2 
735pv
現在、 がスレを見ています。これまでに合計   表示されました。
※PC・スマホの表示回数をカウントしてます。
※24時間表示がないスレのPVはリセットされます。

市民層 概論

※ID非表示スレ
x 0
1 :市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/22(日)20:53:05 ID:???
 
+0
-0
2:市井の居士◆.mg9.rKRfu9v:17/10/22(日)20:55:11 ID:???
(つづき)
123.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/356
124.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/357
125.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/427
126.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/428
127.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/429
128.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/430
129.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/431

リンク集

L1. http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1403873438/509
L2. http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1405375603/697
L3.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1406872014/652
L.4
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1452927395/454
L.5
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/60
L.6
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/115
L.7
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/343

ニコニココミュニティ
「STAP細胞の懐疑点」ある投稿者のコミュ ソーシャライト(市民)という生き方についての論考

http://com.nicovideo.jp/community/co3378983
3:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/22(日)21:03:20 ID:???
1 of 3

今日は1年とチョットぶりで復帰することの挨拶だけだ。ま、興味がわいたら近々改めてうpし直す本論(第七回)を読んでくれ。

今日の世界は最早、従来的な範疇における如何なる政治・経済政策を施したところで有意な効果を得られない処まできていることは既に述べた(市民層 概論 第五回 参照)。
何故ならポストモダン以降(1970年代以降)の政治/経済のあらゆる低迷/問題は、戦後の民主主義体制が生んだ人間の在り方/生き方の異常性に決定的に起因しているからである。
そこで今日は、この戦後民主主義の異常性の主たる要素であるところの、「低能者」(「市民層 概論」においては「凡庸者」と呼んでいる。)が有能者(「市民層 概論」においては「優秀者」と呼んでいる。)にどう思われているのかだけ書いておく。

ここで言う低能者とは「知能/行為能力等が低い者」であり、代表的な低能者としては「大衆」が挙げられる。この大衆という低能者は今日の資本主義体制下の社会において、あらゆる政治・経済問題の根本的問題要因となっている(※注)。
(※注 それはそうだ。彼らは産業社会の生産と消費の要だからである。そしてリベラル思想によって決定的に大衆社会が本格化したのも、彼らの動向が現代資本主義体制の浮沈を左右するからである。)

この低能の群れが持つ最大の問題点は、同じ紋切り型の主張の永久反復性が、彼らの群れとしての求心力/結集力となり、進歩/発展というものを否定することである。
ちなみにこの“同じ紋切り型の主張”とは、彼らが動物そのもの(感情的意思決定者)であり、人間らしさ(理知的意思決定能力)を涵養しないことから生じているもので、このためにこの連中が最期に行き着くところは『キチガイ/鬼畜』のようなものである。
(つづく)
4:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/22(日)21:15:38 ID:???
2 of 3 (つづき)

例えば大衆の群れとは、如何なる合理的な機序を持つ人工的システムであっても感情/気分がもたらす理不尽さ(都合が悪いことは見なかったことにする
/単純に理解できることだけが全てであると擬制する/怠惰/責任転嫁/匿名性と口舌のみをもってする上位者批判など。)によって、それを無効にしてしまうブラックホールのようなものである。

これは例えば戦前期には田舎の農家を出て、都市のサラリーマンになるだけでも立派な「独立」であったが、大衆とは、資本主義体制には付き物の、現実の荒波に向かっていくような闘争・独立精神を忌避するメンタリティを未だに持ち続けているために、
戦後は経済大国国民としての恩恵のみを一方的に受け続け、資本主義戦争に勝ち抜くために不可欠の、生きた経験・実証主義知、創造力をもってする闘争/凡庸さや不正に対する闘争/駆け引き/騙し合いなどを戦い抜く能力を涵養できていない、
呑気/のんびりとした朴訥な人情が全てのような甘ったれた生き様、その生き様をいつまでも続けること、すなわち進歩/発展しないことのリスクを知らない低能な人生が人格化しているような者たちだ。
そして彼らが信奉するところの道理は曲がっているが(この曲がった道理がもたらす利得が彼らの糧である。)、感情/気分だけは何となく暖かいような心地好いような行動を専らに為すことで、周囲を自分たちの陣営に引き込んでいくのであり、
中途半端なエリート程度では、彼らとの係わりの中で理を見失い、ほだされて、長期・マクロ的には闘争心/善悪観を抜かれ骨抜きにされて衰退していく(※注)。
いわゆる“茹で蛙”にされてしまうのである。例えば立憲民主党系の反体制運動の連中などは本質的には、皆、この手のロクでもないカス/低能者なのであり、彼らはあらゆる進歩/発展を阻害するように振舞う。
(※注 例えば、「なぁ、兄さん。堅苦しい理屈は抜きにして、みんなお互い様で助け合っていきましょうや。」的なノリで酒を注がれたり面倒見を良くされたりして生起するところの、
ほのぼの感などのせいで、闘士的な生き方に付き物の孤独感を生まれて初めて癒されて一気に人生観が変わるなどして、仲間意識に目覚めるわけだ。
(つづく)
5:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/22(日)21:19:51 ID:???
3 of 3 (つづき)

そもそもいざという時には討ち死にする覚悟を心の底に秘めていないのならば、始めから進歩・発展(現状打破)的な生き方などすべきではない。闘士の人生とは己が信ずるところの合理性に向かって、身体が自ずと突き進んでいくようなものであろう。
そういう人格的素質を欠片も涵養できないのならば一生涯、社会の澱んだ底辺に甘んじているべきだ。)

このような進歩や発展に抗するものとしてのブラックホールの如き低能者が人間界の圧倒的多数派であることは何も現代に始まったことではない。このことは人類誕生以来、一貫している。
しかしそれでも尚、これまでの人類主流はニューギニアの土人のように進歩/発展を否定し続けるような状況に甘んじてはこなかった。そして今後の人類においては、このようなブラックホール/低脳者の群れと如何に関わり向き合っていくのかを真剣に検討する段階に入っていく。
何故なら市民層 概論 第六回で述べたように、人類は過去500年間にわたって「自然/ありのまま」であることを至上としヒューマニズム万能主義をもってして、その理念の具体的なカタチとしての民主主義体制を構築してきたからであり、
この方向性においては人類は、このブラックホール/低脳者の群れを適切に管理する術を持つことなく、更なる進歩/発展を続けることは最早、不可能であるからだ。
この先の「市民層 概論」においては、この問いに対する答えが、自然科学(社会人類学)的判然性を伴って明かされていくこととなる。
(おわり)
6:名無しさん@おーぷん:17/10/28(土)12:22:51 ID:???
分かりやすく簡略化を頼む
7:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/28(土)13:59:58 ID:???
さっそく読んでくれて有難う。さて「分かりやすく簡略化を頼む」ということだが、これについてお答えする。

まずオレの文章は固い言葉こそ多いが、文意/文脈自体においては読者が誤認してしまわないように丁寧に説明するように心がけている。この点については一般的学術論文と比べても格別な配慮がされていると自負している。
あと用語そのものの意味が分からない場合(例えば「演繹的思考/帰納的思考」とか)は、過去レスを読んでもらうしかない。論文中の独自用語は全て公開済みのレスで説明されているから。
もし忙しくて既出レスを全部読めない場合は、個別に質問してくれれば、何番のレスに書いてあるかを教えるよ。
んで、これを踏まえた上で次のように言わせてもらう。

一度や二度の読破/読了で内容を解ろうとしはいけない。何故ならそのようなレベルでは、単に理論の字面だけを演繹的思考で認識し、"分かったような気になっている"だけにすぎず、
実感として、すなわち処世にこれを生かせるような帰納的思考レベルでの"分かっている"状態とは程遠いからである。
例えば人間の認識とは数次の階層構造を持ち、それぞれの長期記憶がどの階層に属しているかに応じて、顕在意識からの検索/参照のされ方が異なることは、最早疑いようがなく、
深層意識と呼ばれる最も基盤的な部分に近い処にまで認識を(度重なる帰納的思考を経ることによって)沈下できていないレベルでは、知識はそれほど役に立ってはくれない。
すなわち何故、キリスト教徒は何処へ行くにも小型バイブルを携行するのか?
それは今この時の生の感情/経験に照らした上で、折に触れてイエスの教えを参照し続けるのでなければ、それは受験勉強のベタ暗記の如くであり、何も理解していないのと同じだからだ。

というわけで以上を踏まえて頑張ってもらって、それでも理解できない処があれば、「●●●の部分が何言ってるか分からない。」とかみたいに具体的箇所を示して質問してくれ。
オレの印象的には多分、まだオレの論文の反復読み込みが足りないのではないかという気がする。時間があれば過去レスを古いものから順に精読してみてくれ。
8:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:07:02 ID:???
1 of 13

「市民層  概論」 第七回

「二つのムーブメントの果てに ④ スキゾ・クラスター」

では一体、巨大な意識革命とは、いやそもそも民主主義とは人類にとって進歩なのか?それとも退化/破滅へ続く一本道なのか?この問いに、当論としてのハッキリした答えが出せるのは、当論の終盤になってからである。
今回は前回とは正逆に、ミクロの視点から辿り始めてマクロに到達するような論理展開となる。まず福祉国家型民主社会において顕著となったある人的気質・行動について論じる。そしてそれらがもたらした文化について論ずる。

人間は生後2年ほど経過すると、自分は自分だけの主観を持った独自の存在であるという認知的世界をほぼ確立し、以降は生きている限り、この「自立した主観」の中であらゆる精神活動を為していく。
この後、“自我”が確立すると、無闇に不安になることなく、他者との「同調」や「すれ違い」といった対人関係上の社会的な認識を自然に捉えられるようになり、自分と他者の情動が一致すれば、「心が活き活きとなって、やる気が出たりする」ことを認識するようになる。
更に5歳頃までには、「感情と理性が相互干渉する人間固有の精神活動」の基礎が確立し、かなりの量の経験記憶、並びに行為(思考/行動)記憶に基づくアルゴリズム系の方法論・行動原理的テンプレート記憶が形成され始め、
これらは小脳(※注)において固定化された脳神経回路として生涯にわたって保存されることになる。
(※注 小脳は脳器官の中では最も複雑な器質的構造を持ち、アルゴリズム系の方法論・行動原理等に関する生涯記憶の保管庫である。
尚、小脳は以前は、精密身体運動・身体平衡感覚等のみの管理中枢だとして軽く見下されていたが、実は身体運動のみならず思考・判断行為を含めた認知活動全般に必要な
基礎的アルゴリズム系記憶の保管、すなわち身体運動/脳内認知活動(行動様式/思考様式/気質/性格等)の樹立に必要な、幼少・児童期までに書き込みが完了するところの
あらゆるROM的アルゴリズム系記憶の生涯的保管・管理中枢(随時的書き込み(短期記憶)が可能なRAM的な大脳皮質とは異なる機能を分担していることになる。)であることが、近年ようやく明らかになってきた。)
(つづく)
9:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:08:02 ID:???
2 of 13 (つづき)

ゆえにこの時期に重要なことは、事物が己の思い通りにならない失敗等の経験を契機として、モデル的認知法(第五回 参照)に則った抽象化された思考を為す、
すなわち複数の単称経験命題から一般原則を抽出するための「帰納的思考様式のための基礎的思考アルゴリズム」を確立し、もって日常的な経験的世界から様々な発見・創造的認識を導出するための能力を涵養することである。
人はこのようにして経験を契機として得られるところの様々な抽象的認知・認識を積み上げることで人生行路において真に有益な『主体的認知体系(※注1)』を形成していくのだが、
実はこれが適切に為されるためには、『主体的達成意欲(※注2)』が既に物心が付いた時点で当該者に必要十分に備わっていることが、前提的要件である。
(※注1 認知行為の積み上げの結果としての事物の思考/判断のための諸記憶が体系化されたもの。)
(※注2 「自分が自分の人生の当事者であり、かつまた責任者でもある。」という自立的な観念がもたらすもの。これは次回に詳説することとなるが、大半の者はこれがきちんと確立されていない。
ちなみに小学校で良く「将来、自分が何に成りたいか?」を教師が生徒に発表させたりするが、このような質問に返答できたからといって、当該者が健全な主体的達成意欲を持つとは限らない。
それは単に教師の指示/命令に対して適当に当たり障りなく答えようとする、言わば自己保身的意識がもたらしているだけの可能性の方が高い。ちなみにこのような取り繕い能力は、
社会性動物としての人間が誰もが持っているところの擬態能力であり、実は真の主体的達成意欲を持つ者、例えば5歳時に堂々の初ライブ& TVデビューを果たした人格的早熟の天才ハードロッカー山岸竜之介のような者は、極めて少ないのである。)

普通の養育者(母親など)は、幼児に対し過保護にして可愛がり過ぎたり、泣けばすぐ飛んでいってあやしたりして、「ダメなものはダメ、悪いのはアナタ」などとはっきりと非難したり、禁止/抑圧等の処罰的作為を伴う教唆、すなわち「躾」を必要十分に為して主体的達成意欲の発達を促さない。
(つづく)
10:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:08:48 ID:???
3 of 13 (つづき)

こうした場合、概ね自己中心的な思考アルゴリズム、すなわち自分の思い通りに他者が動かなかったなどの場合に短絡的に他者に非があると思うような、
『無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向』、すなわち極めて他者依存的で自らの側で状況を操作しようとする意思を持たない傾向が気質・人格化してしまう。
そして無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向に慣れてしまうと、(3歳以降の)自分自身を擬制的に他者の視点から見たり、事象や自己認識を自分中心の世界から離れて客観視する力(客観視能力)、
また例えば「お母さんが怒っている」という認識を元にして、更に「では”お母さん”なるものは、そもそも僕/わたしにとって何なのか?」などという抽象モデル的認知のための基礎となる『メタ認知能力(※注)』の発達が不十分になる。人類の大半はこのような者である。
(※注 健全な躾としての非難/禁止/抑圧/処罰的放置等の経験を通じて、「自分が悪い/自分は何もできない/自分には・・が足りない」などという『自己批判的観念』を持つことを契機として、
まずは人間は、自分自身の固有の属性とか自分が置かれている環境、そして最も肝心な認識としての、己の人生とは主として何によって強いられ、あるいは規定されているのか、などといった己の存在拘束性を客観視(メタ認知)する。

ちなみに"メタ認知"とは一般的には1970年代にブラウン/フラベルによって発見された概念だと見做されているが、実はこれはカントが提示した「コペルニクス的転回」において顕現する「二律背反」の解消法としての「カント的弁証法」がヘーゲルに至り、
有名な“否定の否定”、すなわち現象の認識が「止揚」されてまた自己の認識として戻ってくる観念運動であるところの「ヘーゲル的弁証法(「正」→「反」→「合」)」の中の最初の否定である「反」過程そのものである。
(つづく)
11:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:09:38 ID:???
4 of 13 (つづき)

すなわち「精神現象学」(1807)序論において、「真理とは自己自身が生成することであり、自らの終りを自らの目的として前提し(オレ注 ;「自らの終わり」とは、知覚/感覚などの最初の主観的かつ一次的認識であるところの、
一般的には「正」と言われる元認識を(ヘーゲル的表現では)“否定”することであり、その上で「(それを)自らの目的として前提する」とは、否定後に元認識をより包括・俯瞰的に再認識することであり、これすなわち対象化し客観視に成功することであり、
これが「メタ認知」に相当する。一般的には「反」と言う。)、始まりとし、それが実現され終りに達した時に初めて現実であるような円環である。(オレ注 ;「反」認識を再出発点として更に(ヘーゲル的表現では)“二度目の否定”であるところの帰納的思考により“止揚”される、
すなわち元認識に客観視点の付加が施された上で思考されて真理となり、その真理をもってしてまた主観的認識とする(戻る)こと。一般的には「合」と言う。)」(樫山欽四郎訳)などと説明されている。)

人は主体的達成意欲/自己批判的観念を発達させ、自分の存在拘束性の客観視(メタ認知)ができるようにまでなると、帰納的思考を極めて論理的に展開できるようになる。
例えば自分の利得を追求すべきか、それとも他者に与えたり譲ったりすべきかとか、自分の未熟さに起因するのか、それとも他者のそれに起因するのか、あるいは他者に感謝すべきこと、逆に感謝などに値しないことなどなどといった、
非常にデリケートかつ高度な社会性認知に関わる問題への解答/判別等、すなわち豊かな実りある人生に必要な無数の判断を将来、経験・実証主義的に為せるようになる可能性が拓ける(※注)。
こうして帰納的思考能力、主体的達成意欲、(養育者による)適切な躾、自己批判的観念、メタ認知能力等からスタートする合理的な主体的認知体系の涵養の際に必要となる諸能力を、今後は『メタ認知系諸能力』と総称する。
(※注 このような人格的基盤を形成できた者が当論的な『優秀者』である。尚、優秀者や凡庸者の定義については当論では、この先随時、掘り下げて提示していくことになる。
(つづく)
12:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:12:22 ID:???
5 of 13 (つづき)

ちなみに人は、イデオロギー(非合理的観念)を人生初期に刷り込まれるのが普通なので、優秀者となるためにはまずは第一段階として、
青春期に養育者から心理的に自立し、このようなイデオロギー性観念に対してメタ認知による合理的な批判/評価ができるようになる必要がある。詳しくは次々回(第九回)において述べる。)

メタ認知系諸能力とは、言うなれば自己認識の世界において自分自身を含めた全事物を全世界の中の一箇の対象物に引き下げることによって、合理的判断ができるようになるための主体的認知体系を形成するための前提的能力であり、
(高度かつ複雑な社会の中で生き抜かなければならない動物である人間としての)理性的判断能力の基盤となるものである。人はこれを保持することで、(若干の例を挙げるならば)以下のような認識等を回避できるようになる。
滅多やたらに他者を攻撃したり、またその逆に攻撃されたり恨まれる、またあるいは全く他力/外力/環境のおかげで達成できたようなことについて自力で成したと自惚れる、
また客観的には恐ろしく未熟であるにも拘らず、"当人比"的には以前より頑張っているために自分は凄いと思う、更には既に先覚的グループが体現している観念を後追い追認しているにすぎないのに(自分の後ろには未だ大量の未覚醒グループが居るために)、
あたかも己が人類の未来を背負う"救世主"にでもならなければならないかのような気になる(ゲーテ/トルストイなどが典型例。)など。

しかし不運にもメタ認知系諸能力を十分に涵養できずに成長することを余儀なくされた場合、人は様々な問題人格を形成することになる。
例えば極度に自分の感情/欲求のみに意識が集中し、外部世界で生起していることに全く興味/関心を持たなくなる自閉症系人格、
あるいは無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向の有効的維持のために他者や社会に対して「己の全てを見せたい/理解させたい」と思うような傾向が亢進する場合もある。
ここでは特に後者のケースについて掘り下げて考察していくことにする。
(つづく)
13:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:13:14 ID:???
6 of 13 (つづき)

『(メタ認知系諸能力の未熟さに起因して)内面の深み/心の幅/視野の拡がり(有り体に言えば「器の大きさ/度量」)というものがなく、
人が為す真の労苦や努力というものは、往々にしてそれを「開陳して他者に見せたり分からせることなどできない」ことに納得できない。すなわちキリスト教的訓戒であるところの「良いことは誰も見ていない時にしなさい。」的行動ができない。
自分が支払った努力は全て他者に評価され、報われなければ我慢できない。言わば人格の練磨/人としての「度量」や「器」の成長が十分でないわけで、見掛けにこだわるいかにも薄っぺらい人間にしかなれない。
そして更に無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向が亢(こう)じて、(真に立派な人間というものは、そうそう目に見えて立派に見えるわけではないので)己以外のもの全てを見下げたり世間や人生というものを舐めたような、
「誤った自尊心」を持つにまで至った場合において、自己顕示/批判/(その深層意識において他者/世界を処罰するための)賞賛や同調」的パフォーマンスだけを処世術の全てとする。』

このような人格的属性を持つ、言わば“ワガママ/身勝手/薄っぺらな心の小さな専制君主”は、オルテガの「大衆の反逆」(1930)などからも推測できるように、20世紀初頭頃には社会層として認識できるほどの数に達していたと思われる。
しかもこの"パフォーマンス人間"は、近代資本主義社会の開幕と共に急発達を遂げた各種メディア(書籍/映画など)を通じた"レディメード(既製品)の如き人生"のための「ロール・モデル/ライフ・スタイル」を体現し、
これをもってして商人の金儲け便益に強力に与するという、モダニズム期の"生きた商品"として仕立て上げられていった。
そして更に第二次大戦終結後は、アメリカでは「ベビー・ブーマー」、我が国では「団塊の世代」と呼ばれる戦後生まれの福祉国家型民主社会の(後の回において詳説するところの「戦後リベラル思想」に基づく)絶頂期に生を受けた世代において、
時代を主導する人間類型としてその支配的地位を確立するまでになる。すなわち彼らの内の少なからぬ者たちは、
(つづく)
14:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:13:54 ID:???
7 of 13 (つづき)

『集団/時勢の威を借りて滅多やたらに増長する、あるいはのべつ幕なしに自己主張する/事物が自分の思い通りでないと癇癪を起こして発狂する/世間や他者からチヤホヤ・取り沙汰されることを至上目的とする(※注)。』
(※注 例えばビートルズにおいて見られるように、彼ら自身は東洋文化へ傾倒(マハリシとの関わり)したりする中でイッパシに"己"に向き合っているつもりなのだが、
その余りにも薄っぺらく、遊び半分なカルト的態度は、正に“パフォーマンス人間”という彼らの本性を、嫌が上でも浮かび上がらせている。)

のであり、このような気質属性を持つ人々が中心的に担うショー・ビジネス界(映画・演劇/音楽興行/各種のレヴューやショーなど。)は、人類史上、
かつて比すべきもののない空前の大繁栄を極め、また折々の名もない一般市民らによるデモ行進/キャンペーン等は、最早、戦後リベラル社会以降の風物詩とまでなる。
この"現代社会の皮相性"、すなわち何かを派手に演じて見せることが“能力/実力”の表れだと擬制される、あるいはそのことによってのみあらゆる問題解決ができると思い込むところの、
人格/主義/生き方の空虚さを体現していると見做せるような人々を、当論では『パフォーマンス至上主義型人間』と呼ぶことにする。

ちなみに第二次大戦後の戦後リベラル思想期には、人類誕生以来の衣食住の不安定さをついに基本的に解消し、さらには各種予防接種の普及/抗生物質の多様化等による医療革命によって人間が頻繁に死ななくなったことにより、
人間文明はついに『暇つぶし文明期(※注1)』の段階に突入するわけだが、このことがかえって仇となり、従前であれば子供/青年が普通に遭遇する”生死の境/人生の重大転機”的局面(例えば伝染病に罹患して重体となる/
空襲とか戦場において九死に一生を得る/農作物の不作で貧農が「娘売」をするなど。)において難なく学習しえたところの、「人間本性/本音と建前/人間感情の多層性(※注2)」にまつわる経験・実証主義知が急激に得難くなり、
その結果、20世紀後半以降の人類の、「嘘/ペテン/偽善/見せかけ/思わせぶりなどを見抜く処世能力」が劇的に退化し、パフォーマンス至上主義型人間にとって極めて有利な生存環境/時代的存在拘束性が形成されたのである。
(つづく)
15:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:14:58 ID:???
8 of 13 (つづき)

(※注1 この段階において人間社会は人類史上初めて、七十、八十のジジイ/ババアになるまで思いっきり生きさばらえることの幸せを意識するようになった
(すなわち庶民層は戦場の一兵士として国家のために英雄死することを”至高の最期”だと思わなくなったということである。)と同時に、明らかに能天気で遊び半分のような気分を集合意識レベルで注入されたのであり、
1950年代以降は、ショービジネス/レジャー産業に代表されるところの娯楽・享楽系能力、すなわち"暇つぶし能力"に長けた者が天下を取る傾向が完全に定着するところの「暇つぶし文明期」に人類の文明段階はシフトした。)
(※注2 人の意識が日常において認識している通常の感情は、実は当人が普段は意識できない無意識層の異なる感情の上に(自我の防衛機制などの作用により変形させられて)顕現しているのであり、
その無意識感情は更にもっと下層の動物本能の上に存在しているという、フロイトが創始した精神分析学が端緒となり明らかにされてきたところの人間感情・意識の階層性。)

メタ認知系諸能力のような「(処世についての)基本的な頭の使い方」の成長は、遅くとも10代前半までには終了する。10代後半の思春期以降は、
もうこうした処世能力の基礎的な部分を鍛錬できるような状況はなくなり、日々の生活の全てが、それまでに培ったメタ認知系諸能力を用いた実践段階に移行する。
ところが従前であれば、メタ認知系諸能力不全者/社会適応不適格者として主流社会から厳しく行動の自由を制限されたり、隔離/排除(すなわち地位や権利を与えないようにすること)されるはずのパフォーマンス至上主義型人間たちに対し、
戦後リベラル社会は破格とも言えるほどに甘く有利なエートスを形成し、人々は彼らの事物の外観しか認識しないような「他罰的パフォーマンス」を社会全体で認容してやり、彼らをまるで"民主社会の華/メインプレイヤー"でもあるかのように誉めそやしたのである(※注1)。
その結果、パフォーマンス至上主義型人間の(口先だけ/自らの主張することを率先して実践する気などサラサラない)アピールを間に受けて、本気で努力したり奉仕する者がことごとくバカを見る/ババを引くところの「騙し合い・インチキ社会(※注2)」が顕現し、
(つづく)
16:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:15:35 ID:???
9 of 13 (つづき)

具体的には前回述べたような伝統的な価値観/誠実さ/努力性を持つ人々の生活にとって破壊的な作用を及ぼしたところの、巨大な意識革命(第五回 参照)を引き起こした。
(※注1 例えば「TIME」誌は、1966年のマン・オブ・ザ・イアーの第40位に「25歳以下の世代」(すなわちベビーブーマー世代)を選んだ。)
(※注2 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊での傷害・割腹自殺事件(1970/11)に至るのもこれが原因である。
例えば同年4月の彼の講演では、「今、非常な情報化社会でありながら精神というものはテレビに映らない。そしてテレビに映るのはノボリやプラカードや人の顔です。
それからステートメントです。そして人間は皆ステートメントやることによって何かをしたような気持ちになっているんです。
(中略)今テレビに映っているものは、どんなものが出てこようが結局、情報化社会の中で溶かし込まれて、また忘れられ笑われ、そして人間の精神体系に何物も加えないままで消えていくんじゃないか。(中略)唯モノを言い知識を磨き、
そしてどっかの洋書から引いてきたこととか、どっか外国旅行してきたことを皆さんにお伝えし、そしてまた明くる日、違うことを良いと言うことには、私は死んでもなりたくない。
それで自分の知っていることは小さなことですが、知っていることだけ行(おこな)ってみる。行ってみた結果、失敗するかも知れません。(しかし)そういうところで皆さんにつながる。アイツはやってみて失敗した。
しかしアイツは唯、口で言っただけではなかった、(そういうものに自分は成りたい)ということしかないですね。」と語っている。
その上でオレ的には、三島自身もまたパフォーマンス至上主義型人間であり、彼があのように思いつめてしまったのも、心理的には前年の東大全共闘安田講堂占拠事件などに象徴されるところの、
余りにも身勝手/自己中心的な浅薄なパフォーマンスが横行/氾濫する時代から耐え難いほど身につまされるようなダメージを受けたことが、(後述する)レフ・トルストイなどと同様の多分に自己処罰的人格傾向に作用したためだと考えている。)

ではここから先は歴史の話を絡めていくことにしよう。まず今回の残余部分では、こうした未成熟・問題性を多分に持つ、近代以降の物質文明の極致的本質が、卑近な文化現象として凝縮・矮小化された現象群にまつわる問題を論じる。
(つづく)
17:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:16:14 ID:???
10 of 13 (つづき)

1960年代以前までの民主社会では、「主流社会・文化(体制のメインプレーヤーが参加し、社会の代表/中心となる社会領域)」というものの存在を抜きにした小社会/サブカルチャーというものは存在しなかった。
すなわちたとえアングラ文化であっても、それは”アンチ主流文化”としての強烈な対抗意識か、あるいは逆にあわよくば主流文化に仲間入りしたいという願望のどちらか一つ、
もしくは両方を常に持っていて、いずれにしても主流社会・文化は人間界のセンター/ハブとして、あらゆる人々の意識の中で常に“太陽”の如き中心としての存在感を持っていた。
例えばヒッピーカルチャーは、自らの存在を全世界に認知させたい、もしくは全世界を自らに取り込みたいとする強力な主流社会志向を持っていた(全てのヒッピーがそうではないが、全体としてはマス・メディアの話題になることを大いに楽しんでいた)。

ところが巨大な意識革命の担い手として表舞台に登場したベビーブーマー世代の中から、主流社会・文化へ向かう上昇・出世意識を、
生活・活動維持に必要な部分以外では基本的には断ち切ることが痛みになるどころか、むしろそのようなマインドセットが心地良さを生んでいるような人々が現れてきた。
すなわち巨大な意識革命が始まり、人々がありとあらゆる好き勝手な方向に分散し始め、非常に身近に居る無名の他者たちとコアな小社会を形成することの面白さ/楽しさを肯定するエートスができ始めると、
メタ認知系諸能力が貧弱なことがむしろ幸し、この小社会内で自己全能観的世界観に難なく没入し切れるような人々は、一般社会との関係が薄いことを苦にせず、このことを積極的に楽しんだり利用するようになったのである。
このような人々は、(主流社会を意識することで)自己の表現欲求が阻まれるような心理的障壁を最早、心の中に持たないから、結果的にまるで
「“精神病院”にでも居るかのごとき奇妙奇天烈な矮小文化/小社会」を創り出すこととなり、いわゆる"ポストモダン"らしさを魁(さきがけ)ることとなった。
(つづく)
18:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:16:50 ID:???
11 of 13 (つづき)

では主として1970-80年代に集中的に誕生した、こうした『キチガイ的矮小文化』の実例を、若年層文化の中心である「音楽文化」からいくつか列挙してみよう。
するとパンクシーン(セックス・ピストルズなど)、ボブ・マーリィーを伝道師としたラスタやニューエイジなどのカルト系ムーブメント、野外コンサートシーン(ありとあらゆる違法薬物の氾濫、火災、爆発、傷害致死などの事故、
素っ裸や泥まみれのバカ騒ぎの横行など)やイギリスなどのインディーズシーン、レイヴ・クラブシーンなどが挙げられる。
また我が国の場合では、ハードコアパンクシーン(「非常階段」/「スターリン」など)、それに続いたインディーズシーン(「有頂天」など)などが、この類として挙げられる。
そして更には音楽系ミックスとして、
1970年代末以降に、アニメシーン(「マジンガーZ」「宇宙戦艦ヤマト」を契機とする「機動戦士ガンダム」以降)と、少女系アイドルシーン(「ソフトクリーム」(「スキよ!ダイスキ君」など)/「おニャン子クラブ」などを契機とする)
が合体して誕生した「オタク文化」が、何といっても異彩を放っており、低年齢退行性というキチガイ性を体現したところの、正に"(西洋のキチガイに対する)東横綱"と呼ぶに相応しい。
この「オタク」という日本が生んだ特異な存在は、通り一遍の認識で済ますには余りにも大きすぎるものなので、以下に詳説する。

戦後日本とは、戦前日本とは桁違いの物質・経済的繁栄を享受した社会であり、日に三度の白米を食するために歯を食いしばって働く経験をするならば、誰しも修得するような、
人間の真実/社会の虚実/心の裏表/相手の言動からその心理を洞察する能力等々は、最早、戦後育ちの子供たちには修得する機会が与えられていない。
だから彼らはリアリズムに暗く、学校教育/凡庸知識人等の“絵に描いた餅”のような建前論を真に受けてしまうのであり、人間性というものに対して徹底的に戯画化されたイメージしか持たないままに成長していく。
そして終いにはその内の一部の子供たちが、戯画的イメージを真実の前に打ち砕かれないようにするために、(現実に身を投じて闘うのではなく)
例えば生身の女性等を直視しないように自ら進んで通常の社会生活(結婚/会社勤めなど)から身を引く、
(つづく)
19:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:17:31 ID:???
12 of 13 (つづき)

あるいはあらゆる社会問題/善悪・倫理観等から距離を置くことで己の頭の中の戯画的世界に住み続けようとするようになった。

1970年代以降の日本において顕出してきた、こうしたオタクとは、独特の様式で誇張されたイメージ・空想をもってして、どこまでも人間・社会性の中の自分が見たい側面だけを見て生きようとする点で、
キチガイ的矮小文化の共通ドグマであるところの「己にとって都合の良いことだけを考えたい」という心性を、全面的に顕現させている。
すなわち彼らは、言わば社会集団の一員としての当然の責務であるところのものを放棄した上で「マトモな勤労意欲を持つ多数者に依存する」という「自己中心性の権化」である。
オタクにとって何よりも重要なものは、白昼夢的世界に住むことから生じる、アル中などと同質の病的な幸福・陶酔感なのであり、それらを死守するために備わってくる特異な現実逃避性こそは、オタクなるものの真骨頂なのである。

しかして彼らの精神病質的ナイーヴさは、むしろ暇つぶし文化期においては極めて面白い幼児性という"個性"を得ることで、逆に近年においては既存の主流文化に影響を与えるほどの"出世"を果たした。
例えばAKB48を取り巻く世界のような、従来のショービジネス手法と“化学反応”を起こしたような異次元ビジネス手法が飛び出したりするまでになったのである。
あるいはまた戦後日本人的な極度の没主体性・没個性的属性が大集団化を容易にさせ、「コミケ」のように一開催で延60万人を動員する巨大イベント(ちなみに1969年のウッドストックが延40万人。)が当たり前のように実現し、
その空間の中だけで擬制的な主体性/個性を発揮できるようになるなど、オタク文化界隈は大人気/大賑わいとなったために、21世紀の今も尚、彼らに"雑草(※注)"のような生命力を付与し続けている。
(※注 一人一人のオタクは、正に雑草のごとくにショボく孤独な人生を、世間から踏みつけにされつつも、同類の数の多さと独自の"夢の世界"を心の支えとして生きているのであり、その光景はあたかも地面を覆い尽くして這いつくばるアリの大群のようである。
ま、しかし経済的には堂々の5,000億円の市場規模に達してGDPにも貢献しているわけで、ビジネス対象としてマクロ的に見た場合には中々のものではある。
(つづく)
20:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/10/29(日)17:18:11 ID:???
13 of 13 (つづき)

ちなみに何故、このオタクなるものが我が国においてのみ発生/隆盛したのかという理由は、この先ゆくゆく分ってくる。)

さてともかくこうしたキチガイ的矮小文化集団に属する一般的な構成員(凡庸者)において以下のような特徴が顕著に現れる。

① (パフォーマンス至上主義型人間らしい外観へのこだわり傾向/(感情・気分的にハイになるための自己全能観に由来するところの)地道な努力や人間修養などの完全否定。
② ①の結果として、極度の自己中心性が“人生が思い通りにいかないことの原因は全て外部に有る/気に食わないものは全て処罰せよ。”という他罰的ドグマを醸成し、
主流社会的価値観に対する大胆な侮蔑的デモンストレーションなどを、まるで“祝祭”のような高揚感をもって為す。

すなわちこれら矮小文化/小社会のキチガイ的な存在拘束性の中で、内輪だけでしか理解されない、通常人には信じ難い異様な作法や内向的な盛り上がり、異なる価値観を持つ者/他社会からの「絶望的孤立・分離」状況が顕現してくる。
その上で彼らの常套句は往々にして「別に誰に迷惑かけてるわけでもない」「自分の人生、どう生きようが自分の勝手」などである。

当論においては、1970年代以降に登場したこうした異常気質性を伴う孤立・分離志向型の矮小文化/小社会を、ドゥルーズ = ガタリがヒッピーカルチャーの様相からアイディアを得たと思われる
「アンチ・オイディプス」(1972)で用いられた用語「スキゾフレニー」にちなんで『スキゾ・クラスター(※注)』と呼ぶことにする。
(※注 ドゥルーズ = ガタリは「スキゾフレニー」という用語を、字義通りの精神病(「考えを取られる/考えを吹き込まれる/操られている/自分と他人の区別ができない」などの異常感覚を持つところの統合失調症)としてではなく、
比喩として「近代以降の国家の主要属性であるところの一元(偏執狂/パラノイア)的管理体制のお仕着せの型に順応・適応的な生き方をしない」「人間本来の欲望のおもむくままに、塊(群れ)から分裂(スキゾフレニア)する/逃走する」という意味合いで用いている。)
(「二つのムーブメントの果てに ④ スキゾ・クラスター」 おわり)
21:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/03(金)22:51:29 ID:???
以下のように4.レスを訂正します

(都市のサラリーマンになるだけでも立派な)
「独立」であったが、大衆とは

       ↓

「独立」であると見なされたものだが、所詮は大衆とは
22:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/09(木)19:36:13 ID:???
概論第七回2(9.レス)で、「主体的達成意欲」について次回に詳説すると予告したが、これは取り消す。
23:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:33:07 ID:???
1 of 11

「市民層  概論」 第八回

「二つのムーブメントの果てに ⑤ パーティ会場の法則」

ところで民主社会のエートスについて決定的な影響力をもっているのは圧倒的多数の『凡庸者』(一連のコメントレスでの「普通の人/低能者」は今後は、「凡庸者」と統一表記する。「普通でない人/有能者」は『優秀者』と統一表記する。)である(※注)。
(※注 「凡庸者/優秀者」という概念こそは、当論全体の包括的テーマ・中心軸であり、その定義は当論の進行とともに今後もどんどん詳密・深化していく。尚旧2ちゃんコメレスにおいても再三注意を促してきたように、
当論における凡庸者とは、「庶民/大衆」という概念とは全く無関係であり、指導者・特権者階層/大衆層のいずれにおいても圧倒的多数派として存在している。)

凡庸者のエートスへの影響力の伝播メカニズムの内で、極めて不可抗的な部分の機序は次のようなものである。

『あるパーティ会場でマナーを知らない凡庸者グループが大声で話し始めたとする。するとそのすぐ近くの凡庸者グループも、同じパーティに参加しているという心理的な親和性や気安さなどから、互いに同調するようにして大声になっていく。
そうなると会場全体が騒々しくなり最早、小声では会話が全く聞き取れなくなるから、主体性を持ち、節度の効用とマナーをわきまえた優秀者を含む人々のグループさえも、ついには大声で話さざるを得なくなる。』

ちなみに社会心理学で「カメレオン効果」として知られているところの、そもそも人間には、無意識的に顕現する「他者の行動に対する追従性」があるとする知見があるが、
ま、しかしオレ的にはこのような追従性概念単独では無理があり、他の要因(※注)と輻輳する必要があるという考えから、このパーティ会場モデルを考えついた次第である。
(※注 例えば模倣元の人間に対する心理的な親和性/尊敬/共感/気安さなど。)

そして実は「多数者の専制」(過去レスリンク 114. )とは、このパーティ会場での場合のように、或る同一行為に対する多くの凡庸者の追従行動の連鎖が励起されることで、
それがまるでドミノ倒しのようにして社会全体に特定のエートスとして波及してしまった状態だと説明するならば、極めて合理的に納得できるのである。
(つづく)
24:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:36:58 ID:???
2 of 11 (つづき)
すなわちこのことは民主社会においては、メタ認知系諸能力を駆使したような高度な知的プロセスを全く経ないまま、感情・本能的な条件反射行動のみで、短期間で社会全体の支配的観念をも決定できうることを示すのである。
そこで当論では特に、人間社会、とりわけ民主社会のエートスに対して、このようにそれなりの管理的意思を伴わずして、極めて自然発生的な強制力を発揮し、
最終的には社会構造までも変えてしまう原因となるこの機序のことを、今後は『パーティ会場の法則』と称することにする。

ところでオレはコメントレス(過去レスリンク 116. )にて人間界全体を俯瞰した場合に抽出可能となるような諸原理を当論で随時、提示すると述べたが、
今後はパーティ会場の法則のような、人間社会全般において、明確な人為に拠らずに自然的、かつ普遍性をもって顕現する力動/現象/機序等を『人類学的自然法』
(これ以降は単に『自然法』と記する。)という範疇で括って提示することにする。
ちなみに自然法は人間社会・生活の様々な領域/場面に多数存在するので、今後、当論でオレが発見し紹介していく様々な自然法を、「○○の自然法の●●定理」などと名付けることにする。
そして実は、いくつかの自然法は既に提示されている。まず第三回では以下の自然法が提示された。

『人類は、集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動によって継続的に進歩/発展(※注)している。』(『進歩の自然法の第一定理』)
(※注 (人類の)進歩/発展とは、「人類の生命・生活力の増大」だと定義する。)

次に第五回において「豹変現象」が示された。これは上述のパーティ会場の法則がより歴史的に象徴的な事象に関わる場合に現れる苛烈・急進的現象、フーコー的「非連続性」の顕現である。

『時代・エポックを画するような一定の象徴的属性が事象に付与された場合、具体的には或る個人/集団が為した特定の行動とか提示した価値観等に、時代・歴史を画するような何らかの象徴性が顕著に内在する場合において、
同一社会内のほぼ全ての構成員に、瞬時にこれが看取されて承認されることがあり、この場合、人々が極めて短時間(数日~数週間)の内に連鎖的に追従し、社会のエートスが劇的に転換する。』(『観念運動の自然法の第二定理の2(豹変定理)』)
(つづく)
25:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:38:10 ID:???
3 of 11 (つづき)

そして今ここにおいてパーティ会場の法則が示されたというわけである。

『パーティ会場で凡庸者グループが周囲に同調して大声になっていき、優秀者を含むグループさえも、
この「多数者の条件反射的追従行動の洪水」に抗する術なく大声で話さざるを得なくなってしまう様に、(とりわけ)思想/信条が規制されない民主社会的環境においては、多数派である凡庸者層が、
こうした「ドミノ倒しのような連鎖性」によって、時代のエートス/トレンドを瞬く間に決定する。』(『観念運動の自然法 第二定理(パーティ会場の法則)』)

とどのつまりパーティ会場の法則とは、マルクスの「唯物史観」において、「類的存在」として財の交換社会を構成する個々人の、本来的には主体的意思によって開始されたはずの一連の事象が、国家・社会政策的な範疇に上昇していく際には最早、
各人の意思とか認知能力などによっては把握できない予測困難、かつ抽象・他律的な属性を持つ「共同利害/幻想の共同性」(「ドイツ・イデオロギー」(1846))として顕現するという「疎外(Entfremdung)」状況の中で、最も有意に作用するのである。
そしてもちろんこの疎外状況とは、自然・ありのまま崇拝(第六回 参照)により民主化が推進され、
ついに「擬制的自然界(※注)」と化した近代以降の人間界において最も顕著な特性と成ったものの一つであるというわけである。
(※注 民主体制下においては指導者・特権者階層の地位が固定化されないから、全ての個人は老いるにつれ一様に無力化されていく傾向を持つ。
これは従来、動物界と人間界を分け隔てていたものの枢要な属性の一つ(身分/世襲等がもたらす威厳/威信に依る社会管理術)がほぼ無効化したことを意味し、これをもって人間界は擬制的な自然界となった。)

では戦後世界の中心国であるアメリカ社会が巨大な意識革命以降に、このパーティ会場の法則によって、スキゾ・クラスターの寄せ集めから成る『スキゾ・クラスター社会(キチガイ的矮小文化集団社会)』になるまでの具体的経緯を、サブモデルとして以下に示すことにする。
(つづく)
26:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:38:49 ID:???
4 of 11 (つづき)

前回述べたようにワガママ/身勝手な小さな専制者であるパフォーマンス至上主義型人間は、その他者依存性 (無責任・他罰性)をとめどなくむき出しにできるものとしてのスキゾ・クラスターという自己保存形態を獲得したわけだが、
このことがついにこれまで長い間、福祉国家型民主社会の支配的観念の下では“日陰の存在”に甘んじざるを得なかったような気質傾向を持つ個人/集団を陽向(ひなた)に這い出させる契機になった。
ちなみに一般的に特定の時代の支配的観念に適応できず、社会の主流から排除された個人/集団というものは、数十年もの長い間、その心に極めて鬱屈した想いを蓄積してきているわけだから、
起死回生の機会が訪れるならば、たちまちにして反社会性をむき出しにして活性化してくる。
当論では、こうした社会そのものに対する積年の怨念を晴らすための手段としての反社会性の担い手となる個人/集団を、特に『魑魅魍魎(ちみもうりょう)』として定義することとする。

まず前述のようにスキゾ・クラスターは、もともとデフォールトで他者を手荒に扱ったり搾取し合うという自己中心的傾向を強烈に持つので、
魑魅魍魎的属性とは非常に相性が良く、魑魅魍魎が表舞台に登場してくる段階においては、スキゾ・クラスター化した魑魅魍魎集団が社会の至る所に登場するという次第になった。
例えばアメリカでは、“インチキ自己啓発セミナー”とか健康食品販売などといった胡散臭い業界(※注)が、巨大な意識革命が始まると同時に急速に目立って形成されてきたのである。
そしてこうした"小さな反社会性の砦"としての魑魅魍魎スキゾ・クラスターが、社会のあちらにもこちらにもに湧き出てくるような段階になると、福祉国家型民主社会の支配的観念に適応した、とりわけ他者に対する思いやり/優しさ/寛容、
もしくはそれらを保持するために自己に対する厳しさ/高い目標設定/高い内省力などを持っている、言わば魑魅魍魎的属性に対する防御/免疫等の対抗力が低い者たちは、"鴨ネギ"の如く魑魅魍魎の餌食にされ始める。
(つづく)
27:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:39:37 ID:???
5 of 11 (つづき)

ここで主体的認知体系が秀でた者、すなわち「優秀者」(次々回に詳説するが、とりあえずは「帰納的思考様式を使える」という能力的属性が重要。)は、経験/事実に基づいた合理的論理の形成力が優れているから、
「一部の者やグループが際限なく利己的に振る舞うようになれば、やがては大勢の人々が影響を受けて社会全体の健全性が失われていく。」と、この時点で十分に予測できる。
よって、「できることなら、スキゾ・クラスターを制御するなどして社会全体が無茶苦茶にならないように働きかけたい」ものだが、しかし(パーティ会場の法則を発見するならば)、「この動向を食い止める事は、
今の俺たちの力では最早、不可能であり、いつまでも自分一人が博愛精神を持ち続けていたり、自利の積極的獲得に逡巡/躊躇したり自己抑制的に振舞っていたりすれば、やがては
“ケツの毛”までむしられるだけであり、やらなければ、(自分が)やられるのを待つだけである。」こともまた一方では実感を伴って良く理解できる。

このような認識に至り、それでも尚、“聖人/善人”ぶった態度でいられる優秀者は居ない。何故なら全ての人間は自己保存本能に根ざした存在拘束性というものを持つのであるから、
一度限りの人生を、あえて他者の“食いもの”にされることに、いつまでも忍従できるわけがないからだ(※注)。
すなわちパーティ会場の法則の作用により日に日に社会の中で活性化してくる魑魅魍魎的属性によって、健全さが目に見えて滅失していく段階に入ると、優秀者が「もう人々と和みあったり慈しみあったりするようなタイプの幸福が手に入らないのであれば、
社会を救うことよりも、自分も他者から積極的に奪い取ることによって一生懸命生きてきた自分の努力を報わせる/自分だけでも何とか生き残らせるしかない。」と思うようになるのは、この結論に到達するまでの紆余曲折はあるにしても、結局、時間の問題となる。
(つづく)
28:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:40:11 ID:???
6 of 11 (つづき)

(※注 例えば「一身独立して、一国独立す」で有名な、我が国独特の国家主義的自由主義思想の信奉者である福沢諭吉の思想を見てみよう。
諭吉は西洋の民主社会を支えている建前的理念が国際政治の現実においては全く機能しておらず、アジアに殺到する西洋列強のやり方(帝国主義的侵略)を「正道」に対する「私道/権道」「禽獣の世界」(すなわち魑魅魍魎の世界ということ)だと非難するのだが、
現実問題として、かかる状況に置かれた我が国もまた不本意ながら(パーティ会場の法則によって)「禽獣の一員として行動せざるを得ない」として、諭吉は日本の軍国(禽獣)化を支持する思想を持つに至っている。
このことは、人が一旦、現状の中にパーティ会場の法則的機序を看取するならば、例え相当に知能に秀でた者だとしても、とりあえずは大勢に同調する他には手の打ち様がないことを示している。)

ところで上記の魑魅魍魎集団のみならず、特定の集団が大きな歴史上の転換期に際立った行動を持続的に為すことは、実は良くあることである。
そして一般的に人間界においては、或る社会的力動が持続的に活性化したり弱体化したりすることは、それに対応する『階層の形成と破壊』が伴うことを意味する。
例えば初期資本主義体制期におけるメディチ家(イタリア)/フッガー家(ドイツ)のような政商(都市貴族層)に代表される独占型経済階層を打破したのが、プロテスタントの勃興を契機に発達した近代資本主義的自由貿易階層(中産階層)であり、
それが19世紀後期にはまた、国際金融資本(独占的大企業層)の形成により独占型に盛り返され、更に20世紀中期に入って独占禁止法の全世界的導入によって、また経済的多様性が復活したことなどは、この典型例だ。
また我が国の歴史に目を転じるならば、雑多な民が時代的存在拘束性に基づいて自然的に結集して形成された社会階層が、一定期間の時代の様相を規定するなどということが度々生起する。例えば我が国における最初のこのような事象は、
古代末期から中世全期(織豊期まで)にわたり活動した「僧兵集団」によるものである。
(つづく)
29:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:40:48 ID:???
7 of 11 (つづき)

「僧兵」とは、有力寺院(古代社会においては“知の殿堂”である。)という高度に権威的な知的バックグラウンドを拠り所としつつ、律令体制が定める社会秩序(公地公民)の回復への望みが完全に絶たれた11世紀頃に、
主として武力行使を伴う示威・脅迫的行動をもってして自分たちの要求に指導者・特権者階層(公家/王家)を従わせようとした「自力救済する市井の人民たち(※注)」である。
彼らは平安時代と鎌倉時代の端境期、すなわち終末思想(「末法の世の到来」を主旨とする。)が蔓延した時代から江戸幕府が開府するまでの、かなりの長期間において、大きな政治的影響力を伴って活動し続けた。
(※注 無頼漢/食い扶持にありつけない貧農/僧尼令が規定する官許に拠らない法師(私人僧侶)などが、仏教寺院が保持する「一切衆生の救済」理念の下で実践された無縁施行/摂待などに集まり、
そのまま寺院の敷地内や門前に住み着き、村落共同体的なコミュニティを形成したのが、その起源である。
彼らはその後、中世全期を通じて高度な分業的専門家集団(例えば武器製造/築城/金融/物流/交易/荘園管理など。)として発展していくことで、
法会(ほうえ)などを取り仕切る学侶を押しのけて実質的に寺院社会内での主導権を握り、僧兵活動を一貫して支援し続けた「生活共同体型軍事集団」となる。)

そして鎌倉・室町期に入ると「名主」として「名田」を持てるほど有力ではないが、一応自立している中間層農民が中心となる自治組織である「惣(そう)」が発達するが、こうした社会基盤的属性を持つ社会階層と上記の寺院コミュニティ(僧兵集団)が母胎となって、
戦国期(15世紀 - )には親鸞信仰を基軸とした、北海道から九州まで全国各地に拡がった浄土真宗門徒「一向衆」が、上層商人から一般農民までを幅広く網羅した上で、合理主義的な思想を持つ社会階層として登場し、指導者・特権者階層とヘゲモニーを賭けて争った。
この「一向一揆」として知られるところの、1世紀以上にも及んだ長期的ムーブメントは、途中約半世紀にわたり北陸(主として加賀国)を実効支配し、そこを拠点に時宜に応じて戦国大名らの加勢も得つつ、
(つづく)
30:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:41:29 ID:???
8 of 11 (つづき)

近畿一円/美濃/尾張/三河といった地域にまで勢力を拡大させるという大躍進をもたらしたのであり、時代転換期的存在拘束性が一時的に育んだ社会階層としては日本史上、最大最強(※注)のものである。
(※注 特に石山本願寺城(後の大阪城の礎)の寺内町などは、自治都市として莫大な富を蓄えて繁栄し、
各地から結集した門徒が警察/防衛の任に就いた。しかしこれは最終的に織田信長の自らの存亡を賭けた攻撃(累計で十数万人に及ぶと見られる大殺戮劇)により、ついに壊滅させられた。)

また更には「東山文化」と呼ばれる町衆を一方の担い手とする市民的文化の開花期には、日明貿易で栄えた豪商などの「高い自尊心」に裏打ちされた市民層が日本各地の港町等に勃興し、とりわけ堺のように市域に水濠を巡らせ市門を設置し、
独自の防衛軍を持つなどといった中世ヨーロッパの自由都市を彷彿とさせるような自治都市が出現した。
しかしこうした自治都市の担い手としての各地の市民層群もまた、間もなく戦国大名らによって直轄されていく運命にあった。

このように我が国では、さながら“善神”と“悪神”の闘いの如く、社会上位層の支配的観念(イデオロギー)に対するアンチ観念を持つ下層民衆が、時代の転換期に満を持して登場しては、階層の形成と破壊を、現代に至るまで幾度となく繰り返してきたのである(※注)。
(※注 例えば大正末から昭和初期に帝大生などのインテリ層を中心に盛り上がった地下共産主義運動とか、
また戦前・戦中期には一言もモノを言えなかった学校教師たちが、GHQ占領下で戦中教育体制が木端微塵にされるや否や、「日教組」という大左翼運動集団を結成し体制(文部省)と真っ向から対決したりとか。)
(つづく)
31:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:42:15 ID:???
9 of 11 (つづき)

というわけでこのような階層の形成と破壊は、時代を画する転換期において一つの社会的力動が成長したり衰退したりする運動の所産と見做せるものなのであり、あらゆる人間社会の歴史の節目において必ず顕現するものであることを踏まえた上で、また元の話に戻ろう。

スキゾ・クラスターが新たな階層を形成し始めたアメリカでは、このこと(すなわち巨大な意識革命の勃発により進行してきた一連のスキゾ・クラスター化事象)が魑魅魍魎集団成長に輻輳したということが、結果的に意味するものは、極めて甚大なものとなった。
すなわち前述のようにパフォーマンス至上主義型人間の人的属性を極端化したようなスキゾ・クラスターの特徴は、基本的に自己完結(全体社会と意思疎通しようとしない見かけ上の孤立)した上での全体社会への実質的な依存性(無責任・他罰性)であった。
そしてこうなると部外の者もまた社会的責任性を放擲したようなスキゾ・クラスターを結成することによってでしか、一連の事象に対抗できないというパーティ会場の法則の機序の下に置かれるために、
優秀者を含む指導者・特権者階層もまたスキゾ・クラスターを組織した上で、人々から積極的に奪い取ることを決意するに至るからである。

ちなみに優秀者というものは一旦、腹が決まれば、凡庸者などは及びもつかないレベルの意志力/周到さ/知力等によって驚異的な「合理性の力(過去レスリンク55.など)」を発現させる。
例えば優秀者のこうした超合理的攻撃に晒された凡庸者は、最終的には通常の社会生活内で受容できる損害や精神的ストレスの限度/閾値を超えて、社会的転落/自殺/精神障害や各種の心因性の疾病等に襲われたりもする(※注)。
(※注 優秀者は、自分が持てる能力を総動員して本気で闘いを挑むならば、抵抗力の弱い相手方(凡庸者)が(場合によっては死に至るような)重度の生活・精神上の打撃を被る場合さえ在り得ることを経験的に知っており、
普段は本気/命懸けで他者を攻撃するということはしない。必ず手を抜いたり手加減したりしている。)

しかしてオイル・ショック/スタグフレーション/ベトナム戦争敗戦/ウォーターゲート事件などといった、次から次へと途切れなく発生する心理/経済両面からの“大激震”の連続の中で、自己保存本能に由来する本気の攻撃性に目覚めた優秀者が、
(つづく)
32:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:42:58 ID:???
10 of 11 (つづき)

魑魅魍魎集団が率いるスキゾ・クラスターを使って、このスキゾ・クラスター同士の熾烈なバトルに、これまでとは次元/桁が異なる影響力をもたらすこととなった。
すなわち優秀者の加勢を得たアメリカの指導者・特権者階層の意思が魑魅魍魎的スキゾ・クラスターに本格的に影響されるようになったことの当然の帰結として、ついに


『(アメリカ社会の)指導者・特権者階層内の個々のスキゾ・クラスターにおいては、人々は完全に自己保身のみに執心し、身内の企業等の便益に有利なドラスティックな税制改革等を政府に迫ることとなった。
この結果、権力にあやかれる者(大企業経営者/高度専門的技能者など)しか安定した生活ができなくなる、すなわち従前まで繁栄を謳歌していた中流階層が壊滅的打撃を被ることとなる「新自由主義型民主社会」へ移行することとなった。』

新自由主義型民主社会とは言うなれば、他者に対する思いやり/配慮などは致命傷にさえなりかねない、まるで“生き馬の目を抜く”ような、
人々が唯奪い合うことによってしか生きられない社会であり、この直前まで一世を風靡していた"優しい人間"たちは、一人残らず社会の主流から葬り去られることとなった(※注)。
というわけで、巨大な意識革命以降、10年弱という極めて短期間でアメリカ社会が、このような“弱肉強食の世界”に劇的に変化したのは、(再三述べているように)キチガイ的矮小文化事象が、
その自己中心的属性において極めて類似した魑魅魍魎集団の活動と輻輳したために、社会のスキゾ・クラスター化に向かうパーティ会場の法則の作用が更にブースト/亢進されたためなのである。
(※注 ジミー・カーターの事例が典型的。)

ちなみにベビーブーマー世代の一部の若者たちが巨大な意識革命以降にスキゾ・クラスターを形成したのは、彼らのメタ認知系諸能力/主体的認知体系が脆弱であるために、
個人的な興味/関心に容易に没入できるからであって、スキゾ・クラスター現象とは決して主体性/個性などの自我の能力の高さに所以して顕現するわけではない。
ゆえにスキゾ・クラスターのメンバーは凡庸者の基本的属性を依然として免れていないために、パーティ会場の法則がスキゾ・クラスター化という一見すると個別化に見えるような事象においてさえも良く作用したのである。
(つづく)
33:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/11(土)21:43:32 ID:???
11 of 11 (つづき)

そしてパーティ会場の法則がもたらす事象に対しては、前述のように優秀者の主体性/個性などは無意味であるために、他の社会的力動と均衡するということが起こらず、スキゾ・クラスターがアメリカ社会全体を完全に呑み込みつくしてしまったというわけである。

ところで「スキゾ・プロセスとは、パラノ勢力と拮抗する」と述べた浅田彰は、スキゾ・クラスター化を社会全体を飲み込むまで一気に進行させてしまう、このパーティ会場の法則という自然法的機序には気づけなかった。
すなわち前回述べたところのスキゾ・クラスターのキチガイ凡庸者の、「別に誰に迷惑かけてるわけでもない/自分の人生、どう生きようが自分の勝手」の如き言い草は、
このように圧倒的多数者のパフォーマンス至上主義型人間を中心にパーティ会場の法則が瞬く間に社会全体に作用し、1930年代から始まった福祉国家型民主社会の歩みとともに成長してきた
中産階層が消滅するという新自由主義型民主社会を招来してしまったがゆえに、誤謬であったことがここに確認できる。
(「二つのムーブメントの果てに ⑤ パーティ会場の法則」 終わり)
(第八回 おわり)      
34:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/23(木)09:53:08 ID:???
「第八回」の内容について著者からコメントを一言。
アメリカ社会がスキゾ・クラスター社会に成る過程を示すモデル内において具体的事例の提示がほとんど為されていないが、
このような類のもの(例えば三菱と早稲田のクサレ縁を示す事例とか)は、表の論文とかメディアには普通は出にくいものであり、事例提示がはなはだ困難なためという理由による。

その上でオレの使命は、事実/史実に整合的なモデル提示/大枠の論理/問題提起だと考えているので、詳細の研究は後続者に委ねたい。
35:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/23(木)11:10:26 ID:???
追記

ゆえに読者はとりあえずは、巨大な意識革命/オイル・ショック/スタグフレーション/ベトナム戦争敗戦/ウォーターゲート事件などといった時代的存在拘束性、並びにレーガン政権以降の
アメリカ社会の制度的変貌ぶり等を有意な状況証拠として、ここで論じたところの「アメリカ社会のスキゾ・クラスター社会化モデル」を認識されたい。
36:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/23(木)11:27:53 ID:???
追記2

あとは過去レス81.(第五回)の「1980年代になる頃には、ニューヨークなどの大都市では横柄でふてくされたような受付の女性の応対などは
当たり前となっていた」のような状況も、当時は既にスキゾ・クラスター社会であったことを示す非常に有意な状況証拠となる。
37:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/27(月)20:22:45 ID:???
追記3

この時期のスキゾ・クラスター社会化を端的に表象する他の一般事例としては、まず「富裕層からの寄付の急減」が挙げられる。
従来、アメリカでは多くの大学の研究資金・施設/美術館の所蔵品等は富豪・富裕層からの寄付により賄われてきたが、この時期にこれが全米において急減し、
例えばハーバード大学などのトップクラスの金持ち大学でさえ、教員が退任しても補充すらできない状況にまで悪化した。

また他の一般的事例としては、経済犯罪の急増が挙げられる。まず万引きは10年前の2倍強増/ホワイトカラー層の職務上の横領等の不正所得は3倍増である。
更には小売店の従業員による、ありとあらゆる手段を駆使した商品・売上金の横領等の増加もすさまじく、この時期の被害総額は万引き被害額の10倍にも達した。
38:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/27(月)20:27:17 ID:???
26.レス(第八回 4 of 11)内の「胡散臭い業界」注釈が脱落していたので以下に補填します。

(※注 この他には例えば、我が国でも「シロアリ駆除」などでお馴染みになるところの詐欺的リフォーム業界/不必要な手術で患者をタライ回しにして“患者のケツの毛までむしり取る”
インチキ医療業界/交通事故等でインチキ診断書を武器にしたボッタクリ損害保険請求でボロ儲けするインチキ弁護士業界など。)
39:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/27(月)22:40:56 ID:???
>>36 追記2の追記

この「ふてくされた女性」が象徴しているものを心理分析するならば、「ベトナム戦争以前には全てのアメリカ人にとっては当たり前であった
「愛国心」が消え去り、「Me(ミー)世代」はありとあらゆる事物にシラけ、最早、「自己中心性」の中にしか自己のアイデンティティを見出せ
なくなっていた。」となる。
40:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:32:04 ID:???
1 of 19

「市民層  概論」 第九回

「凡庸者」

さてキチガイ凡庸者、すなわちパフォーマンス至上主義型人間が生み出した歴史的狂騒劇について引き続いて論じる前に、
今回はいよいよ、パフォーマンス至上主義型人間を含む上位のカテゴリー、当論の最重要概念「凡庸者/優秀者」の一方であるところの「凡庸者」について集中的に論じる。

パフォーマンス至上主義型人間の如き「メタ認知系諸能力が脆弱であるところに起因して、人格・処世観念等の涵養が極めて不十分な者」は、実は躾が十分に為されない養育環境とは真逆の、行き届いた躾や「かまい(世話/面倒/干渉)」/独善的とも言えるような
信念、信条、信仰等の訓育によって、自然・本来的な人の心の溌剌(はつらつ)さが抑圧され、言わば他者依存性を強いて刷り込まれたような環境においてもまた生まれる。すなわち

「メタ認知系諸能力の脆弱さを後天的(※注)にもたらす要因には、「(躾/面倒見などの」他者の介在の過小/過大」の二類型があり、その帰結として現れる人間属性もまた二類型化する。」
(※注 先天的な要因をも鑑みた上での分類は、今回のところはまだ為さない。それは後の回で論じる。)

そして人類史的には、むしろ他者の行き過ぎた介入に起因してメタ認知系諸能力が未発達となり、「(認識/思惟に関わる)盲目・盲従的な他者依存性とか孤独に対する恒常(気質)的不安」を持たされる人々こそが一般的だったのであり、
いつの時代でも社会が用益するための中心的な人的資源として、この『ロボット型人間』は存在してきた。

ここで「パフォーマンス至上主義型」と「ロボット型」という二類型を持つ人々、すなわち「児童期までにはほぼ完成されるメタ認知系諸能力(主体的達成意欲/自己批判的観念/帰納的思考能力等・・第七回 参照)
が未熟であることに起因する主体的認知体系の不全性によって、理想的な主体性/個性(※注)を将来において獲得できる可能性を完全に絶たれている者」についての、当論のこの時点における、とりあえずの定義付けを以下に示す。
(※注 例えばドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」(1880)第五編第五において、このことをイエスを裁くための有名な叙事詩「大審問官」として忌憚なく述べた。
尚、「主体性/個性」の何たるかについて論ずることは、当論の最重要テーマの一つであり、この後も適宜、解説していく。)
(つづく)
41:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:32:49 ID:???
2 of 19 (つづき)

『或る人が「凡庸者」であるということは、メタ認知系諸能力と、その成果物であるところの主体的認知体系(※注1)が脆弱であるということであり、これは根本的には『(自他に対する認識に関わる)単純素朴性/
無謬的信憑性(※注2)』、及び『自他の分離観念の不全(※注3)』という三属性に分解できる。』(『観念運動の自然法 第三定理(凡庸者定理)』)
(※注1 ちなみにカントはメタ認知系諸能力/主体的認知体系を「先験的判断力」と呼び、「判断力は一個独特の才能であり、傍から教えられるというわけにはいかない(中略)生得の智慧の特殊なものであり、それが欠けているからといって学校教育でこれを補うことはできない。
学校教育は、(中略)他人の知解から借りてきた規則を(中略)詰め込むことはできるが、さてこれらの規則を正しく用いる能力となると、これは生徒自身のものでなければならない。」(「純粋理性批判」第二部門第一部第二篇緒言 1787)としている。)
(※注2 例えば過去レス123.で述べた、スキーマのみを用いる演繹的思考のようなものが、単純素朴性の典型例である。よって隠喩/暗喩/婉曲等のヒネリや曖昧さ/煩雑さ/錯綜/連関/相関/非同時性/
本音・建前の意図的使い分けのような複雑性要素が入り込んでくると、もう全く事物を正しく認知できなくなるか、あるいは思考する意欲自体を喪失する。
また「体系・マクロ的把握・認識ができない」ということも単純素朴性に起因する重要な属性だ。すなわちその場限りの思考というものはほとんど無益であり、
思考成果物を蓄積/整理/俯瞰/修正するなどしつつ体系化することで、ようやく己の認識/論理等に真っ当な合理性を付与できることが分からない。
(つづく)
42:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:33:43 ID:???
3 of 19 (つづき)

というわけで人が単純素朴性/無謬的信憑性を持つならば、一次的認識が即座に自明真理化するヘーゲル的な観念の弁証法的運動の「正」段階に留まるしかなく、合理的に懐疑することで事物にまつわる問題点に気づける可能性が金輪際なくなる(第七回 参照)。
具体的にはあらゆる事物が紋切り型、かつその時その場のノリや気分のままに思い込む/一つ事を一本気に信じ込むようなカタチでしか認識されないのであり、このことは往々にして人を“極悪・極善人(※注4)”的な者にする。)
(※注3 例えば伊藤整「青春」(1938)には、「僕なんかでも、あれはああ、これはこうと、いちいち自信のある理解を物事に対して抱けるようになるだろうか。(中略)物乞いでもするように沖にある少量を話し、
藤山に逢った時には藤山に聞いてもらえるような少量の話を選み出して打ち明け、武光にはまた別な部分を取り出して示す。そういう日常の交流に小刻みに捌け口をやっと見出している自分の内心の息苦しい疼きを信彦は持て余すのだ。」とある。
これは「自他の分離観念の不全」がもたらす自意識の典型例であり、ここには「自分は"自分"という固有の世界に、自分の意思をもってして生きるしかない。」という自意識における自我の健全性が不全であることに起因する苦しみが良く示されている。

例えば人生の或る状況における状況認識は、視点の持ち方次第で、いく種類もバリエーションが存在する。しかして人は多くの異なる観念に対して同時に同レベルの重きを持って対処することはできないから、
行動方針/戦略とは、或る一つの状況認識(例えば「自分の学業の成績が良い」など。)のみを重視したもの(「ゆえに一流大学の医学部を目指す」など。)とならざるを得ない。
そして一旦、そのような特定の行動方針・戦略の実践段階に入った(「受験勉強のために部活を辞め、遊び仲間との付き合いも減らした」など。)後で、
他の方針に心移りしたりすれば(「成績は良いが、俺の家は貧乏だ」など。)、従前の方針に基づいた努力が全て無駄になるという損害(同一方針を保たないことの非合理性)だけが残されることになる。
(つづく)
43:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:34:19 ID:???
4 of 19 (つづき)

とどのつまり計画性というものの本質を鑑みれば、或る一つのタイプの利得をだけを一貫して負い求め、他のタイプの利得を敢えて顧みないのでなければ、
(「二兎を追うものは・・」状態) (目的追求の方向性において自滅的な判断/行動が双方の目的行動に混入する状態)となり、真っ当に自己実現(成功)できる可能性はなくなる。
すなわち人は己の主体的認知体系に基づく「己にとっての自然体」と言える或る一つの認識に基づいて一貫した行動を採れる、そしてそのような主体的行動ができる自分をひたすら自尊した上で、その結果として生起する不利益については
享受する覚悟(すなわちいざと言う時には“討ち死”する覚悟など)を当たり前のように保持できてこそ、(仮に今回の計画はダメだったとしても)「一貫性」という、
将来、幾度目かの挑戦において成功を勝ち取れる可能性を留保し続けられるのである。人生に、このような根幹的な合理性の力をもたらす能力が、自他分離観念である。
ちなみにこの自他分離観念があまりにも脆弱であれば、からかい/イジメのターゲットにされたり、”玩具(おもちゃ)”のようにヒマつぶしの道具にされたり”(使いっ)パシリ”として奴隷の如く扱われてしまう。)
(※注4 ゴンチャロフ「オブローモフ」(1859)の冒頭節にある「善人だ。きっと単純そのものだ!」の一句が示す通り、単純素朴性/無謬的信憑性の極致を顕現させている者とは、「(ガチガチに凝り固まった道徳・倫理観念に取り憑かれた)極善人」
「(ガチガチに凝り固まった他罰的観念に取り憑かれた)極悪人」を単純/朴訥に演じ(パフォームし)続ける者である。)

こうして人は単純素朴性/無謬的信憑性を持つと、次々に顕現する不手際/失敗から真っ当な自尊心を持つことができず、結果的に『他律・依存性(※注1)』がどんどん亢進していくことになる。
具体的には自他の分離観念の不全と相まって、圧倒的人数を擁する大集団(群れ)を形成し、集団が共有するイデオロギー(エートス)に完全追従することによって
自己保存を図るという戦略を持つようになる。この段階で人は、事物/事象に対する『当事者・責任意識(※注2)』を失う。
(つづく)
44:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:35:04 ID:???
5 of 19 (つづき)

(※注1 例えばジイドはこのことを、「どいつもこいつも、何とかして自分自身には似まいと努めている。誰でもが守護神を見つけ出して、その真似をしようとかかる。
真似をしようとする守護神を選び出すことさえしないのだ。前もって選ばれた守護神を受け入れるだけなのさ。」と、「背徳者」(1902)でメナルクに言わせている。)
(※注2 凡庸者は場合によっては自我の防衛機制によって、異様にがむしゃら/一生懸命になったり、皮相的には非常に思いやり深い、心根が優しく見えるような当事者・責任意識パフォーマンス(擬態行動)を
為すことがあるが、やはり適切なメタ認知系諸能力を持っていないという、“(決定的)ボタンのかけ違い”の弊害は大きく、心の余裕/自分の立場の優位性などがなくなれば、たちまち頭がおかしくなる。
すなわちこうした場合には、「自己愛/演技性/境界性人格障害」もしくは「高機能自閉症」などと呼ばれるような変則的処世術実践者になっていかざるを得ないのである。)

さてこのような在り様の人、すなわち凡庸者は、最終的には周囲の者の様子を見て模倣/追従するだけの『トートロジスト(同義反復者)(※注1)』にまでなる。
トートロジストらは(主体性/個性が必要ない群れの一員と成ったのであれば最早、メタ認知系諸能力の涵養は必要ないために)その関心を、
積極的に快感の追求のみに向けるようになる。そしてこの在り様は、ほどなくして“凡庸者の生き地獄”を引き寄せることとなる(※注2)。
(※注1 当論の重要概念であり、この先、提示される極めて重要な認識において何度も登場することになる。)
(※注2 凡庸者的自意識とその生き様がもたらす地獄の代表的パターンは、近代の「科学の時代」という存在拘束性の中で、克明/微細に記録されてきた。
例えばゴーリキー「幼年時代」(1912)/ショーロホフ「静かなドン」(1928-40)/フローベール「ボヴァリー夫人」(1856)/モーパッサン「女の一生」(1883)などが代表的なものだが、とりわけバルザック/フローベール系の忠実な継承者の手になる「女の一生」においては、
正にその場その場の、過去とも未来とも永久に連関性を持たせられることがない「刹那々々に込上げてくる感情」のみが移ろう「凡庸な人生の典型」とでも言うべきものが精緻に描き切られている佳作である。
(つづく)
45:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:35:57 ID:???
6 of 19 (つづき)

というわけで19世紀~20世紀前期においては、「写実主義/自然主義」などいった看板を掲げた、主として(フランス/ロシア/日本などの)文学界における人間社会の見たまま/ありのままの観察・報告に基づく「人間そのものについての経験・実証主義的知見」
が大々的に注目された時代であり、社会人類学者にとっては数多の近代文学作品とは、「凡庸者の何たるか」に関して典型的な認識を得るための重要な資料である。)

例えば群れ化万能・全能感/無思考・無努力性/盲従・権威依存性などがもたらす無知の知や謙遜を知らない心/必ずしも外見には表れない内面の一本調子さ/
頑迷さ等は、彼らをして身の回りで日々変転流転する事象の脈絡/意味合い等に全くもって頓着しない人間にする。このために何をやってもマトモな達成からは程遠くなる。
そしてこれらが、一定/安定した情緒の持続能力を蝕み、例えば"正気/冷静さ"を保つためには常に何らかの脳神経活動賦活系物質(コーヒー/酒/薬物など)に満たされていなければならないなどの状態、
すなわち落ち着かない/黙っていられない/些細な変化に対しても動揺する/癇癪、あるいは諦観、自暴自棄モードにはまりやすくなる等の神経症様態を顕現させる(2017/10/27のツイート参照)。

このような状態は凡庸者に更なる無能・低能性を付与し悪循環過程に入らせる。意識下には根元的に解消不能な鬱屈感/ルサンチマン等が蓄積し、
凡庸者はこの精神の慢性的不全状態から一時でも開放されたいがために、最終的には"魂を悪魔に売り払う"かのようにしてまでも、"快感/欲求/欲望の虜"になっていく。
こうして最後には “人生のどん詰まり”的閉塞状況がもたらされ、事物の価値判断基準を「食う/寝る/猟る/癒す(遊ぶ/休む)」などの動物本能的なもの以外には求め得なくなる。

このことは「幼児性」があらゆる行動に顕現してくることを意味し、権勢・物・享楽・性・自己顕示欲(※注1)、あるいは諦観/厭世観等に歯止めが効かなくなり、これらは何らかの契機に、
狂信・奴隷的従属欲求/自殺/反社会性/超集団性/暴力・破壊・攻撃欲求/専制的支配欲求(※注2)にまで転換しうる。これが「凡庸である」ということが終局的に行き着く"生き地獄"である。
(つづく)
46:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:36:45 ID:???
7 of 19 (つづき)

(※注1 この手の権勢・物・享楽・性・自己顕示欲的属性の告発にかけては右に出る者がないゴーゴリの諸作品(「死せる魂」(1842)など。)を見よ。
また我が国においては、江戸中期以降から大日本帝国期にかけての指導者・特権者階層に蔓延した、「大尽遊び(座敷や戸外での銭貨撒き/惚れ込んだ芸者を身請けして居所を充てがえて妾として囲うなど。)」という風習の中に、この典型が見いだせる。)
(※注2 例えば大正初期の農村における作者の実生活経験を下敷きにした宮本百合子の「貧しき人々の群れ」(1916)とか井伏鱒二の「多甚古村」(1939)などは、ここで言うところの狂信・奴隷的従属欲求の具体的様相を余すところなく伝えてくれるし、
後で詳説する昭和初期の陸軍皇道派の青年将校などもこの類である。超集団性の例としては、一向一揆、打ち壊し、おかげ参り/ええじゃないか、米騒動、昭和戦前期の東京音頭など。)

ハッキリ言うと

『凡庸であることとは、自分自身/自分が置かれた状況を合理的に認知できないことを意味し、このようなヘーゲル弁証法的「正」状態に留まり続けるならば、いづれ人間は確実に“性根がとことん腐ってしまう”、あるいは『キチガイ/鬼畜(※注)』のようにまで成る。』
(※注 凡庸者の認知世界とは基本的には”動物”並である。そしてキチガイ・鬼畜性とは根本的には、凡庸者が動物のように己の存在拘束性を合理的に操作/管理する能力を持たないということが、その主因である。
その上で人間脳は、動物脳とは異なり言語野を持つから多様広範な抽象的概念/イデオロギーを認知することができるわけだが、これが人間をして動物には在り得ないような精神の興奮/高揚/歓喜/焦燥/落胆/動揺/絶望等々の、
人間独特の様々な意識状態をもたらすからして、まるでキチガイ・鬼畜の如くになるのである。)

そして凡庸者三属性のうちの、どれとどれが外部要因によってフィーチャーされるのかにより彼らをして、時には「パフォーマンス至上主義型人間」にし、時には「ロボット型人間」にするのである。
(つづく)
47:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:37:24 ID:???
8 of 19 (つづき)

例えばパフォーマンス至上主義型人間とは単純素朴性/無謬的信憑性が、大衆全員参加型社会である近代以降の産業社会の環境的存在拘束性により、とりわけフィーチャーされており、他者の言葉/行動などの表現行為の内にある含意/真理を汲み取る能力が極めて低い。
すなわち事物の中で「無言/静寂」である箇所/部分(往々にして最も枢要な真理・真実性を包含する部分。)に対する注意、並びにそれらに係る帰納的思考ができにくくなっている。
この結果、言葉や行為の外観的表象のみに囚われたところの、自己認識に対する懐疑心をあらかた捨て去った上での勘違いしまくった自己完全感を持ちやすい。
そして心の余裕/自分の優位性などがなくなれば、たちまち依存・逃避・退廃的な凡庸者的本性を隠しきれなくなる。すなわち彼らは基本的に「良く吠える弱い犬」である。
こうして例えば他者に対してホンのわずかでも身をかがめることができないとか、あるいは事物に簡単に最終判断/答えを出した上で他者に問題解決を委ねる/責任転嫁するなどの「他者依存性(無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向)」を強烈に発揮するのである。

こうしたパフォーマンス至上主義型人間属性の最初の顕著な権化はフリードリヒ・ニーチェである。
ま、しかしこれほど極端なまでに突出しているわけではなく、(己が偽善的擬態者であることを意識下で認識した上で)あくまでクールに計算尽くで自己演出するのが、パフォーマンス至上主義型人間としての、むしろ典型的な姿である。
例えば「職業学者」であれば、事在る毎に最新の学術のトレンドに関してコメントしたり、この間誰それの有名学者に会っただの、あの大学の学風はどうだの、英国人、ドイツ人、あるいはロシア人やイタリア人というものはどうたらなどなど、
ともかくありとあらゆる学究そのものとは無関係な、"周辺事情"とか"概要"とかを、ともかく目が覚めている間中、さも意味有りげにしゃべり続け世間を煙に巻いて、
雑誌/新聞のコラムの連載なんかで名を売る、副収入を得る、「教授/何ちゃら委員」等の肩書きを猟官するなどといった具合である。

次にロボット型人間について。ロボット型人間という人間類型は、古今の哲学者/思想家/社会科学者等にとってはクリシェ的認識であり、人類史においては長らく凡庸者の代表型であった。
(つづく)
48:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:38:05 ID:???
9 of 19 (つづき)

例えばホッブズ「リヴァイアサン」(1651)ではこのロボット型人間を「自動機械」と表現し、「ドイツ観念論の最古の体系構想」(1917年に発見された著者不明の有名な論文)では、「機械の歯車」と表現し、
E.フロムの「自由からの逃走」(1941)においては「自動人形」と言い表されているといった具合である。
基本的には彼らは自他の分離観念の不全傾向が強く、誰かに己が為すべきことを示唆/教唆されることを強烈に欲する。

ところで満州事変後の日本のように、主体的思考態度が徹底的に抑圧され、権威/イデオロギーへの服従を強要されたりすれば、凡庸者はロボット型人間の代表的サブカテゴリーであるところの「被支配欲求型」になっていく。
そしてこのチャプターでは、この被支配欲求型の現代社会における繁栄種であるところの極めて尊大な人格属性を持つ善人・良識人タイプについてと、
被支配欲求型がギリギリまで追い詰められた特異点において転化するものとしての「専制的支配欲求型」について述べる。

まず先に専制的支配欲求型から説明する。人間心理には、自分に都合が悪いことは顕在意識からシャットアウトする「防衛機制(精神分析学用語)」がデフォールトで常時作用していることは間違いないところだが、問題はこの(例えば「己が無能である。」などという
認識がもたらす神経ストレスを軽減し、神経システム毀損(精神病など)を回避するための)自然が授けた巧妙な防御システムのせいで、凡庸者が追い詰められると、眼前の事物/事実をついに確信犯的に無視するようになることである。
例えば古今東西のクソ真面目な宗教人やテロリスト(イスラム系過激派/戦前日本の陸軍皇道派/KKKなど)の熱烈的心情を分析してみれば分かることだが、彼らはたった一つのイデオロギーを、
論理・合理的整合性などを度外視して一途に狂信(※注)するのであり、それはそうすることで脳内麻薬様物質の力によって非常に勇躍/高揚したような、いわゆる”ハイな気分”を持続できるからなのである。
こうしてアル中/薬中の如くに、一般社会から投げかけられる軽蔑や冷たさが入り混じった視線がもたらす解消しようがない鬱屈等から逃れるために、
彼らは紋切り型認識の明瞭・明晰さを伴う極端かつ特殊なイデオロギーに自ら進んで洗脳されていく。
(つづく)
49:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:38:43 ID:???
10 of 19 (つづき)

そしてこのことはやがて、“異界”としての外部世界に対する徹底的な対抗観念であるところの「支配欲求」を彼の中に形成するのである。これが被支配欲求型のロボット型人間が「専制的支配欲求型」に反転するモデルである。
(※注 例えば陸軍皇道派においては、「荒木閣下」と呼ばれた荒木貞夫(陸相)、「甚公」こと真崎甚三郎(参謀次長)などといった、親分肌で人気が高かった皇道イデオロギーの典型的垂範者であるトップの、
中間管理職を飛び越えた直接指導下で、無学な青年将校(「無天組」と俗称された。)たちは極右的狂信性を育んでいった。
例えば荒木は、「一切の問題を皇道精神で解決できる。」、「竹槍三千本が有れば列強など恐るるに足らない。」などといったノリで語ったりする。
こうして醸成された皇道派の狂信的エートスがついに輩出すべくして輩出したのが、二・二六事件の下地を造った相沢三郎の如き”本物の狂人”だと言える。)

次に被支配欲求型の亜種の極めて尊大な人格属性を持つタイプについて。人類はこれまでその全歴史において、ロボット型人間の被支配欲求型を大々的に用益してきたし、今後もまた用益していくわけだが、
とりわけ産業革命以降に"産業社会用ロボット"として彼らを仕立て上げるために、公教育の必要性が高まると、こうした勉学に適応的な『ストイシズム』(感情・欲求抑制観念)によって
(己の)付加価値を亢進させて増強された自尊心を支えとして、外見には表れない無知の知を知らない心の尊大さを持つ人々が大量に現れてきた。
すなわち人類は産業革命以降は、ロボット型人間にストイシズムがもたらす「勤勉さ/生真面目さ」を付け加えて、より高性能なロボットと化した『尊大な善人(※注)』を大量生産して、彼らを産業社会の指導・根幹的営みに据えてきた。
(※注 強者に”優等生”的に支配/用益されようとすることの中に自尊のよすがを見出そうとする被支配欲求型の亜種。
彼らは19世紀末以降、あらゆる社会的営為が国家により高度管理・合理化されていく過程において、国策機関としての大学・専門学校の門戸が庶民層に大々的に開放され始めた際に大量に生まれたのであり、言わば「産業社会のエース/要」である。)
(つづく)
50:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:39:17 ID:???
11 of 19 (つづき)

尊大な善人の大半は、普通の庶民的雰囲気の家庭で養育され、外観的には協調・友愛的行動傾向に富み、「善良かつ無名の中間層市民」としてその生涯を全うする一方で、(三属性を持つ凡庸者であるために)例えば学校教育/世間の常識/各種広報/
新聞・ラジオ・出版物等のメディアなどから得られるが如き「公に流布する情報」のみから、通常人が人間/社会等を知るために必要とする知識/認識の大半を入手できると、本気で信じて疑わない人々である。
このような自らを自明的に取り巻く外界に対する無謬的信憑性こそが彼らの隠された本性たる"尊大さ"をもたらす源泉であると言える。例えば公教育で履修したことが人間が知るべき智慧の全てだと思い込むのであれば、
それは特殊な行動/事象/人物等からしか得られないような根本的に重要な情報/勢力等こそが、個人の浮沈を決定的に支配していることに気づけないとか、あるいは何かのキッカケで偶然に頭に思い浮かんだようなことの経験・実証主義性、
すなわち帰納的思考様式に関わる認識をことごとく、たわいもないと感じる/見下すような心性(※注1)へと必然的につながっていくからである。
すなわちここに、中途半端にシステム化され端正な公教育を施されたために、かえって(無教養の者よりも)人知の広大無辺さ/人間に先天的に賦与されている高度な擬態能力がもたらす人間界の一筋縄ではいかない複雑性/欺瞞性等を
経験・実証主義的に認識するための契機を失ってしまった、いわゆる"無知の知"を知らない尊大さ/凡庸さが人格化したロボット型人間、尊大な善人が誕生するのである(※注2)。
(※注1 自分の頭の中で何となく、「公教育>学術知>ジャーナリズム>世間の噂>自分の気づき」のような知の序列体系を作ってしまうとか。
実際には信憑性に関して、これらの間に明確な序列性など存在しない。何故ならこれらの全てが適宜、特有の存在拘束性を持つからであり、どれが信用できてどれが疑わしいかは一意的には判別できず、あくまでケースバイケースなのである。)
(※注2 例えば寺内正毅の如き人物が典型的である。彼は陸軍大学校教頭の井口省吾に「教科書を作れ。」
と迫った際に、逆に「教科書などを作ってしまえば以降はこれが権威付けされ、これに準拠し、これを踏襲するだけになる。
(つづく)
51:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:39:57 ID:???
12 of 19 (つづき)

教官も学生も懸命に戦術を研究しなくなる。これをどうしてもやれと言うならば辞めさせてもらう。」旨の啖呵を切られてしまった。)

さて公教育においては、「他者(教師)から習う」という演繹的思考様式形態をとるのが当然であるために(※注1)、学生は自分自身の頭を使ってモノを考えたり気づく(帰納的思考様式)のではなく、
他者が考え出した成果物(知識/問題点設定/方法論など。)を記憶/利用/応用するという受動・事務的な頭の使い方ばかりを、徹底訓練されてしまいがちなのであり(※注2)、これでは元々認知能力に秀でている者さえもこうした演繹的思考様式にスポイルされ、
帰納的思考能力/主体的認知体系等の練磨に関しては無教育の者よりも遥かに不利になる。
(※注1 後の回で詳説することになるが人類史的には、支配者としての存在拘束性を持つ指導者・特権者階層が伝統的に公教育に対して認容してきた知の形態は、イデオロギー的知性(演繹的思考知)であり、
現実/生活に密着/整合するものとしての経験・実証主義的知性(帰納的思考知)は、卑賤な知性として蔑まれてきたという歴然とした史実がある。
例えば近代以前の西洋公教育であれば、ホメロスの叙事詩/聖書/ダンテなどといったものにまつわる薀蓄(うんちく)などを生徒に一方的に継承させるが如きものとなる。)
(※注2 例えば1903年に読売新聞に連載された「東西両京の大学」においては、「我が東京大学の如きは(中略)、いたずらに講義を増設し授業時間を倍化して、学生をして常に筆記の暗誦に寧日なからしむるが如き、(中略)常に試験に次ぐ試験をもってし、
学生をしてその実力を養うを努めずして(中略)徹頭徹尾、小学校流の方法をもって教育せんと欲す。彼らは実に全ての学生を同模型に入れて陶冶せんとするものなり。」と痛烈に批判されたし、
また東大経済学部の生みの親であるヴェンティヒが1910年に文部大臣に提出した「東大における経済学教授法改良意見」においては、東大では講師が教壇から講義ノートを読み上げ、
それを学生に一字一句違わずに正確無比に書き取らせ、その上で試験とは指定教科書と講義ノートを丸暗記して、それを答案用紙にそのまま書き写すことであり、
自分の頭で考えざるを得ない問題に独自の解答を提示できる学生は5%などという指摘が為されている。)
(つづく)
52:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:40:36 ID:???
13 of 19 (つづき)

こうした我が国の教育慣行は、そもそも古代においては学問の習得法が中国の仏典/諸学、近世においては蘭学(主として医学)の原書の翻訳者(教師)が読誦し、
学生がそれをひたすら逐一筆記するなどという習得法を伝統的に継承してきたことに由来するのである。
その上でこの時期の時代的存在拘束性は、徳川体制という、言わば「“硬直性”をもって本懐とするような体制」が260余年も続いた直後であるわけだ。
例えば「奥医師」という将軍付きの医師団は、「医心方」という平安期の古典的医学書を今だに参照し、本音において己の身分と体面のみを気遣い暮らしていたという按配であった。

さてそして更に追い打ちをかけるようにして、三木清「学生の知能低下について」(1937 「文藝春秋」)によると、満州事変後の学生を「事変後の学生」と呼びならわすようになったと述べた上で、その特徴とは「ほとんど何らの社会的関心も持たずに唯、
学校を卒業しさえすれば良いというような気持ちで大学に入ってくる」ことであり、彼らは学校の過程以外には「キング」(当時、最大の大衆娯楽雑誌)程度のものしか読まない「キング学生」であるとしている。
しからば事変後に何故、このような傾向を持つ高等学校生が増加したのか?それは、事変後に教育政策が変わり、学生の社会批判を禁じたからであるとする。
すなわち「社会の内に矛盾を見出し、現実に対して批判的になることから(中略)知的努力も生じる。批判力は知能の最も重要な要素である。
批判力を養成することなしに知能の発達を期することはできぬ」のに、それが「学校の教育方針そのものにより圧殺されている」からであるとする。
更に三木は、事変後の学生はむしろ成績そのものにはより神経質になっていて、高等文官試験に受かることのみを唯一の目的とする大学生が増えていているとし、
しかしてこのようなタイプの勉学は何ら批判というものを伴わないから、これによって知能が向上するとは考えられないともしている。
(つづく)
53:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:41:23 ID:???
14 of 19 (つづき)

すなわちこうした一般的な教育方法(※注1)は、自分で問題を設定したり解決したりする主体的認知体系の成長を著しく阻害するように作用する(※注2)。
その上で前回述べたように主体的認知体系を支えるメタ認知系諸能力とは、人生早期に小脳に書き込まれた上で以降は生涯書き換え不能となるアルゴリズム系記憶に基づくものだから、
例えば児童・少年期に”英才教育”なる詰め込み教育を施されたせいで演繹的思考様式のための思考アルゴリズムしか脳神経に書き込めなかった「東大にまで行くような秀才/優等生」の大半は、実は無知の知を知らない
”極めて悪いアタマ”であるところの『脳奇形/脳カタワ(※注3)』に、わざわざ仕立て上げられてしまった者たちである。
そしてむしろ机に向かう勉強が嫌いな低学歴者の側に、私生活上での諸問題を通じて主体・独自的にモノを考えるという帰納的思考能力を鍛錬する契機を得やすいために、かえって真に利口・頭が良い者がより多く生き残りやすい(※注4)。
(※注1 一般的でない教育方法の例としては、日本の職人の徒弟式教育法がある。このような教育の現場においては、おうおうにして親方は弟子に直接モノを
教えようとはしない。まずは雑用を任せて徹底的にコキ使うのであり、有能な弟子はその過程で、親方の仕事を盗み見て仕事のカンを修得していくのである。
こうした教育法のメリットとは、強度の主体的達成意欲/自己批判的観念等の主体性を要することに起因するところの、問題を自ら設定し解決できるメタ認知系諸能力の練磨が自ずと為されることである。)
(※注2 オレ自身について述べておくならば、オレは中学生の頃、自分なりの視点から次々に見出した授業・教科内容に対する疑問点を、授業後に教師に個別質問しに行かなかった日は、多分ほとんどなかったはずだ。
(もちろんこんな生徒は全校でオレ一人しか居ないわけだが)ともかく毎日々々、少なくとも一~二回以上は授業後に職員室にまで押しかけて教師に自分が独自に見出した疑問点を質問しまくったものである。
すなわち与えられたモノを機械的に黙々と取り込むのではなく、唯々泉の如く溢れ出る知的欲求を充たすための勉学を為しまくったのである。)
(つづく)
54:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:42:01 ID:???
15 of 19 (つづき)

(※注3 例えば与えられたテーマに対して嗜癖的な執着心を持ち、こうしたものに対しては圧倒的な調査・研究能力を発揮するも、主体的意欲・努力を要するところの一般教育的教養/帰納的思考能力が極めて低く、簡単に騙されるなど。)
(※注4 これの典型例は松下幸之助。尋常小学校中退であり、書物などから知識を得ることは不得手だったようで、当時、社会的影響力が大きかったラジオの宗教番組等から専らアイディアを得て素朴に処世観念を形成したらしい。
しかし演繹的知性は素朴ではあっても、素朴な認識を強力に実践できる類稀な行動力こそ彼の最大の武器であったことは疑いようがない。
ちなみに彼は学歴がある者に対しても小僧・丁稚生活等から得るような経験・実証主義知/帰納的思考能力を磨かせることを重視した、生粋の「反エリート・優等生主義者」である。)

というわけでここに「尊大な善人問題」という、新たな看過できない問題が持ち上がることとなった。彼らは以上のような思い込み/偏向性を持つために、ミクロ・短期的には有能である場合があってもマクロ・長期的には人類の進歩/発展を確実に阻害する(※注1)。
何故なら上述のように彼らはこの世に日常的に山のように生まれてくる"世界初"とか"前人未到"に類する創案の芽、あるいは前例/手本とは異なる気づき/才能等をことごとく珍奇/奇矯なものとして見下し嫌悪する傾向を持つからである。
すなわち己の演繹的知性を超える知性の在り方(すなわち己の尊大かつ欺瞞的自尊心を否定し傷つけるようなもの)を、
そのどこからどう見ても"善人/良識人"にしか見えない外観のみからは凡そ想像だにできない”悪魔”的本性をもってして、やんわりと踏みにじり静かに黙殺/排除しようとするのである(※注2)。
(つづく)
55:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:42:41 ID:???
16 of 19 (つづき)

(※注1 彼らは「大枠」の方向性が定まった後の「中・小枠」レベルに求められるような型にはまった演繹(事務)的思考において有能だが、
例えば創生・成熟・闘争・転換期等に求められる帰納的思考能力において悶絶/卒倒しかねないほどの無能、あるいは勘違いぶりを発揮する。)
(※注2 平塚らいてう(雷鳥)「とざしある窓にて」(1913)は次のように述べる。
「新しきものの発展に有害なるは、過酷に見ゆる権力者と無智なる民衆にあらずして、むしろ温和な分別顔の識者ではあるまいか。識者は徹底と端的とを恐れている。
彼らは事物を根本的に考察しようとしない。(中略)是を是とし、非を非とし、善を善とし、悪を悪とする正当な、合理的な根本的の価値の批評、判断を下そうとは最初から努めもしない。」)

そもそも公教育が教える「汎用知」とは、本来、あらゆる常識から一定の距離を保った上で常に時代の風潮/エートスに対するアンチ・テーゼを提示するという、
学術本来の進歩・発展的使命とは凡そかけ離れたところの、それ自体では周回遅れでカビの生えた、もしくはあくまで現時点までの到達点を示すものでしかない。
しかるにこれは法華経が示す「開三顕一/三乗の教え」の如くに本来、その受領者たち各人のその後の人生における経験・帰納的努力によってどんどん取捨選別/更新/改善/廃棄されてゆかなければならない”叩き台”のようなものである。
ところが尊大な善人は所詮は凡庸者の三属性を持つ者でしかないために、公教育的汎用知の修得とこれからの未来を生きなければならない自分たちに必要とされてくる自己開拓的な先端知の探求の違いが分からない。
すなわち公教育においては汎用知という"(過去の知性の)剥製/ミイラ"を尤もらしく見せがちであり、その上で彼らは受動的であることに慣らされ切っているがゆえに、教わらないことは必要がないことだと短絡的に思い込む。
すなわち主体的人生経験から何をかを汲み取ろうとする意志を持つことがなく、そもそも"気づく/懐疑する"ことの重要性が分からない。
彼らにとっての知性とは、あくまでも例えば「オマエ、"フランス革命"って知ってる?俺は知ってるヨ。/東大のナンタラ博士はこう言ってましたけどネ。」的なものでしかないのである。
(つづく)
56:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:45:11 ID:???
17 of 19 (つづき)

こうしてその本質的部分において、思考停止した“歩くコピー機/文科省推薦図書”に仕立て上げられている尊大な善人は、たとえ当人なりには帰納的思考しているつもりだとしても
実際には釈迦の掌の上で暴れ回るだけの孫悟空の如くであり、せいぜいが既出の大物学者・学説への批判/別解釈とか精緻化を為すことしかしていない。

では彼らは日々の生活において、実際に如何なる知恵をもって暮らしているのか?それはエートス/常識/マナー/習慣等であり、その人生には帰納的思考がもたらす進歩・発展性が入り込む余地がないから、真の意味での問題解決とかドラマがない。
とどのつまり彼らが持つところの実質的生命力は、"事務作業員"としてのソツのなさ/演繹的知性をフル活用した、もっともらしいレトリック能力に由来する連帯・同調性と、(無意識レベルでは己の”支配的観念の異常さ”に気づいているために、
往々にして自己防衛のために顕現させる)集団的専制性などのみであり、一方で非予定調和的な問題と如何に関わるべきかを金輪際知らないから、口先だけでモノを解ったり、善良なフリをしていても、
現場の第一線の者や巷の苦労人からは胡散臭い目で見られまくることとなり、結果的に彼らは心の内だけでの自己肯定観(※注)ばかりを強めていくしかないという“ジキルとハイド”的二律性にハマってゆく。
(※注 魯迅「阿Q正伝」の主人公のように。)

そしてこのような生き方が行き着く先は、老境に入った頃に重篤化する脳器質変成(細胞死/萎縮など。)、すなわちボケ/認知症/行動障害の類である。
すなわち主体的達成意欲/自己批判的観念が脆弱であるために自己変革・改善行動を適宜為せない人生は、年齢を重ねるほどに事物への対処不能がもたらすストレスが漸次、静かに亢進し、これが前述のキチガイ・鬼畜性を否応なしに顕現させる。
ところが良識人ぶることに自尊心を見出す尊大な善人は、込み上げてくるキチガイ・鬼畜性を力尽くで押さえ込もうとする無理がたたり、彼らの脳神経に甚大なストレス/損傷を蓄積させるのである(※注)。
例えば大量の尊大な善人を擁して一等国となった我が国には、現在、数百万人のボケ/認知症/歩行困難などの日常生活障害者が居ると思われる。
(つづく)
57:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:45:58 ID:???
18 of 19 (つづき)

(※注 一般的に動物は、かなりのストレスを一時的に被ったとしても、それを回避する手立てを自力で講ずることができる限りにおいては心理的ストレスはさほど亢進しない。
ところがストレス源への適切な対処が自力では不能な場合、例えば胃潰瘍・穿孔にまで至ったり、脳神経・脳生理機能自体に甚大な損傷を被ったりすることとなる。)

というわけでトップクラスの尊大な善人、例えばTVでシタリ顔の大学教授、あるいは典型的NHK/”文科省推薦図書”系、はたまた大江健三郎/瀬戸内寂聴などといった
毒にも薬にもならないような文化人の雰囲気に典型的に表れているところの、どこまでも慇懃(いんぎん)/謙虚な語り口と振る舞い、ソツのない公教育に由来する教養/好感を持てる建前的人柄、
そしてそのような外観を形成するための気苦労の反動としての内面の不遜きわまりない尊大さを持つ人々は、(経験・実証主義的な認識を持つことでしか分からない)身の回りの人々とか社会システムの即妙な智慧に謙ることなどは絶えてないから、
"発見する/開発する資質/才能"が巷にいくらでも在って、それらの集積こそが人間界に真の進歩/発展をもたらしてきたことを理解できない。

すなわち世人が「知性と自意識が現代人の苦悩の源泉」などと言う時、往々にしてこの手の「良識人・善人風の外観の裏に潜む、“(中途半端な教育を受けたことに所以するところの、
中途半端な自負心がもたらす)煮ても焼いても食えない尊大さ(※注1)” vs. 一事に極めて秀でていたとしても客観性から遠く隔たった狭隘な主観/教養/世界観がもたらす、“頑迷/意固地なゲリラ性”」に因る
衝突/相互不信等が撒き散らす混迷/閉塞を想起して言っているのであり、「主知主義vs. 反主知主義」(※注2)のいわれもまたここに在る。
(※注1 例えばゴーゴリの前掲書における中間層的地位を持つお歴々の人物描写の中などに(帝政ロシアを舞台にした物語なので、外観的には上記の産業人的な人々ではないにしても本質的には)、
こうした良識人/善人ぶったカモフラージュをもってする尊大な善人的在り方の典型が見いだせる。)
(つづく)
58:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/11/30(木)00:46:38 ID:???
19 of 19 (つづき)

(※注2 主知主義者の典型例としては芥川龍之介が挙げられよう。彼は例えば菊池寛「芥川の事ども」(1927 「文藝春秋」)/松本清張「芥川龍之介の死」(1965 「週刊 文春」)といった資料などから、
(両親が共に発狂しており、自身も頻繁に幻覚を見る精神的虚弱体質であるために)学校の勉強とか書物から得た(芥川自身が”人工の翼”と呼ぶところの)教養を偏重し、その帰結としての純粋/初心(うぶ)な倫理・正義感しか持たず、
人生の実経験を通じた処世術系の知(各人なりに世俗を大過なく世渡るための経験・実証主義知)の重要・必要性をイマイチ認識できない、言わば”元祖オタク”のような人であったことが窺い知れる。
そしてこのような主知主義者の対極に位置するところの、どこをどう切っても”俗、俗、俗、また俗”しか出てこないような反主知主義者の典型例は、田中角栄(立花隆「田中角栄研究」(1976)などの資料が著名)である。)
(「凡庸者」 おわり)
(第九回 おわり)
59:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)11:51:29 ID:???
1 of 9

「市民層  概論」 第十回

「凡庸者 vs. 優秀者 凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」

ところで“尊大な善人の大量生産”と言っても、何処かの個人/集団がこのような生産・管理を大掛かりに為す意図を持っているというわけでなく、
実はこのようなことは人類の集合意識の力によって極めて自然な成り行きで遂行されている(※注)。その辺の認識については論者によって様々だが、オレ的には以下のようなサブモデルを提示したい。
(※注 とりわけ近代産業社会の確立以降は、マルクスの言説通り、人々はすべからく"疎外(第七回 参照)"されているから、最早、特定者・集団の意図を全社会的に計画的に体現することは、(ファシズム体制以外では)不可能である。)

人類集団には、幼少期に獲得した観念/習慣から成る「認知世界」が決定づける己の初期存在拘束性を絶対に変えられず、
漸次その振る舞いにおいては自堕落・追従・放縦的傾向を増し、どんなに追い詰められても紋切り型の行動(演繹的思考的行動)しかできず、時を経るほどに人生そのものが閉塞していく者と、
まずはメタ認知系諸能力の中でも強い主体的達成意欲/自己批判的観念という、言わば『人格的諸能力』とでも分類すべき能力を基としてその他のメタ認知系諸能力を開発し続け、自ら設定した生き方/
人生における夢や理想等の追求のために、最終的に高度な帰納的思考能力を獲得して、あらゆる事物/事象を己独自の認知様式(主体的認知体系)を用いて合理的に認識し、
己の存在拘束性を適宜、かつ主体・個性的に操作/管理することで現状打破に成功できるタイプの者とがいる。
数の上では前者が圧倒的であり、もちろん凡庸者がこれであることは言うまでもない。そして後者が「優秀者」だというわけだが、凡庸者の人数に比べるならば、優秀者のそれは圧倒的に少ない。

そこでオレたちは、まずはこの歴然とした両者の人数差が意味しているものを見出すべきである。ちなみに
(つづく)
60:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)11:52:34 ID:???
2 of 9 (つづき)

『「プロト優秀者(優秀者になるための所与的要件を満たした状態に在る者)」とは、例えば過去における何らかの挑戦の失敗、己の養育者や世間一般が”正しい”とする事を為すことがもたらす理不尽/不幸、孤独や貧困等から生じる苦境、
満たされた境遇/虚栄から生じる倦怠/不全感、日常性への疑問や問題意識、親などの養育者の無関心や劣悪性(いわゆる“毒親”問題)、何らかの契機による世界観の崩壊、社会や人間全般に対しての懐疑を抱かざるを得ない状況等の経験を経ることによって、
自明的に提示された事物を単純かつ無謬的に信憑することに対する根源的懐疑を抱き、ヘーゲルの弁証法的な意識の展開過程(正→反→合)の「反(メタ認知/己の素朴な認識を懐疑できる)」段階に達した者のことである。

その上で彼の内心においては元々健全に発達していた主体的達成意欲/自己批判的観念/メタ認知能力等に所以して、己の生き方、あるいは社会についての強い目的・理想像が形成され始め、更に開発され続けてきた帰納的思考能力ゆえに、
己の"人生の質"を高める(己の存在拘束性を操作/管理する)ための“自分自身/他者/社会に対する本気かつ大きな戦い”の必要性を認識するに至る。』(『観念運動の自然法 第三定理の2(プロト優秀者定理)』)

そうこうするうちにプロト優秀者の一部は『本音/建前の使い分け』を為すようになる。というのも社会そのものに対する闘争・対抗観念の類を不特定多数者が看取できるようなカタチで、あからさまに表示/提示することは、社会生活上、
自殺的行為であることを経験・実証主義的な帰納的思考により悟るからであり(※注)、順調に成長していくプロト優秀者は、様々な失敗経験を経た後、「本音/建前を適宜、使い分ける者」になる。
すなわち大半の者(凡庸者)は、公教育/世間の常識/メディア等の言説といった建前/イデオロギーを本気で真理のつもりで信じ込んでいるから、まずはプロト優秀者は、彼らから異常者扱いされないためにも建前/本音、あるいはイデオロギー/
経験・実証主義知を、状況に応じて使い分けることを自ら学んでいかざるを得ないわけである。
(※注 例えば立花隆「天皇と東大」(2004/2005)によると、明治初期に我が国の歴史学に経験・実証主義的な考証概念を初めて導入した重野安繹/久米邦武は、
(つづく)
61:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)11:53:12 ID:???
3 of 9 (つづき)

旧来的通説・権威主義に次々に容赦ない批判を浴びせまくったことで学界から激しい怒り/怨みを買い、東大を追われる羽目となり、以後、彼らが為したような科学的考証を伴う歴史学を我が国で復活させるには、第二次大戦後を待たなければならなかった。
また戦前の大きな学問人弾圧事件の犠牲者の一人である滝川幸辰は、実は”歯に着せるべき衣を持たない人物”と評されるほど事物に対する思慮が足りない人物であり、
例えば大学の刑法の講義の中で、天皇を「天皇君」呼ばわりした上で法規の解説のための犯罪者に見立てるなどといった調子であった。)

ちなみにプロト優秀者が、この本音/建前の使い分けを知る者になるにしても、その到達年齢はケース・バイ・ケースで異なり、生き方によっては中年・老年期に入ってから、ようやくこれができるようになることも有り得る。
では社会生活の必要上の本音/建前の使い分けをマスターしたプロト優秀者がどのようにして、更に優秀者に成っていくのかを更に提示する。

『本音/建前の使い分けをマスターしたプロト優秀者は、優れたメタ認知系諸能力により、更に主体的認知体系を練磨し続けていくならば、次は主体的行動・認知傾向、すなわち「主体性(※注1)」を強めざるを得なくなる。
主体性を伴った生活に入ることによって、
並行的に「個性(※注2)」という己の天与の資質を認知的に発見し、これをはっきりと活性化するような生き方を為すための契機にも気づきやすくなる(※注3)。
主体性/個性を伴う処世は、経験・実証主義的な思惟・思弁能力を益々涵養し、認知可能なあらゆる情報(全ての経験/伝聞/記録など。)を受動的な演繹的思考様式ではなく、能動的な帰納的思考様式により体系化していく。

こうして形成された当該人物に固有の主体的認知体系を経て、プロト優秀者の自意識は、ヘーゲルの観念の弁証法的運動における「合」段階にまで達することが可能となるのであり、プロト優秀者は、世間のエートスや周囲の人々の
支配的観念などとは全く無縁であるところの、事物/事象に対する確固とした合理的認識である『合理主義的因果・方法論(※注4)』を自意識内に持つ「合」状態において「優秀者」と成るのである。』(『観念運動の自然法 第三定理の3(優秀者定理)』)
(つづく)
62:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)11:54:07 ID:???
4 of 9 (つづき)

(※注1 プロト優秀者は行き過ぎることのない適度な自他の分離観念(※注5)を保持することで、孤独感/厭世観等からAC(アダルトチルドレン・・慢性的な情愛飢餓感のために、落ち着いた情緒性や自然なマインド・セットを持てずに
普通の人間関係を構築できない者。)的属性/神経症/精神異常などに苛まれることを免れることができれば、主体性をどんどん強化していけるのであり、
このように気が変にならずに確固とした主体性を獲得することが、プロト優秀者が優秀者に成るための最大の難関だと言える。
ちなみに事物の非合理性に気づいたり、合理的に認知すること自体は、ある程度以上の知能があればさほど困難なことではない。しかして真の関門とは、自分が正しいと判断した思考結果を、
気持ちが揺らがずに堅持し続けることなのである。これができないと、人は『適宜・経済性(※注6)』に適う判断・行動ができない。

尚、プロト優秀者の大半は(所詮は凡庸者に三本毛が生えたような段階でしかないので、演繹的思考様式の大枠を越えられず)、文学者の例を挙げるなら芥川龍之介/太宰治/林芙美子などのように、
自分の自然な、もしくは合理的な感じ方と世間のエートスとの折り合いをつけるための処世術を見いだせず、苦悶/苦悩の果てに訳が分からなくなって、せいぜいそんな閉塞状況を作品にぶつけて気を紛らわすくらいが関の山で朽ちていくわけである。
あるいはまた三島由紀夫のような、完全に「東大を動物園にしろ!」的にオチャラケつつ(要するに、これまた事態にマトモに対応しうる帰納的思考能力を自主開発できないのでオチャラケでも見せるしかない。)、
派手に特攻的パフォーマンスをぶち上げて有終の美を飾るなんていう、如何にも戦中・戦後ミックス派のパフォーマンス至上主義型人間的な変則パターンもあった。)
(※注2  人間脳は小脳のROM的記憶と高い整合性を持つ短期記憶を優先的に長期記憶に転換するという記憶システムの生理的ルールを持つために、
良く主体的に思考/行動するほどに、独自性、すなわち個性を練磨することとなり、個性的生き方に目覚めるための契機をモノにしやすくなる。)
(つづく)
63:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)11:54:46 ID:???
5 of 9 (つづき)

(※注3 とどのつまり人生における目的/理想を持つ者にとっては、天与の資質(個性)を開花させることのみが、己を目的/理想に向かって安定的に成長させるための現実的な処世法なのである。)
(※注4 これは当論においては極めて重要な意味を持ち、本質的には事象を客観視できる能力(メタ認知能力)に由来する。
人が心の健康/健全性を保ち続けるためには、常にアンテナを張り巡らせて己が遭遇する事象に鋭く、かつ頭を冷やして反応(思考/評価)する必要があるのだが、
これができるためには、この基礎論理(合理主義的因果・方法論)を予め自意識内に持っていて、ついつい演繹的思考に陥ってしまいがちになることを着実に回避できる必要がある。)
(※注5 プロト優秀者であれば、人はそれぞれ固有の小宇宙の中に生きるしかないものであるという自他の分離観念を持っている。
例えばジイドは前掲書で、「死者の国から帰ってきた男のように僕は他人と一緒に居ても、いつも異邦人だったからだ。
最初のうちは、ただもう深刻に煩悶ばかりしていた。でもじきにこれまで知らなかった新しい感情が生まれてきた。(中略)これが己の真価を意識した最初だった。僕を他人から引き離し区別するものこそ肝心なのだ。僕以外の者の語っていない、
また語ることのできないことこそ僕の語るべきことなのだ。」と、自他の分離観念に目覚めることの意識の様相を語っている。
人間は皆、自分の脳が形成する“自分の認識世界という小宇宙”の主だから、この世には人の数だけの小宇宙が存在することになる。
ところが例えば凡庸者であれば、基本的には「自分の小宇宙 = 全世界」という単純素朴性(もしくは自己中心性と言っても良い。)しかもてず、例えば五人家族の世帯であれば、五人の心には五つのそれぞれ独立した小宇宙が在り、
それら絶対に融合/統合されることが不可能な“個(小宇宙)”が、互いに他の個と交通しつつ共存共栄しようと目論み、時には自分を殺して相手を立てたりするといった配慮をしなければならないことを理解できない。
例えば自分が楽しいと感じることは他者も楽しいはずであり、あるいは自分が不愉快なものは他者も不愉快であると思い込む、それ以外の状況を認められない。)
(つづく)
64:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)11:55:21 ID:???
6 of 9 (つづき)

(※注6 例えば人は時と場合などに応じて、事物/事象をマクロで見るか、ミクロで見るかという視点の選択をしたり、あるいは気宇壮大に大勝負を仕掛けるか、手堅く小さな利益を求めるかなどの判断を為す必要があり、
適宜・経済性とは、このような判断/行動の際に求められる適切・妥当・合理性のことである。)

ちなみに個性とは、見方を変えれば「多様性」を減衰させるものである。何故なら人は個性的であるほど、いくつかの事物に対する興味/関心/意欲、すなわち多様性を失っていくからだ。
だが一方でその代償として、個性は失った多様性を遥かに凌ぐ大きな「自己保存能力」を当該者にもたらすのであり、この本質とは「一貫性」である。

一貫性とは、進歩の自然法の第一定理(長期的な集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動による進歩/発展)が成立するための前提的要件であり、
生物界の各個体、もしくは人間界総体は(個性がもたらすところの)一貫性という属性を持っているからこそ進化できる(※注)。
尚、一貫性は、凡庸者的な頭の悪さがもたらす"一本調子"などとは、厳に区別されなければならない。
そのようなものの中には単純性に基づく極端さ/意固地に基づく頑迷さは在っても、合目的・合理性がもたらすような強靭さと柔軟さ/七転び八起き的な不屈さがもたらす無駄なく生きる効率性はない。
(※注 例えば鳥類は、祖先である恐竜が持った「気嚢システム」という身体的個性を一貫して持ち続け、「飛ぶ」というタフな有酸素運動に対応した。
更にダチョウは地上生活において、またペンギンは水中生活においてこの個性を活かし、特殊な生活様態に適応した動物として進化した。
このように個性というものが持つ本質的属性であるところの「一貫性」が、(一定の洗練/可能性の追求としての)集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動を展開させるための前提的要件となる。)

では以上をもって当論の現時点における凡庸者/優秀者それぞれの、とりあえずの包括的属性を認識できたところで、(先ほど提示したところの)人類集団の圧倒的多数派が凡庸者であることの理由の考察に戻ろう。
(つづく)
65:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)11:56:04 ID:???
7 of 9 (つづき)

人間が生存するためには、自然界における各人の非力さを補うための社会生活を営む必要があり、その単位要素は家族を始めとした少人数グループとなる。
ところがこうした少人数グループの場において最重要視されることとは、往々にして「真理・合理性」などよりもまずは各成員間の「連帯/相互扶助」なのである。
というのも真理・合理性に関わる問題への対応は広く社会の万機公論に委ねることができる場合が多いのに対し、成員間の連帯/相互扶助に関する問題は、とにもかくにも自分たちが主体的に当事者として為さざるを得ないからである。
そしてその際に一意的にポイントとなることは、まずは各人同士の「安定的な信頼関係・円滑なコミュニケーション環境」の構築である。

さてもし、ある小グループの構成員Aが、単純に小脳的ROMに則り習慣及び個人的性癖に従って行動せずに、その都度いちいち問題を俯瞰したり懐疑しつつ思惟/熟考した上で行動するような、
すなわち己の存在拘束性の自己管理に適した人格・能力個性を持つならば、何が起こるであろうか?
それは、他の者はAとのコミュニケーションに際して、常に高度な思考を伴う判断とか逡巡を強いられることになり、人々の感情が落ち着かないということである。
つまり”いちいち考える人”であるために決まりきった思考・行動パターンを持たないAは、何をしでかすのやら、他者には容易に予測できないために周囲の者を常態的に緊張させる。

そしてもし構成員Bが、常に習慣及び個人的性癖に没入して、己の存在拘束性の自己管理などとは無縁の行動を為している場合、他者はBに対しては、より少ない思考や心労でコミュニケーションできることから気持ちの落ち着き/生活の小康を保てるのであり、
これすなわち上述の安定的な信頼関係・円滑なコミュニケーション環境の構築に直結する。
すなわち「真理・合理性」などよりもまずは各成員間の「連帯/相互扶助」こそが第一義的に重視される必要がある小人数グループ内においては、グループ内の大半の者が、
習慣/性癖のみに依り思考をしない凡庸者であるBのみと共働したり、Bに対してより大きな親近感を持つようになる。
(つづく)
66:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)11:56:43 ID:???
8 of 9 (つづき)

そして以上の因果は優秀者であるAにとって致命的な不利益をもたらす。すなわちAの異性者は、Aとの共生を通常の習慣生活を前提とした一意的な方法によるのみでは管理しきれないことに気づくやいなや、普通は苦労が多い人生が予測されるところの
Aとの関わりを動物本能的に避けることになり、この結果、Aは己の子孫を残しづらくなるからである。
こうしてAは、集団化したB型の者たち、すなわち凡庸者のグループから排除される可能性が高くなるのである。ちなみにこの傾向は、人間が当面の間
とりあえず生存するという背に腹は変えられない切羽詰まった目的のためには、合理性を持つがゆえに、一般的に回避できないことである。

もちろんA型人間である優秀者は人格的諸能力において優れているから、グループから排除されない様に様々な状況で困難を克服してみせたり、利便性を向上させるための方策を案出し、皆の役に立とうとする。
ゆえにその“重宝さ”によってグループの他の凡庸者からは一意的には疎まれないのだが、皆が困っている時以外の平時は、
その己自身をも対象・相対化することを辞さないメタ認知系諸能力/群れることを知らない堅牢な主体性/個性等が、今や多数派となった凡庸者たちの生き方とは相容れない。
その上で凡庸者は、自他分離観念が不全であるから多様な個性の共存に耐えられず、主体的認知体系が単純であることがもたらす長期的不利益・非合理性を、集団パワーをもってして理屈抜きで無効化しようとする専制性を自然的に持つようになっていくために、
当該グループはほんのわずかに生き残る優秀者を除けば、相対的に相互に御しやすく、かつ連帯しやすい凡庸者が圧倒的多数派になる。
そしてこの段階でわずかに生き残った優秀者は、人間関係を、あるいはグループの人々が生きるための処世観念等を意図的に操作/管理することでしか、最早、効率的に自己保存することは不可能であることに気づいていく。このように

『人間は社会性動物であるがゆえに自己保存の為に普通は集団化するわけだが、生物の行動をもたらしている本源たる自己保存本能が、
単位集団内においてはまずは、「連帯/相互扶助」を当事者たちの切迫した意識を伴って当然の如くに集団内の多数者に優先視させる。
しかしてこの選択においては、集団内のエートスは凡庸者に適したものとなり、「真理・合理性を一般的行為属性において担保できない集団/社会は、
(つづく)
67:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)11:57:25 ID:???
9 of 9 (つづき)

最終的には存続できなくなる。」という当然の理が、集団の多数者が凡庸者となるがゆえに訴求力を持たない。
このゆえに当分の期間は、個人間の安定的な信頼関係/円滑なコミュニケーションを保つことに特化したような凡庸者同士が優秀者を駆逐しやすい傾向を持ち続けることとなる。

そしてこの傾向は、なし崩し的に社会全体の大きな傾向とも成っていかざるを得ない。
何故ならほぼ全ての人間は必ず何らかの自己保存のための単位集団に属するという基盤上で、社会的な活動を為し続けるからである。』(『観念運動の自然法の第四定理(「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」)』)

ちなみに、この「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」とは、当論的には決定的に重要な認識であり、実はこの程度ではまだ全然足りず、読者は更なる「観念運動の自然法」の提示によって、その人類史的レベルでの作用様態を知らなければならないのである。

ともかくこれで判然としたことは優秀者とは(前述の)その発生機序からも分かるように、凡庸者がもたらす社会環境の劣悪性に所以して特殊的に真理・合理性追求のための努力を為した者なのであり、
そもそもデフォールトでは人間は全て凡庸者にしか成らないということ。
すなわち真理・合理性の追求傾向を全うする者とは、人間としては「特殊な運と契機をモノにした者」であり、ゆえに上述の自然法的機序によって人数的には優秀者集団は親集団であるところの凡庸者集団には勝てない。
しかしてこうして少数派であるがゆえに、優秀者は強度の主体性を持たざるを得なくなることで、人間界そのものをメタ認知し、人々の生活や思想を操作/管理することを通じて己を生かすという行動習慣を、極く自然に修得していく。
すなわち“尊大な善人の大量生産”的なことを指導者・特権者階層に働きかけて為さしめる際にも、この優秀者的属性が優秀者を含むグループ内の集合意識的力動(例えばフーコー的な下から上る権力など。)
を形成させて、極めて無主的な様相/成り行き(※注)で遂行しうるようにさせるわけである。
(※注 凡庸者側から観ると、誰かに操作/管理されているという認識/実感を持てずに、優秀者の意思が実質的に体現している。)
(「凡庸者vs.優秀者 凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」 おわり)
(第十回 おわり)
68:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)13:18:05 ID:???
>>67

訂正

(前述の)その発生機序からも分かるように

         ↓

(前述の)観念運動の自然法 第三定理の2-3からも分かるように
69:市井の居士◆dgvbGqecqY:17/12/21(木)18:05:16 ID:???
>>65 訂正

習慣/性癖のみに依り思考をしない凡庸者であるB

          ↓

習慣/性癖のみに依り思考をする凡庸者であるB
70:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:11:24 ID:???
1 of 17

「市民層  概論」 第十一回

「感情系習慣的自動思考様式」

さて前回までに凡庸者/優秀者の、とりあえずの包括的属性を提示し終えたわけだが、今回(第十一回)から次々回(第十三回)までにおいては、人間脳のデフォールト状態としての凡庸者の認知(思考)活動の一般的機序、
並びに当該機序が如何に進歩/発展することで優秀者のそれとして確立しえるのかについて論じ、更にそれのみでなく、関連ある付随的論説も適宜、為していく。
ちなみにこうした社会科学的認知システム論の必要性について一言申し添えておくならば、自然科学からのアプローチのみならず、「個々人の認知過程の一体如何なる意味的要素・構造・機序等において、頭の悪さ/良さの本質的差異を見い出し得るのか?」という、
経験論的因果論の視点からのそれなりの意味解明が為されているのでなければ(例えば前回までに提示した「凡庸者/優秀者に係る分別概念」などが認知されているのでなければ)、社会生活の場/社会政策立案の契機等における実地の展開の段において、
とてつもない錯誤/思い込み等に拠る方向違いや危険性が生じえるからだ。(我々は既に教育政策等の立案/実践の場における“非合理(直観)的確信に基づいた失敗”を、これまでに嫌というほど見せつけられてきた。)

さて前回の最後に「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」を提示した。そして更にこのことは、漸次、形成されていくところの凡庸者中心社会におけるエートスが、(凡庸者的三属性の顕現により)自らの『存在拘束性の陥穽(かんせい)(※注)』に
“蟻地獄”的様相を伴いつつ嵌まり込んでいくしかないという不可抗的悪化亢進過程に入ることをも運命づけている。
(※注 存在拘束性に対するメタ認知的自意識がないために、これを注意深く自己管理するための契機がない。ゆえにあらゆる認知が存在拘束性がもたらすバイアスにより歯止めなく歪みまくるのであり、結果的には自らを甚だしく追い詰めるような状況を生む。)

パスカル「パンセ」(1670)の中に、人がこの存在拘束性の陥穽にはまり込んでいく機序を看破している名文があるので、少し長いが以下に引用する。
「自愛。(中略)この人間的な「自我」の本性は、自己のみを愛し、自己のみを考えるところにある。(中略)彼は自己の愛している対象が欠陥と悲惨に満ちているのをどうすることもできない。
(つづく)
71:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:12:31 ID:???
2 of 17 (つづき)

彼は偉大であろうとして、自己の卑小なのを見る。(中略)彼は人々の愛と尊敬の対象であろうとして、自己の欠陥が人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。
彼がぶつかるこの困惑は(中略)罪深い情念を彼の内に生じさせる。何故なら彼は、彼を責め彼の欠陥を自覚させるこの真理に対して徹底的な憎しみを抱くからである。
彼はこの真理を根絶したいと思うが、真理をそれ自身において破壊することができないので、せめて自分の意識や他人の意識の中で、できるだけそれを破壊する。
言い換えれば彼は自己の欠陥を、他人の目からも自己の目からも隠すことに心を砕く。人がそれを自分の前に指摘したり、それを他人に見られることに、彼は耐えられない。」(第二篇100)

また更には19世紀の文豪ドストエフスキーの主要作品はおしなべて、登場人物が独自の存在拘束性に由来する様々なイデオロギーを、実に自由闊達/好き勝手に創り出した上での行動の奇妙奇天烈な展開描写に、重心が置かれている。
すなわち彼は、如何なる社会体制であろうとも、人がはまり込む心の世界/身勝手な思考までは抑制できないのだ、そしてその陥穽を世の人々に伝えるということの面白さ/楽しさにとりつかれていたと言って良い。

凡庸者的存在拘束性の陥穽とは、「自己保存本能に支配されることを運命づけられている人間において、客観的事実・因果論を無視/黙殺させてまでして、自己中心・便宜優先的観念を形成させ、もって (事物の実態や己の能力とは無関係な)やる気/欲求を鼓舞さしめる傾向」
にはまることであり、当然ながら凡庸者においては、この手の”やる気/欲求”によって思考/判断の歪みが常に亢進していくために、当人的にはどんなに頑張っているつもりでも、当初に望んだ成功/達成からは程遠い結末しか引き出せない。

例えば戦後、完全な高度福祉・大衆中心社会となった日本社会において、こうした結末がとりわけ顕著である。
福武直「日本社会の構造」(1981)によると1979年に出版されたNHK世論調査所の発行資料においては「まず社会のことを考える」者は10%であるのに対し、「まずは自分の生活のことを考える」、具体的には家族の団欒を大切にする者は50%、
家族の団欒だけでなく、各人の自由な時間をも確保することが大切であると思う者が28%である。
さらに統計数理計算所が実施した
(つづく)
72:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:13:17 ID:???
3 of 17 (つづき)

「国民性調査」において、「その日その日を呑気に暮らす」ことを望む者は、1953年の32%から1978年の61%へと倍増したのに対し、「社会の不正義を憎み、どこまでも清く正しく生きる」ことを望む者は、29%から11%へと6割以上の激減となっている。

ちなみにこのような国民の自意識における歴然たる変化とは、観念運動の自然法の第四定理(凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向)が示すところの、
「単位集団内においてはまずは、連帯/相互扶助(※注1)を当事者たちの切迫した意識を伴って、当然の如くに集団内の多数者に優先視させ、真理・合理性(※注2)を一般的行為属性においてあまねく担保できない集団/社会は、
最終的には存続できなくなるという当然の理が、訴求力を持たない。」という自然法的機序が、人間営為の根幹に普遍的に作用し続けていることを知るならば、当然の変化であると納得できる。
ともかくこの国民意識の変化が、この数十年後にもたらした結末については、もう改めて提示する必要はないであろう。
(※注1 連帯/相互扶助に適う生活行動の帰結としての「集団的満足・充足感/個人的満足・充足感」が、まずは人々の当該行動への心理的報酬となるのであり、上記世論調査の結果とは、このことへの執着心の反映。)
(※注2 この文脈における真理・合理性を持つものとは、「人間社会の持続的健全性を保つためには人々が求める自利の分量と釣り合いがとれた「社会正義」的(他利)観念を保持しなければならない。」という認識。)

人間には、見田宗介「価値意識の理論」(1966)第二章第一節2が言うところの「内的強制による非選択性」という属性を持つ行為(※注)しか採れない者、すなわち具体的に言うなら、眼前の事物/習慣、あるいは気分/感情等に対して懐疑心を持つことを
“タブー”の如く忌避/恐怖し、何処かでそれらに対する歴然とした反証的結果が出たとしても、そんなことは「見なかった/聞かなかった/知らなかった」フリをして、まるでそれ(反証的結果)が無かったことのように振舞うしかない、
あるいはそれを受け止めざるを得なくなるが否や発狂せんばかりの大騒ぎになるしかないなど、思考・判断過程における合理的な意思選択能力が不全である者と、意思決定を合理性を基準としてある程度まで、
(つづく)
73:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:13:55 ID:???
4 of 17  (つづき)

感情的なものから理性的なものへ止揚できる、すなわち具体的には事象が持つ因果的属性を相対(メタ認知)化できるだけの前提的要件であるところの、相応の「人格」的能力を持ち、もって多様な意思の顕現の中から最も適宜・経済性に適ったものを選択できる者とがいる。

数の上では前者の圧倒的多数派であるところの“非選択的行為”しかできない者(演繹的思考者)が、人間のデフォールト状態としての凡庸者であり、後者の選択的行為もできる者(帰納的思考者)が優秀者である。
その上で観念論ではなくして、経験論としての自然科学的判然性を追求している科学論文においては、「内的強制」とか「非選択性」などという哲学的用語が、経験的事象において対応しているところのものにこそ注目する必要がある。

演繹的思考(ただひたすら固定観念化している認識のみを用いて、紋切り(非選択)型認知プロセスで処理される思考。)のための認知的アルゴリズムは、上述の如き“やる気/欲求”とか自我の防衛機制などの自己中心的心理力動を生産する感情(恐怖/不安/安心/親近感等)と、
決定的に連関して作動しており、「いつもと同じ(感情的)心地良さ/安定に至りたい。」という暗黙の目的性を持つ条件反射的(すなわち非選択的な)判断をもたらすのが普通である。

このような、その本源において動物と同様の「気分・感情と完全にリンクした上で、固定化された判断パターンのみに支配される習慣化した認知傾向」について、更に以下に詳説する。 

『演繹的思考様式とは、その事務的・紋切り型的な単純な認知構造のゆえに、例えば「安心/頼もしい/気遣われている/可愛い/カッコいい/可愛そう/慈悲/情けない/沽券に関わる/謙虚/良心的/不敬/粗野/堕落/良く頑張った/立派/真剣/不浄/破廉恥/
面倒/つまらない・・」などの気分・感情的認知要素に、認知の指向性が強く誘導され(※注)、必然的に心地良さを感じる固定感情に支配されざるを得ない思考様式である。』(『観念運動の自然法 第五定理(演繹的思考様式定理)』)
(※注 脳神経学的には小脳系と感情・意欲生成の中核装置である大脳辺縁系、及び習慣形成に多く関与する大脳基底核や大脳皮質の言語野/全頭連合野などの特定領域で構成される神経回路が演繹的思考様式の本体。
(つづく)
74:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:14:50 ID:???
5 of 17 (つづき)

その上で認知心理学的には、これは経験/感情/パターン(思考アルゴリズム)から成る「三点記憶」を相互に関連付けて、一つの「認知-判断-行動セット」としてチャンク(固定回路)化していると推定できる。
こうして演繹的思考様式においては、システム上、あるチャンクと同じタイプに分類される事実認識が感覚受容器から入ると、自動的に当該チャンクが援用されて、常に同じ強制力をもってして同じ判断が決定される。これが判断上の紋切り型/癖/意固地さ/習慣等を生む。)

というわけで上掲自然法の定理と神経生理学上の知見を併せてみることで、演繹的思考様式とは、過去に形成された事象記憶を、小脳皮質の脳神経ネットワーク上に固定回路化した紋切り型思考アルゴリズムとリンクさせた上で、
「感情/情動の生成系」回路によって起動/誘導し、思考・判断を誘導するシステムであることが分かる。
例えば嫌いな人から逃避する/魅力的な異性に接近する等のような日常生活上のあらゆる紋切り(演繹)型判断は、このシステムによって即決させられているのである。

その上でこの演繹的思考様式という思考・判断システムに、人間意識が素直に服従するならば、このシステムは、人に「安心/安寧/高揚/満足/怒り/不満/絶望」などといった、
当該者の自意識内で“快”系と“不快”系に生来・本能的に分別されていて、快系なら是、不快系なら非と自動的に決定される気分・感情的回答を、即座に与えることをもってして報いるというわけだ。

こうして快・不快的是非に完全支配される演繹的思考者においては、例え如何なる高学歴者であろうと、幼児/児童でさえも認めざるを得ないような自明極まりない事実認識(例えば「ボクが◎◎したから●●ちゃんも◎◎し返した。」など。)でさえ、
往々にして(真実を認めることが生む不快感から)都合の悪いことは全て、見なかった/知らなかったフリなどをすることで、認識の埒(らち)外に置かれる(※注)。
(※注 これの有名な事例を挙げるならば滝川事件(第十回 参照)においては、美濃部達吉が鳩山一郎(文相)による滝川幸辰の追い落としに加担した理由とは、美濃部が滝川の論説(著作)に感情的に反感を持っていたこと、
(つづく)
75:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:15:35 ID:???
6 of 17 (つづき)

更には美濃部だけに限らず他の大学人の大半においても(この騒動に対して)まるで闘争心が燃え上がらなかったことの理由が、滝川幸辰本人の人望の無さという、極めて”感情由来的なもの”のみであった。
そもそもこの事件の発端にしてからが、蓑田胸喜が京大講演会で赤恥をかかされたことの怨みを、当時、京大の講演部長であった滝川に向けたという、感情的極まりないものであり、事件全体が関係者各位の「感情一色」で彩られたものと言える。)

ところで「合理主義」とは、基本的には「客観性に対する相当の注意」を払った上で、被操作因子に対する論理的な分析、並びに適宜・経済的に妥当な程度の計算的操作を経て真理/真実にできるだけ近い認識に到達しようとする態度であると定義できる。
しかして凡庸者的存在拘束性の陥穽に陥った状況、例えば上記注釈事例のように、本来であれば軍国化に向けてひた走る体制側と学問人連合が対決すべきだった重要な契機を、つまらない感情に支配されて逸するが如き顛末においては、
感覚受容器からの一次認識を合理主義的たらしめることが、ほとんどできていないというわけである。
ところが演繹的思考者においてはこのような状況下においても尚、例えば以下に挙げるような要因/属性が影響力を持つことで、彼らの主観においてあたかも認知が合理主義的であるかのように感じるという倒錯が、生み出されている。

誰かの意見の中に、慣れ親しんだ論理/美辞麗句/賞賛/肯定的レトリックが使われている、また自分の意見との間に親和性がある、更には発言者の態度において、自信と落ち着きがある、あるいは和やかさ/謙虚さ/
親しみ/微笑などの快感系の情動に満ち、はたまた情熱/毅然さ/断固さを持つなどといった要因(※注)。
更には提示された論理等を包括的に把握するのでなく、自分が気分的に気に入ったり腑に落ちたりする箇所が部分的に存在することをもってして、全体をも承認/認容する、ないしは文のレトリックが非常に整っていたり美的であることのみをもってして承認/認容する「短絡性」。

ちなみ念の為に断っておくが、こうした感情・気分的要素とか短絡性の如きものからの影響は、演繹的思考者のみならず帰納的思考者にも見いだせるものである。
(つづく)
76:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:16:21 ID:???
7 of 17 (つづき)

しかし事実認識に対する分析/思惟等を、その中心とするところの帰納的思考においては、これらが認知の本筋である部分に対して決定的影響力を持つことは、基本的には在りえない。
ちなみに帰納的思考者は、特に本気で思惟/思索を要しない時には感情・情緒的表現がむしろ豊かな者が多いが、これは重要な何かを判断する際には、事実認識を歪めずに、これら感情・気分的要素/短絡性をその本筋には持ち込まないという分別を持つがゆえである。

しかして一方の演繹的思考者とは、ヘーゲル的「正」段階に居るために、認知の認知たるメタ認知を知らず、ゆえに演繹的思考を為そうとする傾向を“気づき”により調整する契機を持てず、同一類型の外観を持つ事象に対して、
十年一日の如くに常に同一の気分/感情により自動的(すなわち見田的“非選択的”)に、意思決定せざるを得ない。こうしてあらゆる思考/判断が根本的な非合理性の下で為されることとなる。

『演繹的思考においては、 往々にして“木を見て森を見ず”的な認知の狭窄性/決めつけ等が感情により亢進し、思考を客観視した上で合理的に統合する論考過程を排除する。この状況は演繹的思考というものを一言で言うなら、「自動判断」システムと呼ぶべきものにする。
そしてこの"自動判断的な物の理(ことわり)"は、人間の成長/進歩/発展に不可欠であるところの『破壊と創造(スクラップ・アンド・ビルド)(※注)』過程に飛び込んでいく、
ないしはこれを受容しようとする際に必要となる覚悟/勇気/度胸等を伴う自意識/認識等を、何一つもたらすことがない。
こうして演繹的思考者は最期には、現状に対する際限なき不平・不満意識を吐露し続けるだけの“性根がとことん腐った廃人”となるのであり、もって自らが真に幸福な人間に成ることをもってするところの、
人間社会のマクロ的安定・持続や進歩/発展のための貢献を成す事が(当人の気負い/努力があったとしても)できない。』(『進歩の自然法の第二定理』)
(※注 この類型としては、J.シュンペーターが唱えた「創造的破壊」観念などが著名。)

例えば我が国の人々は、世界的な教育大国の非常に高度な基礎教育制度の恩恵に浴しているにも拘らず、大半の者が帰納的思考ができずに、"公教育的な物の理"を
(つづく)
77:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:16:57 ID:???
8 of 17 (つづき)

そのまま信じ込む傾向が強いために、我が国よりも遥かに教育制度が劣っている国の人々よりも更に、英会話修得のための方法に対して”開き盲(めくら)”である。
すなわち外国語修得においては、第一に当該言語の統語法をカラダ(脳の言語野)で覚えること(英語であれば「SV/SVO/SVOC」等の語順のままで直に意味を採れるようになるまで徹底的に反復訓練すること。)、第二は言語的有意音声群を、
これまた脳の言語野に"音真似"(ネイティブスピーカーと瓜二つの発音をすること)によって記憶させてしまうことの二点が肝心である。
そしてこれらの真理・真実性に基づく物の理というものは、例えば英語を本気で修得しようと努力し続けることで、観念上の破壊と創造の過程を経て、経験・実証主義(帰納)的に得られなければならないものである。

このように人間は高度・複雑化された社会生活を営む動物であるから、適度/適切な破壊と創造の過程に入ることなしに、欺瞞・恣意性に満ちた自動判断システムの目論見のままにいつもいつも行動しているだけでは、現実には実に多くの難題を招来することになる。
そしてそのうちに、何らかの不可抗力によって自動判断システムに従えない/当人が意識的に抵抗するなどということが生起してくるわけだが、この手の無闇な抵抗は、やがてイライラ/ノイローゼ/神経質・強迫観念/
パニック障害/うつ/アルコール等の薬物摂取欲求などの神経症様症状や犯罪やDV等に至る反社会・攻撃的衝動等を顕現させる。(ちなみに前者は特に女性において、後者は特に男性において顕著である。)

またこれとは正反対に、自動判断システムがもたらす快感的報酬が過剰になり、これを当人が制御不能となった場合にも最終的に不快感やストレスが発生してくる。
例えば夢にまで見たような"達成/成功”状態に身を置いた場合には、緊張感や自制心の急激な消失/極度の安心・開放感が、落ち着いて居ることが困難になるほどの躁(そう)状態の後に心身が疲れ果てて、もって絶望的な鬱(うつ)状態ををもたらすことがある。

この一般的には「荷下ろし症候群」などと呼ばれる精神状態においては、日常生活に支障をきたさないようにするための躁の自制に要する脳神経の労働量が恐ろしく増大するために、この状態に耐えることに失敗した場合には、 (達成/成功に対する)激しい
(つづく)
78:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:17:51 ID:???
9 of 17 (つづき)

懐疑・絶望感等が発生して重度の鬱に陥るというわけである。場合によっては自殺にまで至る。

そもそも「鬱病」などというものは、己の存在拘束性というものに対するメタ認識を一切持てない認知の“蛸壺”性が、落ち着いた帰納的論考の不能状態をもたらした結果であり、言わば「演繹的思考病」の最たるものである(※注)。
(※注 また鬱病とは真逆の演繹的思考病例としては、「リジリアンス(回復・復元力)」などと呼ばれるところの「重度の深刻さを伴う危機的状況においてさえも、心の平静さを保つ能力」が、先天的に格別に優れている人々が存在し、
このような「サイコパス系気質」を持つ人々が演繹的思考者となる場合は、往々にして鬱病などとは正反対の社会的不適応状態となるものがある。
すなわち彼らは、非常に直情・攻撃的な反社会的行動(騒乱/犯罪/放蕩など)や奇矯な行動を躊躇/葛藤等を伴わないで難なく遂行し得るのである。)
  
というわけで人はこのような人間脳にデフォールトで設定されていて非選択的行為を強いる自動判断システムのみでは、適切に対応しきれない様々な事態に対処するために、
進化論的には動物が数億年の時を経て開発してきたこのシステムとは別個に、「合理性を追求するための新規の判断システム」を開発する必要に迫られる。
しかしこの新システムについて詳しく考察し始める前に、この演繹的思考(自動判断)システムについて、更に十分に意味的な理解を持っておくことが、(チャプター冒頭部で述べた理由から)必要なのである。

動物はこの自動判断システムを採用することで、第一には決まりきったパターン行動群を、"神がかり的レベル(※注)"に達する完璧・流暢・安定性を伴って為すことができるようになる。
第二には脳が個々の状況において思考/判断のために費やすエネルギー量を減少させるという経済性(言わば“資本利益率”、すなわちコスパの増加)を得ると同時に、第三には第一点の定形的行動に適宜・経済性が運良く備わった状況に限っての最大級の効率性を得ている。
そして更に第四にはこの極めて予定調和的なシステムが発生させる快情動によって、自らの情緒を安定化させると共に、他者の情緒をも或る程度の正確さをもって同様に操作/管理でき、自他の気質/情緒というものを安定させることができる。
(つづく)
79:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:18:30 ID:???
10 of 17 (つづき)

(※注 これは例えば、0.01秒/0.05g/0.1mm程度の精度、かつ相当複雑な組み合わせを伴うような行動(例えば音楽演奏/絵画/料理/職人技など。)を可能にしている。)

以上のような属性を持つところの(人間を含めた)動物脳のデフォールトであるところの演繹的思考様式を、
今後は当論においてシステム論的見地から言及する際には、『感情系習慣的自動思考様式(エモーショナライズド・イデオロジカル・シンキング)(※注1)』と呼ぶことにする。
(※注1 感情系習慣的自動思考様式は、ある認識に対して「論考」するようには決して働かず、同一型の事象と感情発露の下でドライヴされるチャンクによって判断を予定調和させる(※注2)。このような思考様態は、常に「イデオロギー」を生み出す。
ゆえにこれを「エモーショナライズド・イデオロジカル・シンキング」とも別名するということ。)
(※注2 例えば、誰かの欠点を考え始めたとしよう。するとその者を"嫌だ"と感じさせる感情がどんどん自動亢進するにつれ、それに引っ張られて思考も(その者の)欠点を強調するような方向に予定調和的に亢進する。
このように感情に囚われて、自意識が一点(ヘーゲル的「正」状態)に執着している状態での思考は、最早、当人のIQなどの如何に拘らず、狭隘な視野の下で非合理的に推移するしかない。)

そして感情系習慣的自動思考様式について当論的に注視すべき点とは、(この思考様式が)刻々の頭脳労働がもたらす情緒の不安定化をできるだけ抑えることで、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」的な「連帯/相互扶助におけるコミュニケーション」
の際に必須であるところの、個々人の性格/気質を(いくつかの習慣的行動の下で)落ち着かせて、もって生活グループ内での人間関係を良好に保つという自己保存便益に直結する、言わば『生活能力的ホメオスタシス(恒常性)』とでも名付けるべきものを供給する点である。
つまり『エモーショナライズド・イデオロギー』を無闇に否定することは、人が生活するための人間関係基盤を喪失させかねない危険を伴う。

とどのつまりエモーショナライズド・イデオロジカル・シンキングとは、人間脳が進化の過程で獲得した、思考/判断に関わる労働力の省エネと人間関係形成に与する「基幹的認知システム(コンピュータの「OS」に相当。)」だと見做せるのである。
(つづく)
80:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:19:06 ID:???
11 of 17 (つづき)

つまりこのことは、何人もこの感情系習慣的自動思考様式が求める凡庸者的な紋切り型/十年一日的な振る舞い方を、全否定したり免れ得たりできないことを示している。

『全ての人間はデフォールトでは単純な演繹的思考者であり、一部の“秀才(※注)”を除く凡庸者は、このデフォールト状態から一歩も出られるものでない。
その上で例え優秀者だとしても、日常生活的人間関係においては感情系習慣的自動思考様式を用いるしかないのであり、その意味では優秀者であっても一意的に凡庸者的認知行為から免れ得るわけではなく、
彼が優秀者的自意識や緊張感を失い、メタ認知不全状態となるならば、いつでも演繹的思考様式に全面的に支配されるしかなくなる。』

見方を変えれば単純素朴性/無謬的信憑性/自他の分離観念の不全という凡庸者的三属性、並びに感情系習慣的自動思考様式が、実は人間であるならば誰もが利用せざるを得ない能力を担保しているという側面が在るのであり、
ゆえに第十回で提示した優秀者的人間属性とは、これを当該者の全行為において100%顕現させているような者は、現実には存在しえない。我々が実人生において実際に遭遇する者は全て、その行動において「演繹的思考様式・帰納的思考様式属性ミックス者(※注1)」である。
実際には、むしろ演繹的思考属性を主としつつ、その上で帰納的思考を適宜、為せる者を、当論では「優秀者」と呼んでいるに過ぎないのである。
(※注1 学説の拠り所が大まかな認識の域を出ないとしても、そのことのゆえに科学的合理性が損なわれるわけではない。
その理由は科学においては、往々にして万人が共通に保持する「直観的自明性認識(※注2)」が論理上でのつながりを形成することによって、論者は非実測的な経験・実証主義知見からも合理性を見出せるからである。)
(※注2 ディルタイが言う「現象性の原理/基本的な思考機能」と同義。例えば「100°Cの湯に指を突っ込んで、「心地よい」と感じる者は居ない。」こと、あるいは「事物がどんどん粗末・瑣末化することを一意的には進歩/発展だと感じる者は居ない。」などの認識は、
各人毎の主観に基づく思考の前段階に在る基本的自明性であり、このようなものを万人が抱く直観的自明性認識だとする。)
(つづく)
81:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:19:55 ID:???
12 of 17 (つづき)

ではここで無自覚な演繹的思考様式というものが、人間にとっては如何に低劣な判断/行動をもたらすものであるかを具体的に示すために、戦前期に繰り広げられた論争の内で最重要であるところの「天皇機関説論争」について述べる。
尚、この事件の俗的な経緯/推移は、ここでは関心を持つところではなく、学説の内容にまつわることだけを以下に論ずる。

上杉慎吉らを主唱者とする「天皇主権説」と美濃部達吉らを主唱者とする「天皇機関説」の真っ向からの対立において、合理的観点からどちらが正しいかを判じるならば、極めて明快に後者が正しいと言える。
というのも前者の本旨は「天皇という一個人が(大日本帝国の)主権者であり、その意思のみが(大日本帝国の万事において)絶対的な(すなわち超法規的な)効力を持つ。」というものであり、これすなわち中華思想とか王権神授説などと同類の、
君主と君主以外の者の人的価値において絶対に超えることのできない質的分別を設けるものであり、もしこれを是とするならば、憲法を始めとした、合議/意思決定の分担性を担保しようとする目的性を持つところの諸法規は、
最終的には存在価値がないし(すなわち天皇は立憲君主ではなく、自分以外の何者によっても規制されず、かつあらゆる気まぐれ/思いつき等が是認される独裁者となるから。)、明治憲法第55条の大臣が天皇の判断をすべからく輔弼し、
その輔弼した内容に関する責任は当該大臣に在るなどという、天皇が最終的に下す判断における妥当性を担保しようとする目的を持つ規定なんかの存在意義ともまた矛盾するわけだが、しかし主権説論者側から、
この輔弼規定自体の存在価値とか、更には国会/内閣などという概念の本質について取り沙汰されたことは唯の一度もなかった。

以上のことから天皇主権説には論理上、極めて稚拙な瑕疵を伴う恣意性があり、その上で慣習上においても、それ以前の大正年間の二度の護憲運動の勃発の経緯を見ても分かるように、
天皇とは現実には、紛れもなく「帝国」という抽象的主権体に従属する一機関に過ぎない、但しそれは他のあらゆる機関に優越するところの比較最高“機関”的地位に在るに過ぎないと見做されてきているのである。
(つづく)
82:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:20:39 ID:???
13 of 17 (つづき)

ともかく、この一機関の意思のみで万事を決するなどということについては、憲法を始めとした諸法規により厳に禁止されているという解釈(天皇機関説)の自明さに疑いの余地はない。

しかしここでこの事例を採り上げている意図は、今更、両論に対する分析のみを読者に念押しするためではもちろんなく、当時の主権論者の行動を通じて、演繹的思考者というものの危険/心底嫌気がさすバカバカしさを、読者が理解するようにするためこそなのである。
すなわち主権論者は、再三述べている気分・感情的要素としての、自意識内での快・不快的是非に基づいて当該者の頭の中だけで勝手に創り上げられた「天皇観念」こそを、絶対だと思い込むという、
演繹的思考の自己中心性(凡庸者的存在拘束性の陥穽)の虜になっていて、だからこそ実在の昭和天皇本人が本件について、「それ(天皇機関説)で良いではないか。」と機関説を支持しているにも拘らず、
その事実を平然と黙殺し、あくまで自説に拘泥し続けるという、完全な自家撞着を為したのである。

とどのつまり天皇主権論者の本音とは、現に実在する天皇などは全く眼中にはなく、その上で(第九回で述べた専制的支配欲求型ロボット型人間としての)頭に取り憑いている”支配欲求”と”天皇主権説”を便宜的にリンクさせることにより、
現実政治・政局を自らの意のままに操ろうとするものであり、すなわち実在する”(今上)天皇”とは、彼ら自身の想いを象(あらわ)すためのお神輿(みこし)/用益物に過ぎないのであり、
主権説とは”彼ら自身が日本の専制君主に成りたくて仕様がない説”だというのが、そのオチなのである。
そして余談ながら、このようなキチガイ・鬼畜性が顕現する心理的構造は、そのまま二・二六事件を引き起こす原動力となっていったのであり、例えば自分たちを天皇が頼みとし、かつ自分たちが天皇と一心同体であるかの如き幻想にとり憑かれた皇道派青年将校一派の一人、
磯部浅一は、いよいよ銃殺刑を目前に控えた土壇場において、「陛下 日本は天皇の独裁国であってはなりません。(中略)明治以後の日本は天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります。
(中略)左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁も許しません。」などという直諌文をしたためてその本性を暴露している。
(つづく)
83:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:21:24 ID:???
14 of 17 (つづき)

もちろんこの手の虚実が併存する二律的心理構造とは、21世紀の現在においても相変わらず氾濫しまくっている(※注)のであり、すなわち演繹的思考者により祭り上げられた対象物 (すなわち己自身の欲求の体の良いカモフラージュのための媒体)を用いた擬態を為す輩と、
その本性を見抜いている者との果てることがない闘いが今日においても相変わらず続いているのである。
(※注 例えば或る保育士のtwitterにこんなのがあった。「待機児童の問題など、保育の現場では憲法が守られていない。子供の健やかに成長する権利、働く親の働く権利、子供の安全と発達を保証するためには、
今の保育士の安すぎる賃金と人手不足の解消も必要。大好きな子供たちのために声を上げて変えていきたい!」
この意見の心理構造は、「憲法/大好きな子供」を「天皇」に置き換えれば、天皇主権論と全く同一である。すなわち「憲法/子供」のどちらも、実は発言者の本音においては眼中には無いのであり、自分たちの「収入upと労働量のdown」のみこそが、真の関心事なのである。)

というわけで感情系習慣的自動思考様式とは、高等社会性動物である人間においては、生来・普遍的な「擬態行動」を支えるという機能をも持つのである。

では以上を踏まえた上で更に病跡学的な個別事例研究を為していこう。感情系習慣的自動思考様式は人間をして、例えば以下のような愚かしい生き方を為させるように仕向けてくる。

平林たい子の自伝「砂漠の花」(1957)によると、この生来の“アバズレ/チンピラ”的気質を持つ女(当時17歳)は、判で押したように誰からも一様に嫌われ、人としての見込み/将来性のなさから
周囲の皆が(平林に)交際しないことを勧めるアナーキスト青年に、同類としてのシンパシーを感じ、周囲の批判的な目に対する反抗心から逆に一途に惚れ込んで、お決まりの破滅的な転落(※注)を辿る。
これについて当人(平林)は、己が単なる“あまのじゃく”であることを悟るために、これほどの辛酸を経験しなければならなかったとは何たる不幸であるかという旨の述懐を為している。
しかし己の性根が必然的に宿す破滅性を知り、それを何とか抑えようとする決心まではできなかったようで、この出来事の後も放蕩三昧の生活は止まない。
(つづく)
84:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:22:01 ID:???
15 of 17 (つづき)

(※注 関東大震災の折には社会主義者/アナーキスト/サンディカリスト等が一斉検挙され、多くの者が不法裡に殺された。平林もアナーキストの女であったために捕らえられ、処刑場とおぼしき所にまで連れて行かれたが、幸運にも九死に一生を得る。
その後、東京から出ることを条件に釈放された身寄りもない平林カップルは、絶縁状態の親類を頼り大連に渡るも、男は頼った知人に警察に売られ懲役刑となり、
一人残された平林は、入籍を許す者もいない私生児としての女児を栄養失調状態で産み、満足な世話も受けられず一週間で赤子を死なせる。)

また平林などとは異なるタイプの、言わば“逆噴射型”とでも呼ぶべき、生来的気質が単純すぎることからくる、己の求道者的一本気/不器用さ等に対する徹底的嫌悪感から、
生涯にわたる自己否定的な(己自身との)不毛な闘いを為し続け、自殺衝動にとりつかれるまでになったレフ・トルストイの人生にも、
この感情系習慣的自動思考様式がもたらす悲惨さ(己や社会を感情の束縛から離れてメタ認知することを未だ知らないので、一途な思い込みが最悪の苦悩/破滅につながることを理性的に回避できない。)が溢れている。
彼は「アンナ・カレーニナ」(1878)で、「君は非常に純粋な人だ。これは君の長所でもあり、短所でもあるんだ。君は君自身の純粋な性格から、全人生が純粋な現象から成り立つことを望んでいるが、そんなことはとても在りうることじゃない。(中略)人生のあらゆる変化、
あらゆる魅力、あらゆる美は、全て影と光(※注)とから成っているものなんだからね。」(第一篇十一)と述べ、平林と同じく理屈の上では己の弱点/人の世の真実を把握している。しかして彼の自己否定・嫌悪的執着は、現実には非常に哀しい不毛の努力を為すように仕向ける。
すなわちトルストイの主要作品を特徴づけているところの、例えば起承転結の如き筋立てを持たせることを嫌悪しているかのような、物語展開における徹底的な複雑・輻輳性と一回性事象の連続がもたらす各事象の非連続性等は、
言わば己の天与の単純明瞭な気性に対する絶望的嫌悪がその根に在ると考えれば、「なるほど」と納得できるのである。
(つづく)
85:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:22:40 ID:???
16 of 17 (つづき)

(※注 “影と光”とは、例えば或る人物がどんなに“善良/好人物”に見えたとしても、それでも尚、彼が人間である以上、彼の人格の中には、例えば残酷さ/自己中心性などといった醜悪な部分を必ず見出すことができる、
というような類のことを示唆しているわけで、こうしてこの世のあらゆる事物は、影と光のコントラストの中にこそ、その本質を宿している旨を述べたものである。)

更にトルストイについて重要なことを言い添えるならば、彼の出世作の「戦争と平和」(1869)などを読んでいても、外形的には物凄い事件がどんどん起こってくるのだが、(その優れた文章表現力とは裏腹に)全く臨場感というか感情移入が読み手の心中に起こらないのである。
これと対照的なのがツルゲーネフの諸作品であり、それらはどの作品においてもドラマチックな場面の最中には、あたかもオレ自身が登場人物になってしまったかのようなリアルな共感/実感が沸き起こってくるのである。

では両者の作品におけるこのような本質的違いをもたらしているものは何なのか?それはトルストイとは、自分を自分が憧れている何者かに似せようとしている偽物(主体性/個性がない凡庸者)だが、
ツルゲーネフは己の真実に真っ直ぐに向き合って生きている優秀者であり、そこで掴んだ真理(彼の個性を形成するもの)を作品として端的に表現しえているということである。

さてこれらの事例を通して見えてくることとは、感情系習慣的自動思考様式のためのチャンクは、思考アルゴリズム部分が小脳ROMであるために、理性的にはその内容の滑稽さ等をメタ認識できたとしても、ここから直に思考様態を修正できるわけではないということである。
すなわち感情系習慣的自動思考様式の低劣性を免れるためには、思考の進捗につれて、その全体的方向性・方針を合理主義的たらしめるための何らかの『思考統御・監督系諸機能』が、適宜、働く必要があるのである。
結論から言えば、これは第十回において「人格的諸能力」としたものに由来する機能である。この思考統御・監督系諸機能についての詳細な論説は、次回以降(第十二~十三回)に持ち越される。
(つづく)
86:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)17:23:08 ID:???
17 of 17 (つづき)

さて、とにもかくにも破壊と創造過程に入れず、テンプレート化した意思決定チャンクの継続的利用による自己限界的特異点に至った場合、凡庸者の多くは社会的不適応段階に移行する。
そしてその状態が慢性化すれば、ストレス系ホルモンの過剰分泌等による脳神経器質自体の破壊/変成/機能不全と精神病等の段階にまで、必然的に行き着かざるを得ないのである。
(「感情系習慣的自動思考様式」 おわり)
(第十一回 おわり)
87:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/01/19(金)18:21:08 ID:???
>>80

“秀才(※注)”の注釈が脱落していたので以下に補填する。

(※注 「秀才」は凡庸者のサブ・カテゴリー。これについては後の回で詳説する。)
89:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:13:59 ID:???
1 of 32

「市民層  概論」 第十二回

「論考と人格」

すなわち人がどこまでも感情系習慣的自動思考様式のみで生き抜こうとするならば、本来、我々が「人類」に成るよりも遥か前に既にその基幹構造が完成されており、もって「特有の高度・複雑さを持つ人間社会での生活」については全くその“設計思想”
の想定外であったところの、単なる“動物界”仕様でしかなかったそれ(感情系習慣的自動思考様式)は、人間的「擬態行動や騙し合い」が錯綜/輻輳する特殊環境(人間社会環境)においては、
全く対応不能となる日がいずれは到来することは、最初から目に見えていた。すなわち人間社会においては一定割合の凡庸者は確実に、重篤な社会的不適応状態にシフトしていく。
しかしこうした不適応状態も初期段階であれば、実は簡単な気晴らし/気分転換をもってするだけで寛解させられることもまた事実である。

すなわち人は自己保存本能が健全に機能している状態(正気)であるならば、本能的な危機回避行動を採れ、(例え容易には解決できない処世上の問題を抱えている真っ最中にしろ)簡単には精神破綻前状態にまでは至らないものである。

ところで気晴らし/気分転換は、己の気分の状態を意図的に変えるという行為であるから、立派な「自己の存在拘束性の操作/管理」の一種である。
存在拘束性の操作/管理とは、システム論的には「現在の存在拘束性を新たな存在拘束性に“変える”、あるいは“(変わろうとする存在拘束性を)変えない”ことの組み合わせ行為」だと定義付けられるものだ(※注)。
(※注 存在拘束性とは、人の認知の様態/傾向に影響をおよぼす全ての内・外的要因。読者は例えば見田宗介の前掲書 第一章第三節「価値の機能的次元と類型」に提示された四類型・次元、
並びにそれらが第二章第二節「価値判断の規定要因」中の第2図が示すところの連関性を伴い顕現するところの様態等において、これらを包括的に良く看取し得るであろう。
これらに含まれるところの個別的要素には、例えば国籍/年齢/性別など普通には操作できないものも多いが、
(つづく)
90:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:15:13 ID:???
2 of 32

心理状態/健康状態/職業/居住地/人間関係などなど自由な意思により変える、もしくは変えないようにすることをもって操作/管理できるものも多い。)

すなわち

『「破壊と創造」的事象とは、存在拘束性の変化/無変化としての、無数の微分的な破壊行為と創造行為が因果/連関し続ける“積分的”集合である。
そしてこれは、第一定理的作用(集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動)をミクロ的に見た際の中枢要素に他ならない。』(『進歩の自然法 第三定理(「破壊と創造」定理)』)

例えばリー・ヴァン・ヴェーレン(進化生物学)の「赤の女王」仮説(※注1)が看破するが如くに、あらゆる生物は敵対的環境因子が無数に存在する中でのたゆまぬ破壊と創造としての「存在拘束性の操作/管理」競争を
強いられるのだが、これが地球上の生物界における自己保存には最も合理的な方法だから、誰もこのゲームから下りることはできない。
その上で前回言及した感情系習慣的自動思考様式に対抗するための「合理性を追求するための新規の判断システム」とは、実は気分の操作/管理などという簡単なものから、生活や職業などにまつわる比較的大きな事象/事物の操作までを包含するところの、
正にある意味でこの生き残りゲームのトップ・アスリートである人類のための「(生物学的)適応度(※注2)の上昇を目指している存在拘束性の操作/管理を為すための思考・判断システム」として位置づけられるものである。
とどのつまり当該システムによって為すことこそが、人が非合理的な好ましからざる状況(存在拘束性の陥穽に嵌った状況など)からの脱出のために為している、若しくは為さなければならないことの全てだ。
(※注1 常態的な進歩/発展が生物が絶滅を免れるための王道であるとする理論。)
(※注2 「適応度」は生物学用語。生物個体・種が保持するところの、自己の生き残り/進歩/発展に対して貢献的に作用する諸属性の保有度。)

ところで前回の平林たい子/トルストイの事例に見るように、人は理性的には感情系習慣的自動思考様式の滑稽さを認識できたとしても尚、感情系習慣的自動思考を直ちに捨てられるわけではない。
というわけで、この新規の判断システムには、しぶとい動物仕様の感情系習慣的自動思考様式的強制力に対抗して思考の過程においてその全体的方向性・方針を合理主義的たらしめるための、
(つづく)
91:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:15:54 ID:???
3 of 32

何らかの「アンチ - 感情系習慣的自動思考様式機能」が備わっていることが当然の如く期待できる。そしてこれについて具体的に論考する前に、まず以下のことを説明しておく。

存在拘束性の操作/管理を為すための思考・判断に際しては、何をさておきまずは、この「己の存在状態自体がもたらすところの
(感情系習慣的自動思考的)強制力」自体が届かないような“圏外”に己の自意識が予め置かれているのでなければ、そもそも「必然的に心地良さを感じる固定感情に支配されざるを得ない(すなわち存在拘束性の陥穽に
はまらざるを得ない)演繹的思考様式」(第十一回)の中で存在拘束性の操作/管理などできるものではない。
すなわち今、現実に己の身を縛っている存在拘束性の操作/管理を為すためには、まずはその方法を案出する思考段階において既に、
「自意識」だけは一足先に存在拘束性の“圏外”に脱出し終えているのでなければ、これ(思考/判断)を成しようがない。

そしてこの自意識が存在拘束性の圏外に脱出できている状態こそが、実は「メタ認知」状態、すなわちヘーゲル的「反」状態なのであり、人の自意識は予めこの状態に在って初めて、存在拘束性の操作/管理を為せる。というわけで

『新規の判断システムにおける「思考統御・監督系諸機能」(第十一回 参照)の第一義的な目的とは、自意識を感情系習慣的自動思考様式の圏外に置いてメタ認知状態に置き、かつこれを保ち続けることにある。』

ところで実はこの「メタ認知」ほど、他者に説明するには厄介なものはない。もちろん現状の世界の公教育においてこの概念、及び認知における重要性を教えている処など一つもないであろう。
ただ世俗の界隈において、これに近似する注意喚起を為すことが時たま在る程度である。
すなわち「頭を冷やせ/よく見ろ・考えろ/相手(もしくは第三者)の立場で考えろ」等であるが、これらは必ずしも当論で言うメタ認知についての的を射た認識に人々を行き着かせるわけではない。

人の通常の自意識は、或る一つの習慣的、かつ快感系の観念に取り憑かれた状態に在り、ここに無頓着に留まり続ける、あるいはしがみついている限りにおいて当人の教養とか知能などとは無関係に、
(つづく)
92:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:16:33 ID:???
4 of 32

凡そ合理性などとは無縁の思考/判断を為す、すなわち己の存在拘束性の陥穽にはまるしかないことは前回、述べた通りだ。これが凡庸者的な自意識状態である。
一方でメタ認知することそれ自体は、第七回で述べた「自己批判的観念」と極めて密接に関わるところの自意識状態であり、
己自身の有様を客観・合理的に認知/分析できるような、ある意味で“透明で澄んだ”意識状態であり、かつ妥協や曖昧さを許さない“冷厳な裁判官”のようでもある。
その上で優秀者の自意識は、適宜、感情的な自意識状態からジャンプして、この純粋に理性的な状態にシフトできる。
具体的にはこのシフトを為すべき必要性を示す契機に際しては適宜、「気づき」を得て、もって自意識の状態を速やかに「正」から「反」にスイッチできる。

そしてここで「メタ認知系諸能力(第七回 参照)」を、当論的視点からの定義付けとして、「メタ認知を可能にするためのプロト能力/メタ認知能力/メタ認知成立状態においてこれを基盤として動作する能力(帰納的思考能力)」の三能力の集合とするならば、
思考統御・監督系諸機能とは、このメタ認知三能力を適切かつ効率的に作用させるためにこれら自体に働きかけたり、あるいはこれら(三能力)を感情系習慣的自動思考様式の影響から免れさせてくれる機能ということになる。
その上で結論から言うと(もう既に幾度か言及しているように)思考統御・監督系諸機能を担っているものとは、
このメタ認知系諸能力自身の一部分であるところの「人格的諸能力」であり、これは上記メタ認知三能力の中の「メタ認知を可能にするためのプロト能力」に該当する。
ちなみに大半の読者は今、オレが何のことを言っているのか急にチンプンカンプンになってしまったはずだが、心配は無用だ。とりあえず今は軽く読み流しておいてくれれば良い。これの経験論的な解説は、
もう少し後で為すので、その際にまたこの箇所を読み合わせてくれるならば、キチンと理解できる。

ではここからは「何故にこの『人格』なるものが、新規の判断システムの中でメタ認知系諸能力に対する統御・監督系諸機能として、あるいは感情系習慣的自動思考様式の低劣性を免れさせ、もって思考を合理主義的たらしめられるのか?」を説明していく。
(つづく)
93:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:17:08 ID:???
5 of 32

まずは「人格」についての当論的定義を得ておこう。ウィリアム・D・ハミルトンが提示したところの生物の利他主義的行動に関わる理論等からは、動物の種、あるいは個体レベルにおいて歴然とした差異を見出し得るような
固有かつ多様な「行動特性・性質・気質型属性」、すなわち(人におけるところの)「人格/気質」該当物は、自己保存目的下の戦略的判断の場において、顕著に有意であることを演繹できる。更に

『行動特性・性質・気質型属性としての人格は、人の思考/判断の全体に対して包括的な位置から影響力を行使する因子として、(思考/判断の場においては)思考能力それ自体に匹敵するほどの重要性を持つ。』

という仮説をここで立てる。その上で人類史を振り返る。2000万年前頃までは、大洋からの湿った風が海岸部まで密生する熱帯雨林を繁茂させていたアフリカ大陸において、類人猿と現生人類の共通祖先であるドリオピテクスが
多種多様な食草/果実が手近に満ちた快適な樹上生活を謳歌するも、1800万年前頃から始まった大陸のプレート移動によりテチス海が消滅し地球は寒冷化し、東アフリカの大地溝帯の両サイドにはそれぞれ長く連なる山脈が現れた。
このために東アフリカでは乾燥化が急速に亢進し、豊かな“恵みの森”は消え、ただ果てしなく広がるばかりの草原と閑散と生える樹木のみの「サバンナ」が出現した。

この環境的存在拘束性の下では従前の多くの種が絶滅する中で、人類の祖先たち(ラマピテクス)は、
脳を大きく発達させ生活の細部に至るまでの経験的事実認識を無駄にせず、これを徹底的に利用するための思考システムを新たに開発するという破壊と創造(進化)過程に入った。
すなわちこの過程においては、二足歩行と両手を自由に使うことによる草原における武器使用を伴う狩猟技術の向上/仕留めた獲物の運搬と分配等に適った能力を高めることができた血縁集団が、
更に個々のラマピテクスの人格的能力の差異に所以するところの、例えばチンパンジーなどの現生類人猿にも見られる「物乞い」行動、つまり非常に切ない目で食事中の相手を見続けて、相手を「ショーがないな。少しだけおすそ分けしてやっか。」気分にさせる、
あるいは“おじぎ”とか“肩を叩く”的な「挨拶」行動などによる
(つづく)
94:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:17:40 ID:???
6 of 32

様々な集団生活に与する、高度な心理操作能力の開発を伴うホミニゼーション過程に入っていった。
こうして「人格」能力の差により自然淘汰・選別されることとなったプロトホミニド(人類祖先)の脳においては、更に経験記憶を戦略的行動能力開発のための素材としうるための更なる破壊と創造、
すなわち徹底的な脳器質的進化が始まり、コミュニケーション能力等を始めとするところの包括的知能が劇的に亢進していった。

そしてこれらの新規獲得能力はプロトホミニド段階においては、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」(観念運動の自然法の第四定理)的な人格としての、例えば「思いやる/毛づくろいし合う/ジャレ遊ぶ」などといった、
主として生活時間の大半を占めるところの集団内秩序形成に与する「連帯/相互扶助」的能力に類するものの開発に偏向する傾向を持ったことについては、何ら疑問の余地はない。
すなわち現生人類(ホモ・サピエンス)に至った現在においても尚、このことは今だに歴然と(自意識的にはプロトホミニド的な人格能力しか持たないと思われる)凡庸者/下層大衆の生活様態において歴然と顕現しているからである。
そしてこのような段階に留まる人々の認識においては当然の帰結として、人格(的能力)と言えば即、集団内自己保存目的に与する調和・協調型能力を促進するようなもののことを意味するのである。

しかして現生人類の中の「ホミニゼーションの結果として現出するに至ったとこの高度/複雑な特殊社会の中で生き抜かなければならない動物」としての自覚を持てる優秀者は、理性的判断能力としてのメタ認知系諸能力、具体的にはこれがもたらす
最高到達物としての帰納的思考能力を駆使した経験的事実認識に整合した(第七回の当該箇所で幾つかの具体例を示したところの)「合理的認識」こそが、人が生き抜くための真の知的財産であることを正しく認識している。
(つづく)
95:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:18:21 ID:???
7 of 32

その上で当論が関心を持つところの人格とは、(第七回において提示した)主体的達成意欲/自己批判的観念などとしての『始原人格』とその合力的作用から発展的に形成され、
もってメタ認知系諸能力を涵養し、更にはこれの統御/監督を為すところの、幾つかの人格能力なのである。以下に詳説しよう。

まず始原人格能力には、三種ある。第一は「主体的達成意欲」、第二は「自己批判的観念」、そして第三は「欲求抑制観念(ストイシズム)」である。(ちなみに第一と第二は第七回において既に説明している。第三についての説明は次回になる。
ちなみにストイシズムは、他の二つとは質的に異なる特殊な属性を持つ。)
そしてこれら三種の始原人格のそれぞれから三系統の発展的な諸人格が発生する。今、とりあえずこれらを包括して人格的諸能力として捉える。すると

『人格的諸能力とは、(前述したように)メタ認知系三能力の一つであると同時にこれらメタ認知系(三)諸能力全体の統御/監督をも担うのである。
その上でメタ認知系諸能力は、常に人格的諸能力からの動機付け/活性化/統御/監督等の作用を受けつつ、個々が単独で動作したり連関し合ったりしながら働く。』

ところで例えば気分的存在拘束性の操作/管理などは単なる動物本能に基づく「快感追求欲求」が、その開始のための端緒となり得るわけだが(すなわち感情系習慣的自動思考様式の場合と同じ)、例えば職業(生活様態)/居住地/人間関係などといった
『高次存在拘束性』の操作/管理については、既に自意識内にプロト優秀者定理(第十回 参照)的な人間界の事象一般に対する確たる「問題意識」が常在していて、
これに基づいた「論考欲求」が端緒となるのでなければ、おいそれとはこれを開始できるものではない。すなわち

『人生や社会にまつわる高次存在拘束性問題にあたっては、当該者 (プロト優秀者以上の者)が既にそれなりの問題意識と人格的諸能力を保持していて、これらが媒体となることで、「論考欲求」を生起させる必要がある。』
(つづく)
96:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:19:04 ID:???
8 of 32

具体的にはプロト優秀者等の自意識内において、背に腹は代えられないようなギリギリの状況において、彼の主体的達成意欲系の人格が、
脳内に既に「存在拘束性の操作・管理チャンク(破壊と創造チャンク)」(※注1)を形成しているならば、必然的に押し出されるようにして発生してくるものが、「論考欲求」なのである。
(※注1 人格が未熟である場合はこのチャンクが存在せず、論考欲求も発生しない。もって進歩の自然法の第二定理(第十一回 参照)的な自動判断過程に入るしかない。
こうなると存在拘束性の陥穽にはまり「無いモノねだり(※注2)」を始め、現状に対する際限なき批判/非難等の不平・不満意識を吐露し続けるだけである。)
(※注2 眼前に“在るモノ”を自動判断的に“悪の根源”だと決めつけ、“無いモノ”をひたすら狭隘なる思い込みにより希求しまくるところの感情系習慣的自動思考様式の典型的自動思考アルゴリズム。
例えば「戦前期の国民が太平洋戦争を積極的に支持したワケは、警察/憲兵等による弾圧、教育勅語制定に代表される教育政策/大本営のウソ報道等に因る不可抗力のせい」だとするところの自己責任回避論などが好例。
ちなみにこの責任回避論は、戦後は民主化/基本的人権の尊重/思想・信条の自由等が保証されて、従前の“無いモノ”は全て補填されたにも拘らず、
日本国民の大半が重大な社会問題に対して、相変わらず寡黙、かつ無知蒙昧であり続けているという経験的事実の提示により反証できる。)

ではここで始原人格から派生した代表的な個別の人格能力を以下に挙げる。

「真理性/卓越性を好む/重視する」人格こそは、人をしてプロト優秀者や優秀者たらしめる根幹的人格的能力である。これが無ければ、都合が悪いことは「見なかった/聞かなかった/知らなかった」振りの典型的凡庸者となるしかない。
すなわちこの人格を持たなければ、そもそも納得できるまで事物を追求しようという意志/態度を保持できないから論考開始点にすら至れない。
あるいは公教育等で得た専門的知性をもっぱら素人を騙し煙に巻くために用いようとするが如きの典型的パフォーマンス至上主義型人間、すなわち確信犯的な詭弁論者/衒学者に成るしかない。
(つづく)
97:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:19:39 ID:???
9 of 32

また「真面目さ」人格の機能も同様だ。但し上記人格(「真理・卓越性愛好」)を併せ持たなければ、むしろ無謬的信憑性が強いだけの典型的ロボット型人間の形成を促す。
その一方で真面目さの反対人格であるところの、他者の意見/教唆等を受け入れる意志自体を持たないために、屁理屈だの言葉尻のみを捉えて反駁するがごときの「頑迷性/認知努力の“門前払い”性」、
すなわち「教育不能」人格しか持たない者はいずれは確実に、キチガイ・鬼畜性(第九回 参照)の顕現にまで至る。

また己が過去に為した努力に対する誇り/成果等に由来する「自尊」人格を涵養できていなければ、論考を始めたとしても、これを情緒安定的に進捗させられない。
更に他者の知恵に対して適切に心を開けるような「無知の知」的な意思/人格もまた論考行為にとっては決定的に重要であり、全世界に散在する有意な智慧の吸収を円滑ならしめる。
そして「几帳面さ」人格が無ければ、いい加減さが、「責任感」人格が無ければ結果に対する投げやり的態度が論考に終始ついて回らざるを得ない。

このように、そもそも論考の開始点に到れるか、はたまたその進捗過程における適切さの担保力は、
当該者が予め持つところの、実に多種多様な人格的能力、すなわち人格的諸能力が統御・監督的な力を発揮することで生成される。というわけで

『論考の開始・包括的な質とか内容を規定したり方向付けているのは、決して狭義の知力(教養/論理構築能力など。)だけではなく、まずは当該者に固有の人格的諸能力が、如何なる問題意識を持つかを規定し、更には論考過程に入る前から、
如何なる質/精度を備えた論考を為せるかの可能性をも規定している。』

すなわち論考という行為において、知能と共に決定的な影響力を発揮するのが人格なのだ。人は知能(論理性自体をもたらす能力)が高いだけではダメで、論考行為に深く関与するところの
幾つかの人格的能力がもたらす統御・監督的作用が適切に機能しているのでなければ、論考の開始/進捗/終結を優れたものにすることは絶望的というわけである。

では次に上記の個別の人格/意思(的人格)がどの人格系統に属するのかを、幾つかについて同定してみよう。(但しさっきも述べたように、今回は第一と第二の系統に関してのみ。)
(つづく)
98:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:20:15 ID:???
10 of 32

まずは「真理性/卓越性を好む/重視する」人格だが、これは論考欲求の本体であり、これがなければ人は、そもそも論考などという重労働を為そうとする意欲を永遠に持ち得ない。
すなわち思考統御・監督系諸機能に関わる諸人格の中でも最も根幹的なものである。
アリストテレスは「ニコマコス倫理学」第六巻(B.C.4c)において(「智慧」に勝る価値を持つものとしての)「思慮」について、『「思慮がある」とは、「自分にとって良き事柄とか功益ある事柄に関して立派なやり方で思量できる」ということであり、これは
(珍しいこと/驚きべきこと/難しいことなどを知っていることであるところの)「智慧」を用いた上で、人間的な諸々の「善」(オレ注 ; 進歩/発展)を追求させるもので、すなわち「思慮」は、論考の過程の個々に対して
「何を為し、あるいは為さざるべきかを規定し命令し真っ当な論考を開始させる」動機をもたらす。』旨を述べている。

つまり如何にモノ知りであろうとも進歩・発展的方向性を持たなければ、論考という行為が価値を持つことは絶望的だ。その上で論考における価値の本質が、
「真理性/卓越性を好む/重視する」ことであり、更に人が為す事の全ての進歩・発展性の始原人格は「主体的達成意欲」なのである。

というわけでオレがtwitterで度々言及するところの“天才”と“秀才”の間の大きな隔たりも、(狭義のIQの差異とかよりも)主体的達成意欲とその系列人格能力の隔たりに因るところの方が、ずっと大きい。
つまりこれこそが、人と社会の進歩/発展の源泉であり、オレが優秀者的属性として何よりもまず「主体性」を第一に挙げていることの所以なのである。

そして「教育不能」人格とは、逆に主体的達成意欲系人格能力が不全であることの帰結である。つまりこれは、一切の真理・真実性/卓越性への無関心性の源泉であり、
(つづく)
99:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:20:48 ID:???
11 of 32

第七回で述べた「無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向」、すなわち極めて他者依存的で自らの側で状況を操作しようとする能動的能力を持とうとしないパフォーマンス至上主義型人間の主要人格である。
これは、例えば知性において己よりも数段も格上の相手に対してさえ平然と批判を為せるような心性の源泉である。そもそも批判する相手の主張を凌ぐ対案の提示を伴わない(言わば“相手の主張の存在”に依存しているだけの)結果論的批判だけで良いならば、
子供でも馬鹿でも簡単に為せるのであり、口先だけ/善人振り/利口振りをもってするパフォーマンスには打って付けである。
もちろんこうしたものは人と社会に対して著しい幼児的退行性をもたらすことは言うまでもない。(同じ凡庸者カテゴリーの中でも生真面目なロボット型人間は、教育不能人格は持たない。)

次は「無知の知」意思/人格について。これは集合知を有意に利用する際に必要であるところの「謙虚さ/分際を知る」「真面目さ/几帳面さ」人格の源泉。
その上で「無知の知」人格とは、「自己批判的観念」に由来している。そして自己批判的観念系の最高派生物は「責任」人格である。これら「無知の知」「謙虚さ/分際を知る」「真面目さ/几帳面さ」「責任」人格が、「自己批判的観念系人格能力」の代表例。
ちなみに自己批判的観念系は、主体的達成意欲系が健全に備わった後でなければ保持できないところの、より高次の(理性の働きを要する)系統だ。

では次に論考システムの機序を示すサブモデルを提示する。

プロト優秀者以上の者においては、感情系習慣的自動思考様式のための固定回路(正規チャンク)の援用のみでは、自己保存本能が求めるものに適切に対処できないことが歴然となった時点で、世間の一般常識に対する根源的懐疑/個別事象に対する問題意識、
並びに諸人格が既に自意識内において十分に成長しているならば、それらが、まず強い不快情動を発生させる。
すなわち目的達成のために期待をもって援用された正規チャンクが予定通りの結果を生まなかったという経験的認識は、これと人格/破壊と創造チャンクが相互に交通することで、
「何故なんだ!?/やっぱりこうなるの・・」的な激しい煩悶/疑問/ショック/沈滞した気分等を心に生起させるのである。
(つづく)
100:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:21:24 ID:???
12 of 32

その後、破壊と創造過程に先立って必要であるところの「覚悟/勇気/度胸」系の意思/マインドセットも破壊と創造チャンクに主体的達成意欲系人格が作用することで漸次、醸成され、ついに論考欲求が発生してくる。

そしてこの際に重要なことは、人格的諸能力の思考統御・監督系諸機能により自意識がメタ認知状態にシフトすること、そしてこの状態を論考終了まで保つことである。
というのも「反」状態でないと、論考欲求の発生にまでは至っても、ゴチャゴチャと考えた挙句に結局、感情系習慣的自動思考様式に舞い戻ることになるからである(※注)。
(※注 例えば「結局、奴は何故、怒ったのか?オレが●●と言ったからか?しかしそんなことで腹立てられる筋合いはない!人間というものは◎◎しなきゃならんものだろうが!胸糞悪い奴だな。あ~ぁ、ウゼェなぁ。」みたいに。)

ちなみに宗教などは、こうした高次存在拘束性問題を、(凡庸者的「正」意識に留まったままで)日常そのものから隔絶した何やら神秘的な認識に結びつけて、何とかしようとする。
例えば仏教的修行では、あらゆる事物/事象への執着のない「空」、没我的自己投入である「三昧」(「フロー」・・脳波はα波、またはθ波に近いα波)状態を解脱(破壊と創造)のための要件だとして、
これに自在に到達するためのノウハウの獲得(悟り)をもって、存在拘束性の操作/管理を成せるつもりでいる。
しかして現実には、高次存在拘束性の操作・管理法を、真の意味での合理性を伴うもの(すなわち現実生活における成功/自己実現に直結しうるもの)として樹立するためには、
こんな“世捨て人”みたいなメンタルでは到底不可能であることは、誰もが薄々は気づいている。

とどのつまりこの手の非メタ認知・非論理的方法論が今だに堂々とまかり通ることの理由としては、まずは「主体性」の獲得という困難を極める過程を回避しようとするからである。すなわち第十回で示したように、
何らかの"真理めいた認識"を得たとしても尚、主体性が希薄だと、それを自分自身が信じ切れない。ゆえにどうしても主体性の獲得を避けることはできないのだが、しかしてこれは容易にできることではなく、そのハードルは極めて高いのであった。
(つづく)
101:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:22:11 ID:???
13 of 32

更に加えて真摯な論考を始めると、ニューロンがその都度、新たなシナプスを作る必要のために、脳神経に強度の労働負荷(※注)がかかるという問題もある。
(※注 論考時に脳内で為されているところの「シナプスの新規生成」においては、(ニューロンの)ゲノムからの連続的タンパク質産生が為されるのだが、こうした"増築工事"に伴う甚大な疲労系ストレスにより、
論考者は時間を経るごとにみるみる倦怠感がつのり、ヤル気/思考の明晰さが低下し、最後には眠気をもよおす。
このことは、究極的な情動的快感・充足感を希求するところの(感情系習慣的自動思考様式の一種である)宗教的修行が、脳内麻薬様物質の作用でα波を発生させ続け、疲労感を打ち消してくれることとは対称的である。)

つまりこうした論考につきまとう困難/ストレスを避けたいという心理が、凡庸者をして宗教的修行などに向かわせているのである。もっとも当論的な優秀者とても常時、論考によって疲れているわけではない。
何故なら前回述べたように、彼らもまた演繹的思考様式を基盤として生活する者たちだからである。
すなわち帰納的論考の成果物は次々に演繹(予定調和)的に参照できるようになるから、普段は演繹的思考様式で間に合うのであり、彼らはせいぜい青年期をピークとする重度のストレスを伴う帰納的思考を為しているにすぎない。

では次に論考の成果物が、いかなる形態の脳神経回路(チャンク)として残るのかについても論じておく。

感情系習慣的自動思考様式のためのチャンクは、一つの「認知-判断-行動」固定セットであり、しかも思考アルゴリズム部分は小脳ROMであるために人は直に思考様態を修正できないのであった(第十一回 参照)。
しかして破壊と創造チャンクが始動して論考が進展すると、その論考内容を受けた思考アルゴリズムが(大脳RAMとして?)新規に形成されて、これ以降は正規チャンクが出した判断に、
この新たな思考アルゴリズムを意識して援用することを何度も繰り返して、もってこれを長期記憶化することで、正規チャンクの思考アルゴリズムを使わない「バイパス・チャンク」のようなものを形成する。
(つづく)
102:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:22:45 ID:???
14 of 32

これは当人の心の張り/緊張感などが緩んだりしない限りにおいて、同じような状況に遭遇した際に利用できるもの。
すなわちあくまでも“バイパス”だから、正規チャンク自体は消去されずに存在しており、当人の気が緩んだりすれば、たちまちにして正規チャンクが援用されてしまうということ。

バイパス・チャンクの典型例としては、プロ・ゴルファーのJ.ニクラウスが有名にした「イメージ・トレーニング」などがある。これは、例えば珠算者が暗算のために頭の中でソロバンと弾く指の像を正確にイメージできるように訓練することと同じであり、
イメージ・チャンク(バイパス・チャンク)の固定後は、創り出される“動画”を用いて精度の高いゴルフスウィングとか暗算を難なくこなせるというわけだ。
またピアノ/ギター等の演奏者ならば、これまた脳内で様々な動画イメージ(鍵盤/指板の色付け/連番付け/発光、指を透明にするなど。)を創作できれば、極めて自在/流暢な演奏が難なくできるようになる。
ちなみに熟練した演奏家ならば、脳内動画での鮮明なイメージのおかげで、ミリ単位の精度で鍵盤・指板上の指の位置を同定できるまでになっている。
(ちなみに「共感覚」と呼ばれているところの、数字や音と色覚等がリンクするような特異な認知形態は、実はこのようにして形成された動画チャンクのエピジェネティック遺伝例なども含まれているのかも知れない。)

以上が論考システムのサブモデルだ。ではここからは更に最終的に完成された論考形態としての優秀者的な論考の特徴を見ていこう。

人は「主体性/個性」が涵養するところの優れた人格的諸能力による介入(思考統御・監督系諸機能)があって初めて、感情系習慣的自動思考様式の呪縛から脱し、(当該者の能力の許す限りの)合理主義的因果・方法論を形成し得る。以下に詳説する。

凡庸者御用達の演繹的思考様式とは、規則/法則/原則等を事象に(情動の力により)十年一日の如く杓子定規に適用して、後はやりっ放しである。
すなわちこのような自動思考様式的なやり方では、例え当該規則の援用自体は基本的には正しいものであったとしても尚、
思考者の「主体性」を支えとするところの慎重さ/懐疑や猜疑/周到な事象の多角的分析に基づく包括的理解、判断等が適宜、為されないために、
(つづく)
103:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:23:18 ID:???
15 of 32

例えば調整的対処時における非合理性(意識の甘さ/要素・因子ごとの重要度の序列の不適切/個別的問題点の発見の遅延など。)を免れ得ず、もって瑕疵の延々たる蓄積が、往々にして大元の目的を頓挫させてしまう。

例えばもう5年以上も前からネット上に登場し、今だにtwitter界隈で一部の研究者のツイに見受けられるところの、『iPS細胞研究に関わる「選択と集中」政策に対する批判/非難』の内容を見るならば、この事象がこの種のものの一つであることが良く分る。
まずそもそもこの手の「ヘゲモニー層の政策と関係当事者側との対立」構図は、人間文明の開始以来、普遍的に顕現してきた。

例えば高度成長期以前の琵琶湖では農民が魚の産卵期を避けた上で、肥料にするために湖底の藻を刈っていた。そこへ1960年代以降、国家の産業政策が化学肥料を普及させたり、工場を周辺に誘致したりしために、農民は琵琶湖の藻を刈らなくなり、
その上、排水が大量に流入するようにもなった。こうして化学肥料/合成洗剤が含有するリンと、腐った藻が湖底に堆積することとが相まり、琵琶湖は急速に富栄養化していった。
そしてその結果、赤潮が発生し始め、琵琶湖の水質は急速に悪化した。(藻/プランクトンは本来、水質浄化機能を持つが、それも程度問題であり、大量の藻/プランクトンの死骸は明らかに水質を悪化させる。)
こうして「(かつては人間活動もそこに組み込まれていたところの)琵琶湖生態系が破壊されてしまったことの原因は、国策にある。」とする地域住民と国家の対立が生まれることとなる。

さて以上の事象においては上述のように、工業製品の普及を推進するという演繹的思想を杓子定規、かつ無頓着に現場に普及させ、後はやりっ放しという政策が、まずは問題をここまで大きくした最大の原因であることは明らかである。
しかしてその上で、短絡的に国家機関の役人的判断に対して全ての罪を着せることが(言い換えるならば「文明の工業化」を単純に罪悪視することが)、果たして時代的存在拘束性という“事の大枠”から鑑みて合理的なのか?ということを考えてみたい。

するとむしろ問題性が明らかになった後の、関係当事者の古い体質や観念等がもたらす非合理性/「破壊と創造」能力/振る舞い等、
(つづく)
104:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:24:02 ID:???
16 of 32

つまり「主体性」が涵養するような人格的諸能力に由来する関係者の在り方、すなわち“中枠的”なものを問題視することが、最も有意な解決につながるのではないか?との気づきに至る。
何故ならそう捉えた方が、発展する物質文明の恩恵を受け取るための“ベスト・バランス”を発見するという、より高度な合理性に辿り着ける可能性が高いからだ。

翻ってiPS細胞問題の場合、『新技術に“最終的な出口”としての経済的利潤を生み出させるためには、何処かで“商品化”のための「選択と集中」段階にシフトしなければならない。』という“大枠”の認識自体は、
これまた時代的存在拘束性(日本社会の現時点での経済発展段階)を鑑みるならば、“当然の理”として是認できる。
その上で実際的な問題性を見出すとすれば、大枠の観念を適用する段階/範囲/期間/強度/関係当事者の振る舞い方等といった“中枠”的範疇に絞り込むことが合理的なのは、上記の琵琶湖のケースと同じ論理構造だ。すなわち

『高次存在拘束性に関わる社会問題等は、時代的存在拘束性に関わっているところの容易には変え難い大枠的範疇ではなく、
(関係者の行動基準等が主体的か依存(紋切り型/頑迷)的かなどといった)中枠的範疇に関して問題意識を持つことが、往々にして合理的である。』

そしてここでもう一つの優秀者的属性である「個性」について考える。

この世で生起する事象というものは、無数と言って良いほどの多種多様な側面を持つ因果関係により運動する。その上で通常、一人の人間は一つの主体的認知体系を持つ、すなわち或る特定の側面からのみ事象を捉える傾向としての「個性」を持つことにより、
問題の特定部分において、その深部まで掘り下げた精緻な論考を為すことが、現実的に可能になる。
ちなみに個性という優秀者的属性は「個人」レベルの「選択と集中」性なのであり、選択と集中自体は、援用時に適宜・経済性を持つ限りにおいて合理的である。
例えばこの場合は、多種多様な優秀者が存在する「社会」レベルにおいては逆に、「多元均衡的世界」(過去レスリンク69.-70.)をもたらすための礎に成るという具合である。

一方で論考の場において、深みに欠けた中途半端なそれを為すことは、例えばネット上で“カエル砂鉄罪(※注)”などと揶揄されているようにほとんど害悪ですらある。
(※注 もっとも「砂鉄」氏に関しては
(つづく)
105:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:24:49 ID:???
17 of 32

オレ的には、その天与の素晴らしい帰納的思考能力自体は高く評価していて、ゆえに今後の抜本的研鑽を期待しているところだ。)

では結論を述べる。優秀者的に完成された論考とは、単なる個別の帰納的論考の蓄積ではない。そうではなく、これらをもってして合理主義的因果・方法論(※注)の形成にまで至るものである。以下に詳説する。
(※注 合理主義の主属性は当論的には、経験・実証主義性/適宜・経済性である。前者は真理・真実性に、後者は主に人間生活的便益・効率性に係る。合理主義的因果・方法論は、これらの属性を同時に備えた「包括的合理性」を持つ。)

包括的合理性は、その場その場の“思いつき”、あるいは個別や特殊の論考のランダムな寄せ集めなどからは決して得られず、論考の成果物を逐一「データベース化」、
すなわち蓄積/分類/整理/統合等の演繹的編集・加工処理を為し、その上で「大枠の論理→中枠の論理→小枠の論理」というカタチでの「事象の因果の階層性を伴う包括的認識」に至るという「論理の体系化」が実現されるのでなければ、得られない。
一方で論考者というものは、往々にして或る一つの気づき/発見に到達すると(その喜び/嬉しさから)、それだけで有頂天になってそのまま固定観念化してしまいがちだが、この“(twitter風の)「小論理」は単独では、“大きな全体”の中では合理性を失うのである。
この「論理の体系性なくして(最終・包括的)合理性なし」の真理を悟り、かつ実践できれば、当該者は晴れて「優秀者」(「合」状態に在る者)となる。

ちなみに主体性/個性を持つ者が、包括的合理性を備えた合理主義的因果・方法論を構築することは、言葉で言うほど簡単なことではない。
すなわちここまで当チャプターが論じてきたところの、主として自意識の「反」状態を保つための思考統御・監督系諸機能、並びにそのような機序に対する十分な認知的理解を伴わずしては、ここ(「合」)に至れるものではない。
そもそも人間脳のデフォールトである感情系習慣的自動思考様式とは、特定観念のシンプルな思い込みをもたらすためのものであり、よってこのようなマルチプルな体系・複合的認知には、全くと言って良いほど適していないからだ。

ところで優秀者に成ったとしても尚、どうしても避け難いところの或る陥穽問題が発生するので、最後にこれについても論ずる。
(つづく)
106:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:25:28 ID:???
18 of 32

前回、認知が合理主義的であるかのように感じるという倒錯が、凡庸者においては生み出されていると述べ、その上で原因としての幾つかの感情・気分的要素とか短絡性からの影響は、演繹的思考者のみならず帰納的思考者にも見いだせるものであることを述べた。
と言うのも実は(学術知/処世知などの)人のあらゆる認知の過程においては、如何なる優秀者であろうとも、生まれて初めて触れる学説等を理解しようとする際には、

『好い加減な感覚で不作為抽出した箇所を足場にして、ボンヤリとした全体理解を目指すとか、あるいは重要だと見当付けした箇所をいくつか選考するなどといった、当該観念等の重要度を曖昧に評価する蓋然知レベルから、徐々に厳密知レベルへと移行する。』

すなわち何人も、事物が包含するところの論理性の体系を、自らの主体的認知体系においても再現できるに足るだけの認知的素材を己の頭の中に蓄積し終えるまでは、事物というものを曖昧に認識するしかなく(ドクサ的)、
十分な量の認知的素材をもってする体系化を経ることで、厳密知(エピステーメー的)と呼べる段階に至れる。

ということは、蓋然・雑然性が強いドクサ段階ほど感情・気分的要素とか短絡性からの影響が大きいから、
凡庸者などはもう何もかも知ったかのように思い上がる、あるいはそれ以上の認知の深みに進むことの必要性を認識し得ずに学習すること自体を終結しやすいのであり、いわゆる煮ても焼いても食えない「尊大な善人」(第九回 参照)になってしまう。
このように認知の精緻化の進展に伴い、人は「もうこれで知るべき事は全て知った」ような気になる時というものが、何処かで来る。

そしてこうした勘違い状態の到来を回避すること自体は、残念ながらミクロ的には思考統御・監督系諸機能が統御できても、マクロ(長期間)的には人間能力を超える。
てゆーかこの手の「思い上がり/見当違い」は、“心の力学”的観点から分析するならばむしろ“己の努力に対する当然の報酬”として、
あるいは無闇な執着/煩雑さ等に陥ることを避けるなどして精神の安定/健康を保つように機能するので、無頓着にこれを否定するならば、かえって神経衰弱/精神障害などに成りかねない。だから優秀者をも含めて全ての者は、
(つづく)
107:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/03/25(日)13:26:06 ID:???
19 of 32

必ずこれらの、言わば“人間味”に溢れた愚かしい失敗を何度も経験し、その後に思考統御・監督系諸機能をもってするところの自他のメタ認知を経て、己を戒めたり、より一層の老練な慎重さを獲得していくしかない。

さて当チャプターで論ずることはここまでだ。まとめると、プロトホミニド(人類祖先)においては、先に述べた如くに包括的知能向上が生起したために、高度な擬態や騙し合い、
更には相手を都合よく操作するための心理戦等に勝ち抜くための能力開発競争が始まり、この赤の女王的進化傾向は現生人類に至るまで一貫している。
そしてこうなると人は、凡庸者(動物)的在り方、すなわち各個体の無能さを(例えばイワシやフラミンゴの群れのように)大集団化することによるスケール・メリットをもってしてのみ相殺しようとするが如きレベルにいつまでも留まる限り(第九回 参照)、
一方において人(ホモサピエンス)という種が、その赤の女王的進化傾向において洗練し続けてきた帰納的思考能力により特殊的に営んでいく社会生活ならではの、
高次存在拘束性的な問題の漸次的顕現に際しては、いずれはどうにも処理し切れない矛盾に立ち至るしかないのである。
すなわち人はその帰納的思考能力により得たモノ(自己保存に有利なように自ら設計した特殊環境等)のせいで、ますます(自分の財産を奪うために後ろから追ってくる二番手の者を振り切るための)
帰納的思考能力を高めていき続けるように(すなわち優秀者化するように)行為するしかないという功利主義的自己保存宿命、言い換えるならば「エントロピー減少宿命(※注)」を内在させるところの『(前述の)「破壊と創造定理」的な弁証法的運動によって
必要・必然的に進歩/発展し続ける』という、言わば進歩の自然法の第一定理的大摂理に、自意識(日常生活)的次元においても、ついに適合するための軌道に乗った最初の生物なのである。
(※注 本来、熱力学上の概念であった「エントロピー」概念は、まず生物学において援用され、その後はニクラス・ルーマンらによって社会学に、現在では経済学/政治学/経営学など社会科学的事象全般の論理的分析に援用されている。
何故ならエントロピー概念とは、「(物質界において)変異/変化する」事象の本質的一面を見事に射抜いているからである。)
(「論考と人格」 おわり)
(つづく)
108:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:12:24 ID:???
20 of 32

「人格系メタ認知的論理思考様式」
 
このチャプターでは、論考の枢要な構成要素のもう片方であるところの「知力(教養/論理構築能力など。)」が持つべき合理主義的属性について論ずる。
但しここではその一つである「経験・実証主義」(前チャプター 参照)性についてのみ論じる。(もう一つの適宜・経済性については論の展開上、当論の後半部において説明する予定。)
その上で西洋学術史に沿いつつ、これ(経験・実証主義性の説明)を為していく。

集団化とホミニゼーションが進行すると自然界の摂理に目を向けるか、人間界の秩序/倫理/道徳等に目を向けるかに拘らず、現実に生活する必要のためには、事物/事象を適切に認識/操作/管理するための
「経験・実証主義(※注)」的論考態度がまずは、全ての人類集団において直ちに生まれざるを得ない。
(※注 五感を通じて、あるいは第六感的な直観にも拠るにしろ、ともかく「経験的認識」を中心に置いた論考態度であり、この立場においては思考・判断結果の「正しさ」の証明は、
実際の問題解決/予測的中/目的完遂等によって実証される。)

更に「文明」段階に進展すると、経験に由来する知だけでは飽き足らず、現代科学においてようやく人の手が届くようになった「原子・量子物理学」、あるいは「脳科学」等がカバーするような領域、すなわち「物質とは何か/運動や変化とは何か/知る、理解する、
感じるとは何か」などどいった森羅万象に係わる普遍知に関心を持つ、更に亢じて「存在」することの本質的理解に到達しようとするが如きの、言わば論考自体をゲームであるかのように楽しむ“知的貴族/知的文化人”が、西洋文明圏において登場してきた。
すなわち地中海交易で富裕になったギリシアの都市貴族層の「哲学者(フィロソファー ・・愛知者)(※注)」がそれである。
(※注 南イタリアのギリシア植民市エレアの哲学者パルメニデスが、その属性を決定づけた者としての“西洋学術の始祖”と呼ぶに相応しい。)

とどのつまりはエンゲルス「空想から科学へ」(1883)が言うように、「個別を知らなければ全体像が分るわけがないのだが、(中略)文明のこの段階(古代ギリシア文明)にあっては、
(つづく)
109:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:13:05 ID:???
21 of 32

何よりもその材料を苦心して集めなければならないという至極当然の事情から、経験・実証主義的な研究には付属的な地位しか与えられなかった。」
つまり人間の本性たる「知ろうとする欲求」と、その時点で入手可能な考察素材とを鑑みるならば、(古代西洋文明において)純粋思惟に特化した上で事物の本性を究明しようとする認知態度が固まったこと自体は、とりたてて
不思議なことでもなく(※注)、こうしてここに演繹至上主義的な学を、西洋文明が正当化することとなった。
(※注 例えばアリストテレス「形而上学」(B.C.4c中期)E第一章から参照できるような、「諸学は、それぞれ或る特定の存在や特定の類を抽き出して、諸存在の研究に専念しているが、しかし“存在”を端的に、
すなわち存在を唯、存在として(オレ注 ; あらゆる物体の本質として在る原理的属性、一例を挙げるならば固体を固体に、液体を液体に在らしめるているが如き機序とかを) 研究するのでなく、
その研究対象物の如何なる本質的属性に所以するかを知らないままに、皮相的様態のみを取り沙汰して素朴に自明であると思い込んで粗漏に帰納すること」は認められない的な情念の発生は自然。)

しかして彼らの学術的態度はすぐに、あたかも“経験実証”的であることを見下すことが目的でもあるかのように、
頭の中だけの自己満足的(実際には稚拙さと粗雑さだらけの)演繹形式に勿体ぶった威厳をまとわせて、それらをこれ見よがしに振り回すが如き次元へとエスカレートし始めた。
こうして西洋において真理・真実性を担保するための確たる明証性を明らかに欠いている知、「形而上知」が隆盛することとなるのであり、古代の指導者・特権者階層は、経験・実証主義知を奴隷職人層に担わさせた上で、著しくこれを軽視/蔑視する傾向を持った。
例えば古代ローマにおいては、医師/会計士/教師/暗誦師(※注1)などの職種は概ね「学問奴隷(※注2)」が担い、一方で例えば神話(叙事詩)の構造分析のような論考能力を要する知は、指導者・特権者階層に相応しい主知主義知として、愛知(哲学)者たちにより担われたという按配である。
(※注1 戸坂潤「科学論」(1935)によると、或る奴隷はホメロスを、また別の奴隷はヴェルギリウスを暗記するように主人から命じられており、
(つづく)
110:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:13:52 ID:???
22 of 32

主人は例えば客人との会話に興を添えるために時々、奴隷たちに気の利いた引用を命じるのである。)
(※注2 このような学問奴隷は、千数百年の時を隔てて現代産業社会において大々的に復活したと言える。すなわち「尊大な善人」(第九回 参照)がそれである。)

ちなみに一般的には抽象・無形的であること(物質的実体を持たない観念論であること)をもって「形而上的」と言われるが、当論においては観念的であっても明証的な因果・合理性を伴う認識、
例えば躓いて転べば「痛い!」と思うとか、マルチン・ルターのように雷に打たれた時にそのショックで己の召命/運命を悟ったと思い込むが如きの、「自明な因果的連関性」を持つものを除いたところの、
例えば大自然・宇宙の摂理に対する素朴な畏怖(「神は存在し、かつ完全であり、無限である」からとか。)/強弁/詭弁等に拠る観念論を特に「形而上的」だと呼ぶことにする。

例えば本来、或る特定の演繹的観念操作とは、或る特定の視点からの因果的連関を断言できるのみであるにも拘らず、エンゲルスが前掲書において更に言うように形而上知においては、
「絶対に対立する矛盾としてモノを考える/しかり、しかり、いな、いなと言えこれに過ぐるは悪より出ずるなり/肯定と否定とは絶対的に相排斥する、原因と結果もまた互いに動きの取れぬ対立である」・・ 
要するに(前チャプターで述べたところの)「事象の因果の階層性」認識に拠る「論理の体系化」が不全である傾向を持つのである。
だから事物/事象が包含する一側面・因子のみを見てするところの部分的結論でしかないものを、このエンゲルスの指摘のように稚拙にも(もしくは故意的に)即、事象の全体に適用してしまうというわけだ。
もちろん前チャプターで述べたように現実事象とは、ありとあらゆる諸因子が同時・輻輳的/多面的にからみ合ったことの結果として顕現するのであるからして、こんな形而上的結論とは一致するわけがない。

ともかく愛知者(フィロソファー)の界隈における知とはこんな風なものだから、彼らの内の誰かが「真理・真実」だとするものを実際に集合知的に担保させた力とは、権威/権力/尤もらしさ/修辞能力などといった感情系習慣的自動思考様式的産物だったのである。
(つづく)
111:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:14:32 ID:???
23 of 32

その上でアリストテレスが宣言したように、「如何なる技術も如何なる研究も(中略)ことごとく何らかの“善きモノ”を追求」(「ニコマコス倫理学」第一巻第一章の冒頭)しているという矜持を持ったならば、こうした“曖昧模糊とした胡散臭い”学術環境とは、
凡そ善きモノとは程遠い“悪しきモノ”しか生み得ないことは、当時の彼ら“愛知者”自身においてさえも、本音レベルでは解りきったことであった。

しかして多数派である凡庸者においては、論考の成果物の質を担保するものの一翼であるところの人格的諸能力が未熟であるから、現実の歴史においては、18世紀も末になりイギリス経験論者(ロックなど)の登場により背中を押されるまでは、
現実にこうした存在拘束性の陥穽から本気で脱出しようとする気運は、形而上学界には現れなかった(※注)。
(※注 ついにカントが、人は全く経験に因らずに頭の中だけで、完全な自明性を伴う諸認識(「ア・プリオリ(先験的)な認識」なるもの)を得ていることを論証しようとした。
すなわち、「先験知を正しく理解し用いるという“修正”を成すなら、形而上学は自然科学同様に実証主義的科学たり得、もって尚も存続する価値が在る。」と必死に力説したのである(「純粋理性批判」 1781)。
しかしてカント批判哲学自体が、「神/霊魂」等にまつわる一切の言葉の使用を避けただけの相変わらずの純粋演繹論であり、これを理解しようと努めたところで当然の如くに何の(包括的)自明性も得られない。
が、とにもかくにもこの風変わりな“修正主義形而上知”に埋め込まれた(カント本人的にはさして重要ではない)弁証法が、実質的にはマルクスにまで至るところの経験・実証主義知の画期的な新系譜をスタートさせることとなった。)

というわけでここで、この後1,000年以上にも及んで、その根幹的ドグマとしてのアリストテレス的「観照」性(※注)に取りつかれていくところの形而上知の本源的欺瞞性を、その本家本元のプラトン/アリストテレスの言説から具体的に看取してみよう。
(※注 言わば偽メタ認知。論考行為において人格的諸能力が担うような思考統御・監督系諸機能を知らず、体裁のみの演繹的論理性をもってしてメタ認知(客観視)していると思い込む。)
(つづく)
112:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:15:13 ID:???
24 of 32

まずは形而上知の創生期の第一人者であるプラトン(※注)の「国家」(B.C.370頃、プラトンが自らの恩師であるソクラテスの口を借りて論説するという形式を採る。)だが、彼は結論部にあたる最終巻(第十巻)で、「(ホメロスのような)詩人や画家といった類の人種は、
事物の真理/本質は何も分からないくせに、さも何もかもを知っているかのような素振りをして真実/真理ではない嘘の作り話や似姿を作り出す。」として、要するに経験・実証主義的でないことを避難するのだが、その舌の根も乾かないうちに、
今度は自らが、(ホメロスの「アルキノスの物語」(「オデッセイア」)をコケにした返す刀で)「アルメニオスの息子エルの物語」なるものを持ち出してきて、死後に人の魂が神々によって如何に裁かれるか、などという話を延々と講釈して「国家」という大作を総括している。
もちろんプラトンは、ここで自らが完全な自家撞着を為していることなどは、全く毛ほども気づいていない(すなわち未だ自己批判的観念に始原する「メタ認知」を知らない)のであり、全く天晴れなほど堂々とこれを論じきっている。
(※注 プラトンが開設した学校「アカデメイア」の名は、「学界/大学」を意味する普通名詞になった。)

そして次にアカデメイアの優等生であり、中世期以後の西洋学術全般の根本的在り方に決定的な影響を与え、人類の学術史上、最も広範な影響力を人知に与えたという意味において“超大物”であるアリストテレスの、
彼が古代人であることを割り引いて見たとしても(※注)尚、凡庸者的存在拘束性の陥穽にはまっているとしか断じざるを得ない事例を以下に見てみる。
(※注 未だ物質の本源が「原子/分子」であること、並びに近代物理学を知らないこと。)

中世においては「実在論/唯名論」が対立する「普遍論争」として代表的な哲学・キリスト教神学論争のネタとなるところの、
彼の師匠プラトンが「イディア論」として最初に提示した「実在と類の二元論的因果論」の継承物、すなわち彼の「個物(種)と普遍(類)の概念」は、前掲の「形而上学」によると、事物の根本原因としての“何か”を「原理(アルケー)」と呼び(A 第三章)、
例えば個物(例えば動物)の「実体(※注)」(例えば霊魂)は、それ固有の或る原理により形成されるなどと考える。
(つづく)
113:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:15:54 ID:???
25 of 32

その上で概ね『(実体からの構成物としての)質料(基体)と述語(形相/属性)を伴うものとしての種(個物の対応物)に対して原理が一対一で対応し、もって「個物が存する」ものなのか?、
あるいは複数の種に共通な“述語”を伴うものとしての類(普遍)に原理が対応していて、もって「実体は存せず、それゆえに個物もまた存しない」ものなのか?』と問題設定する(B 第一章~第四章)。
(※注 プラトン学派においては「実体」とは、例えば視覚/聴覚等の感覚により認識できるものとしての自然物(実在・・フィシス)のみならず、感覚によっては捉えることができない概念物、例えば「数/点/線」なども包含する概念。)

しかしてまずは何はさて置いて、このような“類”だの“原理”だのという概念物は、如何なる経緯をもってして演繹的論理計算の被操作因子たりえるだけの“資格”を得たのか?
言い換えれば、それらが如何にしてこの世に“確実に在る/かくかくしかじかの属性を持つ”ことが、かつて証明されたと言うのか?(単に“言い出しっぺ”のパルメニデスを踏襲するだけで良いのか?)という疑念が発生する。
すなわちその証明経過を確実に提示し、もって議論参加者がその自明性を共通認識としない限りは、これらの“類”だの“原理”だのという存在性が曖昧な被操作因子を用いた存在論(演繹)を、先へ先へとは進ませ得ないのではないか?
例えば「○○だから●●、そして●●だから△△、故に対象物はかくかくしかじか」的な演繹的論理展開は、全て無効になってしまうのではないのか?
すなわち「三段論法」にしろ何にしろ、演繹的論法の合理性を担保するものは、『一つの論考過程が完全性(一片の曇りもない自明性)の獲得でカタが付いて、
もって次の論考過程に“駒を進めなければならない。』という掟であるはずなのに、この根幹的ドグマが、全くもって蔑ろにされている。

というわけでこのようなユルい知が、主として有閑な富裕層のステイタスとして延々と堅持されていく(※注1)一方で、実は真のエピステーメー(厳密知)と言うべき経験・実証主義知もまた後期ギリシア文明(ヘレニズム期)に至り、
(主として数学/天文学/地理学において)学術知として認容されるようになっていく(※注2)。
(つづく)
114:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:16:36 ID:???
26 of 32

(※注1 例えば中世初期のユニークな弁証法論者であるエリウゲナの学説は次のようである。「万物とは、"無"であるところの神から"知恵"がその"原因"として永遠に発せられ、
そこから時空的に展開されて"世界"となる。次に(弁証法的運動により)世界は元の永遠たる原因に帰し、そこからまた無(神)に戻る。」)
(※注2 既にピタゴラス(B.C.6c)が、経験・実証主義的知の"基礎的道具"であるところの「数学(マテーマタ)」を学術として樹立していたのだが、ヘレニズム期のアルキメデス(アルキメデスの原理など)/ユークリッド(幾何学の公理系/定理の確立)/
エラトステネス(観測データと幾何学的計算から地球の円周を極めて正確に算出)らの大偉業によって、ついに真の厳密知たる科学(エピステーメー)が誕生した。)

かくして確立した西洋学術における知の二大体系は、有識者の意識の中で二律背反的な矛盾/葛藤を生み出すことなく両立し、かつ双方が必要に応じて調和的に融合されることとなる(※注)。
ちなみにこの傾向を根本的に懐疑したりオカシいと思う者は、デカルト以前には、唯の一人も出なかった。
すなわち五感や生活上の経験等によって自明に認識できることはそのように(例えば「日は東から昇り西に入る/人は生まれ死ぬ/人を蔑めば恨まれる/物量の計算や計測など。)、
そうでないこと(例えば「人の魂は不滅である/(ギリシア的な)神が人の姿をとって現れて、人と共に闘う」など。)は存在拘束性にまかせて好き勝手にデッち上げるが如き“知のごった煮”弁証法的運動が、ここに始まったのであった。
(※注 このような属性は、例えばパスカル「パンセ」などに典型的に表れている。)

そして後者(形而上知)においては実証性を何ら顧慮せず、真理・真実性を担保するための明証性を欠いているのにも拘らず権威だけは持つから、これ以降、
ヘゲモニー層にとっての絶好の武器、“神のマガイモノ”的なプロパガンダ媒体として最適化されていく。
すなわちキリスト教においては、1世紀以降、カトリック教会が形成されていく過程においてユダヤ教パリサイ派譲りの合理的な主知主義的傾向(※注)がギリシア哲学とキリスト教神学を渾然一体として融合させるも、
(つづく)
115:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:17:11 ID:???
27 of 32

ついにアウグスティヌス(4c-5c)に至り、その祖先であるユダヤ教、および原始キリスト教とは似ても似つかないほどの形式・権威主義的な因果論体系に貶められ、もって中世キリスト教世界の指導者・特権者階層ヘゲモニーのためのイデオロギー的基礎となっていく。
(※注 ヴェーバーは「パリサイびと」(「古代ユダヤ教Ⅱ」みすず書房刊 付録)において、「新約聖書の中で「パリサイ人(びと)」と呼ばれるユダヤ教内グループにおいては、宗教的エクスタシー/魔術/呪術の類は本質的に嫌悪され、
更に「ラビ(平民の聖書学者)」たちがこのグループと密接に関わり、聖書/律法の一字一句をバカの一つ覚えのように厳守するところの演繹的思考に対抗したり、占術的決定論を否定するなどの合理主義知的活動を担う。
その上でパウロなどの初期キリスト者(使徒)には、パリサイ人の実践的宣教・組織論が継承された。」旨を述べている。)

そしてこれらプロパガンディック・イデオロギーの洗練・精緻化段階においては、例えば全称命題を好き放題に氾濫させまくって、もって人々を丸ごと抱え込んで教導していくレトリックを始めとするところの、数々の王道の「身分制支配レトリック」が樹立されていく。
そしてこれはカトリシズムを否定した後代のプロスタンティズム期においてさえも(産業革命が始まるまでは)、例えば「パンソフィア」の提唱者として知られたJ・A・コメニウスの
「大教授学」(1657)などに見受けられる如くに、洪水の如き無数の全称命題を、 (簡単には消え去らない遺物的レトリック癖として)長らく巷に溢れ返させ続けた(※注)。
(※注 これをザッと見てみると、「大小問わずあらゆる事物について知らないことが、いささかも無いように/人間の精神は無限・無辺のもの/何処のどんな被造物であろうが理性を備えた魂の前では隠れることはできない/自然を案内者とするなら、
人間はあらゆるものに到達できる/人間は大宇宙に在るもの全てを内に持つ小宇宙/人間には(全てが元々宿っているから)何一つ外から持ち込む必要がない/正しい教授法をわきまえれば、
あらゆる事物を(学生の)心に描ける」等々、全称命題が無数に出てくるのであり、現代のオレたちから見れば、その胡散臭さが半端ない。)
(つづく)
116:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:17:41 ID:???
28 of 32

しかし自然学領域に限られてはいるが、12世紀頃から主としてイスラム世界から再輸入されたところの、(この領域においてだけは経験・実証主義的な)アリストテレス学術の強烈な影響から

『何人も存在拘束性の陥穽から一意的に逃れる術を持たないこと、更には事物を純粋演繹(形而上)的に論考したとしても、それはいづれは「人間の手前勝手な空想にすぎなくなる」という陥穽にはまっていくことを如何様にしたところで回避できない。』

ことを悟ってくる者たちが現れてきた。すなわちロバート・グロステスト、及びその弟子のロジャー・ベーコンは、「最終的には経験的事実認識を判断基準とするところの帰納的思考様式を採用する以外には、論考の内容が真理/真実に近づけるための合理的選択の余地がない。」ことを悟る。
こうしてヘレニズムの天才たち、もしくは社会の下層で奴隷などとしてモノ作り等を強いられてきた職人層にとっては、もとより汎人類的な自然な認知態度として当たり前であるところの、経験・実証主義的な帰納的思考様式を、ポツポツと学界主流においても認めるようになる。

一方、アラブ世界からアヴェロエス的「二重真理説」などとともに西洋に移入されたアリストテレス哲学の“嗜癖的観照性(ロゴス)”の衝撃は、当時としては十分に洗練された合理的学術態度を持つところの「スコラ哲学」を生んだ。

そしてこの学の新たな二大潮流は、折から勃興した「大学」の定着とも相まって、この後も潰(つい)えることなく、一般社会をもその感動と興奮の渦に巻き込んだイタリア・ルネサンス(※注1)と
その後の北イタリアの諸大学において顕著に現れたところの「近代科学の萌芽」的進歩・発展にまで通じ、ついに16世紀からの大弁証法的運動(第六回 参照)が始まると、全社会階層の人々をして支配的観念の「破壊と創造」過程に入らせる。
(※注1 12世紀からの中世自由都市の隆盛、交易で栄えた富裕商人層の活躍は、この時期に人間生活全般を覆い尽くした巨大な技術革新の連鎖をもたらした(※注2)。
こうした中でポンポナッツィはカトリック的"神"解釈を実質的に否定する「万物的因果論」者として、原始キリスト教団の使徒たちが本来、イメージしていたであろうところの「神 = 大宇宙の因果律」的解釈を大胆に復活させた。)
(つづく)
117:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:22:37 ID:???
29 of 32

(※注2 例えば熔鉱炉/石炭で作られる鋳鉄の技術、為替手形/複式簿記の普及、織物や染色技術の向上、火薬を用いる兵器や築城術の進歩、化学/工学の発展などなどであり、これらは嫌が上でも人知における経験・実証主義知の価値を高め、
学界においては1560年のナポリで、世界初の自然科学者のための会員制組織である「自然の秘密のアカデミア」が創設されたりした。)

こうして多くの人々がカトリック的世界観に公然と反旗を翻し、勇敢にもこれを破棄するようになり、以降の自然科学/社会科学の方向性をそれぞれ完全に決定づけることになる二人の"天才的合理主義者"が時代に登壇するための“露払い”を為した。
すなわち自然科学領域においては、デカルトが近代的論理学・科学哲学の基礎の一部分を確立し(※注1)、社会科学領域ではホッブズが、「社会科学における自然科学的判然性」観念を提示し、
(マキャベリ「君主論」などの特殊的存在拘束性下で創造されたヘゲモニー論を除けば)一般論としての「人と社会の関係論」において、初めて"神"という概念を完全排除した経験・実証主義的姿勢を打ち出すという、
人間文明における大パラダイム転換への第一歩を標した(※注2)。
(※注1 "今ここで考えている自分"が存在すること以外には何一つ確かなものはないとする有名な主観存在論的命題から出発するも、残念ながら彼の潔癖症・臆病的人格の陥穽により、演繹的思考の呪縛を超えることまではできなかった。
すなわち”神”崇拝物としての形而上知を否定できるだけの度胸/帰納的論理構築力等を持てず、最終的には出発点であった認知的明証性観念を拡大できなかったのが、デカルトである。
しかしいずれにしても近代科学の論理・科学哲学の(数学という学の明証性などを含む)ドグマを提示し得たという彼の功績は、間違いなく偉大である。)
(※注2 ホッブズの理論は主著の「リヴァイアサン」(1651)に集約されている。これは基本的には経験論的合理主義から導かれた道徳法(「自然法」)に基づく社会体制/統治術についての、正に"人類史を画する論考"であり、彼の前においては「人間」も、
飽くなき欲求充足に駆り立てられるだけの単なる「自動機械」でしかない(※注3)。これこそはヘンリー八世以降、ローマ教会と完全に断交した
(つづく)
118:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:26:39 ID:???
30 of 32

イギリスにおいてのみ成し得たであろうところの、人類の思想史上の言わば”第三の天地創造(※注4)”だと言って良いほどのものである。
すなわちJ.D.バナールが言う、「人間が精霊による自然現象の説明にかじりついている限り、科学の発達は強く妨げられていた。/精霊説は他のどんな説と比べても劣らないように見えたばかりか、信仰と蓋然性(確率)を思慮深く組み合わせることによって、
物事を非常に上手く説明できるものだと思われることさえできた。/精霊からその大権を奪い取ろうとする試みは精霊を怒らせるに違いないから、有害であるとさえ思われていた。」(「歴史における科学」 1954 )的な
人々の“恐怖心の壁”という経年の認知的限界を(デカルトの“屁っピリ腰” 的ケースとは対称的に)ついに突破したということなのである。)
(※注3 当時、デカルトが提示した「動物機械論」でさえ(ヨーロッパ)大陸においては、驚愕と激しい論争を巻き起こしたことを思えば、当時においてこれが如何ほどまでに"ブッ飛んだ"認識であったかが察せられようというものである。)
(※注4 第一は旧約的「天地創造」に見られるが如きの宗教の教義に因る社会秩序の確立。第二は人類が交換経済体制を樹立し得るだけの余剰生産能力を獲得したことを受けての「私有財産制」の勃興。
そして第三が、この経験・実証主義に基づいた人間/社会に係る合理主義的認知態度の確立。)

そしてその後にスピノザの汎神論(※注1)が出たりで17世紀後半の言わば、近代科学大爆発の、“嵐のような50年間”に至るのであり、産業革命の開始を文字通り“準備”し終えた頃までには、
カトリック以外の指導者・特権者階層は、概ねこれ(経験・実証主義知の大爆発)に胸を躍らせ小踊りしていた(※注2)。
(※注1 ルネサンス期のポンポナッツィに続く「神 = 大宇宙的因果律」論の提唱者。反デカルト主義者でもあり、彼の論は「この宇宙の全事物・事象は、
自らの内にその存在原因(「自己原因」)を持つ。」とする「因果律至上主義」論(※注3)であり、唯神論(超越的な"神"が万物を創造し司る。)を否定した。)
(※注2 上記のように16世紀にローマ教会と絶縁し、独自の国教会体制に移行していたことで、宗教・政治的弾圧の懸念が失くなっていたイギリスにおいて17世紀に近代科学ブームを受けて、ジョン・ロック/デヴィッド・ヒュームらが
(つづく)
119:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:29:27 ID:???
31 of 32

カトリック的プロパガンダ(神への愛/キリストへの信仰のみが救いをもたらす的な。)の完全否定に等しいところの、大っぴらな経験・実証主義的社会理論を提唱して宗教・哲学界に一大衝撃を与えた。
これにより(前述のように)経験・実証主義的立場に大幅に歩み寄った形而上知の新潮流としての、カントからマルクスにまで連なるドイツ観念論哲学が勃興する。
またゲーテの「ファウスト」(1808-1833)は、或る老学者が事物を演繹・形而上的に研究しても何も得られなかったことに煩悶し、仲介者(悪魔)が導く様々な実体験を通じて、経験・実証主義の合理性をついに悟るという物語である。
この物語の終幕(第五幕)においてファウストは「わしはひたすら世の中を駆け抜けてきた。あらゆる享楽の髪を引っつかみ、満足させてくれぬものは手放し、すり抜けて行くものは行くに任せた。(中略)雲の上にも自分と同じような者がいると空想する者は、愚かだ。
しっかりと立って、ここで辺りを見回せ!有能な者に対し、この世界は黙っていない。何で永遠の中に彷徨う必要があろう?自分の認識するものは捉えることができる。そんな風に地上の日を送っていくが良い。」と、“憂い”との対話の中でついに宣言するのである。)
(※注3 個々の事物/事象の中に全原因(因果)が包含されるとされる「唯名論」的視点は、当然のごとく観察/実験等に基づく帰納的思考様式/経験・実証主義に通じる。)

というわけで歴史的には、パルメニデス(西洋学術の始祖)の経験的事実認識(「正」)を蔑視した純粋論理性(ロゴス)の提唱が、西洋人をして形而上知の暗闇を突き進むように仕向けさせるも(「反」)、元々人類を人類たらしめ、かつ(チャプター冒頭部で述べたように)
人類が存続するためには一時もこれ無しでは済ますことができない経験・実証主義知に、また後から引き返してきた(「合」)ことが重要である。
つまり西洋人は誤った方向だとはいえ、論理構築能力を練磨した上で、最終的には正しい方向へ引き返し得たのである。これこそは、進歩の自然法的な大きな弁証法的運動である。(ちなみに一方の我々の東洋においては、
残念ながら最終的に経験・実証主義知こそが最重要だと認識するような、このようなヘーゲル的弁証法的運動は生起しなかった。その理由は、後の回で説明する。)
ともかくここにその正当性を認められた
(つづく)

120:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/04/03(火)16:30:12 ID:???
32 of 32

経験・実証主義知を生むものとしての帰納的思考様式こそは、(前チャプターで述べたように)ラマピテクスが生活の細部に至るまでの経験的事実認識を無駄にせず、これを徹底的に利用するために開発し、
更にホミニゼーションにより格段に高められた人格的諸能力に基づく思考統御・監督系諸機能と知力により、主として優秀者たちにより継承されてきたところの「合理性を追求するための新規の判断システム」におけるメインの思考様式そのものに他ならない。
というわけでこれ(帰納的思考様式)を認知システム論的見地から言及する際には、今後は『人格系メタ認知的論理思考様式』と呼ぶことにする。

『存在拘束性の陥穽によって常に思考が非合理的に歪められてしまうという宿命から完全には逃れられない人類が、確かな何をかを知り得るとすれば、
それは人格の力の介添えにより「ありのままの事実(※注)」のメタ認知を為し、もって帰納的気づきに基づいて論考し、またありのままの事実に戻って確認するという立場を堅持し得た場合のみである。』(『観念運動の自然法 第六定理(帰納的思考様式定理)』)
(※注 「スキーマ」(認知心理学用語/過去レス123.参照)に基づいて一次認識を自動的に概念化するのではなく、フッサール的「現象学的還元」によって得られる「純粋意識」が、「イデア視(形相的還元)」されて「原本的に与える直観」としての「本質直観」となったものである。
平たく言えば、事物/事象の観察のみから得られる、予断が差し挟まれていない事実認識。)

というわけで他者(親/教師等)/社会(公教育/常識/慣習等)の力に依存することに慣れきってしまった“秀才”(トップレベル凡庸者)は眼前の事象に対して、「受動知(狭義の演繹知であり非経験・実証主義的)」による原理・原則的な真理/真実の発見はできるにしても、
己の人格/知性をフルに用いて主体的に論考する「能動知(自らが以前に創造した知を包含する広義の演繹知と破壊と創造的事象のミックスであり経験・実証主義的)」によってのみ発見可能な個別的真理・真実に到達できる可能性は絶無となる。
とどのつまりこの「経験・実証主義」的認知態度とは、現状の進化段階に在る人間脳が、現に己の身に生起する事象に対する認識/判断の有意性(価値)を担保するためには、”必須な安全弁”なのである。
(「人格系メタ認知的論理思考様式」 おわり)
(第十二回 おわり)
121:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:52:45 ID:???
1 of 20

「市民層  概論」 第十三回

「フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム – “厳しさ”という能力 - 」

さて前回までにおいて読者は、感情系習慣的自動思考様式/人格系メタ認知的論理思考様式という現生人類が保持する二大認知システムを理解できた。
そしてこのチャプターでは、人格系メタ認知的論理思考の成果物である新規の思考アルゴリズム(以下、「新アルゴリズム」と呼ぶ。)が形成され、それがバイパス・チャンクとして運用されるようになるまでの過程において、
思考統御・監督系諸機能のもう一つの源泉として作用しているところの始原人格であるストイシズム(感情・欲求抑制観念)とその派生的能力について説明する。

まずこの説明の前に留意しておくべき重要事項がある。それは人格系メタ認知的論理思考様式とは感情系習慣的自動思考様式に対置されるものではないということ。
これは一度、新アルゴリズムからバイパス・チャンクが完成されてしまえば後は、感情系習慣的自動思考様式、すなわち情動のみによりこれがドライヴされることに拠る。
すなわち人は人格系メタ認知的論理思考と感情系習慣的自動思考様式を共々に、積極的に利用するのである。では始めよう。

合理主義的論考としての人格系メタ認知的論理思考を成すには、論考者の自意識に予め「合理主義に対する確たる信頼意識」が宿っている必要がある。すなわちこの合理主義意識と前回述べたところの論考欲求との合力的作用によって合理主義的思考が開始される。
ところがこの際にデフォールトの感情系習慣的自動思考様式は、その名の通り、感情をもってしてあくまでも正規チャンクの援用を迫ってくる。具体的には様々な処罰的不快感情を発生させて論考を諦めさせようとしてくる(※注)。
しかもこの妨害を何とか振り切って無事に論考を終え、新アルゴリズムを(数日後でも覚えていられる程度に)長期記憶化できたとしても尚、直ちには正規チャンクの自動援用を止められるわけではない。
つまり依然として感情系習慣的自動思考様式が強烈な違和感、例えば「自分が自分でなくなってしまうような虚無感」などを発生させて、新アルゴリズムの利用を執拗に妨害してくるからだ。
(※注 これについてオレの実体験に基づいて言うならば、生来、慣れ親しんだ感情系習慣的自動思考様式の正規チャンクの活動に抗しようとすると、
(つづく)
122:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:54:17 ID:???
2 of 20 (つづき)

ある種の精神的ショックが顕現する。
その内容を具体的に挙げるならば、「つかみどころがない不安感/後悔/罪悪感/孤独感/イライラ/損をした気分/世界がひっくり返るような気分」、
またそれが特定人物/社会等に対する自分の態度などに関する場合であれば、「怒り/絶望感/癇癪めいた感情」などである。)

これらの妨害は、脳OS(感情系習慣的自動思考様式オペレーティング・システム・・第十一回 参照)の、言わば“自己存在”を賭けた自己防衛的処置だと言え、要するに“敵も命懸け”なのだ。
そしてこの脳OS(第十一回 参照)の強力な自己防衛活動を打破するための決定力として、(前回解説したように)人類がそのホミニゼーション過程において二つの始原人格と同時進行的に開発し続けてきたもう一つの始原人格が、ストイシズム(欲求抑制観念)なのである。

さて論考者が一連の人格系メタ認知的論理思考過程を完遂するためには、要所々々で発生してくるところの処罰的不快感情を、このストイシズムが派生させる諸能力により抑制しなければならないという認識が、まずは要る。
具体的には、「メタ認知系諸能力(三能力)を感情系習慣的自動思考様式の感情/欲求の影響から免れさせてくれる機能」の主機能を供給するストイシズム系諸能力をもってして、“克己心による戦い”を遂行しなければならないという覚悟である。

論考者がこの情動抑制の覚悟を持った上でストイシズム系諸能力が不快情動を適切に統御し続けられれば、脳内において適宜、バイパス・チャンクを造成するためのシナプス新設“就寝時集中工事(※注1)”が為され、
もって正規チャンクと新アルゴリズムを連絡させるための、言わば“一般道バイパス”が開通する(注2)。
(※注1 日中の新アルゴリズムの利用強度に応じてプログラムされていると思われるところの“施工計画”に拠る。)
(※注2 オレの個人的経験に基づいて言うと、例えばイメージ・チャンク(バイパス・チャンクの一種・・第十二回 参照)の新アルゴリズム生成からとりあえず何とか通行できる程度の
“未舗装”一般道バイパス開通までに要する日数は、既存のバイパス・チャンクに“部分的な改修工事”を施すために、ほぼ毎日のイメージ・トレーニングを30分から1時間程、継続した場合において、概ね1-2週間程度。
(つづく)
123:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:55:19 ID:???
3 of 20 (つづき)

そして(これは残念ながらキチンと測ったことはないから正確には言えないが)、無からの完全な新築工事の場合だと、多分、半年から一年くらいはかかる。)

こうしてようやく新アルゴリズムが形成する認識が(無理して呼び出さなくとも)向こうからバイパスを通って、感情系習慣的自動思考様式の快感情を伴いつつ自然にやってくるのであり、
この段階(脳OSがバイパス・チャンクを、“第二正規チャンク”として認識する段階) までくると、もうそれ以前のようには不快感情は発生しなくなる。
そして更に一般道バイパスの利用強度に応じて追加工事が為され、“ハイウェイ・バイパス”が落成すると、高度な職人的妙技さえも可能になるというわけだ。

ではここで再び前掲の「砂漠の花」を見てみよう。男遍歴にも嫌気がさしてきた平林たい子は、ある男に対して「ああ、(中略)も一人だけ男を持つことを天に許してもらおう。
この男が当たりであろうと、はずれであろうと(中略)この男と一生を共にすることにするから。」と、悲愴な決意をもって、また別の或る男と付き合いはじめる。
しかし一方において、「愛があれば現実の貧しさなどはものの数ではないという信仰」を持ったとしても「一歩その愛の中に踏み込むと、愛情の花をしぼませる一番恐ろしい毒気流は貧乏であることを誰でもすぐ発見する」ことも理性では理解している。
その上で相手の男の(見込みのない)器量の小ささを知り悲しみに襲われても尚、理性的判断に従って諦めるどころか、何とか「努力して(二人の関係を愛情をもってして)珠になるまで磨き上げてみせよう」と、平林は虚しい決意を新たにするのである。

さてこの事例からは、人は一度バイパス・チャンクを形成してしまえば、容易にメタ認知(例えば「愛だけではどうにもならない。」など。)できるにしても、実はそれだけでは全く足りず、
何気ない普段の生活において際限なく込上げ続ける衝動(例えば「是が非でも男が欲しい。」など。)を、持続的に統御する必要があることを看取できるのである。
つまり脳OSのデフォールト設定に逆らう際、とりわけ高次存在拘束性に関わる事案においてはOSからの抵抗が継続・間歇的に持続するのである。
(つづく)
124:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:55:58 ID:???
4 of 20 (つづき)

しかして普通は無闇に衝動抑制を続けていると、いずれイライラ・癇癪等が高じて生活不能になるまでに成ってしまう(※注1)。つまり人は闇雲な情動抑制に依るのみでは、感情系習慣的自動思考(正規チャンク)に対抗できない。
すなわちここにおいては、人間脳の進化生物学的器質属性に由来するところの、とてつもなく抗し難い認知・行動的存在拘束性が見い出せるのであり、つまりこれは動物脳数億年の進化過程で、脳OSが背に腹は代えられない事情により持たざるを得なかった
“設計思想(※注2)”に由来する強烈な存在拘束性、言い換えれば人をして「本能的一意的認知形式という殻の中に心地良さをもってして閉じ込もらせようとする不変の存在拘束性」なのである。
(※注1 最終的にはノイローゼ/強迫神経症/パニック障害/強度の依存症などの“廃人”化の道を辿るしかなくなる(第十一回 参照)。)
(※注2 安静時において既に基礎代謝の20%に達する脳のエネルギー消費量の更なる増大をできるだけ抑えこもうという、「(動物史においては概ね一貫している)食糧確保が容易ではないという環境的存在拘束性がもたらした省エネ思想。)

その上で

『人間にはその「克己心の限界」があるがゆえに、前回述べたところの主体的達成意欲・自己批判的観念系人格的能力がもたらすような客観的認識、
あるいは単にストイシズムの力によるのみでは、感情系習慣的自動思考様式が際限なく発生させ続ける感情/欲求を統御できない。』

そしてここまで理解できたところで、次に挙げるヨハネス・ケプラーの事例を見てもらいたい。

彼はブラーエの徒弟として火星の軌道を計算する仕事を与えられ、ついにそれをやり遂げたと思った時に、実測データと彼の物理学的理論値が若干違っていることに気がついた。
しかしその違いはわずかであり、もしコペルニクスであれば誤差として無視したであろう程度のものでしかなかったそうだ。しかしケプラーはあえて彼の進歩主義的な信条からそれをせず、従前の理論を破棄し、また始めから再構築することにしたのである。
(つづく)
125:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:56:30 ID:???
5 of 20 (つづき)

ところがこうして再構築された新理論は、従来信じられてきたような、「全ての惑星は、中心である太陽の周りを一定速度、
かつ真円軌道をもってして周回する。」が如くの幾何学的美意識に整合したドグマに反するものだった。

そしてケプラーは、このことで大いに悩み苦しんだ。彼は自分が“犯罪者”か“馬鹿者”のような気がした。何故なら新理論は、「創造主たる神が、果たしてこんな歪んだ醜い創造を、本当に成したのだろうか?」と、誰しもが思うようなものだからだ。
しかしこの新理論をもってしない限り、論理と実測データが整合しないのである。すなわち火星の周回運動とは、一定速度でもなければ、真円軌道でもない。速度は周期的に変化し、かつ軌道は楕円なのである。
もしケプラーがこのような新理論を勇気をもって公表していなければ、「天文学の問題とは力学の問題を探求することでしか解決され得ない。」ことが、当時の科学者たちに確信されることもなく、もってホイヘンスの公式もボレリの論理も生れず、
フックが提示した原案をニュートンが、その類まれな数学的能力によって厳密に論理化し、もって問題を最終解決することも起こらず、
近代物理学における基本的認知態度(帰納的思考様式)(※注)に追従したところの、その他の自然科学領域での諸々の大発見は、大幅に遅れたであろう。
(※注 例えばニュートンは次のことを自著において述べている。「現象(オレ注 ; 経験的事実認識)を説明するに十分な真の原因(オレ注 ; 経験・実証主義的原因)以外のどんな原因(オレ注 ; 例えば精霊説などのアニミズム的原因)も、
自然の中に求めてはいけない/(現象から導き出されたのでないものは全て“仮説”だから)私は仮説を創らない/実験哲学(オレ注 ; 自然科学)では、現象から帰納法によって導き出された命題は、それに対立するどんな命題を考え出すことができる場合でも、
その命題をより正確にするとか、あるいは例外にしてしまうような別の現象が現れるまでは、その命題が正確で極めて真に近いものだと見做さなければならない。この規則に従うべきで、帰納法による推論を仮説でぶち壊してはならない。」など。)
(つづく)
126:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:57:05 ID:???
6 of 20 (つづき)

こうしてケプラーにおいては、最終的には脳OS由来の認知・行動的存在拘束性の壁を突破したのだが、ではケプラーは何故これができたのだろうか?
すなわち全ての人間には上述した克己心の限界という、時系列的に超越不可能な“我慢の限度”があるために、単なるストイシズム系の思考統御・監督系諸機能のみをもってしては、
際限なく湧き出す衝動を抑制できないはずなのに、彼は如何にしてこの壁を超えたのか?

実は己自身の内から発生するストイシズムとは異なるところの外部のストイシズム系生成物としての、社会に在る『ストイシズム系行動文化』を利用することで、ケプラーは脳OS由来の認知・行動的存在拘束性の壁を突破したのである。
すなわち前回述べた12世紀以降の西洋社会において高まり続けてた経験・実証主義的方向へ進むエートスがついに生んだところの、カトリック的世界観に最終的な引導を渡した
「プロテスタンティズムが生んだストイシズム系行動文化(厳しい自己規律性を伴う生活こそが“神意”に適うとするもので、とりわけ主体性/合理的思考能力の涵養を促す。)」からの援護によって、彼は勇断ができたのである。

ちなみにストイシズム系行動文化の基本形態とは、例えば毎朝、定時に起床する/物・サービスを買ったら金を支払う/法規・規則を遵守する/家族を思いやる/
人に遭ったら挨拶する/自分の家族員ではない他者と何かの行動を一緒にする/食事を摂る/食事の支度をする/駅まで歩く・・などなどといった、日常生活上の極めて義務性が高いルーチン群である。

すなわち個人のストイシズム系諸能力とは、実はこのようなストイシズム系行動文化によって涵養/維持されるという面が大きく、普通は特に意識しないでも、
日常生活上の思考/判断において最低限必要な『ストイシズム系人格・観念的能力』は、誰でも自然に持てる。
しかし昨今の日本人のように一旦、完全に引きこもってしまうとか、もしくは徹底的に楽隠居したりして、一度、日常的ルーチンから遮断されてしまうならば、
多分、数ヶ月ほどで最低限の生活維持的行為でさえ辛くてできないほどにストイシズム系人格・観念的能力を失ってしまうこととなる。
(つづく)
127:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:57:40 ID:???
7 of 20 (つづき)

すなわちストイシズム系諸能力が実効力を持つためには、他の二つの始原人格系の場合とは異なり、「(自己の外部の力により支えられなければならないという)不安定性」を持つのである。
例えば芸能人/有名人に関わる絶え間ないゴシップは、例え世俗的成功を得たとしても一度(ひとたび)、ストイシズム系行動文化から遮断されてしまうならば、人間生活の根幹に深刻な問題が発生することを如実に示しているのである(※注)。
(※注 芸能人/有名人として成功するほどの強い主体性/個性を持つ彼らの場合、“元々意志薄弱なダメな(ストイシズムが弱い)人間”であるというケースはまず考えられない。
そうではなく彼らは本来的に強い人間であったにもかかわらず、彼らが最期にはくだらない失敗で転落してしまうということは、(ストイシズム系人格・観念的能力を維持するということに関しては)どれだけ努力したか?とか、どれだけ意志が強いか?
などといったこと以上に、日々の節度ある常識的生活を通じたストイシズム系行動文化からの無意識的涵養が頗(すこぶ)るモノを言うということを示唆しているのである。)

その上で、高次存在拘束性とか破壊と創造事象に関わる論考にあたっては、こんな日常的なストイシズム系行動文化からの支援では全く太刀打ちできないことは明らかだ。
すなわちこのようなものに対しては、例えば上記のプロテスタンティズムの如くの、人々の価値・人生観に訴える『高次ストイシズム系観念』に裏打ちされた『高次ストイシズム系行動文化』が必要になる。

例えばオレたち日本人に馴染み深い高次ストイシズム系観念と言えばもちろん「武士道」である。例えば新渡戸稲造の「武士道」(1900)なんかを読むならば、様々なストイシズム系の派生観念を包含する武士道という価値観体系の概要を看取し得るし、
またエセル・ハワード「日本の思い出(明治日本見聞録)」(1918)といった西洋人目線の諸記録からは、彼らの驚愕と賞賛の対象となったところの日本人の克己心の有様を具体的に看取できる。
更に太平洋戦争中には、とりわけ(武士道が包含するところの)「玉砕精神」を全国民が徹底的に叩き込まれたことは、今も尚、多くの人々の記憶に新しい。
(つづく)
128:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:58:10 ID:???
8 of 20 (つづき)

その上で高次ストイシズム系観念の根幹にある理念が、武士道の「武士は食わねど・・」の如きの「生理的欲求の抑制」観念である。例えば明治の“立身出世”期を描くところの司馬遼太郎「坂の上の雲」(1972)では、旧伊予松山藩士子弟の秋山好古が、
赴任した小学校の主事から「酒をのませる。」と言われた際に、思わず自分の喉が動いてしまったことをもって、「人間、人の言葉が生理に反応するなど、恥ずべきことではないか。」と、自戒するシーンがある。
またエセル・ハワードの前掲書では、島津忠重邸に贅沢な家具/食器類等が一切無い理由として、「武士の師弟に何故、贅沢が必要か?/勇気と剛健を培うために贅沢が役立つのか?/
人格は生活における質素と克己によってのみ陶冶される/家具などなくても家さえあれば十分」といった彼らの価値観が示されている。

しかし人類がその歴史において醸成してきた生理的本能抑制のための高次ストイシズム系観念の精髄とは、実はこの程度の生易しさでは済まない。
すなわち「葉隠」の「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」を見ても分かるように、“戦って勝つ成就”を期してあがくよりも自ら積極的に死に臨む“玉砕”こそが最も尊いと言い切ってまでして、
人間の存在拘束性の根幹(自己保存本能など)であるところの生存欲求さえも完膚なきまで否定しようとする恐ろしさである。

例えば「中世キリスト教的行動文化」において、このことが然りである。中世末から近代にかけて聖書の次に広く読まれたとされる、トマス・ア・ケンピス「キリストに倣いて」(1418頃)では、「彼(イエス)は十字架を負うて先立ち行き、あなたのために十字架の上で死なれた。
それはあなたもあなたの十字架を負うて、その上に死ぬことを願うためである。(中略)一切のことはそこで我々が死ぬことにある。」としているし、また1095年に教皇ウルバヌス二世がクレルモンで十字軍結成を呼びかけた際の演説では、
「死は善良なる人々をその故郷に近づける。(中略)死によって魂は自由となり喜びに満ちた希望にふくらむ。(中略)魂はこの世に引き止めている邪魔物から
解放された時にこそ、(中略)聖なる全き活力を得る。」などとして大会衆に向かって、やはり殉教の喜びを持って十字軍に結集するように呼びかけている(※注)。
(つづく)
129:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:58:47 ID:???
9 of 20 (つづき)

(※注 但しウルバヌスはこの際に人々との取引のために、十字軍参加者に対する「有限の罰」の全贖宥(しょくゆう)を許している。)

このように国家機構の支配的観念になるほどの高次ストイシズム系観念とは基本的には、人の命を惜しむ心を徹底的に卑しめた上で、“死身(主君/天子/主の恩義によって生かされている身ゆえに、その義のために24時間365日、
いつ死んでも良い覚悟/心構えを持ち続けて生活すること)”で、被支配者を行動させる、すなわち指導者・特権者階層を命懸けで守るロボット型人間を養成しようとするものに他ならない。

更にこうした極端化されたイデオロギーというものは、往々にして社会の通常の主流的構造から外れた“除け者”階層としての「アウトロー社会」においてこそ純化されるものである。
例えば「博徒/遊侠人」のヒーローの生き様の中などに、武士道的観念が正しく戯画的に純化されているのである。例えば天保の飢饉で窮民を救済したり、大掛かりな社会基盤整備のための土木事業にも尽力したところの、武闘派ヤクザの典型である国定忠治は、
自身の磔刑の執行に際して、カッと目を見開き、たじろぎもしない姿を見せて、その最後の最期まで任侠の道に生きる者の美学を貫いたと伝えられている。
またその最も頼みとする子分の一人の石松を対抗勢力の手により斬殺された清水次郎長は、相手方から石塔料五十両の償いをもってする手打ちを打診された際、「俺を子分の命を金で売る親分にするつもりか。
俺の目の黒いうちは(中略)翼が在って空に飛んで行こうが、術を使って地下に隠れようが、探し出して首を取って石松の怨魂を慰めてやる。」と、これまた「任侠道」に徹した啖呵を切ったと伝えられている。(以上、高橋敏「清水次郎長」(2010)より)

さてしかし、人が人間社会で祝福されるような真っ当な幸福を手に入れようと欲するならば、こうした死をも恐れさせないほどのストイシズム系イデオロギーとはまた異なる、「怠ける/呆ける/甘やかす/放置する/弱ぶる/年寄り・女・子供ぶる」
などといった逃避・怠惰性観念に人間精神が蝕まれないようにするための『生活仕様高次ストイシズム系観念』を伴う『生活仕様高次ストイシズム系行動文化』こそが必要となる。

例えばキリスト教文化圏においては、上記の平林たい子の事例のような、
(つづく)
130:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:59:24 ID:???
10 of 20 (つづき)

人生行路における各種の不品行性向を矯正するための、「悔悛(ゆるし)の秘跡(※注1)」
という「私的な告解による自己批判と反省」を促すための生活仕様高次ストイシズム系行動文化が、1,500年近くも前から存在した。
これは人々がひとたび不品行/悪行を為せば、直ちにカトリック司祭の前にぬかづき、密かに己の罪を告解し神に懺悔しなければならないハメになるというものである(※注2)。
(※注1  3世紀末以降のドミナトゥス(ローマ帝国の専制君主制)下においてエジプトの砂漠に隠棲したキリスト教徒の修道生活に起源を持つ秘跡であり、9世紀頃には概ね、現行の私的告解形式が整う。)
(※注2 このようなことが公的機関(近代まではカトリック聖職者の生計は公費によって賄われるのが普通。)の日常業務として為されたのである。)

また我が国においては、氏族的共産制が衰退し“門(家)”が確立し始める11世紀頃に、折からの寺院を取り巻く環境変化(※注1)に伴い、天皇や貴族などのヘゲモニー層の人々は、宗教界での高い地位の獲得が容易になったことと相まり、
ライフステージの一環としての(嫡子に権力を譲った後に)「出家の道」に進むという、儀式的政務と人間関係による拘束/干渉等の日々から免れた(後に院政につながるところの)比較的自由な世俗支配スタイルを、新たに模索し始める(※注2)。
またこうした自己保存目的の出家とは趣が異なるところの、(氏族制から父系制への家族制の推移の中で)
必然的に強まる家門同士の勢力争いに嫌気した皇族/権門の子弟らの、左遷/ドロップアウト/臣籍降下等を契機とするところの、主体的幸福追求のカタチとしての出家も現れてくる(※注3)。
そしてこの両タイプに共通しているところの、“仏道に帰依する”というストイシズム系行動文化に浸るということは、もちろん彼らのストイシズム系人格・観念的能力の大幅な向上に与する。
(※注1 10世紀中期に朝廷は、従来の寺院の一括国営方式を改め、各寺院が自立する経営方式に改める。これにより寺院は、有力貴族等からの寄付を募り存続を図ることになり、大きな寄付をした者には見返りとして院内での高い地位を保証するようになった。)
(※注2 例えばこの時期の代表的な貴族である藤原道長は、元来、病弱でもあることとも相まって頂点を極める度に出家を望んだ。
(つづく)
131:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)16:59:54 ID:???
11 of 20 (つづき)

例えば左大臣として最初の政権を手中にした3年後には出家を望んでいるし、三条天皇との経年の権力闘争に勝利し摂政と成った時も翌年には早々と地位を頼通に譲り、自身は人臣最高位の太政大臣の地位を花道にさっさと政界を退いて出家した。)
(※注3 このタイプの代表である「徒然草」の吉田兼好は、“博学な高級閑人”であることを自尊して、宮廷文化人などに対して自己アピールすることを楽しんだ。吉田の他には、源有仁/雅仁親王/一遍/西行/法然/栄西などがこのタイプ。)

とどのつまり人間・社会関係における不品行/失敗、すなわち論考時における感情系習慣的自動思考様式からの妨害に起因する類の不出来については、
高次ストイシズム系行動文化に支えられたストイシズム系人格・観念的能力こそが、個人の克己心の限界を超えさせて人格系メタ認知的論理思考能力を大きく高めてくれることを、人類は論理的には説明できないにしても経験的には理解していた。
だからこそ感情抑制という全く楽しくも何ともない、一意的には苦しいだけの行動が習慣化し得たのであり、例えば以下に示すところの中世西洋のキリスト教ヘゲモニー体制確立に至るまでの道程を鑑みてもまた、このことは間違いないと言える。

ローマ帝政の開始により3世紀末にエジプトに逃れてきたキリスト教徒の影響から、己の性的欲求の抑圧のために砂漠での禁欲生活に入った一人のエジプト青年(聖アントニオス)が、
弟子を集めてキリスト教的ストイシズム系観念の礎を築くと、これが4世紀初頭のローマ帝国におけるキリスト教公認後に直ちに(聖マクシミアヌスにより)ガリアに伝播されることとなる。
そしてその後、自らが教区司教と禁欲的な修道士の二役を兼ねた聖マルティヌス(※注)がガリアの地に西欧初となる二つの修道院を建立する。
(※注 このマルティヌスの存在は西欧キリスト教のその後のヘゲモニー獲得にとって決定的に重要である。というのも彼について書かれた伝記本により、死者蘇生/悪魔祓い(エクソシズム)/病気治療の奇跡を成した者としてのマルティヌスの
名声が西欧世界の隅々の民衆にまで広まり、これをもってレランス修道院により西欧修道制が確立されるための下地的基盤が成され、もってキリスト教はゲルマン化した西欧においてその布教基盤を固めたと言えるからである。)
(つづく)
132:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)17:02:47 ID:???
12 of 20 (つづき)

ところで初期のキリスト教教団は、司教を中心に組織された都市部の信徒集団であり、このシステムにおいては教会等の財産は信徒の共有物である。
しかして人口の大半が居住するところの田舎や辺境における教会組織においては、教会を自費で建立したゲルマン人領主等が所有者であり、もって当該教会組織を管理する司祭も(教区司教ではなく)彼自身が叙任するところとなった。
こうして7世紀から11世紀頃までの西欧キリスト教組織の基幹システムである「私有教会制」が始まる。

このゲルマン的私有教会制下においては教会組織自体が譲渡可能な資産であり、すなわちこれは不動産等の所有と何ら意味的に変わらず、
司教区全体が一般市民から国王に至るまでの様々な個人の運用可能な財産として分割所有された。

そしてこの状況下では、貧農/農奴への布教活動をも含むがゆえに真摯な態度で臨まなければならないところの、蛮族ゲルマンの根本的なキリスト教化の仕事は、マルティヌスが定着させたような禁欲修行(※注)から漸次、
発展/醸成された (貧民/病人の救済等の慈善事業等を含む)生活仕様高次ストイシズム系行動文化を保持する唯一の組織であるところの修道院が担うしかないことに、人々は気づかざるを得なかった。

とどのつまりローマ教会が頼みとした修道院の行動文化から生まれた帰納知が、荘厳ミサ/成務日課等の信仰形式といった、
中世キリスト教支配に欠かせない事物の確立に基幹的に与し、ひいては大聖堂建築/学術/文芸/芸術までの「西欧的総合知性」の形成にまで至るのである。
(※注 主として男色の危険を避けるための、修道士各人がそれぞれ孤立した僧房にこもって性欲/食欲の禁欲に励むというものであった。)

こうして中世中期頃までにおいて西欧社会支配のためのエートスの基盤形成を担うこととなった修道院制は、当初は禁欲修行者、その後は権勢に引き寄せられて立身出世を夢見て集まった修道士たちが、
自ら軍事力を持ったり自治権やその他の世俗的権力等も獲得しつつ、カトリック組織内で決定的政治力を行使するまでになり、ついに傘下に1千を超える系列修道院を擁し、
更にはローマ教皇直々に授与されたところの司教の権限さえ全く及ばない特権を獲得し、その全盛期においては西欧世界の実質的中心は如何なる国王、
(つづく)
133:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)17:03:46 ID:???
13 of 20 (つづき)

あるいはローマの教皇座でもなく、唯ひたすらクリュニーであったところの大修道院グループ(※注)を持つまでに至った。
そしてこの帰結としての11世紀の「グレゴリウス改革」により、「西欧封建社会」が、ついにその全容を整え終えたのである。
(※注 或る司教は「私は王の命令のままに戦う。正に我らの主人(クリュニー修道院長の)オディロンこそ王である。」と言ったし、また或る修道院長には「(クリュニーの支配領を旅している時に)私はここでは、
フランス王よりも強力である。何故なら人々は(フランス)王の支配など歯牙にもかけないからである。」とも言わしめた。)

また現代日本の人々に見られるが如くの、敢えて「世間者(せけんしゃ)」の立場で禅寺で「雲水(うんすい)」として修行したり、あるいは山伏などの「行人(ぎょうにん)」が為すような荒行の真似事をしたり、「聖(ひじり)」のように遍路修行に
出たりといった活動が後を絶たないという事もまた、生活仕様高次ストイシズム系行動文化こそが個人の論考の質の向上に決定的に寄与し、もって(破壊と創造により)高次存在拘束性の変換を実現させしめ得るものであることを、誰もが無意識的に知っていることを裏付けている。

とどのつまりストイシズム涵養こそが、世界の三大宗教すべての修行における中核的目的であるという事実は、取りも直さず人が真っ当な認知/認識を得ようとするならば、この「感情・欲求統御」問題こそが、とりあえずは最大の克服困難性を伴って
顕著に立ちはだかることを示しているのであり、実質的にもストイシズムを行使するとは、脳OSの設計思想「感情系を駆使した省エネ戦略」に対する“大反逆”を企てることであるからして、これはもとより一筋縄で済むような次元の問題ではない。

ではこの人類普遍の大難題の答を認知システム論的に求めていこう。すると己の感情/欲求という、この「意識が覚醒している限りは、脳OS(感情系習慣的自動思考様式)によって際限なく湧き出させしめられ続ける情動」を必要十分に統御し切るためには、
単に人格系メタ認知的論理思考様式によって、事を為すことの意味や理由等に思慮を巡らせているだけの限りにおいては、それが如何なる思慮であっても必ず克己心の限界という壁にぶつかり打ち負かされるしかない運命であることを認めるしかなく、もってここに
(つづく)
134:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)17:04:24 ID:???
14 of 20 (つづき)

『感情系習慣的自動思考様式に対抗しうるものは、同じ感情系習慣的自動思考様式以外にはない。』

という結論に立ち至る。具体的には己の自意識の如何には全く左右されないところの、モノを考えること自体を一切排し、全くの理屈抜きで感情・欲求抑制行為が正当であることの
自明性を始めから擬制してかかるような、“或る種の「被洗脳状態」に自意識が浸っている”状態に意図的に成るしかないのである。

『人間が己の克己心の限界を超えて感情/欲求を統御し切るには、自己のストイシズムとかその他のメタ認知系諸能力のみに依ってはこれを為すに能わず、唯一、自意識が“洗脳”されていることによってのみ可能となる。』

これが自意識の外からの強制力であるところの高次ストイシズム系行動文化が有効であることの真の理由なのである。その上でここにおいては、外部からの刺激に一対一対応する単なる感情系習慣的自動思考ではないところの、
自己由来のストイシズム系諸能力を始めとするメタ認知系諸能力を包含した人格系メタ認知的論理思考をフルに介在させることで生ずる『自己心理操作性』を取り入れた、
言わば『管理洗脳』とでも呼ぶべき自己心理操作術体系を構築することにより、洗脳内容の適宜・経済性を自らチェックしながら思考/判断の全体を包括的に統御しうる余地を生みだせるのである。

『(脳OSの設計思想に反逆するものとしての)ストイシズムは、単純/素朴な禁欲的意思のみに拠り運用されるならば、いずれは自意識が悶絶するような苦痛を感じるほどになり、もって克己心の限界に至り、
(脳OS(感情系習慣的自動思考様式)からの大反抗としての)感情・欲求的反動により打ち負かされることとなる。
よってストイシズムは、外部からの生活仕様高次ストイシズム系行動文化が感情系習慣的自動思考様式による有無を言わせない規律性強制力を持った上で、(これが)人格系メタ認知的論理思考様式による適宜・経済性判断に基づいて管理され、
もって感情抑制行動に自己心理操作性を伴わせるところの「管理洗脳」状態が実現する、すなわち感情系習慣的自動思考様式と人格系メタ認知的論理思考様式が合目的に協調する
『ストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系』が存在する場合においてのみ、安定的な思考統御・監督系機能を保持し得る。』(『観念運動の自然法 第七定理(ストイシズム定理)』)
(つづく)
135:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)17:05:00 ID:???
15 of 20 (つづき)

すなわち感情/欲求/衝動の抑制的統御を持続的に為すにあたっては、例えば「何故、感情/欲求/衝動を抑制しなければならないのか?」などと、その意味/理由等を根源(大枠認識)的に考えたり問うたりした時点で己の負けなのである。
であるからして、ここで脳OSの圧倒的専制力に打ち勝つための唯一の方法が、「これら(感情/欲求/衝動)は抑え込まなきゃならんもの。」と、自分で自分を強い情動を伴って洗脳する、
つまり感情系習慣的自動思考様式という、脳OSの全く同じ情動的専制力をもってして対抗することだけなのだ(※注)。
その上でこのストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系の特徴とは、例えばコップに水が半分入っている時に、「もう半分しか残っていない。」と思うか、
または「まだ半分も残っている。」と思うかの認識を操作するといった、人格系メタ認知的論理思考様式による中枠認識レベルでの多様な自己心理操作性を付与できる点にこそあるというわけだ。
(※注 人が今、この瞬間に自意識に生起しているところの特定感情等を如何に処置すべきか、などという適宜・経済性に係る論考については思考結果の曖昧性が大きく、そうであるならば考えれば考えるほど、脳OSに付け入らせる隙を与える。)

このような自己心理操作性の有意性の論証については、これを持たないところの、すなわち凡庸者的属性としての単純素朴性/無謬的信憑性/自他の分離観念の不全に因って、
行動文化が単に『道徳・倫理・義務的観念系行動文化』(ストイシズム系行動文化と同様に「洗脳系行動文化」の一種。)として認知されてしまう場合、すなわち人々の自意識において、「モーセの十戒」的“遵守すべき掟”の如くの箇条形式型行動規範群に
成ってしまう場合においては悲惨な結末(※注)を招来するという、人類がこれまでに幾度となく経験してきたところの厄災の記憶(経験的命題)の幾つかを提示するならば、それで十分である。
(※注 道徳・倫理・義務的観念系行動文化においては箇条型行動規範が、どこまでも無頓着、かつ強圧的に自意識に作用してくるために、幸福・充足感をもたらすための“本音”的認知がどんどん損なわれ、ついに人々から自然な人間味が失われていく。
(つづく)
136:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)17:05:34 ID:???
16 of 20 (つづき)

これは例えば「高い道徳性を備えた人物であればあるほど、とっつきにくく冷酷な感じがする/あまりに融通性がなく、息が詰まる」という、例えばイギリスなどの道徳/倫理を重視する価値観を持つ社会において、お馴染みの現象である。
すなわちこれは主として、紋切り型の義務意識がもたらした過分な欲求抑制による人格異常/情愛の決定的不足/世俗社会から切り離されたような孤独感等に所以するのであり、
最終的には切羽詰まったような精神異常や暴力性の顕現/指導者・特権者階層の放埒性/「機能不全家庭」(社会心理学用語)の大発生等にまで至る。
この手の惨事の典型的実例は、ブロンテ姉妹を生んだブロンテ家(父子家庭)。すなわち肖像画などからもその頑迷/狭量/内向的な気質が偲ばれるP.ブロンテ(牧師)の6人の子供たちの内で一意的に“幸福”と呼べるような人生を全うした者は唯の一人もいない。
例えば唯一の男児は自堕落の極みの末に廃人同様になって死に、その後を追うように妹E.ブロンテ(「嵐が丘」(1846)の作者)も孤独と寂寥に貫かれた短い生涯を終える。
C.ブロンテ(「ジェイン・エア」(1847)の作者)も狭量な父の不同意の中で強引に結婚するも一年にも満たない儚(はかな)い幸福の後に死ぬ。

またこれとは真逆の、モラルの厳しさが他者に及ぼす逆説的な「過分の生ぬるさ」の弊害も在る。例えば菊池寛の「父帰る」(1917)は、
モラル的な形式主義と義理のイデオロギーが帰結する"倒錯的生ぬるさ/なぁなぁ主義"によって、適宜・経済性的合理性が否定される物語。
作品には後日譚はないが、儒教的モラルに支配されていた近世・近代日本では、往々にしてこの手の道理の倒錯が現実世界においても日常茶飯的に生起したと考えられ、このような甘やかされた凡庸者が増長しファシスト化することで、大厄災が招来されるのである。)

とどのつまり(箇条形式型観念のような)最後の最期まで演繹的に強要されるだけの「外観保持義務的ストイシズム」こそは、厳に忌避されなければならないのである。
(つづく)
137:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)17:06:13 ID:???
17 of 20 (つづき)

一方で好ましいストイシズムとは例えば、「誰かの意見を中途で遮らないで最後まで聞ける/何かに熱中してる最中に声かけられても一意的に嫌な顔をしないことができる/急な変化にも条件反射せずに思慮深く対処できる」etc.・・といった、
日常の一コマ一コマにおいて普遍的に顕現するが如くの、自己管理意識下での中枠認識に係る人格系メタ認知的論理思考によるところの、さり気ない自己心理操作としての「適宜・経済的判断に拠った随時の感情・欲求抑制・統御」術の中に見い出せるようなものである。

というわけで己の合理主義的認知態度を保った上での被洗脳的義務観、すなわち己の必要のために己がより適切と見做す程度や方法を採ろうとする主体性を伴うところの管理洗脳こそが、
自意識の健全性を常態的に保ち、もって人と社会の双方に幸福をもたらし得るのである。
これ(ストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系)は言わば、『フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム』、
一般的には『厳しさ』という言葉をもってして言い表すべき思考統御・監督系機能である。
(ちなみにこの厳しさがもたらす成果物の、或る特定の側面の外観に往々にして顕現するものでしかないところの「道徳/倫理」性を、
大抵の凡庸者は枢要な目的として誤って捉えてしまうために、人類は破滅的な厄災を度々招来してきたということだ。)

厳しさという思考統御・監督系機能は脳OSからの攻撃に直に対抗し、もって前回述べたようなその他の重要な
思考統御・監督系諸機能(主体的達成意欲・自己批判的観念系人格的能力に基づく。)を有意たらしめるための、言わば“論考の場の防衛軍”として安全保障的に機能するものである。
すなわち道徳・倫理・義務的観念という、自意識を容易に克己心の限界に至らせてしまうがゆえに、むしろ自意識を破壊しかねない危険なストイシズムではなくして、
適宜・経済的なストイシズム系行動をもたらすものとしての厳しさは、思考統御・監督系諸機能を司る三始原人格系諸能力の活動の場における、脳OSからの絶えざる攻撃に対する防壁として、ありとあらゆる人間活動の健全なる遂行を、その安全保障面から担保していると言える。

例えば新教宗派(禁欲的プロテスタンテイズム - カルヴァン派/洗礼派)が、「世俗内的禁欲」(M.ヴェーバー用語)という
(つづく)
138:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)17:06:54 ID:???
18 of 20 (つづき)

生活仕様高次ストイシズム系行動文化を職業生活に持ち込んだことで、優秀者の自意識において厳しさが形成され、もって帰納的思考能力(人格系メタ認知的論理思考能力)が高まり、従来的資本主義に“硬質な刃物”のような鋭さを加えた
近代資本主義システムの肝となる合理主義的因果・方法論(※注1)を構築し得たという知見を、是非ともヴェーバー理論に付け加えるべきだろう(※注2)。
(※注1 「暴利を貪らずに適正価格(掛け値でなく定価)を設定し、利潤を浪費せず設備等に再投資してビジネスを絶えず拡張することが、最大の繁栄をもたらす。」というものであり、
これは元々は彼らの生活仕様高次ストイシズム系観念であったものが、厳しさを伴う優秀者の帰納的思考により言語・論理化され、そのまま資本主義理念の母体となったのである。)
(※注2 ヴェーバーもまたオレのように明瞭に認識できるほどではなかったものの、「天職としての政治」(1919)においては、単に不毛な興奮に酔っただけの“素人”政治家と真の政治家を
区別する“物と人間に対して距離を置いて見ようとする態度(オレ注 ; メタ認知能力)”をもたらす“あの強靭な魂の抑制”という言い方で、漠然とは厳しさが、高度な人格系メタ認知的論理思考に欠かせないものであることに気づいていたようだ。)

またあるいは我が国の「明治維新」の際には、武士道により厳しさを既に確立しており、もって人格系メタ認知的論理思考能力を求められる職業に対応し終えていた
士族(旧武士)層の優秀者/秀才が、版籍奉還後、俸禄が公債に切り替わり実質的収入が減少していく中で、いわゆる「末は博士か大臣か・・」的「立身出世コース(※注)」において、
他の大多数の国民(小百姓/旧穢多(職人/行商人など))を尻目に、かなりの数の者がそれなりに夢を叶えることができた。
また更には幕末期に続々と来日してきたプロテスタント宣教師たちが開いた英語塾等にも、やはり武士たちが我先にと大量に押し寄せており、
これらの事例は総じて武士層だけが主として持つところの厳しさと知的活動との極めて深い連関性をまざまざと見せつけている。
(※注 名士の門を叩いて教えを乞う「書生」からコネを伝って「官員」と成り、「大臣/参議」を目指したり、あるいは「帝大生」から「博士」を目指す如きの明治初期の典型的成り上がり法。)
(つづく)
139:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)17:07:33 ID:???
19 of 20 (つづき)

というわけでそれなりの厳しさ(フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム)を修得し得た者は、悶絶するようなストレスを感じるどころか、
被洗脳状態がもたらす極めて安定・予定調和的な“心の張り”を伴った上での、主体的認知体系による自己管理性に支えられた自尊的マインドセットに拠るところの“(帰納知の充実に基づく)人生全般に係る幸福創造へのパスポート”を獲得したも同然なのである。

しかしてここに至り、人間社会に関する厳然たる或る一つの真理もまた浮かび上がろう。つまり厳しさとは、ここまで論説してきたように各人の個人的努力のみによって修得できるようなものではなく、
社会全体において集合知的に保持される行動文化に支えられてこそのものであった。
そしてこうなると現実には、ほとんどの先進文明社会では満足な帰納的思考者が見い出せないことになろう。例えばミルは次のように述べている。

「かなりの精神的資質のある人々でさえ、しばしば自分たちが偏見を抱いている意見の趣旨を理解しようという努力をほとんどしないし、また人々は一般にこの“故意の無知”を、
欠陥としてほとんど意識しないので、倫理諸学説の最も俗流的な誤解が、高度の原理と哲学の両方を持っていると最も自負している人々の熟慮した著作の中に絶えず出てくる」(J.S.ミル「功利主義」 1863 )

とりわけ20世紀後期以降は先進社会は「暇つぶし文明期(第七回 参照)」に突入したことで、社会から生活仕様高次ストイシズム系行動文化が急速に失われた。
例えばソクラテス/コペルニクス/ケプラー/ホッブズ/フロイトなどが持った観念や苦悩をアタマで理解したり批判できる者はゴマンと居るにしても、
自ら彼らが為したのと同様の厳しさを伴う人格系メタ認知的論理思考の十分の一も為せる者は、今となってはもう滅多に出ないのである。
つまり昨今はネットを検索していても、何処かの“鼻タレ小僧”学者みたいのが、「マルクスって間違いだらけで何の価値もないよね」的なことを言っていたりするわけだが、
実はこのような輩は厳しさをもって統御するしかない論考の困難さというものをそもそも知らず、マルクスを対等な立場で批判できる土俵にすら上がれていないことを、死ぬまで気づけない。
(つづく)
140:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/05/18(金)17:08:08 ID:???
20 of 20 (つづき)

すなわち150年も前の存在拘束性に縛られた人間が為したその仕事が、如何に困難と苦しみに打ち勝つための努力を要したものであったかを察することができない。

こうしてつまるところストイシズムの何たるかを理解し得た現代の優秀者は、やむを得ず生活仕様高次ストイシズム系行動文化の相当物を、外部からでなく、自分の自前で形成するように努めるしかなくなっている。
しかしこうした外部観念からの洗脳に依らないケースにおいては、普通は当該人物が元々、かなり良質なストイシズム系人格・観念的能力を養育者等から個人的に継承し、
幼児期において小脳ROM化できているような、言わば“準外部力”的な支援を既に獲得している場合でもなければ、成功はおぼつかない。

というのも自己心理操作的ストイシズムに基づく活動とは、管理洗脳下でのそれに他ならないのだから、いずれにしても何らかの感情系習慣的自動思考力(例えば相思相愛の配偶者などからの叱咤激励とか。)
による被洗脳的状態の確保ができなければ、自らの克己心の限界を越えることができないからだ。

というわけで昨今では慢性的運動不足が重大な健康被害をもたらすことがあまねく知れ渡ったおかげで、人々はウォーキング/ジョギング等でこれを解消することが当たり前になったわけだが、
ここに「厳しさ」不足による人格系メタ認知的論理思考能力の劣化がもたらすところの人間/社会に対する破滅的作用もまた、今後は人々に周知されてゆかなければならなくなったというわけである(※注1)。
(※注1 とりわけ我が国においては、かつて実際に存在したものとしての武士層の養育者が幼児期の被養育者に与える行動文化としての「叱って躾ける教育」文化を、
時代的存在拘束性がもたらす価値観にマッチするように生活仕様タイプにアレンジした上での再興が、現実的だろう。
その上で今般は、明治体制下で為された箇条形式的な道徳・倫理・義務的観念系行動文化(※注2)が、万が一にも再興しないように厳重監視しつつこれを為すべきなのは言うまでもない。)
(※注2 主として「教育勅語」(1890)と小学校の「修身書」による。)
(「フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム – “厳しさ”という能力 - 」 おわり)
(第十三回 おわり)
142:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:40:13 ID:???
1 of 34

「市民層  概論」 第十四回

「先天的認知資質に基づく二つの基本的人間類型」

第十一回から前回までにおいて、凡庸者/優秀者の各々の思考様式における特徴的な差異を、感情系習慣的自動思考/人格系メタ認知的論理思考という二つの思考様式として提示した。
そして今回と次回では、これを踏まえた上での「先天的要因からの認知様態」という“異なる淵源”から人の分類を成していく。
具体的には今回は、感情系習慣的自動思考における『自動性』、人格系メタ認知的論理思考における『論理性』という両思考様式における本質的属性が、先天性の認知的資質であることの概説を為す。

ところで人の認知/認識の如何なる部分が先天的/後天的であるかという問題に関しては、かつて為された二つの論考が即座に思い出される。
すなわち近代科学の黎明期において為されたところの、ジョン・ロック「人間知性論」(1689)と、これに対するアンチ・テーゼとして主張されたイマヌエル・カント「純粋理性批判」(1781)である。

しかしてこの両論に、今のオレたちの目から見て何らかの科学的な説得力が在るかというと、残念ながらそれはない。すなわちこの手の、人の頭の中だけで為される“哲学的演繹法”とでも呼ぶべき論考態度は、
ロック/カントらが生きた時代には、まだまだ当たり前の論考態度だったにしろ、「観察から得た認識から仮説を建て、また現実を見て検証する」(帰納的思考様式定理・・第十二回 参照)・・
という合理性要件(第十二回 参照)の一つとしての「経験・実証主義」性を明らかに欠いているからだ。

ではこれらの論考を為した両人が、経験・実証主義性を自らの社会科学的論考に持たせるためには、彼らは何ができなければならなかったか?
それは人間社会の変遷を、まず擬似的に再現した上での“擬似”経験・実証主義的論考である。すなわち人類史を頭の中で推察することでもたらされる帰納的論考である。
その上で当論考が今後、“脳”と“遺伝”に関する自然科学領域からの詳密な知見との整合性を持つことで実証されていくことを、(オレ的には)期するのである。ではさっそく始めよう。
(尚、当チャプターにおいて示される人数比率は、オレの主観的目安を示すものとして、実測的な根拠なしに便宜的に掲げるもの。)
(つづく)
143:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:41:16 ID:???
2 of 34 (つづき)

例えば田中正造/マックス・ヴェーバー/ルース・ベネディクト(我が国では「菊と刀」の著者として有名。)/高群逸枝のような際立った正義・倫理感へと通ずる人格と(事物/事象に係る)高い美意識を持つ人々、その上で本質的に内向的気質傾向を持つ者としての
「自閉的な人々」(当論の独自概念であり、一般的に言われるところの「自閉症スペクトラム」とまでは言えない範囲内での内向的気質傾向を持つ人々を指す。)は、全人類集団の中で一定比率(3%くらい)で存在し、
その上で彼らは人類存続のための必要欠くべからざる重要な能力、すなわち認知の場における情報処理的属性としての「諸観念に係る計算処理能(※注1)」としての「論理性」を先天的に持っている、とオレは考えている。
(※注1 第十一回で述べたように、人は高度・複雑化された社会生活を営む動物であるから、適切な破壊と創造の過程を経ることなしには、現実には実に多くの難題に行く手を阻まれることになる。
その上で人間脳のデフォールト設定の感情系習慣的自動思考様式のみでは、破壊と創造の過程に必要な適切な思考/判断ができない。
このため人類は人格系メタ認知的論理思考様式を開発したのであり、これの根幹的属性が、この論理性ということである。

すなわち論理性とは認知が経験・実証主義的であろうとする際には不可欠であるところの事物の因果性(因果律)を合理的に認識するための認知的属性であり、具体的には諸観念・概念の演繹(※注2)的な計算処理、並びにそれに基づく相関関係等を認識させる。)
(※注2 当論においては「演繹」という語は、全くかけ離れた二義を持ち、紛らわしいので注意が必要。一つは狭義の言語・記号的観念等の演繹計算という意味で、これが「合理的論理性」。
もう一つは演繹的思考様式としての既知の観念に対する無計算(無謬的信憑)の意味で、これが「自動性」である。だからこの場合は前者の意味になる。)

ではこの際立った正義・倫理感だの高い美意識だのといった幾つかの外観的特徴と内向的気質傾向を伴って顕現するものとしての認知の論理性とは、一体、如何にして人が獲得しうるものなのか?
(つづく)
144:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:43:05 ID:???
3 of 34 (つづき)

結論から言えばこのような認知的資質は歴代の直系者が、主として実質的世襲による地位/権力の継承が可能な指導者・特権者階層/上位中産階層の一角に連なり続けることにより形成され得る。

コンドルセ「人間精神進歩史」(1793)によると、「人類史上、最初の宗教的思想が、活発な想像力に恵まれ、その幻想を実現し易いような人々によって創出された。彼らは神の欲求を洞察しようと努め、どんな行為、どんな贈り物が神の心を慰め、
その恩恵を受けるに最も成功するかを知ろうと努めた」とし、その上で「人類が二つの部分に区分されるようになった。一方には聖職者の家柄/階級と司祭のための教団が設置され、自慢の知識を傲然と秘匿し、
(その上で)自己の理性を放棄し教えてもらえた知識を尊敬をもって受け取るのみの他方を教育している」とする。
更にあらゆる文明社会において普遍的であるところの指導者・特権者階層の安定維持システムとしての「世襲(貴族)制」が存在し続けてきた理由を、
「新しく首長を選挙するために協議することの困難さ、並びに一番の側近として補佐していた首長の子/兄弟は、首長の経験を誰よりも良く利することが容易であるために、
父(首長)に一種の優越性を認める習慣から、首長の亡き後は彼ら(首長の子/兄弟)にその優越性が継承されることを、首長の対立候補でさえも、それほど心理的抵抗を感ずることなく認めることができた」(以上、「」内は引用を主とした要約論旨。)からだとしている。

このようなわけで指導者・特権者階層/上位中産階層の世襲的一族(※注)に属する歴代の直系先祖達が、良好な栄養供給力を伴う保護/包容、並びに各種の知的素養において非常に刺激的なものを数世代にも渡って継続的に供与され続け、
もって前回述べたところの脳OSが、普通はその活動エネルギー源の安定的確保という背に腹は代えられない事情により持たざるを得ないところの省エネ戦略的設計思想を、最早、破棄してしまう方が合理的であるほどの、論考に適した環境/状況を獲得するのである。
(つづく)
145:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:43:49 ID:???
4 of 34 (つづき)

(※注2 例えば「古事記」編纂者の太安万侶を輩出した多(おお)氏/阿蘇氏/大分氏/科野(しなの)氏/伊余氏/金刺(かなざし)氏など。こうした官職世襲氏族は皆、皇族の分流。)

遺伝学においては、突然変異によるマイナーな変化は、多細胞生物でもわずか数世代後から顕現することは良く知られているところだが、彼らにおいては、「幾世代も続く脳活動エネルギーの安定的確保、並びに精神活動の自由状態」に至ったがために、
「遺伝的資質としての高度な論考チャンクを形成し、これを継承すること」が、生物体が普遍的属性として持つところの合理的進化性向に適ったのだ。

こうして”(敵に襲われる心配が全くない)安全な鳥かご(※注)”の中で飛び回るが如くの、「エントロピー縮減的自意識(一般社会から隔絶された際立った自意識)」がもたらしうる「個人の内面的世界の行く手を何ら遮るもののない
自由闊達さ極まる精神活動の世代を越えた継続」が、その果実(自閉的な人々の認知的属性としての論理性をもたらす遺伝子群)を結ぶ。
その上でこれらは、「各人の将来において、事物/事象の真理・真実性を認知するためのメタ認知系諸能力として後天的に成長していくところの始原物」であり、具体的には次段階において遺伝形質化していくところの、
「真/美/善にまつわる(思考統御・監督系諸機能の源泉としての)三始原人格と「人格系メタ認知的論理思考」能のための基礎的資質である。
(※注 例えば裕福な家庭で高度な文化に親しみつつ何不自由なく育つ/祖父母等に引き取られて大切に養育されるなどの”保護的”隔絶環境。)

とどのつまり「世俗界(非隔絶環境)で生き残るための処世能力(※注1)」という、開発するには膨大な手間暇を要する能力を、己が棲む世襲制に支えられた隔絶的環境では、幼年・児童期(脳神経ネットワークの樹立・固定期。)
において必ずしも逼迫性を伴って開発しなくても済むために、脳への割り当て分の大量の生体エネルギーを真・美・善性を培う脳神経チャンクために割り振れるという存在拘束性(※注2)、その上でこのような存在拘束性を、世襲一族において
数世代に渡って保持し続けたことが決定的要因となり、彼らはついに論理性という人格系メタ認知的論理思考の本質的属性を遺伝的資質として持ち得るまでに群を抜くことができたのである。
(つづく)
146:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:44:34 ID:???
5 of 34 (つづき)

(※注1 主として自分と他者との関係性の調整能力。例えば親から殴られることを回避するために、自分の兄弟姉妹を悪者に仕立て上げる狡猾さ/自分の判断ミスを誤魔化したり、うやむやにする小賢しさ等。)
(※注2 例えば岡本かの子の息子の岡本太郎の存在拘束性。)

というわけで、ここまで来た彼らにとっては最早、論考(本当のこと/正しいことを知るための論理思考)という行為は、日に三度の食事を摂ることと同じく“当たり前の行為”となり、彼らはこの先天的論考能(論理性)をベースにした認知の弁証法的運動(※注1)により、
後天的に類稀なる主体的認知体系、すなわち脳内において長期記憶化されている様々な観念に自在な経験・実証主義的な計算的処理を施せる認知体系の洗練・精緻化を成していけるだけの潜在能力を保持する。
そこで当論では、隔絶的環境に育った歴代直径者のおかげで先天的な“論考長者”となり、更に後天的な経験等により“帰納的発見・気づきに基づく
自由闊達な思考者”と成れる可能性を宿すところの自閉的な人々のことを特に『貴族型人間/A型人間(Aristocracy-type person) (※注2)』と称することにする。
(※注1 例えば、昨今のオレのツイを観てもらおう。すると2018/5-6の二回の党首討論を観た経験から、オレは国民民主党に対して、我が国憲政史上の画期的パラダイム転換を担い得るものを看取したと考えたわけだが、しかしてその数日後には、
彼らが最悪の理由/根拠に基づいた内閣不信任案に同調する意思を示したことから、すぐさまオレは彼らを買いかぶりすぎていたことを認め、己の考えを止揚することができた・・このような認知の変遷・推移運動を「弁証法的運動」(哲学用語)と呼ぶ。
すなわち第十二回の西洋学術史の処でも述べたことだが、人が真の智を獲得していく過程においては、始めは誤った観念に基づいた認知的努力に傾倒してしまう傾向を持つのであり、
真っ当な三始原人格に基づいた思考統御・監督系諸機能等を持つ者であるならば、その後に他者と議論/討論することで自己の認識を問答(弁証)形式で次々に止揚していけるが如くに、
次々に生起する時系列の事象の推移から、己の観念を弁証形式によって自律的に破壊と創造/止揚できる。)
(※注2 ちなみに世襲貴族家系の者全員がA型人間なのではない。
(つづく)
147:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:45:14 ID:???
6 of 34 (つづき)

あくまで一部の者のみがA型資質を天賦される。
その上でこのような人々の典型例が古代ギリシアの「フィロソファー(愛知者)」(第十二回 参照)。彼らの出自はほぼ全員が、地中海交易で富裕になった世襲家系(宗教/政治/経済/科学等の指導者/顧問。)であり、
J.D.バナール前掲書によると「ほとんど全ての者が裕福な紳士であった。生活のために働かなければならなかった者も少しは知られている。
(中略)プラトンはそんなこと(人を教えて授業料を受け取る)をする必要がないほど富裕であり、彼ら(授業料を受け取って教える者)をあざけった。」とある。)

ツルゲーネフ「ルージン」(1856)の主人公(ルージン)のような人が典型的なA型人間だと言える。尚、一般的には自閉症スペクトラムに対する定義/認識は、「複雑な社会性/人間感情/言語表現にこめられた含意を認識/理解できない」
「嗜癖的行動属性」といったところだが、このような精神病質とは一線を画すA型人間は、「基本的な認知/理解力には特に問題はなく、ただ人間関係等を正常に認知できてはいても、内向的傾向に起因して他者/社会に対する関心自体が薄く、
もって対人関係にまつわる能力が人生早期において適切に開発されにくい人々」であるということに尽き、その上で彼らは極めて豊かな内面世界を持つ高知能者だから、他者が自分とは別世界に住むことをキチンと分かっている。
例えばF.ルッソ「孤独の科学」(Scientific American 2018 Jan.)では、「社会的スキルには全く問題がない孤独感の強い子供/
外観的な社交能力や振る舞い方では見分けられない孤独感が強い大学生/パーティに招待されても他の子供のような素直な喜び方ができない慢性的孤独感を持つ子供」などといった事例が報告されており、これはA型人間のこうした認知・行動属性機序を裏付けている。

さてA型人間の論理性は、一般的には芸術家・学者肌/高度な価値・世界観等として顕現してくる。すなわち「(広義での)学術/芸術(※注1)」分野における抜群の能力として発揮されるようになる。
彼らはこれらの分野での真/美/善の探求のためには己の人生を賭けることさえできる。
(※注1 芸術性とは、論理性が審美的構造の計算に向かった結果であり、美の創造とは、常に高度な論理計算である。
(つづく)
148:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:45:52 ID:???
7 of 34 (つづき)

例えば音楽では、人が普通に美しいと感じる音階は全て単純な規則性の下に成立している。すなわち音階の各音の物理的振動数比は必ず整数比になるし、また基礎的和音も全て同じ構造的規則性を持つ。
更には各音の強弱/ビブラート/グリッサンド、ジャズなどで即興・感覚的に表現される付点八分・十六分ノリ、微妙なテンポのはずし方から、サックスのフラジオ、山下洋輔の鍵盤ブッ叩き、はたまたジミヘンの歯弾きとかアームワーク/
ジョン・ケージ的無音などといったものまでの各種音楽表現においては、タイミング/バランス/程度についての審美的論理計算が不可欠である。)

その上でA型人間は“孤独であること”がほとんど苦にならない。というよりも思考統御・監督系諸機能としての真・美・善性をもたらす三始原人格を培う傾向は、常に彼らに『自発的努力性向(※注)』を付与し、これが彼らをして積極的に孤高/孤独を求めざるを得なくさせるのである。
というのも自発的努力性向は自意識の適度な緊張状態/攻撃性を必要とするのであるが、このような自意識状態はこれ(自発的努力性向)を持つ者と持たない者との間に“水と油”の関係性を生み出すからだ。
すなわち「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」(第十回 参照)が示すように、圧倒的多数の凡庸者との関係性においては自発的努力性向は、
自らを極めて不利な状況に追いやる。もってA型人間はこれを避けるためにも積極的に孤高/孤独を求めるしかない。
(※注 三始原人格が自意識の緊張状態/攻撃性を伴う自発的努力性向をもたらす。これがないと、そもそも考える/頭を使うということ自体が、無性に面倒くさいし辛いだけである。
例えば人間はストイシズムのタガがはずれた弛緩した厳しさのない自意識状態においては、一冊の本さえ満足に読む気がなくなるし、ましてや自ら主体的に何をかを思考するなどという姿勢/態度とは程遠くなる。)

こうして彼らはとりわけ青年期頃までは、孤独であることに親しむような偏向性を伴う生活に仕向けられていく(※注1)。
だから社会性動物である人間として彼らが無事に人生を生き抜くためには、その特徴たる認知の論理性と釣り合いのとれた“世渡り能”を、いずれは修得する必要がある。
すなわち己に有利な人間関係を獲得・維持するための様々な処世智等の、
(つづく)
149:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:46:27 ID:???
8 of 34 (つづき)

財物・地位の自力・独力での獲得能力/他者への寛容さ・配慮等の相互扶助的センスの修得/無闇な攻撃性・自己中心性の克服/人・社会の虚実を看破できるようになること等である(※注2)。
(※注1 このような心性を解き明かしたものにペトラルカの「孤独生活」がある。)
(※注2 こうした後天的能力属性の獲得に失敗した場合は、例えば異様な視野の狭隘さ/頑迷さに取り付かれるなどして、経験・実証主義性と並ぶ合理性の力のもう半分であるところの(とりわけ社会生活上の)適宜・経済性の力を失い、
もって認知の弁証法的運動により自意識を止揚する(多様な経験を経て人間として成長する)ことができないアスペルガー症候群のような人格障害者として、“(人生の)負け組”に転落してしまうリスクも出てくる。)

こういうわけで自発的努力性向を持つA型人間は最終的な人間界における充足/満足を、自らを努力家/チャレンジャー/パイオニア/指導者/管理者/特権者として“出世”たらしめることから得ようとするようになる。
言い換えれば「プレーンなA型人間→プロト優秀者→優秀者」というカタチで出世/選民化していくことに、心の安寧/やすらぎを求めるということだ。
とどのつまり彼らは社会的には生まれながらにして世俗・浮世離れした少数者として、言わば“孤高な選民の道”を行くことを運命付けられているのである。

その上で彼らは内面世界の豊かさを増すにつれて、必然的にそれと反比例するかのように組織/集団からの疎外感をひしひしと感じざるを得なくなる。こうしてついには己の心情を外界に対して露に表出することへの恐怖感を強め、もって“世俗・人間嫌い”の気質性向を獲得する。
そしてこの性向を一般社会に対してカモフラージュするための、外観的には社交好き/人好きに見えるように擬態するための処世能力をも、彼らは併せて培う(※注)。
これすなわち図らずも、将来、“究極の選民”としての優秀者に成るためには必須であるところの「本音/建前の使い分け」のための始原能だ。
(※注 一般的に「サイコパス」と呼ばれる気質傾向を持つ人々の中には、このようにして涵養された能力が、遺伝形質化したケースが含まれている可能性がある。
しかして先天性としての真/美/善を求める内面世界をこそ重視するA型人間においては、どのような人格的能力を後付けしたとしたも、
(つづく)
150:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:47:06 ID:???
9 of 34 (つづき)

「打ち解けた対人関係への無関心性」という根本的傾向が変わるわけではない。)

ところで言うまでもなく人類は、社会共同体を形成するためのホミニゼーションを第一義的に成すことで、この自然界を生き抜こうとしてきた生物である(第十二回 参照)。
そしてこの際に問題になったことは、ホミニゼーションによりどんどん複雑・多様化していかざるを得ない人間関係対処能/コミュニケーション需要に対して如何に処するか、ということであった。

すなわち具体的には、こうした人間界特有の存在拘束性の下で事案毎にいちいち思考し判断を下すためには、単純な脳神経では不可能であり、プロトホミニドは脳体積をどんどん大きくするしかなかった。
しかし脳を巨大化することには限界がある。またそれと同時に再三述べているように巨大脳が消費する膨大なエネルギーの確保問題の解決もまた困難を極めるために、
ついにプロトホミニドは、小脳ROMに生涯保存される必要な分だけのアルゴリズムによる簡易思考であるところの、感情系習慣的自動思考様式を開発するに至った。

というわけでここで、安全圏での生活を確保できたA型人間以外の残余の97%、すなわち大抵の自閉的でない人々にとっての切実な生きるテーマであり続けるところの「如何にして日々、生き残るのか?」という問題に、
(A型人間的“真理/真実の探求”とは真逆の“方便/支配力の探求”としての)感情系習慣的自動思考様式をもってするところの集団が形成する「集合意識」に対する無謬的信憑性、すなわち外界(他者/社会)との密接な『連携能』としての、
『(自己防衛のための)集団的秩序の形成・維持能』(「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」第十回 参照)にこそ自己保存のための縁(よすが)を求める人々、
もって認知の場における情報処理的属性としての「自動性」を先天的に継承する人々について、論じなければならないのである。

このラマピテクス以来のホミニゼーション基本型としての「群生型生活(※注1)」を成立させしめるための感情系習慣的自動思考様式、
すなわち所与の観念を無計算/無操作のまま鵜呑み/丸呑みする自動性(演繹的思考能)を継承し続ける多数者(凡庸者)を、今後は認知の先天性の観点からは『平民型人間/C型人間(Commoner-type person)(※注2)』と呼ぶことにする。
(つづく)
151:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:47:48 ID:???
10 of 34 (つづき)

(※注1 人類の群生とは大抵は、財物・権勢の獲得/世事/雑事/事件/集団行動等に意欲/気力の大半を投入し続けなければ処理し得ない事物の山であり、さして豊かではない生活であり、 これを言い表すところの“貧乏、閑なし”とは、正に至言である。
そしてこの“貧乏/閑の無さ(※注3)”の世代を越えた継続こそが、彼らが人間界の中で群を抜くことを全く不可能にする先天的資質たる自動性を決定付ける。)
(※注2 当論で「凡庸者」と呼ぶ際は、とりわけ認知的資質の後天性要因を見ているのに対して、遺伝的資質の観点からは、C型人間と呼ぶということであり、外観上は両者は、明晰には分別できない。)
(※注3 この種の忙殺と弛緩の無限の反復生活に適応しきってしまうと、指導者・特権者階層に這い上がれるほどの(認知の)論理性を練磨するためには必須であるところの孤独な鍛錬/己と向き合う時間は、苦痛以外の何物でもなくなる。)

さてC型人間の自意識は(外部からの)ほぼ完全な被洗脳状態に在り、よって当面の間は概ね葛藤/苦悶/逡巡等がない情緒的平穏・安定状態に在る。
そしてこのことをもってC型人間は基本的には、個人的に何をかを創造しようなどという意欲/気力の源泉であるところの三始原人格に起因する自発的努力性向とは金輪際、
無縁の“根っからの世俗者/市井の民”となるわけだが、実はこのことこそが彼らに最大の自己防衛力を付与している。

すなわちこれが上述の集団的秩序の形成・維持能(連携能)なのであり、彼らはこの集団的協調性ゆえに、主体性/個性が強いA型人間には全く不可能なレベルでの効率性を、
その人数の多さと相まり顕現させしめ、もって(A型人間に比して)当面の間の世俗生活上の圧倒的優位性を獲得する。

というのも彼らはこの連携能の獲得のために積極的に非主体・没個性・他者依存的に成り、もってこのことが『普遍的均質性(「同規格のロボット人間」属性)』を彼らに与えるからだ。
その上で人類の集合知が極めて稚拙/粗雑であったところの、これまでの人類史においては、この普遍的均質性なしには人類は存続できなかった。
何となればこの属性とは、人類の日々の生存においては根源的な価値を有するところの、“生産・実働部隊”たる資質の中核だからである。

その上でC型人間というものは、A型人間的な真/美/善の探求には全く無能/無関心だから、
(つづく)
152:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:48:30 ID:???
11 of 34 (つづき)

あくまでこの集団生活というものの相対的有意さの範疇においてのみ存在価値がある。
例えば福島原発事故があったにもかかわらず、わずか数年でその記憶が薄れ、エートスから放射能に対する警戒心が消滅していくのも、あるいはまた人類を含めた全動物種の存亡に関わる危険性が指摘されて久しい
環境ホルモン(※注)に対する関心が全くと言って良いほど高まらないことも、彼らが個人としては真理・真実性に関心を持たず、唯々ひたすら生活の便宜のための集合意識/社会性/人間関係/感情的好悪等しか意識しないC型人間だからだ。
(※注 現代物質文明が造り出し、既に全地球の陸地/大気/海洋に驚くほど大量に存在する内分泌攪乱物質。人類が創り出した最も恐ろしい毒物と言われるダイオキシンやプラスチックに含まれるビスフェノールAなどが有名。)

すなわち以上のこと共を踏まえると、「現生人類ホモ・サピエンスは、A型(論理性)とC型(自動性)という全く異なる方向性を持つ思考能を先天的に保持し合うところの認知的二亜種に分岐した上で(※注1)、この両亜種は完全に補完的に進化したと帰納できる(※注2)。
すなわち前者は自発的努力性向を、後者は普遍的均質性を持つことによってであり、もしどちらか一方の亜種が滅んでいたならば、ホモ・サピエンスは今日、現存していない。
(※注1 例えば我が国の場合は弥生時代(金属器・農耕時代)に、(一般の共同墓地とは異なり)下界から仰ぎ見る位置等に所在する「墳丘墓」が登場したことから、指導者・特権者階層がこの時代に確立したことが分る。)
(※注2 C型人間にしても真理と虚偽の区別等を認識したり、これを口先で語ることは在る。しかしそうであっても例えば真理を意識的に求めて、あるいは虚飾等を排するために果敢な行動を採るなどということまではできないのが普通だ(※注3)。
とどのつまりこうした行為とは自意識内での合理的な因果・方法論の樹立なしには不可能なのであり、集合意識への同調性の如きものからは金輪際、生起し得ないのである。)
(※注3 例えばダンテ「神曲」(1472)で、ダンテがウェルギリウスと次のように問答する箇所がある。
ダンテ「確か先生は先生の御本の何処かでハッキリと"祈り"で"天の法"は曲がらぬと言われましたが、それなのに連中はひたすらこればかりを祈っています。
(つづく)
153:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:49:05 ID:???
12 of 34 (つづき)

すると彼らの希望はアダになりますか?それとも私が先生の御説を取り違えましたか?」
ウェルギリウス「私が書いたことは平明の理だ。この人たちの希望は健全な頭で良く考えれば空望みでないことが分かるはずだ。(中略)私がその点を論述した頃は、祈ったところで過ちが償われるわけではなかった。
(中略)しかしこうした難しい問題については真理と知性の間の光となる方が、何かお前に言われるまでは、結論は下さぬが良い。」(煉獄篇 第六歌)
と、このようにウェルギリウスは自分に都合が悪い状況だと見て取るや否や、途端に権威を盾にして詭弁を弄し、相手を煙に巻いている。
その上でC型人間には、このような行動を為すことに対する不快感/自己批判等を強いるような思考統御・監督系諸機能(人格的能力)が、確立していない。)

すなわちC型人間がA型人間により正しいツボ(秩序性)にはめこめられた後は、普遍的均質性によって人類は、必要なだけの財の生産効率性を確保してきたのである。
しかしいずれにしてもC型人間とは、世俗の生産活動に煩わされる必要がない存在拘束性を持つA型人間が獲得した自発的努力性向(エントロピー減少)に依存するという前提の上で、
普遍的均質性(エントロピー増大)という安逸な連携能を顕現させるための道を、どこまでも(例えその先には破滅しかないことが彼ら自身にも分かりきっている時でさえも)とことん行くだけの凡庸者であるわけだ。

では次にこの連携能を顕現させるためには、やはり非常に重要であるところのC型人間のもう一つの属性についても説明する。

“戦争を知らない子供たち”などと、かつて流行歌に唄われたこともある第二次大戦後生まれの日本人たちは、性善説的人間観を公教育/エートスにより刷り込まれてきた。
大抵の戦後リベラル時代生まれの者は、人間は本然的に我が子を慈しんだり、家族/友人らに対する優しさ/思いやりの心を持つ、そのような習性(行動的属性)を“生来的に”持つ社会性動物であるかのように教育されている。
しかし経験・実証主義的な眼をもってして(大量虐殺を無数に繰り返してきたところの)人類史、あるいは世界中の今を生きる人々を見るならば、人間とは他者に対するそんな親和性をデフォールトで持てるほど“ご立派”な動物ではない、と直ちに結論できる。
(つづく)
154:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:49:52 ID:???
13 of 34 (つづき)

そうである。人間とは他の野生動物と何も変わることのないところの、外観の穏やかさ/相互扶助性と並んで自己中心性/暴力性等をも持ち続けている、ありふれた動物種に過ぎない(※注)。
すなわち大抵の動物同様、状況次第で我が子/家族/友人など、いとも簡単に見捨てるし、自己保存のためなら最大限の凶暴性をも発揮する。これが嘘偽りのない人間の真の姿である。
(※注 但し、第九回でも述べたように人間脳は動物脳とは異なり言語野を持つから、多様広範な抽象的概念/イデオロギーを認知し、これがために動物には在り得ないような精神の興奮/高揚/歓喜/焦燥/落胆/動揺/絶望等々の様々な意識状態が現出する。
こうして人類には、まるでキチガイ・鬼畜の如くになり得るという、特殊な存在拘束性が顕現する。) 

その上でC型人間とは実はこのような、動物的であるがゆえに、人間界の集団的社会秩序の形成/維持にとっては危険な存在拘束性を和らげて、
社会の外観・建前上の様相を努めて親和的にさせるという重要な役割を、人類の発生以来、担い続けてきた。
すなわちこの『親和性』は具体的には、A型人間がともすれば陥りがちな過度の「赤の女王」的進化傾向の陥穽、すなわち自発的努力性向が必然的に要求するストイシズム系思考統御・監督系諸機能が極致的に行き着かせるところの、
過度の自意識の緊張/アドレナリン的攻撃性を和らげることに、とりわけ与している。

コンドルセの前掲書が言うように、「人間は苦しんでいる者を見て生ずる苦痛感が、苦しんでいる者が何を必要とするかが分かった場合、不安の感情に変ずるようでなければ、“家族”という社会を形成することも永続化することもできなかった。
このような者たちには、苦しんでいる者を救援してやろうとする願望が生じ、この欲求を満たした時には、この慈恵(行為)に対する自然的褒賞として生ずるところの、ほとんど機械的な快楽の激情が(上記の不安感から転じて)直ちに生じてきたに違いない。
とどのつまり人間同士がこのような感情変化を日常的に経験するような人々とこそ、最も積極的に結びつくようになることは、必然であった。そしてこれらの感情が(原始の)人間に最初の道徳的習性をもたらした。」(「第一期の歴史の断章」から要約。)
(つづく)
155:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:50:40 ID:???
14 of 34 (つづき)

ことで、親和性を獲得したC型人間による集団的社会秩序の形成・維持能の開発が始まったのである。

そもそもC型人間的連携能を支えさせるためのモチベーションとなるところの彼らの究極の幸福観とは、他者/社会との勝負に勝つことよりも、例えば「心から心配してくれる/してあげられる家族/知人等の中で穏やかに暮らす。」といった類の充足・満足感である。
そしてこれは実は、C型人間のみならずA型人間をも含めた人類全般の自殺せずに生きようとするモチベーションにも係るものである。てゆーかもしこの種の充足・満足感が不足しすぎるならば、多くの動物は虚無感を感じてしまう。
よってプロトホミニドから現生人類へ至る種の分化・C型人間の確立時期において、脳OS機能として当然の如く「他者との良好・相互的人格尊重・平和的な関係に対して幸福感を覚える能力」(これ以降は『連帯(社会)性』と呼ぶ。)が自然採択された。

というわけでC型人間の連携能(普遍的均質性/親和性)/自動性が合理性の力としての、言わば『人間性/人間らしさ』の一方としての連帯性(もう一方はA型人間の自発的努力性向/論理性が担うところの『進歩・発展性(集合知性の進歩・発展性)』)の根幹を担っている。
ついてはこの人間性の一翼であるところの連帯性、その中でもE.デュルケーム「社会分業論」(1893)により、あらゆる人間連帯の基礎であることが論証されたところの上記のC型人間的な連帯性を、
『集団的社会秩序の形成/維持のための一次的連帯(「機械的連帯(※注)」・・デュルケーム前掲書)性』(これ以降は『一次的連帯性』と略称する。)と呼ぶ事にする。
(※注 各人の個性が減少すればするほど強化するような社会的連帯性であり、これすなわち全員があえて「擬制的な巨大個人の構成者」として、共通の伝統/風習/
文化の下に生きようとする強烈な演繹的思考(感情系習慣的自動思考)様式的バイアスを持つ連帯性であり、人々の自意識は限りなく集合意識そのものに近いものとなる。
いわゆる“気心が通じる”状態であり、人々の口は重く話題も少ないが、会話などしなくとも隣人が何者であり何を思う者であるかは、お互いに十分に分かりあっている。
その上でデュルケームはこのようなタイプの連帯性が、あらゆる人間社会の第一次的段階として現出した後でなければ、
(つづく)
156:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:53:25 ID:???
15 of 34 (つづき)

より高次な連帯性は発生し得ないことを論じた。一次的連帯は、始原的であると同時に基礎・基盤的なのである。)

一次的連帯社会においては各人は、集団的昂揚感の虜となり、その固有の存在拘束性に見合った主体性/個性を洗練できるほどの環境的エントロピー縮減性を持ち得ず、
よってA型人間による指導者・特権者階層以外においては、あらゆる遺伝的資質もまた “ごった煮”状態となって、エントロピー増大的なまま人々に継承されることと相成る。
その上で人々は、前回述べた「道徳・倫理・義務的観念系行動文化」を共有した集団的エートス管理体制を設定することで、
この一次的連帯性社会にA型人間の自発的努力性向とC型人間の普遍的均質性/親和性に基づいた自然発生的な秩序を打建てようとするのである。

例えば典型的な保守的価値観の保持者であると見做せるC型人間のエドマンド・バークはこのような世間(道徳・倫理・義務的観念系行動文化)の様相を、主著の「フランス革命についての省察」(1790)において次のように、実に上手い比喩を用いて述べている。

「我々は人間がめいめい個々人の理性の私的な元手で生活し、商売することを恐れる。それはこの個人的元手が少額であり、従って彼らとしては国民全体と過ぎし時代の共通の銀行や元手を活用する方が、好都合と考えるためである。
それゆえに(中略)彼ら(我々)は滅多に失敗しないし、目当てのものを首尾よく発見すると、(中略)むしろ(中略)偏見の保存こそが、一層賢明な方策だと考える。
事実、理性と合わさったこの偏見は、理性を活動させる動機とそれを永続化させる愛情を育む。偏見は咄嗟の場合に直ちに応用が効く。それは予め心を叡智と美徳の安全な筋道に据えることで決断の瞬間に人間を狐疑逡巡の状態に置くことがない。
偏見は人間の美徳を彼の習慣へと仕上げ、決して一連の断片的行為のままに残さない。彼の義務感は正しい偏見により彼の本性の一部となる。」

このように集団的エートス追従者としてのC型人間は、自然発生的支配秩序を構築することに資するのならば、建前としてのA型人間的な真/美/善への愛着を叙情的に語り、
また外観/上っ面だけの“真/美/善”風をもって他者の心証を良くするための詐術に励むことをも厭わず、かつこのような歪んだ体制をもって諸事を成すことに大いに自己満足もする。
(つづく)
157:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:54:01 ID:???
16 of 34 (つづき)

しかして人にはそれぞれ小脳ROMに固定された固有の人格があるから、歪んだ体制の“歪んだ便法”をもってするのみでは、心底心地よくなれる程度には、余り高くはなれない限度がある。
こうしてエートス的な建前とは裏腹に、C型人間各人の本音的にはかなりのフラストレーション/ストレスが漸次的に亢進していく。

そこでどこまでも積み上がっていく欲求不満/鬱憤が閾値を超えてテロ/暴動等に至ることを防ぐための安全弁/捌(は)け口として、一次的連帯性社会に用意されることになるものが、「社会全体的事業(※注1)」であり、
この手のものの中でも“伝家の宝刀”と見做すべきものが、どこまでも各人の主体性/個性、事物の真理・真実性を否定した上での政治的イデオロギー/プロパガンダ等をもってするところの「人口と社会の地勢的規模の拡大」、
具体的には、経済市場の大規模化による繁栄を目指すものとしての『侵略戦争(※注2)』である。
(※注1  卑近な例としては、普通に死者が出る極めて危険な祝祭行事。例えば12世紀頃の京都の民衆世界で流行した「飛礫(ひれき)」は、人々が祭り気分で互いに石を投げ合う流行。
また現在も尚、存続する全国各地の喧嘩祭/諏訪大社の御柱祭など。)
(※注2 人類の戦争は、大林太良が言うように「同類と見做される者同士の戦いには“節度”が見られ、武器も余り殺傷力が大きくないものを選んだり、相手を皆殺しにしたりしないが、
他方、自分たちとは類を異にする者たちとの戦争では、仁義なき戦いとなり、どんな非道も許されるようになるという普遍的傾向」を持つ。
その上で文明の成長期までは「節度ある戦争」(ルールを定めた決闘方式/源平合戦のように名乗り合って儀式的に進行する戦闘など。)が採用されるが、
強力な指導者・特権者階層のヘゲモニーが樹立した以降の戦争は、勝つためには手段を選ばないところの「侵略戦争」となる。)

すなわち侵略戦争は、A型人間による体制的支配とC型人間による欺瞞的エートスの産物であるところの道徳・倫理・義務的観念系行動文化がもたらすものであり、
具体的には一次的連帯性社会においては侵略戦争を、「労働/繁殖のためのコミュニケーション」に基づくミクロ的(日常・個別的)専制支配をもってして周到に準備する。
(つづく)
158:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:57:00 ID:???
17 of 34 (つづき)

すなわち彼らは日々のコミュニケーションにおいて、「社会/人間関係」の中に見出す「(自らが属する特定社会の)正義/道徳/情愛/共感/権勢/縄張り/支配力」等を誇示し合い、その上でどこまでも各人の主体性/個性に基づく多様性、事物の真理・真実性を否定し、
もって生ずるC型人間的な普遍的均質性/親和性がもたらす「多数者の専制/パーティ会場の法則」(第八回 参照)効果・作用こそを最大限に利用するのである。
こうしてC型人間的連帯性を礎とする一次的連帯社会では、侵略戦争という将来の全社会的大事業のためには最も肝となるところの、集団的に一丸となれる感情系習慣的自動思考様式(イデオロジカル・シンキング・・第十一回)的心構えを準備できるのである。

さて一次的連帯社会が侵略戦争の結果として、巨大な経済市場を運営し、尚もより多くの繁栄を求めて活動し続けるならば、
やがて社会は、むしろA型人間的な進歩・発展性がもたらすようなタイプの紐帯を求めざるを得なくなるところの特異点に達する。
すなわちデュルケーム前掲書(第二篇第二章第四節)でも述べられているように、社会が拡大/拡張し続けると、個々の「環節的小社会(デュルケーム用語)」同士の合併が進行する。
そしてこの小社会融合により新たに生まれた巨大社会においては、以前の各々の小社会毎に存在したところの同一職業者の総計が多すぎて余剰し、もって余分な者を淘汰するための闘いが勃発するのである。

さてこの闘いに敗れた者は職業変更(破壊と創造)を余儀なくされる。こうして人々が破壊と創造ためのメタ認知系諸能力を高め合うことにより、社会全体の弁証法的運動が著しく亢進する。
このようにして現れる高度な分業社会では、自発的努力性向を持ち、機を見るに敏なA型人間は、積極的にプロト優秀者・優秀者化した上で指導者・特権者階層から一般社会内に見出した自らの新天地に船出していく。
こうして人々の連帯性は、集合意識とは異質の支配的観念を持つ他者と共生しなければならないハメとなるところの、A型人間が一定の勢力を確保する
『集団的社会秩序の形成/維持のための二次的連帯(・・デュルケーム用語では「有機的連帯」)性』(これ以降は『二次的連帯性』と略称する。)の段階に移行するのである(「社会分業論」第二篇第二章第三節 参照)。
(つづく)
159:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:57:42 ID:???
18 of 34 (つづき)

これは端的に言えば“田舎の連帯”から“都市の連帯”への移行であり、人々の“気心”は最早、自然には通じず、
他者は基本的に“得体の知れない他人”となり、もって常に“世間話”に花を咲かしてでもいない限りは、座がもたない/沈黙は居心地が悪くなるような状態である。
このことの結果、C型人間の自意識においては何が起こるかと言うと、孤独感とか、あるいは自己防衛的な同調性への過度の強迫観念等が強まったりする。こうして前述の(一次的連帯性としての)C型人間的幸福観が崩壊してゆく。
そしてこの後はC型人間は、正気を見失ったキチガイ・鬼畜性を亢進させていき(第九/十一回 参照)(※注)、A型人間の躍進/C型人間の凋落による秩序破壊/不穏さが顕現する。
(※注 我が国においては、群雄割拠の時代(侵略戦争期)が終わり、高度分業・管理型社会(徳川体制)へと社会が急転換していく17世紀前半期がこれに相当する。
血気盛んさだけが採り得の歴戦のツワモノたちは、巨大消費・遊興都市へと急変していく江戸/京都の、今風の人々が他人行儀となっていく世相には全く適応できず、結局、
そんな彼らの憂さ晴らしのための所構わない「辻斬り」が数十年間も流行し続けることとなり、この間、夥しい数の町人たちが、老若男女を問わず訳もなく手当たり次第に斬り捨てられまくった。)

というわけでこうした因果性は取りも直さず、

『自らの内面を良く見つめる者ならではの人間性の一方と見做すべき進歩・発展性を顕現させる高い論理性の発現者たる貴族たち/エントロピー縮減者としてのA型人間と、同じく人間らしさの一方と見做すべき連帯性の根幹を顕現させる
高い自動性の発現者たる平民たち/
エントロピー増大者としてのC型人間の適切な人口バランスこそが、安定した人類存続のための必須要件である。
もしこれが大きく損なわれるならば最終的に、小は家庭内の人間関係から大は国家同士の関係に至るまでの全人間関係は異様な緊張状態に入り、人間界は混乱の極みとなって、人類はやがて滅亡の危機にさえ瀕する。』(『進歩の自然法の第三定理(A・C型人間定理)』)

ことを示唆する。
(つづく)
160:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)09:58:19 ID:???
19 of 34 (つづき)

例えばC型人間的な親和性が行き過ぎ一次的連帯性が強まりすぎれば、弱者/全体の足でまといになる者を切り捨て難くなる、かつ個々人のフラストレーションの亢進により侵略戦争に捌け口を求めるようになるから、社会集団としての自己保存能は著しく劣化していく。
また例えばA型人間的な自発的努力性向が強まって人々の攻撃性が行き過ぎれば、トップクラスの僅少者しか生き残れないような熾烈な競争状態、
あるいは同じくA型人間の内向性が高じて社会性/処世智が貧弱な指導者/特権者を擁する社会等においても、やはり同様に社会集団としての自己保存能は著しく劣化するという具合だ。

そしてここまで分かったならば、いよいよ先天的資質としての二類型遺伝子の拡散と後天的資質としての優秀者との関係等についても、知らなければならなくなるのである。
(「先天的認知資質に基づく二つの基本的人間類型」 おわり)
(つづく)
161:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/07/30(月)11:00:58 ID:???
訂正
>>146

隔絶的環境に育った歴代直径者
      
      
       ↓

隔絶的環境に育った歴代直系者
162:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)14:55:06 ID:???
20 of 34 (つづき)

「先天性/後天性が織り成す四基本的人間類型と優秀者」

A型人間属性とは、ホミニゼーションにより複雑化した人間社会において必要になったところの認知の論理性を用いて、真理/真実としての事物の因果を認知の弁証法的運動により認識させしめる属性である。
一方でC型人間属性とは、集合意識を非論理・無思考的に肯定し続けるところの自動性をもってするも、一度、真理/真実を認識した後においては高い生産効率性をもたらすところの普遍的均質性を顕現させしめる属性である。

その上で各人の自意識的において実際に生起することとは、A型人間の帰納的思考能力をもってすればC型人間の行動パターンの同定/予測は容易であるが故に、一部のA型人間は
少数派である自分らがC型人間が発現する多数者の専制に追い詰められて社会生活の場から排除される前に、一般社会のC型人間を指導/管理しようと決意する・・ということである。
こうして当該A型人間はヘーゲル的弁証法的運動を経て、やがて優秀者属性の獲得にまで至り得る(第十回 参照)。

但し全てのC型人間が、そのまま凡庸者で在り続けるのでなく、実はC型人間が優秀者化してC型人間を操作/管理しようとすることも普通に生起してくる。
また更には全ての優秀者が自発的努力性向を伴う後天性から発生するのでなく、次第に先天性の始原的優秀者資質をベースとして優秀者化するケースが増えてくる。

というわけでこのチャプターでは、こうしたこと共を含めた上での二類型遺伝子の拡散/後天・先天的資質としての優秀者の発生に係る機序をサブモデルとして示すことにする。
ついては前口上として述べておくが、近年は多様化したニューロイメージング技術によって、人間の様々な認知活動に対応する脳内の特定部位の同定等に関する詳細な知見が蓄積されてきている。
こうしたことの結果、例えば或る人間が人生において遭遇する様々な状況の内のどういうタイプの状況への対応が得手/不得手であるかということを決定する主要因の一つとして、
「遺伝に由来すると考えられる脳器質構造の個体間差異」が在ること自体は、学界においても最早、コンセンサスであり、その上で先天的な認知的資質の発生機序のみならず、
それらの世代間継承と拡散/時系列的推移等を包含した上での社会人類学的なモデルの構築が、今や切に求めらていると言えよう。
(つづく)

163:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)14:58:40 ID:???
21 of 34 (つづき)

ところでモデル構築の際に必要な前提として、デュルケーム的連帯性の変遷に係る普遍性を鑑みた場合、「個々の民族集団毎の存在拘束性の差異を超えたところで幾つかの認知的属性のカテゴリーが遺伝的に固定化し、
かつ一定の存在比率を伴って汎人類的に平準化していく。」と認識することが重要だ。
そして更には、このカテゴリーに後天性が作用することで次なる先天的カテゴリーが発生する、すなわち「安定した人間集団(民族/世襲的職業家系/社会階層等)内の個々人の思考様態/生活習慣等の差異の内の、
本然的には後天的変異であったはずの優秀者資質も含めたところのかなりの認知的カテゴリーの多様性が、例えば血液型の多様性などと同様、時を経る中で漸次、有意な遺伝的資質として平準化され続ける。」と考えることは、極めて自然である。

その上でこれらの先天性認知的カテゴリー群の存在は例えば、「一般的には、自力/独力で世俗的成功を勝ち得、
もって明確に優越的な高次存在拘束性を持つに至った者は本音において排他的になり、総合的評価で劣位の存在拘束性を持つ者との交際率は低くなる(※注)。」
という経験則等を適宜、援用した上での、現生人類の歴史、並びに開明度としての社会体制や生活文化/地域・民族的気質/社会階層毎の行動パターンや嗜好の傾向等の外観的観察から間接的に看取し得る。
更には帰納的思考様式によってそれらの世代間継承と拡散/時系列的推移等の様態をモデル化できもするのである。というわけで以上の認識を踏まえつつ、以下にモデルを提示する。
(※注 始原A型人間に必要なものは、“世俗的成功・卓越”である。ちなみに人が世俗界で群を抜くためには、事象の因果に係る真理/真実を経験・実証主義的な論考により認知する必要があり、
大変な苦労を伴う認知の弁証法的運動的によりこの真理/真実を知った始原A型人間は、これを未だ知らない者を見下し、軽蔑する傾向を持つ。
例えばマルクスとエンゲルスの人間関係等からは、極めて優越的な高次存在拘束性を持つ者同士が、頑ななまでに交際者を選別し合う傾向を看取できるし、
また我が国の近世農村においても、「役屋(公事屋)」(= 勝ち組)が「柄在家」(= 負け組)等の没落家/家持下人等と縁組するといった、家格が異なる家同士の婚姻は原則的に成されなかった、などという具合だ。)
(つづく)

164:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)14:59:21 ID:???
22 of 34 (つづき)

『指導者・特権者階層に連なった始原A型人間のあらゆる認知/行動において強烈な心理的バイアスが顕現し、もって特殊な存在拘束性が彼以降の世襲的直系者において持続し、ついに先天性のA型認知的資質を生む。
その上でこの多様かつ特殊な才能(例えば学術研究/事業経営/各種専門的技能/教養・文化・言論等)として顕現するところのものが宿す一般的属性を、前チャプターにおいて提示した如くに帰納的に同定できる。

その上で彼らの一部分は人間社会のデュルケーム的拡大・発展機序に沿いつつ、後天的にメタ認知系諸能力を涵養してプロト優秀者・優秀者化し、そのプロト優秀者・優秀者属性もまた、せいぜい数世代ほどで固定化して世代を越えて継承されていく(※注1)。
そこで今後は先天的資質としての優秀者資質、すなわち深層意識レベルでの高貴な自尊心/メタ認知系諸能力等を物心ついた時分から保持している者を、特に『先天的優秀者/E型人間(Excellency-type person)』と呼ぶことにする。
その上で上述のように始原E型人間は全てA型人間でもあるので、今後はこのタイプのE型人間を特に『AE型人間』と呼ぶ。
(※注1 例えばガリレオ・ガリレイの父親は、数学や音楽理論にかなり造詣が深く、かつ論争も好きなA型人間であった。まずはこうした「この親にしてこの子あり」的な後天的機序によって最初の優秀者が生まれた(※注2)。
そしてこのA型人間優秀者の子/孫においてエピジェネティック遺伝→遺伝子遺伝の遷移過程を経て、数世代後に最初のAE型人間が発生する。
ちなみにE型遺伝子の存在は社会人類学的には、例えば数世代前の傍系先祖の人格/気質/能力を受け継いでいると見做せる事例等から実証される。)
(※注2 ちなみにA型資質(認知の論理性)を持たないC型人間に対して、後天的に隔絶環境を付与したり高度な教育を施したとしても優秀者にはなれず、「尊大な善人」にしかならない。
何となればC型人間とは成功体験に基づくところの、「真理/真実 = 真知 = 合理性」、かつ「合理性とは論理性により認知され得る」という根元的認識を先天的に持たないがために、あらゆる知識/教養が感情系習慣的自動思考様式により
(つづく)
165:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)14:59:55 ID:???
23 of 34 (つづき)

演繹知(無謬的信憑性を伴う知)として認識されてしまうからである。
更に補足説明するならば、C型人間は教育を受けるに先立ち、まずは苦労して世俗的成功・卓越を果たし(※注3)、もって“自分の身/人生をもって真知の何たるか”、“真理/真実の価値/重さ”を知った上での認知の論理性を獲得した後でなければ
(すなわちA型人間になった後でなければ)、如何に努力したとしても“演繹知長者”、すなわち“できもしない/知りもしないこと”を「できる/知っている」と思い込んで尚、平然としていられるが如きの非経験・実証主義性、
すなわち凡庸者的存在拘束性の陥穽としての自我の防衛機制であるところの、無意識化した(もって自己管理が不能であるところの)被自己洗脳的マインド・セット/“歪んだ便法の使い手”的属性からは離脱できず、もって尊大な善人以上の者にはなれないということだ。)
(※注3 簡単なものであれば例えば町会長、生徒会長、PTA会長として苦労する/苦しい家計を支えつつ何らかの努力を為すとか。)

というわけでここまでをまとめると、まず原始状態の人間社会では全員がC型人間、その次に始原指導者・特権者階層内にA型人間が発生し、更に彼が優秀者と成った数世代後には、『AE型人間』遺伝子を直系者に継承させ始めるということだ。
その上でAE型人間が一定の比率/頻度をもって一般社会にドロップアウト(もしくは”大海に船出”)することで、人類全体の遺伝子プールにA・E型人間遺伝子が広範に混入し始める。

すなわち一般社会のあちこちで、交配によりA・E型人間遺伝子を受け取った者たちが出現するのであり、更なる交配によりこれ以降は、多数のC・A・E型人間遺伝子の“ごった煮”ヴァリエーション(亜種)が、次々に発生する(※注)。
こうして遺伝的形質の強弱のヴァリエーションを包含するところの先天的認知属性の多様性は、一般社会の圧倒的多数派としてのデフォールトのC型人間からの大きな淘汰圧がかかる閾値に達するまでは、その拡張/拡散が亢進する。』
(※注 ちなみにこの多様性発現過程においては、C型人間がA型人間を経ずして直接、E型人間遺伝子のみを受け取る場合が起こり得る。そこでこれを特に『CE型人間』と呼び、基本的類型の一つとする。)
(つづく)
166:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:00:37 ID:???
24 of 34 (つづき)
 
以上が先天性認知的資質(遺伝子群)としての基本四類型(A・C・AE・CE型)が発生し、それが人間界全体に拡散し、一定の存在比率に落ち着くところまでのサブモデルだ。
そして補足として、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」(観念運動の自然法の第四定理)(第十回 参照)で示したところの機序から受ける作用としての上記モデル内の「C型人間からの大きな淘汰圧」の機序について、更に以下に説明する。

『AE型人間はそのままでは優秀者ではなく、彼らは三始原人格と諸経験により後天的に自発的努力性向を強めて、派生的人格的能力の涵養を為すことでプロト優秀者/優秀者になっていく。これが(既述の)第一段階である。
次に第二段階として、彼らはC型人間の世界である一般社会に船出し、その類稀な実力がC型人間に認められ世俗的満足・充足感を得て、もって孤高さを失う。こうなると優秀者は、今度は自発的努力性向を弱めて人類デフォールトのC型人間的生活に回帰していく(※注)。
(※注 このようなことが生起する根本因は、「優秀者特有の圧倒的多数の凡庸者に対する操作・管理的意思は、一般社会内での優秀者の孤独観を深め、ついには彼らの心に解消しようがないストレスを漸次、蓄積させる」点に求められる。)

そして第三段階として、優秀者は一度、優秀者であることに対して自己否定的に成ってしまうと、A型・E型属性に所以するような、脳神経に対して高い労働負荷をかける行為(真/美/善の探求や合理主義的因果・方法論の構築)を
だんだん楽しめなくなる、更には厭わしく感じるようにさえなり、もって人格系メタ認知的論理思考を為すためのメタ認知系諸能力自体が衰えていく(※注)。
(※注 日常的に使用されなくなった人の能力は直ちに衰退し始める。例えばベッドで寝たきりのまま、意図的な歩行訓練を欠くならば、一ヶ月程度で筋肉が衰えて歩行不能になるし、
また定年退職後等に“毎日、縁側で日向ぼっこ”的楽隠居などを決め込んでしまえば、大量のニューロン死が始まり、半年足らずで“ボケ”るなどといった具合だ。)

最終段階においては、中途半端な存在に成ってしまった元優秀者は、なまじA・E型人間属性を持つがゆえにC型人間中心社会では単なる“跳ねっ返り/異端”の身となる。
彼は最早、一般社会にも指導者・特権者階層にも適応できない身であり、もって子孫を設けられない。
(つづく)
167:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:01:15 ID:???
25 of 34 (つづき)

多くの優秀者の遺伝子、あるいは遺伝子化しうる資質が、このようにして地上から永遠に消滅していく。』

そしてモデルの更なる補足説明として、「プロト優秀者/優秀者」両定理(観念運動の自然法 第三定理の2-3)、
並びに先天性基本四人間類型(A・C・AE・CE型)/後天性(プロト優秀者・優秀者属性)の相互連関がもたらす因果パターンについて、典型的な実例を通じて押さえておこう。

AE型人間、すなわち貴族型人間の先天的優秀者のマックス・ヴェーバーは、政治家の父と育ちの良い敬虔なプロテスタントの母から成る家庭という、当時の西洋社会の「典型的上流家庭」において養育された人物だ。
そして上流であるということは往々にして、家庭内において夫婦が本音と建前を巧妙/作為的に使い分けるような人間関係が、存在しがちであることを示唆している。

ちなみに人間というものは、自分の養育者から建前的に気遣われ大事にされ、かつ己の機嫌/感情等もまた建前的に尊重されて育てられるなどという、うすら寒い体験をしたりすると、
己の内なる世界、すなわち言うなれば己の行く手を遮るものが何もない無限の世界の中に救いを求めるしかなくなったりするものだ(※注)。
そしてこうなると己の情動や認識力の拡張(つまり思考統御・監督系諸機能の源泉としての人格的能力の涵養)、至誠の真理/真実を見出そうとする(つまり論理性の涵養)ように仕向けられる。
(※注 但し、恐怖感や身の危険をも常態的に伴うような極端な環境においては、解離性同一性障害(多重人格障害)的な方向での自我防衛が生起する。)

さて実際のところのヴェーバー少年は物心が付いて以来、世俗的名士の父と宗教的倫理感の強い母との間で繰り広げられた家庭内不和・対立がもたらすところのダブル・バインド的存在拘束性に苦しみ続け、
この手の“二律背反”的存在拘束性を持つ者が往々にして行き着く“お決まり”としての(統失系と思われる)精神疾患を青年期に発症した。

すなわちヴェーバーの名を社会科学史において不朽たらしめることになったところの、かの有名な資本主義とプロテスタンティズムに関する論考の元アイディア/気づきとは、正に彼の、資本主義体制の勝者の典型としての父と、
これまたプロテスタンティズムの一つの精髄を典型的に体現する母という両極端性に、
(つづく)
168:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:01:49 ID:???
26 of 34 (つづき)

己の人生において嫌が上でも立脚することを強いられたことがもたらす“引き裂かれる自我”、そしてこれをもって顕現する苦悩/煩悶の副産物として想起されてきたものである。
これこそが人の自意識の(ヘーゲル的「反」、葛藤状態が生むプロト優秀者発生の典型的事例と見做せるものであろう。

ところでこのヴェーバーという人物の掛け値のないところの“器”/能力を察っしようとするならば、何といっても「社会科学および社会政策の認識の"客観性"」(1904)を分析しなければならない。
何故なら当該論文においてこそ彼は、「価値自由/理念型」という「社会科学者としての自らの学術的姿勢の核」となるものを宣示したからである。
というわけで、まずはこの「唯物史観」に対する徹底的な嫌悪感/露骨な対抗意識を隠さないところの彼の当該説の要約と解説を(要所においてできるだけ原論文の言い回しをそのまま引用しつつ)以下に示す。

『「価値自由(Wertfreiheit)(※注)」とは具体的行為としては、社会的事象の論説の場においては、経験的事実の論述と価値判断を行う推理(主観)とが絶えず混同されることがないようにしろ、という命令に従うために、自らの主張について自覚的に批判/反省(メタ認知)すること、
もしくは「現実が測られ価値判断が導き出されるところの基準とは、どういうものであるかを常に、読者と自分自身に対して鋭く意識させること」を、学究者に促す観念である。
すなわちこれは、評価/価値観などというものは凡そ個人的かつ個性的なものだから、人が社会に対して持つところの認識とは、論者が如何様に努力したところで(“完全な客観”と比するなら)特殊的偏向の域を越え得ないことを、
とりわけ経験・実証主義性を求められるところの“科学の世界”においては厳に自覚しなければならないということであり、これは当然に必要な姿勢/前提として学界人が承認せざるを得ない、異論を差し挟む余地が無い観念と言える(過去レスリンク118.参照)。
(※注 ここでの「自由(freiheit)」とは「特定されない/定まらない/多様である」の含意語。ちなみにこれは「没価値性」と訳される場合があるが、
「そうであってはならない/存在しない/免れるべき」的な趣旨は原論文内には見い出せないがゆえに、この訳は一意的には不適である。)
(つづく)
169:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:02:23 ID:???
27 of 34 (つづき)

その上で価値自由な態度で扱われるべき具体的な主観的諸観念、例えば「個人主義/帝国主義/封建制度/重商主義/因習的」などの如くの、
人々が「文化現象をその連関とその因果的な被制約性とその文化意義において認識するに際して(有意な)効果」を認め得る抽象観念を、ヴェーバーは一括りに「理念型(Idealtypus)」と呼ぶ。
例えばこれらの他にはキリスト教の本質についての全ての叙述/マルクスの「唯物史観」等もまた理念型だそうだ。
その上で理念型が、あたかも実際に生起した歴史的事実そのものと同列に扱われたりするなら、「(価値自由的ではないがゆえに)常に真実に対し疑問の余地を残す妥当性しか持ち得なくなる。」とする。
しかしてこれらを“普遍的真理”の原型(プロトタイプ)としてではなく、あくまでも“具体・個別的歴史を叙述するという目的に資する手段”としてのみ限定的に用益するのであれば、
これら(理念型)は科学研究にとっての「索出的価値(或るものを探り当てるような価値)」を有する(※注)、とも彼は言う。
(※注 理念型を経験的事実の内の「特定の意義ある構成部分をばはっきりさせるという目的のために、現実をそれに掛けて測る基準として、あるいは現実(の事象同士)を比較してみる基(手段)として用いる」ということだが、
このような“ロンダリング”の如き用い方に限定したところで、所詮は“理念型というものが宿す恣意性”自体は消えないのだから、結論が理念型から受ける恣意的影響もまた、依然として存在し続ける。ゆえにこれは詭弁そのもの。)

その上で巷の多くの科学者の価値観を支配しているものとしての「現実が何らかの意味で“決定的な組織”において連関づけられており、そして次にはそこから現実を演繹しようと思えばできるというような封鎖的な一つの概念体系を創ること、
言い換えるならば或る科学の範疇内で次々に現れる研究資料を一つの概念体系の中に、これまた次々と秩序付けていくことで、いつの日にか完全なる演繹的科学を完成させようという理想」は、根本的な瑕疵が存する誤謬である、とする。

とどのつまりヴェーバーは、「人類の歴史の中には“一つの絶対的真理の体系”と見做しうるような原理系などは、どだい見い出しようがなく、“現実”とは、唯何処までも果てしなく個々具体的な経験的事実(歴史)が連綿と連なるだけのものでしかない。」
(つづく)
170:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:05:13 ID:???
28 of 34 (つづき)

旨を主張した上でいきなり、「科学的方法としての帰納法の否定」という大それた結論にまで一足飛びに行き着いてしまっている。』

以上が人類の歴史/社会に係る普遍的観念(公式/法則)の存在自体を完全否定して止まないところのヴェーバーの「価値自由/理念型」説の要旨解説だ。

その上で(上述したように)この学説の中核部分は完全な詭弁である。具体的には「価値自由」説部分は正しいのだが、後半部の「理念型」説部分は、完全な誤りだ。
そこでこの「理念型」説部分に対する反証を、オレの「モデル的認知法」(第五回/過去レスリンク124.参照)を挙げながら以下に成す。

『ヴェーバー説の核は、「或る歴史的事象を生起させている因果は常に移ろい、かつその数は無限の如くだから、人の歴史には特定の普遍的原理などは成立しようがない。」だが、
しかしてこの言い分は「人類もまた動物の一種である以上、脳に刷り込まれている“本能”的属性と見做せるところの幾つかの固定的認知・行動パターンを、普遍的に保持する。」という、この一命題をもってするのみでも瞬殺できる。

その上で更に言うならば、ヴェーバーは「社会科学的学究の場においては、あらゆる判断は主観的評価に基づくものであるがゆえに普遍の叙述はできず、個別の叙述ができるのみである。」ともするのだが、
これについても「観察対象物の中に普遍が在るならば、観察者がそれを見出して“主観的”に叙述できる」ことを挙げさえすれば即効で反証できる。
すなわち観察者の評価が如何に主観的なものであろうが何だろうが、ともかく観察対象物自体が何らかの普遍性を宿しているのでさえあれば、それについては幾らでも「普遍性命題」として主観的に叙述できる。
その上で上述のように、歴史を形成する主体であるところの「人間の本性(自然現象)」においては、正しく個々の事象毎の相違を超えた普遍性が紛れもなく宿っている。

ではこれらを踏まえて更に、オレの方法であるところの「モデル的認知法」が採用する手法を観ていこう。
(オレは既に「包括的合理性」(第十二回 参照)について説明しているのでここは簡潔に済ますが)、モデル的認知法の肝は、「(論理の)階層性を伴う体系性」を伴う論理性である。
具体的にはモデル的認知法では、或る特定事象が包含するところの一次的と見做せる観念を、
(つづく)
171:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:09:10 ID:???
29 of 34 (つづき)

まずは大枠的観念として設定する。その上で順次、二次、三次的要素というように下位に向かって諸観念が階層的に据えられていく。
つまり複数の観念がより包括性が高いものから個別性が高いものへと順次、連なっていくような階層構造が存在するのであれば、ヴェーバー的“理念型”が持つところの恣意性、すなわち主観性によって好き勝手に事物が評価/意味付されて、
もって「真実に対し疑問の余地を残す妥当性しか持ち得なくなる」可能性は無視できるくらいにまでに低減させうるのである。更に補足説明する。

例えば「戦後日本社会」という論題があった場合、それに係る最も一次(包括)的な概念とは、「平等/基本的人権/福祉/相互安全保障」といった“理念型”である。
そしてモデル認知法においては個人的な嗜好・恣意性等とは無縁にその包括性の度合いに応じて機械的に、この下位に諸“理念型”を順次設定するのであり、
それらの設定作業を全て終えた段階で、ようやく“戦後日本社会とは何ぞや?”というテーマに向き合うことが許される。

一方で「戦後日本社会」についてヴェーバー説に則り、論者の主観的関心に基づいて例えば「男女のジェンダー概念」とか、「少数民族などについてのマイノリティ概念」の如き理念型をいきなりデンと据えただけで即、
(戦後日本社会について)考察を始めてしまうならば、如何なことになるであろうか?
するとこれら(ジェンダー概念/マイノリティ概念)は、当該観念のみがあえて選択されること自体に合理的必然性がないために、如何に“索出”目的のみに用法を限定したところで所詮は、ヴェーバー自身が指摘したような“科学とは呼べないシロモノ”にしか成りようがない。』

というわけでヴェーバーの理念型説で示された懸念、及びその用法は、思慮が足りない、みっともない誤謬であるのみならず、それらはモデル的認知法により、概ね払拭し切れることも示された。

その上でオレは、父親が中堅武士層家系者(武士層は、徳川体制期において全人口の10%を占める“世襲武人貴族”階級。その内で、いわゆる「武士道」精神の髄を生真面目に継承するのは、中間層を中心とした5%程度だろう。)であり、物心付いた時には、
既に十分な三始原人格に所以する思考統御・監督系諸機能を伴う論考(人格系メタ認知的論理思考)三昧の自意識状態にあったところのAE型人間だ。
(つづく)
172:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:09:46 ID:???
30 of 34 (つづき)

更にオレの境遇はヴェーバーのそれとも似る。つまり明治体制以降は旧士族層と百姓層との身分の垣根が撤廃され、もって相互の婚姻は一般化したわけだが、オレの母親は、“(外観的には)極めて面倒見がよく温和/柔和な小百姓”的家系、
すなわち日本人の根幹的善性のもう一方の典型を体現したような家系の者である。
すなわちオレは、“極めてストイック/冷酷な感じ、かつ強烈な責任・義務意識”を持つ父親と“極めて柔和な外観、かつ裏表(本音/建前)を無思考・自動性をもって(すなわち極めて自然に、それが人格化した上で)使い分け、
かつ自閉的気質傾向をも持つ調子の良い世渡り者”の母親という強烈な二つの個性(もちろん少年期のオレには、こんなことはサッパリ分かりようがない)の狭間でのダブル・バインド自意識を持ったからだ。

こうしてオレはヴェーバー同様に青年期には対人関係を上手く処理できなくなり、かなり長期間、自分自身/人間/社会について苦悩し、(AE型人間であるがゆえに)人格改造指向的な論考/実践(すなわち破壊と創造)を為すまでになったのだが、
オレの場合はそうした経験を幸運にも、全て弁証法的に止揚(破壊と創造により合理主義的因果・方法論を構築)できた。もって現在は優秀者である(と、自己評価している)。

ではA型人間が後天的に優秀者/プロト優秀者のいづれの運命を辿るかの分かれ目とは、そもそも何か?
具体的には「適宜の破壊と創造能」、すなわち「正→反→合」という認知の弁証法的運動をつつがなく進捗させ、もって人を時系列的に成長させていく要因/力動とは何か?

前述のようにヴェーバー(「反」に留まるプロト優秀者)は、「あらゆる判断は主観的評価に基づくものであるがゆえに普遍の叙述はできない。」として、観察対象物の中に普遍が在るならば、観察者がそれを見出して“主観的”に叙述できることにさえ気づけなかった。
そしてこのような認知の未到達が何ゆえに生起するかと言えば、これは“眼前にそびえ立つ超大物”としてのマルクス憎しの感情ばかりが歪に高じて“ミイラ採りがミイラになった”ような展開、
すなわちヴェーバーの思考統御・監督系諸機能は、マルクスという“(彼にとっての)眼前の目障りな大きな瘤(こぶ)”を何としても排除したいという凡庸者的存在拘束性の陥穽に嵌まりまくっていたからだ。
(つづく)
173:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:11:55 ID:???
31 of 34 (つづき)

そしてこれは多分、両親の不和/不仲に多く所以すると思われるところの強度の自己中心性、「自分が何が何でも“正しい/最高”なのが当たり前、そうでなければ気が済まない」的な独善性/幼稚さ(支配・君臨欲/自己中心性)を伴う人格に阻害されていたことに起因する。

というわけでぶっちゃけ彼の嘘偽りない本音は、「マルクスの唯物史観が、一つの真理/真実(の原理)であるかのように見做されてしまうが如きは、クソ忌々しい。そんなことは俺は絶対に認めん。」というが如きだったろう。
その上、ヴェーバー当人的には自意識の「正」状態のゆえに、自分がこのような多分に恣意・感情的な主張を為しているという自覚すらなかったはずだ。

つまりこれこそが人格系メタ認知的論理思考様式の肝であるところの「人格」の不全、すなわち思考統御・監督系諸機能の不全が帰結することの恐ろしさであり、或る種の高次存在拘束性を持つプロト優秀者においては、
真・美・善性をもたらす人格(思考統御・監督系諸機能)が未熟であるために、自意識の「反」段階で人間的成長が終わり、もって真っ当な論考ができないのである。
ちなみに優秀者の前駆体としてのプロト優秀者は全人類の5%、その内、優秀者に成れる者は、1/10(0.5%)くらいのものだろう(※注)。
(※注 この比率を感覚的に捉えようとするならば、例えば視覚障害者数は日本では全人口比で0.3%である。我々が大都会で暮らしていれば白杖を持つ人には2日に一度くらいの頻度で偶然に出くわすから、
そこから類推すれば、大都会暮らしの人が毎日一度、偶々出くわすかどうかくらいの程度だ。)

では次に世俗のC型人間が、A・E型遺伝子を得てプロト優秀者/優秀者となっていく場合について論じる。
ついてはC型人間(非隔絶環境)ベースでA・E型先天性(CE・CA・CAE型人間)を受け取る者については、今後は一括りにして『C型先天的論考者』と呼ぶことにする。

彼らは、専ら人の世を渡るに際して他者の感情を操作/管理することについて論考を為した上で、こうした“人間関係の調整能を競うがごとくのゲーム”の場、
とりわけ一般社会という“ごった煮”環境の中で、この手の高度な対人的メタ認知系諸能力を存分に発揮できる最高の場としての“政界/財界(※注)”においてこそ、プロト優秀者・優秀者化していく。
(つづく)
174:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:13:00 ID:???
32 of 34 (つづき)

(※注 基本的にはアントレプレナーではない“サラリーマン経営者”、すなわちあくまでも“世渡り上手”の範疇のみに属する人々の世界である。)

ところで(経験・実証主義という概念を知らず)自分の頭の中だけでの認知/理解の反復/往復に明け暮れる日々を過ごす“平民”たる一般的なC型人間は、生きる事自体に伴う心の痛み/苦しみ等に影響されまくった認知/判断を為す。
その上で彼らは、例えば部活とか恋愛とか家業の商売を手伝ったりなどと、多彩な人生経験を経る者でもあるから、自分自身の心の痛み/苦しみ/喜び/安寧等を、最も擬制的に表現してくれる物語等を求める傾向を顕著に持つ。
例えば彼らは己の存在拘束性下において気に入るような、癒されるような言説を為す者の単純な追従者になりやすく、例えばかつての大日本帝国の旧制高校生などは、一度も会って話もしたことがない和辻哲郎や阿部次郎などの言説に、いともたやすく心酔したものである。

このC型人間の普遍的特徴をメタ認知できるC型先天的論考者は、すかさず認知の自動性から脱して、言語や振る舞い/仕草等の外観を人々の嗜好に沿わせることで、自己保存できることを覚えていく。
とどのつまりはAE型人間とは異なり、E型資質を主として学術/芸術の分野に仕向けるような“保護系”隔絶環境を持たないために、(E・A型人間遺伝子を運良く獲得しただけの世俗者である)C型先天的論考者が、
こうした認知の弁証法的運動を経て、やがては「人間関係の操作/管理」に執心するプロト優秀者/優秀者に成っていくのは自然の理である。

すなわち彼らは他者の気を惹いたり、駆け引きしたり、楽しませたり、鼓舞したりetc.・・すなわち修辞(レトリック)能力(※注1)と『感情的債権・債務(※注2)』の処理能力という、もっぱら対人操作・管理上の合理性の力(便法/支配力等)をもたらすものとしてこそ、A・E型資質を開花させる。
(※注1 真理/真実を探索するためでなく、如何に“言葉の外観上の尤もらしさ/言葉の引き綱”を繰り出して他者(C型人間)の心に響かせ、もって意図した通りの行動に相手を仕向けるか・・この一事のみに向けられる帰納的思考能力。)
(つづく)
175:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:13:51 ID:???
33 of 34 (つづき)

(※注2 例えば恩義/義理/信用/信頼/友好/相互扶助/対立関係/緊張状態等の、人間関係の操作/管理の場において有意な心理性無形財。)

では実例を観じよう。C型先天的論考者の優秀者バークの前掲書からまた引用する。

「今や全てが変えられようとしています。権力を優しきものとし服従を自由な行為とした全ての心楽しい幻想、人生の様々な明暗を調和させ、
また私人的交際を美しくも柔和にもしている感情を政治の中に穏やかに同化した幻想は、(中略)おしなべて笑うべきもの、不条理なもの、時代遅れの流行として退けられかけています。
この考え方に従えば、国王は一人の男に過ぎず、王妃は一人の女に過ぎません。そして女は一匹の動物に過ぎず、しかも必ずしも最高級の動物ではありません。(中略)法が支持されるのは、唯、それ自身が与える恐怖によってのみです。
また各個人が自分だけの私的打算から発してその中に見出すか、あるいは私的利益から発して差し控えても良いと考えるか、いずれかの利害関心によってのみです。彼らのアカデミーの木立の中では、どの樹間を透してもその果てに見えるのは絞首台だけです。」

いかがだろうか。これはフランスで王政が停止され民主体制の樹立が宣せられた直後(1790)に、イギリス/アイルランド/フランス等で緊急出版されたものだが、これこそがC型人間優秀者の修辞の粋と言えるだろう。更に引用を続けよう。

「財産は(中略)当然ながら不平等を特徴的な本質とする。それゆえ羨望を招き強欲心を挑発する巨大財産は、危険の可能性から守られねばならず、その状態にあって初めて、
あらゆる階梯(オレ注; 庶民層を含めた全国民)の一層零細な財産にとっても自然な堡塁たりうる。(中略)それ(オレ注; 富裕であること)は我々の弱さを我々の美徳のために役立てる。それは強欲心にすら慈愛の心を接木する。
(中略)ある種の上品に制御された優位とある程度までの、決して排他的な独占に及ばない優先は、決して不自然でも不当でも不得策でもない。」

これは保守主義者の思想の本質としての「私有・既得財産」について論じた箇所だが、ここでは実に見事な論理構造をもってして「富裕層/富裕であることの価値」から指導者・特権者階層の擁護へとつながる持論を主張している。
(つづく)
176:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/08/19(日)15:14:20 ID:???
34 of 34 (つづき)

このようにC型先天的論考者の優秀者においては合理的思考能は、他者を操作するという点において重用されつつも(※注)、その能力の土台においては、A・E型の論理性/メタ認知系諸能力がしっかりと働いてもいる。
(※注 C型人間優秀者的修辞においては論説内容自体の真理・真実性などは、イザとなれば微塵も意に介してはならないのである。
何故ならそんなことを気にしているようでは、無知蒙昧のC型人間が形成する“ごった煮世俗界の極致”としての“政治の現場”においては、一瞬にして吹き飛ばされてしまうからである。)

ちなみにこのバーク論の対照的論説と見做せるものが、これもたびたび引用しているところの、反対陣営(左派の一つの「1789年協会」)のA型人間プロト優秀者の論客コンドルセが同時期にフランス革命にまつわり論じた前掲書、
すなわち「人間精神の進歩に関する歴史的展望の総説(人間精神進歩史)」(1793 執筆)なのであり、この両著におけるレトリックを比べてみるなら、実感を伴ってC型先天的論考者の心理操作術の凄さを理解できる。

では最後に以上のこと共を踏まえて、「優秀者」についての追加定義を以下に示す。

『優秀者とは、己が天賦されているところのA型/C型単体の気質がもたらす傾向(A型・・進歩・発展性(真理・真実性)/C型・・連帯性(一次的連帯性)をメタ認知し、もって後天的に認知様態の弁証法的運動(破壊と創造)により主体性/個性を良く涵養しつつ、
包括的合理性(経験・実証主義/適宜・経済性/階層的論理体系)に基づく主体的認知体系の構築を成した者である。』

(「先天性/後天性が織り成す四基本的人間類型と優秀者」 おわり)
(第十四回 おわり)
177:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:29:24 ID:???
1 of 20

「市民層  概論」 第十五回

「始原的二人間類型以外の諸類型」

『A型人間が発明/革新し、C型人間が生産する。』 ・・これが人類の基本的な営為である。
その上で第十四回で提示したように、この始原的な二類型を基にしたところの、AE型/CE型等の『複合属性型』が、更なる多様性を人類の遺伝子プールに供給し続けていく。
そこでこのチャプターでは、こうした先発二類型をベースにモザイク的に組み合わされた先天性であるところの『複合属性型人間』の多様性について説明する。

一般社会に船出したA型人間は、多様ではあっても長期的にはC型人間が主流である中で交配を為し続けるためにC型人間への回帰傾向を持たされて、遺伝資質的にはいずれは完全に人類主流派のC型人間に戻る。
そしてこの回帰過程の進捗に際しては、様々な過渡的な複合属性型人間としての『回帰型人間/R型人間(Revolutionary-type person)』が現出することとなる。

例えば一般社会においては、AE型人間はCE型人間に転換した場合はそれなりの権勢を獲得して、
もって同類のC型人間同士で家系的地歩を固められるにしても、A型人間ベースのままでは、大半は隔絶環境を維持できるような同種の配偶遺伝子とは巡り会えないから、いずれはC型人間属性への明晰な回帰性を現すR型人間としての『AC型人間(※注)』に成らざるを得ない。
(※注 前回示したC型ベースのCA型人間と混同しないように。これもC型人間とA型人間の交配により発生する複合属性型だが、しかしてこれはC型主属性とA型付帯属性の複合型。
それに対してAC型人間とは、A型主属性下においてC型属性を再び強化されたところの過渡的な複合属性型、すなわち回帰型である。
ちなみに人類は元々、C型人間として発生したから、A型人間であってもC型人間遺伝子とその資質自体は潜在的に残留している。
つまりあくまでバイパス・チャンクのようにしてC型人間属性を迂回した上でA型人間属性が顕在化(A型ベース化)しているだけなので、C型人間属性はそれなりの契機に際しては、容易に再顕現する。)

さてA型人間属性とC型人間属性が明瞭に拮抗するところのAC型人間は、A・C型両属性の折り合いをつけられずに強度に統失的な社会不適応性を顕現させる。
(つづく)
178:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:30:34 ID:???
2 of 20 (つづき)

つまり織田信長/天地真理などに典型的に見出せるが如くに、A型人間的真・美・善性とC型人間的凡庸さが統合されずにモザイク性が発生する。
このようにAC型人間は、世間的ステレオタイプとしての“天才”、すなわち天才と狂気が織り成すところのいわゆる“天才肌”気質を持つので、『AC型天才』とも別称することにする。

つまるところC型属性に由来する視野狭窄性を持つところのAC型天才(=AC型人間)は優秀者化しにくく、「奇人/変人/独裁者/(奇矯な)天才/浮世離れした求道者」のようなものに行き着くしかないのである。
例えば一休宗純/織田信長/大鳥逸平/高山彦九郎/田中正造/南方熊楠/浜口雄幸/芥川龍之介/福岡正信/天地真理/ティムール/ピエール・ベール/ピョートル大帝/ジャン・ジャック・ルソー(※注)/ショパン/ニーチェ/
ヴィルヘルム・ライヒ/チャーリー・パーカー/ジミ・ヘンドリクス/フレディ・マーキュリーなどが代表的である。
(※注 共和制都市国家ジュネーヴのプロテスタント市民の子として生まれたAC型人間。父方譲りと思われる放蕩・ADHD的気質と叔母/乳母による歪な隔絶的被養育環境に所以すると思われるアダルト・チルドレン(情愛飢餓)・自閉・猜疑的人格、
その上で著しく母性本能をくすぐる“イケメン”でもあるためにマゾヒスティックな性的嗜癖まで持ったところの、正に“社会不適応性の塊”のような人物であり、
自分の5人の実子全員を生まれてすぐに孤児院送りにしたこと/「エミール」刊行の10日後には即行でパリ大学神学部に告発され、その2日後には高等法院で有罪判決と逮捕令が下され、
約5年間の逃亡生活を余儀なくされたこと等の異色な浮き沈みを含むところの、波乱万丈の生涯を送った。

しかしもちろんこのルソーこそは、単なる奇人/変人の域を遥かに超え、フランス革命時にロベスピエールによって一躍、“民主主義の申し子”として神輿に担ぎ上げられて以来、歴史の弁証法的運動を促す重責に与ったところの、正に “不世出の天才”である。
すなわち主著の「社会契約論」(1762)において提示された社会観であるところの、「(人民総体の集合意識のようなものとして抽出し得るとするところの共通利害意識としての)
(つづく)
179:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:31:17 ID:???
3 of 20 (つづき)

“一般意思”に基礎づけられている社会」モデルは、形而上的には一貫した演繹的整合性を持つところの端正な論理性を伴ったがゆえに、
当時、進行中の民主化へ向かう時代の弁証法的運動に際しては、左派プロパガンダの代表的な拠り所として大いに担がれ続けたのだ。
もっとも当のルソーにおいては、そのような目的に与しようとする意図などは微塵もなかったことは、同論中においては「民主制」こそは最も非現実的な統治体制だと論じていることから自明である。)

では次にAE型人間について。彼らはA型にありがちな処世の不得手さを、思考統御・監督系諸機能を始めとしたところの優れたメタ認知系諸能力によって克服し得るだけの資質を持つ。しかしそうであったとしても尚、AE型の成功者は圧倒的に研究者・芸術家タイプである。
その上でA型人間が越えるべき“ハードルの高さ”は中途半端なものではなく、最低でも「前人未到の領域の開拓(※注)」でなければ、世間の認めるところとはならない。
例えばアリストテレス/アリスタルコス/ユークリッド/エラトステネス/マルティン・ショーンガウアー/ジョスカン・デ・プレ/ルネ・デカルト/バーナード・マンデヴィル/アイザック・ニュートン/アダム・スミス/
ゲオルグ・ヘーゲル/カール・マルクス/エミール・デュルケーム/マックス・ヴェーバー/エーリッヒ・フロム/大久保利通/高群逸枝/松下幸之助などが、代表的。
(※注 もっとも前人未踏の領域などは人々の周りに幾らでも転がっているところの、ありふれたものだ。)

ところでアカデミズムだろうが最先端技術の世界だろうが、この世で人が集まる処は全てC型人間がその大勢を占め、A型人間同士だけでつるめるような場所など、この地上の何処にもない。
だからSTAP細胞騒動における笹井芳樹の痛ましい事例を観るまでもなく、AE型人間がその天賦された資質を遺憾なく発現させて幸福を手にするためには、まずは己が社会人としては突き抜けて孤高であること/自分固有の(闘士/戦士としての)苦しみの理解・援護者など
普通には求めて求めえるものではない、もって強力な意志を伴うところの己自身の人格的諸能力によってこそ支えられるしかないことを認められるだけの、主体的達成意欲系人格的能力であるところの矜持/毅然さを持つ必要がある。
(つづく)
180:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:31:59 ID:???
4 of 20 (つづき)

こうして例え天涯孤独の境遇になったとしても尚、AE型人間らしい活躍/成功とはそのような存在拘束性に損なわれるような性質のものではないことをメタ認知でき、もって群生型生活に影響されて
A型としては無価値な人間になってしまうことを終生、免れ続けて居られる者は、極めて稀に“天の図らい”としか思えないような因果の下て生じるのみである。
例えば、アルキメデス/(福音記者の)ヨハネ/トマス・ホッブズ/ルートヴィヒ・ベートーベン/ジークムント・フロイト/ヘルマン・ヘッセ/空也などが、そのようなAE型人間の極みとでも呼ぶべき歴史的にも僅少な者たちだ。

では次はCE型人間について。CE型人間が第一義的に為さなければならないことは、「人々の気質/人格/“頭の程度” の把握」である。
とりわけ団体/組織/社会のトップに成らんとする者にとっては、これは人間関係の操作/管理の場における政治的手腕を持つための源泉となる。
その上でAE型人間のような真理の探求に生きることに所以する厳しさとは違うところのCE型人間が立ち向かう厳しさとは、性格/人格/
論考能に係る多様な差異を持つ人々を操作/管理することに必要な膨大な手間(時間・財物・肉体的負担)、無駄と低劣さ(無意味な形式・手続き/紛争/潰し合い等)、様々な避けがたい精神的ストレスに所以するものだ。
代表的なCE型人間は、ルイ14世/エドマンド・バーク/ F.D.ルーズベルト/後三条天皇/平清盛/源頼朝/蓮如/豊臣秀吉/山県有朋(※注)/山本権兵衛/出光佐三などだ。
(※注 彼は、内閣/国会等とは別系統の天皇直属機構として軍制を規定する二元統治体制の確立に成功したことで、国家の秩序/存続が衆愚に翻弄されてしまう可能性を未然に排除したところの、大日本帝国体制確立の影の最大の功労者である。
その上で個人的にも陸軍人事管理権を、長州閥頭目として「一品会/同裳会」等を通じて完全掌握し、更には警察/枢密院/貴族院等をも実質的に支配した。)

さてルース・ベネディクトが、「生まれた時から、その生まれ落ちた場所の慣習が人間の経験や行動を形成していく。話ができるようになった時、人は彼の所属する文化の一つの産物に過ぎなくなる。成長してその文化の中での活動の一部分を果たすようになった時、慣習の癖が彼の癖となり、
(つづく)
181:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:32:44 ID:???
5 of 20 (つづき)

慣習の信条が彼の信条となり、慣習にとって不可能なことは彼にとっても不可能となる。」(「文化の型」 1934)とした自動性、あるいはヘッセにおいては、「彼らは皆、楽しんでいるか仕事をしており、もったいぶり、
せわしがり、わめき、笑い、互いにおくびを出し合い、騒ぎ、洒落を言い、2ペンニヒの小銭のために罵り合う。それでみんないい気持ちになり、支障なく、自分にも世界にも大いに満足している。」(「ナルチスとゴルトムント(知と愛)」 1930)とした一次的連帯性、
更にゲーテが、「大抵の者は、大部分の時間を生きるために使ってしまう、そして僅かに残った自由な時間があると、かえって落ち着かず、あらゆる手段を尽くしてそれを振り捨てようとするのだ。」(「若きウェルテルの悩み」 1774)
と述べた無思考性の如きの種々のC型人間諸属性は、前述のように人間であるならば無意識レベルにおいては、A型人間をも含めた誰しもが捨てきれずに保持するものである。
そうであるからこそ一般社会における先天性人間類型は、容易にC型への回帰傾向を顕現させ、R型人間が形成されるのであった。

その上でR型人間はやがては、際立ったA・E型人間属性は最早、持たないながらも、まだ完全にはC型人間ではないような「純粋さ/一途さ」を持つ者とか、あるいはCE型人間ほどではないにしろ、
確かにE型人間に似たような「賢さ/論考能」を持つといった、C型属性ベースと言えるまでに回帰した『CR型人間』、完全なC型人間に戻ってしまう手前の複合型人間ヴァリエーションの最終形にまで、必然的に行き着く。

例えばパスカル/フリードリヒ大王(二世)/ツルゲーネフ/ジョセフィン・ベーカー/柳田国男/北里柴三郎/アントニオ猪木/三浦雄一郎/司馬遼太郎/渡辺香津美のような、C型人間としての社会適応力(世俗的人間関係操作・管理能力など。)を持ちながら、
かつての交配から得たところのA型の論理性を持つために、活発な合理的活動を長期間に及んで為し続けられる人々がCR型人間である。
またE型人間に準ずるような主体性/個性を持つところの、ヒエロニムス・ボス/ゴーゴリ/トクヴィル/マイルス・デイビス/ジェフ・ベゾス/ミッキー・ドレクスラー/平賀源内/高田屋嘉兵衛/安田善次郎/二葉亭四迷/高峰譲吉/児玉源太郎/
(つづく)
182:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:33:35 ID:???
6 of 20 (つづき)

小村寿太郎/河合栄治郎/高柳健次郎/松本清張/野村克也/岡野雅行/安保徹/竹中平蔵などといった、成功したニッチ企業の創業者/成功したフリーランサー等、如何にも“巷の智慧者”といったタイプもCR型人間である。

このように人間界には多様な複合属性型人間が存在するわけだが、こうなると当然の如くに、これらと絡んだ後天的ヴァリエーションも、また多様に顕現することになる。
ちなみに今回のテーマはあくまで“先天性”だから、後天性を含むものについては、以下に最も重要な一つのみを挙げるに留めておく。

エーリッヒ・フロムは、「通常人(オレ注 ; C・R型ヴァリエーションと凡庸者。)とは社会に対して過剰適応してしまった人々であり、人間的価値から鑑みれば、むしろ“カタワ(不健康)”である。
一方、自己を生産的に表現する能力(個性)を残すところの個性的な人間(オレ注 ; A・E・R型ヴァリエーションと優秀者。)は、しばしば神経症的であるがゆえに世間的にはカタワ(不健康)として見做されてしまうが、人間の幸福と自己実現という観点からは実は彼らの方こそ、
通常人よりも遥かに健康である。」(「自由からの逃走」 1941)旨を主張する。
その上で“カタワ(凡庸者)”が個性的な人間(優秀者)の行動を模範にしたり、あるいは優秀者が確立した高度な学術を履修したりした場合には、
非常に知識が豊富であっても全く「論考」ということができないC型人間的エリート(※注)、その上で場合によっては俗界の中ではなまじ頭抜けている分、むしろ傍迷惑な“バカエリート”が出来上がる。
(※注 前チャプターの「E型人間」の説明部分の(※注2)を参照せよ。)

この「尊大な善人」の一種である凡庸者は、例えば既にA型人間により切り拓かれた道を、こともあろうに先駆者ヅラして闊歩したり、口を開く度に偉ぶったりする勘違いブリを大いに発揮したりする。
すなわち彼らは自分が何をやっているかが分からない。幼年期に確たる自己批判的観念を涵養できなかったためにメタ認知能力が脆弱なのである。
だからA型人間により生み出された知を、あたかも「自ら生み出した」と言わんばかりに悦に入れる。例えば池上彰などに典型的に見られるように、その様は最早、滑稽さを通り越し唖然とさせられるものがある。
(つづく)
183:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:35:43 ID:???
7 of 20 (つづき)

彼らは正にフロムが言う通りの視野狭窄的な“カタワ”であり、その上で尊大な善人としての強度のストイシズム/服従等に起因するところの不安/自愛の欠如/敵意等の凡庸者的ストレスの蓄積が、
その捌け口としての貪欲さ/自己中心的人格を形成させしめ、このようなバカエリートが出来上がる(フロムの前掲書 参照。)という次第だ。
こんな彼らのことを今後は『C型秀才トートロジスト(※注1)』と呼んで、概ね人畜無害な他の尊大な善人とは分別する。
(※注1 トートロジストについては第九回を参照のこと。またここでの“秀才”という言葉は、“高級事務員”的な有能さを表している。医者、弁護士などの士師業/学者/旅客機操縦員/政府高官/大企業役員/言論・文化人などに多い。)

さて他者の模倣/アイディアの剽窃が習慣化しているにも拘らず、そのような己自身を客観的に評価できるだけの人格的能力(思考統御・監督系諸機能の源泉)を持たないところの極めて有害な尊大な善人としてのC型秀才トートロジストが権勢を得たりした際には、
人類の進歩/発展に対して凄まじい妨害/害悪を為すのが普通である。
すなわちC型人間である彼らは当然に、その持てる力の全てを自らの群生型生活を維持するためだけに注ぎ込むために、社会の圧倒的多数派であるところのロボット型人間 (第九回 参照)大衆を
上手に騙すための(本音/建前の“使い分け”ではなく)詐術を固定的に生業にする。

こんな彼らは言うならば、凡庸者社会の専制的支配者として自らを最適化しているところの"凡庸者のならず者"である。その上でどうしても特記しておかなければならないことがある。
というのもこのC型秀才トートロジストが、人間界全体の長期的な弁証法的運動までをも非常に"忌々(ゆゆ)しき方向にスってん転ばせてしまう"場合があるからである。

例えばかつてついに"ヘーゲル/フレーゲ/フッサールなどの衝撃"のために“虚仮威(こけおど)し”、すなわち非経験・実証主義の遥か彼方の“詐欺”の彼岸にまで行ってしまった一群の者たちが居た。
(つづく)
184:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:36:30 ID:???
8 of 20 (つづき)

すなわち「実存主義」「論理実証主義」「フランクフルト学派」だの、「脱構築主義」だのといった、言わば“チンプンカンプンなオレは凄い”詐欺とでも呼ぶべき生業に勤しみ、人間界全体をまんまと騙しおせた連中のことだ。
これはヘーゲルの偉大さではなく、歪にもその"限りなく珍竹林、かつ難解さ"にこそ自らの"立つ瀬"を見出したところの衒学者たちの系譜だと言える。
始原的にはヘーゲル以降に“真摯なチンプンカンプンさ”を保持した者たち、例えばニーチェ/フレーゲ/フッサール/ラッセル/ウィトゲンシュタインといった"核"の周りに"糞蝿"のようにたかった者たち、すなわち
ハイデッガー/カルナップ/ポパー/ホルクハイマー/アドルノ/サルトルなどから始まり、ハーバーマス/デリダ/ニクラス・ルーマンあたりへとつながっていく。
(※注 彼らは経験・実証主義性が強い領域には絶対に寄り付かない。何故ならこのような領域では誤謬が誤謬として明確に指摘されうるからである。例えば暦は何故、経年のユリウス暦が駆逐されグレゴリウス暦に取って替わられたか?
それは4年間に一度の閏年を定めているだけの前者では春・秋分点とのズレ(ちなみに実際の一年の長さは平均で365日5時間48分46秒。)が大きすぎて不合理であることが、経験(観測)的に実証されてしまったからである。)

この手の輩共の衒学的詐欺のために用いられる言語表現には、常に「私はいつも熱燗で投企する。」的なチンプンカンプンさが溢れている。
このようなものは統語法的には言語として成立はしていても、文意的には如何ようにも解釈可能であるために、この類の文が連続している場合には判然性こそが肝要であるところの科学的論説の現場においては合理的な質を持てない。
(これを「私はいつも熱燗で一杯やる。」的な文にするならば、直ちに具体的な行為を同定できる科学命題となり、合理的な質を持つのである。)

その上で例えばハイデッガーなどは、その主著の「存在と時間」の刊行で一躍、著名人となった後はナチス党の熱烈的信奉者としてフライブルク大学学長となり、同書の内容とヒトラー賛美を絡み合わせたプロパガンダの喧伝者となったりもした。
(つづく)
185:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:37:10 ID:???
9 of 20 (つづき)

またサルトルという“異様に大物ぶった”男の真骨頂は、時代そのものをも含めたありとあらゆる事物/事象への極致的依存、例えば直近で一世を風靡した他者の業績のパクリ(※注)/仰々しい粉飾、あるいはそれへの便乗/批判/評論などであった。
(※注 例えば彼が主張した代表的観念である「即自/対自」については、フォイエルバッハ「キリスト教の本質」(1841)緒論第一章「人間一般の本質」の中に、サルトル的"対自"に含まれる核概念(最重要ポイント)が一つ残らず全て提示されている。)

更に知能のみならず胆力もまた"ユルすぎ"て、何かの問題を提起/提唱しようとしているのだが、一向に問題それ自体の肝/ポイントすら掴めずに、結果的にはインパクトも何もない"ゆるキャラ"のようになってしまったのが、「フランクフルト学派」であった。
またハイデッガー的"言葉の詐術"の正統(?)継承者として、「脱構築」という言葉のブームを全世界に巻き起こしたのがデリダだ。

このような虚仮威しとしての「衒学」は、古代ギリシア以来、厖大なC型秀才トートロジストが脈々と継承し続けてきていて、近現代においてはこのように、
ヘーゲル/フッサールあたりの故意的難解論文の“チンプンカンプンさ”という特殊な付帯的属性が、C型秀才トートロジストにより大々的に権威付け/フィーチャーさせしめられて、“チンプンカンプンなオレは凄い”詐欺のスタイルが確立されたのだ。
その上でポストモダン期(1970-)、すなわち既存の支配的観念を手当たり次第、破壊しようとする傾向を持つところの「巨大な意識革命」(第五回 参照)に入ると、(読者各位においては先刻ご承知のように)これが学界のエートスを席巻するほどに勢いづいてしまったのだ。
(「始原的二人間類型以外の諸類型」 おわり)
(つづく)
186:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:39:38 ID:???
10 of 20 (つづき)

「宗教から享楽へ」

19世紀後半において、上流向けの余暇(長期休養/リゾート旅行など)から最下層の労働者向けの娯楽に至るまで、全国民に選り取り見取りの享楽のバラエティを供給できる、いわば”都市型享楽文化の大発展時代”とでも言うべき、人類史を画するエポックがついに到来した。
例えばパリの1889年/1900年の万博では、ありとあらゆる事物が享楽のオブジェと化した。そこには仮装したキャストによるアトラクション「バスチーユの囚人の脱走」「スイス村」、北米のカウボーイやインディアンを再現した「バッファロー・ビル・パーク」、
シンデレラから青髭までのおとぎ話の登場人物を集めた「おとぎの国」「ジャワの踊り子/中国の舞踏」「カイロの路地/アラブのバザール」などといったミニ・テーマパーク、
直径106mで40台据付られたワゴンそれぞれに30人/合計1200人が乗り込める大観覧車/ジェットコースター/ウォーター・シュートなどが御目見えしていた。

そしてパリ市民の日々の生活に目を転じると、騒がしさと陽気さと酒類やタバコの大量消費の中で果てることがない享楽の大洪水もまた現出していた。
例えばパレード/サーカス/大宴会/ダンス/ストリップ/賭博/紙玉・かんしゃく玉・スパイラルという花火等の遊具/アヘン喫煙等々が、
また「チボリ」と呼ばれる祭の縁日においては、機械仕掛けの布に描いた徒刑場の絵/いかがわしいキャバレー/解剖/シベリア横断旅行/荒れ狂う波浪に翻弄される蒸気船などといったテーマの「パノラマ」があった。
更には1895年に初めて公開された映画はたちまち娯楽の王者となり、カタコンブ(ローマ時代の地下墓地)や地下の下水道網までもが散歩/気晴らしのための享楽スポットにされた。

とりわけエロチック/グロテスク/滑稽/ドタバタや乱痴気さを追い求めることにはほとんど際限がなかった。例えばデブ女の乳房でのクルミ割り/放屁男/おしりの穴につないだ管での音楽演奏/女子レスリング/裸の乳房をリンゴの盆にのせて歩き回る女給/
カドリーユやカンカン等での大股開き・余りにも高く上げられる足・男性客の頭の上に足を通してスカートをまくり上げる田舎娘のダンサーなどだ。
そして貴族/ブルジョアと最下層の労働者は、選り取り見取りの売春婦を求めてうろつき回っていた。
(つづく)
187:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:40:21 ID:???
11 of 20 (つづき)

もちろん狭い海峡を挟んだ向こう岸のロンドンでも事情は全く変わらない。例えば1851年の世界初の万博には延べ600万人の入場者があり、この文字通りの世紀の大享楽イベントの大成功(※注)で、イギリスは莫大な収益を上げている。
(※注 2万点弱の展示品が陳列され万博の象徴となった、4,000トンの鉄骨枠組みに400トンのガラスをハメ込んだ全長560m全幅140m全高40mの建造物クリスタル・パレスの優に数街区に相当するほどの建物敷地の広大さ/
巨大温室の如き壮麗さに類するような建築物は、これ以降現代に至るまで他には無い(惜しくも1936年の火災で全焼失。)。)

その上でこの時代のロンドンもまた、都市空間全体が喧騒と活気に満ちた巨大な劇場のようなものであり、例えばビリングスゲイトの鮮魚市場/コベントガーデンの青果・花き・野菜市場(「マイ・フェア・レディ」の舞台)
などの活気と賑わいの周辺には、飲食物(ジンジャービール/糖蜜ロック/パイ/豚足/ハムサンド/アイスクリーム/ライスミルクなど)や
卑猥な読み物を売る屋台/路上アーティスト(人形芝居/火食い魔術/ナイフ呑み/踊る犬や猿/怪力/綱渡り/覗きカラクリ/パノラマなど)が溢れていた。
そして1880年代からは2-3ペンスから入場できるミュージック・ホールが全盛期を迎え、人々は“スター”(毎日、夜になると出てくるから)と呼ばれたホールの常連芸人に大喝采を送って楽しんだものだ。

ところでロンドンの上流層と最下層の主たる娯楽は飲酒/賭博/犯罪鑑賞である。例えば階級やTPOに応じた選り取り見取りの酒類は、最も安価なジンからエール酒/リキュール/パール/黒ビール/ブランディ/ボルドーワイン/スコッチウイスキーまで取り揃えられたし、
競馬/各種スポーツ/闘鶏/闘犬/鼠殺し犬とか暴れ牛の尾に犬猫を結びつけるなどの様々な動物虐待/政治/戦争の継続期間/他人の死亡年齢や子供の数など、ありとあらゆる事物/事象が、賭博の対象となった。
そして月曜日の公開絞首刑には数万人を超える人々が詰めかけ、犯罪者・死刑囚のノンフィクション小説など凶悪殺人事件は(娯楽の対象として)大人気を博し、メディアは商売のために殺人熱まで煽る始末であった。
(つづく)
188:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:41:10 ID:???
12 of 20 (つづき)

更にパリの場合と同様、ロンドン市民の隠れた最高の享楽は売買春であったことは言うまでもない。すなわち「ドリー・モップス」と呼ばれる素人売春婦から上流紳士向けの高級娼婦まで10万人以上、3,000箇所以上の売春宿/娼館があった。

このように19世紀後半の西洋の先進的大都市においては大きな恐慌などを途中に挟みつつもそれでも尚、かつてないほどの「享楽的エートス」が、パーティ会場の法則の作用により
(階層的属性としては真面目/有能な、資本主義体制に粛々と適応していく中産階層を除いたところの)社会ヒエラルキーの両端である世襲貴族階層/大衆層において大拡散した。
すなわち全人類の97%、指導者・特権者階層と大衆層の多方を占めるところの、(認知の)論理性を練磨するためには必須であるところの己と向き合う孤独な鍛錬などとは元々無縁のC型人間たちは、
この産業社会の黎明・成長期においては最早、高次ストイシズム系行動文化(第十三回 参照)に支えられた真剣さ/厳しさ/人格能力等には意味がないとでも言わんばかりに無駄な抵抗は止め、
「神への信心/敬虔さに由来する善性と自制」観念から「電気と機械技術等が創りだすスペクタクルと刹那の熱狂」に“処世の王冠”をあっさりと据げ換えたというわけである。

ま、いずれにせよ寝ても覚めても商人が突きつけてくる享楽への誘惑からいつまでも逃れられるC型人間などは、そもそも居ようはずはなく、
プロテスタンティズムの教え(※注1)を真摯に実践するところの、ひたすら寡黙であり続ける中産階層と僅かなA型人間以外の者たちにおいては、所詮は他には選ぶべき道はなかった。
そしてこのことは必然的に、C型人間が担う人間社会の「親和性」(第十四回 参照)、すなわち他者への優しさ/思いやり等(※注2)を、
A型人間的(真・美・善的)価値観を基調とする支配的観念により全社会的にサポートするという従前までの体制に決定的打撃を被らせた(※注3)。
(※注1 己の力など及びもつかない “巨大な意思”としての神意に対する無私の服従。)
(※注2 例えば旅人/放浪者/職人としての“武者修行行脚”の若者へのもてなし/弱者に対する奉仕など。)
(つづく)
189:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:41:51 ID:???
13 of 20 (つづき)

(※注3 例えば「レ・ミゼラブル」(ユーゴー 1862)第一部第一章八「酒の後の哲学」の「司教さん、エホバの仮説にはうんざりしますよ。」以下において提示されるところの、「神などどこにも存在せず人間は死んだらそれでオシマイ、
よって現世で欲望を飽くことなく追求した者勝ち。」という旨の処世観を持つ上院議員の話などが象徴的。
その上で人間というものは、快楽を抑制するための確固とした動機/罪悪感等をもたらせる高次ストイシズム系行動文化(第十三回 参照)を一度、失ってしまうならば、後は神経学的にはアル中などの薬物中毒と同様に、
ニューロンの樹状突起棘の激増によって脳内麻薬様物質が常に大量に分泌されていなければ我慢できなくなるような状態に、速やかに移行するのみである。その上でゆくゆくはナシ崩し的に、快楽の心地良さのためには非道/犯罪でさえも厭わなくなるまでに堕落していく。)

こうして近代先進文明国において、高次ストイシズム系行動文化に基づくC型人間的連帯性としての「一次的連帯性」(第十四回 参照)にトドメの引導が渡されたこと(※注1)で具体的には、
慈悲や情愛の深さが人格化しているような者は気が狂わんばかりになりつつ漸次、社会から居場所を奪われていった。
そしてこうなると世襲貴族階層内の例えば”ノブレス・オブリージュ”として知られたところの、公職/社会奉仕に向けられるイギリス世襲貴族の誇り/責任意識などもまた、
一文の値打ちも無い邪魔物として廃棄され始め、これは20世紀初頭期までには概ね形骸化した(※注2)。
更にはノブレス・オブリージュが実質的に消失したことを見た大衆層C型人間たちが、
より無責任/自己中心的な生き方に喜々としてはまっていくという蟻地獄的スパイラルが生起して、人類史を画するところの存在拘束性の、正に唯物史観的なパラダイム転換期に入った。
(※注1 西洋文明圏は、12世紀の中世自由都市の隆盛期をもって一応は、二次的連帯社会に移行したと見做せる。その上で上述したところのA型人間的(真・美・善的)価値観、
すなわちキリスト教信仰を基調とする支配的観念にサポートされた一次的連帯性も、並行してしぶとく継承され続けてはきた。
だがそれもついに近代の開幕期に至っては決定的打撃を被り、トドメの引導を渡された。
(つづく)
190:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:42:36 ID:???
14 of 20 (つづき)

ちなみに第十四回では、一次的連帯社会の次には分業化促進によりA型人間が存在感を増していく二次的連帯社会が現れると単純に述べたが、
実際の歴史では形式的に抽象化されたものとしてのモデルは、そのままの単純なカタチでは具現化されないのは当然(第五回 参照)。)
(※注2 A.コルバン「レジャーの誕生」によると、1874年にグラッドストーンの称号を受けたウェストミンスターの第一公爵はヴィクトリア朝の紳士そのものであり、信心深さ/質実さ/家庭生活の神聖視/精神の細やかさ/慈悲深さの気質を持っていたが、
その孫の20世紀前半期に生きた第二公爵は最早、慈悲や家族愛の心とは無縁の離婚と再婚を繰り返すプレイボーイであり、競艇/ヨット/自動車/飛行機/旅行/ハンティング/カジノなどの享楽にその生涯を費やした。)

すなわちほとんど全てのC型人間が、親和性に基づく連帯性(一次的連帯性)をゴミのようにポイポイ捨て去っていくという歴史的ステージに入ることで近代西洋社会はついに、
A・E型人間が優越性を顕現させるための必須要件とも言えるところの内向性を始めとした高貴な人格的諸能力/メタ認知系諸能力を育むための隔絶環境自体が、そぐわない社会へと変質していく。

というのも或る社会が安定した隔絶環境を保持するためには、経済的特権を伴う世襲貴族制が必要だからであり、
翻って産業社会化した近代以降においては、如何なる大資本家一族だろうが、時流による浮沈とそれに伴う一族の結束の不安定さが顕現するために、従前ほどには磐石な隔絶環境は望むべくもなくなったからだ。

ちなみに繰り返しになるが、一般社会の“貧乏暇なし”環境においては、人が高度な論考能を涵養するのは不可能であり、A型人間属性としての「真/美/善」性を伴う論理性は、世事/人間関係にほとんど煩わされる必要がないところの隔絶環境以外では涵養され得ないし、
その上でC型人間はこれまでは、A型人間が教えるキリスト教的真・美・善に則る実践を伴う他者との良好・相互的人格尊重/平和的な関係(一次的連帯)が在ったればこそA型人間を畏怖し、これに貢いで、その隔絶された生活を、進んで支えてやってもきたのである。

というわけでついに、ありとあらゆる価値が資本主義という“勝ち残りゲーム”性の渦中に投じられることとなった近代社会は、
(つづく)
191:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:43:15 ID:???
15 of 20 (つづき)

隔絶環境の存続に適さない唯物史観的存在拘束性のパラダイム転換期に入ってしまったことで、A型人間自体が生まれにくくなってしまい、その当然の帰結として指導者・特権者階層から「真/美/善」性に基づく論理性を伴う支配理論の形成能が失われていった。
その上で実際の歴史では、巷の享楽への耽溺傾向に嫌気したところの既に存在していた大量のA型人間たちは、大学教育の急速な普及のおかげもあり、
上述の寡黙な中産階層と共に資本主義社会の枢要な担い手である産業管理・専門人として生きるという新たな道を模索し始めたはずだ。

ところが如何せん新たに勃興した産業社会で求められた能力とは必ずしも優秀者的なそれではなく、むしろ尊大な善人的な、
一定の知識/教養を基に効率的に活動できるC型人間の高級ロボット型人間のそれを超えるものではなかったから、こうしたA型人間の前途は多難であったことは想像に難くない。
実際にこの時代を生きたツルゲーネフは前掲の「ルージン」(1856)において、近代という時代のあらゆる意味における"選民"であるところのC型人間が束になった上で、かつての指導者・特権者階層に君臨した優秀なA型人間を総攻撃して追い落としていく様を
見事に描ききっているし、また同じ頃の日本においても二葉亭四迷が「浮雲」(1889)において、文三(世襲貴族的A型人間)と昇(庶民的C型人間)という、先天性に係る基本二類型をそれぞれ象徴する人物の衝突/消長をドラマチックに描いて見せてもいる(※注)。
(※注 封建的身分制社会を支えてきた世襲貴族A型人間が、自閉的な気負い/面子意識が元で自らの居場所を失っていく様、並びに市井の生活領域においてC型人間が、
主として柔軟/臨機応変なパフォーマンスをもってして、新しい世俗の時代を謳歌していく姿が良く示されている。)

というわけでこの、A型人間自体が激減するという社会環境の変化によって、近代以降の社会が失った最も大きなものとは、「(万物を司るものとしての)大宇宙/大自然の摂理に対する畏怖/謙り(※注)」である。
すなわちかつてのA型人間たちはキリスト教信仰という”形式”を借りて、経済的特権に支えられた隔絶環境を安定維持しつつ、人の世での成功を維持していくためには欠かせないところの「人間どもよ、思い上がるな。この世界/この宇宙を司る摂理には、
(つづく)
192:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:43:56 ID:???
16 of 20 (つづき)

人の知恵などでは到底、太刀打ちできないほどの深さ/難解さがあるのだぞ。」という自意識的緊張感を途切れなく人間界に供給し続けてきた。
(※注 主としてペテロとパウロの功労により当時の西洋文化圏の中心地であるローマを含む各地に進出した原始カトリック教会が構築したキリスト教ドグマの根幹中の根幹とは、
大宇宙の因果性そのものを"神"として擬人化した上での、「宇宙属性としての因果律に対する畏怖と謙り」に他ならない。
ちなみにこのこと(彼らが神と呼ぶものの正体が万物の因果性そのものであること)は、「神について知られうることは、人々にとっても明らかであって、(中略)神の見られない性質、すなわち神の永遠の力と神性とは世界の創造以来、
被造物を通して知られて、明らかに見られるのである。」、「律法を持たない異邦人たちが自然に律法の掟を実行するなら、(中略)律法の命ずるところがその心に記されていることを示し、彼らの良心もそのことを証する。」(以上、ローマ書)などといったパウロの見解、
あるいは「神は知者(オレ注 ; 尊大な善人/C型秀才トートロジスト)を辱めるためにこの世の愚かな者を選び、(後略)」、「隠された奥義としての神の知恵であって、神が私たちの受ける栄光のために世の始まる前から予め定めたもの」(以上、コリント書①)とか、
「始めにロゴス(オレ注 ; 論理性)があった。ロゴスは神とともに在った。ロゴスは神であった。」(ヨハネ福音序詞)などとするヨハネの見解からも導出できる。
その上で彼らが“神”と称する大宇宙が宿す因果の人知を超えた複雑さ/難解さに謙る/(これを)畏怖することこそが、キリスト教義の要諦に他ならない。)

しかして今やA型人間に代わり、“産業社会時代の宣教師”としての新たな地位を賦与されたマスメディアと映画興業等の圧倒的ヘゲモニーの前に、全社会構成員がもれなく平伏し終えた時には、その「人知は"神知"と対等の域にまで到達しえるもの」教義は、
かろうじて生き残ったA型人間たちさえも洗脳しえるほどのものとなっていたのであり、こうしてA型人間たちは、その真・美・善性に基づく論考能を有意に発揮できるような場を(自然科学的発見・創造等に係る限定的領域を除いて)実質的に失い、
(つづく)
193:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:44:36 ID:???
17 of 20 (つづき)

終いには羽振りの良さそうな者に次々に媚を売ったり目移りする/その時々の流行りモノを追い続けたりするまでになっていった。

これをもって近代産業社会の確立に伴うところの、「人間界ヘゲモニー・権勢の本質/実質のA型的なものからC型的なものへの完全移行」が成ったと見做せる。
すなわちこの時点でA型人間たちは、大衆中心に回っている、ニーチェ的“神が死んだ”社会の中で頼るべき真知の道標を見失ったから、新たに設定すべき道標を、C型人間の理想郷を描く“共産・社会主義思想(※注)の宣教師”たるインテリゲンチャだとか、
あるいは“モダニズムの宣教師”たる大学の専門人/芸術家、そして何と言っても大資本家等といった尊大な善人(C型人間)たちに設定してもらおうとするようになったからだ。
(※注 ・・ドストエフスキー的に言うならば「無神論に現代的な肉をつけた、天を地上に引き下ろすために神なくして建てられたバベルの塔」(「カラマーゾフの兄弟」(1880)第一編第五)であり、これはマルクス(AE型人間)が
「疎外(Entfremdung)」(第八回 参照)として説明したところの状況認識に基づく。
すなわち前近代的な資本主義体制においては各個人は、自給自足的経済システム内で自分に関わることは自分自身が概ね理解し支配/管理できたのに、
生産・消費システムが極端に大規模・分業化した近代資本主義体制以降では最早、各人はこの巨大なシステム内において己が果たしている役割や立場について、明確なことは何も知り得なくなり、かつ(例えば自分が生産した物を、
何時何処で誰に幾らで売るのかといった事柄に係る)自己管理もできず、もって個人は限りなく無力化/経済奴隷化するがゆえに、歴史的には資本主義体制は、いずれ社会・共産主義体制に移行する運命にあるという趣旨。)

しかしてマルクス的疎外状況の管理に係る適宜の創案/立案などは、どだいC型人間の能力では担いようがないものだから、これすなわち人間社会は最早、その根源的成り行きを管理できる者が誰も居ないという状況が帰結するところの、
絶え間ない極端さ/窮乏等を伴った上での弁証法的運動しか為さなくなることを意味し(※注)、こうして益々A型人間の発生場所(隔絶環境)を消滅させていくしかなくなった。
(つづく)
194:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:45:18 ID:???
18 of 20 (つづき)

(※注 マクロ的には(周期的に生起する経済恐慌からの)ロシア革命/(大恐慌からの)ファシズム台頭/第二次世界大戦/戦後の米ソ冷戦といった一連事象に顕現している。
またミクロ的には例えば「放浪記」(1930)執筆の頃の林芙美子周辺のサークルのような世界において典型的に顕現している。すなわちそこにあったのはどこまでも女・子供的な刹那・無意味・非合理的な感情・習慣系思考の氾濫に惹きつけられてくる、
上っ面だけインテリ・洒落ぶった男たちとの果てしのない“ジャレ合い/釣り合い”であった。
こうした事例に表れたところのモダニズムが宿す本質の一面とは、とどのつまりは享楽と奴隷労働(疎外)的経済が支配する社会に発生すべくして発生したものしての、“(自我の防衛機制としての)極めて安直な文化的昇華(ガス抜き)”の亢進である。)

このようにして人間界の支配的観念が尊大な善人というC型人間の演繹知に取って代わられ、もって従前の「大宇宙的因果性に対する畏怖/謙り(無知の知)」という、自力での成功を勝ち取り続けてきたA・E型人間たち(※注)ならではの、
地に足の付いた認知的基盤の上に成立していた合理性の力を失ったことで、人類が被った損失は計り知れない。
(※注 ちなみにいくら世襲制だとは言っても、当代当主が愚鈍であれば、指導者・特権者階層特有の苛烈な足の引っ張り合い競争の中で没落していかざるを得ないから、個々のA・E型人間とは紛れもなく自力で勝ち残った者だ。)

しかしその上で近代以降の人間社会が、このような(自然科学系の特定領域の進歩・発展性を除けば)認知の論理・合理性を大いに欠いた“C型人間的無知蒙昧の大演舞場”に堕してしまったことについては、
こうなるべくしてなった必然的な因果性があったことも同時に、我々は認めなければならない。

すなわちかつての大宇宙的因果性への畏怖/謙りとは、現実的には「国王-貴族-司祭」が形成する世襲・宗教貴族C型人間的“鉄の三角形”のスペリアリズムの下に成立した「尊大さ/傲慢さ」に下支えされたものだったのだ。
だからこそ産業社会の開幕とはC型人間の認知的立場からみれば、この“A型人間的イデオロギーに依るところの無為徒食”的ヘゲモニーの1ミレニアム(1,000年)近くもの抑圧から脱出するための起死回生の大好機だと見做される他はなかった。
(つづく)
195:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:46:11 ID:???
19 of 20 (つづき)

すなわち近代の開幕にあたっては、蓄積され続けてきたところの「世襲貴族層から受ける逃れようのない蔑視・軽視による"憂さ"」を晴らす時がついに来たと、とりわけ大衆C型人間に捉えられることが必然であるような因果性が、確かに在ったのだ。

ちなみにA型人間/C型人間属性とは、前回述べたように人間界の健全性の維持のためには共に不可欠であるにも拘らず、根本的な相性の悪さが在るがゆえに、上記の因果性を低減させることは容易ではないと直ちに推察できる。
例えば頭の良いA型人間が外観的には純粋な気持ち(※注1)で、C型人間を誠実さをもって“友”として遇して教え諭そうとしたとしても、それでも尚、例えばヘッセの「ナルチスとゴルトムント(※注2)」第四章にあるような“すれ違い”になるからだ。
(※注1 本音においては圧倒的優位に立つ者が往々にして持つところの、心理的余裕/優越感に起因するところの親切心/世話焼き心。)
(※注2 ナルチス・・A型 ゴルトムント・・C型。)

更にこうした人間心理の生理的本能に根ざした“A型人間/C型人間属性のすれ違い”というものを、より念入りに報告してくれたものとしては、ツルゲーネフの前掲書がある。
そこではルージンは典型的A型人間なのだが、彼がダーリヤのサロンにおいて熱を込めて持論を展開し、かつ他者に対して誠実/真摯/公正であろうとすると(注 ; これはルージンの表層意識において。深層意識においては、その場のヘゲモニーを得るため。)、
言葉で彼の知的ヘゲモニーに拮抗できる者が、またその振る舞いにおいて公平/無私で在り続けられるような者は誰一人居なくなる。というのもその場に居るルージン以外の者は全てC型人間だからだ。
その上で彼らの主たる関心事は面子とか対人的ヘゲモニー等であるからして、事の成り行きがいよいよこのC型人間的利害に深く関わってくると、彼らにはルージンのA型人間的真・美・善性がたちどころにウザったく感じられ、見聞きするだけでも嫌悪感をもよおす。

そして次には彼らは、C型的な感情系習慣的自動思考様式をもってして何やかやとルージンを批判し始めることになる。それは、およそ以下のような具合である。
(つづく)
196:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/19(金)12:46:52 ID:???
20 of 20 (つづき)

「(ルージンは)恐ろしく長ったらしい言葉を使う。人がクシャミをすると、あの男はすぐ、何故それが咳ではなくてクシャミだったか、その説明をやる・・・相手を褒めるのだって、まるで官等(オレ注 ; 帝政ロシアの官吏の等級。
例えば三等官、九等官、十二等官などという具合に数級でこれを定める。)でも上げてやるような調子だ・・その内に自分自身を罵り出してクソミソに言うから、
もうこれで人中には顔出ししないつもりなのかと思うと、それどころか、まるで苦いウォッカでもきこしめしたように、返って浮かれているんだからね。」(第六段)と。
あるいはまたルージンが「(君は信じないかも知れないが)善意でやったこと」も、C型人間から観れば「あつかましいと言うより他に言い様がない」(第八段)こととして、受け留められるしかないのである。

というわけでC型人間は真・美・善性を伴う論理性という認知属性を持たないから、誰しもが知的活動においてはA型人間に極く無意識的に主導権を奪われてしまうことからは免れ得ず、人間界においては双方が努めたとしても尚、簡単にはA型人間とC型人間は協調できない。
そしてそうであるからこそC型人間が大半を占め、そこに操作・管理的意思を持つ僅少なA型人間が紛れ込むようにして存在するものとしての人間社会は常に、双方の関係性に係る、時と場所を超えて普遍的な幾つかの属性を持ち続ける。このことを次回に詳説する。
(「宗教から享楽へ」 おわり)
(第十五回 おわり)
197:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/10/24(水)09:21:56 ID:???
>>177
訂正

先発二類型をベースにモザイク的に

       ↓

先発二類型をベースにモザイク的に、あるいは統合的に
198:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/11/04(日)11:41:18 ID:???
>>159
訂正

『進歩の自然法の第三定理(A・C型人間定理)』

         ↓

『進歩の自然法の第四定理(A・C型人間定理)』
199:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:33:08 ID:???
1 of 30

「市民層  概論」 第十六回

「階層社会」 

(凡例 ; 「●●の力」とは単にパワーであることを意味する。
「◎◎の力動」とはベクトルであり、もって環境/社会に対して何らかの方向性を持つ経時的変化をもたらす力であることを意味する。)

さてオレは第十回において、観念運動の自然法の第四定理(「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」)を提示した際に、「この凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向とは、当論的には決定的に重要な認識であり、実はこの程度ではまだ全然足りず、
読者は更なる「観念運動の自然法」の提示によって、その人類史的レベルでの作用様態を知らなければならないのである。」と申し添えておいたところだ。
そしていよいよ今回(第十六回)から次々回(第十八回)までの一連のテーマであるところの『命令/服従の連鎖構造』に係る論説を通して、読者は人間社会に働く巨大、かつ普遍的な凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向に係る諸力動(ベクトル)、
諸構造、諸過程・・そしてその上に顕現するところの人類史的大弁証法的運動への大いなる理解を開始することとなる。

ついては前置きだが、20世紀前期にファシズムの登場を観たK.マンハイムやW.ライヒらによって、社会学と例えば心理学等の諸科学との連関の必要性が指摘され、もって例えば「経済的論考のみをもって
する経済学」等の経験・実証主義性に係る根本的欠陥・不完全性が露呈した。
そしてこれを受けた社会科学のパラダイム転換としての、例えばE.フロムの人間心理を中心に据えた社会学等が登場し、以降、人類は戦後リベラル期/新自由主義期の経験を得て、今ようやく人間とその社会とは何か、
を概ね包括的な合理性(第十二回 参照)を伴って理解しうる瀬に至ったと言って良い。かくなる上は「人の社会の本質的な姿」を、真実に対して極めて厳粛な態度を持つモデルとして提示する試みを開始する。

人類史上最初の個から集団へ向かう社会化運動が開始された後、直ぐに反対力動としての再個人化傾向、すなわちその社会内部に小グループを形成する細分化運動も同時に開始されたはずだ。
というのも凡庸者らの社会は存在拘束性の陥穽にはまるからであり、例えば小学校の一クラスのように、何を面白い/楽しい/癒されると感じるか等の生徒各人毎の個人差に起因して、年度替わりのクラス編成直後には、
(つづく)
200:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:33:47 ID:???
2 of 30 (つづき)

不良・良い子・同好のグループなどの『排他的小社会・集団』へと速やかに分裂していく傾向を、普遍的に持つ。
(※注 ここでの“排他的”とは、集団構成員が集団独自の支配的観念を共有し、もって自意識において公共空間に居る人々に対して、明確にエントロピー縮減状態にあることを指す。)

その上で例えばバードランド・ラッセルは「外部世界は如何にして知られうるか」(1914)において、「古典的哲学者は頭の中だけの推論(形而上知)の正しさを信じきっていたので、如何に奇妙な結論であろうがそれによって不安を感じることはなかった」、
さらに「現代に生きる自分たちは、実験/観察に基づく経験科学の長い歴史を既に持っているので、明白な事実に反する論理をそのまま信じ込めるような者は居なくなっている」と述べ、
またあるいはサン=シモンの「人間科学に関する覚書」(1813)の「アヴェロンの野生児」は、生まれて間もなくから人と全く関わることなく成長した正真正銘の野生児であり、19世紀初頭の約6年間、その人間性回復教育を担った医者J.イタールによると、
彼は人間文明的好悪の感性を一切持てず、例えば香水の芳香にも糞尿の悪臭にも、また騒音にも美しい音楽の調べにも全く同様に、ついに無反応のままであった。

そしてこれら諸知見からも改めて、C型人間の認知体系の不可変性について再認識できる。つまり幼少時に環境から刷り込まれた自動思考テンプレート、ヘーゲル的「正」意識こそがC型人間の認知世界の全てでしか有り得ないと。
その上で操作的介入で多少の「反」認識をもたらし得るにしろ、それも一時的なものだ。とどのつまり彼らは己が慣れ親しんできたこと以外の事物/事象に対しては、自我の防衛機制的“専制”のために最後には無視/否認のための否認等に行き着くしかない。

というわけで認知の様態に歴然とした個人差が顕現する社会・人間関係においては、コミュニケーション上の重大な齟齬/相互不理解を、C型人間同士においては金輪際、調整し得る見込みというものがなく、
自然状態において彼らは、(闘争による相互排斥等のために)社会化状態に安定的に留まり得ない。
(つづく)
201:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:34:25 ID:???
3 of 30 (つづき)

こうして人類は社会化運動→細分化運動という必然を経て、“社会内社会が在る社会”としての『排他的小社会・集団を包含した社会』という小康段階に至る。
もちろん排他的小社会・集団を包含した社会においては共働生産活動において大いに支障を来し、下手をすると共倒れになりかねない。もってこの再個人化という反動傾向を抑制するための努力もまた直ちに為される。

その際、排他的小社会・集団同士の交流に要する強要とか、あるいは感情系習慣的自動思考様式が生み出す「擬態行動」(第十一回14/17 参照)の如きは、
非常に大きな緊張感を各人の自意識に生み出す、あるいはいずれは相手に見抜かれてしまうために早晩、破綻する。
その一方で排他的小社会・集団内部では、他集団への暴力や騙し合いに起因する難儀/面倒くささ/ストレス等の心理的倦怠に「進歩の自然法の第二定理」(第十一回 参照)が作用し、
気楽さ/純情・直情さ、言い換えれば「馴れ合い」が求められていくという、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向が歴然と顕現する。

ちなみにこの馴れ合い性を伴う集団が保持する属性を、例えば坂口安吾は「白痴」(1946)において、「各自の凡庸さを擁護し、個性と天才の争覇を罪悪視し組合違反と心得てする、内にあっては才能の貧困の救済組織、
外に出でては国民酒場を占領し三四本のビールで酔っ払って、(一端の議論を吹っかけてクダを巻くための徒党)」であるなどと、面白可笑しく述べている。
すなわち自己が属する排他的小社会・集団の内に向かう馴れ合い性が、外部小社会・集団、あるいは全体社会に対しては一転して、極めてキチガイ・鬼畜的な対立・攻撃性にまで発展するということだ(※注)。
(※注 例えば漢民族における宗族的結住などは、これの最も極端な類である。)

こんな風になるのも凡庸者的存在拘束性の陥穽が、各人をして連帯・相互扶助性に執着させ、自分とは全く異なる存在拘束性を持つ他の小社会・集団で暮らす者の本音/立場などをほとんどメタ認知しない/できなくさせ、
あたかも自身が直接的に所属するところの小社会・集団での一次的連帯のみに配慮してさえ居れば自己保存できるかのような錯覚に陥らせるからである。
(つづく)
202:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:35:38 ID:???
4 of 30 (つづき)

その上でこの排他的小社会・集団を包含した社会におけるキチガイ・鬼畜的な対立・攻撃性の極致的顕現こそが、トマス・ホッブズが言うところの「万人の万人に対する戦争」状態に相当するであろう(※注)。
(※注 「リヴァイアサン」第十三章からの引用だが、ホッブズは「社会が組織されていない所においては個人同士が戦争を繰り広げる。」旨を指摘するのだが、動物本能というものを鑑みるならば、
人間は完全な孤立状態ではむしろ闘争心よりも逃走心の方が優勢となるから、実際には個人同士ではなく、排他的小社会・集団同士の戦争状態が現出するはず。)

ところで人類はそもそも自己保存のために共働を目的とする社会性という個性を選択/フィーチャーしたのにも拘らず、それがもたらすストレスがこのような戦争状況に行き着かせるしかないのならば、
かつてプロトホミニドが決死の覚悟で採択したところの、エントロピー縮減(コミュニケーション能を高めるための脳体積の増大を伴うホミニゼーション)戦略自体を“元の木阿弥”にし、もって人類の種としての存続を絶望的にしかねない(※注)。
つまりこの段階での退転は、有り得ない。そこで人類が社会性動物として生き残るために、この馴れ合い傾向がもたらす深刻な分断への対抗戦略を創案する必要が発生し、
これが「突き抜けた強者による統率」、つまり人類史における画期的進歩・発展段階としての『階層社会』段階をもたらした。
(※注 一度、弱肉強食の東アフリカのサバンナで他の動物のような運動能力的進化を捨てて、知能的進化の過程に入ってしまった以上、今更、退転するが如きの一貫性の否定は、直ちに種が皆殺しにされることを意味する。)

この段階においては始めはC型人間の内で腕力があり喧嘩に強い者、あるいは示威・威嚇的(相手を驚かせたり怖気付かせる)行動に秀でる者等(言わば“猿山のボス”)が統率権(ヘゲモニー)を多数者から信託されるところの「コモンウェルス(共和社会)」(※注1)
が成立して階層社会が開始されるも、素朴な共和制ヘゲモニーは極めて不安定であることから、やがて直ぐに(第十二回6 of 32で述べた)「合理的認識」こそが、人が生き抜くための真の知的財産であることを正しく認識するメタ認知系諸能力に秀でた
(つづく)
203:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:38:42 ID:???
5 of 30 (つづき)
  
始原A型人間優秀者(※注2)が発生し、高度な支配理論(宗教の教義等)を伴う操作・管理的意思に基づいた専制的ヘゲモニーのための排他的小社会・集団であるところの「指導者・特権者階層(※注3)」を形成し、前者らを排除する、
すなわち念願の集団的共働がついに安定的に持続可能となり、もって長期的体制を構築するところの『一次的連帯性を伴う階層社会(※注4)』段階に速やかに移行する。
(※注1 “近代的コモンウェルス”概念を決定付たホッブズに拠れば、集団全員の多数決による信託を受けた主権者(君主/民主的合議体等)が、各人が自己保存のために自然状態において保持していた自然権を、
全員から等しく譲渡された上で為す統治に、全員が等しく従う社会共同体。)
(※注2 第十回 9 of 9で述べたように、「凡庸者がもたらす社会環境の劣悪性に所以して特殊的に真理・合理性追求のための努力を為した者」である。)
(※注3 指導者・特権者階層が形成されると直ぐに、処世能力に長けたC型秀才トートロジスト/CE型人間等のC型人間が論理構築能に長けた始原A型人間を囲い込んで台頭し、これ以降は文明の進捗と相まり、
指導者・特権者階層は益々高度な論理性/指揮・管理機構を構築しつつ階層分化運動を亢進する。
ちなみに指導者・特権者階層の構成員の大半はC型人間であり、その上で少数のA型人間が支配理論の構築/更新を担う。
この変遷過程においては、始原A型人間のあらゆる認知/行動において強烈な心理的バイアスが当然の如くに顕現することで、彼以降の世襲的直系者とその近縁者/側近者においては特殊な存在拘束性(※注5)が顕現し続ける。
だからこの時点で近縁者/側近者らも、指揮・管理業に特化せざるをえなくなり、もってA型家系者らは幾つかの指揮・管理業者の家系と王族を基礎とするところの指導者・特権者階層に留まり続ける。
とどのつまり支配論理をもってする指揮/管理するという職業の下においては、被指揮・管理者に対しては“自分たちの手の内”を秘しておく必要性があるために、彼らと四六時中、顔を突き合わせているような状態ではこれを為すに能わず、
ある程度の距離を置いて必要に応じて適宜、相対するのでなければ不可能である。だから指導者・特権者階層への分化が進むのだ。)
(つづく)
204:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:39:13 ID:???
6 of 30 (つづき)

(※注4 この社会こそは、支配理論(宗教等)/道徳・倫理・義務的観念系行動文化を指導者・特権者階層が普及させた上で、社会の全員でこれらを共有し合う「第一の天地創造」(第十二回 参照)に当たる。
ちなみに第十四回で述べたように一次的連帯性とは、社会的連帯の基盤であり、一次・二次的連帯社会のどちらにもに存する。)
(※注5 彼らは最早、生計維持のためには、汗を流したり、腰がひん曲がるほどの重たい荷物を運んだりするが如き労働からは解放される代わりに今や、
「如何に生き、如何に振る舞えば、より快適さを伴いつつ効率的に自己保存できるか?」を、その論考能によって常に編み出し続けなければならないという存在拘束性。)

一次的連帯性を伴う階層社会はまず、指導者・特権者階層が残余の全ての排他的小社会・集団を一まとめにして専制支配するという「一次的連帯社会(※注1)」段階から、文明の発展に伴う社会規模の拡張により二次的連帯性(第十四回 参照)が顕現した後、
純粋な専制がコスパ的に非効率となることが経験・実証主義的に認識される段階で、より専制性を弱め共和性を強めた中間領域での寡頭制ヴァリエーション(君主制/民主制/連邦・郡制等)が、随時に成立し始めるところの「二次的連帯社会」段階に移行する。
その上で一次的連帯性を伴う階層社会は構造的には、常にA型人間が支配理論の形成に関与する指導者・特権者階層/A型人間が散在する中産層/C型人間中心の大衆層の三階層に大きく分化するところの
『三階層社会』(一次的/二次的のどちらの連帯社会においても自然法的に形成される。)に行き着く。
(※注1 第十回 8 of 9で述べたように、(指導者・特権者階層の人数的主力であるところの)C型人間凡庸者は「自他分離観念が不全であるから多様な個性の共存に耐えられず、主体的認知体系が単純であることがもたらす長期的不利益・非合理性を、
集団パワーをもってして理屈抜きで無効化しようとする専制性を自然的に持つ」。
例えば我が国のこの段階では神道に基づく専制体制が成立した(※注2)。)
(※注2折口信夫に拠れば神道は、「教義を持たない未成立の宗教」である。しかしてオレの見解では神道は、あくまでも神権専制を支えるヘゲモニー装置として創造された「祭政一致イデオロギー体系(※注3)」であり、善悪観等は付随的。
(つづく)
205:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:40:02 ID:???
7 of 30 (つづき)

その上で神道は皇室慣習・儀式として存続する他に地方に分家(天皇が神位を分与する。)し、その社(やしろ)(※注4)において多様な形態分化を成しつつ地域の民衆生活上の指導者/
特権者の権威の確立のための儀式的イデオロギーや庶民の生活風習(※注5)をも供給し、天皇族の支配体制を磐石にした。)
(※注3 天皇とは天皇族の人(ヒノミコ・・先天魂(タマと呼ぶ。魂は霊魂/精霊の意味。)を賦与されている。)に後天魂(タマシイと呼ぶ。天皇霊。)が付いて神(天皇)となったもの。ちなみに美しい石を「玉」と呼ぶのは、神霊の表象と見做されたから。
(ここまで石上堅「天皇霊の座標」による。)
天皇は即位(高御座に就き、新宮を建て皇后を冊立。)/大嘗祭などの諸祭祀を為す。例えば「延喜式」等に定められている天皇即位後に執り行われる「八十島祭(やそしまのまつり)」は、新天皇が新たに国土を産み直すとするイデオロギーに基づいた神儀である。
その上で天皇による祭祀と五穀豊穣/国家安泰が直結する祭政一致イデオロギー体系では、地方豪族らの氏神を祀ることができる資格は天皇のみが持つ。

しかしこのような天皇を神とするイデオロギーは、仏教伝来を機に亜流/二流として格下げされ、それと共に遅くとも7世紀には天皇も(指導者・特権者階層の本音においては)人間に格下げされ、やがて代替わり毎の遷都の慣行も無くなった。)
(※注4 住吉神/八幡神/稲荷神/天満神などの諸神。)
(※注5 例えば「歳徳神」「初春/立春」(天皇初春の復活。一年が経過すると全ては元に戻り、天皇は一年毎に御降誕し直す。「ハル」とは天皇の再生の意で、民間においては「ハレ」に転化。更に季節を表す意味にも転化し、
付帯的に「夏/秋/冬」概念も確立。)/「春田うち」(「常世国」(海の彼方の島。ニライカナイ。神や仙人が棲む。)から神が渡ってきて爺婆などの姿となり田植えとか刈り取りを擬して喜ぶ。山の神/田の神は同一物。)/「恵比寿/大黒」
(民家の神棚/戸棚/大黒柱等に祀られる。)/「荒魂/和魂(あるいは御魂/御霊)」(一つの神は二形態を持つ。前者は人前に顕現し託宣活動等を為す。後者は社/墓所等に鎮座する。)/「竈(かまど)神」(「オカマ様」などと呼ばれ、民家の竈に祀られる。)/
結婚に際して魂を半分づつ交換するために夫婦が着物を交換など。)
(つづく)
206:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:40:56 ID:???
8 of 30 (つづき)

その上でこれら階層社会ヴァリエーションが在るところ全てにおいて、遅かれ早かれ自然発現するところの人間社会の基盤・実質的な支配・被支配システムが、「命令/服従の連鎖構造」なのだ。
しかして読者各位においては、これを理解しようとするに当たり、まず先に知っておくべきことが二つある。その第一は、人が社会生活を営むに係り必須である観念としての『基盤的固定観念』についてだ。

基盤的固定観念とは、人が思考や判断に際して誰もが持たなければならないところの、認知の基盤となる無謬性基準であり、これは絶対に曖昧さを伴ってはならないものである。
何故ならこれは、「自我が為すところの“考える”という行為が包括的に依るための土台」として機能するからで、人は認知体系の基礎にこのような“無謬の土台”を持たなければ、いつまでも「あーだ、こーだ」と悩み続けるしかなくなる、
すなわち思考という行為において価値を生み出せなくなる(生産性消失)。
つまり(認知的)土台は、例えそれが非合理的なインチキな論理体系(イデオロギー性論理体系)であったとしても尚、人が思考の生産性を失わず、正気でいるために不可欠である。

その上でもし基盤的固定観念に大きな瑕疵があったり、その数が足りなかったりすれば、人は自己保存に大いに支障を来たし、情緒/精神も健全に保てなくなる。
すなわち当面の精神崩壊こそは免れえるにしても、いずれは当人と周囲の者たちの生活に甚大、あるいは壊滅的な損害を与える。

例えば俗に言う「中年の危機」などは、それまでの人生においては適用できてきた、もしくは適用しようと無理やり堅持してきたイデオロギー性の基盤的固定観念が、今やまるで役立たないことが歴然となった状況で生起する。
もってこれを破壊して、より経験・実証主義性が高い因果論等に変更、ないしは止揚できなければ、最終的には欝病/自殺/“偏差値(学校教科書)エリート”/引きこもり等の落伍者になるのみだ。

ちなみに近代以降の我が国では家庭教育の習慣を継承する旧士族系は、それなりの実績としての経験・実証主義性を持つところの“武士道”を基盤的固定観念とし続け、もって立身出世をも果たせた。
その上で彼らは学習行動を習慣付けられているから、例えば明治期の各種の家庭・婦人向け雑誌等から新たな世俗の時代に相応しい基盤的固定観念を形成もできた。
(つづく)
207:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:41:29 ID:???
9 of 30 (つづき)

一方で農村系の人々は世帯単位での家庭教育の習慣は元々持たず、従来は村落協同体が公的に子弟教育を担ってきたために、近代以降の村落共同体の絆が衰退していく過程に入ると、悲惨な状況に追い込まれた。
すなわち彼らは、とりたてて親から教育されるわけではないから、自ら適当に見繕うようにして職業的モラル/修身教育/儒教的孝徳観等、周囲に在る諸素材から好き勝手な基盤的固定観念を構築するしかなかったのだ。
こうなると人々は、なるべく汎社会的に通用する『確たる基盤的固定観念』を死に物狂いで欲するようになるのだが、市井の人々が実際に手に入れることができる確たる基盤的固定観念は、ほぼ「宗教の教義」(第一回 参照)だけだ。

もちろん宗教の教義とは人類史的には、前述したところの階層社会が発生するのとほぼ同時にA型人間が構築するところの、真/美/善性と論理性を伴う「無条件で無謬(むびゅう)であると認識しなければならない
"善や真理"を定めた支配理論」(第一回 参照)属性をも持つからして、隷従により生きる市井の民の基盤的固定観念としてはうってつけだ。
ちなみに当論で言う宗教の教義とは、狭義のそれのみでなく、例え信仰形式とは無縁ではあっても、人の自意識/主体的認知体系において確たる基盤的固定観念として機能しうる、あらゆる「無謬性の人生・処世仕様イデオロギー体系」。

というわけで我が国の近代において、大多数の農村系の人々は日々の生活に与する無謬性の精神基盤を求めて、あたかも溺れる者が藁にしがみつくようにして国家が訓育する「天皇制イデオロギー体系」を取り込んでいった。
その上でここではとりあえず狭義の宗教の教義、すなわち「信仰形式を伴う宗教の教義」についてのみ、以下に詳説しておく。

唯物史観的原理から演繹するならば、衣食住に係る物質的豊かさを追求する能力が未だ不十分/粗末であり、もって財物の交換により自己保存を為すための経済体制も当面見出せないような文明段階においては、階層社会の指導者・特権者階層は唯、
人々の意識の領域を支配することをもって社会の結束と秩序形成を求めるしかない。
このために指導者・特権者階層のA型人間は真・美・善性を伴う人格系メタ認知的論理思考能力を練磨し、
(つづく)
208:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:42:07 ID:???
10 of 30 (つづき)

もって「人々の確たる基盤的固定観念たりえ、かつ支配理論として機能するところの宗教の教義」、すなわち信仰形式を伴う宗教の教義を創造する。

フォイエルバッハ「キリスト教の本質」によれば、宗教とは、「人間が自らの本質を対象化し、これが或る人格的主体(「神」)に転化されたもの」を信仰すること、もしくはその信仰内容である。
もとよりこのことは、ヘーゲル/ライプニッツ等の哲学者や歴代の数多の宗教者にも看破されていて、要するに神性の本質とは「人間の個々の人格の純化、もしくは選別的誇張」なのである。

つまり宗教の教義が提示する神の内に見いだせるあらゆる要素的属性(例えば慈悲/慈愛/正義/寛容/勇猛/凶暴など。)は、ことごとく人類がその歴史を通じて涵養してきた人格的諸能力と一致する(※注)。
更にこの原理は別に宗教に限ったことではなく、法規/エートス/慣習等、凡そあらゆる人間文化の所産とは、その本質として人類が普遍的に継承してきた何らかの人格的能力の反映であることは、至極当たり前である。
(※注 例えば旧約聖書(創世記1/26)では、この真理を「我々(神々)に形どり、我々に似せて人を造ろう」 と言い表している。)

ちなみに何故、“純化/選別的誇張”が為されるのかというと、人間は論考に際して事物の諸属性を、その効用別に分類(※注1)するからである。
例えば宗教の教義においては「善/悪(※注2)」分類が為され、それらに対応する「善神/悪神」が登場する。そして善行と悪行の分類は、死後にこれらに係る審判をされた後に赴かされるとされる「天国/地獄」分類に通じる。
とどのつまりこのような種々の分類を為さなかった人為観念というものは、かつて無いであろう。
(※注1 「分類」という行為は、人間思惟の発端であり、まず対象物の分類整理という情報処理過程なくしては、思考を進めようがない。
例えば「地上」という抽象概念を論理的に形成するためには、まずは帰納的に「山地/平地/湖沼/河川/海洋/空/太陽/星」などという分類を成し、その後に各々が保持する主属性に基づき
“水中”でも“空中”でもないものとしての“地上”という演繹的概念に進む。)
(※注2 善・悪観念は人の生活を適宜・経済的に管理するためには不可欠である。
(つづく)
209:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:42:50 ID:???
11 of 30 (つづき)

その上で宗教の教義では始原的な洗脳系行動文化としての道徳・倫理・義務的観念系行動文化の対象物を分類する際の標準として必須である。)

そしてここで次の哲学的疑問が浮かび上がってくる。それは「何故、人々は元々自分たちの内に在る人格属性を、あえて“空想上の他人(神)”に転嫁してから、おもむろに宗教として信仰するなどという、回りくどい手間をかけるのか?」という疑問だ。
その答えは、道徳・倫理・義務的観念系行動文化には、どうしても“ストイシズムを活性化するためのストイシズム系行動文化、すなわち「畏れ/恐怖心」という感情的スイッチ”を要するから。

つまり人間所与の属性の純化・選別的誇張物(神)を、一旦、あえて自意識の外部に移管した上で、これに通常人が容易には到達し得ない「厳かさ/純潔さ/絶対性」等、すなわち「聖性」を賦与して奉り、もってこれに反抗することへの強烈な畏れ/恐怖を抱かせるという認知過程が必要なのだ。
こうすることによって、人は例えば「●●することは(神の冒涜だから)いけない。」的な高次ストイシズム系行動文化を成立させ得、もって道徳・倫理・義務的観念が命ずるところを実践できるようになる。
例え生活の中で感情の波に翻弄されているような状態であったとしても尚、無意識下で人の恐怖心に訴える高次ストイシズム系行動文化の作用によって、特に選抜された人格的属性については、これを確実裡に意識化できる。

つまりはこのことが階層社会の支配理論において宗教的認知形態が有意であることの肝なのである。
すなわちこの信仰形式を伴う宗教の教義によって、例えば信仰対象が「愛の神」ならば、人はどんなに世事に忙殺されて心が荒れていたとしても、当該神のことを意識した途端に、
家族や親しい者に優しくできる(愛情を給付できる)ようなマインドセットに気分転換でき、もって指導者・特権者階層は階層社会を安定的に統べられ、もって人類戦略としての自己保存に適う。

ところが物事にはいつも例外が在る。すなわちかつて「日本人が信仰する宗教」についてド・ラブレーに問い正された新渡戸稲造が返答に窮したとしても、
(ラブレーの質問の真意であるところの)確たる基盤的固定観念としての当論的広義の宗教の教義は、例え日本社会のように信仰形式を伴う宗教の教義、
(つづく)
210:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:43:23 ID:???
12 of 30 (つづき)

すなわち明晰な社会支配理論を保持しえなかった社会においてさえも、当然の如くに常に保持されてきたことを、ここでついでに説明しておこう。

それは主として仏教に由来する。すなわち日本人はその外観の生活様態以上に仏教の影響を強く受けている。
というのも仏教の教義の根幹に係る観念と見做せるものが「縁起」(苦悩/煩悩の因果論)であり、更に人が生きることで生じるあらゆる欲求/感情はおろか、誕生/生存することをも否定しさる「寂滅」行為を是とし、
これが「空(くう)」という凡そ仏教教義全般に頻出する独特の虚無観念に通じるからだ。

すなわち空とは「何も思わない/意識しない」という没我の極みのような概念だから、頭が半分ボケた老人などに見いだせるような、
当該者の人間本性が何の心理的抑制・誇張もなくありのままに表現されているような状態が、強いて言えばこれに近い。
またこれと共に「三昧(さんまい)」という概念も重要で、これは自意識が一事に極度に集中されて脳波がα波-θ波の中間になっているような恍惚状態に近いものだと思われる。
もって「空/三昧/寂滅」に迫った日本中の多くの僧侶は、民衆に説法/説諭はおろか、己が僧であることさえも感じさせないほどに偉ぶる心もなく、極めて無為自然に、
民衆に親しく接し振舞うことになるから、旅僧/修行僧に日常的に接する民衆が(己が仏教に関わっているという自意識を全く持たぬままに)仏教的精神(慈悲/肉食禁忌等)を人格化されられていったと演繹できる。

その上で、日本人にはもう一つの宗教の教義がある。それは主として農村生活の中で為されるところの全体主義的「群れ教育(※注)」に由来するのであり、これは「村のエートスに順応する人間/
伝統や慣習からはみでない人間」(依田千百子「恥 –日本人の道徳的心性- 」)を造り出す。ちなみにこれについては本邦民族気質とも深く関わるから、後の回で別段で詳説する。
(※注 村の子は幼少期の子供同士の「外遊び」から始まり、七歳で「氏子入り」後は、子供組/若者組等の集団活動を通じて同輩/年長の世話人などから振る舞い/処世の掟/不文律を学んでいく。
その上で依田によると、この教育過程においては往々にして「母=息子(男子)」の自我的な自他融合が顕現し、母親は息子の人生の上に己の達成観/自尊心等を拡張する傾向を持つ。)
(つづく)
211:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:44:09 ID:???
13 of 30 (つづき)

さてところが人々の自意識に確たる基盤的固定観念が在るだけでは、階層社会で安定した自意識状態を保って生活するにはまだ足りない。もって次に第二点目を説明しなければならない。

よくニュースで伝えられる「成人式の会場で騒いで暴れる若者グループ」は、騒いでいる行為はお互い同じでも、また同じ歌を唄って感情を発散していても、心が通じているわけではない。にも拘らず、彼らは何故、集団的に振舞うのか?
それは、その場その時の“ノリ(雰囲気)”という場のエートスに浸り、更に自らと同じくノリに浸っている他者を相互承認・確認し合うことに意味が有るからだ。

というのも群生型生活を営むC型人間は、その主体性の脆弱さに所以する己の弱い自我を補強するために、集団との絶えざる同調/一致が必要で、例えばバラエティ番組にテロップ文言が存在することが、このことを良く示している。
すなわち「ここは笑いどころ/ここで面白がれ!」などというような何らかの他律的指示が、彼らの弱い自我にはいちいち必要なのであり、
彼らは「(己が)立派な申し分ない人間だ。」と思いたいという、人間本能からの背に腹は代えられない強力な要請により、外部からの“命令”に他律的に従わざるを得ない。

とどのつまりこうした「己は一個人として有意に存在価値を持つ。」的観念は、A型人間をも含めた全ての人間にとっては基盤的固定観念と同様に、一時も欠くべからざる自意識安定のための絶対的要件であり、一般的には『自尊心』と呼ばれる。
自尊心は、人間がとりわけ階層社会のルール/掟に則った生活をつつがなく営むためのマインド・セットと自意識の健康に係る必須の人格的能力(※注)であり、これなくしては如何なる者も、社会生活において落ち着いて自己保存を為せるものではない。
だから主体性が貧弱なC型人間は、「集団的秩序の形成・維持能(連携能)」(第十四回 参照)をもって『他律的自尊心』を得ていくしかないのだ。
(※注 人格的能力であるからして、これは思考統御・監督系諸機能の一部分として人格系メタ認知的論理思考への作用因子である。)

その上で大抵のC型人間は、自尊心/確たる基盤的固定観念が危機に瀕すると、それを毀損させまいとして凶暴・攻撃性をむき出しにしてくる。
(つづく)
212:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:44:53 ID:???
14 of 30 (つづき)

何となれば「確たる基盤的固定観念に整合的に振る舞えるという自負/確信が形成する自尊心」システムに瑕疵が生ずるならば論考能が脆弱なC型人間の場合は、たちまちにして自意識の不安定状態に陥らざるを得ないからだ。
その上で普通のC型人間は上述のように、“(その場に居合わせた人々の振る舞い等の絶えざる確認に基づいた)同調行動を為せる自分”に対して、自尊心を形成するから、彼らにとっては同調・協調的環境の維持、並びに“場の空気を読めない/乱す”者の排斥がとりわけ重要になってくる(※注)。
(※注 但し例えばアルコール依存症や薬物依存症になるような者は、化学物質がもたらす安寧・高揚以外では自尊心を保てない。
またAC(アダルトチルドレン)等も情愛飢餓性のために自律性が病的に低いために、やはりどう転んだところで自尊心を普通には保てない。)

すなわちC型人間同士においては、徹底したノリ/エートスへの隷従をもってする連携により得られるところの「他者/集団からの承認」という心理性無形財を特に『体面』などと呼びならわした上で、「自分の体面を保つ/
他人の体面を傷つけない事をもって自他の自尊心を支え合う事」を金科玉条にするのだ。
例えば負けた時に「負けた」と言わないで「そんなこと、深く考えなくていい/あなたはよく頑張ってる」、つまらない業績に対して「大したものだ」などと言い合う如くにして相互承認するところの『擬制的有能性』を現出させる。
そして擬制的有能性に基づく連携にトドメを指すところの、他者への真剣な注意や批判/評価は当然の如くタブーとなり、「絶対にお互いを本気で注意したり、批判してはいけない」的“暗黙の認知的バリア”が社会全体に張り巡らされる。

すなわち階層社会には、C型人間たちが“(C型人間・凡庸者属性がもたらす)無能/バカ/腑抜け”であるという弱点がもたらす失敗から被る打撃の緩和、例えば戦うべきものから尻尾をまいて背を向けて状況を悪化させたとしても尚、
個々の排他的小社会・集団のエートスに従ったのであれば自尊心を毀損されたり、その他の不利益を被ったりしなくても済むための、『集団的防衛機能』とでも呼ぶべき凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向の内の根幹的機能属性が顕現するのだ(※注)。
(つづく)
213:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:45:29 ID:???
15 of 30 (つづき)

(※注 例えばパスカル「パンセ」(1670)では、次のように述べている。「我々から好く思われたいという下心のある人は、我々にとって不快であると分かっている余計なお世話はなるべく焼かないように心がける。
(中略)我々が真実を嫌うならば彼は真実を隠してくれる。追従を言ってもらいたければ追従を言ってくれる。」(第二篇100)
この具体例としては、日露戦争の日本海海戦において、東郷平八郎は中盤の戦術的判断において決定的なミスを犯し、危うくバルチック艦隊の大半をウラジオストックに遁走させるところであったが、
この時、第二戦隊の佐藤作戦参謀の機転により第一戦隊の指令を無視し、第二戦隊が単独行動に踏み切ることで、日本国のみならず(東洋の“黄色いサル”の国が白人国家との戦争に勝ったことで)
その後の世界の運命を完全に変えていくこの決定的分岐点において、“勝利の女神を日本側に微笑ませたことにまつわる後日譚などが典型的である。
すなわち司馬遼太郎「坂の上の雲」によると、昭和十年代に新潮社の社員が隠棲中の佐藤に会い、「東郷の誤謬」をメディアで書いても良いかと尋ねた際に、佐藤は激しく手を振って、「それはいけない。どうしても書きたければ僕が死んでからにしてくれ。」と言ったという。)

とどのつまりはこの集団的防衛機能が階層社会に在るということが、オレが度々言及するところの「世間では肝心なことは滅多に口にされず、公然の秘密/暗黙の了解として処理される。」ことの主たる理由なのであり、
例えば「本当は、これはこうでなくてはならないものだが、組織というのはナカナカ難しいものでね。君ももっと世間を知ればわかるよ。」などという言い訳が、暗黙の認知的バリアの存在を遠回しに相手に悟らせる際の常套句となる。
そしてここまで理解してもらえたら、いよいよ「命令/服従の連鎖構造」自体の説明に入ることができる。
(「階層社会」  おわり)
(つづく)
214:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:47:27 ID:???
16 of 30 (つづき)

「命令/服従の連鎖構造① 権威の力動と反抗の力動」

前チャプターで示したように人類は種の個性として「(共働のための)社会性」を選択するも(「正」)、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向が自然的に「排他的小社会・集団を包含した社会」をもたらし(「反」)、
更に同傾向と拮抗しうる主従分化構造を得た「一次的連帯性を伴う階層社会」へと「正→反→合」弁証法的運動するのであった。
そしてこうなるとA型人間を含む指導者・特権者階層は、個々の排他的小社会・集団の馴れ合い等がまたしてもホッブズ的戦争状態に社会を退転させる(凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向の再活性化)ことを最優先で警戒せざるをえず、
もって(既に社会が一次的連帯性を獲得しているのであれば)多くの“従者”たるC型人間の(第十四回で「“生産・実働部隊”たる資質の中核」としたところの)普遍的均質性を何らかの手段で亢進し、
『社会集団的生産能』という社会全体を一丸とする共働能による進歩・発展能を獲得することが、(社会の再分裂を阻止するために)最も合理的だと認識するに至る。

さてC型人間の普遍的均質性を亢進する際に必然的にフィーチャーされるものが、彼らに遍く普及させるべき「同一の宗教の教義/他律的自尊心」であり、この手段として樹立するものが命令/服従の連鎖構造だ。

『階層社会が在るところ全てにおいて、社会の再個人化を回避するのみならず、その上で社会集団的生産能という進歩・発展性を獲得するために遅かれ早かれ自然成立するところの基盤・実質的な支配・被支配システムとしての「命令/服従の連鎖構造」は、建前上の社会体制の如何に拘らず、
階層社会のあらゆる政治的意思・目的・行動の発現形態を普遍的に規定し続ける。』(『観念運動の自然法 第八定理(命令/服従の連鎖構造定理)』)

一次的連帯性を伴う階層社会の基本構造とは、A型人間を伴う指導者・特権者階層から順次、下層に向かって下降していくところの、
確たる基盤的固定観念としての宗教の教義の普及のための「命令(※注)」に従うという行為に他律的自尊心を伴わせた上で、普遍的均質的に人々を「服従」させるというものだ。
例えば現代日本社会ならば、義務教育/各種公的広報等によるところの、「国/まちは皆さんの幸福/明るい未来のために在ります!だから皆さんもきちんと働いて納税してください!」的な
(つづく)
215:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:48:13 ID:???
17 of 30 (つづき)

道徳・倫理的観念、更に「JIS/JASなどの製品規格」、「独占禁止法/消費者保護法等」といった集団的共働の安定秩序化のための統一的規律・基準等が宗教の教義であり、
これらに従うことに対する誇りを人々に普遍的均質的に抱かせることで国民が同規格ロボット型人間となり、もって社会集団的生産能を保持している。
(※注 ここにおける“命令”とは、狭義の当該行為のみならず、因果的に人々に一定の服従/受容/認容等を強いるところの広義の命令、すなわち全ての社会性の強制力(環境そのもの力など。)を指す。)

そこでまずは、この普遍的均質性という属性をC型人間において亢進するための命令/服従の連鎖構造を成り立たせている基礎的力動である『権威の力動(※注)』を理解しよう。
(※注 権威の力動とは、命令/服従の連鎖構造が持つ基本的な三力動、すなわち『権威/威厳/反抗の力動』の内の一つ。)

権威の力動は、C型人間の確たる基盤的固定観念の形成に不可欠な擬制的有能性の一つである『権威』という無形心理財から生じる力動である。
その上で「命令」が人から人へ円滑/効率的に伝達されるためには、権威の力動が「命令の構成物(命令者/命令内容)」にすべからく付帯することで被命令者を従順たらしめて、
もって余計な“口応え”などさせずに命令に速やかに服従するように仕向けなければならず、権威の力動とは正にそれをもたらすための力動だ。

そもそも権威とは何なのか?権威は命令の“尤もらしさ”を演出し、その演出された尤もらしさが命令内容の(被命令者の自意識においては)無謬性、すなわち(擬制的な)正当性を強めさせるところの有能性である。
その上で権威の源泉は命令の構成物の中に在る。すなわち権威とは、"商品ブランド力"のようなものであり、命令の構成物が、世間の人々に広く知れ渡っている/信頼されている度合いが大きいほど、
その命令はより大きな擬制的有能性としての権威を持ち、もって権威の力動が被命令者を命令に誇りを持って服従させしめるパワーを強める。

では階層社会が始原的な命令/服従の連鎖構造を形成していく際に、具体的に権威の力動が典型的に作用する命令の構成物であるところの宗教の教義、ここでは例として仏教の場合を見てみよう。
仏教の教義は、大元(阿含経典等)が演繹的思考性が極まったような形而上学そのものであり、
(つづく)
216:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:50:46 ID:???
18 of 30 (つづき)

かつゴータマ・シッダールタ個人の思想の根本が処世法たることを目指しておらず、自然の摂理であるところの、人の「老衰/死去」を諦観した上で、この諦観に強迫的に執着するところの反生活・世俗的教義である。
このために有能な学僧であればあるほど、教義の根幹に立ち入る時、自己保存本能を持つ生身の人の存在拘束性に立脚する限り、(確かに静寂・超然性がフィーチャーした特有の自意識状態(禅定/涅槃)獲得のための
努力過程においては、 自身の精神的健康とか対人関係等に鑑みて一定の処世的合理性が顕現しうるにしろ)概ねこれは、生活者的存在拘束性を持つ者のための実践的教理体系としては受け入れ難いと判じざるを得なくなるような代物である。

このような特異、てゆーか異様な教義属性のために仏教教団は教義を世に普及させるに際しては、ゴータマ・ブッダを徹頭徹尾、幾重にも権威付けした上で生じる有無を言わせない威圧力(権威の力動)に極度に依存して、これらを伝播させざるを得なかった。
具体的には諸経典においてゴータマ・ブッダを、終始一貫して人の頭の中でのみ巡らせら得るところの思惟/妄想/幻想/幻覚等の限りを尽くした上で、
“世尊”と呼び習わされるところの“超絶カリスマ”(“神々”をも凌ぐ存在として超絶的権威付けされたキャラ)化する・・というマーケティングを徹頭徹尾、貫徹させた。
こうして世界観念史上、他には類例がないと言えるほどの荒唐無稽な擬制的有能性を伴うところの“厭世の哲学”体系が、膨大な数の経典作家たちの尽力の末に出来上がった(※注)。
(※注 ゴータマの死後、歴代の経典作家が「私は以下の如く伝聞した。(如是我聞)」という常套句をもって始まる説話(経典)において、ゴータマの超絶カリスマ化のための創作性を競い合うことになった。
こうして仏教の教義は例えば「無量寿経」「大品般若波羅蜜経」「維摩(ゆいま)経」「般舟三昧(はんじゅさんまい)経」などに典型的に現れているような、無限、完全概念の氾濫による虚仮威し/好き勝手なイデオロジカル概念の羅列/(経典作家の)妄想に基づく
訳の分からない尤もらしさによる論旨展開のごときの極めて露骨な「言葉遊び」、すなわち最早レトリックなどという上品なレベルをはるかに超えたデッチ上げ、あるいは物語の面白さのみを狙う傾向等を、普遍的に持った。
(つづく)
217:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:52:53 ID:???
19 of 30 (つづき)

しかし数多の経典作家の中には稀にA型人間も居るために、諸経にはA型人間属性に係る経験・実証主義的知見も時たま見い出せる。例えば「法華経」の「三乗方便」の理などが、そうしたものだ。)

しかしあえて後日譚を言えば、さすがに無理な権威付けがたたり、インドではついに7世紀、中国においては9世紀(唐代)、日本においては11世紀(平安後期)には、仏教はまともな宗教(つまり処世に益する何らかの観念の源泉)としては学僧から概ね見限られ、
その一方で日本では元来が統治システムの主たる構成要素(官業)にされていたことに由来して"権力装置"性、すなわち政治機構を形成するものとしての世俗的価値を認められて、内部腐敗を亢進しつつも特異な再興と衰退の道を辿る(※注)。
(※注 中世期には社会の離脱・脱落者等が生計の糧を(僧兵集団として)得るための基体となり、第八回で述べたように一向宗門徒によるところの社会階層の形成にまで通じるも、
徳川治世下においては一転して幕府の「寺社奉行」配下の民衆管理のための行政機関化し、これをもって全く純粋な信仰対象たりえなくなる。
そしてついに明治政府の発足に当たっては国家から露骨に敵視され(引導を渡され)、「廃仏毀釈運動」により宗教としての存在価値自体を徹底否定されるに至った。)

ともかく権威の力動がもたらす擬制的有能性を徹底活用した宗教の教義の普及様態は、仏教ほどでないにしろ他の主要宗教においても似たようなものであり、
かくて人類は凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向への反抗システムとしての「普遍的均質性をもってする社会集団的生産能」を、権威の力動に係る命令/服従の連鎖構造を駆使することをもって確立した。

その上で指導者・特権者階層は、宗教の教義が、社会集団的生産能の獲得/維持に更に役立つことにも気づいた。
例えば古代ユダヤ教において見られたような宗教の「法規/契約に係る信用保証」機能なども、その一つである。

イスラエルでは氏族共同体における個々の氏族同士の取り決め/約束事を為すにあたり、互が直接的に契約するのでなく、まず共通の神を信仰し、
その神を媒(なかだち)とする、すなわち双方がまずは別個に神と契約締結を為すという「至高/無謬の仲裁者の媒」システムによって、人間集団同士が直接的契約を取り交わす場合よりも契約の信憑性を格段に高めた。
(つづく)
218:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:55:50 ID:???
20 of 30 (つづき)

すなわち各種の取り決めに「神との契約」という聖性を賦与することで、契約違反を為そうとする人間の誘惑/意志の脆さを、「神の怒りを買うことに対する恐怖心」をもってして互いに挫き合ったのだ。

そしてこうした信用保証行為は、キリスト教においても形を変えつつ一貫して継承された。例えば中世期においては、債務者が借金の支払いを履行しなければ、常に教会から破門され市民生活を営めなくなる危険を伴ったし、
また近世プロテスタント以降においても、ピルグリム・ファザーズ以来、20世紀に至るまでのアメリカのプロテスタント諸派への入信が許されるためには、幼児期からの全履歴の品行審査にパスし、信者投票で信任されなければならず、
その上で私的なつきあいや長期の経済的取引関係においては、必ずと言っていいくらい宗教の信仰の有無/種別が問われる、すなわち宗教的信用保証機能が活用され続けてきたことを、ヴェーバーが「プロテスタンティズムのゼクテと資本主義の精神」で指摘している。

とどのつまり社会集団的生産能を、「命令する/服従する」という行為により確実に維持しなければならない階層社会では、実生活の様々な状況における主者と従者の立場を、適宜、決定できなければならないのであり、
この煩雑極まりない「(宗教の教義等を利用した)主従判断基準」を供給する『主従関係決定力(※注1)』もまた、権威の力動が持つ重要な力なのだ。
すなわち権威の力動を伴う確たる基盤的固定観念が発する命令は、遍く多様な状況における上位/下位の立場を人々に対して明晰、かつ必要十分に認識させるのであり、こうして階層社会はC型人間らの服従を安定裡に引き出せる(※注2)。
(※注1 階層社会の形成以前の排他的小社会・集団の寄せ集め状態においては、何者も他者の命令を簡単には受け入れない。何となれば命令を拒絶したとしても、それによって社会的に処罰/制裁されるに足る、権威付けされた擬制的有能性、
すなわち立場の主従/優劣の自明・明晰性に係る社会規範的判断基準がないから、命令拒絶という行為に対する恐怖心が、一意的には(被命令者の心に)湧かない。)
(つづく)
219:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:56:47 ID:???
21 of 30 (つづき)

(※注2 例えば生まれた時から階層社会の特徴たる多様な主従、あるいは優劣関係に馴染む我々は、その辺の奴にいきなり命令されたら、大抵は「一体全体、お前は何者なのか?お前には何の権利がある?」
と、反射的に権威の力動が持つ主従関係決定力に拠るところの、立場の優劣関係を確認するための問いを返すはずだ。すなわち(階層社会では)権威の力動自体が(宗教の教義等を介して)主従・優劣関係を生む。
その上で主・優位者が発する命令に服従することが従・劣位者の体面/他律的自尊心を保つことになるだけの主従関係決定力の規範的実効性が、階層社会においては命令が服従を安定的に引き出しうるための要件になっている。)

では次に権威の力動に係る命令/服従の連鎖構造が階層社会の中の或る小社会において、実際にどのような様態をもってして伝播(連鎖)しているものなのか、を考察していく。

命令/服従の連鎖構造においては、「元人物」(これを物凄い権威を持つAとする)に従う「凄い権威を持つB」、Bに従う「ちょっとだけ権威を持つC」(CはAとは所属する部門(地位/前提的教養/演繹的思考力)が違うので全く交流できない。
あくまで直接交流ができるBに従う。)、Cに従う「そこら辺のありふれたD」、Dに従う「最下位E」という様に、基本的には対象物に付帯する権威の力動が、上位者の命令に対する下位者の服従を連鎖的に生起させていくための原動力となっている。
その上でより上位に居る者ほどそれなりの人格系メタ認知的論理思考ができるので、権威を無闇に信憑するのでなく、その本音においてはA型人間の判断能、もしくはそれに近いものをもってして懐疑的に認知している。
更には上位者ほど社会/人間を経験・実証主義的に認知しているので、建前的世界観しか持たない下位者たちへの管理的配慮(本音/建前の使い分け等)も適宜、為せる。

例えばミルの「自由論」(1859)から引用すると、「活発で探究心が強い知識人の大部分が、自分の信念の一般的原則や根拠を胸の内に秘めておく方が良いと考え、自分の意見を発表する際には、内心では否定している原則にできる限り合わせようとする」のであり、
「陳腐な決まり文句を並べるだけの人/聞き手が喜ぶように話そうとする人」が現れ、「原理原則の領域にあえて立ち入らなくてもいい問題だけを論じようとする」とある。
(つづく)
220:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:57:38 ID:???
22 of 30 (つづき)

このように近代以降の社会であるならば、活発で探究心が強い知識人の大半が、権威という擬制的有能性にあえて抗することをせず、逆に権威の力動を過分に助長しもする(※注1)。すなわち彼らは不本意ながらにしろ多数派である凡庸者の意志を
忖度するなどという腑抜けたことまで為しつつ、C型人間の他律的自尊心を守っている。
その上で誰が命令におもね、忖度し、媚びへつらうのかは、時代/地域/(王制/貴族制/民主制等の)社会体制の如何により歴然と変わる(※注2)。
(※注1 第十回2 of 9 なども適宜、参照のこと。その上で前チャプターで述べたように尊大な善人以上の能力を平時の世俗界においては必要としなくなった近代社会では、指導者・特権者階層内ですら“権威”を持ったのはC型人間。
だから最早、支配論理の構築を引受けてはいないA型人間には「勝手な真似は許さない。」とゆ趣旨の“命令”が全社会環境から常に発令されているから、論考能を有意に発揮できる場をほぼ失った彼らは、
終いには羽振りの良さそうな者に次々に媚を売ったり目移りする/その時々の流行りモノを追い続けたりするまでになっていった。)
(※注2 例えば前チャプターで示したように近代以前の社会であれば、A型人間が(指導者・特権者階層内のC型人間を介して)命令し、世俗のC型人間が服従する。)

このように階層社会における命令/服従の連鎖構造は、命令(実質的に“命令”的に機能するところの、あらゆる社会的力動。)に伴う権威の力動が、個々の排他的小社会・集団の体面/
他律的自尊心の相互維持のための集団的防衛機能を亢進させるために過分となり、「おもねる/へつらう/ゴマをする」等の様態を伴いつつ、服従(実質的に“服従”的に機能するところの、あらゆる社会的反応。)を引き出す。
これは人々をして、まるで「世間知らずの生活をする頭脳の弱い人間のうぬぼれと、(中略)成功したための尊大な気持ち(中略)、高貴な位への崇拝の念と後援者(中略)への尊敬とが、自己の価値と(中略)権威や(中略)権利とを
高く評価する気持ちと混じり合って、高慢と追従と尊大と卑屈との混合体」(オースティン「高慢と偏見」第十五章)のようにする。

これすなわち命令/服従の連鎖構造においては、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向と拮抗させるものとしての社会集団的生産能の確立/発達のために
(つづく)
221:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)14:58:12 ID:???
23 of 30 (つづき)

上位者が発する擬制的有能性たる権威の力動に下位者も相乗りし、その“おこぼれのお裾分け”に与ろうとするかのように「権威の力動を過分に亢進する」・・すなわち凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向の再活性化としての媚びへつらい/
忖度等を招来する『(社会集団的生産能への)反抗の力動』を排他的小社会・集団の集団的防衛機能をもってして同時に顕現させてしまう、すなわち皮肉にも(権威の力動が反抗の力動の発生原因となることで)社会集団的生産能を劣化させてしまう宿命を持つということだ。

では反抗の力動に係る命令/服従の連鎖構造において排他的小社会・集団の集団的防衛機能は、如何様に作用しているのか?その作用様態の典型例を以下に見ていこう。

我が国でマルクス研究者が掃いて捨てるほど生み出されてきた真の理由は、マルクスの学説が汲めども尽きぬ深みを持つからではない。
確かに「資本論」が完成の域に到達させしめた「剰余価値」学説は、それ自体として見れば完璧な合理主義的因果論であり、はっきり言って近代社会科学の基礎を磐石にした大偉業だと見做せるほどのものではある。
すなわち「資本家(主として投資・投機家としての株式会社の株主)の富は労働者の搾取の上に築かれたものである。」というその主命題は、(資本論が依拠する数値データが正確であるならば)間違いなく、極めて合理的に証明し得たところの社会科学的大発見である。
しかして残念ながらマルクスは、この大発見をもってして、一貫して資本主義的剰余価値のみを“社会悪の根源”として取り扱おうとする自らの執念に執りつかれる。つまりこの視野狭窄的“善悪観”に、マルクスの絶望的瑕疵が存する。

そもそも資本家が自己管理できるものが、自ら用益する労働力と完成品の販売価格(これは実質的には他の資本家との価格競争のために自由には設定できないもの。)だけだから、資本家が実質的な唯一の自己裁量の発現可能対象たる
労働力管理をして、できうる限り自利の追求のために有利になるように操作しようすることは自然であり、もってこれ(剰余価値の積極的産出・獲得)は、道義(人は誰しも自力/
自己責任において自己保存するしかない。)的には真っ当な経営術の範疇に含まれる、と多くの人々は感じる。
すなわち何人もこれ(自利の積極的追求行為)を一意的に不当行為だとして糾弾することはできない。
(つづく)
222:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)15:00:36 ID:???
24 of 30 (つづき)

何となれば糾弾者自身もまた自利を積極的に追求するのでなければ自己保存できないという、全く同じ存在拘束性の下に生きているからである。
(このことは我が国のマルクス学者も本音では分かっているはずだ。)

その上でマルクスは、この哲学的真理についての掘り下げた論考は何も為さないままに、「ともかく(理想的な共産主義体制への過渡的体制でしかないところの)資本主義体制が、一刻も早くこの地上から消滅しさえすれば、そのことがあたかも“(資本家・土地所有者を含めた)
万人にとっての天国”を直に実現させ得る」かのように思い込みたい、つまり存在拘束性の陥穽にはまり、社会(共産)主義体制への移行戦略としての“簒奪(搾取)者からの簒奪”、すなわち“暴力革命”さえも是認しているという始末である。
しかして如何に誤魔化そうとも依然として最大の肝は、「人は誰しも(資本家も土地所有者も労働者も)が、自己保存のために自利を追求する傾向を持つところの、ありふれた動物の一種にすぎない。」(※注1)という、この正に絶対に否定し難い真理にこそ在るのであり、
マルクスは残念ながらこの圧倒的な哲学的真理性を真正面から見据えられるだけの人格系メタ認知的論理思考能を持たないのだ(※注2)。
(※注1 例えば当論第八回においては人間界では、人々の自利追求行為が社会全体に顕現する機序を、「パーティ会場の法則」(自然法則)として明らかにした上で、戦後民主社会においては、
このような万人の動物本能的自利追求行為が最終的に“生き馬の目を抜く”が如き“優勝劣敗”社会であるところの新自由主義型民主社会を招来した機序をも、既に論じたところだ。)
(※注2 マルクス自身も労働者の積極的自利追求行為としての(しかも暴力による)共産主義革命を容認している立場上、本来であれば当然にこの哲学的問題に正面から取り組むことが“スジ”であることを分かっていたはずだが、
“舞台裏事情(※注3)”から故意にそれを回避た、というのが真実のところであろう。)
(※注3 「共産党宣言」(1848)に先立つ「ヘーゲル法哲学批判序説」(1843)において、「一特定身分の開放と一国民全体の開放とを(論理的に)同一化させた上で国民全体を熱狂させて、
大革命運動に雪崩込むためには、或る身分が社会の理不尽さを一身に背負い、また別の或る身分が、
(つづく)
223:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)15:01:44 ID:???
25 of 30 (つづき)

社会のあらゆる欠陥/犯罪性を一身に体現しているかのように、人々に思い込ませる必要がある。」旨を述べていることから、
早くから「労働者/資本家」対立構図を故意に煽ることが、革命の“総合プロデューサー”たる自らの使命だと腹を決めていたと思われる。
すなわちマルクスはAE型人間としての才能を、確かに真理の発見のために使いはしたが、一方ではその成果物(剰余価値説)を、自身の存在拘束性のために、もう一つの真理(「資本家のみならず、労働者もまた自利の追求に没頭する。
もって資本家/労働者の関係とは、“対立”関係ではなく、“同じ穴のムジナ”の関係である。」)とは相容れない方向に捻じ曲げてしまった。)

そしてここからが肝心な点だが、マルクス自身が数理経済学的能力において素人同然であるために「資本論」の大半は、ある意味で誰でも感覚的に分かるような当たり前な認識を実に回りくどい長舌をもって、
これ見よがしに勿体ぶって“間を持たせる”かのような独特の体裁(※注)を持つに至っている。
こういうこともあって実のところこれは経済学というよりも、“経済哲学の大傑作”とでも呼ぶべきもので、しかしそうであったとしても尚、上記の“裏事情”のために、肝心な哲学的真理についてはこれを故意に無視したような存在拘束性の陥穽を伴う。
(※注 例えば、「剰余価値の利潤への転形」係る説明(第三部第一篇)とか。)

その上でこの「資本論」独特の属性は、とりわけ前回論じたようなC型秀才トートロジストを頂点とするところの、
A型人間的な“真知”とは無縁である“演繹知者(※注)”としてのC型人間たちにとっては、極めて“美味しい宗教の教義的ネタ”になるのだ。
つまり異様に格式張った膨大な分量の体系的記述、従来的哲学の域を超えた唯物史観、経験・実証主義的態度からキラキラと光る真理性・・等々は無能である彼らを“箔付け”するための虚仮威し用ネタとして申し分ない属性を備えている。
(※注 苦労した先祖を通じてしか継承し得ないA型人間的な真知(合理)性とは無縁の尤もらしさしか持たない偽知者。)

かくして階層社会においては大学組織を含むところの全組織がC型人間中心の排他的小社会・集団であるから、大方はC型人間であるところの我が国のマルクス学者らは、“オツムがちと弱い”読者に対して「資本論」を宗教の教義として、
(つづく)
224:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)15:02:24 ID:???
26 of 30 (つづき)

(A型人間的観点から鑑みるならば)「お前は一体、何の志を持って“マルクス研究者”やってるの?」的サッパリ分からない所論”を、ウダウダと展開できることになる(※注)。
(※注 例えば宇野弘蔵/高島善哉などが典型的。)

その上で例えば或る大学生が、このような人類の学術の進歩/発展には金輪際、何も寄与せずマルクスの権威にあやかるだけの教授の無価値な所論におもねる/へつらう/ゴマをすることもせず、毅然と反駁する、
すなわちこの大学という排他的小社会・集団の命令/服従の連鎖構造に係る反抗の力動に沿わないならば、如何なることが生起しうるだろうか?

この場合、学生はマルクス学教授が暗黙裡に求める媚/へつらいに応ぜず、彼の体面を傷つけたことになるから、教授が属する組織の集団的防衛機能に基づいた制裁が直ちに発動されうる。
そしてこの手の制裁は、前述したように命令/服従の連鎖構造の権威の力動に相乗りした“排他的小社会・集団的指令”、すなわち“命令/服従の連鎖構造の正規の命令”として発令される点が肝である。
具体的には制裁される大学生は、学問の問題には容易に他の機関が介入できないという「大学自治の原則」等が悪用され(※注1)、遅かれ早かれ当該大学組織において闇から闇に葬られるようにして完全排除されていく(※注2)。
(※注1 大学自治原則が“癌”になった典型例は、日露戦争開戦に向けた好戦的国民輿論を一貫して煽り、戦中、講和後も国民の不満の火に油を注ぎ、
日比谷焼き討ち事件(※注3)勃発の原因の一端にもなったキチガイ 戸水寛人(※注4)の、東大法科大学(法学部)教授職解任劇だ。
すなわち監督官庁である文部省直々の解任通告に対して、東大は(戸水のような“狂人”を教授に据えた自らの責任論は棚に上げて)大学自治原則を盾に美濃部達吉を先頭に全学(全教授・助教授190余名)を挙げて文部省に抗議、
更には東大のこの動きに京大法科大学も呼応することで大学制度崩壊をも辞さない構えをもってして、ついに大臣辞職にまで追い込んだ。)
(※注2 例えばここに或る平凡な一医師の自伝(阿部博幸「黄金なす曙」)があるが、「(札幌医科大第二外科)医局の頂点に教授が居て、助教授、講師を監視役とし、医局員全て蛸同然に扱われる。教授の意向に反すると過疎地の診療所に飛ばされて何年も戻ることができない。
(つづく)
225:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)15:03:01 ID:???
27 of 30 (つづき)

(中略)多くの医師たちは医学博士の学位論文を教授に審査してもらうため、じっと耐え忍んでいる。」などとある。)
(※注3 内務大臣官邸/新聞社/市内電車/一般住宅/警察署/東京市内の全交番の8割に当たる364箇所の交番などが次々に暴徒の群れに襲撃され、死者17人/負傷者500人/逮捕者2,000人、
約3ヶ月間に及ぶ戒厳令が布(し)かれた、戦前期日本における騒乱の中でも屈指のものの一つ。)
(※注4 単純/稚拙極まりない帝国主義信奉者であり、その言説は戦前においては「(ロシアのみならず)なるべくならば世界をことごとく併呑したい」とか、ポーツマス講和後においては「激憤して現今の政府を倒せば足る。
(中略)政府を倒して批准交換を拒みさえすれば今日の危急を救うことが出来る。唯一にしてベストの策は是れあるのみだ。」などの、凡そ大学教授たるべき知的基準を満たしているとは思えないような言動のオンパレードである。)

そしてさらに残念なことには彼は生涯、この社会の学閥(ばつ)(※注)の成員に付与されるべき権勢にもほとんど与れなくなる可能性さえある。つまり当該大学以外の他の居場所さえも容易に確保できなくなるかも知れない。
というのも一次的連帯性を伴う階層社会とは“(ホッブズ的)リヴァイアサン(擬制された一個性を持つ人工的人間)”と化しているからであり、すなわち命令/服従の連鎖構造への反抗者は同じ人工的人間の身体(社会)のどの部分に行こうが、
一律的な権威の力動により、“体制への反逆者”という同じ識別レッテルを付けて回され、もって執拗に排斥され続けうる。
(※注 東大を頂点とするところの大学ヒエラルキーに基づいた棲み分け機能を伴う学閥的社会構造を形成する。)

このようにして命令/服従の連鎖構造における排他的小社会・集団の集団的防衛機能は、「権威の力動による合理的作用(元はA型人間の“真知”に由来するところの確たる基盤的固定観念→上意下達→普遍的均質性→社会集団的生産能)」とは全く異なる質を持つところの、
「反抗の力動による非合理的作用(C型人間の“演繹知”に由来する集団的防衛能→下意上達→普遍的均質性→社会集団的生産能の劣化)(※注)」をも同時に発生させる。
(※注 社会集団的生産能の劣化とは、例えば有能な人材/集団等の抹殺/毀損等。)
(つづく)
226:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)15:03:42 ID:???
28 of 30 (つづき)

その上でこれ(社会集団的生産能の発達と劣化)が、「社会全体的事業のための労働/繁殖のためのコミュニケーションに基づくミクロ(日常・個別)的専制支配(第十四回 16 of 34参照)(※注)」を顕現させる起動因になると容易に演繹できる。
(※注 「社会全体的事業」とは社会集団的生産能/大規模分業/(マス・メディア等による)大規模意思伝播等をもってして不特定多数者が汎社会的に為すところの経済・文化(※注2)的活動。
その上で不特定多数者においては直接的に社会全体的事業を意図/企画するのでなく、彼らの生活/人生の根幹目的としての日々の「労働/繁殖」のためにする行為を通じて間接的に社会全体的事業に参加する。)
(※注2 ここでは広義に解釈して、戦争/国内紛争/民族移動/選挙・デモ・ストライキ等に係る諸意思表示等も経済・文化活動に含める。)

すなわち人々は、全体社会の指導者・特権者階層が発する権威の力動を伴う命令による社会集団的生産能的事業、すなわち「社会全体的事業」への参加に際しては、個別に所属する排他的小社会・集団の集団的防衛機能に係る制裁指令により
被る大損害を事前に免れるための措置として、例えば"C型人間お偉方"たちの、互いを恭しく“先生”付けで呼び合うような慇懃さを伴うところの「気づき/アイディア/新理論などを好き勝手に提示せず、
C型的連携・支配の安定化に第一義的に配慮した行動を為せ。」などという「労働/繁殖のためのコミュニケーションに基づく無言のミクロ(日常・個別)的専制支配」に、まずは従う、つまり反抗の力動を発することから始めざるを得ない(※注)。
(※注 例えばルネサスエレクトロニクスという半導体チップ製造会社の山口工場が700人余りをリストラした際には、それを報道するTVドキュメンタリー番組(「突きつけられたゲンジツ」NHK総合 2014)に出演していた退職者の一人は、
いくつかの製造工程に関わる、難易度が高い国家資格を持っているほど有能なのだが、彼は「同業他社に転職した場合、自分はなまじ能力が高いがゆえに、転職先において製造工程に対して問題提起をしたりするだろう。
そうするとそこの古株の人たちに疎まれかねないから、あえて全く畑違いの危険物などを扱う運輸会社に(給与は下がっても)転職することに決めた」などと発言していた。)
(つづく)
227:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)15:06:33 ID:???
29 of 30 (つづき)
 
というわけで社会全体的事業のための労働/繁殖のためのコミュニケーションに基づくミクロ(日常・個別)的専制支配とは、階層社会における優秀者的属性の発露であるところの権威の力動と、
皮肉にもこれに相乗りして再活性化する凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向の根強い基体としての集団的防衛機能の歪な顕現と見做せるところの反抗の力動(媚びへつらいの源泉)との“化学反応”の所産である。
その上で例えば司馬遼太郎「胡蝶の夢」(1979)は述べる。「旗本の内の言葉では将軍のことを「旦那」と言う。この日本最大の権力と権威によってお禄と名誉を得ている。
ぶら下がってさえいれば先祖から相続してきたお禄と名誉を子孫に引き継がせていけるわけで、ぶら下がってしまうと、もう旦那そのものが滅びるとか何とかという危機感は持てなくなってしまう。
全ては御老中、若年寄といった重役衆が何とか絵を描いて行きなさる、と思っている。」と。

すなわち階層社会において一旦、ミクロ的(日常・個別的)専制支配体制が顕現してしまうとC型人間は、例えば「おらには小難しいことは分かんねぇダ。おらは唯々、偉い人の言うことを全部信じるだけダ。」的な「無関心性」、
あるいは誰かが全体社会のために “清水の舞台から飛び降りる”覚悟をもって合理的な行動等を為しても尚、世間は全く反応しない「無反応性」、更には自分への直接的な命令が理不尽であっても何の抵抗もせず、
唯々隷従する、すなわち自らが属する排他的小階層・小社会から排除/抹殺されるリスクを徹底的に嫌う「無抵抗性」をも常態的に顕す。

例えば近世封建社会においては、大名は自分に最も近い上位者の将軍に対してこそ忠誠心を持ち、また下級武士は自分を直接召し抱える上級武士にこそ忠誠心を持った。
すなわち下級武士は自分の食い扶持を直接的に充てがわない将軍に対しては無関心/無反応なのである。
また昭和の軍人たちは天皇ではなく自らの直接的な上官に対してのみ無抵抗という理不尽さが極まった。例えば張作霖爆殺の際には、天皇の意志に真っ向から逆らい軍紀粛清を(何の煩悶もなく)拒み得た。
(ところが田中義一は、自分の直接的上位者の天皇に突き放された時点で生きる気力を失った。)
更に二・二六事件の際には反乱軍下士官たちは原隊復帰・帰順説得のために連隊長や大隊長がやってきても一貫して直属上官の命令にのみ従い(※注)、
(つづく)
228:市井の居士◆dgvbGqecqY:18/12/14(金)15:07:19 ID:???
30 of 30 (つづき)

連隊長や大隊長らに歩哨線の通過を許さず銃剣を突きつけたり、尉官クラスが右往左往する陸相や将官クラスをどやしつけたりさえした。
(※注 ちなみに初年兵への入隊時の訓示は通常は、「隊長はお前たちの父である。班長はお前たちの母である。困ったことがあれば何でも遠慮せずに相談にこい。」的なもの。)

もちろん現代日本の日常においても無関心/無反応/無抵抗に係る理不尽さは至るところに在る。例えば流通機構においては今だに生産者/消費者の間に多くの取次商(問屋/商社)が在るし(※注1)、部屋貸し時の敷金・礼金・連帯保証人制(※注2)などは
“封建(江戸)的遺物”そのものだ。また台湾征討/西南戦争が縁となった大隈重信時代からの早稲田と三菱の腐れ縁などもこの類だ。
(※注1 これにより末端価格は製造元納入価格の三倍になる。この価格上昇率は欧米の二倍。)
(※注2  とりわけ連帯保証人制は古く、石井良介によるとその起源は奈良時代にまで遡れるらしい。)

とどのつまりこれらの三属性とは、人が一度、専制体制下に置かれたならば、いわゆる「触らぬ神に祟りなし/寄らば大樹の影」的な「警戒心/恐怖心/依存心」という動物的本能の発露を強いられることを端的に示す。

『階層社会の命令/服従の連鎖構造においては、指導者・特権者階層から下って来るところの(階層社会の本然的目的に適うものとしての)合理性の力、すなわちA型人間に由来する権威の力動が社会集団的生産能を発現させるのみには留まらず、
同じく階層社会の排他的小社会・集団から上って来るところの非合理性の力、すなわちC型人間の集団的防衛機能に由来する反抗の力動をも亢進し、もって無関心・無反応・無抵抗性を顕現させるところの
「社会全体的事業のための労働/繁殖のためのコミュニケーションに基づくミクロ(日常・個別)的専制支配」体制を樹立させしめる。』(『観念運動の自然法 第八定理の二(ミクロ(日常・個別)的専制支配定理)』)

というわけでこの社会全体的事業のための労働/繁殖のためのコミュニケーションに基づくミクロ的専制支配が生むところの、三つの非合理性(無関心・無反応・無抵抗性)に所以する多様な弊害が否応無しに階層社会に蔓延することとなる。
(「命令/服従の連鎖構造① 権威の力動と反抗の力動」 おわり)
(第十六回 おわり)
229:足利:19/01/05(土)20:49:21 ID:???
アホとは?

坪井氏も色々とあって覚せい剤や強盗やピンクチラシ貼りの協力を、六孫王血縁に
頼んだんでしょう。
それを R氏 「アホちゃうん」 と揣摩臆測での発言は良くはないでしょう。
貝塚市南町9-31の 覚せい剤をしてしまい色々な人を巻き込んでしまった坪井氏の
妹の坪井 明美さんに伝えておきましょうか?
六孫王血縁にはアホと言って馬鹿にするのだけはやめてください。
六孫王神社にも手紙出して聞いときますねR氏さん。こっちは坪井氏や警察官僚の協力を求められてそれに応じただけで御座います。
色々とあったんでしょう。wd
230:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:31:42 ID:???
1 of 43

昨年来、我が国を取り巻く国際情勢が急展開している。この事態に際し、我々日本国民有志は直ちに合理性の力を行使すべく企画しなければならない。
そのためには「彼を知り己を知れば百戦殆うからず・・」(孫子)を引き合いに出すまでもなく、まずは「“彼ら”の社会、並びに日本社会とは如何なる社会か?」に正答を得る必要がある。

ついては予定していた当論の公開順序を急遽変更し、「日本社会論」/「西洋・東洋両文明圏における社会統治観念/社会意識の基本的差異に係る比較論」を「命令/服従の連鎖構造」に係る
一連論説の合間に挿入する(もって「命令/服従の連鎖構造」に係る論説は第二十回まで続くことになる。)。まず今回は日本社会論である。


「市民層  概論」 第十七回

「日本社会論① 頗(すこぶ)る女性的な社会」

近世以降の日本社会とは、わざわざ制度としての民主主義体制を導入せずとも、デフォールトでトップが思いのままに采配するなどという独裁の類は到底叶わず、ここにおいてはトップの地位は実力で勝ち取るものでなく、集団のメンバーの“全員一致”に依る。
その上で基本的には温厚で面倒見の良いことだけが取り柄、それ以外は全く無能/馬鹿そのものと言って良いような者がそこに祀り上げられる。
これは言わば『善人(※注)専制』とでも呼ぶべき体制であり、これが近世以降の日本社会における一般的統治・管理様態である。
(※注 「(他者に優しくなれる)善人」であるということは、合理性(経験・実証主義性/適宜・経済性)に係る能力が極めて低い者であることとも、また同義である。もって善人専制が適切に敷かれるためには、有能な側近衆の補佐が不可欠。
その上で善人性は例えば、近世村落の村人の総意により互選/世襲された庄屋/名主/肝煎/長百姓、都市の町年寄/十人衆/
町名主等の管理者層の人的属性において求められたところの(白川部達夫が言うところの)、寛大/寛容/分別/慈愛/相互扶助性(ユイ/モヤイ/スケ等。)等の「頼もし気」に典型的に顕現している。)

さて、日本社会は古来より伝統的に、“全員(※注)の利益”への配慮を命令/服従の連鎖構造により格別に要求されるところの、『女性的属性』に所以する独特の行動原則を宗教の教義としてきた。
(つづく)
231:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:32:55 ID:???
2 of 43 (つづき)

その上で本邦社会においてこの女性的属性をフィーチャーさせたところの“原点”とは何であるかを探求するならば、日本社会の原初の時点で真っ先に形成されたであろうところの、
身分・能力格差意識が希薄で平等・共働意識が各人の深層意識に深く根を下ろした「協調・一体性」が多分に強要された社会イメージが炙(あぶ)り出されてくる。
(※注 日本の伝統的観念における“全員”とは、個人/自由人の集合としての全員にはあらず、そもそも「私人」ですらないところの「(天皇の)公民/所有物」の集合としての“全員”。)

まず概要を述べるが、その前に一つ述べておく。人間界の社会属性の有様に決定的な影響を与える存在拘束性の最たるものは地勢と気候である。
その上でとりわけ、気候帯的気候に係る知見を除いたところの歴史気候学的データは、その経験・実証主義性において大いに難があるために、オレとしては参照しない。もってここでは地勢に係る観点からのみ論を起こす。

我が国のように湿潤多雨で鬱蒼とした樹林に覆われた山地が圧倒的に多い狭い島国では、「大和は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣 山こもれる・・」の古歌にもあるように、“緑の魔境”、
すなわち山林間にネコの額のように狭い平野部が点在するという特殊な地勢をもたらし、これが敵方が山岳ゲリラ化して手がつけられない、あるいは棲み慣れていない山間では地の理を得にくい等のために、他集団への武力攻撃を失敗させやすくしている。
これすなわち我が国特有の地勢的存在拘束性は、「戦闘性という男性的属性を顕現させにくい」という、全世界の高度文明圏の中でも極めて希な社会的存在拘束性を、北海道を除いた日本全土において現出させていることを意味する。
例えば弥生時代の中期以降~3世紀頃までは、「高地性集落」と呼ばれる戦闘・哨戒時に有利となると考えられる山地の陣地/基地が多数在ったのだが、
こうしたものは4世紀以降は(戦国期の山城を除けば)全く消滅し、人々の居留・居住地は山間の低地/平地に限定されてくる。

その上で3世紀に稲・麻・桑作等が定着した低地/平地を本拠地とする連合政権の首長国だと思われる、「卑弥呼(ヒミコ)」(※注1)を含む諸王が治めたとされるところの「邪馬台国(※注2)」が出現し、
(つづく)
232:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:35:20 ID:???
3 of 43 (つづき)

この直後の4世紀の遺跡からは体制経営のための祭祀用具だと思われる三角縁神獣鏡などが出土するようになる。
このことから、ここに本邦における「一次的連帯性を伴う階層社会(第十六回 参照)」期が開幕したと見做して良い(※注3)。
(※注1 陳寿の「魏書」巻30 東夷伝倭人の条、すなわちいわゆる「魏志倭人伝」)に拠る。)
(※注2 本邦学界においては「邪馬台(ヤマタイ)」とされているが、これは実は「邪馬壱(ヤマト)」の誤り。
何故ならそもそもが“ヤマタイ説”とは、北畠親房/松下見林/新井白石などの初期研究者が後漢書倭伝のみを参照した上で、その「邪馬臺國」表記を、
唐音研究家の新井白石が「ヤマータイコ」と表音したことに由来し、その上で実は後漢書倭伝(5世紀)とは魏志倭人伝(3世紀)をネタ元とし、原本である後者においては「邪馬壹(ヤマト)國」と記されているから。
しかして本邦学界は上記事実に対しては、何と「魏志の“壹(ト)”は誤表記だ。」とし、今だに新井たちが唱えた説を頑迷に踏襲している(※注4)。
ちなみにこの「臺(タイ)→壹(ト)の誤表記」説は、既に古田武彦による現存する紹煕本(写本)の綿密な古表記に係る調査研究等により、概ね有り得ないものであることが論証されていると、オレは考えている。)
(※注3 これ以降の畿内政権の指導者・特権者階層が、「(魏書に記された)邪馬壱国こそは当政権の祖である。」認識を政権正統性の大義名分にしたであろうこと(※注5)は、
例えば古事記/日本書紀では、政権中枢所在地の地域名として(「旧唐書」までの歴代中国志書の一貫した本邦名称であるところの)「倭(ヤマト)」(※注6)を用いていることから判じ得る。
その上で日本書紀が独自に「日本」(※注7)表記を示して以降は、日中両国においてこれが当該政権の表記とされる。
ちなみに魏書により権威付けされたところの「ヒミコ」の呼称が、権威の力動により後に「ヒノミコ」に転化し、本邦皇族を意味する一般語になった可能性がある。)
(※注4  ちなみに古田は「邪馬台国はなかった」(1971)において、「後代の研究者が安易に原典を誤り(誤記/勘違い等。)だとする“習癖”は、大昔から現代に至るまで一貫している」(要旨)と、嘆息交じりで述べている。)
(つづく)
233:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:36:05 ID:???
4 of 43 (つづき)

(※注5 畿内政権の指導者・特権者階層は、魏書が記述する邪馬壱国への方位/里数/日数と、事実認識としてのヤマト政権所在地との間に浮かび上がるところの不整合問題については、陳寿の記述は伝聞(倭人伝については、
ほぼ「魏略」に拠る。)である上に、元ネタ自体が魏都で魏帝に謁見した日本人使節が表明したものをそのまま記述したか、あるいは恣意的改変が為されている可能性が高く、
その上でそもそも航海用天体観測・測量技術等をもってしては方位/経緯度/距離を概ね正確に認識することはできない、と考えたはずだ。)
(※注6 「倭」の字源は、「稲藁のようになよなよしく人に従順」の意味。ちなみに「前漢書」巻28下 地理志燕地の条(いわゆる「漢書地理志」)は「東夷の天性柔順は、
三方の外に異なる」とし、日本社会が女性的属性という稀有な個性をフィーチャーし、もって“四夷”の中では際立っていることが太古から認知されていた。)
(※注7 例えば「日本、これをば邪麻騰(ヤマト)といふ」(日本書紀)などとあるから、ヒモト(日の出る処)をヤマトに転化させて「日本」としたのであろう。ちなみにヤマト表記は、8世紀頃から「大和」(大いなる和み/和らぎの意)に漸次、定まっていく。)

そしてこの一次的連帯性を伴う階層社会期には、限られた平地/山間部に大量の人口が集積し始めるという存在拘束性のゆえに、
価値観が異なる相手を選別的に攻撃/排撃する男性的属性の顕現をも著しく困難にし、もって女性的属性が更にフィーチャーされていった。そしてついに

『水稲栽培/神仏祈祷における中心的労働の供給者たる女性や下流階級者の存在/立場にまで神経質に配慮せざるを得なくなるところの女性的属性を伴うエートスの下で、男女・身分・能力格差認識が希薄な平等・共働意識が
各人の深層意識に深く根を下ろしたところの『女性的共産主義観念』を宗教の教義とする社会が確立する。
その上でこの本邦独特の共産主義観念は、西洋発の純粋理念的な共産主義観念が宿すところの問題性を、全社会構成員が協調・一体的な女性人格的諸能力を持つことで払拭できている(※注)。
すなわちこれは社会的存在拘束性を起動因として社会が弁証法的運動した末の“自然発生的産物”であるために、こうした合理性の力を持つのだ。』
(つづく)
234:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:38:40 ID:???
5 of 43 (つづき)

(※注 純粋理念的な共産主義は基本的には、生物/動物の自己保存本能が発する命令(「己を生き残らせる(あるいは納得/満足させる)ために他者に対する優位性、あるいは自利を当然の如くに追求せよ。」) という闘争傾向に矛盾し、
更には人々の能力/気質/価値観等の多様さ伴うところの個々の人間関係問題を、共産主義(予定調和)的に管理することの著しい困難さに早晩、直面せざるを得ないために、挫折するしかない。
このように自然の理に真っ向から反するところの理念上の共産主義観念とは、“白昼夢”でしかない。)

このように日本社会は男性的属性を、「女性的属性に由来する協調・一体性」をもってして顕現し難くし、人々をして合理的に共産主義的経営を為さしめるに至ったのだが、
しかして我が国は元来、中華文明圏に属してもおり、これの支配的観念(第二回 参照)自体は温和な女性的属性などとは真逆の荒んだ男性的属性を持つ代物だ。
すなわち中華文明とは、政治的対抗勢力については一族/徒党ごと皆殺しにしてしまうことを是とする極度の「人治主義(※注)」観念をフィーチャーして止まない文明なのだ。
(※注 第十九回で詳説する。)

そしてなるほど確かに我が国がこの女性的共産主義観念を確たる基盤的固定観念とする社会を名実共に確立させしめる途上においては、
正に中華文明の影響を如実に見せる事象、すなわち「蘇我入鹿による厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)一族の皆殺し」が生起してもいる。
つまり推古天皇期からこの惨劇に引き続くクーデターである乙巳(いっし)の変の頃以前までは、(今日において神道と呼ばれる)祭政一致イデオロギー体系に基づき“大王”と呼ばれた国家主権者が統べるところの、
中華文明的「一次的連帯社会の専制段階(第十六回 参照)」を、概ね肯定的に認知している段階であったと考えて良い(※注)。
(※注 「宋書」夷蛮伝倭国条には5-6世紀の「倭の五王」による冊封的朝貢が記されている。)

すなわちこのクーデター(蘇我入鹿謀殺とその後の唐の律令制の公式導入)事象とは、聖徳太子一族抹殺の如き中華文明の影響を一掃しようとする意図を反映させた企画としての、
皮相的には(中国の地上の君主である「皇帝」を凌ぐところの)“天上の人格神”としての「天皇(すめらみこと)」制(※注1)を全面的にフィーチャーし、更に「律令」制を付加することで、
(つづく)
235:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:39:19 ID:???
6 of 43 (つづき)

実質的には蘇我系氏族(仏教導入派)と中臣系氏族(神道派)の対決に係る統治理論の弁証法的運動を経て、「大王(形式的)専制」から(持統天皇の代以降の藤原氏を首領とする)『氏族的共産制(※注2)』への移行過程に入ったことを示すものなのだ。
つまりこれにより上述の日本人の女性的心性には嫌悪感が強い中華文明的な殺戮習慣等の残虐性を払拭し、もって女性的共産主義観念に基づく社会体制を、名実共に磐石にしていくところの歴史的過程に入ったのだと考えて良い。
(※注1 中華思想的な徳治主義に基づく“人間”としての「皇帝」においては人民を安んじるために必要な徳が失われると「易姓革命」により、別の家系の皇帝に(現実には大量殺戮劇を伴い)地位を明け渡さねばならないが、
我が国の大王は神道において、明神的霊力(人格霊)を代々継承するとされるところの役職・世襲的地位としての“現人神”であったから、
この世襲神たる大王を「天皇(現人神)」として際立たせた上で大義名分化するならば、その存在自体が至高さを持ち、
もって未来永劫、その地位を(王の代替わりの度に残虐極まりない殺戮劇を見ることなしに)同一家系の子孫に平穏裡に移譲させ続けられるところの「万世一系」統治秩序を確立できるというわけだ。)
(※注2 これについてはチャプター後半で詳説する。)

こうして新興の氏族的共産制における真の権力・意思決定者は、天皇の周囲を固める氏族(官職世襲貴族)たち、あるいは時々の権勢保持氏族と相成った。
ちなみに日本社会は7世紀以前の大王の形式的専制から氏族的共産制、更に「武家惣領制」を経て「父系家族制に基づく社会体制」へと、極めて緩やかにその存在拘束性を資本主義的方向に「破壊と創造」(第十二回 参照)していくことになるがために、
自意識・人間・社会関係的には共産主義性を温存したまま、今日に至ることが可能となった。(これについては次チャプターで詳説される。)

ではここで、この女性的共産主義観念の主たる属性を箇条別に把握してみよう。
ちなみに鈴木大拙は、「日本の文化の核心になるものは女性主義である。日本に「道徳」とか何か強いものが在るとすれば、それは皆、支那から入ってきたものである。弱い、柔らかな、湿った、少しハッキリせぬもの、それが日本の文化である。」と述べている。
(つづく)
236:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:41:45 ID:???
7 of 43 (つづき)

ではこの“日本文化”としての女性的属性は、社会において具体的に如何様に顕現しているのか?
すると女性的共産主義観念の作用に基づく文化的属性として見い出せるものとしては、(弱者に向けられるものとしての)「(仏教の教義由来の)一切衆生の救済」理念の浸透/能力・才能の差異を無視した年齢階梯制(長幼の序)/
陰湿な妬み・恨み・イジメ傾向(※注1)/地縁中心主義(※注2)に根ざした恥・見栄観/嫌いな相手への慇懃無礼/旅人・客人・異人の厚遇等が見い出せる。
その上で女性一般の本性と見做せるところの「協調と安全」を強く求める欲求に所以すると見做せるものとしては、闘争・競争意欲の脆弱性(※注3)/集団・群れ化傾向/
(強者に対する)集中的奉仕・従順性(生真面目・几帳面さと三始原人格の一つの自己批判的観念の強さ等。)等が見い出せるのであり、これらが渾然一体となり協調・一体性を醸している。
(※注1 ウハナリ打ち(※注4)/妻敵打ち/嫁イジメ等の習慣・儀式化。
また旧日本軍においては、新兵が消灯後に古兵に叩き起され靴やスリッパで殴られるとか、真っ暗闇の中で整列させられ互いにビンタ打ち合いをさせられる、あるいは「自転車のペダル踏み/ウグイスの谷渡り/松の木のセミ」などと呼ばれたところの諸
私的制裁(リンチ)、下級兵が上級兵の身辺の世話を奴隷の如く為すことなどが、「軍隊内務書」体制の下で秘かに公認されていた。その上で「特攻」で生還したりすると、その後の軍隊生活において半殺しの目に遭うことも覚悟しなければならなかった。)
(※注2 地縁主義の例・・戸数毎に編成される「ムラ組/五人組」等、「講組」、「伍長組」等。
都市部では、村的な全人格的交流/相互扶助性はないにしろ、主として警・消防/塵芥・し尿処理/地区祭礼実施等に係る「マチ組」構造、近代以降では「企業別労組」等として保持した。)
(※注3 ちなみに戦時中は”日本民族は尚武の民”であると自画自賛したが、これには少なからずの注釈が必要であろう。
例えば太平洋戦争末期の特攻の生き残り兵のインタビューなどからは、武士道的行動を強要させられていた当時の日本兵の本音が窺える。
例えば上長に逆らうことが必然的にもたらす(注1のような)イジメ惨禍に対する尋常でない恐怖心がその一つであり、
(つづく)
237:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:43:45 ID:???
8 of 43 (つづき)

更には「君のため何か惜しまん若桜 散って甲斐ある命なりせば」などといった特攻・玉砕精神を刷り込むためのポスター類が全国津々浦々に溢れる中、万が一にも世間や仲間に後ろ指を指されることが在っては、”末代・家・村の恥”となり、
その上で生き恥を晒した上で除け者に成ることこそを本気で恐怖したがゆえに、彼らは進んで殉職の道を選んだ。
ちなみに半藤一利は「(終戦直後の復員は)見事なくらいで、あれよあれよという間に復員軍人が故郷へ返されました。まあ不思議なくらい言う事を訊いたんですね。(中略)あんな整然と言っちゃおかしいですが、サァーッと解体していく姿は驚くべき眺めでした。
(中略)(オレ注 : そんな光景を目の当たりにすると)日本人の民族性は元々戦争が嫌いなんじゃないかと思わないでもないんです。」(「昭和史 戦後篇」)と述べているし、また連合軍の上陸前に素早く日本軍が解散した際に、兵舎から衣服/寝具/
食糧を失敬したものは多かったにも拘らず、武器を持ち出した者はほとんど居なかった事からも、日本においては本気で闘争を好む者は、滅多に居ないと類推できる。)
(※注4 平安期からの嫡妻/コナミ(先入妻)が庶妻/ウハナリ(後入妻)を打つという慣習が、中世期に「離縁した前妻が親類らと共に襲撃を事前予告した上で、集団で後妻を棒/竹刀/台所用具等で襲撃し、
ついでに家具/調度品等も打ち壊して、最後に仲裁者が現れて手打ちする儀式」となったところの“怨恨晴らし/ガス抜き装置”。この慣習は近世には消滅した。)

そして日本社会がこれら女性的属性を持ったことの結果として第一に特記すべきは、何と言っても女性が生命を育み愛でる性であることに所以するところの、「独裁/虐殺」が普通には出現しないことである(※注)。
つまり男性的属性(征服・支配欲)が有意であった戦乱期である織豊期のように、統治システムそのものを個人が一から構築する以外で、敢えて強烈な指導力を持とうとするならば、井伊直弼/大久保利通のように、
悪辣/善良であるかを問わず問答無用で排除されしてまうのが、日本社会では普通のオチである。
(※注 世界中の何処にでも山のようにありふれている数万人以上の大量殺戮は、後にも先にも織田信長の一向宗門徒の大量虐殺のみ(第八回 参照)。)
(つづく)
238:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:44:25 ID:???
9 of 43 (つづき)

また律令期は前述のように氏族的共産制であったのだが、薬子の変の藤原仲成の射殺/保元の乱の源為義、平忠正らの斬首などを除けば、中央における死刑執行というものがほとんどなかった(※注)。
そして近世においても例えば農村共同体の制裁の中に死刑は存在しなかったし、更に時代が大きく下って治安維持法による60,000人の検挙者のうち、起訴されたのはわずか6,000人、公式の死刑判決は皆無であり、当時はファシズム体制下だったのに強制収容所すらなかった。
(※注 10世紀頃までには、祭礼/儀礼に要する生贄/人身御供/動物の生き血/出産等、ありとあらゆる“死/血を見る行為”が忌避されるようになっていた。)

次に社会が女性的属性を持った結果の第二だが、チャプター冒頭部で述べたように指導者・特権者階層が、共産主義的な権益分配巧者であることを強いられ、
協調・一体的社会の維持/全員の不平不満のガス抜きを図ることを主たる任務としていることにより、社会の際立った特徴としての「身分差を超えた要求の突きつけ/弱者による強者批判・非難等」傾向が顕現する。
こうして挙句には社会的弱者/悪者であるはずの者共が、(社会の平等・水平エートス等に乗じて)自分に都合が良いイデオロギーに基づいて好き勝手に強者/善者に対して要求を突きつけて尚、社会の正統な一員として容認されたりする。
だからA型人間のような明晰な観念を保持することは、(建前上は褒められるにしても)実質・実際的には極めて不利になる。

こうなってくると日本社会の中の人間関係においては互いに馴れ合い、適当にナァナァでやってくことこそが、戦略的には最も有利になるために、各有力集団のトップが「いやー、ドモドモ。」などと言いつつ寄り合って、
異組織混合の連立体制を形成するに至るのであり、こうして社会一円の数多の指導者たちが本気で凌ぎを削り合わずに、横に連携/連帯する傾向を持つところの『一円連立的ヘゲモニー(※注)』が成立する。
(※注 但しこれは戦国・織豊期以降に、世相が安定し集団・群れ化傾向が顕著になっていくところの近世以降の事象である。
例えば徳川幕藩体制期の惣百姓一揆/明治期の政官一体の殖産興業政策/近代以降の労働争議やデモ/経団連と(1947年結成の)全労連/高度成長期の護送船団方式/株式持ち合い/談合等に典型的に顕現している。)
(つづく)
239:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:45:02 ID:???
10 of 43 (つづき)

ところが一度、世界各国が国際社会という大きな舞台に上がらざるを得なくなる近代に入るならば、この馴れ合い性の反動として獲得したところの或る属性から享受するメリットが、計り知れないほどに大きなものとなった。
すなわち明治維新以降の急激な国家隆盛とは、日本社会が女性的属性を持ったことの結果の第三である。

第十四回で述べたように、真/美/善/論考能といったA型人間属性を培うためには、まずは安定継続する隔絶環境が必須要件であるわけだが、この直前までの徳川体制という一円連立的ヘゲモニーの長期継続期が指導者・特権者階層にもたらしたところの、
互いに馴れ合い、適当にナァナァでやっていく隔絶環境において、反動的に女性的属性に係る突出した模倣技能修得・演繹的思考様式学習意欲を培うという、思わぬ副産物を産みだした(※注)。
(※注 普通に出世できる家柄が概ね確定している予定調和的環境において大多数の家格が低い武士にとっては、「昌平坂学問所等の学問吟味」に及第する以外には幕臣への出世の道がないから、下級武士らはこぞって演繹的思考的な勉学に打ち込んだ。
ちなみに女性的属性の本質の一つは、アレンジ・応用系の技能修得能である。例えば砂鉄@satetu4401は、「基本的に女性は、既にある物をより美しく見せることに特化しとるんや。化粧とかな、ファッションとか、可愛いキャラ作りも、
既にある自分を美しく見せるための技術や、そういう行動パターンが生活の中で習慣化しとるから、何でもそういう作りになるんやな。(例えば)女性作家の作品はリメイクや。恋愛作品は現実のリメイク」と、偶には的を射たことを述べてる。)

こうして文芸/学術等により培われた生真面目さ/几帳面さ等がもたらした思考統御・監督系諸機能(人格的諸能力)(第十二/十三回 参照)を獲得した武人貴族(武士)層は、
当時の世界最高水準の識字能(※注1)のみならず、後の凄まじいまでの西洋文明の吸収力に通ずる能力(※注2)を涵養した。
こうした高度に練磨された女性的能力が有ったことで、我が国は世界の列強国の一角を占められるまでになれたのである。
(※注1 大名クラスであれば、藩校での漢文素読/詩作等に加えて、各種芸能/芸術(上流人士達の俳諧サークル活動等)にも精通するから、識字能は自ずと練磨される。
(つづく)
240:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:46:19 ID:???
11 of 43 (つづき)

また庶民の子弟でさえも、寺子屋での、現代日本の子供たち同様の一日約6時間の手習い(習字)/「孝義録」等に拠る訓育等を課せられた。)
(※注2 例えば江戸の上下水道網は、神田・玉川両上水の全長63km/43kmの困難な土木工事を極めて短期間で竣工させた上で、日常的メンテナンスにおいても住民による清掃が漸次、行き届いてきて清潔になっていったと伝えられている。
また幕末期には黒船来航の僅か2年後に実物を誰も見たことがない蒸気機関を、薩摩藩が蘭書の図面だけを頼りに完成させて国産蒸気船の第一号を造れもした。
こうして明治期に入ると日本は、ありとあらゆる異文化圏から移入した工業製品(例えば各種工作・製造機械/機関車/艦船/航空機/兵器等。)について、
初めは外国講師・作業員団を招聘して製造技術を手習いし、これを終えた瞬間には一瞬にしてオリジナルを遥かに凌ぐ改良型製品を次々に開発していく。)

とりわけここに挙げた稀有な学習意欲/技能順応性こそが、西洋人などから見れば畏怖/驚異の的であるところの“日本の秘密”の肝なのであり、正に近代以降の日本の進歩・発展をもたらした源泉である。
ちなみにこれのプロトタイプ能力は、例えば飛鳥期の仏像鋳造技術/平安期までに完成された漢文訓読表記法と平仮名・カタカナ表記法(これにより日本語表記は、オリジナルの漢文よりも遥かに意味伝達性において優れた表意言語となる。)/
銃器が種子島経由で伝来するや否や世界最高水準の火縄銃を一瞬で作り出してしまったところの戦国・織豊期の鉄砲製造技術等として既に顕れていた。

ではここからは、女性的共産主義観念に根ざす社会の内部構造分析とその社会体制的変遷、並びにこれをもたらした諸力動・機序を論じていく。

原始の人類は(多くの生物種同様に)近親相姦を本能的に忌避し、人類学の黎明期における歴史的大作であるところのモーガンの家族制研究の重要性を見出したエンゲルスの「家族/私有財産/国家の起源」1884)において示されたところの、
例えば「プナルア家族」のような「近親相姦の禁忌(インセスト・タブー)」を宗教の教義とする社会段階(※注1)に至る。
そしてここにおいては人類の家族は兄弟と姉妹を別集団に配属する「双分組織(半族)」集団婚制と成り、これが自然発展して「氏族」制社会としての「母系集団社会」(※注2)となり、
(つづく)
241:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:46:56 ID:???
12 of 43 (つづき)

更にこれが各家族の経済的自立を伴う「父系家族社会」に至るという弁証法的運動を成す。
(※注1 かつては同系交配がもたらす劣性遺伝を回避するためという理由付が良くなされていたが、これのみでは経験的事実に対して実証力が弱い。
もって近親者/家族が滅多やたらに増えることによる「扶養義務の過重」を回避するためという経済的理由説が、類人猿をも含めた上で最も説得力を持つ。)
(※注2 人類史上最初の排他的小集団としての原始家族は、(多くの動物のオスの本能の顕現としての)父親が家族というものに対して何ら扶養義務・責任意識を持たないところの母子家族である。
こうして母親のみが歴然と判別できる家族が、まずは現出するものであるために、母系家族を構成要素とする共産的系列集団としての母系集団(氏族)社会が、まずは形成されるという理に基づく。)

その上で日本社会は(上記のように)地勢的存在拘束性としての女性的共産主義性を持つ上に非酪農的(※注)自給自足社会であるために、
共産制集団である氏族がいつまでも崩壊せずに存続し続けるという「父系家族社会へ向かう弁証法的運動の未遂状態」にはまった。
すなわち北海道を除く日本全土において草原に乏しく乳牛の飼育に不適な存在拘束性が、乳製品(蘇/醍醐など)という「商品価値が高い産物」に基づく流通(貨幣)経済の発展を阻害し、
もって男性的属性の顕現としての各家族毎の富の蓄積が困難となり(エンゲルス説)、共産制の母系集団社会が長期継続したのである。
(※注 我が国の場合、家畜は主として東日本の馬と西日本の牛であり、その用途は運送用の駄馬(馬借/中馬/伝馬など。)・駄牛(中牛)/乗・軍用(騎兵/牛車など。)/儀礼・農耕・堆肥用等。
また古代においては牛馬は禁制を犯して食肉用として秘かに供されもしたが、中世以降はそれも廃れる。酪農用途は僅少。)

すなわち(モーガン/ラドクリフ=ブラウン/モースらの諸説から演繹できる)人類学的一般原則としての「高度文明圏における母系集団制から父系家族制への速やかな移行」が、我が国においては生起せず、
母系集団社会が平安末期に至るまでダラダラと続いてしまった(※注)ことで、人類学的定説では古代に生起するはずの「単婚制(一夫一婦の嫁取婚/父系家族制)」の登場が中世にまでずれ込んだ。
(つづく)
242:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:47:51 ID:???
13 of 43 (つづき)

(※注 但し皇統や官職氏族は古代から一貫して形式化した父系。
その上で各氏族は自族の女性を皇統に組み込む外戚関係形成によるところの(形式的)父系強化/母系集団としての実生活における皇子養育の引受け等をもってするところの諸権勢を確保した。)

これについて高群逸枝は具体的に平安期末までの日本では、氏族共産制に由来する母子・母系家族形態を生むところの「対偶婚(一夫多妻、もしくは一夫一妻の妻問・婿取婚)」制(※注)が一般的であったことを、本邦学界において初めて明示した。
その上で古代日本社会においては夫と妻は基本的には同居せずに多くの家庭は母子、あるいは母系であり、夫婦は完全に対等で自立した存在として独立生計を営み、
それぞれが所有する田地の経営等に係る政務所(政所)/雇い人を持ち、夫には必ずしも母子の扶養義務がないという婚姻制度が根強く存続し続けていた。ではこれは如何なる機序に拠るかを、更に以下に説明する。
(※注 指導者・特権者階層においては平安前期までは、魏志倭人伝/記紀の三輪山伝説等に観られるように一夫多妻での夫婦別居の妻問婚が主流、平安中期から同じく多妻の正妻方同居婚(妻問婚+婿取婚)などへと遷移していく。
ちなみに妻問婚においては各人の主たる居所とは、あくまでも出自の氏族集団内の自邸であり、子が居れば母子家庭、居なければ家庭はない。
例えば藤原兼家は生涯、正妻以外の6人の副妻の“通い夫”として、これらの母子とは別居形態の妻問婚を為した。そして(副妻の子である)道綱/道義などは母方の家で養育されている。
この親子別居制は天皇家においては厳格であり、天皇と皇后は原則的に別居、その上で生まれた皇子/皇女らは、上述のように次々と母方の血縁である高位の外戚・外祖父家などに出される。)

上述のように「真の個人所有制」の確立は、交換・流通経済が飛躍的に発展し、もって男(夫)が獲得する新規資産の蓄積が急増し、これが生む社会的力動をもって社会経済の基礎的単位が氏族から夫の経済力を根幹とする夫婦同居家族に移行し、
更に父系の権威を確立することの必要が生ずるので、子の父親を明示するための「(極めて自由恋愛的な)対偶婚制から単婚(嫁入婚)制への移行」(※注)に迫られるというパターンになる。
(つづく)
243:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:48:37 ID:???
14 of 43 (つづき)

(※注 嫁入婚制の普及に伴い「祭礼としての結婚式」観念が形成され、豪奢/華美をもってするところの権威付けが、父系集団の社会的地位を磐石にしていく。)

だから父系家族制確立以前の氏族制社会においては(氏族内共産生活こそが個々人にとって中心的であるために)、夫が(他氏族に属する)妻の持ち家に気が向いた時にだけ訪問するが如くの対偶婚的な夫婦関係が主流となり、
族外婚の夫と妻の財産は生涯混じり合うこともなく、例えば離婚/死別等の際にも各自の持ち込み資産(口分田等)は、直ちに双方の出自氏族に回収されるという氏族的共産制に留まるのである。
このため我が国では平安末期までは、氏族的共産制下での(田地等の売買/相続を伴う)個人占有概念は普通に在ったにしろ、真の個人所有概念は極めて脆弱であった。

さてその上で共産性を持つ日本社会の女性的属性は古代末期の時点で、中世以降に隆盛する父系家族制に阻まれることなしに、その後も日本民族の遺伝的資質として継承されうるだけの十分な拡散度/文化的基盤(※注1)を既に確保し終えていた。
例えば14世紀(室町・南北朝期)に至っても尚、風俗・文化面においては男女平等・水平エートスが保たれ、女性は自立した社会人として様々な職業に進出もしていた(※注2)。また例えば16世紀に来日したイエズス会のルイス・フロイスは、
「日本ではしばしば妻が夫を離縁する/日本では娘たちは両親に断りもしないで、一日でも幾日でも一人で好きな所へ出かける/日本の女性は夫に知らせずに好きな所へ行く自由を持っている。」と驚嘆もしたのである。
(※注1 国風文化期の女性趣味の芸術文化の開花が典型的。)
(※注2 例えば「三十二番・七十一番職人歌合」等にあるところの、鵜飼/魚介類・餅・菓子・野菜類・薫物・小袖・扇・帯・白物(白酒/塩/豆腐等)販売/桂女(鵜飼/鮎売り)/閉女/大原女(炭売り)/傀儡女/白拍子/立君/辻子君/巫女等。)

すなわち我が国の女性はその社会の起源以来、高度文明社会でありながら、家庭/社会において概ね一個人として振る舞えるような存在拘束性を保ち続けてきたのであり、
とりわけ有史以来、近世以前までの期間において(世界的標準と比して)破格の自由を享受し続けたことは真に特記すべきことである。
(「日本社会論① 頗(すこぶ)る女性的な社会」 おわり)
(つづく)
244:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:49:17 ID:???
15 of 43 (つづき)

「日本社会論② 世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会」

さて平安末期においては、父系家族制とリンクした個人所有制が萌芽し、もって女性的共産主義観念は、中世以降は大きな転機に入っていた。
具体的には平安後期に、有力農民自らが新田開発の主体となり、これを後の武士であるところの国衙(こくが)官人が私領化し荘の「在地領主」となることをもって、有能な男性が自力で個人的経済力を拡大できる下地が出来た。
すなわちこの後まもなく氏族的共産制は個人所有制への過渡的形態であるところの「惣領制」に移行し(※注1)、更に鎌倉後期にはこれも崩壊し、もって共産主義的所有観念はついに「個人・家門的所有観念」に完全シフトする。
具体的にはここに及んで律令に基づく「良民/賤民」区分における賤民の富裕家系が大量発生したために、氏族的共産制はその実効性を失ったということだ(※注2)。
(※注1 より未熟な過渡的形態は、これよりも遥か以前に現れている。例えば平安期の氏族各成員は、めいめいの居所にちなんだ「苗字」(近衛/九条など)を持ちはするものの、名乗りは経済的主体であるところの氏族名を用いて「藤原○○」などと
名乗るのが普通であるわけだが、これが11世紀に入る頃には、自分の家族の居所である「家(イエ)」が名実ともに主体となり、苗字を自分の名乗りに用いて、家門同士がそれぞれの流儀/しきたり等を互いに主張し合い反目し合うようになっていた。)
(※注2 大宝律令が定める「五色の賤民(陵戸/官戸/家人/官奴婢/私奴婢)」の内、源平氏等の有力武門の家人(けにん)は、実質的には公民(百姓)以上の権勢を得た。
しかしてそうではあっても風俗・風習文化的に根付いてしまった一部の経済観念については時すでに遅かった。例えば古代を一貫した「土地所有権に係る特異な絶対観念(※注3)」は、近世に至るまで延々払拭できなかった。)
(※注3 古代日本においては取引等のあらゆる人間営為は、一年単位の時間枠の中においてでしか効力を持ちえず、年度が改まるならば、全ての利権等が原状復帰、すなわち元の氏族の所有に帰するという「商返(あきかえ)し」観念が確立されていた。)

というわけで社会経済の基礎的担い手としての“家”、すなわち“門”が着実に強化され、
(つづく)
245:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:49:57 ID:???
16 of 43 (つづき)

それと並行して多くの家督を継げない名もない個人たちは、全く別個に生活の縁(よすが)を求めて自立していく。すなわちここに“自由市場経済人の世界”が萌芽するのであり、
その上でこれと“民衆/指導者・特権者階層の世界”が、あたかも“化学反応”のように作用し合っていくところの「日本社会の大弁証法的運動」が生起する。そしてこの大弁証法的運動こそが現代にまで通じる我が国の社会属性を決定付ける。
つまり伝統的な共産制と中世以降の初期資本主義世界とが統合されていくこの大弁証法的運動とは、(前述した日本社会が女性的属性を持ったことの結果の第二としての)各有力集団の長が「いやー、ドモドモ。」などと言いつつ寄り合い、
かつ下位の者共からの突き上げ/要求に限りなく善人的に対応する指導者・特権者階層(※注)による一円連立的ヘゲモニーへの弁証法的運動、すなわち現代日本社会の命令/服従の連鎖構造に係る弁証法的運動に他ならない。
(※注 例えば水江漣子他「公家・武家文化と民俗」(「日本民俗文化大系11」)によると、江戸中期の大和郡山藩主の柳沢信鴻は侍女らの結婚御暇(おいとま)に際しては尽く、祝儀品はもとより、
便宜を図ってやったり、嫁入り道具等を手配してやったりなど、擬制的親子関係と言えるほどの計らいを為している。)

まずは当該弁証法的運動について概要を述べる。南北朝期に皇統が二分されたことにより、天皇の権威が決定的に失墜し、これに付随して天皇を権威付ける“ヘゲモニー装置”としての“神仏”観念もまた一般民衆を畏怖させるための権威を失う(網野善彦説)。
その上で前述のように、従前の命令/服従の連鎖構造における権威の力動の核たる「公地公民(※注1)」観念(「正」)は既に有名無実化していたから、これは人々の基盤的固定観念に係る認知をして「反」段階へ踏み出させる契機となった。
すなわち14世紀中期をもって「階層の形成と破壊(第八回 参照)(※注2)」期に入ったというわけだ。
(※注1 ちなみに律令期の「公地公民」制とは氏族的共産制的視点からは、「天皇家」という一個の公的家系を最上位とするところの所有・占有権のヒエラルキー構造であり、
天皇家所有の直下に官職氏族群(指導者・特権者階層全体)の占有があり、更に一般氏族、家族、個人の占有がその下位に連なるというもの。)
(つづく)
246:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:51:32 ID:???
17 of 43 (つづき)

(※注2 第八回で述べたように人間界においては、既存のヘゲモニーが揺らぎ、或る特定の社会的力動が持続的に活性化することが、階層の形成と破壊を促す。)

さてここにおいては、まずは「(前述したところの自由市場経済人が集い取引する場としての)公共圏」観念に基づく新規の秩序形成が始まる(※注1)。
その上で一部地域において、如何なる既存の体制にも属さない自立した自治集団としての、中世西洋の「自由都市」に準ずるような「自由市場経済都市」に市民層が発生するまでになる(第八回 参照)。
こうして勢いを得ることとなる公共圏観念は、更に同時期の荘園に(女性的共産主義観念に所以して)生起していた強烈な結束性を伴うところの“自治体”である「惣村」に(自由市場経済人により)持ち込まれて“化学反応”し、
そのエートスがまた諸国を遍歴する自由市場経済人、あるいは各地に興った人々の広域的移動・交流(※注2)等を媒にして更なる化学反応を繰り返すことで、ついにパーティ会場の法則の作用により日本社会全体のエートスに成っていく。
(※注1 例えば従来の都市域は盗賊/各種犯罪者が勝手気ままに徘徊する危険極まりない無法地帯だったのであり、例えば貴族らは屋敷に築地/
垣を巡らせたりして自警するしかなかった。しかしこの時代においては公共圏観念の一種であるところの集団的安全保証観念の発生により、都市域で自治/自警を率先して主導するところの市民階層が顕れる。
その上で網野善彦は「日本論の視座」(「日本民族大系1 風土と文化」(1986)収録)において、「(公(皇族)の支配から)自らを断ち切る「無縁」の思想、またそうした場を生活する庶民自身の「公」と考える
(戦国期から江戸初期において実際に使われた語であるところの)「公界」の主張、更にそのような在り方に積極的な価値を見出す「楽」の思潮が中世から近世にかけて現れた。」としている。)
(※注2  とりわけ近世に入ると全国各地で人々の就活/婚活のための、奉公市/嫁市/女中市/雇人市等の定期市が広く催されるまでになる。)
(つづく)
247:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:52:15 ID:???
18 of 43 (つづき)

そしてこの人民の新たな宗教の教義の誕生を受けた指導者・特権者階層は、室町幕府の三代将軍時代以降に「公方」概念を確立させることをもって、当該大弁証法的運動の「合」段階を魁(さきがけ)る。
すなわち最終的には人民同士の個人所有権(百姓株)とか村同士の山野水論に係る紛争を仲裁/解決し得るもの、すなわち如何なる地域的紛争に対しても中立的立場を貫けるところの
「公儀/天下御法度」概念(※注1)による統治、これすなわち現代にまで通ずる日本社会の命令/服従の連鎖構造の構築への第一歩として魁る。
ちなみに公儀観念による統治体制とは、7世紀初頭の遣隋使派遣の際に中国の冊封体制外で独自路線を歩む国家であることを中国皇帝に対し宣示して以来、
約1ミレニアムの弁証法的運動の果てに止揚し得たところの、東アジアにおいては本邦のみが到達し得た合理的な公共圏観念を伴う統治体制である(※注2)。では更に詳説する。
(※注1 徳川幕藩体制支配の根幹的概念。公儀イデオロギーにおいては西洋的個人は存在しない。例えば全ての土地財産は建前上は“公”たる徳川幕府の管理財産であり、さらに各人が属する村の財産でもある。
すなわち土地占有・用益・売買・曖昧な所有権等が分離したり多重に設定されたりしていて、その上でいざとなればそうした権利設定さえ感情論によって曲げられた。)
(※注2 例えば中国においては人口爆発が始まる18世紀以降でさえ、公的行政機構を持つ都市/集落に住むことができたのは、僅かに全人口の5%のみ。残余の95%の人々は、公法に基づく行政が居住地には存在していない環境で暮らしていた。)

まずは自由市場経済取引の場で発生した公共圏観念が惣村に持ち込まれて化学反応したという、社会経済圏の形成に係る部分から詳説する。

前述したところの平安期後期の在地領主が漸次、離村し専業武人化していくに際しては、有力農民たちは彼らの所領を請作し、
この名主層が更に荘の宮座(日常の施政の中心となる祭祀組織)の最上位者となっていくことで、荘園は富農を中心としてまとまった“自給自足的な生産集団”に変質していく。
その上で南北朝期に入ると、武家同士の戦乱が起こる度に農村は略奪/従軍等の強要に脅かされる、あるいは「半済(年貢の半減)」の提案にそそのかされて、
(つづく)
248:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:52:50 ID:???
19 of 43 (つづき)

村民が大名の戦闘員に成っていくこと(呉座勇一説)等がラスト・ストローとなり、ついに強烈な逼迫感が「自分たちの命と生活は最早、自分たちの村(「惣村」)において自分たちの法をもってして(「自検断」観念)、
皆が全員一致で結束しつつ守るしかない。」という観念、すなわち“共産的自治”観念が止揚される。
これすなわち公法執行機能を伴うところの「地方公共団体」が、当事者たる住民自身の発意/総意の下で樹立させしめられたことを意味するのであり(※注1)、その上でこの共産主義的地方公共団体は、独特の『惣村的共同体意識(“ムラ(※注2)”意識)』を醸成した。
(※注1 東アジアでは独特の歴史的現象。すなわち中国における類似の現象(「郷党/郷団」と呼ばれるところの血縁(宗族)的集住形態の下での私的な自治機能保持団体。)との分別が必要。)
(※注2 ムラとはムレ(群れ)の転化語。)

その上で惣村では、この惣村的共同体意識の発生による集団安全保証機能の獲得の次に必然的に来る認知的弁証法的運動としての、南北朝期以降の既存権威の衰退という時代的存在拘束性を受けた公共圏関連概念、
例えば「他人の村の他人の共同所有物に係る分別概念」とか、「自分の物でも他人の物でもない物は誰の物か?」などといった所有形態(私有・共同・無主財産)に係る様々な公共圏関連観念の哲学的弁証法的運動もまた開始されることとなる。
具体的には原田敏明「村の境」(1957)等によると、村の外からの交通の要点、すなわち村境が部落にとっては最も人々が集合する“広場”となり、ムラの政治/経済/宗教/娯楽等のあらゆるものに係る催事/祭事がそこに見出されるようになり(※注1)、
その上で村の入口は自分たちが棲む神聖域としての“ムラ”と村境の外の異界である“セケン(世間)/ヨソ(他所)”を観念的に分別し、外からの“穢(けがれ)”の侵入を防ぐと同時に、内の穢を外に放逐するための神聖な場所とされていく。
更には対立/拮抗するライバルである隣村と張り合うために、境界域に神殿/鳥居/社殿等を両村側にそれぞれ一つづつ並置するか、共同所有物として境界を跨いで設置するようにもなる(※注2)。
(つづく)
249:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:53:36 ID:???
20 of 43 (つづき)

(※注1 宮本常一「民俗のふるさと」によれば、市場経済取引の場としての都市は、或る自給生活圏と別のそれとの郡境地に10-15km程の間隔で勃興する。)
(※注2 自由市場経済圏が発生しつつあることに伴う認知的弁証法的運動においては、最初期にこの類の事象が生起することは、汎人類的現象。
例えば栗本慎一郎「経済人類学」には、グリアソン的「沈黙交易」が為されるイギリスの中立地にマーケット・クロス(市場十字架)/マーケット・ストーン(市場石)なる標章物が設置されたとある。)

その上でこのムラ(惣村的共同体)意識と公共圏関連観念の哲学的弁証法的運動に決定的影響を与えた事象が、第八回で述べた僧兵集団の学僧/私度僧、坂/宿/散所(部落)とか悲田院/療病院等のシェルターのような所から社会に送り出されていた
多様な庶民(※注)、あるいはムラ意識に気質的に馴染めずに離村を余儀なくされる者等の中から出て、各地を行脚しつつ金儲けに専心する自由市場経済人となった人々としての「有徳(うとく)人」(“徳”とは“得”であり、富裕者のこと。)の隆盛である。
すなわち彼ら有徳人らが“信用”という自由市場経済的公共圏観念に基づく無形資産(「信用保障」)を(金融システムを構築するために)必要とし始めたことで、(全国民的には概ね18世紀に達成されるところの)ムラ意識/ムラ的公共圏関連観念と
自由市場経済的公共圏観念の融合が、上記の地域を超えて移動する人々の媒により全国各地において急速に進捗し始める。これすなわち自給自足型経済から流通(貨幣を用いる交換)型経済へのパラダイム転換の開始でもある。
(※注 中世においては、行商人/易者/旅芸人等には僧衣をまとった“法師”姿が多いことから、僧形とは諸国遍歴者にとっては行く先々で丁重にもてなされるための有益な表象であったと類推できる。)

その上で当該パラダイム転換は、当事者たちの本音における「大儲け/大尽暮らし(※注1)の希求」を原動力とし、もって市井のエートスをして「地獄の沙汰もカネ次第/(大阪庶民の挨拶であるところの)儲かりまっか/町(※注2)場の風に当たる/
子供を市風に当てないと成功しない」的なものへと、決定的に変化させていった。
(つづく)
250:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:54:25 ID:???
21 of 43 (つづき)

そしてこのことは生産現場である惣村においても自村を確実に流通・貨幣経済の恩恵に与らせようとする気運を嫌が上でも盛り上がらせたのである。
例えば各人が農閑期に個人的営為として牛馬に荷車を曳かせる駄賃付け/食料品・小間物等を天秤棒で担いで近隣を売り歩く振売/宿場での遊女・飯盛女等のみならず、割符(※注3)業者/行商人等の巡行/行脚に際しては彼らの活動の便宜のために、
従来から村境に配置されていた散所(賤民)部落内で警固(盗賊・火事の番/行き倒れ始末/旅の病者の保護等)役を務めていた者たちによる公共施設(辻堂/庵室/寺院)での宿泊サービス、
更には街道筋の「宿」(※注4)において(在家の納税により運営されるところの)布施屋/接待所等の無人ヴァージョン/差し宿/相対宿等を供与するようになる(※注5)。
(※注1 こうした生活態度がピークに達するのが、17世紀末の元禄期と19世紀初頭の文化文政期。例えば大尽遊びの限りが尽くされた吉原遊郭は一晩で千両(現在の価値で一両が50万円位。)の上がりに潤った。)
(※注2 「町」は元々村内で市が立つ区域を指した。よってマチはしばしばイチの同義語。ちなみに「市」を都市の意味で用いる用語法は、明治の市町村制施行以降。)
(※注3 為替の一種。惣村内で定期開催される「市(いち)」の隆盛に伴って発達した金融システム。)
(※注4 全国の「宿」の名が付く地は、従来、浮浪人/遊女/傀儡/非人等が集住/活動拠点としたところの街道筋や河原の部落であり、これらが巡礼/流通経済の普及等に伴う旅人の増加に伴い職能的に分化し、
現在のように代価を受け取り宿泊サービスを給する宿場として発達するのは、13世紀以降である。ちなみにこれ以前は特に「善根宿」として宿泊させる劣悪な施設以外には、旅人の定宿所はなかった。)
(※注5 我が国では、「異人(まろうど・・客人/賓客)」を極めて大切に扱う/歓待する(例えば貴人を遇する「境迎/供給/三日厨)など。)ことは前述のように女性的属性に所以するわけだが、供御人/神人/寄人などの称号を持つところの、
神仏の力をもって天皇に直属するとされる「道の者(漂泊者/行商人/旅芸人/呪術者等)」たちは、人々の畏怖の対象でもあったがゆえに、とりわけ大いにもてなされた。
(つづく)
251:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:55:20 ID:???
22 of 43 (つづき)

その上で彼らへの宿泊サービス供与とは、宿泊料自体は“無償”とはいえ実質的には、例えば様々な訓話/儒学書の講釈/経文の読誦/念仏講などの仏事・集会の挙行等の反対給付を伴うギブアンドテイクの関係である。)

すなわちついに我が国においても遅ればせながら、社会全体において経年の共産主義観念が資本主義観念と融合するための唯物史観(財物/経済)的要件が満たされ、
生産現場たる農村と集積・消費地である都市をリンクした「初期資本主義的流通(貨幣)経済圏」を現出させたというわけである。
もちろん先刻ご承知のように、この自給自足型から流通型への経済のパラダイム転換事象は直ちに室町幕府の財政の基幹的エネルギー源になる(※注)。
(※注 この新興経済体制の中核に位置する「酒屋/土倉」等の金融業者らは、町衆の親方であるのみならず役銭の納入等を通じ幕府財政の実権を握るほどの勢力を持ち、日明貿易を支配した。
その上で室町幕府自身もこの新興貨幣経済から得た富に乗じた投機/貸金等までを為す始末となり、心身をやつされていく。)

では次にこの同じ過程を命令/服従の連鎖構造に係る確たる基盤的固定観念(宗教の教義/支配理論等。)の弁証法的運動として観ずる。まずは読者においてはムラ意識の発生経緯に係る理解を、より深く得てもらう。
すなわち読者はここで、日本社会の宗教の教義であるところの女性的共産主義観念が、内輪揉めが即、全員の協調・一体性、すなわち共産主義性を損なうがゆえに、各人の主張する理屈の相異を超えるものとしての
「一味和合・同心」精神がもたらす『全員一致の原則』という確たる基盤的固定観念を醸成していたことから知らねばならない。

一味和合・同心は、もちろん日本社会が本然的に持つ女性的属性としての(前チャプターで述べた)集団・群れ化傾向/従順性を基とし、その上で古くから我が国の民間に草の根的に普及しているところの“大師信仰”、すなわち空海の教えに由来する。
その上で歴史的にはまず、一般社会からの隔絶環境としての寺院での重要な意思決定の際に召集される「満寺集会(しゅうえ)」における「全員一致 = 正義」原則として顕現し、
例えば源頼朝とも関わりがある12世紀の僧侶の文覚は、「満山一味同心」を唱えて「多分の衆徒」の意思を無視した独断を厳に戒めたりした。
(つづく)
252:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:56:14 ID:???
23 of 43 (つづき)

その上でこの全員一致の原則を確たる基盤的固定観念とする社会には、ミクロ的専制支配の三属性により「事なかれ/長いものには巻かれろ」的な臆病さ/隷属性、あるいは上位者の意志を常に忖度するがごとき反抗の力動が自ずと顕れ、
もって女性的属性としての従順さ/集団・群れ性を持たない者は排除される傾向を持つようになる。
こうして排他的小社会・集団においては協調・一体性が専制的に強いられるというわけであり(※注)、
これすなわち『ファッショ(専制的結束)』の顕現であり、その上で各々の排他的小社会・集団のトップに君臨する指導者/特権者たちの外観は、あくまで“善人/温厚”的であるところの(冒頭で述べた)善人専制と相なる。
(※注 満場一致/全員一致で議決することが“親方/組織の指導者の誇り/権威”に通じることから、格下の者は親分衆の意向に沿うしかなく、またあらゆる根回し/買収/脅迫等が事前に成される。
その上で例えば平山和彦「村寄合における議決法」(1991)にあるように、往々にして八割方、あるいは過半の賛同をもって、建前上はあくまでも“全員一致”が擬制される。)

その上で古代後期から中世にかけての民衆自意識の弁証法的運動を観ずるならば、9世紀後半には「公民(百姓)」意識の瓦解が始まり、荘園制(公田の私有化/不輸不入権)に係る存在拘束性がもたらす
「寄人/田刀/田堵/住人」意識→12世紀からの荘園公領制(私領荘園の存在を公認した上で公領との分別のない課税システム)に係る存在拘束性がもたらす「在家」意識・・というように、
進展する「既存権威の無効化/新興権威の勃興」事象を起動因とし、農民たちが極めて唯物史観的に、かつ自律的に変遷して確たる基盤的固定観念を止揚し続けたことを見い出せる。

すなわちムラ意識とは、全員一致の原則/善人専制に所以するファッショ的な高次ストイシズム系行動文化に、時代的存在拘束性からの“共産的自治風味”を付加した、中世農村のミクロ的専制支配体制下における確たる基盤的固定観念に他ならないのである。
(つづく)
253:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:56:58 ID:???
24 of 43 (つづき)

すなわちこれにおいては、(上述した)時代環境がもたらした逼迫感が伴うことで、排他的小社会・集団のメンバー全員があらゆる活動において一丸となって寸分たがわずに行動を一致させしめるためのファッショ(専制的結束)性が付加されているのであり、
もって個々の農村は「極端なまでに一個のイデオロギーの下に統制されるところの“リヴァイアサン(自動機械的人工人間)”」となる。

例えばムラにおいては、如何なる個人的用益権にも馴染まないところの入山・水利権組合的「共同用益権」を始めとした共同所有・用益権等が強圧的に成立したり、あるいは「ムラの子の成長/教育は、
全てムラ人組織の中で見守られ躾けられ教育され面倒を見られたりしなければならない。」という、あたかも個人とは大きな装置の規格化された部品に過ぎず、主体性/個性を涵養するが如きはもっての他であるかのようなエートス(※注1)が顕現する。
こうして人々はC型人間的存在拘束性の陥穽にはまったイデオロギーに基づく行動文化をあてがわれ、善人専制にとって危険なA型人間的知性に基づく判断/行動は完全に異端・邪悪視し、
C型人間の普遍的均質性(第十四回 参照)を重宝した上で(※注2)、そこに付帯してくる“無能/無知さへの世話焼き”ばかりに配慮した相互扶助性を培っていく。
(※注1 とりわけ村人総出の労役・活動/祭事等の集団的行動のためには、私的利益を惜し気もなく犠牲にしなければならないなどの従順・集団性を涵養させる。)
(※注2 基本的には人間は馬鹿であるほど均質・集団性に与し、利口であるほど(認知的主体・攻撃性を持つために)個別・自立的になる。
もってファッショ性を主属性として持つところの惣村的共同体は、馬鹿にとっては“天国”だが、利口にとっては“地獄”。)

すなわちムラは、ノーベル賞科学者 江崎玲於奈が言うが如くに「人の和が至る処で尊重され、一切の生活技術は周囲から教え込まれて自分で苦労して開発する必要がなく、そして異端者や出る杭は排斥されるかわりに、低能力者や落ちこぼれには
過保護の手が差し伸べられる温室のような環境」(尾高邦雄による要約。)となる一方で、「(19世紀の日本を訪れた西洋人たちの感想としての)貧しい小さな家と小さな日本人、(生活仕様高次ストイシズム系行動文化が強要する同調圧力により
(つづく)
254:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)12:57:45 ID:???
25 of 43 (つづき)

個性というものがなく同質的に)全く能面のように無表情な日本人、礼儀正しくお辞儀の多い日本人(のイメージの原点、かつ)風俗は異妖とも言うべき暗い影が、こびりついたように貧しく付きまとい」(林英夫)、その上で(前回提示した)坂口安吾的
「各自の凡庸さを擁護し、個性と天才の争覇を罪悪視し組合違反と心得た上で、外に出でては一端の議論を吹っかけてクダを巻くための徒党(排他的小社会・集団)」となり、始終、外界にタテつくことで“ガス抜き”するような集団になる。

『ムラは、外に向かってはキチガイ・鬼畜的な対立・攻撃性、内に向かっては馴れ合い性を基体とする善人専制を敷くところのファシズム集団である(※注)。』
(※注 この時期から頻発する土一揆/一向一揆/法華一揆等の集団的反抗傾向は、これの象徴的顕現である。)

その上で西洋社会のように古代から個人所有制と自由市場経済の産物としての都市を持たず、このように中世に入ってからようやく個人所有制と自由市場経済が確立した本邦の場合、ムラ意識に付帯するファシズム傾向が、
次々に新興してくる地方の流通拠点としての中小都市群の公共圏観念の形成と同期したことで、極めて直接的に作用し得た。
具体的には前述のように、ムラ意識/ムラ公共圏観念は惣村内で自由市場経済的公共圏観念と緊密に連関し統合された上で地域を超えて移動する有徳人の自意識に溶け込んで、
その上で彼らにより普及させられていく為替取引慣習等に係る公共圏観念と相まることで、(パーティ会場の法則により)全国津々浦々の新興都市において定着化(宗教の教義化)していった。

ちなみにこの惣村というファシズム集団は、鉄砲普及により一騎打ちによる戦闘形態が完全消滅するに伴い、各戦闘毎に馳せ参じる在地領主型家臣が完全絶滅し、軍の形態が常備軍中心形態に完全移行した事(※注)がラスト・ストローとなり、
各惣村が地方公共団体としての完全自立を余儀なくされるという安全保障上の著しい逼迫感を発生因としたのであるからして、金儲けシステム上の公共圏観念を取り込んでいく際には、この逼迫感が容易に「猪突猛進的な自利追求性」を止揚するであろうことは、
人類が保持するところの「赤の女王」仮説(第十二回 参照)的存在拘束性を鑑みるならば類推できる。
(つづく)
255:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:25:25 ID:???
26 of 43 (つづき)

(※注 鉄砲普及以後においては、戦闘の勝敗は最早、どれだけの騎馬戦力を保有するのかでなく、どれだけの規模の常備軍を保有するかで決するという、言わば“質から量へ”のパラダイム転換を成す。こうして大名の力量を決する基準が、
大規模な常備軍を支えるために必要であるところの、領国が保有する農民/田畑の数量、すなわち石高に移行する。)

というわけで近世以降の日本社会は地方圏と言わず、広域圏の中核に位置づけられるような大都市圏と言わず、(公法的には公民(天皇の私有民)社会であるにも拘らず)社会下層から突き上げてくる強烈な集団性自己中心(専制)傾向であるところの
ファシズム傾向が生活・経済全般における基調となるところの、本邦独特の『ジャパニーズ・ファッショ・エートス(※注1)』に席巻/攪乱/収斂されていく宿命を背負わされることと相なった。
(※注1 例えば平安期からの「田楽/風流(※注2)」は、これの源流をなすものである。すなわちこの時代の京都では「四条衆踊り/六原衆踊り/上京衆踊り」などのように町組単位で呼称されたところの、金襴緞子(きんらんどんす)などに身を包んで円陣を成した
町衆などが激しい振りや跳躍などを伴う囃子物を群舞する「風流踊り」(地方においては「盆踊り/念仏踊り」)が大流行した。ちなみに京都という都市は、住民の土着(地元出身)性が極めて高いために、都市でありながらもムラ意識に近いエートスを持つ。)
(※注2 「田楽」は近年の西欧の「レイヴ」パーティに近い感覚を持つ。すなわち人々が強度の興奮・恍惚状態で踊り狂うために、第十四回で述べた「飛礫」等による殺傷を含む騒乱を伴ったりする場合も多いからだ。
「風流」は中世においては、奇抜、人の目を驚かせるような華美/奢侈等を伴うパフォーマンス/風習を指す言葉として使われた。)
(つづく)
256:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:26:15 ID:???
27 of 43 (つづき)

『近世以降の日本の世俗界においては中世後期の特異な時代的存在拘束性が産んだところの、個人としては無表情、かつ大人しく従順であるけれども、集団・群れ的振舞いにおいて極めてアグレッシブであるところの
ジャパニーズ・ファッショ・エートスが覇権を握り、これを受けた指導者・特権者階層においては、これを躍起になって中和しようとする反動体制であるところの、仲裁・現状維持的介入・中立性機能を伴う「公儀観念(※注1)」を基体とする命令/服従の連鎖構造を包摂するものとしての、
(前述の)「一円連立的ヘゲモニー」体制(徳川幕藩体制)(※注2)の止揚にまで直ちに行き着いた。』
(※注1 惣村に自定法による自力救済を止めさせ、徳川幕府が定める「天下御法度」に依らせることを趣旨の一つとする。
ちなみに白川部達夫「近世の百姓世界」(1999)は、「(御公儀観念の成立以前の)中世では裁判制度の不備は著しく、民衆の訴訟を訊くこと自体が“徳政”となる状況であった。
当時は訴訟人が勝訴しても、その判決の実行は訴訟人の実力に任されることが普通で、社会の自力救済の習慣を前提に裁判制度が機能しているのが実態であった。」とする。)
(※注2 例えば後期の徳川幕府は窮地に陥るたびに外様の諸藩の意見までを広く聞き取ったり、幕政に参与させようとする態度を見せ、とりわけペリー来航以降は、この(一円連立的ヘゲモニー)傾向が亢進する。)

その上で

『公儀観念とは、室町期の「公方」・戦国期の「下克上」観念から醸成されてきたところの、(前チャプターで述べたように)上長/家長/男が、配下/家族/女の面倒を懇(ねんご)ろに見る善人専制支配(※注1)を為し、
下位者/女性においては、集団・群れレベルでは上位者/男性に対して、絶えず福利厚生等に係る激しい要求/示威的行動等を突きつける構えを秘めつつ、個人レベルでは“滅私奉公”させられているという、言うなれば
人々が集団/個別のそれぞれの次元において全く異なる過激/穏便の、自意識の二律背反/ダブル・バインド状態を“凍結保存”するように仕向けられることで、(各階層が)平穏無事、かつ共産的に階層社会を維持せんと企画されるところの観念である(※注2)。』
(つづく)
257:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:27:06 ID:???
28 of 43 (つづき)

(※注1 これの確立においては、日本民族に通底する宗教の教義であるところの仏教の教義(第十六回 参照)に負ったところが大きい。その上で例えば白川部達夫の前掲書によれば、
「中世に入ると富勢のある主人を“頼み参らせて”従者に成るという事が、広く行われるようになった」のであり、これすなわち封建的主従支配の起源である。
こうして「無心と勘弁/間柄と融通」的な親切/慈愛/憐憫等の情に基づくところの、上位者から下位者への扶助行為が慣習化されていった。)
(※注2 徳川幕藩体制の本質とは丸山真男らが指摘しているように、それ以前に成立済みの戦国大名による各地域毎の諸統治体制の、言わば“凍結保存”体制である。
その上でこれは、階層社会の集団的生産能を主として担うところの農民層が武士層に次ぐ第二の自由民階層として実質的に幕府/藩の行政による管理を概ね免れ得るところの、強大な自治権を付与された点から、象徴的に看取可能。
例えば年貢さえ完納するならば集団訴訟/集団離村(「強訴/逃散」という。)を伴う争議活動が公認された上に、藩がこうした農民の集団的示威行為に対して武力行使することは、幕府から厳に禁止された。その上で藩と農民との紛争が長引けば、藩主側が改易される危険性さえあった。)

こうして社会の全指導者・特権者と全人民の双方が理性/合理性に基づく物事の是非判断を蚊帳の外に差し置いてまでも、阿吽の呼吸等を頼りにして一つの社会運営を共働するが如きの、
言わば『世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会』が、近世の東洋の端の島国に成立した。
その上でここに包摂されたところの「自意識の二律背反・ダブル・バインド式凍結保存術」とは、見かけ上は上位者/男性が下位者/女性に対して尊大/専制的に振舞い、実質的には(ジャパニーズ・ファッショ・エートスに強要されるところの)
上/男が下/女の意思を忖度した上で、下/女に対して多大なる仁愛の精神をもってして遇するしかないという「フーコー的権力(※注1)」力動に強度に攪乱されるという不如意性を持つ点を、その特徴とする(※注2)。
(※注1 山本哲士「フーコー“権力”論の全貌」によれば、「権力とは、それを所有する者と所有しない者というような一方の側に在るのでなく、
(つづく)
258:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:27:40 ID:???
29 of 43 (つづき)

また能動性と受身性の図式にもない。所有/領有ではなく、戦争関係のように双方で演じられているものだ、とフーコーは見做す。あらゆる瞬間に小さな諸個人の関係の中で演じられている、と。
連繋/伝達/分配の諸様式、リレーの体系の社会領域。家族/性関係/居住関係/隣人関係といった小さな要素を通じて権力は振舞う。限られた諸個人が出会う時、その瞬間、または継続的に限られた形式において、権力は貫かれている」のである。)
(※注2 例えば徳川体制においては、殿(一家の長)と重臣(家に仕える家臣)/幕府と諸藩/士族とそれ以外の陪臣/国民/幕府と天皇・公家社会等のそれぞれの関係において、絶妙な人情の機微を伴った美意識に基づく相互の要求の突きつけ合い/妥協/
配慮等がごく自然に為されたり、またあるいは商人は何らかの功績さえあれば当たり前のように武士身分を付与されたり、あるいは大金をもって武士株を購入できることで巧妙に(指導者・特権者階層に対する)債権放棄を迫られ懐柔されたりした。)

こうして町人衆が担うところの隆盛する資本主義体制が宿す弱肉強食性とジャパニーズ・ファッショ・エートスへの弛まぬ対応を強いられ続けた徳川幕藩体制は、外観上はあくまで専制を擬制しているにしても、
実質においては自意識の二律背反・ダブル・バインド式凍結保存術を核とする馴れ合い的な共産主義観念に粛々と沿った。
もってこの時代においては善人性/ファッショ的攻撃性の均衡的秩序が、主として個人としての人々の穏やかさ/集団としての乱痴気めいた示威性として、それでも必ずや何処か予定調和的に顕現し得た(※注)。
(※注 個人としての人々の平穏さの典型例としては、百田尚樹「日本国紀」が提示している「犬のお伊勢参り」事象が面白い。ここにおいては協調・一体性を伴って馴れ合った末の各人の平和的な暮らし振りの極致を偲ぶことができる。
そして集団的示威性の典型例としては、(近代以降の労働者デモ等にも継承されているところの)超集団馴れ合い的なそれであり、すなわち各村毎の旗を立てた単位組織を
代表指導部が幾つも結集させて率いるところの数万人規模の「全藩一揆」の常態化を挙げられる。)
(つづく)
259:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:29:09 ID:???
30 of 43 (つづき)

そしてこの概ね平和な共産世界においては、建前上は上下の区分が厳格に規定されているにも拘らず、
必ず何処かに同じ社会集団の一員としての本然的平等意識を確認するための“ガス抜き装置”(※注1)がしつらえられ、上下の立場の違いを超越するための芸術的洗練が為されていった。
逆に言うとこうした“巧妙な仕掛け”のせいで、これ以降の本邦においては上位層の意思だけでは如何なる社会全体的事業(第十六回 参照)も企画しえなくなった。
(※注1 無礼講/茶道や俳諧などの実生活から隔絶された空間での芸号を名乗った上での平等/惣村における本家と分家、親分と子分の序列を超える共産主義性の具現(※注2)。)
(※注2 子供組(7才~14才頃)/若者組(15才頃~)/娘組/壮年組/老人組/獅子舞仲間/神楽仲間/狂言仲間/三味線仲間/カヤ講/頼母子講など。
ちなみに若者組の類だけは必ずしも本邦に限られたものでなく、全世界(西欧/台湾/東南アジア/南アジア/東アフリカ等。)に根付いているところの、“若気の至り”に対処するための汎人類的慣習である。)
(「日本社会論② 世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会」 おわり)

「日本社会論③ 世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会の問題性とジャパニーズ・ファッショ・エートス」

そしてここで我々日本人が留意すべきは、この世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会を西洋型の民主社会等と比べた上で、本質に在って問題と成るところを客観視することである。以下に観ずる。

社会の全指導者・特権者と全人民の双方が理性/合理性に基づく物事の是非判断を蚊帳の外に差し置いてまでも、阿吽の呼吸等を頼りにして一つの社会運営を共働する社会は明治維新後においては、
その上下の立場の違いを超越する共働用イデオロギーにおいて、例によって芸術的と言えるまでに洗練を為していく。
その上でそこには、全国民がその麗しき観念に易々と精神的に一体と成るが如きの「性善説」的無頓着さが常に在った。

例えば「世界から如何に観られるか」ということを全国民が極度に意識して立派に振舞う/見栄を張るが如きの「醇風美俗(※注1)」観念は、正にそのようなものであった。
(つづく)
260:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:29:55 ID:???
31 of 43 (つづき)

その上でこの種の、言わば「被支配者心理的イデオロギー(※注2)」が容易に全国民に思い込まれてしまう背景には、世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会内部の命令/服従の連鎖構造において、天皇から乞食に至るまでの全日本人に対する
「善人専制に沿わなければ出世も名誉もない」的な反抗の力動が在ることは言うまでもないが、問題はそれだけではない。
(※注1 明治12年の「教学大旨」あたりからの儒学的教育理念の復活等の社会改良気運の隆盛による。例えば江戸期の「女大学/女訓集/女かがみ/女今川」等に基づく“三従七去”観を継承し、多くの外国人に絶賛された「大和撫子/良妻賢母」的“女性美”観は、
土居光華「近世女大学/文明論女大学」/箕作秋坪「教育談」/中村正直「善良なる母を造る説」等の女子教育論、あるいは「女学雑誌/家庭之友/婦人之友」などの定期刊行物等を通じて大々的に啓蒙された。)
(※注2 「良い子になれば皆から仲良くしてもらえる!」の如きがこれの典型。
このような相手に阿るイデオロギーとは、相手方が友好的である間は実に多くの実益をもたらすが、もし敵対性を秘めている場合ならば、自ら進んで敵を利してしまう。)

というのも何と言っても我々日本人が忘れられないイデオロギーとしての「天皇=現人神」イデオロギー、すなわち被支配者心理的イデオロギーの真逆のものとしての「支配者心理的イデオロギー」の思い込みもまた在ったからである。
すなわちこれによるところの全国民の急速な“天皇の臣民”化は、紀元・天長節/皇霊祭等の諸祭祀儀式、教育勅語、並びに国家意思を厳密に体現する末端組織としての官選首長による市町村制/
合祀政策による神社組織の地方行政機構への組み込み等の諸施策を伴いつつ実現させられたのであり、この結果、例えば明治前期において相当な比率であった徴兵忌避逃走者数は急減し、その上で対外的には主として、
「中国や朝鮮がてんで頼りにならないからこそ、日本が東アジアの盟主として、欧米列強からの東アジア防御の主役になるしかない。」という、近代日本の運命を決定づけたところのそれが国民意識として固まった。
(つづく)
261:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:30:32 ID:???
32 of 43 (つづき)

こうして我が国は例えば日清戦争により李氏朝鮮を清の冊封体制から離脱/独立させ、更に日露戦争後は漸次、大韓帝国/満州を日本領化していく歩みに入る。
そして当時の日本人は、日本流の”仁愛と尊大が織り成すところの、例えば実質において女性が男性と対等に主導権をとりえる家族的エートスの如きが、他民族を相手にしても尚、通用すると、これまた易々と全国民が思い込んだ。
しかして現実世界において(幼少期に脳に刷り込まれROM化したものとしての)自国文化的思い込みが、異文化人に通じるわけもない。
そしてこの手の思い込みと現実とのギャップによって日本人(とりわけ庶民階層から成る軍の実働部隊)の苛立ちがつのっていき、張作霖爆殺から柳条湖事件(満州事変)に至るまでの一連の謀略につながったのではあるまいか?

というのも例えば戴季陶は「日本論」(1927)において、「日本から外国文化の影響を取り払ってしまえば、ほとんど南方の土人のような文化しか残らない。」とまで言い放ち、その上でこうした日本蔑視観を普遍的に抱く中国・朝鮮人らは
「日本はかつて自分達の文化を手本としたがゆえに文明国になれたくせに。」(※注1)という思いにより、「戦勝」という国際法に則った大義名分で大陸に進出してきた日本人を、ことごとくその本音においては歯牙にもかけずに見下すようなエートスを醸成していたからだ。
(※注1 中国に関してはもっともである。確かに古代から近代にかけて日本社会の根幹を成すところの諸理念・法制の多くは中国に由来する。例えば徳川期の「士農工商」観念とか、明王朝の「一条鞭法」が如き、明治~昭和期の大地主制(※注2)などが典型。
しかし朝鮮については全く的外れ。有史以来、ほぼ一貫して中国の冊封国家(すなわち“小中華”)でしかなく、その上で例えば20世紀初頭の大韓帝国は財政破綻し、
かつ王族らには基礎的な統治能力すらなく、日本が予算を計上して統治機関の整備等をしてやるのでなければ独立国たることすら能わない状態だった。)
(※注2 例えば被差別部落出身者の差別等をもって“下層階級”を粛々と形成させしめ、徳川幕藩体制崩壊から明治体制への遷移期の明治政府の中心的納税者(明治前半期において総収入の7-8割)であった「地租納税者」の地位の安定を図った上で、
(つづく)
262:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:32:26 ID:???
33 of 43 (つづき)

「大地主制」という制限選挙制(※注3)を伴う国家歳入の安定化システムを形成し、この上に国家は財政的地盤を築いた。)
(※注3 納税額等の諸基準によるところの選挙人の制限。)

ともかくこの時期の我が国では、強烈な全国民的思い込みと共に家父長制(※注1)を更に強化し漸次、戦時体制に向かっていったのであり、さすがの女性尊重感覚も、ここにおいては弱まらざるを得なかった(※注2)。
山田盛太郎「日本資本主義分析」(1934)が指摘するように、我が国は農奴・奴隷制社会の如き様相をも呈しつつ、農村では「娘売り」(※注3)が常態化し、その一方で国家国民は天皇イデオロギーを始めとした数多の全国民的思い込みの下で、一丸と成った。
(※注1 徳川体制が好んだところの儒教的倫理観(厳格な長幼の序/女性の七去三従、並びに各身分ごとの細かな生活規則を含む。)が元ネタであり、
明治31年民法では戸主権/父の親権/夫の妻方の財産用益・管理権/一子による家督(戸主/家産)相続等を定め、夫(家長)はほぼ家計/家政の全権を掌握した。)
(※注2 しかして既に世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会と成った後であるから、実際のところは例えば日高六郎「日本社会の構造とそのゆがみ」(1951)が言うように、「農村と都市とを問わず、通常の庶民的な家族では、
国民道徳としての儒教的家族主義のイデオロギー(例えば「朝晩手ヲツイテ両親ニ挨拶スルコト」など。)などは、何か滑稽なもの、格式張ったものとして受け取られていた」、「家長は時には儒教的イデオロギーを利用したが、しかしその度がすぎれば、
やがては“亭主横暴/オヤジ横暴”として反撃されるような限界を持っていた。」、「敗戦前の日本を支配していた絶対主義的イデオロギーの単純さ、
規格化(中略)は、文字通り強制された単純さであり、寝台の寸法に合わせて足を切断した(如くの)画一化であった。そのかげには驚くほど多様な矛盾が隠されていた」のである。)
(※注3 例えば昭和6年の大凶作時には、山形県小国村で15-24歳の娘467人中111人が売られ、女中/酌婦に成った者は150人との記録がある。)

というわけで世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会において第一に見出すべき問題性とは、強度の全国民的思い込み等をもたらす要因である。
(つづく)
263:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:33:23 ID:???
34 of 43 (つづき)

ではこれを心理的に詳しく分析してみよう。まず人々においては日々、強要されているところの善人的生活に嵌(は)まり切ってしまうことで、他者/事物に対して適宜、熟考/批判したり怒ったりできなくなる。
そしてこの、あくまでも地縁主義的な身近な者同士の優しい穏やかな気持ちの交歓に慣れきってしまうと、人は相手に嫌な顔をされる/仲間はずれ/仕返しされることへの恐怖に過敏になり、ついには他者に疑念/懐疑を抱くことが全くできなくなる。

こうしてついには気持ちが苛立つことにより被る心理的ストレスでさえも嫌悪するようになり、自分の側に正義が在り相手に非が在ることがハッキリしていても尚、自己主張するよりも穏やかな気分/関係で居続けることを、
自ら謝罪/奉仕してまでも選択するようにさえなるのであり(※注)、最終的には極致的な馴れ合いが顕現する。
(※注 日本人は極めて普通に「すみません/御免なさい」フレーズを多用する。その上でこの心理的抑圧・気苦労の反動が、部外の者/団体に対するファッショ的な集団的攻撃性として顕現する。)

さてこの状況においては例えば、あえて大方の意見とは異なる意見を掲げる気力も失せ、もって「全員一致の原則」という確たる基盤的固定観念のままに、主体性/個性の発露たる闘争性が枯れ切った“ムラの寄り合い”状態にて、人々の意思の最終決定が為されることとなる。
すなわち全国民的思い込み等をもたらすところの要因とは正に世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会の馴れ合い性そのものであり、
ここにおいては、馴れ合い性/全員一致の原則が冷静、かつ合理的な戦略的思考能を喪失しているところの全員をして一丸にさせ、ラリったように原理主義的イデオロギーを集団で思い込ませるのだ(※注)。
(※注 例えばあのリベラル視点の権化のような家永三郎においてさえ、「戦争責任」(1985)第四章において「一般国民の大多数が(中略)自ら進んで積極的に戦争を支持し、
その遂行のために可能な限りの努力を傾注したことは明白である。」と、日本人のほぼ全員の一致団結があればこその太平洋戦争であったことを認めている。
すなわち昭和初期において既に在野の言論人/マスメディアにおいて平和主義はほとんど見受けられず、人々は選挙において「戦争反対」を訴える候補者をことごとく落選させたし、
(つづく)
264:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:34:02 ID:???
35 of 43 (つづき)

また五・一五事件の公判に際しては新潟の九人の若者の切り落とした小指が添えられたものなどを含むところの、全国からの山のような血書/血判とか減刑嘆願書が裁判所に送付されてきもした。
更には「国家には生存の権利がある。人間が生をこの世にうけて生存の権利があると同様に。」、「日本民族自活権のため」、また「蒋、張氏などが自国の領土顔する滿蒙が我が国家の努力なくして何国の領土になっていたか
(日本が進出しなければロシア領にされていた。)。」(以上、「文藝春秋」読者アンケート(1931/11)より)などの多くの市井の国民の、正にラリったような合意/賛同があったればこそ成立し得たところの戦時体制であった。)

その上で世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会においてはイザという時に誰かに自分で判断され、好き勝手に行動されては互いに大いに支障が在るから、主体性がなく大人しく、かつ馬鹿でお人好しである者が、
便宜上のトップとして推戴され、その上で実質的権力はあくまでも側近衆全体が漠然と保持するようになる。
こうなると側近集団内ではありとあらゆる懐柔工作/駆け引き等が、個人や小派閥により半ば儀式・予定調和・無思考・自動的に展開し続ける・・これが「善人専制」の内側で生起していることなのであり、
その上でこのような社会を外部から俯瞰するならば、そこに在るのは馴れ合い性が暗黙のルールであるところの、正しく世にも不思議な社会だというわけだ。

そしてこの点を掘り下げていくにあたっては、“民主的で自由な資本主義社会”であるところのアメリカの社会と比較してみるのが最も良いだろう。

すなわち彼の社会では集団/組織内においては、序列が下位である者からの要求の突きつけなどは、まずもって起こらない。すなわち要求は常に”上から下への一方通行”であり、すなわち制度/慣習上、規定される特定事案(年棒や休暇取得の折衝など)以外は、要求の上行は起こせない。
日本のような一つの組織内に序列を無視したような要求の輻輳が在るなどという状態は、そもそも序列とは競争/闘争の産物である社会では有り得ず、
同一集団においては全構成員が、文字通りトップの手足となるために存在するところの「単純な階層的秩序」が大原則である。
(つづく)
265:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:35:56 ID:???
36 of 43 (つづき)

もって上下が共働するように仕向けられているところの日本のような複雑、かつ曖昧なコミュニケーションも発達し得ず、
個人的問題とか人々の体面/自尊心等に係るビミョーな事柄(※注)以外については、社長と平社員との間でも、概ねストレートな本音と力関係だけになる。
(※注 実はアメリカ社会には、日本の江戸時代にタイム・スリップしたのではないかと思うほどの、“神経質過ぎる体面/序列意識への配慮”が在る。
例えば会社組織などでは日本同様の年齢/勤続年数はもちろん、ありとあらゆる項目が勘案された上で、役員室の広さ/調度品/備品の品質等において差がつけられていたりする。)

こうして各集団の目的/活動が明快、その上で思想/信条の自由が保証される個人主義性を持つアメリカ社会を全体として俯瞰するならば、多様な個別集団が互いに抗争し合い(※注1)、
隙あらば自集団の要求を通そうとやっきになっている(例えばロビー活動/夥しいシンクタンク設立など)のが普通だ。
その上で例えば1965年の血の日曜日事件/1966年のJ.メレディスが背中から撃たれた事件等に表象されるようなヘゲモニーを奪取するための熾烈なせめぎ合い/緊張状態(※注2)が絶えず顕現する。
というわけで我が国のような馴れ合い的な一円連立的ヘゲモニーとか、並びにその帰結としての全国民的な思い込みなどは金輪際、発生しようがない。
(※注1 例えば「ティーパーティー」「ネオコン」「宗教原理主義」などの相反をもってするところの各集団の全存在を賭けた闘争がどこまでも続く。)
(※注2 1973年、ロー判決により妊娠中絶が合法化されて以来、中絶反対派による医師への襲撃殺人やクリニックの爆破事件等が後を絶たないなどという、集団のみならず個人レベルでの闘争もまた、どこまでも止まない。)

翻って我が世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会を今一度、俯瞰するならば、例えば殿(一家の長)と重臣(家に仕える家臣)/幕府と諸藩/士族とそれ以外の陪臣/国民/幕府と天皇・公家社会等のそれぞれの関係において、
絶妙の阿吽の呼吸/人情の機微等を伴うがゆえに、戦略的合理性/正義/倫理等を巡る対立構図が、ことごとく潜在・曖昧化する(※注)。
(つづく)
266:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:36:28 ID:???
37 of 43 (つづき)

(※注 このことの最も顕著な事例は「船中八策」の提示/徳川慶喜の大政奉還から江戸開城に至るまでの一連事象。)

もちろんこの“一向にハッキリしない構図”は現代に至っても全く同様である。例えば川島武宜「農村の身分階層制」(1954)によれば、「協同体の内部においては、階層間の身分的差別は厳格に維持されるに拘らず、その間の対立は抑圧せられ隠蔽され、
そのことによって地主対小作人間の力の対抗関係が弱められる。(中略)特に村長や村会議員の選挙に際しては、部落が一体として行動するところの“部落推薦”と部落別投票、あるいは無投票当選が行われる」とある。
更に現状に至っては、こうした判然性の欠如が余りにも長期間にわたって持続されすぎたことの代償として、人々の信念/主体性等の類は、あたかも無用の長物の如くに扱われ、
もって人々は努力するという意欲自体と緊張感を失い、積もり積もった劣悪性は本邦社会をして、倒壊寸前までに至らしめている。

とどのつまり世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会とは、善人専制としてトップには“お馬鹿さん”を据えて、側近クラスが持つ有能性が実質的意思決定を為すという表裏二重統治がその本義なのであり、
そうであるならば側近層内部においてだけは相応の合理性と闘争性が保持され続けなければならず、さもなくば正論が潜在・曖昧化して無知蒙昧な思い込みばかりが、何の歯止めもなく処かまわず横行し、進歩/発展ということが金輪際できなくなる。

そしてここまで述べたのだから、ついでに“お馬鹿なトップ”についても、もう少し説明しておこう。

善人専制のトップたる者には、ほとんど戦略的論考能は求められず、もって最終的意思・判断を下達する際に必要となる断固さ/当事者・責任意識などもまた無用の長物の最たるものとなる。
その上で偶々トップが例外的に確固とした意思を持ちえたとしても、それはそれでたちまちにして傲慢な側近層の反抗により黙らされてしまうのだ。
すなわち世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会は上意下達性/意思統合性を持たないから、トップの有名無実さと、そのようなトップを(本音において)トップとも思わない配下の者たちの付け上がりぶりが、
(つづく)
267:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:37:04 ID:???
38 of 43 (つづき)

世界中の他のどこの社会にも見当たらないような異様な“馬鹿/阿呆の饗宴/狂態”を、往々にして引き起こす。

そしてこれの最も印象的な例を一つだけ挙げよ、と言われるならば、済南事件から張作霖爆殺/田中義一元首相自決(?)にまでに至る一連事象にこそ、そのトドメを刺すであろう。
何となればこの一連事象こそは、森恪というコネの力で外務政務次官に成り上がり、かつ背景に陸軍若年士官層の支持を持つ者の主張に際して、当時の行政府トップたる田中義一首相、並びに軍務トップ層が押し切られ、渋々第二次山東出兵を決定したところから始まり、
満州・支那両事変(大東亜戦争の勃発)に至るまでの我が国の運命を、実質的に決定づけたものだからだ。

すなわち山東出兵した日本軍は偶発的に中国軍と交戦し、それが済南事件(日本軍の済南占領)を引き起こし、政府はやむなく「中国軍による日本民間人大虐殺」のデマをでっち上げ、国民の好戦気分を盛り上げた上で
日本軍主力を更に旅順から奉天に進駐させることにしたのだが、この時点でアメリカ政府が明確に日本に警告を発すると、田中は途端に怖気づき、軍に対して「一切の行動中止」を指令する。
しかしてこれでは納まりきらないのが、盛り上がった好戦気分にいきなり冷水をぶっかけられた関東軍(駐満日本軍)である。これが河本大佐、実質的に関東軍を首謀者とするところの中国軍を犯人にでっち上げた上での張作霖爆殺を計画させた。

更に同計画の完遂後、直ちに軍内部の謀略であることを知った田中は白川陸相に河本の厳重処罰を了解させて(西園寺に促されて)天皇に事件の概要を口頭で上奏(軍紀の粛清を約束)するも、
(そもそも事件を仕掛けた犯人が関東軍そのものなのだから当然の如く)白川は陸軍内部から強硬な(河本の厳重処分に対する)反発を受けることとなり、ついに白川/田中の力ではどうすることもできなくなり、とどのつまりは
(国会でも「満州某重大事件」として追求され国民にも海外にも事件の概要が知れ渡ったところの)この事件の最終決着は、田中が天皇の催促に応じて再上奏し、
「犯人は日本軍ではなかった。」と一転した報告を天皇に為した上で、河本は停職処分、関東軍司令官は予備役編入という軽処分で済まされることであった。
(つづく)
268:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:37:41 ID:???
39 of 43 (つづき)

その上で事件後の満州政策に関して政府側と関東軍側が対立したから、すかさず張作霖の後継の張学良に足元を見られ反日・中国統一運動へと踵を返されるという始末になる。

というわけで世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会というものは平時であれば、この方が各人にとっては気楽なのだが、一度、毅然とした上意が必要な特異点状況に至るならば、その致命的欠陥を露呈せざるを得なくなる。

では次に世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会が持つ大きな問題性の第二を挙げる。
例えば徳川/明治体制などのヘゲモニー集団は、あくまで自分達が最終決定権を理屈抜きで保持することを前提とした上で、すなわち人治主義的観念に基づいて、
下位者に対して“仁徳/民主的政策・配慮”をもってして臨んだにすぎず、下位集団がヘゲモニー集団そのものを否定するような挙に出ることは、(人民が)徹底的に弾圧されることを意味した。

すなわちそこには表面的には“柔和な羊の皮”を被った、実質においては、“まるでコンクリートでガチガチに固められたような専制”性が存在し、その上でこれの多くは、女性的属性に所以する。

例えば土地という生産財に縛られて居所を自在に変える事が不可能な農民を主とする地方社会においては、現代に至るまで伝統的な「親分/子分」関係(※注1)等に基づくミクロ的専制支配が惰性的に維持されており、
とりわけヘゲモニー保持者としての親分の典型が、戦前は地主の“旦那”(※注2)、戦後は市町村長や議員、あるいは地場実業家等である。
その上で農民/住民が親分の支配に反抗した場合のいやがらせ(非協調/悪口など)/村八分等による冠婚葬祭にまで及ぶ影響を回避するために、人々は投票/祭りや消防団等への寄付に応じた上で、外観上は如何にもな“和による平穏さ”の下で
自己保身を図っているのであり、すなわちここに女性的属性としての(強者に対する)集中的奉仕・従順性/地縁主義に囚われている人々に対する行き過ぎた専制的パワーが現出し、地元有力者(親分)を頂点とするところの『地方奴隷制社会』が成立する。
(つづく)
269:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:38:14 ID:???
40 of 43 (つづき)

(※注1 平時、あるいは比較的余裕のある間は、“頼もしげ”をもってする善人専制を旨とする。例えば上野和男「日本村落社会における親分子分関係の構造」(1975)によれば、種々の擬制的親子関係(名付け親/拾い親/フデオヤ/仲人親/烏帽子親/
カネツケオヤ/オハグロオヤ/イブシオヤ等)が存在し、実生活において単に「オヤブン」と呼ばれることも多い。)
(※注2 大正13年の政府機関(農務局)の調査では、50町歩以上の農地を持つ全国の大地主3,166人の68%が在住地主である。
ちなみに残余の約1,000人の不在地主の多くは北海道開拓に係る大農場主であり、彼らの中には東京市在住のブルジョア階級の投資家(職業は無職(華族等)/会社オーナー/政商等が圧倒的に多い。)が多い。この類の典型が政界一族であるところの鳩山家である。)

すなわ地方奴隷制社会とは日本社会の女性的属性としての地縁中心主義/(強者に対する)集中的奉仕・従順性に係る力動が実際に顕現している典型的構造体であり、これにおいては、「(親分/親方/旦那が)県や全国レベルの上級の農会/
森林組合/協同組合の役員、更に県会議員/代議士になったりすることによって、村外の社会圏での種々の広がりを持つ“格”と“顔”を高める、すなわち村落内の身分階層構造の上位に更に幾つかの階層を積み上げている。
こうしてこれらの上級身分層は村内にその基礎を持ちつつも、そこから更に社会全体に向かって権勢を拡大する」(川島武宜の前掲論文の引用的要約)という日本社会固有の全地域カテゴリー網羅型の磐石な系列支配体制を確立するのである(※注)。
(※注 村→中核市→県→国などというように、全領域に実質的な足場となる地縁的権勢を系列的に確保。
特に戦前/戦中までは、地方と中央の指導者・特権者階層が互いにギブアンドテイクの系列関係でつながり、極めて専制的効率性が高い連鎖構造を顕現させていたのである。
例えば江戸期から1950年代頃まで続いた近代日本の私娼システムにおいては、「岡場所/銘酒屋街」などで脱法的な管理売春が行われ、例えば田舎から売られた世間知らずの娘が逃亡して警察に保護を求めたとしても、
警察と(経営者が地元の地方議員などとつながるところの)私娼管理店とはつながっていて、警察は女を上手く言いくるめて、また“抱え主”の所へ戻らせる。
(つづく)
270:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:38:46 ID:???
41 of 43 (つづき)

とどのつまり売られた女の多くは、今の金銭価値に直してわずか百万~三百万円程度の前借り金で(前借り金の返済が終わらないように、様々な仕掛けが仕組まれ)骨の髄まで搾り取られ“性奴隷”としての人生を終えていく。)

しかもこれには日本社会の個人概念不在の共産性の表象の一つであるところの連帯保証慣行が付加されるために、例え己の一身/生計は実家/郷里から完全独立し得たとしても尚、
縁者等に迷惑が及ぶことを恐れて自己完結的な行動を為せないという事情が追い打ちをかける。
とどのつまり、こんな理不尽なシステムが存続する以上、例えば何がしかの志を持つ者が己の才覚/努力のみを頼りに存分に活動し、もってそれなりの成果を上げるなどは到底、不可能となる。
もってこれは『地方奴隷制型巨大構造』とでも呼ぶべき、日本社会の進歩/発展を阻害している決定的元凶の一つである。

その上でこの地方奴隷制型巨大構造の頂点に君臨するトップには、民衆の心に訴えるキャッチフレーズ/プロパガンダ/イデオロギーを創りだすC型先天的論考者(第十四回 参照)的文才があれば十分であり、政策実現能力は内政的にはほとんど必要ない。
こうして近世以降の日本社会においては表面上はどんなに口角泡を飛ばして激論することがあっても、当事者たちの深層意識においては、「こんなことをムキになって主張したところで、現実に(奴隷制的)社会構造が変化するわけでもない」といった、
一種の諦観/他人事のような無関心さ、自らの思想/主義主張に対してさえ距離を置いた非合理・非論理的感覚が通低することとなる。とどのつまり

『世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会は、その命令/服従の連鎖構造の頂点に外観だけは尤もらしい者としての尊大な善人(第九回 参照)を君臨させやすく、もってこれによる善人専制の内部/裏側に
“無能者/偽善者/独裁者等の反社会的人格保持者の専制天国(例えば地方奴隷制型巨大構造。真っ当に生きる市井の人々にとっては“無間地獄”。)”を固定化させてしまう高いリスクを持つ。』
(つづく)
271:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:39:19 ID:???
42 of 43 (つづき)

その上で読者が最後に知るべきは、このような二つの大きな問題性を持つ近世型日本社会、すなわち世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会の基体であるところのジャパニーズ・ファッショ・エートスは、時代的存在拘束性の変遷につれ
例えば惣村的共同体意識が衰退し、諸公共圏観念の外形が変わっても尚、社会的担い手/姿形を様々に変えつつ、必ず全体社会の何処かで大勢の人々の宗教の教義として、現在に至るも継承され続けているという事実である。
これすなわちジャパニーズ・ファッショ・エートス自体が、既に人々の脳内で一つの人格チャンクに落とし込まれていて、これが近世以降、非武人系の「他者に用益されて生きるしか能がないところの群れる日本人」において遺伝形質として継承されているからである。

こうして例えば19世紀には、とりわけ享保年間に隆盛した大商家の創始者たちは家系存続のためにジャパニーズ・ファッショ・エートスへの適応性を持って
自らの企業経営を為したのであり、それが彼らの類まれな資質を経て(尾高邦夫「日本的経営」(1984)などが言うように)「生涯雇用/年功序列/子飼い採用/躾の徹底/和の尊重/合議制/温情主義」といった経営システムに昇華しもした。
また戦前・戦後期にはジャパニーズ・ファッショ人格的能力は、例えば大規模労働争議/左翼的暴力闘争をもたらした。この一連事象においては例えば、本邦独特の経営側の事業計画・管理権自体に不法介入する争議形態のプロトタイプとなるところの
「工場管理宣言」なる会社法秩序破壊的意思を突きつけた上で、35,000人動員の空前の階級闘争デモ行進を伴ったところの1921年の三菱・川崎神戸造船所争議、昭和10年前後をピークとするところの非合法の労働組合/過激なストライキ/サボタージュ/
争議に伴う諸犯罪行為(※注1)等、更に終戦後1946年の「食糧メーデー」デモの代表団が吉田茂が組閣中の首相官邸に押し入り、勝手に泊まり込みさえしたところの威圧的行動、
1947年にGHQの中止勧告を振り切って決行されようとしたところの、保守系の吉田内閣退陣のみならず、密かに本邦全労働者の結託による社会主義革命を標榜した「2.1ゼネスト」計画(※注2)などという一連の騒擾事象を生起させている。
(つづく)
272:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/09(土)13:39:51 ID:???
43 of 43 (つづき)

(※注1 例えば1926年の日本楽器争議では、工場内放火/役員宅へのダイナマイト投擲・投石/浜松市長邸への乱入/浜松警察署焼き討ち未遂などがあった。)
(※注2 その決行前日に幹部指導者たちがGHQに強制連行され、各団体へのスト中止指令が個別に為されるも、最高意思決定者たる井伊共闘議長はGHQに監禁強要されて尚、頑迷に意志を曲げず、
もって当初の18:00のスト中止告知放送の予定が大幅にずれ込まさせられ、しびれを切らしたGHQがついに彼をNHKにまで強制連行した挙句の21:20からのラジオ放送をもって、ようやくスト中止を国民に周知させた。)

そして21世紀である現状においても、既に過去の遺物として“化石”化しているところの「戦後リベラル思想」を未だに同義反復して掲げる尊大な善人(言わば“偏差値・学校教科書エリート/脳カタワ”)らが主導するところの、民間と国家・地方公務員の労組連合/
マスコミ/学界系指導者・特権者階層/大衆層らがジャパニーズ・ファッショ・エートスの下に結束し、日高六郎「旧意識の原初形態」(1954)が述べるが如くに「(下位者は集団として)自らが主人公となることを忌避し、常に被治者/被害者としての立場を求め、
もって上位者の慈悲/恩顧を乞い続け、万一にもこれが叶わないならば、上位者を徹底的に辱める、その上で何が起ころうが知ったこっちゃない、己自身は阿呆のように腑抜けて生きる」が如き地に堕ちた、
(米国の民主党系思想などとは根本的に異なるところの)無産階級系思想をもって支持した政権である「民主党政権」を樹立させ、もって国家をその存立基盤から揺るがせた。

こうしてジャパニーズ・ファッショ・エートスは人々において遺伝的資質化した上で、
近世以降の日本社会の命令/服従の連鎖構造の様態を決定的に規定しうる力動として現在も尚、そのフーコー的権力を連綿と日本社会において行使し続けている。
(「日本社会論③ 世にも不思議な馴れ合い型共産主義社会の問題性とジャパニーズ・ファッショ・エートス」 おわり)
(第十七回 おわり)
273:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/16(土)15:13:45 ID:???
>>269

補足する。地方奴隷制社会は徳川幕藩体制期には存在しない。これは明治期の帝国体制という中央集権体制がもたらしたところの社会構造である。
その上で戦後に社会体制が民主体制へ移行しても尚、今だにしぶとく惰性的に存続するのである。
274:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/03/16(土)15:18:35 ID:???
>>273

何とれば戦後体制もまた中央集権体制であるから。
275:名無しさん@おーぷん:19/06/12(水)19:11:28 ID:???
     
人を殺して金儲け。生野弘道理事長が担当医を提訴ー寝屋川生野病院カテーテル死亡事件

 「カテーテルを留置することで人命を奪い、マスコミに報道されることで当法人の名誉を著しく傷つけた。」として
社会医療法人弘道会理事長 生野弘道氏が当時の担当医に対して約4憶1000万円の損害賠償などを求める訴訟を大阪地裁に起こした。
 生野理事長は「担当医はカテーテル留置というあり得ないミスで人命を奪い、マスコミ報道を通じて当法人の社会的評価は著しく低下した。」としている。
 担当医の弁護士は「医療法人の理事長が担当医を提訴することは通常あり得ない上に
遺族らからの損害賠償請求額は4億1000万円には遠く及ばないことが予想される。医療ミスで金儲けするのか。」とコメント。
 大阪府の社会医療法人弘道会 寝屋川生野病院で平成29年11月、
カテーテル治療を行った際にカテーテルを誘導するためのワイヤーを抜き忘れる医療ミスがあり、患者は転院先の病院で死亡した。
 病院関係者の話では「生野理事長はお金に対する執着心が非常に強く、ありとあらゆるケースでお金に執着してきた。
人の命を奪った今回の件も利益を得る材料にしようとしている。人を殺して利益を得るのか。」と非難。
 医療法人弘道会は「提訴は生野理事長個人が起こしたもので、緊急理事会を開いて生野理事長から事情を確認する。」としている。
       (2019年6月11日 朝日新聞)
276:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)14:48:50 ID:???
1 of 44

「市民層  概論」 第十八回

「命令/服従の連鎖構造② 虚構性/実体性系観念運動」

さて命令/服従の連鎖構造定理(第十六回 参照)が示すように、階層社会が命令/服従の連鎖構造を持つ目的は社会集団的生産能の形成/維持/管理であり、
もって命令/服従の連鎖構造についてのあらゆる認識/考察等は取りも直さず、この社会集団的生産能というものに係らなければならない。
ちなみに社会集団的生産能とは、人間性(連帯性/進歩・発展性・・第十四回 参照)の結実だ。その上でこれは、A型人間的人間性としての進歩・発展性に基いて意図/企画された人格能/宗教の教義(※注1)を修得させることが可能であるところの、
C型人間的人間性である連帯性を持つロボット型人間(※注2)が、適切な権威の力動に基いて生産/管理されることに因っている。
更には「A・C型人間定理」(第十四回 参照)が示すように、A型人間(管理者)とC型人間(大勢は被管理者)が適切な人口・勢力バランスを維持していることにも因っている。以下に詳説する。
(※注1 ここで言及しているものは、『被管理者用イデオロギー体系』とでも呼ぶべき箇条型行動規範群(第十三回 参照)。例えば「清く、正しく、強く、優しく、仲良く、公平に、明るく、元気良く・・」のような便法的観念体系。)
(※注2 凡庸者の二類型の内の一つ(第九回 参照)でありC型人間が圧倒的。その上で強力なヘゲモニーが存在した処の、かつての日本のような存在拘束性を持つ社会であれば、A型人間のロボット型人間も存在する。
ロボット型人間とは社会集団的生産の現場における“兵卒”で在るべく最適化された凡庸者(第九回 参照)。その上で彼らの内で、
高等教育の履修に耐えうる人格的能力を持つサブ・カテゴリーが尊大な善人であり、これは“下士官”として最適化されたロボット型人間。
ちなみに凡庸者以外の者、例えばプロト優秀者などは、萌芽した主体性/個性の始原物が邪魔になってくるので最早、教育者が意図した通りには育成できない。
すなわち既に凡庸者ではなくなった彼らが辿りうる道は、更なる主体的努力を積み上げて優秀者に成るか、さもなくば階層社会の生産現場から排除され、野垂れ死ぬかの二択となる。)
(つづく)
277:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)14:50:13 ID:???
2 of 44 (つづき)

さて命令/服従の連鎖構造における諸観念、すなわち命令の内容物の機能を考察する際には、社会集団的生産能に対する『実体性/虚構性』(※注1)という範疇をもって二分し、それぞれを『実体性観念/虚構性観念』と分類するすることが適当である。
その上でA型人間属性の本質とは、実体性の内の進歩・発展性、すなわち人格系メタ認知的論理思考に基づく「破壊と創造」能(第十二回 破壊と創造定理参照)であり、
その主たる具体能は階層社会における(A型人間の)発生機序(第十六回 参照)を鑑みるに、C型人間凡庸者(※注2)の操作/管理のための論考能である。
これすなわち人をして、いずれは社会集団的生産の管理者としての、高次存在拘束性の操作/管理(破壊と創造)に不可欠な合理主義的因果・方法論(第十回 参照)を
創出させしめ、命令/服従の連鎖構造において『実体性を伴う権威の力動』を発動する優秀者たらしめる。
そしてこの実体性を伴う権威の力動は、A・C型人間が適切な勢力バランスを保っているのであれば、命令/服従の連鎖構造内の数多の権威の力動の中でも最強クラスのパワーを得て「支配的観念」(※注3)を形成させ、
社会集団的生産能を適宜・経済的に管理し、もって階層社会を進歩・発展させる。
(※注1 実体性とは命令/服従の連鎖構造の存在目的である社会集団的生産能に不可欠であるところの人間性(連帯・進歩・発展性)に対する肯定・支持的態度に基づく合理性(適宜・経済性)である。
虚構性とは社会集団的生産能を衰退/劣化させるものとしての『反人間性(反連帯・進歩・発展性であり、例えば妄想・カルト性等)』に対する肯定・支持的態度に基づく非合理性。)
(※注2 C型人間属性とは先天性の凡庸者属性である。
その上で人が最終的に後天性としての凡庸者/プロト優秀者の何れに行き着くかは、当人の処世次第である。ちなみに先天性であるE型人間属性を賦与されているCE型人間は当人次第で優秀者になり得る。)
(※注3 命令/服従の連鎖構造において最も強い、すなわち標準・基準的な観念(第二・第八回等 参照)で、具体的には人間性に係る内容を持ち、広義の宗教の教義(無謬性の人生・処世仕様イデオロギー体系)(第十六回 参照)はこれに基づく。)

一方でC型人間属性の本質とは、社会集団的生産能をもたらすものの内、他者と連携するための
(つづく)
278:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)14:52:07 ID:???
3 of 44 (つづき)

人間性である連帯性であり、その主たる具体的属性とは、命令/服従の連鎖構造に在っては被管理者属性、すなわち感情系習慣的自動思考様式に基づき、権威の力動の命令に対する無謬的信憑と普遍的均質性を伴う集合意識を形成させ、
もってとりあえず合理主義的因果・方法論の上っ面の言葉/文言のみを分かったようなつもりになるものとしての、実体性観念/虚構性観念の双方が混在するところの『形式主義的因果・方法論』(※注)を構築させしめる属性だ。
そして形式主義的因果・方法論はこれまた命令/服従の連鎖構造においては実体性を伴う権威の力動/『虚構性を伴う権威の力動』に成る。
その上でA・C型人間が適切な勢力バランスであれば、これらは数多の権威の力動の中にあって、最高の場合でも第二位クラス以下の権威の力動にしかなれない。
(※注 偽命題とイデオロギー。その上で「偽命題」とは事物/事象に係る偽りの表示を伴う観念。イデオロギーには、例えば上述の被管理者用イデオロギー体系とか第十四回15 of 34で引用したエドマンド・バークの言説が説明するような、
社会集団的生産能の維持/増進等に有効な理念/規則/信条/意思等、すなわち実体性観念であるものと、社会集団的生産能にとって有害な虚構性観念であるものとがある。)

ところで人間界で生起している『観念運動』は、既に読者にはお馴染みのヘーゲル的弁証法的運動、すなわち『「正→反→合/凡庸者→プロト優秀者→優秀者」系観念運動』(以下、『ヘーゲル系観念運動』と略記する。)であるのみならず、
階層社会の命令/服従の連鎖構造におけるA・C型人間同士の勢力バランスの変動に起因するところの、『支配的観念の虚構性/実体性の度合いの変動系観念運動』
(以下、『虚構性/実体性系観念運動』と略記する。)としてもまた存在するものだ。そして当チャプターが論ずることは、後者に係る様相/分析/機序だ。

さて(力動の運動が存立させるものであるところの)命令/服従の連鎖構造においては或る力動が発生すると、(第十六回で論じたように、権威の力動が反抗の力動の起動因であるように)それがあたかも
“イオン化が連鎖して電流が発生する”ように別の異なる力動を産んで、諸力動(※注)の連関運動を顕現させる。
何となれば或る力動の作用を受けるC型人間凡庸者の群れが、
(つづく)
279:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)14:53:04 ID:???
4 of 44 (つづき)

必然的に「力動」というものの本体であるところの、均質性を伴う集合意識レベルの変動をもたらすからである。
すなわち命令/服従の連鎖構造はピラミッド型ヒエラルキーを成しているから、下層には大勢のC型人間凡庸者が、団塊のようになって存在し、或る力動が彼らの巨大な集合意識に対して作用すれば
当然の如く、その無思考・無謬的信憑性が、均質性を伴う集合意識レベルの変動を生起させるということだ。
(※注 命令/服従の連鎖構造は常に力動が媒となり命令を伝達し服従を引き出し、その服従もまた力動が媒となり伝達される。
その上で命令/服従の連鎖構造には、基本三力動(第十六回 参照)と、その他の幾つかの力動が在る。当チャプターではこれら諸力動を順次、提示していく。)

こうして命令/服従の連鎖構造において最初の権威の力動の発動以降は、この“イオン化反応”(力動の生成)が常態化する。
すなわち(上記の)或る集合意識レベルの均質性を伴う変動が次の異なるそれの原因となり続けるところの連鎖的反応である。

例えば「人類が、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向への反抗システムとしての社会集団的生産能をもってする命令/服従の連鎖構造を確立」(第十六回19 of 30から引用的要約)して以降の実体性を伴う権威の力動の命令(観念)は、
第十六回で述べたように命令/服従の連鎖構造内を下降していく過程においては、(ミル「自由論」の引用箇所で述べたように)A型人間が自己保身のためにC型人間らに調子を合わせてしまいがちであることなどと相まり、
たちまちにしてC型人間らがこれらを無謬的信憑性をもって集合意識化する。
そしてその際には、群生生活における自己保存のための絶え間ない他者との駆け引き等に明け暮れる彼らをして、それに伴う権威を過分に尊奉し誇張させた上で、
その(権威の)“お裾分け”に無我夢中で与ろうとさせるような反抗の力動を産むのであった。

更にC型人間らは、社会性動物としての人の本能的欲求であるところの自己被承認欲求に突き動かされて、(権威の力動が主従関係決定力を持つために・・第十六回 参照)自分が受け取った権威の力動を発動した
上位者以外の者たちに対しては今度は、自らを上位者たらしめるための権威の力動を発動しようとする。
そしてその際には人格系メタ認知的論理思考能を持たない彼らは、ひたすら諸々の擬制的有能性の表象物、
(つづく)
280:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)14:55:19 ID:???
5 of 44 (つづき)

例えば受けの良い語彙や流行りの名辞/美辞麗句/賞賛/肯定的レトリックをあしらった尤もらしさだけの作り話/建前/英雄・偉人譚、
あるいは“言葉遊び”/レトリックでしかないところの形式主義的因果・方法論に基づくところの虚構性を伴う権威の力動を発動することとなる(※注)。
(※注 例えば弘法大師/新井白石/夏目漱石/芥川龍之介・・などといった、よくよく見れば何だか訳の分からない連中が大量にお神輿に担ぎ上げられ、その一方ではこんな連中よりも(ヘーゲル系観念運動的観点から)遥かに興味深い人々、
例えば後三条天皇/田中正造/高橋是清/出光佐三/高群逸枝/福岡正信などといった人々は、ほとんど取り沙汰もされなくなるといった具合。)

こうなると命令/服従の連鎖構造では(下位に行くほどC型人間パワーとしての集合意識が強烈に作用するために)、下位層においては大量の偽命題/虚構性イデオロギーが蔓延し、
その上でこれらを無謬的信憑する人々は生産現場において様々な不首尾/失敗を強いられる。
もってまずは下位層において、C型人間の失態をカモフラージュするための擬制的有能性に係る集団的防衛機能が顕現し、これが漸次、命令/服従の連鎖構造の下層から上層に向かって浸潤し、
やがてこれが構造体全部に蔓延し切れば、命令/服従の連鎖構造の存在目的たる社会集団的生産能を劣化させてしまうのであった(※注)。
これすなわち凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向(観念運動の自然法の第四定理・・第十回 参照)の再顕現である。
(※注 この機序は第十六回で、「反抗の力動による非合理的作用・・(個々の排他的小社会・集団での)集団的防衛能→下意上達→普遍的均質性→(社会全体の)社会集団的生産能の劣化」として提示したところのモノに他ならない。)

このように命令/服従の連鎖構造は、或る集合意識レベルの均質性を伴う変動が、直ちに次の異なるそれの原因となり続けるところの連鎖的反応、すなわち連続・汎発的な運動を常に為しているのであり、当論ではこれを
『命令/服従の連鎖構造の凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向に係る常態的諸力動運動』(以下、『諸力動運動』と略記する。)と定義した上で、人間界の観念運動の一範疇としての(上述したところの)虚構性/実体性系観念運動の基体として捉えていくことにする。
(つづく)
281:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)14:56:17 ID:???
6 of 44 (つづき)

その上でここから先の当チャプターはこの諸力動運動というものの様相を、『命令/服従の連鎖構造の運動(時系列的推移)モデル』として、具体的に明らかにしていく。

『命令/服従の連鎖構造の運動が、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向の消長に係る諸力動運動であることは、取りも直さずこれがA・C型人間バランスの変動、すなわち支配的観念の虚構性/
実体性の度合いの変動系観念運動の基体であることである。』(『観念運動の自然法 第九定理(虚構性/実体性系観念運動定理)』)

いざ命令/服従の連鎖構造が確立した階層社会の蓋を開けてみるならば、「(命令/服従の連鎖構造が社会集団的生産能を獲得するためにC型人間の普遍的均質性を亢進する際に)必然的にフィーチャーされるものが、
彼らに遍く普及させるべき他律的自尊心等」(第十六回16 of 30)であるがゆえに、上記の反抗の力動/虚構性を伴う権威の力動のように集団的防衛機能に係るなどして社会集団的生産能を劣化させる力動としての
『アンチ社会集団的生産能型力動』に係る諸力動運動が直ちに発動して、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向を増長させることを、我々は目の当たりにする。

そして更にはこのアンチ社会集団的生産能型力動の“燃料”となる事象(反抗の力動であれば、媚び/へつらい等。)が、絶え間なく発現し続けることをも指導者・特権者階層は見せ付けられるのであり、
その上で今後はこうした事象を、『アンチ社会集団的生産能型力動をもたらす燃料ゆらぎ事象』(以下、『ゆらぎ』と略記する。)と呼ぶことにする。
ちなみにこのゆらぎというものには、それ自体が諸力動運動の結果として発生する場合が圧倒的であり一旦、最初のゆらぎが発生してしまうならば、それが産んだ諸力動運動が更なるゆらぎの発生原因になるというカタチの『ゆらぎの増大傾向』が顕現し、
もってどんどん自給自足的にアンチ社会集団的生産能型力動に係る諸力動運動を進捗させ続ける過程に入ることで、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向を持続させる原動力となる場合と、ゆらぎが発生しても即座に消滅させられる場合とが在る。

もちろん命令/服従の連鎖構造の確立後の推移は、最初の力動(実体性を伴う権威の)の発動が上述の機序に則るところのアンチ社会集団的生産能型力動に係る諸力動運動をもたらすからして、皮肉にも
(つづく)
282:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)14:57:01 ID:???
7 of 44 (つづき)

人間界に再び凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向を再顕現させるところの、前者のゆらぎの増大傾向が顕現する場合となる。
こうしてゆらぎの増大傾向を伴う命令/服従の連鎖構造は直ちに、(第十六回で提示したように)階層社会に「社会全体的事業のための労働/繁殖のためのコミュニケーションに基づくミクロ的専制支配」(以下、『ミクロ的専制支配』と略記する。)をもたらし、
その上で『三非合理性(無関心・無反応・無抵抗性・・第十六回 参照)の力動(※注1)』が、A・C型人間同士の勢力バランスにおけるC型人間の断然の優勢状態を現出させる(※注2)。
(※注1 ミクロ的専制支配定理(第十六回 参照)が提示するところの、ミクロ的専制支配下の命令/服従の連鎖構造においてのみ顕現する諸力動の一つ。)
(※注2 こうなると例えばA型人間は最早、己の属する排他的小社会・集団の上位者のことを「馬鹿だ」などとは、素朴には思えなくなる。何となれば素朴な心の内は、何時か相手にバレて、その上で己は三非合理性の力動を発している
巨大な集合意識という多勢に対しては無勢であり、容易に排除されてしまうから。)

というわけで虚構性/実体性系観念運動としての意味合いを持つところの命令/服従の連鎖構造の運動においては、外形的には(階層社会が)進歩/発展し続けているように見えることがあるにせよ、
その内部では常に凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向の消長が生起しているから、一意的にそうした状況を進歩/発展であるとは見做せないことになる。
例えば三非合理性の力動が顕現したところのミクロ的専制支配下の階層社会ではC型人間らをして、動物(感情系習慣的自動思考様式)的な自己保存本能のままに
地位/名声/名誉/金儲けのためだけに猪突猛進させること(※注)による見かけだけの盛況をもたらす。
(※注 A型人間のように経済的に安定した隔絶環境で養育されていないところのC型人間においては、「日々を如何にして生き延びるか?」こそが切実な問題となり、
もって他者に媚びたり、出し抜いたり、貶めたりする等の行動に明け暮れるようになる傾向を持つ。)
(つづく)
283:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)14:57:57 ID:???
8 of 44 (つづき)

ではこの様相を実例において見てみよう。それは埴谷雄高が「死霊」(1946-)で撒いたところの、言わば"形而上的言葉遊び"(ゆらぎ)に係る諸力動運動である。(尚、この事象に係る詳しい経緯/経過はネット等で自分で調べてもらいたい。)
これは、尊大な善人/C型先天的論考者向けに埴谷が撒いた、言わば“格好の餌”(虚構性を伴う権威の力動)を発端とし、これに三島由紀夫を始めとするC型先天的論考者らが各人の存在証明を成すために、間髪入れずに次々と
(媚び/へつらいを伴う反抗の力動の発動として)食らいついてきたという事象である。
そしてここにおいて見い出されるものは、無知の知を持たず、滑稽なほどに「西洋 = 神/完全なるもの」という宗教の教義を奉るのみの阿呆、己の分際を知らないところの「我こそは、高尚なモノの価値を最も良く体現し、
もって人間文明に貢献/寄与しているんだぞ!」的な虚構性が極まった“最良の権威の陣地”を形成せんとして我先にひしめき合うC型人間であり、そして彼ら特有のメタ認知系諸能力の脆弱さがもたらす(己が“何者”であるかを客観視できないが故の)浅ましさだ。

とどのつまりこうした見せかけの尤もらしさを伴うC型人間的虚構性が亢進していくならば、A型人間は進歩・発展的に闘争しようとするモチベーションを著しく減じ、
ついには彼らは『善性』(※注)という、極めて枢要な人格的能力を用いることさえ止めてしまう。
この善性とは、人間性を担保しようとする基盤的意思・態度をもたらす人格的能力であり、A型人間がこれを利用しなくなるなら、新たな実体性を伴う権威の力動が命令/服従の連鎖構造に発動されなくなる。
(※注 A型人間の自意識において明瞭化する真・美・善性(第十四回 参照)という三属性の一つ。その上でこれら三属性は相互に深く連関し合い、彼らのメタ認知系諸能力(人格的諸能力/帰納的思考能力等。)に影響力を持つ。
ちなみにC型人間の場合は真・美・善性の始原物を持つのみで、これらを自律的に涵養/操作/管理できないから、例えば善性については宗教の教義等が包含するところの「善悪観」を権威の力動経由で自意識に取り込むしかない。)
(つづく)
284:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)14:59:04 ID:???
9 of 44 (つづき)

一方でこの埴谷事例に観られるところの虚構性の源泉たる反人間性(このケースでは、地位/名声/名誉/金儲けのためだけに猪突猛進させる反進歩・発展性。)を担保する基盤的意思・態度をもたらす人格的能力が、『悪性』(※注)である。
(※注 悪性とは、C型人間のみが持つものでなく、後述するようにA型人間も自らの合理的思考に基づいてフィーチャーする。
その上で当チャプターで取り扱う悪性は、認知的論理性を先天的に賦与されておらず、もって反人間性の顕現をメタ認知した上で自律的に管理しえないところの、C型人間の無知蒙昧さに所以する『C型人間的悪性』。)

例えば戦後日本社会における「戦後リベラル・エートス」は、このC型人間的悪性が、ついにA型人間の善性を駆逐したところの典型である。
これすなわち既存の階層社会が持つところの、ありとあらゆる制限・規制的観念/外観上の一意的不平等性・不自由さetc.・・すなわちA型人間/優秀者が持つ強さ/リーダーシップ/
社会管理能等の源泉であるところの善性が結果的にもたらすもの共を次々と無頓着に撤廃/排除した(※注1)。
もちろんこのような(C型人間的悪性がもたらす)虚構性観念を支配的観念として社会集団的生産能を適切に維持するなどは金輪際、不可能であることは、言うまでもない。
(※注1 これは戦後すぐに到来した「暇つぶし文明期」(第七回 参照)がもたらしたところの平和と安寧の日々が、例えば「今日までずっと安定した日々を過ごせたから明日も明後日もその先もずっと安定し続ける。」
などという凡庸者的存在拘束性の陥穽に人々を嵌らせ、かつ頭に浮かんでくる心地よい妄想/白昼夢を宗教の教義に囚われたとしても尚、生き続けられるところの存在拘束性(※注2)を大勢のC型人間に賦与したことに因る。)
(※注2 戦前期と比するならば雲泥の差であるところの至れり尽せりの社会保障/医療技術/娯楽・遊興産業の隆盛等に係る諸革命が、日々の生活がもたらす経験則/道理(※注3)などが蔑ろにされて止まないところの
“リベラル病(凡庸者病)”という精神障害に成らせても尚、C型人間を普通に幸福にするという存在拘束性。)
(※注3 例えば次のようなもの。「我々は(慢性的運動不足による重大な健康被害を回避するために、ウォーキング/ジョギング等を励行するが如くに、)人間/社会に対する
(つづく)
285:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)14:59:50 ID:???
10 of 44 (つづき)

認知的な破滅的作用を回避するために、厳しさ不足に陥らないようにしなければならない(第十三回 参照)。
何故なら例えば小さな子供は親が擬態術を含むところの懲罰等
を織り交ぜた操作・管理者たることを放棄すれば(例えば子に対して親が、あたかも友達の如くに接したりすれば)、すぐに手が負えなくなる。」
またあるいは、「犯罪の蔓延は、法規・警察力等が担保するところの厳しさを伴う存在拘束性こそが犯罪意欲を減衰させることで、抑止されている。」など。)

しかし当チャプターは、戦後リベラル・エートスに係り包括的に論じるつもりはない。それはもっと後に譲る。
ここでは当該エートスの下での、例えば「大学の自治」(朝日ジャーナル編集部 1963)にあるような、「日本ではどんな無能な教授でも
一旦教授になれば、定年まで講座に座りこんでそれを離さないというのが普通でありますから。
だから50(歳)で既に若朽無能の教授が多い。彼らは毎年同じノートを読んでおるばかりでなく、そんな人が大学の実権を握っています。」などといった学界の異様な様相にのみ関心を寄せる。以下に論説する。

かかる状況においては、大学教授でさえあるならば彼はその言説の実質を一切問われもしない。例えば梅原猛「隠された十字架」 1972 )にあるが如くに、「学界という所はどれだけ真理を言ったかではなくして、
どれだけ誤謬を言ったかで評価される処である。一つの誤謬も言わないために一つの真理も語らずに、大学者で通るのが学界である。」などという体たらく振りとなっている。
すなわち第十四回で述べたように、そもそもC型人間はA型人間のような認知的攻撃性を持たず、自律的自尊心も持てない体面/擬制的有能性の虜だから、見解/主張の相違に因るところの
対立・緊張感に満ちた存在拘束性を楽しんだりできない。つまり学術とはA型人間にこそ相応しいのだから、A型人間的善性が潰えた戦後リベラル・エートス期の学界はこう成るしかなかったのだ(※注)。
(※注 その上で日本の教育界には元々、例えば学校の国語の試験で出題者の意図を忖度して模範解答を記入できるような予定調和的精神を持つ演繹的思考者であるC型人間こそが学業優秀だと見做される傾向が在った。)

ちなみに西洋の12世紀における黎明期の大学を見れば分かるように、本来の大学とは
(つづく)
286:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:00:32 ID:???
11 of 44 (つづき)

一切の世俗的観念・常識から自由であるという、A型人間属性としての孤高性をこそ最も自尊し、その上でこれを命懸けで守り抜くことを至上の存在意義とする排他的小社会・集団である。
すなわち大学は、A型人間を主とする学生と教授の組合から成る組織だったのであり、学生組合は「ユニバーシタス(ユニヴァーシティ)」、教師組合は「コレギウム(カレッジ)」と呼ばれた上で、特定の施設/敷地は持たず、
領主権力に介入されたり思想抑圧されたりすれば、直ちに別の地に移動して開講するという、「孤高のルンペン/遍歴者」集団であることを自尊した(※注1)。
これすなわち古代ギリシアの自由学芸精神への憧憬の顕現なのであり、そこには“真の学士(ドクター)”同士の公開討論があり、ドクターであることに対する自尊が満ち、世間もまたドクターを大いに畏怖/尊敬した(※注2)。
(※注1 ちなみに遍歴とは、西洋文化圏に属する人々の生活様式に普遍的に組み込まれている行動形態である。例えば遍歴騎士・学生・職人・乞食の他、単なる放浪者とかジプシー(※注3)などが、普通に多数存在した。)
(※注2 しかして大嶋誠「フランス中世末期大学史研究と聖職禄希望者名簿」(橋口倫介「西洋中世のキリスト教と社会」収録)からは、14世紀頃までには大学内の主導権はC型人間に奪われ、社会的権勢(教皇庁)との癒着が、既に始まっていたことも看取できる。)
(※注3 14世紀頃以降にインド方面から遍歴してきて西洋社会に侵入したところのロマーニ語を話す民族。音楽演奏/舞踏や小間物細工等で生計を立て、土地占有観念を持たない。)

さて話は本邦学界に戻るが、こうなると日々、忘却の彼方へと後退してゆく合理主義的因果・方法論を尻目に夥しい数の形式主義的因果・方法論が、学界から教育現場を経て家庭/企業等、階層社会の隅々へと浸潤を開始する。
こうして例えば(第十六回で述べた)本邦マルクス学者の所論などといった訳の分からないものが、次々に戦後日本の人々の自意識の中の神棚”に奉られていくこととなった。
もちろん同類事象は文系学界のみならず理系学界においても展開した。例えばアインシュタインの相対性理論の一般人向けの解説などは、その典型だ。以下に論ずる。

アインシュタインの相対性理論に係る一連の学説の根幹としての「運動する物体の電気力学」(1905)の
(つづく)
287:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:01:16 ID:???
12 of 44 (つづき)

「Ⅰ. 運動学の部/ 1.同時性の定義 – 2. 長さと時間の相対性について」の二チャプターの肝を、市井の人々に理解させるためには、
彼らが基盤的固定観念として持つところの「時間/空間とは、物体の状態(静止/運動)の如何に拘らず、常に単一である。」(「単一の座標系」観念)は誤謬であること、すなわち実はこの宇宙空間とは
運動法則的に互いに完全独立し、もってあらゆる物理現象が個々の座標系の領域内で自己完結した上での「無数の座標系の相対性」(「ガリレイ・ニュートン相対性原理」)に基づいていることを、何よりも先に理解させなければならないはずなのに、
本邦における一般人向けの解説を見るならば、こうした意図を持つものは唯の一つも見いだせない。
すなわちパンピー的な素朴な誤認識(時間/空間の単一性”的思い込み)をまずは最初に否定して見せ、もってパンピーにも正しく相対性原理を認識させようとする態度を持つ日本の物理学者を、少なくともオレは唯の一人も知らない。
その上で例えば以下のような解説こそが、一般人に相対性原理を分からせるために必要なのではないか?

『地球の公転速度は100,000km/h強、つまり約30km/s、またその自転速度は日本の本州中央部では約1,000km/h、つまり約280m/s(※注)の猛スピードである。
しかして我々が立つ地面自体がこれほどの超高速で運動しているにも拘らず、例えば野球のボールを高々と思い切り頭上に放り上げると(このボールの滞空時間は優に3秒近いのにも拘らず)ボールは自分が立つ同じ位置にキチンと律儀に落下してくるのである。
もしこの大宇宙空間に、絶対静止する単一の座標系しかないのであるならば、こんな律儀なボールは絶対に存在しない。
すなわちボールは、空中に放り上げられた瞬間から地球の公転・自転方向に超高速(30km/s 及び280m/s)で(自分が立つ位置から)遠ざかり始めるであろう。
しかして現実のボールは、極めて律儀に振舞うものであることは、皆が知っての通りだ。』
(※注 例えば我々が山の稜線にかかる夕陽が刻々と没しゆく様を凝視し続けるならば、地球が運動しているその280m/sという超高速さを、視覚的に体感できる。)

というわけでこの程度の説明をもってするのみで、パンピーに対しても慣性系に係る相対性概念を理解させることができるにも拘らず、
(つづく)
288:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:02:00 ID:???
13 of 44 (つづき)

アインシュタインの解説の際に、この類の説明をも同時に為す物理学者が、本邦には一人も居ない。
そしてこの、本邦物理学者が人の認知過程を踏まえた上での、肝になるポイントの抄説を満足に為せないこととか、上述の本邦マルクス学者のやはり滅茶苦茶な所論をも併せて鑑みるならば、
とりあえず一般論(すなわち例外的事例にまでは配慮しない論)として帰納できることがある。それは以下のようである。

『とりわけ戦後リベラルエートス下の我が国の主だった学者/教育者の面々は、 (C型人間であるがゆえに)そもそも合理的論考をできない(例えば公式/定理等の丸暗記的認知しかできない)のではないのか?
もって「人は論理というものを如何にして理解していくものなのか?」を、自身の経験を通じて知っていなければ不可能であるところの、的を射た教育もできず、学術の基盤的な進歩に対する貢献を金輪際、成せる見込みがないのではないのか?
とどのつまり、とりわけ戦後の本邦学界とは、A型人間属性を持つ者を完全排除してしまうという、学界としての致命的な弱点は全くメタ認知できていない上で外に向かっては例えば、全くどうでも良いくだらない抹消問題をことさら
大問題であるかのように主張してみせるなどして(つまり前述の埴谷事象と同様のC型人間的浅ましさをもって)、自分らの分際、すなわち自分らが国家の威信を託された学界として果たすことを期されている任務を到底、果たし得ない
単なる“学問労務者(※注)”集団であるという分際からは凡そかけ離れた、虚構性を伴う権威の力動を発動することに腐心するのみではないのか?』
(※注 この“労務者”という言葉が意味するところは、自らが人類/階層社会の進歩/発展に貢献しようという使命観/矜持/孤高さ等の『スペリアリズム』(過去レスリンク111.)とは全く無縁であり、例えば抹消的なデータ収集・処理事務とか
体系性が極めて低い分業的データ収集・分析等にしか関われないところの、言わば“生真面目/几帳面さだけが取り柄の底辺労働者”ということ。)

さて話を先に進めよう。このようなC型人間的悪性に基づくヘゲモニーが大々的に顕現した状況下においては、やがて
「生活仕様高次ストイシズム系行動文化」(第十三回 参照)さえも真っ当に維持できなくなってくる。
すると(虚構性を伴う権威の力動を始めとするところの)
(つづく)
289:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:02:48 ID:???
14 of 44 (つづき)

アンチ社会集団的生産能型力動に係る諸力動運動の爆発的亢進段階が到来する。
例えば中西輝政「なぜ国家は衰亡するのか」(1998)は、産業革命を興し、繁栄を極めた19世紀末から20世紀初頭のイギリスで、今日の衰退の魁としての旅行・グルメブーム/各種イベント等の遊興文化/
自己中心的な主張文化等の氾濫の中で生活仕様高次ストイシズム系行動文化を失い、堕落/退廃してゆく傾向が顕現したことを指摘した。

そしてこのような存在拘束性下ではC型人間らは、或る時には上位から下ってくる虚構性観念の露骨極まりない太鼓持ちになったり(※注)、また或る時にはこうした観念や力動に反抗する"ケシカらん青二才"の処罰/抹殺等に活躍し出す。
例えば本邦においては、「ジャパニーズ・ファッショ・エートス」(第十七回 参照)等に乗じた下位者たちが自然的に一致団結して、
仕事は出来るが部下には厳しい上長のアラ探し/嫌がらせ(例えば匿名の誹謗・中傷文書のバラまき/創案や成果等の横取りとか。)を為したりする。
また西洋であれば、自集団の価値/存在を否定するような研究/学説などは、それらに関わる権利を全て買い取った上で永久に陽の目を見ないようにするなどしたりする。
(※注 例えばビザンチン帝国には衆人環視の場で皇帝を称揚/(万歳連呼等で)歓呼するためのみに存在する官僚組織が在ったし、また「泣き女」的職種は、かつて多くの階層社会に存在した。)

これは言わば、『諸力動運動に係るC型人間集団による専制支配』(以下、『C型人間ファシズム(専制的結束)』と略記する。尚、トクヴィルはこれを「多数者の専制」と呼んだ。)と呼ぶべき状態への移行である。
とどのつまり階層社会の命令/服従の連鎖構造においては何某かの社会的傾向に乗るのでなければ、単独者/少数者が如何に能力等を提示したところで、それらは命令/服従の連鎖構造の運動に影響力を行使しえない。
例えば実体性観念の提示は、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向が顕現しているのであれば大勢的には無意味である。

その上でこの因果を悟ることができたA型人間優秀者は、善性をとことん捨て去った上で悪性のみに帰依せんことを決断し、指導者・特権者階層内に遮二無二、
己の立つ瀬を確保した上で、今度はひたすら“甘い・旨い汁を吸う”ことに専心していく。
(つづく)
290:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:07:02 ID:???
15 of 44 (つづき)

ちなみにこうした処世に係る人格的能力のフィーチャーリングにおいて善性から悪性への大転向を成すことは、パーティ会場の法則(第八回 参照)的機序を鑑みるならば、確かに彼らの自己保存に係り合理的である(※注)。
その上でこうした自己保存のために善性的世界/悪性的世界を適宜・経済的に行き来できるところの合理性の力は、メタ認知系諸能力を持って存在拘束性の操作/管理(破壊と創造・・第十二回 参照)を実行できるA型人間優秀者にして初めて可能である。
(※注 C型人間ファシズム顕現後のA型人間優秀者は当チャプターの後半で述べるところのC型人間との最終的大決戦の契機が訪れるまでは、悪性をもってして自己保存していく。
ちなみにC型人間や凡庸者の場合は、そもそも己の高次存在拘束性をメタ認知できず、もって唯々、心理的な焦燥・逼迫感がつのって、集団的防衛機能的な擬制的有能性にしがみついたり反社会化したりするのみ。)

こうしてこの“C型人間ファシストたちが群れ成す恐怖社会”の現出以降は優秀者のかなりの部分が、根無し草のように社会のあちこちに(K.マンハイムらが述べるように)“浮遊”しつつ、ファシズムに加担している状態となる。
こうして階層社会では最早、子供でもオカシイと感じるような言動/行動等に対してさえも、誰一人として“非合理である”と非難しなくなる。
とどのつまりここにおいては例えばGHQ占領統治がもたらした“自虐史観者の天国”のようなかつての戦後日本社会のように、他者から管理されて生きるしか能がないところの数多のロボット型人間をして、
「万人が万人を愛し大切にしよう(※注1)/皆が努力すれば仲良く平等に暮せる/人々が皆、真面目に振る舞えば社会が住み良くなる(※注2)/国家が軍事力を放棄すれば世界平和が訪れる」etc.・・
といった非経験・実証主義的な素朴知を刷り込まれた上で、これらに同意しない者たちを鋭意取り締まるところの“思想警察官”たらしめている光景を、何処にでも見いだせるのだ。
(※注1 例えば石坂洋次郎「青い山脈」のストーリーのように、偽ラブレターを書いた松山浅子に対して女教師や教頭が「ひねくれさせない/わだかまりを解く」「人間というものは時々、自分の性質の悪い面で、
あくまで強情を通そうという気になることがあるもので、松山もそれに引っかかったんですな。
(つづく)
291:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:08:10 ID:???
16 of 44 (つづき)

それさえはずれてしまえば松山だって普通の善良な生徒ですよ。」的な能天気な性善説的刷り込みを為していく。
こうして社会の健全性の維持のために、本来であれば適宜・経済的に操作/管理/処置されなければならないはずの大量の問題者が、人類が階層社会を形成して以来初めてのこととして、社会の主流において半世紀近くもの間、
無頓着に放置/庇護され続けたのであり、日本社会は1990年代以降、現在に至るまで、この所業のツケを支払わされている。)
(※注2 狭義の“真面目さ(※注3)/思いやり深さ”などというものが処世において頗る有意なのは、底辺層/被管理層においてのみであり、人は社会的ヒエラルキーの階梯を登って、己が他者、
あるいは集団の管理を担わなければならない度合いを増すにつれ、業務の成果の優劣/可否/適宜・経済性にこそ責任を持たざるを得なくなっていく。
極端な話をすれば、当人の外観が遊び呆けて、ふざけまくっているように見えようが、そんなことは近しい者たちは誰も本気で関知しなくなり、ひたすら結果が(例えば企業の収益に貢献するなどの)優れていることを求めるようになっていく。
すなわち戦略的思考能/(対人関係を有意に操作/管理するための)コミュニケーション能/(弱者を適宜、威嚇/排除したり、適材を適所に配置したりするための)冷厳さなどといった“(戦闘に勝つための)合理的能力”こそが、遥かに有意度を増していく。)
(※注3 ここでの真面目さとは他者に対して表示されるところの態度/振舞いにおけるそれに言及しているわけだが、日本語で「真面目さ」と言う際には、「真面目に勉強する。」などのように、何らかの目的達成のための努力様態をも表意する。
この意味での真面目さは、あらゆる階層/立場の者において、等しく重要な人格能である。)

このように命令/服従の連鎖構造全体にC型人間的集団的防衛機能がもたらす擬制的有能性に基づく専制性が浸潤するなら、真理/真実を直視しようとする態度としての経験・実証主義性、及びその
究極の成果物たる合理主義的因果・方法論は最早、反社会的な異端として排斥されるしかなくなる。
もってここに各人の自意識において、『進歩・発展性の消滅とトートロジー(同義反復)性の増大傾向』(※注)が顕現し、程なくして階層社会は際限のない
(つづく)
292:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:08:50 ID:???
17 of 44 (つづき)

『諸力動運動に係るトートロジカル(同義反復的)専制』(以下、『トートロジカル専制』と略記する。)段階へと移行する。
(※注 例えば律令体制が定める社会秩序(公地公民)の回復への望みが完全に絶たれ、末法思想が蔓延した11世紀の日本社会の状態は、正にこれである。
ちなみにこの「末法思想トートロジカル専制」においては、大量の民をして僧兵コミュニティ/武門の庇護下に己の保身を委ねさせるように仕向け、もって階層の形成と破壊(第八回 参照)が、一気に進捗した。)

このトートロジカル専制とは言わば、「同じヌカ床の中のありとあらゆる素材は皆、ヌカ臭い。」が如くに、何時何処で誰が何を為そうが押しなべて論考という行為を経ることが無く、終いには皆が同質的な虚構性観念に
洗脳されてしまうという“ヌカ臭(『同質的虚構性』)”のために、あらゆる権威の力動が同義反復(自動思考)に基づいている状態、
つまり進歩・発展性という(A型人間的)人間性が完全消滅したところの『根源的悪性』の顕現状態である。
もってここに発動する『根源的悪性の力動』(※注)に係る諸力動運動においては、ヌカ樽の外の世界からは完全遮断され、周辺は全てが一分の隙間もないところの同じ臭みのヌカ床(同質的虚構性を伴う形式主義的因果・方法論)を構築し、
このヌカ床の漬け野菜たる住人たちも全員が同じ臭みのヌカ漬け、すなわち(進歩・発展性という人間性否定の)原罪性を呈する者としてのトートロジスト(同義反復者)に成らされる。
(※注 三非合理性・虚構性を伴う権威の力動と共にミクロ的専制支配状態の命令/服従の連鎖構造において顕現する諸力動の一つ。)

すなわちトートロジストとは、如何なる合理主義的因果・方法論を提示されたとしても無反応であるところの三非合理性の力動と相まり、論考能の基礎たる三始原人格が完全にスポイルされた、人間としての自然な懐疑心/
闘争心等が完全に抜け落ちているという存在拘束性の陥穽に嵌っていて、例えば「己は本当は何も知らない/己は他者や社会の迷惑になっているのではないか?」的な認知とは金輪際、無縁であり、誰も論駁できないところの、言わば“無敵”人間(※注)である。
その上で彼らは既存の、あるいは同じヌカ漬け同士の言説をどこまでも引用/参照し合う中で、ヌカ樽の外に満ちている
(つづく)
293:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:09:30 ID:???
18 of 44 (つづき)

“真理の光”を何かの折に真理として認知する契機があったとしても、生理的に耐え難い恐怖感がこみ上げ、まるでドラキュラ伯爵が光から逃走するかのようにして、一目散に元の臭い世界に退散する。
(※注 例えば予備校講師の林修はBEST TIMES(2017/1/22)において、「東大合格者の中下位層は(事物の基本的概念をマトモに認識/理解できていない)カッスカスのスッカスカ」だとした・・
ここから浮かび上がるのは教科書文言の劣化コピー大会の勝者イメージ、自らの内には論理性の欠片も持たない、かつメタ認知系諸能力が脆弱で無知の知を知らない尊大・傲慢さが極まったところの、デカルト「方法序説」
(過去レスリンクL.6/90)が述べるが如くの、「どんなことについても良く知っているかのように大胆にしゃべることができ、どんなに鋭敏で有能な人に対しても自分たちの言う事全てを主張し続け、誰も彼らを説得する手立てがない」人々、といったところだ。
こうしてかつて「東大を動物園にしろ!」と吐き捨てた三島由紀夫のみならず、我々もまた東大を“人間性障害者収容施設”だと、真剣に思わざるを得なくなったのだ。)

しかしてそんな彼らにも個々それぞれの人生が在る以上、彼らが集団的防衛機能により、どれだけ形式主義的因果・方法論に擬制的有能性を賦与し続けようが、
実際にはその社会生活において常に自分の認知・分析能力を超える事態に遭遇し続けるために、何かにつけて失敗を余儀なくされるようになる。
例えば何らかの小さな転機(入学/就職/別離/事故/流行や風潮の変遷/配置転換/新しい状況・人間関係の発生等。)は日常茶飯事である。例えば仲の良い兄弟が親の死に際して遺産分割で争う/友達同士が同じ異性に対して
関心をもつなどの状況に際しては、認知的攻撃・闘争性に基づいたところの、できうる限り自然の摂理(すなわち普遍的動物属性・人間本性/
人格・文化的属性・行動パターン/損得勘定等。)に対して整合的な方法論を適宜、案出し実践できるのでなければ、自己保存に能わないであろう。
しかしてトートロジカル専制下の“ヌカ漬け”たるC型人間トートロジストたちは、自らが排斥したところのA型人間の人間性に導かれることは、もう有り得ないわけだから、極めて常識的な方法、すなわち己の行動を尽く支配的観念たる虚構性観念が規定するイデオロギー/
(つづく)
294:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:10:16 ID:???
19 of 44 (つづき)

スローガン/倫理観/慰み言葉等のみに拠らせたような、残念な対応しか為せない。

さてトートロジストらのこうした滑稽極まりない失敗の数々の中でも、とりわけ興味深いものが、既に世俗的な成功を手に入れた者、あるいは親が資産家などの場合のように、生まれた時点で既に成功しているも同然のような者に係るところの
無様な転落や騒動の類であり、こうした事象の背景には概ね、「ボヴァリー夫人」(フローベール1856)的存在拘束性が在ると見て良いだろう。
すなわち人は安定し、そこそこ豊かな生活を享受していると、緊張・逼迫感/闘争性が萎えた澱んだ認知的処理の連続にハマりがちとなり、退屈だとかつまらないだとか、あるいは富裕者は貧乏人に奉仕しなければならないだのといった
自己否定的思想等にパラノイア的に取り付かれ易くなるのである。

こうした現象は、人類のデフォールトたる感情系習慣的自動思考様式(これは元来、野生動物の厳しい存在拘束性において最適化されたシステム。)における、不快さ/満たされなさばかりが強く感じられて、なかなか忘れられない一方で、
満ち足り/心地良さ等の価値にはほとんど頓着しないが如きの、システム仕様上のバイアスに起因している(※注)。
もってこうした認知的歪みを解消するには、折に触れて幸福を実感するための(すなわち脳内麻薬様物質を放出するための、例えば日々の糧に感謝する宗教イデオロギー的な)自意識をもたらすバイパス・チャンクの創造等が効果的である。
(※注 例えば日本人は、広島や長崎の原爆被害については毎年飽きもせずに、慰霊式典をメディアが中継したり、わざわざ甲子園の高校球児/観客が一斉に黙祷したりもするが、その一方では平和・民主憲法の最たるものであるところの
日本国憲法発布の記念日には誰一人見向きもせず、敬虔な気持ちになろうとさえもしない。・・このようなことはつとに、感情系習慣的自動思考様式のシステム上のバイアスに因ると見做せるのであり、とどのつまりはこれこそが、
前述の弱者(凡庸者)志向・強者嫌悪的バイアスを持つところの戦後リベラル思想に戦後日本のA型人間までもが洗脳されてしまったことの根源的理由である。)

そして“極善人”(第九回 参照)的存在拘束性の陥穽に嵌るという滑稽さも挙げておく必要がある。すなわち「他者を大切に。他者に奉仕しなければならない。」的な
(つづく)
295:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:11:11 ID:???
20 of 44 (つづき)

“善行”を促す強迫観念であるところの、いわゆる“自意識内の専制君主”たる「超自我」(精神分析学用語)が、人をしてむしろ実際には悪行を習慣化させてしまうのである。
具体的には、超自我に支配された者が或る特定の善性のみに執着し続ける、つまりメタ認知系諸能力が雁字搦(がんじがら)めにされ、その他の善性要素には全く配慮できなくなる自意識状態をもたらす。
例えば祖父母等が初孫とかの可愛さを感じること等と相まり、執拗に物品を買い与え続けたりする(※注)といったような。
(※注 終いには相手から骨の髄まで舐めきられ(「私を甘やかしてダメな人間にしないでくれ!」的な)攻撃性さえも引き出しかねない。)

とどのつまり極善人属性とは、「或る一事を徹底的に善く為せば、それで万事が済むと思う」ところの「トートロジー性精神障害」とでも呼ぶべきものである。
すなわち人をして「真面目に労働すれば、それで良い/人々に優しく思いやり深く接すれば、それで良い/家族や家庭を大切にすれば、それで良いetc..」といった、言わば「一事が万事」性を特徴とする。
その上でこれは当人が病的に執着する一事以外の事柄全てについては、あからさまな無頓着さ/居直り等を当然の如くに伴うものであるために、
周囲の者/集団は中・長期的に、常識的には有り得ないような大きな被害/損害を被ることを避けられない(※注)。
(※注 例えば昨今の我が国において見られるところの、“ネトウヨvs.パヨク”対立のような極めて原理主義的な、すなわち永久に妥協/解決を見ることがない
不毛のイデオロギー闘争をもたらしたりして、社会の進歩/発展に係る芽を摘みまくるところの極めて有害なものだ。)

そしてこのような認知属性は例えば、長期的な情緒的安定性を求められるところの、育児/養育を担う性たる女性が先天的に持つ無謬性の擬制傾向(※注)と極めて親和性が高いので、特に女性は極善人的存在拘束性の陥穽に嵌らないようにするために、
(自らの女性らしい先天的認知属性を自己操作・管理しようとするのでなく)認知的に優れた男性に巡り合うことで、明確な性的分業を伴う生活を為す必要がある。
(つづく)
296:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:12:02 ID:???
21of 44 (つづき)

(※注 人の乳幼児の養育者は、乳幼児らにとって明快な無謬性を保持している必要がある。何故なら本音/建前の使い分けとか、何かの駆け引きを強いられるような存在拘束性は乳幼児の認知能を超えるから。)

というわけでトートロジカル専制下での果てることがない失敗/転落の数々は、今日は戦いに偶々勝っても明日は敗れ去っていくしかないという“ジェット・コースター”的浮き沈みを
(トートロジストばかりではなくA型人間をも渦中に巻き込んで)もたらし、もって歴然とした衰退傾向が全社会的に顕現してくる。すなわち命令/服従の連鎖構造の存在目的たる社会集団的生産能が大きく毀損されるのだ。
こうなると転落者の一部は己の無能/不始末の勘定を、形振り構わずに他者に支払わせて決済しようとするところの邪道者として湧き上がってくる・・これが世の慣(なら)いだ。
すなわち尤もらしいスローガン/誘い言葉/ブロパガンダを即効で信じ込む阿呆そのもののトートロジスト共が喘ぎ始めてるのだから、誰かを食い物にしない限り、
生きられない大量の魑魅魍魎(第八回 参照)が、起死回生のチャンスとばかりにこの状況に群がってくるのは当然だ。
 
ところでこれら邪道者共は、揃いも揃って皆、「巧妙な擬態者」である。というのも擬態は上述したような人生航路上の諸闘争において、最もありふれ、
かつコスパ的にも最も優れた戦術だからであり、とどのつまり擬態を全く為さない者は居ない。
とりわけ人間界の大勢たるC型人間凡庸者とは、認知の論理性を持たず、単純素朴・無謬的信憑性のために事象の皮相しか見えていない人々だから、人の振舞い/言動に外観的美しさだけを求める傾向を持ち、ことの成り行きがこれに沿うならば単純に満足する。
すなわちC型人間は人々の本音/本性の美しさではなく、建前/見かけのそれのみを感情系習慣的自動思考様式的に求めるのであり、これがゆえに彼らは常に他者に対して美しい擬態を見せるという営為に駆り立てられ、
更に己自身においては(他者の擬態の)見せかけだけの美しさに騙されることに愉悦する、という訳の分からない存在拘束性を持つ。

というわけでC型人間同士にとっては擬態は、生活文化に根付いた行為に成っているがゆえに、魑魅魍魎らが同類のC型人間を騙そうとする際にも、擬態をもってすることが最も自然である。
(つづく)
297:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:12:58 ID:???
22 of 44 (つづき)

例えばマルクス(「フランスの内乱」 1871)が言うところの、「唯の口舌の徒であって、長年にわたり時の政府に対抗して同じ紋切り型の宣言を繰り返している」ような連中とは、正にこうした幾らでもカモり放題のC型人間に対する
擬態行動のみに執着して止まない魑魅魍魎の一類型であるところのC型秀才トートロジストである。

彼らは言うなれば、そのC型人間としての処世に係る不都合/不始末の勘定/決済を、善性(人間性)の発露により成すことを期するのでなく、これまたマルクス風に言うならば、「その存続を破滅から救わんがために(中略)
歴史の車輪を逆に回そうとする(オレ注 ; 反人間性としての反進歩・発展性。)(中略)ルンペン・プロレタリアート」(「共産党宣言」)なのである。
具体的には(C型秀才トートロジストは大衆よりは遥かに利口であるために)、例えば共和制国家の議会において他の議員を本気で批判することで確執が生起して、別の機会に意趣返しされたりするようなリスクを冒すよりも、主権者である
国民大衆に対してこそ、議員同士が対立し合ってるフリだけして見せるところの安全で効率的な“政治劇”興行、あるいは第十五回で述べた“チンプンカンプンなオレは凄い”詐欺のような擬態的偽計を為すことを慣いとする。

一方このような確信犯的な擬態とは一線を画したところの寄生的自己保存、すなわち日々の生活的営為の中での擬態を常としているタイプの魑魅魍魎も、またこの時期には目に付き始める。
これすなわち「サイコパス(※注)」と呼ばれる人々であり、オレ個人の感じとしては人類集団の4-5%はこれである。以下に詳説する。
(※注 尚、読者は彼らの基本的属性を、例えば別冊日経サイエンス「心の迷宮」などから知れる。)

彼らもまたC型秀才トートロジスト同様に擬態を専らとする者共なのだが、C型秀才トートロジストが主として明瞭な自意識/計画性に基づくような後天性擬態能を持つのに対して、サイコパスの場合は先天性の赴くに任せたところの、
当人的には無意識化した擬態を為す者たちである。だから彼らは階層社会の衰退期とかに限らず常に活動している。
その上でC型秀才トートロジストは人間性範疇の内の、主として進歩・発展性に反するのに対して、サイコパスは主として連帯性に反する。
(つづく)
298:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:13:41 ID:???
23 of 44 (つづき)

これは現生人類祖先(C型人間)が生活基盤を形成するために、(第十四回で述べたように)苦しんでいる者を救援し、相互に扶助し合う連帯性を培うという自己保存戦略を選択したことに所以している。
すなわちこの連帯性戦略を逆手にとって食い物にする寄生者たちが、当然の如く登場するのが自然の理だ。
というわけでサイコパスは人間類型の発生モデル的には、指導者・特権者階層家系者がA型人間属性を獲得していく途上で優れた擬態能を涵養する必要に迫られる過程において、“正道”からはずれていった人々であり、言わばA型人間に成りきれなかった
“A型人間もどき”とでも呼ぶべきボーダーライン上のC型人間、具体的には自らの外観を情愛に溢れ、かつ理知的な好人物に見せかけるための能力を遺伝的に継承するところの“(日常生活の中の)天才アクター”だ。

例えば人工雪の研究などで知られるところの中谷宇吉郎(東大-北大)において、このサイコパス性を実に良く看取し得る。
杉山滋郎「中谷宇吉郎」(2015)によれば、彼は一浪して四高に合格できる程度の “平均よりちょっと上”の知能(サイコパス的である。)を持ち、その上で既に高校時代の有様において、
志的な目標とか生き甲斐などを持てないメンタリティ(サイコパスの主属性としての“空っぽな心”)が如実に看取できる。

すなわち三年時には生物学系を選択し“生物学と哲学の境”を究めようなどと思っておきながら、半年も過ぎるならば、もう理論物理学に夢中になっていたのであり、
結局は図書館から借りてきた教科書で二週間の速成の丸暗記(サイコパスらしい皮相性の顕現。)で東大理学部に滑り込んだ。
そして東大においても「新入生が皆、お互いに遠慮し合っている中で中谷君は一番早く誰とでも懇意になれ、それが同級生全体を打ち解けさせることとなり、何よりも人懐こい微笑と理知的な目が印象的で、
頭は良いし話は上手く人に接する時の明るさが、いつか中谷君を級の中心人物にした。」(同級生評から引用的要約。)という、言わば“サイコパスの教科書”的な擬態振りを披露している。

その上で彼にはサイコパス性にしばしば付帯する人格属性としてのADHDっぽさがあり、例えば遊興/娯楽なんかについても目に付いた順に手当たり次第に入れ込んでは、
(つづく)
299:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:15:07 ID:???
24 of 44 (つづき)

(事物の本質に対して何の思い入れもないというサイコパス性のために)次の瞬間には異なる対象に目移りし続ける。
こうして彼は最初に取り組んだ人工雪以来、同一の研究・探求活動に全身全霊を賭けて打ち込むということは唯の一度もなく、学究の合間には常に文化人さながらの活動に精を出した。
すなわち彼は生涯を通じて、(人々に常に注目されるという浅薄なサイコパス的自己被承認欲求を満たすための)目まぐるしく、刹那的な転向を繰り返し続けた(※注)。
(※注 電気火花実験だの日食観測だのと並行して進めていた人工雪の製造実験に成功(1936)した約半年後には、これを天覧に供する企画にネジ込み、この大役を終えた直後に即行で研究をたたんでいる。
そしてお次は量子物理学系の執筆、更に翌年(1937)には積雪調査などの畑違いの社会科学に首を突っ込み、翌々年(1938)には岩波書店から随筆集を出版し、更に東宝とタイアップして雪の文化映画の製作にも乗り出すなど、
自分の名前の売り込みに貪欲に没頭し座布団が温まる暇もなかった。なかでも言論活動と映画製作は、中谷の生涯の売名の種であり続けた。(しかもこれらは全て本業であるところの、国民の金をもって禄を食む国立大学教官を続けながらの活動である。)
ともかくこんな調子での活動ぶりが、潜水艇だの絵画だのといったその場限りの気まぐれ道楽を伴いつつ生涯、続いた。)

さてこのようなサイコパス特有の擬態生活能は、人類史的長期間に及ぶ取捨選別を経つつ、彼らの遺伝子に刻まれてきたものであるからして、常人には見抜くことが不可能な自然さを伴うレベルにまで洗練されている。
もって通常人においては例え何十年も同居している家族であったとしても、彼らの擬態性を認知できないのが普通だろう。
すなわち彼らの家族らにおいては折に触れて情愛が尽く踏みにじられ、善意が全く通じないことへの不思議さ・やるせなさ/普通の人々の言葉では、なかなか表現しにくいところの違和感・満たされなさ(とりわけ家族・近親者の一大事・死去等に際して
見せるところの無反応・無関心さ等への驚き)等を経験しつつ、訳も分からずに苦しみ続けるのみ・・というところが大方の実情だろう(※注)。
(※注 機能不全家庭の内の一定割合は、少なくとも両親の一方がサイコパスなのではないかと思われる。)
(つづく)
300:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:15:54 ID:???
25 of 44 (つづき)

その上で留意すべきはサイコパスは、その“神業的擬態”能を支えるための平均以上の知能のみならず、言わば“鋼のメンテリティ(※注1)”とでも呼ぶべき、通常人では有り得ない強靭な精神力を持つ点だ。
これすなわち第十一回で述べた、リジリアンス(回復・復元力)と呼ばれるところの「重度の深刻さを伴う危機的状況においてさえ尚、心の平静さを保つ能力」であり、この特殊な「平穏性の維持・回復能」ゆえに、
彼らは往々にして通常人が怖気づくほどのリスクを伴う行為を遂行しえた“英雄”(※注2)になってしまう。
(※注1 この“鋼”の強度には個人差があり、比較的弱めの者から、それこそ如何なる孤立的状況においてもビクともしない強者までの幅がある。)
(※注2 もちろん最終目的においては人々に寄生せんがためのものでしかなく、こうした英雄的行為においてこそサイコパスの真骨頂が示されると言える。)

ちなみに我々としては、彼らのこの“英雄的善行”傾向との共生を模索することができるであろう。
但しそれには、サイコパスの反連帯性(空っぽな心)に対応した日常的関わり方の開発(例えば動物的な喜怒哀楽の感情を持つという根本は我々と同じなので、“サルを煽てて木に登らせる”が如き、心理報酬術などの開発。)が、伴わなければならない。

ではひとまずまとめる。この人間性衰退期にごく自然的に活性化、あるいは目立ってくるところの、擬態を専らにする人々であるC型秀才トートロジスト/サイコパスらを、社会集団的生産能の基体たる人間性(連帯・進歩・発展性)
という観念そのものを否定し唾を吐きかけた上で、これを貪欲に食い物にするところの『根源的悪性擬態者』(※注)として定義する。
その上で根源的悪性擬態者による詐欺・寄生ビジネスとは、前述した理由から人類が最初に階層社会を形成した直後には発生していたと思われ、もってオレたち誰もにとって極めて馴染み深いものである。
(※注 彼らは根本的に人間を信用できない人種。彼らは常に人間性を恐れ警戒し、かつ無意識裡にはこれを軽蔑/嘲笑もしつつ、平気の素振りで人間の目を欺いたり、カモったりすることに生き甲斐/達成観を見出すところの、根本的な反人間性の保持者。)

だからこれら擬態的詐欺ビジネスは、古代から文学作品のテーマになるほどの興味深さを持つものとして、様々な観点から叙述されてきた。
(つづく)
301:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:17:20 ID:???
26 of 44 (つづき)

例えば古くはユウェナリスやホラティウスの「風刺詩」がそうであるし、またプラトン「国家」(B.C.370頃)では次のようである。
「(正しい人は)鞭打たれ拷問にかけられ投獄され両目を焼かれ、ついにはありとあらゆる酷い目に合って磔にされ、そして正しくあることではなくて、そう思われることを望まなければならないということを知るに至るだろう。」(第二巻)と。
また現代のトーマス・マン「詐欺師フェリクス・クルルの告白」(1922)は、「この見るも無残な人間が、未だに数多の欺かれた眼が彼らの秘かに夢見る美と軽妙と完全とを目の当たりに実現していると信じている、あの至福の蝶の真の姿なのか。
(中略)あのようにいそいそと、それどころか貪婪(どんらん)に、自ら求めてこの男に欺かれた大人たち、世間一般の人に劣らず世故に通じている人々が、欺かれているとは知らなかったのか。それとも口には出さないがそんなことは百も承知で、
欺瞞を欺瞞と見做さなかったのか。」などと叙述している。

というわけで根源的悪性の力動に係り運動する命令/服従の連鎖構造は、終いには根源的悪性に翻弄され苦悶し切ってしまうところの『命令/服従の連鎖構造のゆらぎのカオス』(以下、『ゆらぎのカオス』と略記する。)にまで行き着く。
当該状態においては凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向がもたらす極致的事象としてのパーティ会場の法則(第八回 参照)のせいで、命令/服従の連鎖構造の存続自体が揺らいでいる。
すなわちここにおいては、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向がもたらしたゆらぎの増大傾向と進歩・発展性の消滅とトートロジー性の増大傾向(漸次的な「微小なゆらぎ→極大化したゆらぎ」(※注)傾向)が、全くもって何物にも遮られずに、
ついに人間性を排除し切った末の混沌、あらゆる権威の力動が擬制的有能性/真っ当な主従関係決定力を失うところの、社会集団的生産能の破綻寸前状態にまで至っている。
(※注 これの一例としては、火がついているタバコの先端から立ち上る煙は、或る時系列ポイントまでは、規則的な直進運動を続けるのだが、やがて当該運動に微小ゆらぎが発生する時が到来するならば、その後はゆらぎは指数関数的に、
著しく大きなゆらぎの発生原因となり続けていくような「ゆらぎの程度の大亢進過程」に入る。
(つづく)
302:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:18:27 ID:???
27 of 44 (つづき)

この結果、当初の微小ゆらぎが超巨大ゆらぎに変じ、もって煙の運動はカオスと化すことが挙げられる。)

『ミクロ的専制支配下に入って以降の命令/服従の連鎖構造においては、実体性の漸次的消滅と虚構性の飽くなき増進が、形式主義的因果・方法論の同義反復の強要、根源的悪性擬態者の活性化をもたらして、ゆらぎのカオスに行き着き、
もって階層社会の社会集団的生産能は決定的に劣化する。』(『観念運動の自然法の第八定理の三(ゆらぎのカオス定理)』)

例えばいわゆる「ルネサンス教皇」(※注1)時代などは、このゆらぎのカオス事象の典型である。すなわち14世紀末に起こったシスマ(カトリック教会の大分裂)以来、ローマ教会の威信失墜が最早、決定的になったことに伴って、
15世紀の西欧宗教界は、完全に“ヤル気”を失った衰退期に入り、もって根源的悪性の力動が宗教界をとことんまで堕落させるに至った。
すなわち大量の浮浪者の発生等を伴いつつ(※注2)、ローマ教会は権力の私物化/謀略・戦争/戒律無視(性交/利殖/贖宥(しょくゆう)状販売(※注3)/聖職売買など)/浪費・奢侈・偽計等に明け暮れたのであり、
とりわけ“お膝元”のイタリア半島は全体が、専制と暴君/ならず者/暗殺者等が跳梁跋扈する地と化した。
(※注1 世俗化/堕落した教皇としては、インノケンティウス8世/アレクサンデル6世/シクストゥス4世などが代表的。)
(※注2 マルクス「ドイツ・イデオロギー」によれば、封建的家臣団、傭兵軍団の解体/農耕の改良/農地の牧草地への転化等が原因であり、その上で例えばヘンリー八世は7万以上の浮浪者を処刑した、と述べられている。)
(※注3 11世紀の南仏で興り、全欧に普及したところの主として教会建設のための資金調達システムである。その上でこれは、教会が積み立てている"善徳"を教会への寄付によって取得さえすれば、
当人は何もしなくても己の罪を贖えるとする論理による。例えば40日分の贖宥状を購入すれば、40日間は祈祷/喜捨/苦行等を免除される。)

人々は労働し生産し続けるために人間性を必要とする。その上で当該事象とは、人間性に係る適宜・経済性としての実体性が、増殖し続ける虚構性により破壊され切り、
(つづく)
303:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:19:49 ID:???
28 of 44 (つづき)

根源的悪性の大氾濫としてのゆらぎのカオスにまで至ったところの、虚構性/実体性系観念運動の極致的特異点である。
そして世間に良く揉まれた根源的悪性擬態者らは、虚構性/実体性系観念運動的機序に係る認識を経験的に得ていて、もって社会が衰退期(トートロジカル専制期)に至ればこの期に乗じて、
「(根源的悪性擬態は将来的に)十分勝算有り」と見込んで強気に大風呂敷を広げた勝負を挑んでくるというわけだ。
その上でカモられた人々は、己の確たる基盤的固定観念/宗教の教義の無意味さを徹底的に思い知らされることのショック/鬱憤/憤懣/気づかれ等が致命傷と成って、健全なメンタリティを失った“キチガイ”(キチガイ・鬼畜性・・第九回 参照)に成っていく。
そしてこのキチガイたちはすかさず、根源的悪性擬態者の後追いを為すところの“鬼畜”へと変態していく。

というわけで所詮、人類が向き合わなければならなかった問題とは特定の体制や社会構造、表向きの権力者の行状等々の問題などではなかった事が、これではっきりした。
何故なら人々がどのような社会体制を構築し得たところで、階層社会の命令/服従の連鎖構造には凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向が顕現してこざるを得ず、
どんどん実体性観念が社会から消滅し続け、ついには階層社会はその存続自体の危機に瀕するしかないからだ。
とどのつまりC型人間とは、外界(他者/社会)との密接な連携能としての、(自己防衛のための)連帯性にのみ自己保存のための縁(よすが)を求めるのだから、もう一つの人間性属性であるところの進歩・発展性を担うことに所以する
真・美・善性を持つがゆえに孤高な人々であるA型人間、更にはA型的狭隘さをメタ認知系諸能力により克服し明確な主体性/個性を持つまでに至った人々である優秀者とは所詮は、真っ向からぶつかり合うしかない。
もってこれはもう一次的連帯性を伴う階層社会(第十六回 参照)が、宿命的に抱えるところの根幹的問題であることが分かる。更には

『命令/服従の連鎖構造においては、虚構性/実体性系観念運動は止むことを知らない。
もって例えば「●●のような体制を構築するならば理想社会を、あるいは人々が◎◎のように振る舞えば永久(とわ)の平和を現出させられる。」的な、
(つづく)
304:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:20:36 ID:???
29 of 44 (つづき)

あたかも何某(なにがし)かの固定した静的な秩序を人間界に現出させうるが如きのあらゆる認識/イメージは、妄想でしかない。』(『観念運動の自然法の第一定理(虚構性/実体性系観念運動定理)』)

こともまた、良く分かるのである。しかしてここではこの問題をこれ以上、掘り下げることはしない。ここでは先に進む。すなわち人々がキチガイ・鬼畜性を顕現させた後の諸力動運動の様相/機序を、更に追い続ける。

根源的悪性の力動に係る諸力動運動により人々のキチガイ・鬼畜性が相当のレベルにまで達するならば、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向の根幹的原因であるところのC型人間の、お手軽に喝采を浴びて英雄になりたいなどとする皮相的な
名誉願望/虚構性の源泉としての考え悩み自律できない幼児的依存性/ミクロ的専制支配の三非合理性、等々・・との戦いを余儀なくされる段階に至る。これすなわち「C型人間的悪性そのものとの戦い」をクローズ・アップすることを余儀なくされる段階である。

すなわちゆらぎのカオス(根源的悪性の大氾濫)状態に引き続くキチガイ・鬼畜性の顕現段階は、人々がそれにより死ぬほどの苦痛を感じないでいる間までしか持続しえず、
C型人間的悪性がもたらすものが人々が平静さを保って居られる閾値を超えてくるならば、自ずと階層社会は根幹的大闘争段階に移行する。
ではこれの典型的事例を挙げる。それは20世紀後半にファイン・アート(モダニスム・アート)に対して仕掛けられたところの大闘争事象。以下に叙述する。

1900-1920年代には、歪んだ自己被承認欲求が相当のレベルにまで達した観があるところの多くのC型人間芸術家集団による「イスム(…主義)宣言」(フュチャリスム(未来派)宣言/ダダイスム宣言/シュルレアリスム宣言等。)の嵐の時代が到来した。
ここにおいてはフォービスム/サンボリスム(象徴主義)/キュビスム/エクスプレッショニスム(表現主義)/シュルレアリスムなど無数の「○○イスム」がトートロジカルに、かつ無節操に怒涛の如く登場してきた。
すなわちこれらは写真/映画/レコードの発明によって自己保存そのものを脅かされ始めていたトートロジスト/根源的悪性擬態者の群れの“最期の足掻(あが)き”としてのキチガイ・鬼畜性の顕現であり、
(つづく)
305:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:21:13 ID:???
30 of 44 (つづき)

具体的には観衆を驚かせたりギョッとさせるためだけの(展覧会/イベント/機関紙の定期発行などを通じたところの)組織計画的ムーヴメント、「モダニスム・アート・プロパガンダの大爆発」事象である。

しかして両世界大戦の終結による暇つぶし文明期(第七回 参照)の存在拘束性は、伝統破壊的・前衛的である事自体が実は、限りなく予定調和的であり、自己目的化してしまったところの、益々生活感覚から乖離していくモダニスム・アートの欺瞞性を放置しなかった。
すなわちモダニスム・アートが伴うところの、無知蒙昧で自己管理不能なイデオロギー性/自他をメタ認知できないことに所以する頭の悪いトートロジー性の亢進が、人々に死ぬほどの嫌悪感を感じさせ、人々が許容しうる閾値を超え、
大衆文化(ハリウッド映画/ジャズ/ポピュラー音楽など)をこそ文化の王道に担ぎ上げるための歴史的大闘争の火蓋が、ついに切って落とされるのである。

とどのつまり認知の場においてC型人間凡庸者が行き着くものとしてのキチガイ・鬼畜性とは、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向が虚構性観念を際限なく積み上げ続けさせることに所以している。
その上でその果てに顕現するものとしての大闘争とは、社会の実働隊たるC型ロボット型人間のかなりの部分が、このような(虚構性の中に際限なく嵌り込んでゆくところの)己自身の意識/態度自体に、ついに自己否定的に成らざるを得なくなる、
すなわち経年のC型人間的悪性を肯定するための擬態を為す元気すら、もう残っていない極限的状況においてこそ顕現する。

何となればこの手の(大衆文化の大攻勢、つまり支配的観念のパラダイム転換を目指す等の)闘争が成立するためには、C型人間が自己否定的行動を認容することを余儀なくされることをもって、ゆらぎの増大傾向が鈍ってくるという契機(※注1)こそが肝要だから、
つまりA型人間/優秀者たちが当該契機を見逃さずに巨大な闘争行動を仕掛けるという適宜・経済(実体)性が必要だからである。
すなわち凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向の影響をモロに受け続けてきたところの最大被害者たるA型人間優秀者が、起死回生の好機を見い出せれば、闘争が開始されるのである。
(つづく)
306:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:21:49 ID:???
31 of 44 (つづき)

言うなればこれはA・C型人間定理(第十四回 参照)に則るところの「C型人間凡庸者とA型人間優秀者のガチ対決」であり、『凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向打破のための擬似ハルマゲドンの戦い』(※注2)
(以下、『擬似ハルマゲドンの戦い』と略記する。)とでも呼ぶべきものだ。
(※注1 こうした契機ではないところの好き勝手な時期に挑戦者側がヘゲモニーの奪還を画策したところで、瞬殺されるのみ。
例えば僅か2年余りで崩壊した「建武の新政」のように、またあるいは上念司「経済で読み解く日本史⑤」が指摘するところの、第一次大戦後、主要国が悪しきデフレ基調経済の根源たる金本位制に次々と復帰していく中、
我が国も金本位制に復帰していくという(国際社会の)トートロジカル専制基調の全盛期においては、高橋是清の孤軍奮闘は、全くもって何の反抗力動の発動の契機たり得ようもなかったように。)
(※注 2この命名は「善と悪との最終戦争」であることにちなんでいて、第八回 8 of 11で言及したところの“善神/悪神の闘い”に相当するところの、C型人間悪性とA型人間的善性との戦い。)

ちなみに一口にA型人間優秀者と言っても、彼らは下層から上がる始原A型人間由来のものと上層から下る既存A型人間由来の二種に分別でき、両者は共に中産階層において混合し活性化する。
もちろん中産階層とは、「三階層社会」(第十六回 参照)内の階層の一つであり、これは社会集団的生産の中枢として人間界の諸知性が統合/実践/検証される場、
かつその際に求められるところの人格系メタ認知的論理思考様式のための思考統御・監督系諸機能(人格的諸能力)が大いに涵養される場でもある。

例えば前述のルネサンス教皇時代(ゆらぎのカオス)を西洋社会が見た後の16世紀においては、かつての擬似ハルマゲドンの戦いであるところのプロテスタントへの改宗という闘争に当事者として踏み出しえた者共は、
手工業の親方とかヨーマンといった中産階層の人々においてこそ最も多かった(※注1)。
(※注1 「政教分離」概念がない当時においてカトリックの信仰を捨てるということは、生半可な覚悟(すなわち人格的能力)ではできないことである。
(つづく)
307:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:24:26 ID:???
32 of 44 (つづき)

何故なら市民権を始めとする公民/職業人としての諸権利は、カトリック信者であることを前提とした同職組合を始めとするところの、ゲルマン民族起源の集団的自衛・親睦・相互扶助コミュニティ(※注2)の成員であることに基づいているからだ。)
(※注2 親方組合(ギルド/ツンフト/メティエ等。)/職人組合(兄弟団/コレギア等。)/姉妹団/娼婦宿/ベギン会/フミリアティ(イタリア)など。これらは社会的には異端視される傾向を持つものまでも含めて、一般的には社会的権勢・地位が低いほど宗教性が強くなる。
とりわけ「ヒュッテ」と呼ばれる各組合の下に整然とした(カトリック教会組織を模した)ヒエラルキー構造の組織体を形成したところの石工のコミュニティは、地縁性が薄い大規模な全国的組織であったために、市井の人々にもその存在が良く知られ、
歴史の展開につれて同職組合の範疇を超えたところの、階層の形成と破壊に係る大きな役割を担うものの始原物になっていく。)

そして実質的にこの戦いに火をつけたのは、ウィクリフ/フスに続いて登場した、知性のみならず意志力/攻撃性などの強靭な人格的能力を兼ね備えたA型人間優秀者のマルチン・ルターである。
すなわちレオ10世がドイツで贖宥状販売を始めたことで、ルターは当時、発明されて間もない活版印刷術をフルに活用して「95箇条」をドイツ語に翻訳した上で流布させ、自らも直接、民衆に説教するなどしてこれを大きな社会問題化した上で
当時は一般人とは全く無縁の、言わば"準機密文書"だった聖書(※注1)という書物を、なんと市井の人々の日常言語であるドイツ語に翻訳した上でばらまいた。(しかもこれは逐語訳でなく、読み手である民衆でも理解できるように適宜、意訳されたものである。)
こうしてキリスト教の教義の枢要を歴史上初めて民衆に理解させることで、人々の懐疑/関心を呼び覚まし、圧倒的な支持を取り付けたルター派は、カトリックの敵対勢力(福音主義キリスト教・・プロテスタント)となって、宗教改革運動を勃興させた(※注2)。
そしてルターが立ち上がった直後にはツヴィングリが、更にカルヴァンが後に続いたことで、ついに中産階層を中心にしたプロテスタント諸派が萌芽する。
(つづく)
308:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:26:17 ID:???
33 of 44 (つづき)

(※注1 当時は大学の学生でも修道士でもない、唯の一般人には一生涯、聖書を直接、目にする機会などなく、その上で教会においてラテン語で儀式的に朗読されるのみの聖書の文言の意味などは、一般人にとっては全く理解の埒外であった。)
(※注2 当時はマスメディアの黎明期であり、印刷事業者が出版者機能も兼ねており、指導者・特権者階層によるメディア干渉・支配などはまだなかった。だからメディアは深く考えることもせずに売れそうなものなら何でも手当たり次第に出版しただけであって、
すなわちルターの行動に大儲けの好機を嗅ぎつけた印刷業者らは、ルターが生涯に執筆した500本以上の論文/パンフレット等をキチガイのように出版しまくり、巷にばら撒きまくっていった。こうしてルターに係る出版物は、当時のヨーロッパの全出版物の約半数を占めるほどの膨大な量に達した。
またルターは、出版・民衆への説諭活動と並行して人々の行動様式を変えさせることに係る破壊と創造の一環として、宗教的ルーチンの改革にも着手した。例えば教会聖歌隊が歌うグレゴリア聖歌とは全く異なる
「賛美歌」という新たな宗教歌曲様式を普及させたりした。(ルター自身が多くの賛美歌の作詞作曲を手がけた。)
というわけでルターという人物が天恵として賦与された人格的一途さ・強靭さ/リーダーシップ等が功を奏し、猪突猛進の勢いを得たせいで、運動開始後10年弱でドイツの北半分/デンマークの諸侯をプロテスタントに改宗させた(※注3)。)
(※注3 現在のチェコ/オーストリア/スイスの農村部/バイエルンに該当する南半分については、改革で勢いを得て政治的に急進化し(ルターのパトロンである)世俗的権力層に対する蜂起に至った農民層に対して、
ルターが鎮圧に動いたことが仇となり、プロテスタントは浸透できなかった。)

ではこの事例を細かく分析していこう。擬似ハルマゲドンの戦いにおいては、悪性を凌駕するための善性の涵養傾向、すなわち『命令/服従の連鎖構造の復興のための威厳の力動』(以下、『威厳の力動(※注)』と略記する。)を顕現させる必要がある。
その上で具体的には、「当時の西欧の中産階層の人々の生活において、仕事を終えた一家の主婦が窓辺に椅子を置いて静かに読書するとか、仕事の後の一時を親子が揃って楽しむとかといった、
(つづく)
309:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:27:10 ID:???
34 of 44 (つづき)

極めて平凡な中に彼らが守りぬくべき“生活の基準”とでも呼ぶべきものが確立していた。つまり中流家庭は外の世界、例えば上流層の贅沢三昧の王侯貴族的生活等に対する心の砦であり、その内部では清潔/清純/質素な空気が流れていた。」
(増田四郎「都市」(1952)から引用的要約。)、すなわち中産階層的善性を基礎とするところの威厳の力動が形成されていた。
(※注 威厳の力動とは、既述のように命令/服従の連鎖構造の三つの基本力動の一つである。)

『威厳』とは、自然の理(真理)を知ることの驚き/喜びのみが人々の自意識にもたらしうる敬虔さ、そしてこれが人間性を発現/維持/増進しようとする基盤的意思・態度に係る人格的能力としての善性の源泉たりうるところの
個々の心理的無形財をもたらすものの総体である。その上で具体的な威厳の力動の形成機序とは以下のようである。
人が虚構性観念に疲弊し切った時、最早、それらを確たる基盤的固定観念として保ち難くなり合理主義的因果・方法論を渇望するようになるのだが、この存在拘束性下において当該者に真理(合理主義的因果・方法論の礎)が提示されるならば、
それが彼の感情系習慣的自動思考において人間性の個々の構成要素としての優しさ/思いやり/慰み/安寧/(真理に対する)敬虔さ/(真理を知り尽くせないことに対する)謙虚さ/(真理を求めて止まない)意欲等の諸感情・欲求を産出する。
その上で(外部から彼に対して提示された)合理主義的因果・方法論が、彼の自意識において肯定的に承認されることができたならば、彼の内に人間性を積極的に認知体系化せんとする意思/態度に係る人格的能力である善性の涵養傾向が発生する。
その上でここで示されたところの、善性を涵養する諸感情・欲求・認知等の心理的無形財をもたらす諸力を総称してオレは威厳と呼んでいるのである。
そしてこの個人の自意識に作用しえた威厳は最終的には善性の涵養傾向を社会レベルで継続させるものとしての威厳の力動を発動させるところの始原物となる。

例えば当該事例においてはカトリック教団が規定した従前からのロボット型人間的善性イデオロギー体系(※注1)に従うのでなく、A型人間優秀者のルターにより提示されたドイツ語訳の聖書(真理)を、
(つづく)
310:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:27:51 ID:???
35 of 44 (つづき)

大勢の中産階層の人々が相互に交通しつつ、各人が自意識の中で主体的に“神の掟/戒律”(※注2)として超自我設定するところの、新規の道徳・倫理・義務的観念系行動文化(第十三回 参照)の構築を促される威厳の力動が漸次、醸成されてゆく。
こうして社会の一角で、聖書の内容に触発された先覚的集団がプロテスタント諸派の信仰理念・集団を形成していく様相を観て取れるのである。
(※注1 例えばニュルンベルクの1510年の市民の告白提要では、「人の心の中には九つの衝動が在り、そこから神を喜ばせる善行/罪に汚れた悪行が生じる。だから神を喜ばせることこそを生きることの大目的として設定し、
諸衝動を自己管理せよ。」(要旨)とされていて、これすなわち「人は教団が提示するところの神の命令に従うための方途を実践することによって“天国”に入れる。」という宗教の教義である。)
(※注2 例えばカルヴァン派は、「人の魂は弱く、自助努力をもって神の恩寵を新たに得るという道は、完全に閉ざされている。その上で誰が最後の審判で天国に入るか、地獄に落ちるかは予め定まっていて、この予定内容は神のみぞ知っている。」旨の、
現実の社会の様相をできうる限り客観的に観察した上での経験・実証主義的な運命論(※注3)を提示し、その上でこれが「人は“己こそは天国に入るべく予定された者だ。”という確信を何としても得たいであろうから、そうであるならば、
厳しい日々の生活規範を自律的に設定しつつ、真面目に労働し続けなければならない。何故ならば、これを生涯、実行し続けられたならば、“己は天国に入ることを予定されている。”ということを、
己の死に際において確実に知れるからである。」的な超自我を、各人の自意識に形成させたと考えられる。)
(※注3 当論的な先天的属性としての「A型人間/C型人間」概念にも通じているところの真実。すなわち人間社会には元々指導/教育の施しようがない者が多勢存在するということ。)

その上でこの段階ではまだ威厳の力動はミクロ的専制支配、具体的にはC型人間的悪性/反人間(根源的悪)性/虚構性の総体を弱められない。
(つづく)
311:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:28:46 ID:???
36 of 44 (つづき)

つまりアンチ社会集団的生産能型力動(虚構性を伴う権威/反抗/三非合理性/根源的悪性の力動。)は容易には打破し難い「慣性」を持っているということである。
そして「威厳の力動vs.アンチ社会集団的生産能型力動」のせめぎ合いに係る諸力動運動の中で、A型人間とその追従者らが生産し続ける威厳の力動が、社会全体での善性/人間性/実体性の総体量を増し続けていけるならば(※注)、
それがついにミクロ的専制支配を打破するところの『命令/服従の連鎖構造の復興のための権威の力動の健全化(命令の構成物の合理主義的方法論化)』(以下、『権威の力動の健全化』と略記する。)を達成する運びとなる。
(※注 威厳の力動の構成要素たる実体性観念は、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向により容易に虚構性観念に転化されかねず、もって威厳の力動を増進し続けるには、高度な論考能/戦略性が必要。
そしてこの緊迫感に満ちた闘争を続けられるのはA型人間優秀者に率いられた集団のみ。)

例えば(このプロテスタント勃興事象から)約1世紀後のエピクロス哲学を源泉とするところの「社会契約」論者であるトマス・ホッブズは、イギリスが非王政型の共和制国家となる(清教徒革命)に及んでその主著「リヴァイアサン」(1651)において、
権威の力動の健全化につながるところの実体性観念、人類史上初めての「神権に基づかない、人間中心観念に拠るところの統治体制(共和制)」、すなわち経験・実証主義的に人間/人間本性を直視したところの合理主義的因果・方法論(※注)の全貌を
提示したわけだが、実はこれを為すことは、とりわけ旧来(カトリック神学)的世界観の敬虔な擁護者を擬態するところの専制的既得権者(国王派)が居るために、容易な事ではなかった。
(※注 「リヴァイアサン」の主旨は、『善/悪や正義/不義は人の好き嫌い/情念で決まるのでなく、人間の生活規則/道徳として「自然の諸法」(もしくは「自然法」)により正しく与えらる。
その上で経験に基づいた論考(ホッブズ用語では「推理」)である帰納的思考(ホッブズ用語では「慎慮」)により見出されるところの自然法に則る信約を人々が集団で成して、「コモンウェルス」(= 「リヴァイアサン」)を形成せよ。』というもの。)
(つづく)
312:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:29:45 ID:???
37 of 44 (つづき)

すなわちホッブズはこのためにかなり手の込んだカラクリ(レトリック)を周到に練り上げた。彼は、「この神の自然の王国では何事を知るにも自然理性に拠る以外の、すなわち自然科学の諸原理からする以外、道はないと考えられるが、
それらは我々自身の本質も、また最小の生ける被造物の本質さえをも我々に教えないのと同じく、神の本質について我々に何事かを教えるどころではない。」(第三十一章)として、人智が到達可能な領域とは、
あくまでも理性をもって悟ることができるところの自然の諸法に係る領域までであり、これを超えるものであるところの大宇宙の因果性(神)(第十五回16 of 20 参照)自体が何から発するのかなどと考える事は、人間能力を超える神の冒涜であると前提した。
その上で、「“自然の諸法への(人間の)服従”こそが最大の神崇拝である」(第三十一章から要約)旨の苦心の跡がありありと窺えるところのレトリックを繰り出して、(国王派等の人々の神経を逆なでしないように)外観上は
神を恭しく神輿に担ぎ上げた上(※注)での、実質においては経験・実証主義的認知こそを最重視するところの支配的観念のパラダイム転換を画策した。
(※注 これに該当する原文は例えば次のようなもの。「人々がもしも自然理性の諸原理から神の諸属性を討論するならば、彼らは神の名誉を汚す」(第三十一章))

すなわち、「(聖書が)自然の諸法と違わぬ限り、それらは自然の理性を使用しうる全ての人が読むことができる神の法であり、権威を備えたものであることは疑いがない。
(その上で聖書の権威は)理性に一致する他の全ての道徳学説の権威と違うものではない。」(第三十三章)と、経験・実証主義的因果論こそを基準たる位置に据えて、これと合致する限りにおいて宗教の教義にも価値があること、
すなわち科学は宗教よりも高次の包括性を持つ観念体系であることを、人類史上、初めて(上手なレトリックでぼやかしつつ)宣示した(※注1)。
(※注1 「自然は運動によって作用するのであり、その進路や程度は線や図形の比率と属性についての知識なしには、知ることができない」(第四十六章)とし、「生命とは四肢の運動に他ならず、(中略)全ての“自動機械”は、
人工生命を持つと言ってならない道理があろうか。すなわち心臓は何かと言えば、それはゼンマイに他ならず、
(つづく)
313:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:30:41 ID:???
38 of 44 (つづき)

神経はそれだけの数の細い線、関節はそれだけの数の歯車に他ならないのであって、それらは神が意図し給うたような運動を全身に与えるものではないだろうか。」(「リヴァイアサン」序説)(※注2)と、
天晴れにも人間に係る事柄においても経験・実証主義的認知態度をもって臨むべきであると、ホッブズは宣示した。
ちなみにこれは同時代を生きたデカルトの主張の「己が真っ当な何をかを認知できることも全て”神”の恩寵/御蔭」とするが如きの神崇拝への頑強な呪縛(※注3)からの離脱を、ついに一人の人類が成したことを意味する。)
(※注2 デカルトによる元ネタは、「人体同様の見事な運動を自ら為しうる一つの機械があるとしても、それは臨機応変な対応が可能な能力としての理性/言語能力を持つところの本物の人間ではないことを見分けられる。
しかし猿か何か理性を持たない他の動物を模倣する機械を作るならば、それについては本物の動物と見分けることができない。」(「方法序説」第五部からの引用的要約)という、いわゆる「動物機械論」。
そしてこれが巷間において大いに物議を醸したこと(第十二回 参照)を受けての、ホッブズのデカルトへの援護的記述が、これなのである。)
(※注3 デカルトは「方法序説」(1637)第四部で次のように述べている。「私の存在よりも完全な存在の観念については、(中略)それを無から得るのは明らかに不可能だし、また私自身から得ることもできなかった。(中略)そうして残るところは、
その観念が私よりも真に完全な或る本性によって私の中に置かれた、ということだった。(中略)つまり一言で言えば神である本性だ。」)

そしてこのようにしてホッブズがデカルトを継承して西洋文化圏の人々に対して、経験・実証主義的な因果・方法論を提唱して見せた後は(確かに彼の業績は20世紀に至るまでは正当に評価された形跡はなく、
もって彼自身はロンドン王立協会への参加も拒絶されたにせよ)、明らかにホッブズからの影響を受けたと見做せる人々が啓蒙思想時代を勃興させ(※注1)、もって自然科学領域における劇的な基礎的発見の大爆発のフェイズ(※注2)へと人類を突入させていく。
(つづく)
314:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:31:19 ID:???
39 of 44 (つづき)

とどのつまりトマス・ホッブズこそは守旧(キリスト教)的価値観に基づくミクロ的専制支配を実質的に打破した立役者であり、彼の登場を契機として西洋の階層社会は、18世紀以降に到来することとなる
近代民主主義体制を伴うところの産業社会への最終的準備段階に突入し得たのである(※注3)。
(※注1 ロック/スピノザ/ルソー/プーフェンドルフらの思想はホッブズの影響なしには生まれ得ないもの。)
(※注2 マゼラン/コペルニクス/ケプラーらの業績により既に、著しく修正/拡張されていた人々の世界・宇宙観は17世紀以降は、一気に身近な生活に係る価値観を大変動させていくところのパラダイム転換過程に入った。
すなわちトリチェリ/ゲーリケ/ボイル/フック/ニュートン/ライプニッツ/レーマー/ホイヘンス/ハーヴィらによるところの基礎的発見の大爆発である。)
(※注3 近代科学は、機械製造に必須であるところの運動力学を論理的完成に導いた(※注4)ことで、イギリス産業革命のための基礎理論の準備を完了する。)
(※注4 17世紀後半のニュートンの「諸原理(プリンキピア)」(1687)の公刊をもってする。残る過程はPDCA(実地による知見の積み上げ)のみとなり、
ニュートン自身が同書の公刊後、さっそくイギリス造幣局監事として新規の貨幣鋳造機械技術開発の指揮に入った。)

ちなみにアンチ社会集団的生産能型力動とは、己が生きる力(社会集団的生産能)自体を蝕む、言わば己で己の首を絞める力動であるからして、これらに乗じて如何にカモり倒し、富裕になったとしても、
当該者は最終的には人々の心からの尊敬は得られず、もって自己被承認欲求が十分に満たされることもない・・この自意識の慢性的不健康傾向こそが、ミクロ的専制支配の施政者の最大の弱点であったのだ。
そして西洋の階層社会で上記のように16世紀から始まった擬似ハルマゲドンの戦いにおいて、18世紀にめでたく権威の力動を健全化し得たのは、実は科学が人々が生きる環境自体を爆発的に
進歩/発展させえる潜在力を持っていることを大勢の人々に対して示し、その上で科学に携わる、例えばパトロンなどに成って科学の進歩/発展を支援することが大いに人々の賞賛/尊敬の的となることが知れ渡り、
(つづく)
315:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:32:01 ID:???
40 of 44 (つづき)

もってこうした自己被承認の慢性的不全状態を改善したい者共がこぞって科学に飛びついてきたことも、大いに与っている(※注)。
(※注 18世紀に初頭に成された工業燃料の木炭から石炭への移行が、スコットランドを歴史の舞台に登場させる契機となり、この地においては新進気鋭の経営者/技術者/科学者らの極めて濃密な交流が実現した。
すなわち「ルーナー協会」を中心に活動した華麗なるスコットランド人脈、アダム・スミス/ディヴッド・ヒューム/ジェームズ・ワット/ジョセフ・ブラック/ジョセフ・プリーストリ/マシュー・ボールトン/ジョン・ウィルキンソン/マードック/ハットン/ローバック/エッジワースらが
その担い手たちであり、彼らこそは科学的知見を産業の勃興のために橋渡ししたところの、正に“近代産業社会の父たち”と呼ぶに相応しい人々である。
ちなみに世界初の資本主義経済的に実用に耐えうる蒸気機関の発明者となったワットのパートナー経営者のボールトンは女帝エカテリーナに、「私は全世界が求めている物を売っています・・動力を。」と言った。)

さてというわけで命令/服従の連鎖構造が目出度く復興すると、次に階層社会においては、『権威の力動に係る信頼性』(以下、『信頼性』と略記する。)という心理的無形財が形成されていく。

『信頼性』とは、「人々が命令/服従の連鎖構造の実体性を伴う権威の力動に真摯に従うならば、予定される報酬を確実に手に入れられる。」という期待観、
あるいは信仰的な宗教の教義を内容とするところの心理的無形財であり、権威を形成する擬制的有能性(第十六回 参照)の中でも最重要なもの。
その上で例えば前述した埴谷雄高とか戦後リベラル思想に冒された本邦学界事例等に見出されたところの、C型人間らの歪な自己被承認欲求/自己中心性等に係る人格は、虚構性観念が悪性を介して顕現させるところの
ゆらぎ事象の本質である一方で、実体性観念が善性を介して顕現させるところの信頼性事象の本質は、真面目・誠実さ/真摯・真剣さ等に係る人格である。

さてこうして信頼性という擬制的有能性を得た命令/服従の連鎖構造は、更に強い実体性を伴う権威の力動の発生を促す下地になるという良循環傾向を顕現させる。
(つづく)
316:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:33:04 ID:???
41 of 44 (つづき)

そして依然として顕現し続けている威厳の力動(善性を増進)は反抗の力動(媚び/へつらいを産生)の形成を妨げることに与し、これらのあれやこれやがついに、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向自体を消滅させるまでになる。

『擬似ハルマゲドンの戦いの中でA型人間優秀者が提示する合理主義的因果・方法論が、威厳の力動をもたらし、これが権威の力動を健全化してミクロ的専制支配を打破、更に信頼性が凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向にトドメを刺す。』
(『観念運動の自然法 第八定理の四(擬似ハルマゲドンの戦い定理)』)

というわけでこの世で絶えず勃発しているところの善悪・優劣闘争、例えば「保守vs.リベラル/ファイン・アートvs.大衆文化/カトリックvs.プロテスタント・・etc.」は全て、
(当事者同士においても気づいていないか、あるいは無意識化したところの)本質においてA・C型人間バランス系観念運動に係る「C型人間凡庸者vs.A型人間優秀者」闘争である。
その上でこれらはいずれもが、擬似ハルマゲドンの戦いに成っていく、あるいは既に成り、勝敗が決した後々までくすぶり続けたりしたものである。
すなわちこれらは単に固有の存在拘束性に因り、歴史の上に顕れては消えていくところの、偶々生起したところの無数の闘いでしかないように見えるにせよ、真理はそうではない。その上で

『命令/服従の連鎖構造の運動としての虚構性/実体性系観念運動とは、「実体性を伴う権威の力動が最強→虚構性を伴う権威の力動等のアンチ社会集団的生産能型力動に係る諸力動運動が進捗しミクロ的専制支配が顕現→
C型人間ファシズム→トートロジカル専制→社会ゆらぎのカオス→擬似ハルマゲドンの戦い/威厳の力動発生→権威の力動が健全化しミクロ的専制支配が消滅(→再び、実体性を伴う権威の力動が最強)」
とい基本パターン変動を1サイクルとする循環運動という体を成す。』(『観念運動の自然法の第八定理の五(虚構性/実体性系観念運動の循環定理)』)

歴史上の(階層社会の命令/服従の連鎖構造が確立以降の)全ての事象は、このように虚構性/実体性系観念運動が、定型的、かつ普遍的なパターン運動として顕現したものに他ならないのである。
(つづく)
317:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:35:16 ID:???
42 of 44 (つづき)

すなわち極めて長期間の実体性の減少と虚構性の増大事象(凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向(※注1)が、ゆらぎの増大傾向、進歩・発展性の消滅とトートロジー性の増大傾向をもたらすという様態をもって顕現する。)と、
その後の比較的短期間の実体性の増大と虚構性の減少事象の1サイクル(※注2)という定型的パターン循環としてだ。
(※注1 観念運動の自然法の第四定理(第十回 参照)には、「当分の期間は、個人間の安定的な信頼関係/円滑なコミュニケーションを保つことに特化したような凡庸者同士が優秀者を駆逐しやすい傾向を持ち続けることとなる。」とある。)
(※注2 1サイクルに要する期間は、およそ数十年の小さなものから1ミレニアム(1,000年)にも及ぶほどの大きなものまでが在り、様々なスパンの循環運動(※注3)が同時輻輳(入れ子構造)的に顕現する。
また当チャプターが提示しているものはあくまでもモデルだから、現実の歴史においては何時でも何処でもモデルの順序通りに綺麗に顕現するのでなく、
場合によっては部分的に逆行したり、異なる段階が輻輳したり、或る段階が省略されたように見えることなども生起しうる。)
(※注3 例えば近世日本社会には約半世紀周期という比較的短期間のサイクルが存在し、これはゆらぎのカオス状態に成る度に必ず、
「集団としての乱痴気めいた示威性として予定調和的に顕現した」(第十七回 29 of 43)ものとしての「超集団的お伊勢(お陰)参り」(※注4)の発現が伴った。)
(※注4 「お陰でさ、するりとな、ぬけたとさ」と唱えながら本邦全人口の1/6(300-400万人)もの人々が突如、全てを放り投げて奉公先・家庭等から抜け出して、
3-5ヶ月近くもの間、熱に浮かされたトランス状態のような意識をも伴って踊り狂いながら街道に殺到してお伊勢参りに向かうという現象。
とどのつまりこれは、失政/天災/政情不安等に際して庶民に“ガス抜き”をさせ、もってジャパニーズ・ファッショ・エートス(第十七回 参照)に係る力動の下からの激烈な突き上げによる倒幕/クーデター等を未然に防ぐための言わば
“江戸幕府公認の超弩級ゼネスト”のようなものであり、人々に語り継がれ、もって完全に儀式・定型・予定調和化した、
(つづく)
318:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:36:01 ID:???
43 of 44 (つづき)

各個人にとっては一生に一度だけ経験できるかも知れないところの、半世紀強に一度の国民祭典的日常逸脱現象。
ちなみに江戸期においては、このような巨大スケールの神・寺社詣の他にも例えば出羽三山/富士山/木曽御嶽山等の「山岳登拝講」類が無数に繁盛してもおり、庶民たちはこのような集団行動に託(かこつ)けては、憤懣/ストレスに係る“ガス抜き”を為していた。
そして現代日本においては約10年周期の循環運動に伴うガス抜き現象として終戦直後ストライキ群、二度の安保闘争が生起したが、この後は暇つぶし文明期(第七回 参照)に入り大幅な生活水準/娯楽供給力の向上が実現したために、
当該循環運動自体が消滅し、現在では庶民生活に係る憤懣等の捌け口は、例えば「創価学会(我が国の総世帯の約1/6が加入している。
かつては旺盛な折伏・選挙活動がつとに有名であった。)/幸福の科学」等の組織内活動のようなものに変転し、不可視化したと考えられる。)

だから擬似ハルマゲドンの戦いによって凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向が打破されるも、再び活力を回復した階層社会ではやがて、命懸けの闘争の末に獲得したばかりの当該状況を、あたかも水/空気の如くに在って当たり前と思い込むところの
C型人間の群れが必然的に発するゆらぎにより、人々の人格能から再び、善性が失われ悪性がはびこり始める・・
すなわち威厳の力動は消え行き、またしても凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向が再顕現してくる・・これが慣いとなる。

このように階層社会の命令/服従の連鎖構造の運動においてはA・C型人間同士は、凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向(虚構性の増大傾向)
と社会集団的生産能の必要性の強度(実体性の必要性強度)が輻輳することで、その相互依存の度合いを常に変動させている。
もって例えば虚構性/実体性系観念運動は、実体性の度合いを増す段階に入ったとしてもその閾値を持ち、これを超えてくるならば再び虚構性が増していく。すなわち循環(サイクル)性を持つのである。
(つづく)
319:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)15:36:35 ID:???
44 of 44 (つづき)

ちなみに人類の観念運動の一形態としての虚構性/実体性系観念運動の認知に際して、これが時系列的パターンや循環性を持つこと自体は、実は太古の昔から多くの者に知られてきたことであり、
数多の円環・循環論者、あるいは宗教者等によって、当論がここで提示したものと類似したモデルが幾つも提示されてきた。

例えば我々にとって馴染みが深い仏教では(循環論ではなく時系列論として)、「教(教え)/行(修行)/証(悟り)」の全てが修得できるのは、釈迦の存命期とその後の千年である「正法の世」、
そして次の千年である「像法の世」では教/行だけが修得可能とされ、「末法の世」の一万年間では教のみ、その後の無限の「滅法の世」などと認識したようである。
(「命令/服従の連鎖構造② 虚構性/実体性系観念運動」 おわり)
(第十八回 おわり)
320:市井の居士◆dgvbGqecqY:19/07/03(水)22:30:04 ID:???
>>306

「全くもって何の反抗力動の発動の・・」の箇所の「反抗力動」とは基本三力動の一つの「反抗の力動」の事でない。
単に反対的な力動という意味合いで、こういう風に書いただけである。書き方が紛らわしかったので、ここにお詫びする。
321:相良宗介:19/09/01(日)19:51:52 ID:???
一、天才というのは生まれつき能力の高い人。

二、努力家というのは生まれつき能力は低いが自己修正能力の高い人。

三、無能というのは生まれつき能力が低く自己修正能力も殆ど無い人。

人間にはこの三種類が居るが三の存在を認めると一、二の負担が増大するので努力神話が消える事は無い。
乱世とかに本当に努力で這い上がる三が稀に居るが生来の低スペック故に能力に極端なムラがあり一般的に不遇な生涯を送る。
将来的には三がこの世に産まれて来ない様に胎児のゲノム編集はある程度は認めるべきだと思う。
そう言うと差別だの新たな格差が生まれるだの言う人が出て来るが猿人みたいな体毛毛むくじゃらの人間なんて居ないだろ?
淘汰されたからだ。三を皆が無視するのも淘汰したがってるからだ。
絆とかいう新興宗教でどうにかなる次元では無いので三はそろそろ淘汰すべき。
植松や青葉みたいなキチガイはもう沢山だよ。
の新着レス

板に戻る | 履歴に戻る |    全部 最新10  | ここまで読んだ  


録音中:0:00/0:30



ニコニコ風チャット機能『kome』
 
『nama』生配信機能