君へ、
つい最近まで、南米で3ヶ月ほどデータエンジニアとして仕事していた。Tシャツで帰ってきて震えた。寒くて。
僕にとって2019年は、あんまりいろんなことが無かったくせに、いや糞ヒマだったからこそ、いろいろ考えることが多い1年だったと思う。最後の3ヶ月以外は、基本的にヒマだった。
過去に僕はベルリンで1年ほど働いていたこと*1があり、まあ結論からいうと音を上げて、日本に逃げ帰ってきた。何がそんなにしんどかったかというと、ベルリンは十分英語で生活できるとはいえ、ドイツ語関連のトラブルシューティングに付き合ってくれるドイツ人の友人を作ることができなかったというのが大きいが、そういう人間関係を構築することが出来なかったことも含めて、当時所属していた会社の上司および同僚と上手くいかなかったのが致命的だった。
とくに、エンジニアの同僚氏、つまり君は、まったく許せなかった。
あれからもう3年も経ち、おもしろいことに、いやぜんぜんおもしろくはないんだけど、最近また同じような不満を、今の職場のある同僚に抱いた。怒りではない。不満、というか嫌悪感だろうか。
何がそんなに嫌だったか
彼、その同僚は躊躇も無く「あなたは私より技術力があるのだから私を教育してほしい」と言った。
3年越しに「君」に再会したかのような感覚だった。僕はベルリンでの出来事がフラッシュバックして、一瞬混乱した。彼は君ではないんだけど、同じようなことを言った。
彼は、僕と同じポジションであり、僕と同じぐらい給料をもらっており、なんなら僕より先に昇進するだのという噂を耳にしており、客には同じ工数で握っており、そんな中で「教育してほしい」とは何事だろうかという憤りがあった。
OKわかった、じゃあこの件はこういう技術調査をして、こういうアウトプットを期待しています。明後日終わりぐらいまでにできるか?というと「それはやりたくない」と言う。
またある時は、ある実装のアイデアを僕に求めて僕がそれを答えると「自分にはできない」と言ってナイーブなソリューションを選んだ。
おそらく僕は、彼に対して、
- 技術者として教えてもらうこと前提である
- チームのためでも自分の興味分野以外は拒否する
- 技術的な課題を自力で解決できることを目指していない
というような点に不満を感じていたと思う。
僕は君にどうしてほしかったか
そしてこれはまさに、ベルリンにいるとき、君に対して抱いていた不満だったと思う。君は知らなかっただろうけど。
僕自身も、この不満をちゃんと言語化して彼に(君に)共有してはいなかったけれど、僕は君に以下のようなことを知ってほしかった。
- 技術者としてやっていくなら、技術の問題に自分で取り組まねばならない
- チームの成功のために、やらねばならないことはやらねばならない
- 多少負荷のあるタスクに取り組まないと技術力は身につかない
しかし、僕が3年前にベルリンで君に思ったことと同じことが、2019年にも起きるというのは、あまりにも偶然が過ぎるとも思った。僕は、同じような属性の、同じような特性の、同じように問題を持つ人物に、同じような境遇で出会ったのだろうか。
説明変数 "俺"
情報量規準*2っていう考え方があって、なにか観測される事象があってそれを説明するもっともらしい変数が、乱暴にいえば「少ないほうがいい」っていうやつで。
僕が経験した2つの事柄は、ともに君と彼に問題があったから引き起こされたのではなく、ある共通した1つの変数によって引き起こされたと考えるほうが合点がいくんですよ。
そう、この場合、僕です。僕に問題があったと考えるほうが、説明がつくんです。
ハンマーで頭を殴られたような衝撃、っていうのはこういうのを言う。
君は僕にどうしてほしかっただろうか
今にして思い出すと、僕が君にしてほしかったことも、君が僕にしてほしかったことも、僕たちは意見交換のひとつもしなかった。もちろん、それはあのベルリンでの目まぐるしい激務の中で時間がとれなかったというのもあるけれど、ちょっと5分コーヒータイムを一緒にするぐらいはできたはずだ。
なのに、僕は、君が僕にどうしてほしかったかなんて考えたことも無かった。今となっては想像するしかできないけれど、
- 「教育してほしい」というのは、決して「あなたのようになりたい」ではない
- 自分の目指す方向がチームの成功に沿うようにマネジメントしてほしい。逆ではない
- あなたが学んだのと同じ方法で自分が技術者になれるわけではない
- あなたは私を悪者のように思っている
と君は思っていたんじゃないかと思う。
僕はどうするべきだったか
幸いなことに、今のチームでは、僕にそれを気づかせてくれる人も仕組みもあって、僕があの時どうするべきだったかなんとなく自分の中の答えはある。あの時、君が僕にどうしてほしかったかを考えると、きっと僕があの時するべきだったのは、一人で躍起になってすべての火を消して見せるのではなく、
- どうなっていきたいかをもっと相談にのるべきだった
- 僕も、僕が、どうなっていきたいかもっと共有するべきだった
- そういうメンタリングも含めてやっています、という握りをすべきだった
- そういう不和も含めて、もっとチームと話すべきだった
つまり、無能は僕だったのだ。一人で勝手に大変ぶって、チームに悪者をつくりあげて、それを解決することで自分がいかに貢献しているかを見せびらかしていたのだと思う。君が僕を揶揄した「heroism」というのは、あながち間違いではなかった。
本当に無能な同僚と働いていたのは、他でもない、君だった。
無能な同僚と働くということ
「無能な同僚と働いている」と感じていたのは、僕が無能だったからだ。
仕事はひとりでやっているのではない。特に、僕らがやるようなことは、ひとりではできない、ひとりではやっていない。十人十色、千差万別の野心の集合体としてチームが存在し、それぞれの野心のベクトルの和が「チームの成功」に最大限寄与するようにアレンジするのが、僕のするべき「マネジメント」であったはずだ。
責任感という都合の良い言葉は、他人からしてみれば独り善がりのオナニーにすぎない。責任感を持ってやるのは良いが、他人に「責任感」を要求するのは、自分の行動価値観を都合よく押し付けているに過ぎない。
人は必ずしも「チームの成功」を第一の目的として働いているのではない。人が皆「チームの成功」を第一として働いている、というのはただの思い込み、あるいは願望である。であるがゆえに、「責任感を持つべき」というのは、あるい一つの価値観から導き出された「チーム成功への貢献の一つの解」ではあろうが、自分の考える「責任感」とかいう曖昧なものがあたかも共通の、絶対の動機になりうると履き違えてはいけない。
もし僕がまた「無能な同僚と働いている」と感じることがあれば、本当に無能なのは他の誰でもなく僕であり、あの時から僕は何も進歩していないということになるだろう。
もう君に会うことは無いだろう。
会っても僕は君に挨拶なんてしない。ただ、君のような人にまた出会ったら、きっと次はもっと上手くやれると思う。それは間違いなく君のおかげであり、僕はベルリンでそれに気づけていなかった。
一言、君に伝えるとすれば、ごめん、と言いたい。
自戒を込めて、WETな備忘録として
雑感
- 今まで、行きあたりばったりで生きてきたツケが、2019年に回ってきた
- 2020年は、もっと計画的・戦略的に動きたいと思う
- 中長期的になにか考えるの苦手
- 良いお年を
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