34代斎院 範子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
はんし | のりこ | 准三宮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
父:高倉天皇(1161-1181)
母:藤原成範女[小督局] |
治承元年(1177)11月6日 | 承元4年(1210)4月12日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高倉(1168~1180,父)、 安徳(1180~1185,異母弟) |
卜定:治承2年(1178)6月27日 (中御門南京極西前 中宮権大夫藤原重頼宅) 初斎院:治承3年(1179)4月9日 (左近衛府) 本院:治承4年(1180)4月12日 退下:養和元年(1181)1月14日 |
父上皇崩御 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
功子(1176生,異母姉) 父:高倉天皇 母:藤原公重女 |
卜定:治承元年(1177)10月28日 (押小路万里小路僕家) 初斎院:不明(一本御書所) 野宮:治承2年(1178)9月14日 群行:なし 退下:治承3年(1179)1月11日 |
母死去 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
号:猫間斎院、六角宮、土用宮 院号:坊門院 土御門天皇准母、皇后宮 高倉天皇第二皇女。中宮平徳子(建礼門院)の猶子となる。 父高倉天皇の斎院に卜定され、卜定所とされた藤原重頼の中御門京極第(中御門大路南、東京極大路西)に遷御。のち火災に遭い、典侍平瑞子の邸宅(冷泉小路北・室町小路西)に遷徒。 退下後は前権中納言藤原光隆の後見を受け、光隆の邸宅・猫間第を御所としていたらしい。大叔母にあたる33代頌子内親王の五辻第を相続し、以後異母弟後鳥羽天皇や甥土御門天皇がたびたび方違え行幸で訪れた。 甥の土御門天皇准母として立后、その後院号宣下にあたって修明門院・春華門院なども候補に挙がったが、坊門院で確定した。 生母は『平家物語』で有名な桜町中納言成範女・小督局(範子内親王を出産後、治承3年冬に出家)。 角田文衛説では、当時女性の名は親の片諱(親などの名前から一字を取って命名すること)をつけることが多く、小督も父成範の片諱をつけるとすれば「成子」か「範子」の可能性が高いが、娘の名が「範子」であることから小督の本名は「成子」であろうとする(なお成範も始めは「成憲」と表記し、父藤原通憲(信西入道)の片諱であったが、平治の乱以降「成範」に改めたという)。 参考論文: ・角田文衛「小督局と坊門院」(『王朝の明暗』p559-568, 東京堂出版, 1977) ※その他関連論文はこちらを参照のこと。 【高倉・安徳朝の斎院卜定事情について】 範子内親王の父・高倉天皇が8歳で即位した1168年、当時の高倉のオバ(鳥羽皇女)や姉妹・姪(後白河天皇・二条天皇の皇女たち)で斎王候補に該当したのは、叔母の頌子内親王(鳥羽皇女、27歳)、異母姉の惇子内親王(後白河皇女、11歳)、姪の僐子内親王(二条皇女、11歳)の3人だった。このうち惇子と僐子は当時まだ内親王宣下は受けておらず、結局惇子が伊勢斎宮となったが、慌ただしく宣下と同日に卜定されている。 一方、賀茂斎院は先代六条天皇から引き続いて高倉の異母姉・式子内親王が留任となったが、その後1169年に病で退下。代わって同年僐子内親王が、続いて1171年に頌子内親王が相次いで交替したが、二人とも病のため短期間で退下(僐子内親王は退下直後に薨去)、さらに1172年には斎宮惇子内親王も伊勢で薨去してしまい、この結果1172~1175年まで斎王候補の皇女はまったくいなくなってしまった(しかも当時は高倉天皇本人も幼少のため、まだ自身の皇子女を望める年齢ではなかった)。 ◆1168年生存の内親王一覧 鳥羽皇女 ・統子内親王[上西門院](1126生,43歳) 前斎院 ・暲子内親王[八条院](1137生,32歳) 二条准母 ・姝子内親王[高松院](1141生,28歳) 二条中宮 ・頌子内親王(1145生,24歳) →1171年に斎院卜定 後白河皇女 ・亮子内親王[殷富門院](1147生,22歳) 前斎宮 ・好子内親王(1148?生,21歳?) 前斎宮 ・式子内親王(1149生,20歳) 斎院 ・休子内親王(1157生,12歳) 前斎宮 ・惇子内親王(1158生,11歳) →斎宮卜定 ※覲子内親王[宣陽門院]は1181生。 二条皇女 ・僐子内親王(1159生,10歳) →1169年に斎院卜定 【斎宮・斎院ならびに候補者系図】 ●は斎宮、◆は斎院 鳥羽天皇 | ├─────┬──────┬──────┐ | | | | 後白河天皇 ◆禧子 ◆統子 ◆頌子 | [上西門院] ├─────┬─────┬────┬─────┐ | | | | | 二条天皇 高倉天皇 ◆式子 ●惇子 覲子 | | [宣陽門院] | ├─────┬─────┬──────┐ | | | | | ◆僐子 安徳天皇 ●功子 ◆範子 ●潔子 [坊門院] 1176年にようやく高倉の長女(第一子)功子内親王が誕生。続いて1177年に次女範子内親王、1179年に三女潔子内親王が生まれる。この結果、まず功子が1177年伊勢斎宮に、続いて範子が1178年賀茂斎院に卜定された(この卜定はかなり急いだものと見られ、範子は数え2歳とはいえ満7ヶ月での卜定だった)。これでひとまず伊勢・賀茂両斎王の不在は回避され、1180年の高倉譲位・安徳即位と福原遷都に際して斎宮功子は退下したが、斎院範子は引き続き斎院に在任している。しかし当時の皇女の人員不足、さらには源平合戦の混乱も影響して、その後安徳天皇・後鳥羽天皇の代に再び斎院不在の危機に陥ることとなった。 |
高倉天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
玉葉 顕広王記 仲資王記 |
治承元年11月4日 | 【第二皇女(範子)誕生】 『玉葉』 或人云、(藤原)成範卿女<祇候内裏、年来通御云々、>此一両日之間有産事、皇子皇女之間、其説縦横、後聞、皇女云々、 |
玉葉 | 治承2年3月1日 | 【斎院卜定について検討】 |
山槐記 | 治承2年6月17日 | 【第二皇女(範子)参内】 |
玉葉 山槐記 顕広王記ほか |
治承2年6月27日 | 【内親王宣下、並びに斎院卜定】 『山槐記』 頭権大夫<光能>、奉院宣来臨、予著烏帽直衣謁之、有斎院卜定事、今上第二皇女<母左兵衛督(藤原)成範卿女、内女房、号小督殿、御歳二才、前治部卿(藤原)光隆卿奉養、日来坐彼卿七条坊門亭>今夜渡卜定所<中御門南京極西前中宮権大夫(藤原)重頼宅>(後略) |
玉葉 | 治承2年8月14日 | 【斎院(範子)著袴以前、帛御装束著御の可否を右大臣兼実に諮詢】 |
山槐記 | 治承3年1月10日 | 【東宮帯刀給所を宣下】 |
玉葉 | 治承3年2月24日 | 【藤原経家、斎院勅別当に任命】 |
山槐記 百錬抄 |
治承3年3月26日 | 【斎院卜定所焼亡】 『百錬抄』 祇陀林寺并初斎院卜定所<中御門南。京極西。>焼亡。 |
玉葉 山槐記 |
治承3年3月27日 | 【斎院卜定所の焼亡を軒廊に卜する】 |
山槐記 | 治承3年3月29日 | 【斎院卜定所焼亡のこと】 |
玉葉 山槐記 |
治承3年4月3日 | 【賀茂社に奉幣。入御卜定、御禊定ほか】 |
玉葉 山槐記 |
治承3年4月9日 | 【斎院(範子)、初斎院(左近衛府)に入る】 『山槐記』 今日初斎院(範子)<当今内親王、母右衛門督(藤原)成範卿女、内女房、號小督局>自冷泉室町西亭<左少将有房妹典侍宅也、本卜定所中御門南京極西、去月廿六日焼亡後、令渡此所給也>禊東河、令入左近府給<有可入御一本御書所之議、而前斎王至于去年御坐彼所、今年正月自野宮退出、被憚彼例云々>云云、伝聞、秉燈之後出御、別当<(平)時忠>被候御車寄、上卿源中納言<雅頼>、弁左中弁重方朝臣参入入行事云々、 |
山槐記 | 治承3年4月18日 | 【賀茂祭】 |
百練抄 | 治承3年12月21日 | 【斎院(範子)著袴】 賀茂斎内親王(範子)著袴<于時御坐左近府> |
山槐記 | 治承3年冬 | 【母小督出家】 |
安徳天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
山槐記 | 治承4年3月23日 | 【紫野本院造営中】 |
山槐記 | 治承4年3月29日 | 【初斎院御禊雑事】 |
山槐記 | 治承4年4月6日 | 【賀茂社に奉幣、斎王(範子)不替を奉告。斎院御禊点地、御禊及び祭日を勘申】 |
玉葉 吉記 |
治承4年4月7日 | 【斎院御禊点地、御禊及び祭日を勘申】 |
山槐記 | 治承4年4月8日 | 【斎院入御のため灌仏会なし】 |
玉葉 山槐記 明月記 |
治承4年4月12日 | 【斎院(範子)初斎院御禊】 『山槐記』 今日初斎院<御年四歳、新院第一[二]御内親王也、母権中納言(藤原)成範卿女、號小督殿、即新院(高倉上皇)女房也、生此宮之後不参、去年冬為尼、生年廿三也、有子細歟、不知其由、前治部卿(藤原)光隆卿奉養之、中御門南京極西前中宮権大進(藤原)重頼宅為卜定所、去年三月廿六日焼亡、仍遷御冷泉北室町西、左少将有房妹室[宅]、其後入御左近府、今日禊東河令入本院給也、今上受禅之後不改之、近年絶斎王不御坐、或雖卜定不入紫野宮退出、今日已無障入御、神感炳焉物歟>禊東河入御紫野院、<近年紫野舎屋皆無實、近日俄造営寝殿、阿波遷任功、自餘又成功等云々>上卿新大納言<(藤原)宗家、卜定以後雅頼實家實綱等卿不遂奉行>宰相右中将<(藤原)實守、卜定以後無宰相、今度御禊歟>弁蔵人頭左中弁(吉田)経房朝臣、<卜定以後重方兼光等朝臣不遂奉行>外記少外記中原貞親、史左大夫大江盛直等也、蔵■方[人?]事蔵人宮内権少輔親経、蔵人平時房等奉行之、予自去五日宿東山、今日及晩<於近江河原近邊日入>帰三條之間、便立車於一條西洞院、密々見物、及亥剋行事官渡大路、先々儀白晝事也、後陵遅之甚、<先儀今度禊行、或不渡> 『明月記』 初斎院御禊、入御紫野云々 |
山槐記 | 治承4年4月15日 | 【賀茂祭】 |
玉葉 山槐記 吉記 明月記ほか |
治承4年12月2日 | 【斎院相嘗御神楽】 |
玉葉 明月記 山槐記ほか |
治承5年1月14日 | 【父高倉上皇崩御。斎院(範子)退下】 |
後鳥羽天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
三長記 女院記 |
建久6年10月22日 | 【前斎院(範子)、准三宮】 |
土御門天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
玉葉 猪隈関白記 |
建久8年3月16日 | 【後鳥羽天皇、閑院内裏より前斎院(範子)大炊御門殿へ遷御】 |
猪隈関白記 | 建久8年4月30日 | 【後鳥羽天皇、前斎院(範子)大炊御門殿より閑院内裏へ還御】 |
三長記 明月記 三中記 師直記 |
建久9年2月14日 | 【前斎院(範子)、入内】 |
猪隅関白記 明月記ほか |
建久9年3月3日 | 【土御門天皇即位。範子内親王、皇后宮に冊立】 |
百練抄 三長記 |
建永元年9月2日 | 【皇后範子内親王、坊門院の院号宣下】 『百錬抄』 有院号定。皇后宮(範子)◆為坊門院。 ◆=軄(身+音+戈。職の異体字。こちらを参照(字源)) |
百練抄 猪隅関白記ほか |
承元4年4月12日 | 【坊門院範子内親王崩御】 『百錬抄』 坊門院(範子)崩御。<御年三十四。> 『猪隈関白記』(4月13日条) 早旦或人云、坊門院(範子)去夜半崩給了云〃、此一兩日雖悩胸給、非殊事、大略頓滅云〃、御年卅四云〃、高倉院御女、院(後鳥羽上皇)御姉、主上(土御門天皇)御養母也、件御在所一條南室町東也、(後略) |
史料 | 記述 |
一代要記 |
土御門天皇 前宮 坊門院範子 高倉院女、治承二年■月■日為斎院、號猫間斎院、 建久九年帝御母儀、建永元年九月二日院號、元皇后宮、 承元四年四月十三日頓滅 |
賀茂斎院記 |
範子内親王 高倉院之皇女也。母成範之女。 治承二年卜定。 号坊門院。又号六角宮。又号土用宮。 承元三年四月十二日薨。 |
女院記 |
<範子> 坊門院 高倉院御女。土御門院准母儀。 治承元年誕生。同二年六月廿七日内親王。卜定。賀茂齋院。<年二。> 建久五年八月退下。同六年十月廿一日准三宮。<年十九。> 同九年三月三日皇后宮。<年廿二。> 此日天皇即位。准母儀。建永元年九月二日坊門院ト申。承元四年四月十二日御事アリ。<年卅四。> |