樺太―日本統治時代のサハリン 5/6
樺太の戦い (1945年) 樺太の戦い (1945年) 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
1945年8月9日に対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。その目的は南樺太の獲得と、次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。ソ連軍は北樺太から陸上侵攻する歩兵師団・歩兵旅団・戦車旅団各1個が攻撃の中心で、補助攻勢として北太平洋艦隊と歩兵旅団1個による上陸作戦が実施された。日本軍は、歩兵師団1個を中心に応戦し、国境地帯ではソ連軍の拘束に成功した。
8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦に向かったが、樺太を含めてソ連軍の侵攻は止まらず、自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続いた。樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領をもって樺太の戦いは終わった。
当時、南樺太には40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われた。自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功したが、避難船3隻がソ連軍に攻撃されて約1,700名が死亡した(三船殉難事件)。陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡した。
背景 ポーツマス条約によって日本領となった南樺太には、1913年(大正2年)の樺太守備隊廃止以来、日本軍は常駐していなかった。軽武装の国境警察隊が国境警備を担当していた[1]。しかし、1939年(昭和14年)5月に至り、対ソ連の防備のため樺太混成旅団が設置された。その後、第7師団(北海道駐屯)の改編や関東軍特種演習に伴い次第に駐屯兵力が増強された。
太平洋戦争中盤になると、従来はソ連を仮想敵としていた南樺太の戦備も、対アメリカ戦重視に方針が転換された。北樺太侵攻作戦は放棄されて、専守防衛型となった。北方軍司令官の樋口季一郎中将は、対ソ国境陣地を重視せず、主にアメリカ軍上陸に備えた南部の防備強化を指導した[2]。本土決戦が想定され始めた1945年(昭和20年)2月には駐屯部隊の大部分を再編成して第88師団が創設されたが、その主力は南部地区に置かれた。
予備役(在郷軍人)主体の予備戦力の整備も進められ、1944年(昭和19年)5月に特設警備隊である特設警備大隊3個・特設警備中隊8個・特設警備工兵隊3個、1945年3月には地区特設警備隊9個が各地に設置された[3]。このほか、国民義勇戦闘隊の組織も準備されていた。地区特設警備隊や国民義勇戦闘隊は、日中戦争での中国共産党軍にならい遊撃戦を行うことが期待されており、3月下旬に7700人が2日間の召集訓練を受けたほか、7月以降には陸軍中野学校出身者による教育が多少実施された[4]。
約40万人の一般住民については北海道への緊急疎開が予定され、大津敏男樺太庁長官と第88師団参謀長の鈴木康大佐、豊原駐在海軍武官の黒木剛一少将による3者協定が締結されていた。樺太庁長官を責任者として陸海軍は船舶提供などの協力をするという内容であったが、実態は腹案の域を出ず、3人以外には極秘とされて組織的な事前打ち合わせは無かった[4]。
一方、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、南樺太の奪還を狙っていた。ソ連の対日参戦を密約した1945年2月のヤルタ会談において、ソ連は南樺太占領を参戦後に予定する作戦の第一として挙げ、実際にヤルタ協定には「南樺太のソ連への返還」が盛り込まれた[5]。当時、ソ連は北海道北部(留萌・釧路以北)の軍事占領も計画しており、南樺太は北海道侵攻の拠点としてすぐさま使用される予定であった。
南樺太攻略担当には、北樺太に主力を置く第2極東戦線の第16軍(司令官:L・G・チェレミソフ(Л. Г. Черемисов)少将)が充てられた。もっとも、7月28日に通達された実際の作戦計画では、樺太・千島方面の攻略は満州方面に劣後した順位となっており、発動時期は戦況に応じて調整されることになっていた。現場では日本軍守備隊に関する情報を把握できないでおり、南樺太に日本軍戦車が配備されていないことすらも知らなかった[6]。
日ソ間には日ソ中立条約が存在し、1945年(昭和20年)8月時点でも有効期間内であったが、ソ連の対日参戦は実施されることになった。なお、同年5月頃、日本はソ連を仲介者とした連合国との和平交渉を模索しており、その中でソ連への報酬として南樺太の返還も検討されていた[7]。(日ソ中立条約との関係については日ソ中立条約及びソ連対日宣戦布告を参照)
ソ連軍侵攻前の樺太での戦闘としてはアメリカ潜水艦の活動があり、日本商船が攻撃されたり、海豹島などが砲撃を受けていた。7月23日には、アメリカ潜水艦「バーブ」から少数の水兵が密かに上陸して、樺太東線の線路を爆破している[8]。
戦闘経過全般状況日ソ開戦前、日本軍の配置は北地区(敷香支庁・恵須取支庁)と南地区(豊原支庁・真岡支庁)に分かれていた。北地区は歩兵第125連隊が、南地区は第88師団主力が分担し、対ソ戦・対米戦のいずれでも各個に持久戦を行う作戦であった。北地区はツンドラに覆われて交通網が発達しておらず、国境から上敷香駅付近までは軍道と鉄道の実質一本道で、敵進路の予想は容易だった。現地の第88師団では、対ソ戦重視への配置転換を第5方面軍へ6月下旬から上申し続けていたが、ようやく8月3日にソ連軍襲来の場合には迎撃せよとの許可を得られた[9]。
8月9日にソ連は対日宣戦布告を行ったが、ソ連軍の第16軍に樺太侵攻命令が出たのは翌10日夜であった。作戦計画は3段階で、第1期に第1梯団(第79狙撃師団・第214戦車旅団基幹)が国境警戒線を突破し、第2期で古屯「要塞[注 1]」を攻略、第3期には第2梯団(第2狙撃旅団基幹)が一気に超越進撃して南樺太占領を終えるというものだった。国境地帯からの2個梯団が主軸で、塔路と真岡には補助的な上陸作戦が計画されていた[6]。ソ連側の侵攻が開戦直後ではなかったことは、日本側が兵力配置を対ソ戦用に変更する余裕を生んだ。ソ連軍は第1期作戦から激しく抵抗を受けてしまい、第2期の古屯攻略のための部隊集結も遅れだした。
日本の第5方面軍は、8月9日早朝にソ連参戦の一報を受けたが、隷下部隊に対し積極的戦闘行動は慎むよう指示を発した。この自重命令は翌日に解除されたが、通信の遅延から解除連絡は最前線には届かないままに終わり、日本側前線部隊が過度に消極的な戦術行動をとる結果につながった[11]。自重命令解除に続き、第5方面軍は、第1飛行師団の飛行第54戦隊に対して落合飛行場進出を命じたが、悪天候のために実施できなかった。一方、ソ連軍機も悪天候には苦しんでいたが、なんとか地上支援を成功させている。第5方面軍は、13日には北海道の第7師団から3個大隊の増援を決めるとともに、手薄と見られたソ連領北樺太への1個連隊逆上陸(16日予定)まで企図したが、15日のポツダム宣言受諾発表と大本営からの積極侵攻停止命令(大陸命1382号)によって中止となった[12]。
日本側現地の第88師団は、8月9日に防衛召集をかけて地区特設警備隊を動員した。10日には上敷香に戦闘司令所を出して参謀数名を送り、13日には国民義勇戦闘隊の召集を行った。一般住民による義勇戦闘隊の召集は樺太戦が唯一の実施例で、ねらいは兵力配置があるように見せかけてソ連軍の進撃を牽制することだった[13]。師団は、15日に玉音放送などでポツダム宣言受諾を知り、防衛召集解除・一部兵員の現地除隊・軍旗処分など停戦準備に移ったが、16日に塔路上陸作戦が始まると、第5方面軍から自衛戦闘と南樺太死守を命じられて戦闘を続けた。第5方面軍の死守命令は、ソ連軍の北海道上陸を予防する意図に基づいていた[14]。
8月16日以降も、ソ連軍は引き続き侵攻作戦を続けた。18-19日には、極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥が、25日までの樺太と千島の占領、9月1日までの北海道北部の占領を下令した[15][14]。古屯付近では16日に総攻撃を開始したが、日本側守備隊の歩兵第125連隊が即時停戦命令を受けて19日に武装解除するまで、主陣地制圧はできなかった。ソ連軍は同じ16日に塔路上陸作戦も行ったが、上陸部隊の進撃は低調だった。交通路は避難民で混雑し、日本軍は橋の破壊などによる敵軍阻止は断念することが多かった。この間、日本側は現在位置で停止しての停戦を各地で交渉し、峯木師団長自身も北地区へ交渉に向かっていたが、進撃停止は全てソ連側に拒否され、しばしば軍使が処刑される事件も起きた。
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歯舞群島 歯舞群島座標 所在海域 所属諸島
歯舞群島(はぼまいぐんとう)、あるいは歯舞諸島は、北海道根室市の東端である根室半島の納沙布岬の沖合3.7kmから北東に点在する島々である[1]。ロシア連邦の実効支配下にあり、ロシアと日本の双方が領有権を主張している。
「歯舞」の由来は、先住民族アイヌの母語であるアイヌ語の「ハ・アプ・オマ・イ(覆っている氷が退く・小島・そこにある・所→流氷が退くと小島がそこにある所)」から。ロシア名はハボマイ諸島(Острова Хабомай)、英語表記は Habomai。
概要
第二次世界大戦前は水晶諸島(すいしょうしょとう)や珸瑤瑁諸島(ごようまいしょとう)、あるいは色丹島まで含めて色丹列島(しこたんれっとう)と呼んでいたこともあった。地質構造的には色丹島とともに根室半島の延長が部分的に陥没したものとされ、地形や植生なども根室半島に似ている。台地状の平坦な島々が多い。いわゆる北方領土の一つであり、いくつかの小さな島からなる。中央に位置する志発島が最も大きい。なお、諸島であるが北方四島のうちの1島として扱われる。歯舞は四島全体の2%の面積を占める。
歯舞群島に含まれる島は、北東から水道ごとに挟んでまとめると順に次の通り。
国土地理院は、以前「歯舞諸島」と表記していたが、根室市から「北方領土返還要求運動の現場[3]や教育現場で、歯舞群島や歯舞諸島が使われ混乱が生じている」と歯舞群島への地名変更の要望が国土地理院に寄せられたため、国土地理院と海上保安庁海洋情報部で構成する「地名等の統一に関する連絡協議会」において、決定地名の歯舞諸島(はぼまいしょとう)を歯舞群島(はぼまいぐんとう)へ変更した[4]。
歴史日本統治時代定住が始まったのは明治10年(1877年)以後で、函館の広業商会が昆布採取のために貸し出した資金で生産者・漁師などが居住した。その後も島内の産業は昆布や海苔、ホタテ貝の採取を中心とし、タラなどの沖合漁業も行っていた。また勇留島や志発島、多楽島では約200頭ずつ馬を飼育していたという。明治時代は対岸の珸瑤瑁(ごようまい)村に属していたため、珸瑤瑁諸島と呼ばれていた。大正4年(1915年)、珸瑤瑁村は歯舞村と合併し、歯舞村となった。このため珸瑤瑁諸島は歯舞群島と呼ばれるようになったが、戦後になっても珸瑤瑁諸島と呼ばれることも有った。第二次世界大戦が終わった時の総人口は約4,500名で、漁業人口は95%であった。
ロシアによる占領・実効支配1945年9月2日、太平洋戦争が終結し一般命令第一号が発令された。この命令により、千島列島の日本軍はソ連極東軍に降伏することが定められると、ソ連軍が上陸して、占領下に入った。翌年1月29日、GHQの指令第677号により歯舞群島を含む日本の行政権が停止されると、ソ連は自国に編入。以来、ソビエト連邦・ロシア連邦の実効支配下にある。戦前は対岸の花咲郡歯舞村に属していたが、現在の日本も領有権を主張しており、1959年(昭和34年)に歯舞村が根室市と合併したため、現在は根室市に属している。しかし、2010年(平成22年)現在の時点においても日本の施政権は全く及んでいない。
日本政府の見解としては同島のロシアによる占領は日ソ中立条約に反した違法行為であり、現在に至るまでロシアによる不法占拠下にあるものとしている[5]。 過去、国会答弁においてソ連による占拠が不法とは必ずしもいえないとの答弁がなされたことがあるが、これは答弁者によって時として表現の差異がありうるものと説明されている。いずれにせよ、北方領土は日本固有の領土であるとの見解が日本の一貫して主張するところであり、現在はロシアによる同島の占拠は不法占拠であると明確に表明されている。
ソビエト崩壊以後の状況歯舞「諸島」という表記が歯舞群島と変更された。
歯舞群島には、「国境警備隊員」以外に定住者はいない[6]。 転載元: 北海道にまた行きたいな |
色丹島座標面積 最高標高 最高峰 最大都市 所在海域 所属国・地域
色丹島
概要413mの斜古丹山を中心に島全体が比較的なだらかな山地・丘陵になっており、カラマツの近縁種であるグイマツや、ウルップソウなどの高山植物に恵まれた自然の宝庫でもあり、湖沼も多い。海岸線は西北岸は断崖であるのに対し、東南岸は変化に富み、船の接岸が可能な場所は20ヶ所以上に及ぶが、松が浜を除いては、港としては機能しなかった。村役場が置かれた場所は北東部の斜古丹湾岸で、学校や駅逓、郵便取扱所も設けられ、斜古丹という名の集落をなしていた。島の南北両岸には天然の良港が多く、コンブ・サケなどの漁業が主産業であった。
ソ連が実効支配を始めてからも、中心集落は斜古丹(ロシア語地名、マロクリリスク(Малокурильск=「小千島の町」の意))である。2006年の人口は2,244人。現在の集落はもうひとつ、その西側の入江奥深くに穴澗(クラバザヴォーツク(Крабозаводск=「カニ工場の町」の意))があり、2006年の人口は925人。それ以外の日本時代の集落は、すべて廃村となった。
古くは「斜古丹」「支古丹」とも表記された。
歴史日本政府が返還を要求している北方四島の1つであり、日本の行政区分では、千島国ならびに北海道根室振興局(旧根室支庁)管内の色丹郡色丹村に所属することになっている。なお、1886年の千島国への移譲ならびに色丹郡の設置まで根室国花咲郡の一部であったことや、歯舞群島とともに根室半島の延長部と看做されることもあって、色丹島を千島列島に含むか否かについては見解が分かれている。
現在も日本の施政権は及んでおらず、現在までロシア連邦の実効支配下にある。ロシアの行政区分では国後島に本庁があるサハリン州南クリル管区に属する。戦後ロシアが、歯舞群島とあわせて「小千島列島(マラヤ・クリルスカヤ・グリャダМалая Курильская гряда)」と呼ぶようになった列島で最大の島。面積は255.12km²で、日本では13番目の大きさを持つ島である[1]。
産業漁業が主で、択捉島で大きく成功したギデロストロイ社が水産加工施設を設置している。また、日本本土と近いことから、国境経済が成長するポテンシャルはあり、ソ連崩壊直後の1992年には、香港中国人企業家がサハリン州政府から50年の期限でこの島の土地278haを租借し、主に日本人向けのカジノリゾートを作ろうとした。だが、日本政府がこの計画を進めた香港の企業カールソン・アンド・カプラン社に計画中止を求めたことなどから、この企業家は結局撤退した。
また、ロシアにとっては国境最前線の島という認識があるため、斜古丹には国境警備隊の大きな軍港があり、穴澗には拿捕された日本漁船員の収容所が設けられている。
交通アクセス島内に空港は無いので連絡船のみのアクセスとなる。樺太(サハリン)の大泊(コルサコフ)港から、3月から12月まで週2便、サハリンクリル海運の船が斜古丹港へと結んでいる。ロシアのビザと色丹島に有効な通行許可証があれば、日本人はじめ外国人の乗船もできる。港は深いので、国後島や択捉島の諸港と異なり、船は艀なしで直接港に横付けとなる。ただし日本のビザなし交流団に限っては、斜古丹港にある国境警備隊基地の機密保持のため、根室港から穴澗港へのアクセスとなる。なお、穴澗港も直接船が横付けできるほどの深度があるものの、近年は穴澗の水産加工場の廃液によるヘドロの堆積が著しいため、艀を使っての上陸となっている。
千島アイヌの強制移住これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与えるおそれがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
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南京事件論争
南京事件論争(ナンキン[1]じけんろんそう)とは、日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京攻略戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた[2]。
背景と経緯上海戦から南京戦へ1937年7月に始まった日中戦争で当初は華北から戦闘が始まり、その後、双方とも兵員を動員する中、ドイツ軍事顧問を得ていた蒋介石は、国際都市上海にて日本軍をおびき寄せて殲滅する作戦を立てた。その結果、8月に主戦場は上海に移った[7]。日本側も、中国に対して一撃を加えれば大人しく引き下がるものと考えており、暴支膺懲(乱暴な中国をこらしめる)というスローガンを世論に利用し、対決姿勢をとる。日本陸軍は上海派遣軍を送り、上海において、日中両軍の激しい戦闘が起こった(第二次上海事変)。日本海軍は8月より日本海軍機による首都南京への空襲(渡洋爆撃)を開始し、国際社会より非難された[8]。
8月5日陸軍次官は、ハーグ陸戦条約の精神に準拠しとし交戦規定の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重と言いつつ、別の箇所で、これを厳密遵守とまでしなくてよいこととし、捕虜という名称もなるべく使わないと現地軍に通知した[9]。その結果、現場の将校までが「軍の規律を求めた松井石根軍司令官の通達」を無視した行動を行ったり[10]、また上海戦において、日本軍人が戦友の多くを失い、中国側への復讐感情を芽生えさせたと秦郁彦は指摘する[11]。
他方日本外務省は、10月に中国に駐在するドイツ人外交官のトラウトマンを仲介とする、トラウトマン和平調停工作を開始した。
中国軍の抵抗もあって、日本側は予想に反して苦戦を強いられたが、11月5日には杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われた中国軍は、上海方面より首都南京方面へと潰走した[12]。上海戦は、日本軍に多くの戦死者を出し、日本軍人に中国軍への復讐感情を植え付けた[13]。
11月7日に上海派遣軍は第10軍とともに中支那方面軍(司令官:松井石根)として改編された。11月19日には第10軍が和平工作をすすめる軍中央の方針を無視して、その後上海派遣軍が、撤退する中国軍の追撃を独断で始め、首都南京への侵攻を目指した[14]。12月1日には軍中央が現地軍の方針を追認する形で中支那方面軍に南京攻略命令を下達する[15]。
総退却した中国軍は11月の南京高級幕僚会議で、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に首都を南京から重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。中国側は南京に防衛線(複郭陣地)を構築して抗戦する構えを見せた。敗走する中国軍は堅壁清野作戦で村や民家を焼き払った[16]。
しかし、南京の中国軍の大半は組織的撤退を知らないか、知らされても安全に逃げられない状況であった。中国兵の中には塹壕に足を縛られて防戦させる者もいたし、唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門に仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊が置かれて撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)。
南京市の概況南京市は東西(中山門〜漢中門)約5.3km、南北(大平門〜中華門)約8kmで面積は35平方キロで茅ヶ崎市(35.70km2)程の大きさであり、城外の下関や水西門市街などを含めると39〜40平方キロで、鎌倉市(39.67km2)程の面積となる[20]。
またスマイス調査では、当時安全区には難民収容所には27,500人、収容所には入らない安全区内の人口は68,000人とされた[20]。12月17日の国際安全区委員発表では、難民区収容所人数は49,340〜51,340人であった[20]。16師団参謀長中沢三夫は13、14日の掃討戦で住民はほとんど見なかったが、12月末の居住証から推算すると当時の難民は10万内外とする[20]。
南京事件の被害者南京事件の被害者(南京の一般市民)議論については「南京事件論争#一般市民に関して」を参照
日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の渡洋爆撃と呼ばれる日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初であり、中国側の記録では10月までの二か月(その後も続く)の空襲で400人近くの市民が死亡した[21]。日本軍の空襲によって、多くの南京市民が市街から遠方に避難し始め、100万人を越えるとされた南京城市の人口は大きく減少し、一方で11月に日本陸軍の中支那方面軍が南京周辺の広大な農村地域の近郊六県を含む南京行政区に進入したため、農村地域等から多くの被災者が南京城市に流れ込む現象も起きた[22]。
日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされる(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民が兵士とともに銃撃を受けて殺された証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害された証言(新路口事件)がある)[23]。
南京安全区国際委員会のメンバーによるスマイス調査によると、南京市部(南京城区)での日本軍による民間人の殺害・拉致後殺害は計6千6百人と推測されたが、別途1万2千人という推測値も示している。
南京安全区南京安全区とは、南京攻略戦前の11月、ジョン・ラーベ、アメリカ人宣教師(ジョン・マギー、マイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなどを中心とする15名ほどによって、戦災に巻き込まれてた市民を救済するために組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内に設定した地域である。この安全区は南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城市内の南京安全区外には住民が少ない状況となった[25]。
南京事件の被害者(中国兵)日本軍、中国軍の損害については「南京戦」を参照
中国側の南京防衛軍の当時の全体総数は、6-7万(「南京戦史」偕行社)、10万(秦郁彦説(台湾公式戦史から)、15万(笠原十九司説・孫宅巍説)と諸説あり、その中での捕虜等になる前に戦死した人数や逃亡し終えた人数も諸説がある[26]。中国軍の敗残兵には軍服を脱いで民間人に紛れて安全区へ逃走をはかったものが多数あった[27]。
議論については「南京事件論争#投降兵・捕虜の扱いに関して」を参照
議論については「南京事件論争#便衣兵に関して」を参照
交戦当時の戦時国際法として有効なものは、日本と中国の双方が批准したハーグ陸戦条約であるが、その第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっていたし、第23条には、殺害などの害敵手段として禁止されていることとして、第3項「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」や敵兵に対して第4項「助命しないことを宣言すること」とされている。しかし、一方で、日本陸軍は同年8月に陸軍次官名でハーグ陸戦条約の「厳密遵守の必要なし」、「捕虜という名称もなるべく使わないように」、と現地軍に通知していた。
以下は偕行社の『南京戦史』によるが、『南京戦史』は大雑把な目安にすぎなず正確ではないとしている[28]。
歴史上の「南京大虐殺」松本健一は、中国では「南京大虐殺」(南京大屠殺)は一つの固有名詞であり、「歴史的に定着している言葉」であるという[141]。また黄文雄によれば、中国の戦争には「屠城」という伝統があった[142]。歴史上の「南京大虐殺」には以下のようなものがあると指摘されている[143]。
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