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35代斎院 礼子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
れいし いやこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:後鳥羽天皇(1180-1239)
母:藤原(坊門)信清女[坊門局]
正治2年(1200) 文永10年(1273)8月2日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
土御門(1198~1210,異母兄)、
順徳(1210~1221,異母兄)
卜定:元久元年(1204)6月23日
   (坊門信清
    四條北朱雀西家)
初斎院:元久2年(1205)4月28日
   (左近衛府)
本院:元久3年(1206)4月19日
退下:建暦2年(1212)9月4日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
粛子(1196生,異母姉)
 [高辻斎宮]
 父:後鳥羽天皇
 母:源信康女
卜定:正治元年(1199)12月24日
初斎院:正治2年(1200)5月26日
   (左近衛府)
野宮:正治2年(1200)9月27日
群行:建仁元年(1201)9月9日
退下:承元4年(1210)11月25日
天皇譲位

略歴:
 元久元年(1204)(5歳)6月23日、内親王宣下、准三宮、ならび斎院に卜定。
 元久2年(1205)(6歳)4月28日、初斎院(左近衛府)へ入る。
 元久3年(1206)(7歳)4月19日、本院へ入る。
 承元4年(1210)(11歳)11月25日、兄土御門天皇譲位、兄順徳天皇践祚。


12月28日、順徳天皇即位。
 建暦2年(1212)(13歳)9月4日、病により退下。
 建保2年(1214)(15歳)6月10日、院号宣下。嘉陽門院と号する。
 承久2年(1220)(21歳)5月21日、出家(戒師は同母兄道助入道親王)。法名は真如性。
 延応元年(1239)(40歳)2月22日、父後鳥羽院が隠岐で崩御。
 文永10年(1273)(74歳)8月2日、薨去。

院号:嘉陽門院
同母兄弟:長仁親王(道助入道親王,1196-1249)
     頼仁親王(冷泉宮,1201-1264)

後鳥羽天皇第三皇女。
 母坊門局(西御方とも称する)は後鳥羽天皇の従姉妹(父信清と、後鳥羽の母七条院が姉弟)。母の姉妹に源実朝室・信子がいる。

           ┌─────────────┐
           │             │
   高倉天皇===藤原殖子          坊門信清
        │ [七条院]           │
   ┌────┴────┐           ├────┐
   │         │           │    │
  後高倉院     後鳥羽天皇========坊門局   信子
   │         │        │      (源実朝室)
   │     ┌───┴┬───┐   ├───┬───┐
   │     │    │   │   │   │   │
 後堀河天皇 土御門天皇 順徳天皇 粛子  長仁 ◆礼子  頼仁
                  (斎宮)     [嘉陽門院]

 礼子内親王誕生当時の記録はないが、薨年から生年が1200年と判明している。また同母弟頼仁親王の生年月日が建仁元年(1201)7月26日であることから、所京子氏は礼子の誕生を1200年の早い時期(1~4月頃?)と考察している。

 礼子の同母兄長仁親王(道助入道親王)は祖母七条院の猶子となっており、同母弟頼仁親王も七条院に育てられていることが記録から判っている。このことから、所氏は礼子も兄弟らと共に七条院のもとで養育されたものであろうとしている。
 斎院退下後は、立后を経ずに女院宣下を受けて嘉陽門院と号し、四条壬生の御所にあった。外祖父坊門信清は建保4年(1216)に他界したが、その後も礼子は祖母七条院らと共に坊門家の仏事等にしばしば参加していたことが記録に散見される。
 やがて承久の乱(1221)が勃発、幕府に敗北した父後鳥羽院は隠岐へ、同母弟頼仁親王は備前へ配流となった(異母兄弟では土御門院が土佐、順徳院が佐渡、雅成親王が但馬へ配流)。また母坊門局も後鳥羽院に供奉して隠岐へ同行(院の没後に帰京)、坊門系で京に残ったのは礼子と同母兄道助入道親王、そして祖母七条院の3人のみであった。
 その後即位した後堀河天皇は礼子の従弟にあたり、在位中しばしば嘉陽門院御所を方違等の行幸先としている。まだ年少の後堀河(即位当時10歳、礼子より12歳年下)は礼子と同じく七条院の孫であり(後堀河の父後高倉院が、七条院の子で後鳥羽の同母兄)、七条院は安貞2年(1228)に崩御したが、後鳥羽院らの配流中にあっても礼子と後堀河の関係は比較的良好であったと見られる。
 寛喜2年(1230)に四条壬生御所が火災で焼亡の後は、一時仁和寺御所にいたとの記録もあるものの、礼子の晩年の動向はあまり知られていない。礼子本人は74歳の長命を保ったが、延応元年(1239)父後鳥羽院がついに帰京を果たせぬまま配所の隠岐で崩御、兄弟らにもすべて先立たれ(恐らくは母も)、また後見の坊門家も承久の乱で失墜するなど、身内の不幸がうち続き淋しい身辺であったことが想像される。

 なお礼子に仕えた女房の嘉陽門院越前(歌人)は大中臣公親の娘で、他にも大中臣一族は蔵人(為成)や院司(為衡)、判官代(親直)など、多くが嘉陽門院に奉仕していた。

 墓所は龍翔寺跡(京都府京都市右京区太秦安井池田町)。
 ※京都市営バス【安井西口】下車徒歩2分、または京都市営地下鉄【太秦天神川】徒歩6分。



嘉陽門院礼子内親王墓所(2013年8月19日撮影)


【後鳥羽・土御門朝の斎院卜定事情について】
 高倉天皇朝の1179年に伊勢斎宮・功子内親王が群行のないまま退下して以降、翌1180年の安徳天皇即位の際にも新たな斎宮は卜定されなかった。また1181年には34代斎院範子内親王も父高倉上皇の崩御で退下、このため礼子内親王の父・後鳥羽天皇が1183年に4歳で即位した際、伊勢斎宮・賀茂斎院は共に不在が続いていた。
 当時は後鳥羽の姉妹や従姉妹(二条天皇・高倉天皇の皇女たち)は既に殆どが斎宮・斎院を経験済みで、残っていたのは後鳥羽の異母姉・潔子内親王(5歳)ただ1人であった(※なお潔子は1180年当時2歳で、本来であれば安徳即位に合わせての卜定も可能だった)。また後白河の皇女には後鳥羽と同年代の叔母・覲子内親王(後の宣陽門院,1183年当時3歳)がいたが、寵妃高階栄子(丹後局)を生母とする覲子は父後白河の鍾愛も深く、始めから斎王候補には考えられていなかった可能性がある(その後覲子は1189年内親王宣下を受けるが、1191年の院号宣下で斎王候補から完全に外れた)。

◆1183年生存の内親王一覧(鳥羽皇女は除く)
 後白河皇女
  ・亮子内親王[殷富門院](1147生) 前斎宮
  ・好子内親王(1148?生) 前斎宮
  ・式子内親王(1149生) 前斎院
  ・覲子内親王[宣陽門院](1181生)
 高倉皇女
  ・功子内親王(1176生) 前斎宮
  ・範子内親王[坊門院](1177生) 前斎院
  ・潔子内親王(1179生) →1185年斎宮卜定
    ※二条皇女・僐子内親王(前斎院)は1171没。

 結局、事実上唯一の斎王候補であった潔子内親王は1185年の安徳天皇の崩御後、後鳥羽天皇の斎宮に卜定された。1180~1185年の間(ただし高倉上皇崩御による諒闇中は除く)卜定がなかった理由は不明だが、当時は源平合戦の混乱期であり、斎宮を卜定しても伊勢下向の実現には治安面・財政面その他での困難が多かったであろうことが想像される。また当時は異母兄安徳天皇が退位せずしかも三種の神器を伴ったままで、異例の神器不在の中での即位であった。このため平安京の公卿たちの間でも正式な践祚を完了していないと見なされていた可能性が高く、このことも斎王卜定に至らなかった一因の可能性が考えられる(なお榎村寛之氏は、斎王制度復活に平氏滅亡後の源頼朝の財政援助があったことを指摘している)。

 ともあれかろうじて斎宮は決定したが、後鳥羽自身が即位当時4歳と幼少であったため、その後も新たな斎院候補となる皇女はなかなか生まれなかった。1195年にようやく待望の長女昇子内親王、1196年に次女粛子内親王が誕生したものの、1198年に後鳥羽が19歳で譲位するまで賀茂斎院はついに卜定されずじまいであった。
 平安時代には伊勢斎宮は賀茂斎院に比べ軽視されがちだったと見られるにもかかわらず、後鳥羽即位時に斎宮の方が敢えて卜定を優先された理由は不明であるが、治承4年(1180年、時の斎院は34代範子内親王)に福原遷都という一大事件が起こっている。この時賀茂斎院制度自体が廃絶になったわけではなく(※斎院範子は福原遷都中も退下していない)、その後再び平安京が都として返り咲いたものの、平安遷都以来王城鎮護の社として信仰の対象であった賀茂神社の重みと、ひいてはそこに奉仕する賀茂斎院の存在意義そのものを揺らがせた可能性は否定できない。

 続く土御門天皇の即位にあたり、候補に該当したのは先述の昇子内親王(後の春華門院。母:中宮九条任子)と粛子内親王(母:源信康女)である。このうち次女粛子は1199年(※太陽暦では1200年)に5歳で伊勢斎宮に卜定されたが、后腹で既に一品内親王であった長女昇子の卜定はなく、この時も賀茂斎院の卜定は見送られた。
 なお昇子内親王は生まれてすぐに八条院暲子内親王の猶子となり、翌1196年4月に2歳(満9か月)で一品・准三宮となっている。その後は1204年の以仁王姫宮死去をうけて養母八条院の遺産相続人に定められたと見られ、1209年には15歳の若さで院号宣下を受けた。これらの点を鑑みて、昇子は始めから斎王候補とは考えられていなかった可能性が高いと思われる。よって1200年に礼子内親王が誕生した時点で、礼子が将来の斎院になると定められていたものであろう(なお礼子卜定の翌年に誕生した異母妹凞子内親王は、10年後に斎宮粛子の退下で順徳天皇の斎宮となった)。

 承久の乱以後ついに賀茂斎院は卜定されることなく、35代礼子内親王が最後の斎院となった。

参考資料:
・所京子「斎院礼子内親王の生涯」(『斎王の歴史と文学』(国書刊行会, 2000)
・榎村寛之『伊勢斎宮と斎王─祈りをささげた皇女たち』(塙書房, 2004)

参考リンク:
・『業資王記』(国文学研究資料館提供,全文閲覧可)

※なお礼子内親王は1200年(鎌倉時代)生まれのため、歴代斎院で唯一『平安時代史事典』には立項されていない。(訓読みの「いやこ」は、櫟谷七野神社の賀茂斎院跡顕彰碑説明版を参考とした)




土御門天皇
史料 年月日 記述
女院記
女院次第
正治2年 【礼子内親王誕生】
『女院記』
 嘉陽門院 正治二年誕生。
業資王記 建仁3年1月12日 【皇女(礼子)、戴餅の儀】
 姫宮(礼子)御頂也。於七条院有此事。行啓儀如御百日。
業資王記 建仁3年10月21日 【皇女(礼子)、御魚味の儀】
 姫宮(礼子)御魚味於七条院聞食也。朝先入御院御所。行啓儀如御百日。
明月記
仲資王記
百錬抄
女院記ほか
元久元年6月23日 【皇女礼子、内親王宣下、賀茂斎院卜定、准三宮】
『百錬抄』
 有初齋院卜定事。先被下親王宣旨。<禮子。>
『女院記』
 嘉陽門院 元久元年六月廿三日内親王。卜定。賀茂齋院。准三宮。
明月記 元久2年4月8日 【賀茂初斎院御禊のために、灌仏会を停止】
明月記
百錬抄
元久2年4月28日 【賀茂初斎院(礼子)御禊、諸司に入御】
『百錬抄』
 初齋院(礼子)入御諸司。
猪隅関白記
三長記
元久3年4月11日 【賀茂斎院司除目】
猪隅関白記
三長記
百錬抄
元久3年4月19日 【初斎院(礼子)御禊、紫野本院に入御】
『百錬抄』
 初齋院(礼子)入御紫野院。
猪隅関白記
三長記
仲資王記
百錬抄
建永元年6月20日 【斎院(礼子)御悩により、七座祓を行い、軒廊卜を行う。また賀茂社に奉幣、祈祷】
『百錬抄』
 被行軒廊御卜。是依齋院(礼子)御不豫事也。即被立賀茂社奉幣使。依同御祈也。
明月記
仲資王記
建永2年4月13日 【斎院(礼子)御禊、野宮に入御】
順徳天皇
史料 年月日 記述
猪隅関白記
業資王記
承元5年2月11日 【斎院不替により、賀茂社に奉幣】
芸藩通志 承元5年2月11日 【斎院(礼子)の庁、院宣を奉じて、安芸安摩荘の私得分内三十五石を厳島社御供料とする】
玉葉
明月記
業資王記
百錬抄
女院記
建暦2年9月4日 【斎院(礼子)、病により退下】
『百錬抄』
 賀茂斎内親王(礼子)依御不例火急令退下給。
『女院記』
 嘉陽門院 建暦二年九月四日御病ニヨリテ退下。
玉葉
明月記
百錬抄
建暦2年9月28日 【斎院(礼子)退下について、賀茂社に奉幣使を発遣】
『百錬抄』
 被立賀茂社奉幣使。是依被告申斎内親王(礼子)退下之由也。
明月記 建暦2年12月19日 【前斎院(礼子)御祓】
明月記
百錬抄
ほか
建保2年2月14日 【七条院の新御堂供養、順徳天皇行幸。後鳥羽上皇、修明門院、礼子内親王も臨席】
『百錬抄』
 七條院御堂供養。被准御斎會。仍上皇(後鳥羽)并脩明門院。前斎院(礼子)自昨日渡御。今日主上(順徳天皇)行幸。
百錬抄
皇帝紀抄
女院記
建保2年6月10日 【前斎院(礼子)、嘉陽門院の院号宣下】
『百錬抄』
 有院号定。以無品礼子内親王号嘉陽門院。
『女院記』
 嘉陽門院 建保二年六月十日嘉陽門院ト申。
仁和寺日次記 建保3年3月14日 【凞子内親王着袴(着裳の誤り?)。嘉陽門院(礼子)腰結】
金剛寺文書 建保3年7月 【嘉陽門院丁、河内金剛寺住僧の寄進により、同寺の別院弘法大師影堂を御祈祷所とする】
仁和寺日次記 建保5年3月13日 【坊門信清一周忌供養、七条院・嘉陽門院(礼子)も臨幸】
玉蘂
仁和寺日次記
承久2年4月23日 【嘉陽門院(礼子)、石清水八幡宮参詣】
玉葉
百錬抄
女院記
皇帝紀抄
承久2年5月21日 【嘉陽門院(礼子)出家】
『百錬抄』
 嘉陽門院(礼子)御出家。<御年廿一。>
『女院記』
 嘉陽門院 承久二年五月廿一日爲尼。<年廿一。>
後堀河天皇
史料 年月日 記述
愚管抄
百錬抄
吾妻鏡
ほか
安貞元年7月8日 【後鳥羽上皇出家】
百錬抄
吾妻鑑
増鏡
ほか
承久3年7月~閏10月 【後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇ほか配流】
『百錬抄』
(7/13条)一院(後鳥羽上皇)自鳥羽殿遷御隠岐國云々。
(7/21条)新院(順徳上皇)遷御佐渡國云々。
(7/24条)六條宮<雅成>(右書)遷御但馬國云々。
(7/25条)冷泉宮<頼仁>(右書)遷御備前小嶋云々。
『吾妻鏡』
(7/13条)上皇自鳥羽行宮遷御隠岐國云々。甲冑勇士圍御輿前後。御共女房兩三輩。(後略)
(7/20条)新院◆御佐渡國。(後略)
(7/24条)六條宮遷坐但馬國給。(後略)
(7/25条)冷泉宮令遷于備前國豊岡庄児島。(後略)
(閏10/10条)土御門院◆幸土佐國。<後阿波國。>
『増鏡』(第二・新島守)
 東よりいひおこするままに、かの二人の大将軍はからひおきてつつ、保元の例にや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞ゆれば、女院・宮々、所々に思しまどふ事さらなり。本院(後鳥羽上皇)は隠岐の国におはしますべければ、先(まづ)鳥羽殿へ、網代車のあやしげなるにて、六月六日入らせ給ふ。(中略)
かくて、おなじき十三日に御船に奉りて、給ふ。遙かなる浪路をしのぎおはします御心地、この世のおなじ御身ともおぼされず。いみじう、いかなりける代々の報ひにかとうらめし。(中略) 新院(順徳上皇)も佐渡国に移らせ給ふ。(中略)
中の院(土御門上皇)は初めより知しめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院(後鳥羽上皇)、遙かにうつらせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多(はた)といふ所にわたらせ給ひぬ。(中略) せめて近き程にと、東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。(後略)

◆=迁(しんにょう+千。遷の異体字。こちらを参照(字源))
※『増鏡(増補本)』はJ-TEXTS(日本文学電子図書館)提供による。
民経記
明月記
安貞元年6月13日 【天皇(後堀河)、嘉陽門院(礼子)御所四条殿に行幸】
勘仲記 安貞2年9月28日 【天皇(後堀河)、嘉陽門院(礼子)御所四条壬生第に方違行幸】
民経記
明月記
寛喜元年5月21日 【天皇(後堀河)、嘉陽門院(礼子)御所四条殿に方違行幸】
明月記
百錬抄
寛喜2年5月23日 【京火災、四条壬生嘉陽門院(礼子)御所被災】
明月記
民経記
寛喜3年1月21日 【嘉陽門院(礼子)、八条堂に御幸。翌日、故実朝の十三年忌追善のため、八条堂供養に臨む】
四条天皇
史料 年月日 記述
如願法師集 嘉禎2年10月20日? 【嘉陽門院(礼子)、仁和寺御所に滞在】
百錬抄
吾妻鏡
皇帝紀抄
ほか
延応元年2月22日 【後鳥羽院、隠岐で崩御】
後嵯峨天皇
史料 年月日 記述
平戸記 寛元3年10月24日 【西御方(坊門局)、後鳥羽院を供養】
後深草天皇
史料 年月日 記述
百錬抄 宝治3年1月15日 【道助法親王薨去】
経俊卿記 正嘉元年5月 【嘉陽門院(礼子)、河内国東馬伏荘の浄金剛院への寄進中止を申請】
亀山天皇
史料 年月日 記述
園太暦
皇代暦
一代要記
ほか
文永10年8月2日 【嘉陽門院(礼子)薨去】
『一代要記』
 前后 嘉陽門院礼子 文永十年八月二日薨


史料 記述
一代要記

後鳥羽天皇
皇女 礼子内親王 斎院准三宮、母信清公女、同御室、賀陽門院

土御門天皇
斎院 礼子内親王 上皇三女、元久元年卜定、建歴二年退出依病也

順徳天皇
前后 嘉陽門院礼子

後堀河天皇
前后 嘉陽門院礼子 斎院、後鳥羽院女

四条天皇
前后 嘉陽門院礼子

後嵯峨天皇
前后 嘉陽門院礼子

後深草天皇
前后 嘉陽門院礼子

亀山天皇
前后 嘉陽門院礼子 文永十年八月二日薨

賀茂斎院記

礼子内親王
後鳥羽院之皇女也。母修明門院。贈左大臣範秀之女。
元久元年卜定。
建保二年六月十日。受嘉陽門院之号。

女院記

<禮子>
嘉陽門院 顯徳院御女。母太秦内大臣女。坊門局ト申。
 正治二年誕生。元久元年六月廿三日内親王。卜定。賀茂齋院。准三宮。建暦二年九月四日御病ニヨリテ退下。建保二年六月十日嘉陽門院ト申。承久二年五月廿一日爲尼。<年廿一。>



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