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「良い子育ての方法」に逃げる親の姿
このエピソードだけを聞くと「中途半端に叱ってはいけない」だとか「母親も反発するべきだ」などと聞こえてきそうだが、果たしてそれらの行動をやってみせたところでこの息子は本当に救われたのだろうか?
別な家庭では娘が窃盗したからと、その行動に怒った父親がいた。父親は娘に向かって怒鳴り声をあげるが娘も負けじと、親の欠点を次々と批判し始めた。そのことに父親はついに娘を殴ってみせ、娘も父親に暴力で返すなど、そのことがきっかけで家庭内暴力が始まった家も存在する。
「子どもがこうしてきたらこう返せば良い。」
「子どもは叱らないで、褒めて育てれば良い。」
最近よく見られるハウツー式の子育ての危険性はこのような部分があるということを、私の方から警告しておかねばならない。つまり自分が他者から聞いた情報で、良いとされる子育て方法を自身の子どもに当てはめようとする。子どもの方はどうだろうか?何かしら親に対してその子育てがどうとかよりももっと根源的な何かを発信しているのではないのだろうか?親の方はその子どもの発するサインを、何とかして受信していかねばならないのだ。
また「不良の子ども」について話をすると、大体はその「不良の子ども」が行う問題行動そのもの対して焦点が当てられる。
「なぜこのようになってしまったのか?」
「どのように育てていれば防げたのだろうか?」
実際は母親や父親など、その他様々な生き方などの要因、環境などが重なって目に見える問題として現れてくることが多いのだが。このことを知っている人は情報社会であるにも関わらず非常に少ない。
また、こうした問題というのは悩みが起こらないように、何事もなく育ってくれるというのは限りなく難しい話である。我々は問題を予防することだけを認識するあまり、実際に起きてからの対処方法を考える力が非常に乏しいのではないだろうか?そのことが、子どもから強い批判的なメッセージとして、行動を以て伝えようとしているのではないだろうか?
今では悲しいことに、ネットやSNSの情報なんかを見ていたりすると「非行を行った側」が何かと一方的に非難されやすく感じる。このことはどちらが悪いだとか簡単に決めつけられるものではないことは少し頭を休ませて考えてみればすぐにわかることだろう。それなのに学校などで暴力を振るっている、主にいじめている側に対して「住所、名前を特定しよう。」「いじめられた方が学校を来なくなるのではなく、いじめる方が学校に来ないでください。」などと素人じみた、ましてや名誉毀損、犯罪じみた行動を自分のみならず周囲に向かっても助長しようとする姿があるのだから、誠に呆れるばかりである。
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