ね? 楽をしたわけじゃないんですよ。
でも高速道路のデータは使い回しで楽をしているじゃないか、というツッコミは無しにしておいてください。
ということで、別に監督が解説しなくても映像を見れば分かる範囲のことばかりだったかもしれませんが、これで「第一の手引き」を終わります。
「第二の手引き」がいつになるかって?
それは私にも分かりません。では。