TATENOKAI
文化防衛論
著:三島由紀夫
私が組織した「楯の会」は、会員が百名に満たない、そして武器も持たない、世界で一等小さな軍隊である。毎年補充しながら、百名でとどめておくつもりであるから、私はまづ百人隊長以上に出世することはあるまい。
無給である。しかし夏冬各一着の制服制帽と、戦闘服と軍靴が支給される。この軍服はド・ゴールの軍服をデザインした唯一の日本人デザイナー五十嵐九十九氏のデザインに成る道ゆく人が目を見張るほど派手なものだ。
「楯の会」は白絹地に赤で徽章を染め抜いた簡素な旗を持つてゐる。徽章は私がデザインした。日本の古い兜を二種類組み合はせたものだ。同じしるしは、制帽にも、又、釦にもついてゐる。 「楯の会」の会員になるには、大学生であることが望ましい。理由は、若くて、暇があるからで、それだけのことだ。社会人は勤めを勝手に一ヶ月休むことはできまい。それといふのも、会員になるには、陸上自衛隊で一ヶ月の軍事訓練を受け、その一ヶ月を落伍せずに勤め上げることが要求されるからである。
会員になると、月一回の例会に出、又十名一単位の班の活動に従事したりした末、一年後にはふたたび自衛隊に短期間入つて、Refresher Courseを受ける。今、会員は十一月三日に国立劇場の屋上で行はれるパレードの練習に忙しい。
「楯の会」はつねにStand byの軍隊である。いつLet's goになるかわからない。永久にLet's goは来ないかもしれない。しかし明日にも来るかもしれない。
それまで「楯の会」は、表立つて何もしない。街頭のDemonstrationもやらない。プラカードも持たない。モロトフ・カクテルも投げない。石も投げない。何かへの反対運動もやらない。講演会もひらかない。最後のギリギリの戦ひ以外の何ものにも参加しない。
それは、武器なき、鍛へ上げられた筋肉を持つた、世界最小の、怠け者の、精神的な軍隊である。人々はわれわれを「玩具の兵隊さん」と呼んで嗤つてゐる。
訓練中の三島由紀夫隊長
百人隊長の私は、会員たちと自衛隊に行つてゐる間こそ、朝六時の起床喇叭と共に起き、 あるひは朝三時の非常呼集で起されて、会員たちと共に五キロの駈足をするけれど、ふだんは甚だしい寝坊で、午後一時に起きてそれから朝食を摂る。
それといふのも、市民生活における私は、いつ果てるともしれぬ長い長い小説を書いてゐるからである。深夜、私は言葉を一つ一つ選び、薬剤師のやうに、微妙な秤にかけた末、調合してゐる。朝になつてやつと寝床に入ることができるのだ。
私は、私の「楯の会」の運動と、私の文学の質との間に、たえず均衝が保たれねばならぬことを知つてゐる。もし均衝が破れたら、「楯の会」が芸術家の道楽に堕するか、それとも私が政治家になつてしまふか、どちらかだ。言葉の微妙な機能を知れば知るほど、私は芸術家といふものが、現実に対して、猫のやうに絶対に無責任であることを知るにいたつた。芸術家としての私にとつては、世界が融けたアイスクリームのやうに融けてしまはうと、別に私の責任ではない。融けない前のアイスクリームの美味は私がつけたのだ。・・・・・・しかし私は、「楯の会」については全責任を負うてゐる。それは自分で引受けたものだ。会員が皆死んで私が生き残ることはないだらう。
私は又、この小さな運動をはじめてみて、運動のモラルは金に帰着することを知つた。「楯の会」について、私は誰からも一銭も補助を受けたことはない。資金はすべて私の印税から出てゐる。百名以上に会員をふやせない経済上の理由はそこにある。
今月五月、たまたま私はRadical Leftistの学生たちの集会へ呼ばれて、そこでスリリングな論争をやつた。それが本になり、ベストセラーになつた。論争の相手の学生たちと私とは、印税を折半にする約束をした。そこで彼らは、多分ヘルメットとモロトフ・カクテルを買ひ、私は「楯の会」の夏服を誂へた。みんなはこれを、わるくない取引だと言つてゐる。
森田必勝学生長
私は日本の戦後の偽善にあきあきしてゐた。私は決して平和主義を偽善だとは云はないが、日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使はれた結果、日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になつた国はないと信じてゐる。この国でもつとも危険のない、人に尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であることであつた。それ自体としては、別に非難すべきことではない。しかし、かうして知識人のconformityが極まるにつれ、私は知識人とは、あらゆるconformityに疑問を抱いて、むしろ危険な生き方をするべき者ではないかと考へた。一方、知識人たち、サロン・ソシアリストたちの社会的影響力は、ばかばかしい形にひろがつた。母親たちは子供に兵器の玩具を与へるなと叫び、小学校では、列を作つて番号をかけるのは軍国主義的だといふので、子供たちはぶらぶらと国会議員のやうに集合するのだつた。
それならお前は知識人として、言論による運動をすればよいではないか、と或る人は言ふであらう。しかし私は文士として、日本ではあらゆる言葉が軽くなり、プラスチックの大理石のやうに半透明の贋物になり、一つの概念が別の概念を隠すために用ひられ、どこへでも逃げ隠れのできるアリバイとして使はれるやうになつたのを、いやといふほど見てきた。あらゆる言葉には偽善がしみ入つてゐた、ピックルスに酢がしみ込むやうに。文士として私の信ずる言葉は、文学作品の中の、完全無欠な仮構の中の言葉だけであり、前にも述べたやうに、私は文学といふものが、戦ひや責任と一切無縁な世界だと信ずる者だ。これは日本文学のうち、優雅の伝統を特に私が愛するからであらう。行動のための言葉がすべて汚れてしまつたとすれば、もう一つの日本の伝統、尚武とサムラヒの伝統を復活するには、言葉なしで、無言で、あらゆる誤解を甘受して行動しなければならぬ。Self-justificationは卑しい、といふサムラヒ的な考へが、私の中にはもともとひそんでゐた。
私は或る内面的な力に押されて、剣道をはじめた。もう十三年もつづけてゐる。竹の刀を使ふこの武士の模擬行動から言葉を介さずに、私は古い武士の魂のよみがへりを感じた。
経済的繁栄と共に、日本人の大半は商人になり、武士は衰へ死んでゐた。自分の信念を守るために命を賭けるといふ考へは、Old-fashionedになつてゐた。思想は身の安全を保証してくれるお守りのやうなものになつてゐた。思想を守るには命を賭けねばならぬ、といふことに知識人たちがやつと気付いたのは、(気付いたところですでに遅かつたが)、自分たちの大人しい追随者だと思つてゐた学生たちが俄かに怖ろしい暴力をふるつて立向つて来てからであつた。
盾の会のパレード
今の学生の叛乱は、ソクラテスらのソフィストが若者をアゴラに閉ぢ込めたため、アゴラ自体が叛乱を起した、といふ感じがする。しかし私は、若者はギュムナシオーンとアゴラを半ばづつ往復しなければならぬと信ずる者であり、学生ばかりでなく、あらゆる知識人がさうすべきだ、と考へる者だ。言論を以て言論を守るとは、方法上の矛盾であり、思想を守るのは自らの肉体と武技を以てすべきだ、と考へる者だ。
かうして私は自然に、軍事学上の「間接侵略」といふ観念に到達したのである。間接侵略とは、表面的には外国勢力に操られた国内のイデオロギー戦のことだが、本質的には、(少なくとも日本にとつては)日本といふ国のIdentityを犯さうとする者と、守らうとする者の戦ひだと解せられる。しかもそれは複雑微妙な様相を持ち、時にはナショナリズムの仮面をかぶつた人民戦争を惹き起し、正規軍に対する不正規軍の戦ひになる。 ところで日本では、十九世紀の近代化以来、不正規軍といふ考へが完全に消失し、正規軍思想が軍の主流を占め、この伝統は戦後の自衛隊にまで及んでゐる。日本人は十九世紀以来、民兵の構想を持つたことがなく、あの第二次世界大戦に於てすら、国民義勇兵法案が議会を通過したのは降伏わづか二ヶ月前であつた。日本人は不正規戦といふ二十世紀の新らしい戦争形態に対して、ほとんど正規戦の戦術しか持たなかつた。
篠山紀信氏撮影の盾の会制服集合写真
しかし私の民兵の構想は、話をする人毎に嗤はれた。日本ではそんなものはできつこないといふのである。そこで私は自分一人で作つてみせると広言した。それが「楯の会」の起りである。
一九六七年春、四十二歳の私は、特に私のために二ヶ月の自衛隊体験入隊を許してもらつて、士官候補生として陸上自衛隊に入隊した。仲間はみな二十二、三歳の若者だつた。かれらと共に、私はできるだけ同じ条件で、駈け、歩き、レインジャー訓練まで受けた。これは私にとつてかなり辛い体験だつたが、どうにかやり抜いた。
四十二歳の男にできることが、二十歳の若者にできない筈はない。私は自分の体験から割り出して、全く軍事訓練を受けたことがない若者が、一ヶ月でどうやら小隊指揮ができるやうになるための、合理的なレッスン・プランを専門家を招いて半年にわたつて研究し、完成した。
訓練に集まった隊員たち
一九六七年春、最初の実験として、二十数名の学生を率ゐて、富士の裾野の丘営へゆき、一ヶ月の訓練をはじめたときには、軍の人たちは甚だ懐疑的だつた。戦後の教育で、規律的なこと、肉体的に辛いことを一切避けてきた青年たちが、一ヶ月もこんなギューギュー詰めの訓練に耐へられるわけはないと思つてゐたのである。
ところが彼らはちやんとこれをやりとげ、四十五キロの行軍のあげく、二キロ駈けつづけ、陣地攻撃を展開する戦闘訓練に、なかなか立派な小隊長ぶりを見せた。そして一ヶ月がすぎて、いよいよ教官の将校や下士官たちと別れるとき、涙を泛べて握手をし、別れを惜しんだ。
以後、春休み、夏休みの各一ヶ月の半ばを、新しい学生会員と共に兵営生活を送り、彼らと共に駈け、かれらのもつとも辛い訓練に参加するのが、私の新らしい生活習慣になつた。そしてその会を、一九六八年秋、「楯の会」と名付けたのである。
ヨーロッパ諸国では想像のつかないことであるが、わづか一ヶ月でも軍事訓練を受けた民間青年といふものは、自衛隊退職者を除き、日本では「楯の会」のほかには一人もゐないのである。従つてわづか百人でも、その軍事的価値は、相対的に高い。いざといふ場合は、その一人一人がどうにかかうにか五十人づつを率ゐることができ、後方業務、警備、あるひは遊撃、情報活動に従事することができるからである。
しかし目下の私は日本に消えかけてゐる武士の魂の焔を、かき立てるためにこれをやつてゐるのだ。
最後に、いかにも「楯の会」らしいと思はれたこの夏の挿話を語らう。
隊員たちと
この夏も三十人近い学生を連れて、私は富士の裾野の兵営に行つてゐた。その日ははげしい戦闘訓練があり、みんな炎天の下でよく動いた。兵営にかへつて、夕食と入浴ののち、私の部星に四、五人の学生が集まつた。野には紫いろの稲妻が映えて、遠雷がきこえ、今年はじめての蟋蟀の声が窓下にしてゐた。小隊指揮のむづかしさについて、みんなが語り合つたのち、一人の京都から来た学生が、美しい袋に入れた横笛をとり出した。それは雅楽に使ふ古代楽器で、今これを習つてゐる人はきはめて少ない。その学生は一年ほど前からこれを習ひはじめ、京都郊外の古い寺であひびきをするときは、自分が先に行つて笛を吹いてゐて、あとから来た女に、笛の音で自分のありかを知らせるのださうだ。学生は笛を吹き出した。美しい哀切な古曲で、露のしとどに降りた秋の野を思はせる音楽であつた。雅楽は十一世紀に書かれた「源氏物語」の背景に奏でられた音楽であり、主人公光源氏はこの音楽に合はせて「青海波」を舞つたのだつた。私はこの笛の音を、心を奪はれてききながら、今目のあたりに、戦後の日本が一度も実現しなかつたもの、すなはち優雅と武士の伝統の幸福な一致が、(わづかな時間ではあつたが)、完全に成就されたのを感じた。それこそ私が永年心に求めてきたものだつた。
昭和45年11月25日市谷陸上自衛隊東部方面総監部バルコニーにて
中央:三島隊長、右:森田学生長
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの拳に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
昭和45年11月25日
市谷陸上自衛隊
東部方面総監部バルコニーにて
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統をpしてゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限り尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規則に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。
「七生報国」七回生まれ変わっても国を護る
政府は政体維持のためには、何ら憲法の抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
銘記せよ!
実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
左:森田学生長、右:三島隊長
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が殘つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけに行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この拳に出たのである。
辞世 三島由紀夫大人命
益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに
幾とせ耐へて今日の初霜
散るをいとふ卋にも人にもさきがけて
散るこそ花と吹く小夜嵐
辞世 森田必勝大人命
今日にかけてかねて誓ひし我が胸の
思ひを知るは野分のみかは
諸君の中には創立当初から終始一貫行動を共にしてくれた者も、僅々九ヶ月の附合の若い五期生もゐる。しかし私の気持としては、経歴の深浅にかかはらず、一身同体の同志として、年齢の差を超えて、同じ理想に邁進してきたつもりである。たびたび、諸君の志をきびしい言葉でためしたやうに、小生の脳裡にある夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその総力を結集して事に当るべきであつた。
そのために、諸君はよく激しい訓練に文句も言はずに耐えてくれた。今時の青年で、諸君のやうに、純粋な目標を据えて、肉体的辛苦に耐へ抜いた者が、他にあらうとは思はれない。革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行さ旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真贋は全国民目前に証明される筈であつた。
しかるに、勝利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。
このやむがたない痛憤さ、少数者の行動を以て代表しようとしたとき、犠牲を最小限に止めるためには、諸君に何も知らせぬ、といふ方法しか残されてゐなかつた。私は決して諸君を裏切つたのではない。楯の会はここに終わり、解散したが、成長する諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか?そこをよく考へてほしい。
日本が堕落の渕に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の練成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を改善するとき日本は滅びるのだ。
私は諸君に、男子たるの自負を教へようとそれのみ考へてきた。
一度楯の会に属したものは日本男児といふ言葉が何を意味する、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。
ふたたびここに、労苦を共にしてきた諸君の髙潔な志に敬意を表し、かつ盡きぬ感謝を捧げる。
天皇陛下万歳!
楯の会々長 三島由紀夫 昭和四十五年十一月
三島隊長の遺言状
楯の会の会員諸君! ぼくは二十三年の間ただ一人の女性に恋をしている。彼女はぼくが生まれ落ちると同時に、あたかも天の摂理でもあるかのように、ぼくの永遠の恋人として、ぼくを育み、愛してきた。
ぼくはその愛に応えようと一心に努力している。愛するということは非常に新鮮なものであり、魅力あるものである。
恋愛そのものに没頭し、全て忘れてしまうこともある。そしてそれ以上に愛することには必ず苦悩が伴うことも知ってきた。この苦悩をのりこえ、この恋愛の真剣に取りくもうと思っている。
(楯の会会報「楯」より)
一、 夏は稲妻 冬は霜
富士山麓にきたへ来し
若きつはものこれにあり
われらが武器は大和魂
とぎすましたる刃こそ
晴朗の日の空の色
雄々しく進め 楯の會
二、 憂ひは隠し 夢は秘め
品下りし卋に眉あげて
男とあれば祖國を
蝕む敵を座視せんや
やまとごころを人問はば
青年の血の燃ゆる色
凛々しく進め楯の會
三、 魂のしるし 楯ぞ我
すめらみくにも守らんと
嵐の夜に逆らひて
よみがへりたる若武者の
頬にひらめく曙は
正大の氣の旗の色
堂々進め楯の會
※旧漢字の一部を新漢字に変換