『WIRED UK』創刊編集長でイギリス人のデイビッド・ローワンが、いま日本を翻弄するシリコンバレー輸入型の「マニュアルイノベーション」にブチ切れ、世界中の最先端企業を1人で回った「真のイノベーション」探訪記『DISRUPTORS 反逆の戦略者』がいよいよ日本に上陸する。本記事では、『WIRED』日本版元編集長であり『NEXT GENERATION GOVERNMENT 次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方』の責任編集を務めた若林恵氏が、「アメリカ型イノベーションへの違和感」において、日本とイギリスには「ある共通点」があることを解いていく。
なお、12月16日(月)19:30から、東京青山ブックセンター本店で、2冊の刊行記念イベントが開催される。(構成:今野良介)
スタートアップ経済は「アメリカ文化」に根ざしたもの
――12月18日に刊行される『反逆の戦略者』の著者デイビッド・ローワンさんは、英国版の『WIRED』の編集長だった方です。若林さん同時期に編集長だったことになりますよね。面識はあるんですか?
若林:あるようなないようなですね。何度か会ったことあります。東京に来たときにカレー屋に連れていったら「なんでカレーなんだよ」みたいな顔をされた思い出が(笑)。
――ロンドンはカレーの本場じゃないですか! 大人しく寿司にしとけばよかったのに。
若林:なんでカレーにしたのかなあ。覚えてないんですけど、東京駅のそばにある「ダバインディア」ってお店にお連れしたんですけど、お客さんにインド人も多いから、たしかにロンドンとあんまし変わらない雰囲気だったかもしれません。
――ローワンさんは、そのとき何しに来てたんですか?
若林:たしか楽天の取材だったと思います。三木谷さんに密着してたんじゃなかったかと。
――へえ。それは記事になったんですか。
若林:でかい記事になってましたよ。特集。
――ちょっと聞いてみたいんですけど、英国版の『WIRED』って、そもそも、面白いんですか?
若林:うん。それが実はなかなか難しいところなんです。その難しさがおそらく今回の「破壊者たち」(DISRUPTORS)という本にもつながっているんだと思うんですが、海外メディアのローカライズって、やっぱり言うほど簡単じゃないんですよね。自分がやってた日本なんかはまだいい方で、というのも日本語というバリアのなかでやっている限りは本国版と競合することはないわけですけど、UK版は英語じゃないですか。なので、そもそも『WIRED』が扱うような領域に興味ある読者はUS版を読んでるわけですよね。なのでウェブ版でもプリント版でも「US版との違いをどう出すのか」というところで苦労してる印象はあったんですよね。
――なるほど。そんななかでローワンさんは、UK版の特徴のようなものは打ち出せたんですか?
若林:ビジネス面で言うと、ネットワーキングに主眼をおいた値段の恐ろしく高いカンファレンスや、コンサルテーションの事業なんかに早い段階で乗り出したのはUKで、それはなかなかうまい戦略だと思いました。自分もそれは結構参考にしたんですけど、あんましうまくやれなかったかな、と。内容面で言うと、ヨーロッパからロシア、中東への目配せというところでは、US版にない面白い記事があったような記憶があります。毎年、ヨーロッパのイケてるスタートアップなんかを紹介する小特集をやってましたけど、ああいうのはよかったですね。US版の場合、いくら「グローバル、グローバル」って言っても、グローバリズムと自己主義がセットになっちゃってるんで、基本アメリカの話なんですよ。そこがだいぶ難しいところで、『WIRED』が喧伝してきたスタートアップ経済って、考えれば考えるほどアメリカの文化そのものに根ざしたもので、それ自体がアメリカ的な伝統のなかにあるものなんですよ。だから、なんというか、自分が『WIRED』をやってたときも、US版はめちゃ面白いんだけど、参考にするのは難しいって気分は、結構あったんですね。
――なるほど。
若林:っていうのも、日本は下克上的な市場ダイナミクスってのがそこまでストレートには作動してなくて、お上+大企業ドリブンでないとなかなか大きな変化が起きないということはあって、なので、いたずらにスタートアップ経済を盛り上げようとしても、その土壌が基本ないわけです。なので、なんで「日本にはアメリカみたいなスタートアップ文化がないのかな」って最初はイライラするわけなんですが、まあ、歴史的にみても、そんな文化があるのはむしろアメリカぐらいで、そっちが特殊事例じゃんか、というのもうっすらとわかって来たりするわけですね。ってなことから、個人的な興味も、アメリカ型のイノベーションから、むしろヨーロッパ型へとシフトしていったり。もちろん、アメリカ型はエキサイティングだし、見ていて楽しいんですよ。でも、それを日本で着地させようと思ったらそれなりに時間はかかるので、それが見えてくるにしたがって、「そんなのはきっと20〜30年はかかる話なんだからそれでいいじゃんか」とも思えるようになってきた、と。特に日本みたいなところだと、せっかちはあんまり良くないんですよ。
――「ぶっ壊せ!」「いますぐ壊せ!」みたいなの、よくありますよね。
若林:だって、「壊せ!」って言ったところで、すぐになんか壊れないんですもん。それに、仮にそうやって急に壊しちゃったりすると、壊しちゃいけないところまで壊れることも出てきちゃうと思うので、そういう一種の急進主義というかね、そういう気の早い変化って、たぶん良し悪しなんですよ。
――そういえば若林さん、『反逆の戦略者』に寄稿されたあとがきで、保守主義の源流とも言われるエドモンド・バークを引用してましたよね。
若林:バークがフランス革命の熱狂を冷ややかに見てる感じと、その面罵の仕方って面白いんですよ。皮肉屋っぽくて、斜めに世の中を見てるというか。これはあとがきにも書いたんですけど、予防医学者の石川善樹さんがイギリスの大学に留学で行ったときに、彼らが「いかにグーグルみたいな企業をつくらないか」ということを真剣に議論しているのを聞いて驚いたという話を、もう随分前に聞かされて、石川さんもそのことに新鮮なショックを受けたというんですが、自分も同じように驚いたんですよね。と同時に、自分たちがどれだけアメリカのスコープで社会を見ることに慣らされてしまったか、という反省もあって、その話を聞いて、すぐに「イギリス式のイノベーション」っていうテーマで記事を書いてくださいと、即座に石川さんにお願いしたんです。
――「イギリス式のイノベーション」って、一体なんのことなんですか?
若林:そこがね、実は結構難しいところなんですけど、そもそもイギリスの経済ってどういうふうに回ってんだっけ?というところが、いまひとつよくわからないんですよね。
――どういうことですか?
「素人として何かに取り組む」大切さ
若林:これはあくまでも最近思ってることで確証はないんですけど、こないだロンドンに1週間くらい行ってきたんですよ。「音楽と都市」をテーマにした視察ツアーで、面白い音楽を生み出しているスタジオとかレーベルとかラジオ局とかNPO団体とかベニューとか、そういうのを駆け足ではあったんですが色々と回って、で、そういうところから見てると、イギリスの音楽って全然コーポレート感がないんですよ。
――コーポレート感?
若林:そう。「大企業が中心になって音楽産業を回してます」みたいな感じが全然ない。音楽レーベルなんかをみても、もちろん大手のグローバルプレーヤーはいるんですが、どっちかというと音楽文化を支えているのは、たとえばRough TradeとかDominoやWarpといった「インディメジャー」と呼ばれる独立系の会社で、もちろんグローバルマーケットのなかで存在感はもっているんですけど、にもかかわらずインディペンデントでDIYな感じっていうのがずっと保たれているんですよ。
――そうなんですか。
若林:よくわからないんですけど、自分の感覚ですと「自分たちの手の届くスケールにとどめておく」みたいな精神からきているように感じるんです。
――無駄にデカくしない、と。
若林:デカくするとやらなくていいことが増えるじゃないですか。アドミニストレーション(経営管理)の部分がどうしたって大きくなるので、そうすると必然的に官僚制に則った管理機構が必要になってきて、仕事が分業化して行くんですよね。で、これは最近自分がつくった『次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方』ってムックとも関係する話なんですけど、官僚制度っていうのは、もともとは軍隊を組織するためのシステムから始まって、それがドイツで郵便事業で使われ、そのモデルが行政機関から民間企業へと派生していったものなんだそうなんです。この間、『負債論』なんていう本で話題にもなった文化人類学者のデヴィッド・グレーバーという人がいまして、その人が『官僚制のユートピア』という本のなかで、「イギリス人はあまり官僚制度の扱いが得意ではなくて、むしろそのことにプライドをもっている」と書いているんですよ。
――え? どっちかっていうとイギリスは官僚的なイメージありますけど。
若林:その一方、アメリカ人ってのはそれが滅法得意だということも言っていて、であればこそアメリカというのは、いかにも個人の自由が尊重されているような装いとは裏腹に、徹頭徹尾官僚制が行き渡った社会だ、ということを語っているんです。
――実際、そうなんですか?
若林:以前、ハリウッドで働いているコンセプトアーティストの方と対談したことがあって、そのなかでも再三触れたんですが、アメリカの企業のシステムって、高度な分業体制になっていて、ポジションごとのジョブディスクリプションも事細かに細目化されているので、その要件を満たせば、どんな人がそのポジションに就いても仕事が滞りなく進むようにできてるんですよ。ハリウッドは、おそらくそれを超高度に実現したもので、ほんとにすごいんですよ。で、それが非常に窮屈な働き方を要求するかと言えばそんなこともなくて、そのなかで個々人が自分の能力を遺憾無く発揮できるシステムにはなっているんです。
――官僚制にはいいこともある、と?
若林:もちろんです。官僚制のいいところは、さっき言ったように誰でも要件を満たせば組織に入れるという意味では民主的なものであるところですし、本来的には、より高い透明性や公平性、客観性を担保するためのシステムでもあったわけです。なので、それがうまく作動しているところでは、非常に有用だったりします。アメリカのいい企業のいいところっていうのは、ここにあるんだと思うんです。なので一概にそれが悪いってこともないんですが、このグレーバーの指摘が面白いのは、イギリス人が、そうした組織のありようやその取り回しがまったく得意ではないというところで、そのこととイギリス経済における「コーポレート感の薄さ」というのは、どこかで通じているんじゃないか、という感じがするんですよね。無駄にデカくすると得意じゃないことをやるハメになるので、その前で止めておくというか。ちなみにイギリスを訪ねた際に、日本からロンドンに移住したミュージシャンのOさんに会ったんですけど、彼に聞くと、「イギリスは基本中小企業しかないんですよ」とのことで、自分も実数を見てるわけではないんですけど、実感としてそうなんだろうなと思うんですよね。
――イギリスの有名企業って、言われてみると金融なんかはあると思うんですけど、ほかの業界だとあんまり思い浮かばないですね。
若林:クルマにしても、すでに多くはグローバルコングロマリットに吸収されたり合併したりしたとはいえ、ベントレーとかとか、ジャグワーとかランドローバー、あるいはマクラーレンとか、アメリカのメーカーとも日本のメーカーとも違っているような感じがしますよね。単に高級志向だなんだということでもなく、根本のところにあるエトスが違うというか。よくわからない、理解しきれないところがある。
――ふむ。
若林:で、それを自分なりに考えてみた結果、もしかしたら「アマチュアリズム」みたいなことがその根底にあるのかな、という気がしてきてるんです。
――というと?
若林:さっきざっくりと説明したんですが「プロ」という人たちが登場するのって、基本ものごとが分業化するからなんだと思うんですよ。つまりシステム側で「ここからここまでがあなたの仕事の領域です」ってのがちゃんと策定されていないと、それに特化した専門家っていう存在ってありえないわけですよね。
――まあ、言われてみればそうですね。
若林:さっきハリウッドの話のなかで説明したようにジョブディスクリプションが明確にないとプロ化ってのは進行しないんですよね。これはマックス・ウェーバーが官僚論ってのをまとめた際にも出てくることなんですけど、分業による専門化が、職業のプロ化をもたらし、それが官僚の職業意識を目覚めさせていくということなんですが、イギリス人は、もしかすると、この考えがあんまし好きじゃないんじゃないか、って気がするんですよね。むしろ、素人として何かに取り組むことを重視するというか。
――ほう。
若林:というのも、こないだロンドンに行ってみてきたさまざまな企業や団体の取り組みって、だいたいがかなり適当で、素人っぽいんですよね。で、めちゃくちゃハンズオンでDIYなんです。その代わりいろんな組織やコミュニティがうまくネットワーク化されていて、必要なリソースや情報がうまく共有されているので、一ヵ所に負荷が集中しないようになっているという、そんな感じなんですよ。
――おもしろい。
若林:不思議なんですよね。とくに音楽教育なんていう分野をみてみると、行政予算がどんどん削られていくなか、企業まかせにしたところで誰もやらないので、草の根でゆるゆるとやりながらもそれがちゃんとネットワーク化されるので、持続性もあるしそれなりのインパクトも出せるというやり方になっていて、行政・産業・市民が明確に分業されるのではなく、ゆるゆると適材適所で協力しあうというような格好になっていて。自分としては、そこに、なんか妙に希望を感じちゃったんですよね。公か民か、あるいは、右か左か、という二項対立を上手に回避しながら進む感じが、なんかうまいんですよ。
――それがムックのタイトルにもある「小さくて大きい政府」というテーマともつながっているわけですね。
若林:そうなんです。アマチュアリズムという話でいうと、ムックの中で大熊孝さんという偉い河川工学者の方の『技術にも自治がある』という本を紹介していまして、そのなかでテクノロジーというものが行政府や大企業の専門家にしか扱えないものになっていったところにテクノロジーにまつわる社会システムの問題があると大熊さんは指摘しているのですが、その指摘の核心にある考え方を、哲学者の内山節さんが以下のようにまとめています。ちょっと引用しますね。
「近代技術の欠陥は、技術自体の欠如として論じるものではなく、技術の成立と選択、実行のプロセスに普通の人々が関与できないことから生じる欠陥であることを、大熊は河川をとおして論じたのである。それは、思想的には、次のような視点へと人々を導く。国家は地域の人々に検証される仕組みをもたないかぎり、健全な姿を保ち得ないこと、そして専門家は素人の検証を受ける仕組みをもたなければ、専門家としては健全な仕事をなし得ないこと、である。いうまでもなくこの見解は、近代国民国家のあり方に対する、また、プロフェッショナルな仕事や専門家を育成する学問といったものに対する近代社会の合意への、根源的な挑戦を秘めている」
――モロに、「普通の人」の関与が大事って言ってるわけですね。
若林:そうなんです。テクノロジーに関わるイノベーションを論じたりするときに、こういう視点って本当に大事だと思うんです。というのも、いくらテクノロジーが発展しても、ここの構成が変わらないと同じ隘路のなかで企業や行政による管理が強まっていくだけになるんで。その辺をアメリカ型のイノベーションは、あまり意識していない気がするんですよね。というのもシリコンバレー型のイノベーションを進める人たちは、自分たちが極めて官僚的なシステムのなかにいることに意識的でないがゆえに、それを強化していく方向でものごとが進展して行ってることにも気づきにくいからなんだと思うんです。でも、一方のイギリスは、それを冷ややかにみながら、「そういうのはやめよう」と真剣に議論している。その対比は結構面白いものだと思いますし、そういう視点から読むと、デイビッド・ローワンが本のなかで語ろうとしていることも、よくわかってくるんじゃないかという気もするんですよね。
――日本は、どっちに進むべきなんでしょうか?
若林:どっちもいいところと悪いところがあって、重要なのは、そういう「べき論」をどこまで信じて、どこから手放すかというあたりの見極めなんだと思うんです。チャーチルが民主主義について、「最悪なシステムだが、現状では一番マシ」という言い方をしたり、作家のE・M・フォースターが「二回万歳してもいいが、三度するほどじゃない」と言ったりするその感覚が大事なんだと思うんです。社会のゴールって、別に、民主主義を死守することではないですし、それを完成させることにもなくて、もっといい社会のありようはないかと常に知恵を絞るところにあるわけですし、そもそも「最高なシステム」ってものを想定する時点で、それがゴールとして固定化しちゃうという問題もあるわけですよね。それをゴールにしちゃった瞬間に「プロ化」も始まるし、ゴールがドグマになってします。なので、希望は希望で持ちながら、それを冷静にハンドリングする姿勢が大事なんだと思うんです。そのためにも、自分たちが絶えず手を動かしているのが望ましいと考えるのが、イギリスの「DIY」なのではないかって気がするんです。精密な組織図を描いて、その上にデンと座ってるなんていうのはあまり尊敬されない生き方なのかな、と。
――なるほど。
若林:そういえば最近日本でも盛り上がったラグビーって、イギリス発祥のスポーツですけど、よくよく考えるとすごく変わってるんですよ。
――へ? どこがですか?
若林:ラグビーって「ゴール」よりも「トライ」の方に高い得点を与えるスポーツなんですよ。ゴールした数よりも、トライした数の方が勝つゲームなんです。
――たしかに。結果よりも、チャレンジしたことに価値が置かれるってことですよね。
若林:ですです。「ゴールへの達成」を主要な評価軸にしないって、よく考えるとすごいじゃないですか。そこにももしかしたらアマチュアリズムの精神が脈打ってるのかもしれないな、と。よくわかんないですが。
――いい話かも。
若林:って、これ自分のネタではなく、クリエイティブ・ディレクター/バイヤーの山田遊さんが教えてくれた話なんですけど。
――パクりかいな。
若林:ラグビー見てて「あっ」と気づいたらしいんですけど、その発見はちょっとすごいと思うんですよ。「イギリスすげえな」と、そこでもなったというお話。
――ありがとうございました。
(おわり)