● 怪物の叫びを出生主義者は否定できるのか?
『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』
フランケンシュタインと呼ばれているのは実際には怪物(名無し)で、
フランケンシュタインとは、
怪物を作った、ビクター・フランケンシュタイン博士(青年)。
● 怪物はなぜ「女を与えろ」と言ったのか?
怪物はとっても孤独で、友達がほしかった。
盲目の老人と知り合ってだんだん親しくなるのだけど、
息子が怪物を見て、怪物であることで排斥されるのね。
無理もないんだけど。
で、孤独に加えて酷く傷ついた怪物は怒りに燃えつつ、
ビクターに「おれに花嫁を作れ」と迫る。
女の怪物を得られれば、もう孤独じゃない、と思ったのね。
まー、ものの見事に「女をあてがえ」。
作者メアリー・シェリーがミソジニーを内面化していたかはここでは焦点でなくて、
現実の男を見てればそう書くよね、と思う。
でね。
怪物はビクターに「友達になれる怪物を作れ(性別不問)」と迫ってもよかったはずなんよ。
でもそうならない。
なぜかを考えると、自分は種牡馬牧場を想起するのね。
男は勝利の奴隷である
http://lttlleo.seesaa.net/article/462933036.html
種牡馬牧場。
朝、厩舎から出して、柵の中に放す。柵は一頭ずつ。夕方、厩舎に戻す。
ずーーーーーーっと、単独。孤独じゃないのか!?
そう思って牧場の人に尋ねると、「一緒にすると喧嘩するから」。
吃驚した。唖然としたというか。
一緒にいると喧嘩する、だから、来る日も来る日も一頭で過ごすって、えええ・・・。
怪物は花嫁を得られず、ビクターを恨み、呪い、復讐するんだけど、
言ってみれば、「ビクターのエゴ」に怒ったわけですよ。
でもその怪物は「おれのエゴで女を作らせる」についてはどうなん?
作者メアリーが、
紫式部みたいに「男のエゴ」を自覚的に書いたかどうかはわからないが、
※紫式部は確信的に物語を紡いでいると思う
作者の意図は不明なのでおいておくとして、
物語を俯瞰してみれば、「男のエゴのフーガ」だわ。
ビクターのエゴが怪物を作り、怪物のエゴが怪物の女を作らせる。
感想:「ほんと男ってエゴのカタマリで他害的」
● 怪物の叫びを出生主義者は否定できるのか?
フランケンシュタインの物語は
反出生主義の走りではないかと思う。
作者の意図は保留にして、結果として。
自分は反出生主義の主張にかなり同意するし共感する。
反出生主義は出生主義をかなり理解しているのに対して、
出生主義は反出生主義をほとんど理解しないまま断罪していることが多い。
出生主義者はフランケンシュタインを読んで、
あるいはデニーロ主演の映画を見て、
怪物の苦しみ、叫びを、どう思うよ?
「なぜおれを作った!」
ビクター・フランケンシュタイン博士が人造人間を作りたいと思ったのも、
普通の人々が子どもを作りたいと思うのも、
彼らのエゴ
であることは動かしようのない事実なんだわ。
もちろん、
そうするのが当然、の流れがあって、
逆らうのは大変、でもあって、
純粋に自発的な本人の希望とは言えない
のはわかった上で言ってる。
生まれさせられた子ども、
存在を作りだされた子どもにとっては、
選択肢ゼロ、決定権ゼロ、意思表明する機会ゼロ、
のゼロゼロ案件ですよ。
反出生主義を断罪する出生主義者たちは、
本当に一度まじめに、作品を読んでほしいわ。
小説がベスト。
怪物の叫びが出生へのゆさぶりとして響かないなら、
冷淡の鈍感だと思う。
ほんと読んで。
2016.09.26
出産を恐れるのは誰だ? 『光り輝く世界』と『フランケンシュタイン』【女とSF】
https://wezz-y.com/archives/35730
https://wezz-y.com/archives/35730/3
『フランケンシュタイン』が性にまつわる寓話であるとすれば、その核にあるのは、「コントロール不能な女の欲望」に対する異性愛の男のミソジニックな恐怖や、「妊娠・出産という再生産を管理しなければ自分の存在が危うくなるのではないか」という家父長主義的パラノイア(偏執的な妄想)――おそらくは、異性愛の男は「生まれてくる子供が自分のものである」という確信が最終的には得られないことに由来する――だ、というわけだ。
『光り輝く世界』が提示した高等教育からの女の構造的な締め出しという問題は
(特に日本では)今なお現実的な問題であるし、
『フランケンシュタイン』における「再生産にまつわる恐怖」という問題は
医療技術が発達した現在でも切実さを失わない。