今日のいばらき春秋は下記のように書かれていた。 2007/03/31(土) 鹿島鉄道が今夜の終列車を最後に廃線となる。石岡から鉾田まで、筑波山を望みながら田園地帯を走ること八十三年。時代の波に洗われ姿を消す鉄路に、沿線住民は複雑な思いだろう▼街と街を結ぶ鉄道は、明治以来大切な交通輸送手段。駅ができれば新しい街も生まれ、人々が住み着いた。県内では常磐線を縦糸に、肋骨(ろっこつ)のように私鉄の支線が延び、その一つが鹿島鉄道だった▼開業当時に比べると、どのローカル線も厳しい経営に直面する。水戸を起点とした水浜電車や茨城鉄道は早々と姿を消し、筑波山麓(ろく)を走った筑波鉄道、通勤の足だった日立電鉄線も今はない。行楽に利用した一人としては、なんとも寂しい限りだ▼廃線の理由はただ一つ。利用客の減少で赤字経営に陥ったからだ。自動車社会が浸透、ほとんどの家庭で複数のマイカーを所有する。子どもの数も減っている。半面、鉄道は安全確保にコストがかかり、公共性だけで民間会社に継続を求めるのも酷だ。公的支援も限界がある▼ローカル線の利用客は、学生やお年寄りなど交通弱者がほとんど。廃線ともなれば影響は大きい。鹿島鉄道で通学する高校生たちが、学校の壁を乗り越えて応援団を結成したのも当然の成り行き。さまざまな形で存続運動を展開した▼高校生たちは「行動すれば地域の人たちが協力してくれる」「人のつながりの大切さを学んだ」と振り返る。鉄道は消滅しても、貴重な体験は生き続けよう。(朗)http://www.ibaraki-np.co.jp/main/syunju.htm 今日で思い出の鹿島鉄道が廃線になったのである。なんと寂しいことか。 国鉄がJRになったときは、たしか、小学生だったと思う。その時は、一人、テレビで鉄道唱歌を聞きながらカウントダウンしたのを覚えている。涙が込み上げていたと思う。 今回も、そのような気持ちで一杯である。 高校時代、練習試合で県立小川高校に行ったときに、この鉾田線で行ったのを思いだす。そう、あのときの試合は、ホームランを打ったので覚えている。 那珂湊線は、廃線届けを見送ったという。 茨城でもいくつもの路線が消えていっている。 警察や、消防署が赤字だから、なくそうとはけしてならない。私は、鉄道も同じような気がしてならない。 廃線の理由は、利用客の減少で赤字経営に陥ったからだという。自動車社会が浸透して、ほとんどの家庭で複数のマイカーを所有している。子どもの数も減っている。半面、鉄道は安全確保にコストがかかっており、公共性だけで民間会社に継続を求めるのも酷な話である。公的支援にも限界があるのはわかっている。ローカル線の利用客は、学生やお年寄りなど交通弱者がほとんどだ。廃線ともなれば影響は大きいと思う。鹿島鉄道で通学する高校生たちが、学校の壁を乗り越えて応援団を結成したのも当然の成り行きであろう。 せっかく茨城空港をつくるというのならば(予算も満額おりたという)、せっかく百里基地への引き込み線があるのだから、鹿島鉄道を使い、燃料輸送にでも使えたような気がする。そうすれば、多少なりとも経営もかわったかもしれないと思う。 地方には、住むなということであろうか。交通弱者である若者や高齢者は特に。 このような日本の行く末を案じてならない。
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