図書館だより      NO.150
 
◆ 義経が行く! ◆
 
◆ 義経2年間の史実 ◆
 源義経ほど伝説に満ちた人物はいない。世に伝えられる義経像は、『義経記』や『源平盛衰記』等の戦記物語による部分が多く、史実となると、その軌跡はあまりにも短く謎が多い。この時代の史料としては、鎌倉幕府の正式記録である『吾妻鏡(東鑑)』、京都公卿の日記である『玉葉(玉海)』及び『吉記』となるが、これらによると義経は、1180年兄頼朝との対面を果たした「黄背川の陣」での事跡が、史実としての初登場となる。その後主な記録はなく、次に主役級として登場するのは、木曽義仲追討のため上洛した1183年のことである。
 その後の義経は、1185年平家を討伐。そして頼朝に追われ西国落ち、最後は平泉へ逃れ、1189年泰衡に攻められ自ら命を絶ったと伝えられる。従って、史実的にその存在を捉えることのできる期間は、平家討伐に活躍した、わずか2年間だけとも言えるのである。
 
◆ もう一人の義経 ◆
 1175年、源義経と名乗る男が佐渡に流された。しかしこの頃、いわゆる義経は平泉に居たはず…。諸氏の系図を集成、編集した『尊卑分脈』によれば、源義家から数えて4代目子孫が義経(以後九郎義経)であるが、義家の弟、義光から数えて4代目子孫もまた義経(以後山本義経)といった。
 史料によれば、山本義経は、1180年近江で反平家の旗を挙げている。ゲリラ戦や海戦に長け、琵琶湖舟運を封じることで平家を兵糧責めにしたとされる。その後、鎌倉において頼朝に拝謁しているが、九郎義経の兄弟対面からわずか二ヶ月後のことである。同じ場所に同じ名前、二人の義経が出会ったと推測するのは無理なことであろうか。そして、ゲリラ戦や海戦のノウハウを授けられたとしたら、平泉で育った九郎義経が、鵯越や壇ノ浦での戦いをものにしたその技術を、どこで身につけたのかという疑問も解消される。
 戦後、中世史家の松本新八郎氏が、「二人の義経同一人説」を発表し話題を呼んだ。二人が一人ならば、全ての辻褄が合うというわけである。更に史料を見る限り、二人の義経が同時期に登場することはない。九郎義経が歴史の表舞台にいる時、山本義経は記録から消え、逆の場合はその逆となる。アリバイの観点からも同一人物としての理論は成立するのだが果たして…。
 
◆ 義経北行 ◆
 義経再興に関する文献を辿ると、永禄年間、将軍足利義昭が、松前藩の者に蝦夷について尋ねた時、“「源義経は衣川の館を落ちてこの島に渡り…」と答えた。”という記述が、文章に残る最初と言われている。
 それ以前の義経物語は文字ではなく、琵琶法師などによって流布された語りであった。それが室町期には『義経記』となり、寛文年間には『清悦物語』などとなった。この『清悦物語』を元にしたのが『鬼三太残齢記』というもので、ここで初めて、義経は死んだのではなく、平泉を脱出し北行したとするストーリーが生まれた。同じ頃、江戸時代の国史である『本朝通鑑』にも“義経北行説”が登場する。続編七十九の中で、俗伝ではあるがとしながら、「衣川の役、義経死せず、逃れて蝦夷に致り…」と記されている。また、この頃のものでは、寛文7年に松前を巡見した幕府小姓組番の土産話として、新井白石の『退私録』にも収められている。
 正徳、享保年間に入ると、幕府の蝦夷地経営が始まったことも影響してか、『義経勲功記』や『鎌倉実記』など、義経の蝦夷入りは盛んに描かれるようになっていく。更に、徳川光圀編纂による『大日本史』において、「義経、衣川館に死せずして、逃れて蝦夷に至ると。…中略… (義経死亡から)相距ること四十三日。天、時に暑熱なり、函して酒に浸したりと雖も、焉ぞ壊爛腐敗せざることを得ん。 …中略… 然らば則ち、義経は、偽り死して逃れ去りしか。」と記されたことで、義経北行説はよく知られることとなった。
 『新北海道史 通説1』には、「藤原氏が没落した時も、その残党が多くこの島にのがれ渡った。」とある。こうした者達が“義経”を語り継ぐことによって、義経は再興し、生き続けていったのかもしれない。
 
◆ 義経ハ成吉思汗也 ◆
 記録としては、オランダ商館医シーボルトが、その著書『日本』の中で、(通訳の吉雄忠次郎は)「義経が蝦夷から韃靼へ渡り、元朝の祖となったと格言している。」と記したのが、源義経=成吉思汗説の最初と言われている。明治に入ると、伊藤博文の女婿末松謙澄が、ケンブリッジ大学の卒業論文として書いた“成吉思汗論”が、『義経再興記』として日本で翻訳出版されているが、大きな話題とはならなかった。
 そして大正13年、至上最大の論争を巻き起こすこととなった、小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』が刊行される。これに対し歴史学者は反撃を開始し、歴史講習会機関誌『中央史談』の大正14年2月臨時号では、“成吉思汗は源義経にあらず”を特集した。その後小谷部は『成吉思汗ハ源義経也、著述の動機と再論』を発表、学者たちも“続、成吉思汗は源義経にあらず”を特集し対抗したが、後半は感情論と言った感も否めない。小谷部は、昭和16年に亡くなったが、中華民国発行の通行証が、その遺品の中から見つかっている。これは、中華民国庇護の下で調査を行ったことを示すもので、日本軍部の影響が十分に窺える。日本の大陸進出に際し、成吉思汗=日本人=日本領土という、一つの思想統制を図る意味合いが含まれていたのかもしれない。
 
《参考資料》 『歴史への招待9』 日本放送出版協会/『成吉思汗  の秘密』 高木彬光著 角川書店/『義経の謎』 邦光史郎著   祥伝社/『義経伝説推理行』 荒巻義雄他著 徳間書店
 

★ 歴史に関する名言(本に関する名言番外編)★
「歴史とは、合意のうえに成り立つ作り話以外のなにものであろうか」 ナポレオン1世(皇帝)
『世界名言事典』(明治書院)より