日本郵船の大型貨客船三池丸(11,738トン)は、北米航路への就航を予定して建造されたが、結局一度も本来の航路を航海することなく、竣工直後の1941年10月に陸軍に徴傭され、南方への兵員や物資の輸送に使われた。
三池丸(画像出典:Wikipedia)
この三池丸に、徴傭直後から約1年半陸軍軍属として乗船していた元船員の男性が、南方の戦地への「慰安婦」の輸送の状況について証言している。この男性(以下、Sさん)は、戦後60年を経て関係者のほとんどが亡くなり、生き残りが自分ひとりとなったことを機に証言を決意されたらしい。他に類を見ない貴重な証言だと言える。[1]
女性たちは、あまり人目につかぬように三等客船の一番下の部屋に押し込められていたという。
船の丸窓は、固く閉じられ、絶えず監視がついていた。監視には業者の男が二人ほどつき、船室から段が上がったとこで、始終、番をしていた。女性たちが用を足しに行くのにもその都度、監視がついた。絶海の波間に浮かぶ船内のどこに逃げ場があるというのだろう。女が絶望のあまり自死するのを怖れて、そこまで監視が厳しかったと考えるしかない。
朝鮮人の女性たちは、大概二〇~三〇人の規模で船に積み込まれていたとSさんは、記憶している。
女性たちが、朝鮮から連れてこられたことは言葉でわかったという。髪はボサボサで化粧もしておらず、憔悴しきった様子に見え、絶えず泣いていたとSさんは、当時を振り返る。あまり容貌のきれいな人はおらず、年齢も二〇歳代後半から三〇歳ぐらいに見えたという。もっともこの時、Sさん自身がまだ非常に若く、絶望と憔悴の淵にある女性たちの面差しが年齢より老け込んで見えたのかもしれない。また、朝鮮半島から連れてこられていたら、監禁同然の状態を何日も過ごし、身仕舞を整えることもできなかったはずだ。
当時、Sさんは三等給仕の職務にあり、閉じ込められた女性たちの部屋の係りを受持ち、寝具や食事の手配を行なった。体の具合が悪くなったりした者がいれば、上司に報告し、船内の医務室に連れていくこともあったという。
ただ女性たちに話しかけることは、堅く禁じられていた。朝鮮語の会話の内容は聞き取れなかったが、女性たちは絶えず泣いていた。
軍隊という巨大な機構は、兵隊の嗜好品を積み込む意識のまま、生身の女たちを船倉に押し込んだ。
傍目から見ても女性たちの様子が可哀相だから、Sさんは女衒とみられる見張りの男性に思い切って、
「泣きよるやないか。どうしたんか。あんたたちは、どうしてこんなことをするのか。」と問い質してみた。その男は、いきり立つでもなく思いの外、落ち着いた口調で答えたそうだ。「おいたちも好んでじゃない…。やりとおない。しかし、軍の命令で、何日までに女を何人連れてきて船に乗せろと言われる。もし、その命令をきかんやったら、おいたちが憲兵にやられる。おいたちも命がけだ。」
聞き取りの途中、私は思わず、もし業者の男が憲兵の命令に背けば、監獄に入れられることになるのかと問いかけた。Sさんは、クックックッと呆れたような笑い声を洩らし、かすれた声で言下に言ってのけた。
「憲兵なんて、そんな生易しいもんじゃない。すごい権力を持っていたんだから。警察でも震え上がるくらいのもんだった。今のひとたちには、わからんやろう。」
Sさんは、三池丸と共に陸軍軍属として徴傭され、幾多の戦地に兵士を輸送し、また自身も一九四三年には召集され、陸軍開部隊に入隊、泥沼の中国戦線に送り込まれた経験をもつ。軍隊という機構の凄絶なまでの暴力性、システマティックな残忍さはいやというほど、知悉している。女衒の男の言い分は、おそらく文字通りのことであったろう。
三池丸は1942年に計3回、宇品から昭南(シンガポール)に航海している。Sさんの記憶が正しければ、このうちの2回の航海で朝鮮人「慰安婦」たちの連行が行われたことになる。
Sさんが船を下りた後、三池丸は1944年7月、パラオ北方で米潜水艦によって撃沈された。
[1] 平尾弘子 『慟哭の航路 ― 日本軍「慰安婦」を運んだ陸軍徴傭船』 季刊戦争責任研究 2006年春季号 P.62
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