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28代斎院 統子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
とうし むねこ 准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:鳥羽天皇(1103-1156)
母:中宮藤原璋子[待賢門院]
  (1101-1145)
大治元年(1126)7月23日 文治5(1189)7月20日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
崇徳(1123~1141,同母兄) 卜定:大治2年(1127)4月6日
   (相模守藤原盛重宅)
初斎院:大治3年(1128)4月14日
   (一本御書所)
本院:大治4年(1129)4月19日
退下:天承2年(1132)6月29日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
守子(1111-1156,祖父の従姉妹)
 [伏見斎宮]
 父:輔仁親王
 母:源師忠女
卜定:保安4年(1123)6月9日
   (六角堀川)
初斎院:天治元年(1124)4月23日
野宮:天治元年(1124)9月27日
群行:天治2年(1125)9月14日
退下:永治元年(1141)12月7日
天皇譲位

略歴:
 大治元年(1126)(1歳)7月23日、誕生。


8月17日、内親王宣下。
 大治2年(1127)(2歳)4月6日、准三宮、斎院に卜定。
 大治3年(1128)(3歳)1月17日、著袴。


4月14日、初斎院(一本御書所)に入る。
 大治4年(1129)(4歳)4月19日、紫野院に入る。
 長承元年(1132)(7歳)6月29日、病により退下。
 長承3年(1134)(9歳)6月16日、恂子から統子に改名。
 保元3年(1158)(33歳)2月3日、後白河天皇准母として皇后宮に冊立。
 保元4年(1159)(34歳)2月13日、院号宣下。上西門院と号する。
 平治元年(1159)(34歳)12月9日、平治の乱勃発。後白河院と共に軟禁される。
 永暦元年(1160)(35歳)2月17日、仁和寺法金剛院において出家。
 寿永元年(1182)(57歳)7月8日、前関白松殿基房の子・家房を猶子とする。
 文治5年(1189)(64歳)7月20日、六条院において崩御。

院号:上西門院
後白河天皇准母、皇后宮。
同母兄弟:崇徳天皇(1119-1164)
     禧子内親王(1122-1133,29代斎院)
     通仁親王(1124-1129)
     君仁親王(1125-1143)
     後白河天皇(1127-1192)
     本仁親王(覚性入道親王,1129-1169)
猶子:姝子内親王[高松院](異母妹)、僐子内親王(二条天皇皇女,32代斎院)、藤原家房

鳥羽天皇第二皇女。初名は恂子(じゅんし/のぶこ)。
 母藤原璋子は、父鳥羽天皇の従姉弟。(璋子の父公実と、鳥羽天皇の母苡子が兄妹)

  ┌─────┐
  |     |
 輔仁親王  白河天皇
  |     |      ┌──────┐
  |     |      |      |
  守子   堀河天皇===藤原苡子   藤原公実
 (斎宮)        |         |
            |         |
           鳥羽天皇=======璋子
                  |  [待賢門院]
  ┌──────┬────┬───┤
  |      |    |   |
 崇徳天皇  後白河天皇  禧子 ◆統子
                 [上西門院]

 同母姉禧子内親王と同様、絶世の美貌の女性であったという(『長秋記』『今鏡』)。
 統子誕生のわずか2日後、27代斎院悰子内親王が母の死去により、急遽退下となった。当時斎王候補となる未婚の内親王は、禧子・統子姉妹の二人しかおらず(後の30代斎院怡子は、内親王宣下の時期は不明)、28代斎院がどちらかから選ばれるのは必然であったと見られる。長女禧子は父鳥羽天皇鍾愛の皇女であり、誕生から2ヶ月で既に准三宮となっていたことや、従来天皇家では長女が優遇され斎王選定においても避けられる傾向があったことから、次女である統子が斎院に内定したものと思われる。
 とはいえ、数え1歳で斎王に卜定された前例はなく、また現実的にも幼児の死亡率が高かった当時、生まれて間もない乳児をすぐに斎院とするのはさすがに憚られるものがあったのだろう。結局翌年の夏を待って、賀茂祭の時期に統子内親王は准三宮と同時に斎院に卜定された。

 斎院退下後の統子は、三条京極亭(左京三条四坊十六町)を御所としたらしい(『中右記』長承元年11月22日条)。入れ替わりに29代斎院となった姉禧子は若くして死去したが、後に女院上西門院となった統子の御所は華やかな文芸サロンとしても知られ、母待賢門院璋子に仕えた女房たちが待賢門院没後も引き続いて上西門院に奉仕した他、平氏・源氏双方にゆかりの武士や歌人西行らが出入りした。また同母弟後白河院とは終生親密であったが、そのため平治の乱では院共々軟禁された。
 上西門院女房で平清盛の義妹にあたる小弁局(平滋子。清盛の妻時子の妹)は、後白河院の寵愛を受けて高倉天皇を産み、国母の女院・建春門院となった。また源義朝室で頼朝の母・由良御前(熱田大宮司季範女)も上西門院に仕えていたと言われ、頼朝も上西門院蔵人として統子に奉仕した。
 なおこの他、歌人として知られる女房に上西門院兵衛(源顕仲女、待賢門院堀河の妹)や待賢門院安芸(橘俊宗女)がいる。

 墓所は花園東陵(京都府京都市右京区花園寺ノ内町、今宮神社向かい)。
 ※京都市営バス【花園駅前】またはJR山陰本線【花園】徒歩2分。



上西門院統子内親王墓所(2013年8月19日撮影)





崇徳天皇
史料 年月日 記述
中右記目録
女院記
孔雀経法記
大治元年7月23日 【鳥羽上皇皇女、恂子誕生】
『女院記』
 上西門院 大治元年七月廿三日誕生。
中右記目録 大治元年7月24日 【皇女恂子、御湯殿始】
中右記目録 大治元年7月25日 【皇女恂子、第三夜御産養】
中右記目録
山槐記
帝王編年記
大治元年7月26日 【斎院(悰子)、母の喪により退下】
『中右記目録』
 斎院(悰子)遭母喪、俄退下
『山槐記』
 賀茂斉内親王惇[悰]子、依喪退出
中右記目録
御遊抄
大治元年7月27日 【皇女恂子、第五夜御産養】
中右記目録
御遊抄
大治元年7月29日 【皇女恂子、第七夜御産養】
中右記目録 大治元年8月2日 【皇女恂子、第九夜御産養】
中右記目録
女院記
大治元年8月17日 【皇女恂子、内親王宣下】
『女院記』
 上西門院 同年(大治元年)八月十七日内親王。
中右記目録 大治元年8月19日 【恂子内親王家侍始及び御五十日定】
中右記目録 大治元年9月19日 【恂子内親王、御五十日】
中右記目録
御産記
御遊抄
大治元年閏10月6日 【恂子内親王、御百日】
中右記 大治2年2月27日 【姫宮(禧子)・若宮(恂子?)三条御所へ還御】
中右記 大治2年3月6日 【恂子斎院卜定のこと】
中右記 大治2年3月20日 【恂子斎院卜定のこと】
中右記 大治2年3月22日 【恂子斎院卜定のこと】
中右記 大治2年4月5日 【恂子内親王、相模守盛重宅へ移居】
 新院(鳥羽上皇)第二姫宮(恂子)渡卜定所給、是相模守盛重新造宅、<雷解小路南、堀川東角也、>人々午時参集院御所、<五條亭、>三院(白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院)渡御按察中納言(藤原顕隆)直廬、本院依御憚夜前先渡御桟敷有御見物、按察中納言顕隆卿一人着直衣祇候云々、(後略)
中右記
知信朝臣記
十三代要略
帝王編年記
女院記
ほか
大治2年4月6日 【恂子内親王、准三宮、賀茂斎院卜定】
『中右記』
 今日依可有准后并斎院卜定、午時許参内、(中略)
臨申時右大臣(藤原家忠)被参、則令敷膝突、頭中将忠宗仰言云、無品恂子内親王可准三后之由令作敕書、<與新院女院第二姫宮去年誕生給也、>(中略)
頭中将仰云、恂子内親王可為賀茂斎院由可宣下者、大臣召権神祇少副基行、<入自宜行門、>参膝突、仰件旨畢、又召左少辨同下知其旨了、頭中将來仰云、治部卿、源朝臣(能俊)、左少辨實親、左少史中原重兼令行初斎院事、為初斎院敕別當、(中略)

 准后同日、長元四年馨子、康和元年禎子例也、二歳斎院卜定例、延喜御時恭子内親王例云々、

 斎院次第、

<嵯峨御時>
有智子内親王、<嵯峨第九子、作詩賦人也、
弘仁九年初置斎院司自斯始、>

<淳和、仁明>
時子、<仁明一女、>

<同>
高子、<淳和九女、>
<文徳>
慧子、<文徳九女不吉例、>
<同>
述子、<文徳三女、>

<清和>
儀子、<文徳一女、>
<陽成>
敦子、<清和三女、>
<同、光孝>
穆子、<光孝女、>

<宇多>
直子、<中務卿惟彦女、>
<同、醍醐>
君子、<宇多三女、>
<朱雀、村上>
恭子、<延木三女、>

<同>
宣子、<延木二女、>
<同>
韶子、<延木十三女、>
<朱雀>
婉子、<延木七女、>

<冷泉、円融>
尊子、<冷泉二女、>
<円融、花山、一條、
三條、後一條>
選子、<村上九女、>
<後一條>
馨子、<後一條二女、
皇后宮、後三條院妻、>


<後朱雀>
娟子、<後朱雀院二女、>
<後冷泉>
禖子、<後朱雀四女、>
<同、後三條>
正子、<同五女、>

<後三條>
佳子、<後三條三女、>
<本院>
篤子、<同四女、
中宮、堀川院妻、>

<同、堀川院>
斎子、<小一條妻、>

<堀川院>
令子、<本院三女、>
<同>
.禛子、<同第四女、>
<新院、今上>
宮子、<同女、>

<今上、皇后宮、母后儀、新院初為后、>
悰子、<堀川院女、>
<同>
恂子<新院第二女、
母女院、當時、>

<以上廿八人、此中為皇后三人、>


『十三代要略』
(鳥羽天皇皇女)
 絢子内親王<母同(藤原璋子)>
  大治元年八月十七日。爲親王。
  同二年四月六日。爲齋院。
  同日。准三后後改爲胤子。
(崇徳天皇/大治二年)
 四月六日。卜定賀茂斎院。<恂子内親王太上天皇(鳥羽)第二皇女。>先被下准后勅書。
『女院記』
 上西門院 同(大治)二年四月六日卜定。齋院。准三宮。
中右記 大治2年4月11日 【斎院官符請印、斎院卜定を賀茂社に告げ奉幣。斎院(恂子)、初めて神殿に入御】
中右記 大治2年11月5日 【斎院相嘗祭】
中右記 大治2年11月17日 【藤原宗忠、斎院(恂子)に参上】
中右記 大治2年12月21日 【斎院(恂子)著袴の沙汰】
中右記 大治2年12月25日 【斎院(恂子)著袴定】
中右記
女院小伝
御遊抄
大治3年1月17日 【斎院(恂子)著袴】
『中右記目録』
 斎院(恂子)御着袴、又魚味問答、<御年三歳、>
中右記目録 大治3年3月23日 【斎院(恂子)御禊定】
 今夕治部卿(源能俊)定申斎院(恂子)御禊、
中右記目録
餝抄
大治3年4月14日 【斎院(恂子)御禊】
 斎院(恂子)御禊、入一本御書所、
中右記目録 大治3年11月11日 【斎院相嘗祭】
中右記 大治4年1月6日 【初斎院について】
中右記 大治4年1月18日 【斎院○始め】
中右記 大治4年2月14日 【藤原宗忠、初斎院(一本御書所)へ参上】
中右記 大治4年3月27日 【斎院行事のこと】
中右記 大治4年3月28日 【斎院(恂子)御禊前駈のこと】
中右記
長秋記
公卿補任
大治4年4月5日 【斎院(恂子)御禊前駈定、斎院司除目】
中右記
長秋記
大治4年4月6日 【斎院(恂子)御禊日時勘申、御禊前駈、及び次第使定】
長秋記 大治4年4月8日 【斎院(恂子)初年により、内裏以下灌仏を行わず】
中右記 大治4年4月13日 【斎院(恂子)御禊点地、御禊日時及び神館御装束始日時、同御帳渡立日時等を勘申】
中右記
長秋記
知信朝臣記
大治4年4月19日 【斎院御禊、紫野に入御】
中右記
長秋記
大治4年4月25日 【賀茂祭】
中右記 大治4年11月12日 【斎院相嘗祭】
中右記 大治4年11月24日 【斎院神楽】
中右記 大治5年3月22日 【斎院(恂子)御禊前駈のこと】
中右記 大治5年3月28日 【斎院(恂子)御禊前駈定のこと】
中右記 大治5年4月2日 【斎院(恂子)御禊前駈定延引】
中右記 大治5年4月3日 【斎院(恂子)御禊前駈定】
中右記 大治5年4月5日 【斎院(恂子)御禊出車定】
中右記 大治5年4月7日 【斎院(恂子)御禊点地】
中右記 大治5年4月11日 【斎院(恂子)御禊】
中右記 大治5年4月14日 【賀茂祭】
中右記
長秋記
大治5年9月1日 【斎院(恂子)の改名の可否を議論】
『長秋記』
 又仰云、斎院御名恂子也、而恂子二字進書時、其訓ヒトリ云々、可有其憚哉、将斎王御改名例、雖被相尋、無所見云々、此等間事可定申者、下官申云、先以雖申旨<別當雖云々>可被問撰申人、<敦光朝臣、>以彼陳状被問明経道、其上可定申也、
如定件恂子下、作非子候子云々、事若實者、不可及沙汰歟、源相公被申云、大略如下官申、先被問字様知人、可有其沙汰歟、近来明経必不知字様歟、諸卿皆如下官申、権大納言云、公家置明経道、被置書博士音博士、而背彼求字三人被勘、可無其謂歟、納言申旨叶下官愚案、
重仰云、如定申可被尋問、但自院可有沙汰歟、自公家可被尋問歟、又於有難、無其先例可有御改名歟、下官申云、此字様難漸数年、加之無先例者、於今無御改名矣何事候與、召勘文事已為斎王御事、自公家其沙汰候矣何事候與、諸人皆同下官、別當獨被申云、恂子字アナシコナリ、二宮薨給、若宮不成人給、是若依此字不吉歟、難申事是故大外記師遠也、彼雖已没、書尚例存、
関白(藤原忠通)云、以已去難書不可備時議、以彼男等可令申難旨歟、頭辨重仰云、上卿承宣示絛、無指本解可無便宜、只自院有其沙汰被尋問如何、諸卿皆申可然是由、
 此仰尤可然、但被下御名事、諸卿相定於陣被下畢、
 改定時又自公家有其沙汰矣、依可無其難、申此旨也、
長秋記 大治5年11月4日 【相嘗祭】
中右記 大治5年11月16日 【藤原宗忠、斎院(恂子)に参上】
長秋記 天承元年1月19日 【斎院長官名前】
長秋記 天承元年4月16日 【斎院(恂子)御禊】
長秋記 天承元年4月19日 【賀茂祭。鳥羽上皇と待賢門院、斎院(恂子)の行列を観覧】
長秋記 天承元年4月20日 【斎院(恂子)、野宮に遷御】
中右記 天承2年1月8日 【叙位。斎院(恂子)申文】
中右記 天承2年3月11日 【斎院怪異により軒廊御卜】
中右記
知信朝臣記
天承2年4月8日 【斎院(恂子)御禊前駈定】
中右記 天承2年4月9日 【斎院の怪異により、賀茂社に奉幣】
中右記
知信朝臣記
天承2年4月21日 【斎院(恂子)御禊】
『中右記』
 斎院(恂子)御禊也、
午後天陰雨下、院有御見物、従三条殿出御、立御車於東洞院西邊御覧云々、入夜之間雨脚殊甚、禊斎上卿新大納言(藤原)実行卿、宰相中将(藤原)宗能、左少弁公行、権少外記中原義収、史斎部孝隣、前駆左衛門佐経雅、右衛門佐季兼、左兵衛佐代下総守盛固、右兵衛佐盛章、右衛門権少尉平時作、検非違使左衛門権少尉源親康、検非違使左兵衛権少尉源行賢、右兵衛権少尉源次清、次第使右馬助源光成、左馬少允宮道式成、長官左兵衛佐参行寺[河守?]資賢初任、
今日所之前駆進参不渡大路、大略人々不催歟、甚雨之間、
院御車披此第屋一條門被引入之由、傳聞也、一條道之半休之間甚見苦、且又有巡労也、為後歟、無用事歟、
中右記 天承2年4月24日 【賀茂祭。藤原忠実、斎院(恂子)の車に随行】
中右記 天承2年4月25日 【賀茂祭還立】
長秋記
帝王編年記
天承2年6月29日 【斎院(恂子)退下】
『長秋記』
 下人云、斎院(恂子)依御悩可下給云々、仍以消息令申女院(待賢門院)又内有賢朝臣、各返事云、極大事也、可奉出本院云々、相次候後[彼?]院姉字堀川公送消息云、只今斎院無術御坐、仍出本院着御長官宿所、依所狭少、人々多不可祇候、只今得迎車可退出者、仍送車、乃退出、相語云、自去十三日隔日發給、此三四日不醒給、自昨日萬死一生成給、今日未時以後、如亡自鼻血流出給、仍新大納言(藤原実行)右衛門督(源雅定)参仕寄御車、奉出長官曹司、其後頗如存時有御語、入夜大僧正参入奉祈云々、又有御卜云、官寮共参云々、
中右記 長承元年10月7日 【白河阿弥陀供養。一品宮(禧子)・前斎院(恂子)渡御】
中右記
兵範記
長承元年11月22日 【鳥羽上皇、前斎院(恂子)の三条京極亭に御幸】
中右記 長承元年12月25日 【前斎院(恂子)申文】
長秋記 長承2年4月13日 【前斎院(恂子)読経】
中右記 長承2年7月14日 【鳥羽上皇、前斎院(恂子)第に御幸】
中右記
長秋記
長承2年7月23日 【鳥羽上皇、前斎院(恂子)第に御幸】
長秋記 長承2年9月9日 【源師時、三条京極第で前斎院(恂子)と一品宮(禧子)を見る】
 依女房召、参御簾内、先奉見前斎院(恂子)、端正美麗非所眼及。次奉見一品宮(禧子)、(中略)是又容顔勝斎院給。
長秋記 長承3年4月30日 【前斎院(恂子)改名のこと】
長秋記 長承3年6月21日 【前斎院(恂子)、統子に改名】
長秋記 長承3年8月25日 【前斎院(恂子?)記事】
中右記
長秋記
長承3年9月25日 【前斎院(統子)唐崎禊】
中右記
長秋記
長承3年10月5日 【前斎院(統子)唐崎禊】
長秋記 長承3年12月5日 【鳥羽上皇と待賢門院、前斎院(統子)・雅仁親王・本仁親王の髪削ぎの祝いに、令子内親王御所二条院へ御幸】
中右記
長秋記
保延元年1月20日 【前斎院(統子)の三条京極亭、放火で焼亡】
中右記
長秋記
保延元年8月1日 【斎院(統子)、白河殿に渡御】
兵範記 永治元年3月8日 【鳥羽上皇、故源資成第に前斎院(統子)を訪問】
近衛天皇
史料 年月日 記述
本朝世紀 康治元年10月26日 【近衛天皇、大嘗祭御禊のため賀茂川に行幸。前斎院(統子)、鳥羽法皇と桟敷で観覧】
本朝世紀 康治2年7月11日 【前斎院(統子)、新造三条烏丸第に移徒】
台記
本朝世紀
康治2年9月30日 【前斎院(統子)の三条烏丸第焼亡】
台記
諸院宮御移徒部類記
久安3年3月19日 【前斎院(統子)、東三条洞院殿に渡御】
本朝世紀 久安4年4月19日 【前斎院(統子)、御悩】
台記 久安4年5月5日 【前斎院(統子)、御悩】
本朝世紀 仁平元年5月9日 【前斎院(統子)、日吉社に参詣】
本朝世紀 仁平元年5月25日 【前斎院(統子)の三条東洞院殿で火災】
台記 久寿元年6月19日 【鳥羽法皇・崇徳上皇・美福門院・前斎院(統子)、高松殿に渡御】
台記
兵範記
久寿元年6月20日 【前斎院(統子)、故待賢門院のために御筆御八講を高松殿で行う】
台記
兵範記
久寿元年6月24日 【高松殿御八講結願】
台記 久寿元年6月26日 【鳥羽法皇・美福門院・前斎院(統子)、白河殿に還御】
兵範記 久寿元年8月18日 【前斎院(統子)、東殿に渡御】
後白河天皇
史料 年月日 記述
兵範記ほか 保元元年3月5日 【姝子内親王着裳。腰結は養母統子内親王】
兵範記
愚管抄
ほか
保元元年7月9日 【上皇、白河前斎院(統子?)御所に御幸】
兵範記 保元2年6月7日 【前斎院(統子?)、三条烏丸宮に渡御】
兵範記
帝王編年記
一代要記
女院記
ほか
保元3年2月3日 【准母統子内親王、皇后に冊立】
『女院記』
 上西門院 保元三年二月三日皇后宮。<年三十二。准母儀。>
兵範記 保元3年2月9日 【皇后(統子)入内】
保元三年記 保元3年7月20日 【皇后(統子)、七条朱雀右京大夫藤原信輔の堂に方違行啓】
兵範記
公卿補任
保元3年8月1日 【権中納言藤原実定を皇后宮大夫に、参議藤原信頼を皇后宮権大夫に兼任】
山槐記 保元3年8月5日 【皇后(統子)権大属名前】
山槐記 保元3年8月11日 【後白河天皇譲位、二条天皇即位。皇后(統子)大夫名前】
二条天皇
史料 年月日 記述
兵範記 保元3年8月13日 【皇后宮で一品経供養】
山槐記 保元3年8月25日 【皇后(統子)御所三条烏丸記事】
保元三年記
山槐記
保元3年9月11日 【後白河上皇と皇后(統子)、鳥羽に御幸・行啓】
山槐記 保元3年9月17日 【皇后(統子)権大夫名前】
兵範記 保元3年10月17日 【後白河上皇・皇后(統子)・女御(姝子内親王)、宇治小松殿に御幸】
兵範記 保元3年10月20日 【後白河上皇・皇后(統子)・女御(姝子内親王)、還御。忠通、琵琶・笙を皇后・女御に献上】
兵範記
北院御室日次記
百練抄
保元3年12月10日 【皇后(統子)、日吉社に参詣】
山槐記 保元4年1月1日 【皇后(統子)記事】
山槐記 保元4年1月7日 【皇后(統子)、三条殿へ行啓】
山槐記 保元4年1月9日 【後白河上皇、皇后(統子)三条御所へ御幸】
山槐記 保元4年1月18日 【皇后(統子)大進名前】
山槐記 保元4年1月22日 【関白大饗。皇后(統子)大夫名前】
山槐記
参議成頼卿記
女院記
ほか
保元4年2月13日 【皇后(統子)の院号を定め、上西門院とする】
『女院記』
 上西門院 平治元年二月十三日上西門院ト申。
山槐記 保元4年2月18日 【後白河上皇、上西門院(統子)御所に御幸】
山槐記 保元4年2月19日 【上西門院(統子)殿上始】
山槐記 保元4年2月20日 【後白河上皇、上西門院(統子)御所に御幸】
山槐記
古今著聞集
保元4年2月25日 【上西門院(統子)、高松殿に御幸】
百錬抄 平治元年12月9日 【平治の乱。後白河上皇と上西門院、一本御書所に軟禁される】
夜。右衛門督信頼卿、前下野守義朝等謀反。放火上皇(後白河上皇)三條烏丸御所。奉移上皇上西門院(統子)於一本御書所。
帝王編年記
女院次第
ほか
永暦元年2月17日 【上西門院(統子)出家】
『女院記』
 上西門院 永暦元年二月十七日爲尼。<年卅五。>
山槐記 永暦元年7月1日 【上西門院(統子)、鳥羽に御幸】
山槐記 永暦元年8月21日 【上西門院(統子)、五十日御逆修を行う】
仙洞御移徒部類記 永暦2年4月19日 【後白河上皇、上西門院(統子)御所に御幸】
山槐記 永暦2年8月3日 【上西門院(統子)、法住寺殿に御幸】
六条天皇
史料 年月日 記述
山槐記 仁安2年2月14日 【太政大臣平清盛、慶申】
山槐記
愚昧記
仁安2年2月15日 【上西門院(統子)の中御門烏丸宮、焼亡】
愚昧記 仁安2年7月2日 【鳥羽天皇忌日の法会を鳥羽殿で行う。後白河上皇、上西門院(統子)ほか御幸】
玉葉
愚昧記
兵範記
ほか
仁安2年12月4日 【上西門院(統子)御懺法結願】
高倉天皇
史料 年月日 記述
御室相承記 仁安4年2月16日 【仁和寺観音院灌頂、上西門院(統子)臨御】
玉葉
百練抄
承安元年10月8日 【上西門院、金剛院内小堂を供養】
『百錬抄』
 上西門院(統子)供養法金剛院内小堂。太上法皇(後白河法皇)、建春門院御幸。守覚法親王為導師。<巽角傍池畔建立一間四面精舎。安置丈六阿弥陀像。>
玉葉 承安2年5月12日 【後白河法皇仁和寺に御幸、上西門院(統子)の病を見舞う】
百練抄 安元2年2月20日 【上西門院の蔵人平盛方・僧宴済等、殺人の嫌疑により使庁に拷訊】
 ◆害為綱者僧宴済召出使応拷問。承伏已畢。
同類上西門院(統子)前蔵人平盛方也。(後略)
百練抄 安元2年3月19日 【上西門院の蔵人平盛方、佐渡に流罪】
山槐記 治承2年1月2日 【左近衛大将藤原実定拝賀】
山槐記 治承3年1月19日 【除目入眼。上西門院(統子)任給】
百錬抄 治承3年1月26日 【高倉天皇、法住寺殿で呪師を御覧。上西門院(統子)と八条院臨幸】
山槐記 治承3年6月14日 【祇園御霊会】
玉葉 治承3年7月1日 【上西門院(統子)・八条院、鳥羽に御幸】
玉葉 治承3年7月3日 【上西門院(統子)・八条院、鳥羽より還御】
玉葉 治承3年9月10日 【法皇(後白河)・上西門院(統子)・八条院・皇太后、四天王寺に御幸】
玉葉 治承3年9月21日 【法皇(後白河)・上西門院(統子)・八条院、四天王寺より還御】
山槐記 治承3年11月1日 【権中納言藤原師家直衣始】
安徳天皇
史料 年月日 記述
吉記 治承5年3月1日 【上西門院(統子)、法皇(後白河)御所に渡御】
吉記
百練抄
治承5年5月21日 【法金剛院中の上西門院(統子)御所、火災】
玉葉 寿永元年7月8日 【上西門院(統子)、松殿基房の子家房を猶子とする】
愚昧記
公卿補任
寿永元年7月20日 【松殿家房、上西門院(統子)御所にて元服】
吉記 寿永2年6月2日 【上西門院(統子)不予】
吉記
百練抄
寿永2年6月22日 【上西門院(統子)不予】
吉記 寿永2年7月18日 【上西門院(統子)、法金剛院御所へ御幸】
安徳天皇・後鳥羽天皇
史料 年月日 記述
玉葉
吉記
寿永2年11月18日 【上西門院(統子)・皇后(亮子)、兵乱を避け双輪寺の辺りに渡御】
吉記 寿永2年11月20日 【上西門院(統子)と皇后(亮子)、五辻御所に渡御】
吉記 寿永2年11月26日 【上西門院と八条院、斎院(頌子)の五辻御所に渡御】
玉葉
吉記
寿永2年12月13日 【上西門院(統子)・皇后(亮子)、五辻殿より
前参議藤原基家の持明院第に渡御】
玉葉
山槐記
歴代皇紀
寿永3年/元暦元年8月26日 【上西門院(統子)不予祈祷の勤賞により、僧正昌雲を大僧正に任命】
山槐記 寿永3年/元暦元年9月17日 【如法仁王会。上西門院(統子)参列】
吉記 寿永4年/元暦2年1月5日 【法皇(後白河)、上西門院(統子)御所に御幸】
後鳥羽天皇
史料 年月日 記述
仲資王記 文治5年5月22日 【上西門院(統子)不予】
仲資王記
玉葉
百錬抄
皇代暦
女院記
文治5年7月20日 【上西門院(統子)崩御】
『百錬抄』
 上西門院崩。<春秋六十四。>
『女院記』
 上西門院 文治五年七月廿日御事アリ。<年六十四。>
吉部秘訓抄 文治5年8月25日 【上西門院(統子)五七忌】
百錬抄 文治5年10月11日 【上西門院の遺令により廃朝】
 権大納言(藤原)実家参入。奏上西門院(統子)遺令。自今日廃朝三ヶ日。
百練抄 文治5年11月17日 【後白河法皇、姉上西門院の服喪を終える】
 法皇令除上西門院御服給。
百練抄
玉葉
建久二年祈雨日記
建久2年6月10日 【京火災。故上西門院御所焼失】
『百錬抄』
 未刻。六條萱御所并上西門院終焉御所等焼亡。



史料 記述
一代要記

鳥羽天皇
皇女 統子内親王 母待賢門院、號上西門院

崇徳天皇
斎院 恂子内親王 鳥羽院皇女、天治三年卜定

二条天皇
前后 上西門院恂子 或統子、前斎宮、鳥羽二女、母待賢門院

六条天皇
前后 上西門院統子 尼、鳥羽二女、元斎院、次皇后宮

高倉天皇
前后 上西門院統子 尼、上皇同母、鳥羽御女、元斎院、次皇后宮

安徳天皇
前后 上西門院統子 尼、本名恂子、鳥羽二女、一院同母、元斎院皇后宮

後鳥羽天皇
前后 上西門院統子 尼、文治五年七月二十日崩、年六十五、法皇姉

賀茂斎院記

恂子内親王<恂系譜作詢>
鳥羽院之皇女也。母待賢門院璋子。権大納言公実之女也。
大治三年卜定。
号上西門院。

女院記

<統子>
上西門院 鳥羽院御女。母待賢門院。後白河院准母儀。
<本名恂子>
 大治元年七月廿三日誕生。同年八月十七日内親王。同二年四月六日卜定。齋院。准三宮。保元三年二月三日皇后宮。<年三十二。准母儀。>  平治元年二月十三日上西門院ト申。永暦元年二月十七日爲尼。<年卅五。> 文治五年七月廿日御事アリ。<年六十四。>

今鏡
(3・大内わたり)

 大嘗会など過ぎて、年もかはりぬれば、院の姫宮(姝子内親王)東宮(守仁親王、後の二条天皇)の女御にまゐり給ふ。高松の院と申す御事なり。
 前の斎院(統子)とて、今の上西門院のおはしまししを、(姝子の)御母にしたてまつらせ給ふと承りし。
 母后美福門院おはしませば、別の御母なくてもおはしましぬべけれども、いますこしねんごろなる御心にや侍りけむ。(後略)

今鏡
(6・宮城野)

 この(鳥羽天皇と待賢門院の)宮たち、親の御子におはしませば、ことはりとは申しながら、なべてならぬ御姿なむおはしまする。
 誰もと申しながら、院の御姉におはしますなる女院(統子)こそ、すぐれておはしますさまは、並ぶ御方々かたくおはしますなるに、今の皇后宮(後白河后忻子)にや、いづれにかおはしますらむ、参らせ給へりけるに、人の見くらべ参らせけるこそ、とりどりにいとおかしく見えさせ給ひけれ。
 女院は白き御衣十にあまりて重なりたるに、菊のうつろひたる小袿、白き二重織物(ふたへおりもの)のうはぎたてまつりて、三尺の御几帳のうちに居させ給へりけるに、皇后宮は、うへ赤色にて、したざま黄なる櫨紅葉の、十ばかり重なりたるに、うはぎは同じ色に、やがて濃き葡萄染(えびぞめ)の小袿の、いろいろなる紅葉うち散りたる二重織物たてまつりたりけるを、見参らせたる人の語りけるとなむ。

今鏡
(6・志賀のみそぎ)

 次の姫宮は、また先の斎院とて、恂子の内親王と申しし、のちには統子とあらためさせ給ひたるとぞ聞えさせ給ひしは。大治元年七月二十三日に生れさせ給ひて、八月に親王の宣旨かぶり給ひて、長承元年六月三十日、斎院(いつき)出でさせ給ひて、保元三年二月皇后宮に立たせ給ふ。上西門院と申すなるべし。永暦二年二月十七日御髪おろさせ給ふと聞えき。后に立たせ給ふと聞えしは、帝(後白河天皇)の御母になぞらへ申させ給ふとぞ聞えさせ給ふ。六条院(郁芳門院)の例にや侍らむ。
 この女院の前の斎院とて、唐崎の御祓へせさせ給ひし時、御をぢの太政の大臣(実行)の詠み給へる、

  昨日までみたらし川にせし禊ぎ志賀の浦波たちぞかへたる

と侍りけるとなむ。秋の事なりけるに、狩衣おのおの、萩、龍胆(りうだん)などいとめづらしきに、逢坂の関うち越えて、山のけしき、湖など、いとおもしろくて、御祓への所は、形(かた)のやうなる仮屋(かりや)に、斎垣(いがき)の朱(あけ)の色、水の緑見えわきて、心あらむ人は、いかなる言の葉もいひとどめまほしきに、大臣の御歌たけたかく、いとやさしくこそ聞え侍りしか。

今鏡
(8・腹々の御子)

 また讃岐の院の皇子は、それも仁和寺の宮(覚性法親王)におはしまする、法印にならせ給へるとぞ聞えさせ給ふ。それも真言よく習はせ給ひて、勤め行はせ給へりとぞ。上西門院御子(猶子)にし申させ給へるとぞ。



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