26代斎院 官子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||||||||||||||
かんし | きみこ(または「たかこ」か) | 不明 | ||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||||
父:白河天皇(1053-1129)
母:掌侍源頼子(盛子?) (1132以降没) |
未詳(1100以前?) | 未詳(1170以降?) | ||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||||
鳥羽(1107~1123,甥)、 崇徳(1123~1141,甥孫) |
卜定:天仁元年(1108)11月8日 (土左守[高階?]盛業 二條京極宅) 初斎院:天仁2年(1109)4月20日 本院:天仁3年(1110)4月12日 退下:保安4年(1123)1月28日以降? |
不明 | ||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||||
恂子(1093-1132,異母姉妹) [樋口斎宮] 父:白河天皇 母:藤原季実女 |
卜定:天仁元年(1108)10月28日 (遠江守藤原國資之宅 綾小路油小路) 初斎院:天仁2年(1109)4月14日 (諸司) 野宮:天仁2年(1109)9月15日 群行:天永元年(1110)9月8日 退下:保安4年(1123)1月28日 |
天皇譲位 | ||||||||||||||||||||
号:清和院斎院、勢賀院斎院 名は宮子とも表記する。 『一代要記』は法皇(白河院)五女とする。 生母源頼子は、多田源氏の祖源頼綱(1025-1097,頼光の孫)の娘。 『今鏡』によると、70歳過ぎまで長生した(嘉応2年(1170)頃には生存?)とあることから、康和2年(1100)以前の生まれか。 なお、従兄弟の一人に以仁王の挙兵で敗死した源頼政(1104-1180)がいる。 源頼子=====白河天皇=====藤原季実女 | | | | | | ◆官子 堀河天皇 恂子 | (斎宮) | 鳥羽天皇 | | 崇徳天皇
【官子内親王の退下時期】
官子の斎院退下については、年月日の記録は残っておらず不明だが、27代悰子が卜定された保安4年(1123)8月28日以前であることはほぼ確実である。また当時官子の両親(父鳥羽天皇・母源頼子)は存命であり、官子自身もその後の生存が確認されていることから、父母の喪及び本人の死去による退下はありえない。これにより、『平安時代史事典』では「当帝(鳥羽天皇)の譲位」による退下と見なしている。 しかし天皇譲位で斎院が退下したと見られる例は2代時子のみで(18代娟子は父上皇崩御による可能性が高い)、加えて退下から新斎院卜定まで7ヶ月もかかっているのは異例の長さである(天皇崩御を除き、斎院退下から新斎院卜定までに要する期間は3ヶ月~5ヶ月が殆どである)。また崇徳天皇の斎宮となった守子女王(輔仁親王女)の卜定は保安4年(1123)6月9日だが、27代斎院悰子の卜定は8月28日であり、斎宮卜定に比べて斎院卜定は3ヶ月近くも遅れている。通常、新帝即位に伴う斎宮・斎院の卜定は同日または数日以内に行われており、これほど時期が離れている例は他にない点も不審である(現に官子の斎院卜定と同時期に斎宮となった恂子内親王は、官子より10日早い天仁元年(1108)10月28日に卜定された)。 さらに『中右記』(大治2年4月6日条)には、28代統子(※当時の名は恂子)の斎院卜定についての記事で「斎院次第」に歴代斎院の名と奉仕した時期の天皇の名の一覧があり、この中で24代令子から28代統子までの5人の斎院について以下のように記載されている。(下線は引用者) <堀川院> <同> <新院、今上> 令子、<本院三女> 禎子、<同第四女> 宮子、<同女> <今上、皇后宮、母后儀、新院初為皇后> <同> 悰子、<堀川院女> 恂子<新院第二女、母女院、當時> ここでの「本院」は白河院、「新院」は鳥羽院、「今上」は崇徳天皇を指す。即ち、斎院宮子(=官子)は新院(鳥羽天皇)と今上(崇徳天皇)の二代にわたる斎院であったとされており、鳥羽天皇の譲位では退下していなかったことになる。よって官子は崇徳天皇の即位後(さらには斎宮守子の卜定後?)に、恐らくは自身の病により退下、その後斎宮卜定に遅れて新斎院も卜定されたものと考えられる。 源頼子===白河天皇===藤原賢子 | | | ├────┬───┐ | | | | 官子 堀河天皇 令子 禛子 (26代) | (24代) (25代) ┌────┤ | | 悰子 鳥羽天皇=====藤原璋子 (27代) | [待賢門院] ┌─────┬────┬───┤ | | | | 崇徳天皇 後白河天皇 禧子 統子 (29代) (28代) ※堀口悟氏は「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」で、『中右記』所収の「斎院次第」は「他の史料と比較したときいずれも誤りを含む」として採用していない。確かに9~10世紀の歴代斎院についてはそのまま信頼できない面もあるが、保安4年(1123)と思われる官子の斎院退下は「斎院次第」が記された大治2年(1127)からわずか4年前の出来事であり、著者藤原宗忠にとっても記憶に新しい出来事であったろう。また当時は『中右記』の保安4年部分も当然存在していたと思われ、よって斎院官子についての記述の信憑性は高いものと考える。 官子の号「清和院(勢賀院)斎院」について、角田文衛氏は清和院を里第としたためであろうとする。 関連論文: ・堀口悟「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」(『古代文化』31巻10号, 1979) ・角田文衛「源経光の死」「源頼綱の娘たち」(『王朝の映像』東京堂出版, 1970) |
鳥羽天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
殿暦 中右記 帝王編年記 一代要記 皇代暦 |
天仁元年11月8日 | 【官子女王、内親王宣下。斎院に卜定】 『中右記』 今日斎院卜定也、依有催酉時参仗座、民部卿兼被着端座、左大辨、藤宰相祇候、予依上卿氣色着奥座、治部卿又被參加、(中略) 頭爲房仰下云、官子女王、准一日齋宮例、先可爲内親王哉否事、人々可量申、<件女王上皇(白河)御女、故(源)頼綱朝臣外孫也、年來世不知之人也、>民部卿(源俊明)以下一同申云、斎宮卜定之時、一日已定申了、准彼例被爲内親王可宜歟、是只同事也者、頭奏聞件旨、仰云、以官子女王可爲内親王者、民部卿召權辨、被仰下其由了、次仰下云、齋院可卜定由、令勘申日時刻、召權辨令勘、以頭奏聞之後被下辨領、件勘文入外記筥被奏、次頭爲房仰下云、官子内親王可爲賀茂齋院之由、可卜申者、上卿召權辨、仰可令敷座之由、掃部官人敷座於軒廊、<主水司居水火了、>召外記、仰可召神祇官之由、外記奉仰之後、神祇官入從日花門着軒廊座、<酉第二間以東、>權大副卜部兼宗、少副大中臣輔清、權少副卜部兼政、大夫祐伊岐致元以下八人也、又召外記、仰可進紙筆之由、則持參硯筥、置上卿前、<紙加入、>上卿自書内親王名、<巻禮紙、>召外記令進筥、入其筥下給外記令封、<外記乍居膝突封之、>入筥進之、上卿封目之上被書封字入、<一夜無此事如何、可尋、>次召少副大中臣輔清、乍入筥給之、仰可卜申之由、輔清歸座傳兼政令卜、<輔清第二者也、猶可召第一之人歟如何、伊勢事時多雖下臈、所召中臣官人也、他社之時、只可召第一之人歟、而先例又如此歟、可尋知、>卜了注付卜食由於其上入本筥、輔清進上卿、上卿召外記、仰神祇官可罷出由、官人等退出、又令撤座、又召外記令持筥、上卿進弓場殿、付頭奏聞、<卜串留御所、返給筥、殿下令候御前給也、一日齋宮卜串留御所、今夜返給也、是共長和寛治之例云々、可尋知歟、>上卿復本座、外記取空筥、出從宣仁門了、頭仰云、以官子内親王、可爲賀茂齋院、治部卿源朝臣、權右中辨爲隆、左少史資忠等、可令行齋院事、<後聞、殿下仰云、上卿辨許、從御所被仰下也、於史者不仰下、是上卿相量可召仕之故也、>奉幣大祓日時令勘申者、又以散位宗季朝臣可爲敕別當者、上卿召外記、仰可召輔清之由、輔清入從宣仁敷政門參膝突、以官子内親王可爲賀茂齋院之由被仰下、又召權辨爲隆、齋院上卿辨史敕別當等事、奉幣大祓日時事被仰下了、日時勘文奉上卿、以辨奏聞、<入外記筥被下辨、>次召外記令撤硯筥等了、(中略) 今夜勅使此四位少将宗能也、<猶可遣五位歟、>齋院御所、土左守盛業二條京極宅也、今夜齋院被渡云々、上卿辨神祇官人參彼亭、始次第事等、指賢木、一日齋宮卜定與今夜齋院卜定相違事、 齋宮卜串奏、奏聞之後返給、今夜留御所、齋宮無日時勘文、<今夜先被勘日時、是皆寛治例也云々、> 民部卿齋院卜定日時勘文被返給之後、被問人々云、此勘文可下外記、可下辨歟如何、無慥覺人、即愚案云、齋王卜定之時、成承知官符、又辨官尤所沙汰成、被下辨何難之有哉、仍被下辨了、但可尋先例事成、抑件勘文被下辨時、乍入筥被下辨、仍不結申、頗被思失歟、猶下勘文許於辨之後、以筥如本可返給外記也、 |
中右記 | 天仁元年11月9日 | 【斎院卜定を賀茂社に奉告】 依斎院卜定、有奉幣賀茂云々、上卿治部卿、使左大弁云々 |
中右記 | 天仁元年11月17日 | 【斎院(官子)官符のこと】 有政、治部卿左大弁著行云々、是斎院内親王官符請印者 |
殿暦 | 天仁2年3月30日 | 【斎院(官子)御禊定】 |
殿暦 | 天仁2年4月7日 | 【斎院(官子)御禊について】 |
殿暦 | 天仁2年4月20日 | 【斎院(官子)御禊】 今日斎院(官子)御禊也、午剋許(藤原)為房來云、申剋許主上(鳥羽天皇)御く志和かせ給也、予可参仕由有院(白河法皇)仰、仍参入、予着衣参内、(後略) |
殿暦 兵範記 |
天仁2年4月23日 | 【賀茂祭】 |
永昌記 | 天仁3年3月23日 | 【斎院行事】 |
殿暦 | 天仁3年4月2日 | 【斎院除目、御禊前駈定】 |
殿暦 | 天仁3年4月12日 | 【斎院(官子)御禊】 |
中右記 | 天仁3年4月13日 | 【斎院、紫野に入御】 |
殿暦 | 天仁3年4月17日 | 【賀茂祭】 |
中右記 | 天永2年3月13日 | 【斎院内で触穢】 斎院長官定仲来云、斎院中従今朝有五體不具穢、早可申殿下(藤原忠実)并院(白河法皇)之由答了、 |
中右記 永昌記 |
天永2年3月15日 | 【斎院触穢を軒廊御卜】 今日左兵衛督(藤原能俊)申行軒廊御卜、是斎院◆出来死事、了五體不具穢出来事、是賭弓以前所被行也、 ◆=虵(虫偏+也。蛇の異体字。こちらを参照(字源)) |
中右記 | 天永2年3月25日 | 【潔斎のこと】 |
中右記 | 天永2年4月1日 | 【潔斎上卿、念仏等停止】 |
殿暦 中右記 |
天永2年4月6日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 『中右記』 申時許参斎院(官子)、是依可有出車定也、着客殿座、<上卿西庇東面、弁史座南庇南[北]面、長官已下院司座東庇四面、各居肴物粉熟、>右中弁(藤原)為隆朝臣、大夫史盛仲宿禰、長官定仲以下、次官判官皆着座了、先一献長官勧盃、盃転弁史座、次判官来置例文於予座前、入柳筥硯紙等置弁座前、予取例文読上、令弁書定文、<出車六両、先除去年去々年献之人々并有障人、公卿六人、任舊定文書之、>又出馬定文同令書、<殿上人四人也、多是所着受領也、>弁持来定文二通、見■[了?]召長官下定文、可催之由仰下、次二献如初、居汁物、立箸、次令撤例文退帰、秉燭以前帰家、今日新大納言、<宗、(藤原宗通)>新宰相<為、(藤原為房)>参仗座、被定申御禊前駈云々、是禊祭上卿予可定申也、而大納言被語請云、新任之後、於仗座未行公事、今日依當吉日、欲定申前駈事者、仍予譲彼人也、新宰相、又雖非禊祭、宰相新任人、初為書定文、所勤仕也、 後日新大納言談云、新任之後行公事、道虚如何、先尋例之處、堀川右大臣(藤原頼宗)殿、治安元年七月廿五日、<任大納言、>萬壽二年六月十二日、<壬戌時戌、>着座、件例家吉例也、雖道虚已有着座事、何況乎行公事不可有憚者、仍今日所定申前駈也者、最可然歟、左衛門佐有障替、被入美濃守忠高了、定文令蔵人弁雅兼内覧殿下、被下外記者、 |
長秋記 | 天永2年4月9日 | 【神館斎王御所、大風で倒壊】 (前略)今日巳刻賀茂權禰宜成忠參内、申云、神舘齋王御所、并公卿座屋、爲大風顛倒者、 |
殿暦 中右記 |
天永2年4月11日 | 【斎院(官子)御禊点地】 『中右記』 今日斎院(官子)御禊点地文、右中弁持来、<三枚、>見了付右中弁覧殿下、則下了、毎年御禊点地、以今日卯日為式日也、左兵衛佐季通俄申所労由、辞退御禊前駈、則以頭弁奏聞、院宣云、以筑前守泰兼、可令勤仕者、 |
殿暦 中右記 |
天永2年4月13日 | 【左兵衛佐季通、斎院御禊前駈交替を申請】 『中右記』 (前略)御禊前駈左兵衛佐季通申故障替、依殿下(藤原忠実)仰、諸大夫責催由、仰下外記了、又左京進不供奉事、可尋催由同仰了、 |
殿暦 中右記 |
天永2年4月14日 | 【斎院(官子)御禊】 『中右記』 斎院(官子)御禊也、依為上卿、未剋参本院、<先沐浴祓、>先雖可着客殿、本院之事全無沙汰人、仍爲尋懈怠事、参御所邊、右中辨参入、是垣下者、頃而相具人々出自南北門、着客殿座、本居饗、上卿宰相西庇、<東面北上、昇從北面西一間、簀子着座、>辨外記史南庇西上北面、右中辨爲隆、大夫史盛仲、外記兼職着座、本院司東庇北上西面、垣下北庇西上南面、前駈五位已上座、母屋西三對座、東庭立酒部所幄、<史生官掌在其内、>南庭檢非違使忠重有定着床子座、<看督長先兒立床子、>人々着座了、予前駈京職参否之事問外記、申皆参由、但候近邊、斎王(官子)御出者、<前駈近代不着此座也、>本院事女房出車具了哉由、間長官、申具之由、次引廻牛、<御車牛、殿下(藤原忠実)令進牛十頭、>次屐子着十四人、絲鞋着十人、下仕二人、廻客殿、此間蔵人(藤原)爲忠從内持参女房扇、<廿三枚、水入冬房、>童女扇、<四枚、>長官起座申事之由、御所邊召蔵人、<先敷座、予諸大夫益送、從殿下被催、>給禄、<女装束、> 申刻寄御車於南階、<長官寄御車、>予以下入自中門、列立南庭、<予、宰相中将、立遣水西邊、西面北上、辨立渡、大夫史、外記立遣水東、> 斎王乘車給後、予以下出自南門乘車、立車於堀川一條北邊、<予車西、宰相東、>以召使尋次第、使馬助、行事右中辨爲隆、大夫史盛仲、外記兼職、乘車一々東行、<予此間暫下車簾令車渡、>暫斎王留大宮辻、左右京職進屬以下相竝渡之、御禊物具、宮主<本宮重服云々、仍兼日仰神祇官、令着進代官、>此後尋前駈、未参具也、仍暫遅々、 <裏書云> 先日攝政殿(藤原忠実)被教仰云、公卿立車時、大臣解鞦乍懸牛引出也、大納言以下ハ引出牛、鞦ハ如本結付車也、此事年來不知、仍今日於列見辻立車時、不令解鞦也、(已上裏書)、 天俄陰頗少雨、不及衣濕、光景推遷、纔人々参來、右兵衛尉經遠、左兵衛尉忠時、右衛門督盛康、蔵人左衛門尉有業、右兵衛佐能賢、左兵衛佐代内蔵助雅●、 <佐季通織■[俄?]申障、仍仰外記、從機能召出諸大夫一人也、先例俄闕時有如此事云々、仍被仰下也、> 右衛門佐宗章、左衛門佐代美濃守忠高、<佐資信重服替也、依年少人内府随身二人取馬口、>雑色二人、所衆四人、<今日爲先所衆以雑色可渡也、而雑色前行失也、>次第使馬助、<景仲、>長官、<定仲、>漏刻、斎王御車、<殿下御車、>次官判官相竝渡之、二車、<内大臣(源雅実)牛、>三車、<右大将(藤原家忠)牛、>馬允盛兼、女房出車六兩、<民部卿(源俊明)、藤大納言、(經(藤原経実))、治部卿(源基綱)、左兵衛督(藤原能俊)、左宰相中将、(家(藤原家政))、左大辨、>秉燭以前渡了、予歸家之後雨脚、計也御禊之間、依雨有煩歟、(後略) ●=りっしんべん+「中」 |
殿暦 中右記 長秋記 |
天永2年4月17日 | 【賀茂祭】 『中右記』 天陰雨下、賀茂祭也、午時許參斎院、先參東廊、右中辨參會、相催懈怠事等、 今日院(白河法皇)可有御見物、申有其議、而時剋推遷、雨脚未止、仍以書状遣尋播磨守長實朝臣之處、返事云、依陰雨無御見物、頗以遺恨歟、此間左大辨參入、是依新宰相、<中将語、左大辨今日參云々、彼人依可有院御見物、爲勤仕前駈、大略語付歟、>出車餝馬等未相具者、人人催廻諸事、大略具了、着客殿座、 <其座如御禊日、但母屋座今日諸使座者、>檢非違使等、依雨儀、在東屋南庇、外記■[未?]來甚奇恠也、本院之事具否之由、問長官、大略具了、只今女房出車漸乘了者、但依雨脚無隙、不令引廻餝馬、又不見走童、早可寄御輿之由、仰長官、外記兼職參入、遅參之事頗有所申、強不勘發、使々參否事問外記、皆申在近隣之由、斎王(官子)乘給輿之間、予與左大辨、依雨儀在南中門、長官密語云、從昨日斎王有月障、仍御汗殿、乘輿之間、用長押之下道云々、是先例也、予左大辨以下、出從南門、乘車行向列見辻之間、暫留車於近衛府使少將伊通騎馬之所、尋事具否、奏[葵?]不可忌[忘?]之由、入雑色示之處、如案所忌[忘?]云々、早相尋近邊、可懸使之冠由所教也、仍立車於列見辻、凡雨脚殊盛、前後不見、次第違亂、山城騎兵渡、斎王輿暫留大宮辻、行事右中辨(藤原)爲隆、大夫史盛仲、外記兼職、連車渡、暫留車、予以召使早可被過之由名之、人々車或渡、又從將來過也、尋檢非違使間、召使來云、府生有定忠重二人之外未參、暫可待具由申上者、予以召使仰云、雨脚殊甚、日已欲暮、強不待具、只早可渡者、左右看督長等相竝渡之、檢非違使有定忠重二人相具、而於上卿前欲下馬、而雨脚甚間、有煩下馬、以召使早可渡之由仰下、仍下[乍?]騎馬渡之、山城介親行渡之、内蔵寮御幣、皇后(令子)御幣、本院御幣等相渡、皇后宮使大進右衛門權佐重隆牽馬口、番長國重、<殿下(藤原忠実)御随身、>近衛取之、馬寮使助有隆、近衛府使右少將伊通、餝馬口、<府生敦利、兼久、>牽馬、<府生兼近、番長末利、>随身持敕禄、而依甚雨止、少舎人童并笠車等如何、只可被渡歟、若是明日依見物不可令損歟、舞人陪従在前後、早可渡由、以召使仰也、<舞人陪従ハ、上卿車前ハ可下馬也、>内蔵寮使助行仲、此間檢非違使宗清、行重、大夫尉繁時渡、使之中、是遅參之所致也、甚以奇恠歟、相尋女使之處、來參者、次第使馬助景仲、長官定仲、左右衛門、左右兵衛陣、漏刻、斎王輿、絲鞋着下仕取物等、相具腰指、女蔵人、<輿等、>騎馬童女女使追參、在此列歟、<可在御輿也、>次官判官辛櫃膳夫等、所前駈遅參御車ニ三車、次第使馬允盛兼出車六兩典侍車、<御乳母左中辨顕隆妻、一家人々六人前駈、此中允通前駈、如此事儒者強不見事歟如何、>命婦車蔵人車、◆司車、日已暮雨猶盛、廻轅欲歸之間、蔵人所前駈等渡、太奇恠也、凡今日終日大雨、仍強不守次第、只以無懈怠爲先可[耳?]、入夜歸家、<依甚雨次第頗狼藉也、>(中略) 去十二日依賀茂社恠異、被行軒廊御卜之處、神事不浄之由、官所卜申也、今日斎王有月障之上、雨脚殊甚、若是依如此事歟、龜卜如指掌也、 ◆=闈(門構えに韋。こちらを参照(字源)) |
中右記 | 天永2年5月25日 | 【斎院中死蛇の事を、軒廊御卜】 今夕内大臣被行軒廊御卜、是伊勢神宮御衾事、又治部卿行軒廊御卜、斎院中◆出来死事者、 ◆=虵(虫偏+也。蛇の異体字。こちらを参照(字源)) |
中右記 | 天永2年11月25日 | 【斎院相嘗祭延期、12月15日に決定】 斎院相嘗今日依世間穢気延引、来月三日依當上卯、欲申行處當国忌、准據之例尋大外記(中原)師遠處、国忌日無行神事例、中卯十五日可行之由奏聞、仰云、尤可然、件十五日可行者、 |
中右記 | 天永2年12月3日 | 【相嘗祭延期を本院に伝える】 今日斎院相嘗、依當上卯雖可被行、當国忌、仍延引中卯可行之由、下知本院了、去十一月間依世間穢延引也、但先尋例之處、十二月無相嘗例、然而又無止神事不可黙而止、仍十二月可被行之由先日議定了、且申院且問外記所沙汰也、 |
殿暦 | 天永2年12月15日 | 【斎院相嘗祭】 |
中右記 | 天永3年4月3日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 『中右記』 今日斎院(官子)御禊前駈定也、仍申時許三代、兼以蔵人辨■■此由了、右大辨長忠、右少辨實光等参入、是皆禊斎行事也、予着端座、召官人令敷軾、右大辨着參議座之上、予召外記仰云、御禊令文硯等可持參、外記■[稱?]唯歸入、外記二人出來、一人<ハ>入例■[文?]等於筥置予前、<四府差文、并次第使馬助允差文加入也、>一人<ハ>取硯筥置宰相座前、此間藏人辨參、前駈呼称之替以輔明可入之由被仰下也、兼日有障之輩事由請也、予見例文并差文、令右大辨■<書■依例文入人々事依今度差文、>書了■■予披見、頗文字書■也、又返下令書直、暫留例文等入■■一枚於筥、召外記内覧即歸■[來?]云、又不可奏早可下者、<乍在座付藏人、若■御時内覧之後被下辨可奏也、然而幼主常事也、>加入例文差文等返給外記、仰云、任定文早日催廻者、外記■[稱?]唯取筥退歸之次、取重硯筥入了、<前駈之定、兼日尋日次、下知官外記也、>禊日前駈、<左衛門權佐藤實光、淡路守藤輔明、右衛門佐代官、左兵衛佐藤顯經、右衛門佐源顯親、>次第使、<右馬助藤有隆、左馬允平■重、> 年 月 日<已上一紙也、依御物忌申[用?]宿紙、> 入夜之後事了、爲定出車、引辨大夫史參斎院、<兼日召仰院司了、>着客殿座、<予座西庇敷茵、右少辨大夫史在南座、長官以下東庇、各居肴物粉熟、本院儲之、>宰相外記不參、自陣退出、先一獻、長官勧盃、予授盃轉於辨、辨來座前授盃傳大夫、次院司入例文於柳筥置予座前、又置硯於辨座前、予取例文見之、出車六兩可被獻公卿令辨書、<除大臣并去年役人、有障人、禊斎上卿、宰相也、>又祭日騎馬童女出馬殿上人四人定文令書、<除去年人々、多用殿上受領、>右少辨持來定文二通、<出車一枚出馬一枚>予披見後召長官給定文、早可催之由仰下之、次二獻如初、居汁物、立箸、次召院司、令徹例文并硯退出了、 此次一條堀川橋可令修理由可仰左右京職自[旨?]仰辨了、 又毎年御禊點地卯日爲式日也、而今年祭以前有二卯、可由何卯哉之事問院司處、申云、先例中卯之由院司所申也、 又斎王御車之牛從殿下爲定事令奉給也、至二三車之牛者、先々從本院被申可然大臣云、至當斎院者、只以院司可申大臣并上﨟大納言之由被仰下也、仍可申左府(源俊房)并民部卿(源俊明)之由仰長官了、<去年内大臣(源雅実)右大將(藤原家忠)被奉也、>今夕入夏節也、仍上皇(白河法皇)爲御方違有御幸伏見云々、 |
中右記 | 天永3年4月5日 | 【御禊前駈の変更】 |
中右記 | 天永3年4月7日 | 【御禊前駈の変更】 |
中右記 | 天永3年4月9日 | 【御禊前駈奉仕】 |
中右記 | 天永3年4月17日 | 【御禊点地文決裁】 |
殿暦 中右記 |
天永3年4月20日 | 【斎院(官子)御禊】 『中右記』 齋院(官子)御禊也、予依爲上卿午時許參本院、<入自東門、>雖可着客殿無本院沙汰人、仍萬事懈怠、爲催諸事參御所邊、行事右少辨定光、長官定仲相共沙汰也、雨脚殊甚、人々遅參、女[仍?]尋藏人許了、未刻着南客殿、<昇自北面西一間、着西庇座東南、>大夫史盛仲、外記則成着南庇座、長官着東庇座、前駈座、<母屋、>垣下座、<北庇、雖有座不參着、>皆本院敷座、<内藏寮居饗、>右少辨兼左衛門權佐實光兼前駈、仍請假早退出、於近邊出立云々、此間雲扇頗收日影間見、予前駈參否并供奉諸司事問外記、皆申候近邊之由、本院之事具了哉由問長官、申具了由、仰檢非違使可着座之由、府生忠重着南庭床子、<兼立床子、失也、着座之時、看督長可兒立也、>參議右大辨長忠參仕、昇自南方如何可尋、<去年宰相昇自北、經上卿座後所着座也、>次仰長官令引廻御車之牛、廻客殿、<侍北西南一廻、雨下時止之、>次寄齋王御車、<垣下實明朝臣、藏人説雅參入、>予右大辨列立南庭遣水西、<外記史在水東、>兵衛佐能賢寄御車、件人依院御氣色參入者、是依齋王一家人歟、此間蔵人左衛門尉盛經持參女房扇、依遅參暫不受取間立東邊、引出御車間、予可給禄於藏人由仰長官、與右大辨出自中門并南門乘車、立車於一條堀川辻、<予西、右大辨東、>以召使尋供奉諸司并次第使馬助、此間齋王御車留大宮辻被待人々參也、光景推移、王不皆參、殿下御隨身走來云、日已暮、不待憖早可渡者、大夫史外記車渡了、前駈人々車隨將來所渡也、左右京職御禊物具、宮主前駈左右兵衛尉遅參、且右衛門尉宗實、<檢非違使也、候院北面者萬事美麗、>左尉家重、右兵衛佐顯親、左佐代肥前守宗明、右衛門佐代淡路守輔明、左權佐實光、雜色所衆遅參、相尋之間、右兵衛尉親兼、左兵衛尉孝基等甚遅參奇恠也、依雨日如此輩自然致懈怠歟、次第司右馬助有隆欲渡、予留之、猶可渡雜色所衆之次仰之處、有隆申云、於次第使者不知所之、前駈只四衛渡之後所渡也、此事可尋知、所陳非無其謂、但予所尋持之行列次第在所集雜色之下也、仍所仰其由也、此間雜色所衆等出來渡之、<先所衆、次雜色、>長官定仲漏知齋王御車、<走童、>次官判官相竝、予兒下車二三車<各有走童、民部卿(源俊明)藤大納言(藤原経実)牛也、>次第使左馬允<季重、>出車六兩、<直衣、>源大納言(源雅俊)、按察大納言(藤原宗通)、左衛門督(藤原能実)、大藏卿、藤宰相(藤原俊忠?)、新宰相中將、<實(藤原実隆)、>六人車也、次馬寮車、秉燭以前歸家、 齋王先有御湯殿於御出立所、毎年御禊無御祓又御髮上事、乘輿之日有其儀、仍御禊日ハ無其事由、女房被申也、如此事依不審相尋也、 河原御禊所官辨本院相共勤仕御裝束令、又毎年御禊國司無獻物云々、 |
中右記 | 天永3年4月21日 | 【斎院御禊翌日】 天明今夕有警固召仰、大宮權大夫參勤云々、(中略) 頭辨送書札云、如使出車闕了、是公卿或有故障或奉斎院之間人數盡了、舊車早可遣女使許也、禊齋上卿出車雖不可奉、依可事闕所被仰下也、是院宣者、可奉之由申了、 |
殿暦 中右記 |
天永3年4月23日 | 【賀茂祭】 |
殿暦 中右記 |
天永3年11月1日 | 【下社で火災、斎院相嘗祭延引検討】 『中右記』 晩頭藏人辨來云、夜前川合社廻廊中門等焼亡、寶前一宇雖免炎上、御體早奉渡貴布禰社中了、但下社氏人等皆穢了、又歸參下御社、奉毎日御供了、仍下御社穢了、然者明日相嘗可被行哉、可延引哉、可量申由、有院宣也、雖申殿下(藤原忠実)、今日御着陣之日也、不内覧不吉事、仍院令沙汰御也、予申云、本社穢了、不可延引歟、但有穢之時有相嘗例可被尋問歟、以是宗可被奏之由答了、是被問人々云々、又藏人辨進書札云、只今々々可馳參院者、仍着直衣馳參、則大蔵卿(藤原)爲房參入、仰云、相嘗祭事更ニ不思食得、爲沙汰遣召左大臣(源俊房)民部卿之處、有所勞、但可被尋例由雖申、已先例不詳也、今間召上下社司等被問例處、申云、本社相嘗全不覺延引事、但於齋院相嘗者、齋王有月障時、或用中卯例事也、近者去年依下野守明國穢、十二月被行也、於本社相嘗、全不延引之由所申也、重仰云、然者本社有穢時、有行相嘗例哉、社司等申云、件例又不慥覺者、但於四月祭者、雖有穢供齋不止、於公家使云々、齋王參者所被止也、准彼例行相嘗可宜歟、就中四月祭ハ重事也、相嘗ハ次事也者、(後略) |
中右記 | 天永3年11月8日 | 【相嘗祭延引の宣命を作成】 有奉幣賀茂社、是依川合社火事也、予爲上卿、仍未刻參内、着端座、令敷膝突、先召大内記敦光、仰宣命趣、<昨日下軒廊御卜、内々令草儲也、先火事條御卜趣、不信不浄由、如本修造事、番直者慥尋子細、追可有罪過事、辭別、相嘗祭延引事等也、>此間使宰相中將(源)顯雅被參、大内記草宣命持來、披見之後、所■[々?]可相直事、仍仰其由、令作直、又持來、令内覽殿下、則歸來云、清書重不可覽者、仰可清書之由返給、召行事藏人辨、尋幣具否、申具了由、又召外記、問次官參否、縫殿頭信俊參入者、<入定文、次官申障也、>大内記持來清書、披見目之、宰相中將來座前給宣命、宰相取宣命出了、幣物次官相具也、于時申二點也、<勘文刻限、>召内記返給筥之後退出了、 |
殿暦 | 天永4年閏3月24日 | 【検非違使別当藤原宗忠、斎院御禊上卿を辞退】 |
殿暦 | 天永4年4月11日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
殿暦 中右記 |
天永4年4月20日 | 【斎院(官子)御禊】 |
殿暦 中右記 |
天永4年4月20日 | 【賀茂祭】 |
殿暦 長秋記 |
天永4年7月25日 | 【斎院触穢により賀茂社に奉幣】 |
中右記 | 永久2年4月3日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 (前略)此間右兵衛督(藤原)忠教卿參仗座、被定申齋院(官子)御禊前駈、大藏卿(藤原為房)書之、 又有小耳目、被成齋院次官、 又有本院出車定云々、 |
中右記 | 永久2年4月10日 | 【斎院(官子)御禊点地】 早旦從内退出、府生經則來云、今日斎院(官子)御禊点地也、仍所罷向也、是依為山城拒捍使也、(中略) 今日稻荷祭、齋院御禊點地、 |
殿暦 中右記 |
永久2年4月13日 | 【斎院(官子)御禊】 『中右記』 (前略)齋院(官子)禊如例、前駈右兵衛尉平、<兼季子、>左兵衛尉清宗、右衛門尉盛道、左衛門尉成實、右兵衛佐代攝津守忠雅左兵衛佐顯盛、<物具美麗、>右衛門佐代上野守實房、左衛門佐清隆、[代歟ク]長官、<周防守子、>次第不動渡大路如何、齋王御車、出車紅薄様、上卿源中納言、<能俊>、宰相、<俊忠、>右中辨、<(藤原)爲隆、>外記、史、 今年藤氏源氏上達部、依京極殿事(※)、多服假、仍出仕五六輩奉出車也、<各奉二三兩也、>一二三車牛[等歟ク]民部卿、按察大納言(藤原宗通)、予奉之也、 今日垣下、經忠朝臣、實明朝臣、資信、忠隆、藏人説雅、忠遠、 ※4/3源麗子(藤原師実正室)死去のこと。 |
中右記 | 永久2年4月16日 | 【賀茂祭、大雨】 天陰雨下、賀茂祭也、 早旦自院被仰下云、去夜今朝雨脚殊甚之間、鴨川浮橋等定流損歟、齋院(官子)渡給之間、有其恐、早差遣檢非違使等、可令固件橋者、仍仰行重經則等了、巳時以後、天晴雲收、扶桑甚明、 參一條殿、密々窺見祭、雖無御棧敷、大略見物、申時許、行事右中辨(藤原為隆)以下外記史等渡、左右看督長四十人許渡也、<不足廿人、>檢非違使府生經則、(伴)有貞、志(中原)明兼、(大江)行重、尉(藤原)盛道、(平)宗實、大夫尉(平)忠盛、合七人渡、殘輩或重服或所勞不出仕也、山城介、馬寮使、<右權頭盛家、>近衛府使左中将信通朝臣、<浮線綾表袴、蘇芳下襲、車簾五月會打毬具風流、●府生(下毛野)敦利、(中臣)兼重、季長、末利、敦忠、>内藏寮(藤原)行仲、次第使馬助兼永、齋院御輿所[衍?]前駈、典侍以下、次第頗違亂歟、秉燭以前事了、(後略) ●=龓(有+龍。こちらを参照(字源)) |
中右記 | 永久2年9月15日 | 以藏人辨奏云、可除賀茂供御所者、然者斎院網代如何、諸社又多云々如何、仰云、被免所々者如何、可除賀茂歟、歸家之後、召有貞、經則、可破宇治田上網代之由仰了、但可除賀茂之旨仰含了、又申殿下(藤原忠実)了、 |
殿暦 | 永久4年4月9日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
中右記 | 永久4年4月20日 | 【斎院(官子)御禊】 齋院御禊也、殿下無御棧敷、令候内給、是南京大衆猶競發之間令憚給歟、(後略) |
殿暦 | 永久5年4月5日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 (前略)民部卿(藤原宗通)送錦二端、彼卿男奉仕御禊前駈笠◆錦也、(後略) ◆=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源)。) |
殿暦 | 永久5年4月12日 | 【斎院(官子)御禊】 辰剋許參院、數剋候御前、及午剋退出、未剋許姫君(藤原泰子) ・女房(源師子)並出車等を相具向棧敷、爲見物也、内府同之、右大將(藤原家忠)・二位大納言(藤原)經實・藤中納言宗忠・別當(藤原忠教)・治部卿(源能俊)等來、見物了還亭、 |
殿暦 | 永久5年4月15日 | 【賀茂祭】 雨氣猶不止、仍上皇御見物不定、申剋許晴、仍有御幸、余・内府參入、御見物儀如先々、還御後退出、(後略) |
殿暦 | 永久5年4月16日 | 【斎院(官子)紫野に還御】 今朝自院有御使、御見物事也、猶可候之由奏了、午剋許内府相具參入、頃之成、於紫野有御見物、儀如例年、還御後予退出、(後略) |
中右記 | 元永元年4月3日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
中右記 | 元永元年4月18日 | 【斎院(官子)御禊】 |
中右記 | 元永元年4月21日 | 【賀茂祭】 |
中右記 | 元永元年8月29日 | 【斎院司のこと】 |
中右記 | 元永2年3月25日 | 【法皇、関白家の上野荘園寄進を禁ずる】 |
中右記 | 元永2年4月6日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
中右記 | 元永2年4月12日 | 【御禊前駈の再検討】 |
長秋記 | 元永2年4月15日 | 【御禊前駈の再検討】 |
中右記 長秋記 |
元永2年4月19日 | 【斎院(官子)御禊】 |
中右記 長秋記 |
元永2年4月22日 | 【賀茂祭】 |
長秋記 | 元永2年5月30日 | 【御禊前駈のこと】 |
中右記 長秋記 |
元永2年11月15日 | 【賀茂御祖社焼亡】 |
中右記 | 元永3年3月22日 | 【賀茂御祖社焼亡のこと】 |
中右記 | 元永3年4月3日 | 【小除目。斎院次官】 |
中右記 | 保安元年4月12日 | 【斎院(官子)御禊】 |
中右記 | 保安元年4月15日 | 【賀茂祭】 |
崇徳天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
中右記 | 大治4年10月5日 | 【前斎院(官子)、東洞院姉小路第に渡御】 |
中右記 | 長承元年3月6日 | 【前斎院(官子)の母、清和院内に太子堂を建立】 今日、前斎院(官子)母屋[堂]<号早参河人也>。世加院院中建立子[太子?]堂供養。公伊法印、為導師。衆十人、云々。 |
近衛天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
台記 百錬抄 |
久安2年3月8日 | 【前斎院(官子)の東洞院第に落雷】 『台記』 今夜大雷、京都師三所落、云々。 此中、前斎院(官子)<白川法皇女、頼綱朝臣孫>東洞院第為雷火被焼。故下野前司(源)明国子男(源経光)、在其第内被震殺。希代事也。 『百錬抄』 雷落前斎院家。忽焼亡。故下野守明国子震死。 |
史料 | 記述 |
一代要記 |
白河天皇 皇女 官子内親王 賀茂斎院、號清和院斎院、母三河守源頼綱女 鳥羽天皇 斎院 宮子内親王 法皇五女、天仁元年十一月八日卜定、清和院斎院 |
賀茂斎院記 |
官子内親王 白河院之皇女也。母頼経女。 天仁元年卜定。 号清和院斎院。 |
今鏡 (8・腹々の御子) |
(白河天皇の)后の宮、女御、更衣にはおはせねど、御子生みたてまつり給へる所々、近き御代にあまた聞こえ給ふ。(中略) 勢賀院の斎院(官子)と申ししも、同じころ立ち給ふと聞えき。それは頼綱と聞こえし源氏の、三河守なりしが娘の腹におはすと聞えき。七十にあまり給ひて、まだおはすと聞え給ふ。唐崎の禊ぎ、上西門院せさせ給ひしころ、その続きに、院の御沙汰にて、殿上人などたてまつらせ給ひけり。主殿頭何大夫とか名ありし人、御後見にて、御車の尻に、綾の指貫、院のおろして著て渡るなど聞えき。 |