190321加筆
「国際リニアコライダー」の誘致はやめるべきである190218
1.産経新聞で本日次のような社説が掲載された:
「【主張】加速器の誘致 日本の未来見据え判断を」
この社説の主張は間違っている。
1.私は産経新聞は、現在我が国で最も正しい新聞であると考えている。
そして本日産経が掲載されたもう1つの社説である
「【主張】自衛官募集問題 どちらがフェイクなのか」
については、これは全面的に正しい素晴らしいものだと考えている。
したがって数時間前、ツイッターにこれを推す記事を書いたばかりである。
当HPの読者は、ぜひ当ツイッターの方も閲覧をお願いしたい:
「当HPツイッター」→
1.それはそうと、大変すばらしい産経新聞であり、非常に素晴らしい社説を毎日書かれているのだが、私が見るところでは、たまに変な社説が書かれることがある。そこで率直に重大な問題に関しては批判をさせて頂く。
1.まず以下で問題の社説に関し、要約しておこう:
「宇宙と物質の成り立ちに迫る次世代加速器「国際リニアコライダー(ILC)」の国内誘致をめぐる政治判断が、大詰めを迎えている」。
「建設費は約8千億円・・立地国の負担は全体の5~6割と見込まれる」。
「ILC誘致に前向き・・か、それとも見送るのか。政府の判断は科学・・の国際貢献にとどまらず、安全保障やグローバル化・・にも・・かかわる問題である。
日本の未来を見据え、国づくりの視点で・・判断しなければならない」。
「日本学術会議は昨年12月、「誘致を支持するには至らない」と・・した。想定される科学的成果が、巨額の費用負担に十分に見合(わ)・・なかったとしている」。
「日本の科学力はこの10年で急激に低落した。原因の一つとして、費用対効果が過度に重視されたことが挙げられる。学術会議の見解には、日本の科学界の萎縮した状況が反映されている」。
「研究者が多様な考えを持ち、困難な課題に挑むことで科学は進歩していく。「課題が多い」「科学界の合意が前提だ」といった慎重論に安易にくみすると、科学の進歩を止めることになる」。
「ILC計画には欧州、米国、ロシア・・中国、韓国、インドなどの参加が見込まれる。・・国家間の対立を超え、人類の知・・を拓・・くため・・世界が一つになる可能性がある」。
「日本が・・中心的な役割を果たしていくことを意味する。その意義を議論したうえで、政府としての判断を下すべきである」
(「【主張】加速器の誘致 日本の未来見据え判断を」
産経190218)。
1.私は、昨年12月の日本学術会議の見解も読んでみようと思ったが、それはやめておいた。今回記事は、今後行われるであろうILCを巡っての議論に対し、小さな、私自身の角度からの、出来るだけ他の方々の意見とダブらない貢献を行うことが目的であるからだ。
1.順不同に書いていこう。
まずこのILC問題は安全保障と産経は関係すると書かれているが、そういうことは一切ない。
つまりILCとは、「宇宙と物質の成り立ち」を探ることが目的である。宇宙と物質がなぜ発生したのかを研究しても、それが直接我々の生活に役立つことは一切ないのである。
つまり次のような誤解を持たれている方がいる。科学が進めば、それを技術に応用することで、何らかの役に立つ製品などに応用できるのではないかと。あるいは新技術の武器を製造できるかもしれないと。
そういうことは一切ない。
なぜなら、現在我々の実際生活に役立っている技術とは、量子力学・一般相対論やその応用である力学・電磁気学などのみであり、それ以外にも、量子色力学とか電弱統一理論などが科学的に発見されており、超弦理論も実験的に証明はされていないが一般的には正しいと認められている。
しかし発見された科学的理論がすべて技術として応用されているのではなく、ごく一部しか応用できず、発見された理論は何百年先になってから応用されるのか全く分からない。
つまり現代と言う時代は、科学があまりにも進みすぎており、それを技術化する努力が全然追い付いていないのである。
技術が進まないのは、科学的発見が進まないためではなく、科学を技術に応用する方法やテクニックにも大きな努力が必要であり、ここが不十分なためである。
たとえば、コンピュータの原理は英国人チャールズ・バベッジによって19世紀にはすでに発見されていたが、実用化されたのは20世紀の第2次大戦後であった。
又エジソンの白熱電球も、電磁気学の応用であったが、電磁気学の発見はJ・C・マクスウエルによって1864年に行われていた。
ライト兄弟の飛行機の発明もニュートン力学の応用であるが、ニュートンがこの発見を行ったのは1687年である。
またソニーのトランジスタ・ラジオは量子力学の応用だが、量子力学は1925年にヴェルナー・ハイゼンベルクによって発見された。
したがって飛行機の発明とニュートン力学の発見は何百年も差があるが、多くは数十年後には応用されている。
しかしILC計画の狙いは物質と宇宙の起源を探る目的があり、このようなあまりにも進みすぎた研究からは、何千年後応用が出来るか全く見通せないのである。
つまり科学研究とは、技術として役立つという実用性もあるが、ILCなどのあまりにも先進的研究は、応用ではなくむしろ人間の根源的に持つ、我々がどこからきて今後どうなっていくのか、なぜ宇宙と物質が誕生したのかと言った哲学的な根源的知を求める要求から発していると見た方がいい。
応用は期待できない。
1.また産経では、「ILC計画には欧州、米国、ロシア・・中国、韓国、インドなどの参加が見込まれる。・・国家間の対立を超え、人類の知・・を拓・・くため・・世界が一つになる可能性がある」とされ、ここが安全保障と関係するかのようである。
しかしこのような考えはどう考えてもお花畑思考ではないか。
そのように世界が1つになるために4年に1回の五輪もあるが、毎年のように開かれるスポーツ大会によって果たしてどれほど世界平和が近づいているだろうか?
少なくとも中国や北朝鮮に核開発やその黒幕になることを決意させるだけの力はなかったのである。
つまり安全保障上はこの計画は全く無意味なのだ。
1.また、「日本学術会議は昨年12月、「誘致を支持するには至らない」と・・した。想定される科学的成果が、巨額の費用負担に十分に見合(わ)・・なかったとしている」。
このことは、専門家から見て、実は従来のリニア・コライダーを単に大型化するだけでは、今後科学的な新発見がまずないであろうと考えられたということなのである。
つまり我が国の悪い癖だが、従来のものを単に大きくするとか小さくするなどの工夫を行って、画期的な考え方をしようとしない。しかし今求められることは、従来の路線を突き進むのではなく、そういうことからはもう十分に成果が得られたのであるから、今後はもっと頭を使って別のことを考えようということなのだ。
ここで飛躍が生まれなくてはならぬ。ここで画期的な何かが生まれなくてはならないのである。
そうすれば、より小さな設備で、大発見ができるのである。
そのようにパラダイムを変革すべき時に来ており、それが成功したならば、またしばらくはその施設を少しずつ大型化することで新発見が続くであろうが、またいつかは飛躍が必要とされる時が来るのである。
1.つまり「想定される科学的成果が、巨額の費用負担に十分に見合(わ)・・なかった」。
単に「B by C」が低いと言っているのではないのだ。「十分に」見合(わ)・・なかった。つまり低すぎると言っているのである
(正確に日本語を解釈すれば、逆の意味になる。しかし、行間の意味とこうした文章に通例のレトリックを含めて考えれば、そういう意味になる)。
つまり無駄なものになると言っているのだ。私がこの間にILCに関し得た情報もそのことを結論付けている
(がゆえに学術会議の言いたいこともそういう意味ではないかと推測する)。
1.無駄なものを作って、それの中心に日本がなる。
「ILC計画には欧州、米国、ロシア・・中国、韓国、インドなどの参加が見込まれる。・・国家間の対立を超え、人類の知・・を拓・・くため・・世界が一つになる可能性がある」。
「日本が・・中心的な役割を果たしていくことを意味する。その意義を議論したうえで、政府としての判断を下すべきである」。
これは間違っている。
そうではなく、やるならば真に世界のため役立つものを考え、そこで我が国が中心になるならば、世界平和のためにもなり、我が国の安全保障も高まるであろう。
しかし無駄なものを作り、世界を騙し、それで何かいいことがあるというのは100%間違っているであろう。
「日本の未来を見据え、国づくりの視点で・・判断しなければならない」。
だからこそ、ILCからは手を引くべきだ。
1.次にわが国の科学技術をさらに前進させていく方法を考える。
再度産経の言われるところを聞いてみよう:
「日本学術会議は昨年12月、「誘致を支持するには至らない」と・・した。想定される科学的成果が、巨額の費用負担に十分に見合・・なかったとしている」。
「日本の科学力はこの10年で急激に低落した。原因の一つとして、費用対効果が過度に重視されたことが挙げられる。学術会議の見解には、日本の科学界の萎縮した状況が反映されている」。
「研究者が多様な考えを持ち、困難な課題に挑むことで科学は進歩していく。「課題が多い」「科学界の合意が前提だ」といった慎重論に安易にくみすると、科学の進歩を止めることになる」。
1.ここで私が不思議に思うのは、「日本の科学力はこの10年で急激に低落した」と言うことは全くその通りだと考える。
これこそが、安倍政治は(安全保障政策や果敢な異次元の金融緩和を追及される点などで)大変に素晴らしいのであるが、中国に甘い顔をすることとバラマキ政治と言う2大欠陥を持っており、バラマキの一環として科学技術を駄目にされたことは全くの悪政と私も考える。
しかし一般的には、安倍さんが科学技術を駄目にしたということは、「過度な競争原理を注入した」ことに求める向きが多く、産経のように「費用対効果を過度に重視」したから科学技術が駄目になったんだと言う意見は私は初めて聞いたのである。
しかも学術会議はILC導入に反対する理由を「想定される科学的成果が、巨額の費用負担に十分に見合・・なかった」点に求めているのであり、「費用対効果を過度に重視」しているわけでもない。
1.ここで問題を整理すると、私の立場は「B by C」が1.0よりも低ければやめるべきであり、それよりも高ければやるべきだという考えである。
一方で、日本学術会議の主張は、「B by C」が1.0よりも低いからではなく、はるかに低い。ゼロに近い。低すぎるから反対と言うことであろう。
また産経の考えとは、「費用対効果が過度に重視」してはならないということであり、「B by C」が1.0よりも低いからやめるということではなく、例えばゼロに近ければやめるべきだが、0.9位ならやった方がいいということであろう。
こう考えると、産経の言っていることはどうもつじつまが合わないと考えられる。
しかしここは、学術会議の文章をどう解釈するかの問題があり、必ずしも産経の言われることが矛盾すると私は言うのではない。
1.ではなぜ「費用対効果を過度に重視」すると科学技術の進歩を阻害するのであろうか?
これを産経は次のように説明する:
「研究者が多様な考えを持ち、困難な課題に挑むことで科学は進歩していく。「課題が多い」「科学界の合意が前提だ」といった慎重論に安易にくみすると、科学の進歩を止めることになる」。
つまり、「費用対効果を過度に重視」すると、「成果なんてどうでもいい、ジャンジャン金を使うべきだ」と言う科学者がおられたとき、彼の多様な意見を阻害することになる。
ジャンジャン金を使うということも、出所は限られているのだから極めて困難なことであり、そのような無駄の中において科学の進歩はあり得るのではないか。
「この研究は金は食うが成果は期待できない」=「課題が多い」「科学界の合意が得られない」。
といった「慎重論に安易にくみすると、科学の進歩を止めることになる」。
つまり、科学の発展にはそもそも「慎重論」はなじまないのだと。
1.すなわち産経は、2つの問題を混同されていると思うのである。
つまり科学者の心構えとしては、「成果なんてどうでもいい」。「科学研究は大いに無駄なことをやることも必要だ」。「慎重論では駄目だ。奇想天外なことを考えるべきである」と。
このような多様な考えを持った科学者がおられてもいいのである。
しかし産経は今国がILCに金を出すか出さないかの選択を迫られていると言っているではないか。
したがって国としてはどう考えるかだ。
つまり当たり前のことだが、国としては常に「B by C」を何らかの形で考えなければならない。それが国民の血税を預かるということである。
また常に、税金の使途に関し、ここに投じるならば、投じた以上の利益が国民に帰ってくるという説明責任を可能な限り果たさなければならないのである。
また、そうして血税が科学技術に投下されたのち、日本学術会議や各大学などは、血税をきちんと無駄にすることなく使っていることの説明責任は常に問われるであろう。
しかし、税金が末端の科学者に投じられた後では、あまりやかましい管理は確かに行わない方がいいかもしれない。
1.私は国の科学技術政策において「費用対効果を過度に重視」するなと言う産経の立場は、まったく初耳の考え方であり、間違っていると考える。
そもそも国の政策とは、「B by C」>1.0の時これを行い、「B by C」<1.0の時基本的には中止すべきものである。道路やダム・空港も全部同じだ。
ところがそれを計算すべき(あるいは外部に注文して計算を行わせるべき)官僚が、退職後関係会社に天下るシステムにおいては、間違った計算によって全く無駄な膨大なバラマキが行われ、国の山のような借金を作ることは自明である。
したがってこの際、大型道路などは一切中止し、明らかに利益があると考えられるものがあるならば、少数に絞ったうえで国会で徹底的に審議して認められたものだけを実行すべきであると考える。
不要なもののみでなく不急のものもこの際やめるべきだ。
そうでなければ国の借金は増えるばかりだ。
1.また我が国の科学技術が安倍政治によって大きく後退した原因も私はバラマキ政策にあると考えている。
つまり、「国の役に立つ研究(例えば癌の特効薬など)をしてください。それが申請されれば、同じ学者仲間によって審査し、認めたものには莫大なお金を支給します」と。
この莫大な金を目がけて、科学者は競争をはじめ、その結果、次のようになったと言われている:
第1に、国から金を貰う競争のため、研究どころでなくなった。こうして科学技術が後退した。
第2に、国から金をもらうため、あたかもすごい成果が出るかのように申請書を書くようになり、国を騙す(詐欺行為)ことを行うようになった。
第3に、成果がでなければ支給が打ち切られる。そこで、ウソの報告書や学術論文を書いて学術誌に乗せるようになった。こうして科学者自体が堕落・腐敗し、科学者ではなくなり、詐欺師に変身した。
第4に、大学内では、国から莫大な予算を奪ってくる詐欺師が力を持つようになり、まともな人間は追放され、大学自体が大きく変貌した。
これが安倍科学技術政策の結果である。
1.ただし私は、自衛隊に役立つ研究は必要であり、成果もニセの成果と真実の成果は見分けがより容易なため、これには莫大な金を出すべきだと考える。
1.また、ある程度は国に役立つがんの特効薬などもやってもらう必要があり、それは一般の大学ではなく、理研などの特殊な目的の明確な機関に行わせて莫大な金を投じることも必要と考える。
1.昨日NHKスペシャルを見たのであるが、このようなバラマキは小泉総理が始めたのだという。
ただしその時は、全体の科学予算を減らすことは考えていなかった。
安倍さんになってから、全体の予算を減らし、その中で上のような競争的予算のみを増やしたため、ますます問題が拡大したと言う。
1.しかし私はこの報道はおかしいと考える。国の借金が膨らむ中で、予算とは削る必要があるのであり、科学予算も減らしていかなくてはならない。
したがって安倍さんが科学予算を減らしたことは問題ない。
問題なのは、「国の役に立つ研究をやってください。そうすれば莫大なお金を上げます」と言う小泉さんの始めた大バラマキを継続したことである。ここが問題だったのである。
1.そもそも科学者とは、国が金を与えなくとも、それで研究を進めないということはあり得ない。彼らは清貧に甘んじるのである。そういう中でも科学者は大いに発見に努め成果を上げる。
逆に莫大な金を与えるというバラマキこそが、彼らの精神を破壊し、今日の荒廃をもたらしたではないか。
1.私の言っていることはなかなか納得できないことかもしれない。だが事実によって証明されているのだ。
今私は、非常に大事なことを述べているのだということを注意していただきたい。
たとえば中国や韓国では、日本以上に莫大な国の金を科学技術開発に投じているのである。
しかし成果はほとんど出てこないのである。
つまり金ではないのだ。
1.国が金を投じれば投じるほど、成果を出すことが求められ、責任とストレスに追い詰められる。
また何としても成果を出そうとすれば、奇抜な発想は退けられ、一生かかって追及する目標ではなく、3年程度で達成できることが「確実」なもの、小さな目標に絞られていく。
こうして似たり寄ったりの「成果」は出ても、画期的な発見は出てこなくなる。
1.韓国では日本の科学界を次のように見ている:
自分の国では、国から成果を出すように言われ、そのためにこじんまりしたすぐに結果が出るような研究以外できない。
ところが日本では、科学者が自分の好きな研究を、誰からも認められなくても続けている。
こういう「オタク」、「マッド・サイエンチスト」のおかげて日本の科学技術は進んでいるのだと。
これは相当日本を好評価しているかもしれないが、確かに国に認められなく、予算も出ないような研究者が、自分の課題をコツコツと追及した結果、ノーベル賞を取ることもあったであろう。
要するに科学研究にとって一番大事なことは、自分の疑問を追求する。好きだから研究する。これに尽きるのである。自分の知る喜びを追求するに尽きる。
中国や韓国では自由な研究が許されていない。だから成果が出ないのである。我が国もだんだんと安倍さんのおかげで中国・韓国に近づきつつあるのである。
1.つまり莫大なお金を上げると言って競争をさせるというバラマキ・システムが一番悪いのではないか。
これが純粋な好奇心・知る純粋な喜びを奪っているのではないだろうか。
このことは子供たちに対し、競争をさせ、勝てば成績順の上位に位置付けられるという名誉や地位や、さらに将来の出世と言うお金をちらつかせることで過度に競争させ、純粋な知る喜びを奪っていく現在の教育制度の問題とも共通する点である。
しかし私は、小中高などの教育制度においては、ある程度は競争をさせても良いと考える。
なぜなら、競争で勝つ喜びが知る喜びよりも大きい子供も存在し、そのような子供は将来学者になるにはふさわしくないが、管理職などの様々な職種において、有能な才能を発揮できるのである。
高級官僚とか企業の上部管理職などは、競争原理で育った人の方が能力がある人が多いようである。
しかし知る喜びよりも競争で勝つ喜びの方が大きい人は科学者にはふさわしくない
(そういう人は勝つことにより、お金や名誉や地位・権力が与えられないとき、燃料切れを起こして研究がストップする人だからである;実際問題、東大教授になったはいいが、その後まったく勉強しなくなり、人格を疑うようになり、離婚したいという奥さん方の相談が私のところに殺到した時期もあったのである)。
安倍科学技術政策は、科学者を変質させると共に、ろくでもない詐欺師を「科学者」として大学などにあふれさせる政策と私は考えている。
これらの人々は本質的に科学者ではなく政治家であり、左翼・右翼などの様々な勢力のための御用学者となる人々である。
1.では米国はどうなのか?米国の科学技術を前進させるエンジンは、成果を上げた人への莫大な報酬と競争システムであると言われている。
実を言うと、私はこの米国のシステムに大きな疑問を感じている。
例えば、リチャード・P・ファインマンと言うノーベル賞をもらった物理学者がおられ、彼の伝記を全部読んだが、彼は全く競争など行っていない人だった。極めて自由であり、競争と反対の人である。落ちこぼれと紙一重だ。
またビル・ゲイツというマイクロ・ソフト社の創立者がおられるのであるが、彼は若いとき、「BASIC」と言うプログラム言語を発明された。そしてこれを売り込むためMS社を開始されたのだが、彼が画期的な開発を行ったのは、おそらくこの1回きりであった。
その後は、他社から技術を「合法的に」盗み、「MS-DOS」を作って売りに売った。
更にアップル社から技術を「合法的に」盗み、「Windows」を作って売りに売った。
彼は常に他社から技術を「合法的に」盗み、模倣作品で売りに売って一時世界一の金持ちになったのである。
たしかに米国の過度の競争システムのため、模倣かどうかは別として、同様の技術はより速く社会に普及したであろう。
しかしソニーのベータマックスを松下が「合法的に」盗み、VHSを売り出したことは、確かにビデオの普及と言う社会的貢献を実現したが、技術の進歩にはさほどの貢献を行ったとはいえない。
純粋科学と違い、技術分野や応用科学では、競争も必要なのだが、それでも競争が技術開発にどれだけ役立ったかは明確でない
(米国のように競争が激しければ、競争によって技術は進むはずだとしたならば、なぜビル・ゲイツ氏は技術を進める代わりに他社から盗むことばかりしていたのだろうか?競争が大して技術を推し進める力がなかった為ではないか?)。
むしろ、競争過多のため、特に医学研究分野でインチキな論文が増産されるようになったと言われたのは米国が一番早いのである。
物理学のような実験ですぐにおかしいと気づかれるということが、医学や生物学は対象が複雑なためないからである。
競争過多の弊害とメリットがどちらが大きいかは、私には今のところ分からない
(ただし適度な競争は技術分野では当然必要だが)。
1.それでも米国では戦後続々とノーベル賞学者が誕生し、科学技術が競争システムの中で進んだではないか?
しかしそれは競争システム(=成果を出せば莫大な報酬が約束される)のためだったのであろうか?
もしかしたら、戦後ドイツから米国に渡ったドイツ人学者の成果だったかもしれないし、その後も米国への頭脳流出によって、つまり移民の成果だったかもしれない。
そして優れた能力ある学者が米国へ続々と来た理由は、お金が目的ではなく、東側から自由を求めて命懸けで来たためかもしれないし、自由な研究が出来ることが一番の魅力だったのかもしれない。
となると、現在の安倍政策によって自由な研究ができにくくなっていることは全く、米国の良いところではなく悪いところを見習っているだけかもしれないのだ。
自由があってこそ自分の真に追求したい、知りたいことを研究できる。そこに真の知る喜びがあり、結果的に成果も生れる。
=追記=
過度の競争システムのため米国の科学技術は進歩したとの説を疑う理由はさらにある。
それほど過度の競争システムのため米国の科学技術が進歩したのなら、さぞ米国の経済は大発展したはずであろう。
しかし事実はそうではなく、米国は毎年莫大な経常赤字を積み上げているのである。
つまり米国は、年々、その国富(政府と民間を合わせたすべての財産の額)を減らしているのだ。
それどころか実は、リーマン・ショックによって米国の国富は既にマイナスになっているのである。
莫大なCDS損失が、日本と言うつっかい棒があるおかげで顕在化していないだけだ。
=追記2=
過当競争が技術開発を阻害する事例については次も参照されたい:
「経済活性化のために190321」
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科学技術(TP)
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詳細
1.ここ数年にわたり、安倍政権による科学技術政策が大失敗のため、多くのメデアによって大批判を受けている。
私もこれまで安倍科学技術政策・教育政策・学校政策などに関し、徹底批判を行ってきた。いわば全体的な安倍政策が成功している中において、安倍科学技術政策は最も大きな失敗を起こしているものの1つである。且つ科学技術政策や教育政策は、長期的に見て最も重要なもののはずである。
1.あらかじめ述べておくが、大変申し訳ないが、私は現在非常に時間的に厳しい状態にあり、したがって十分な説明は出来ない。思い付いたことをどんどん書いていくほかないが、まず最初に1つ重要なことを言っておくと、しかもこのことが今回記事を書く動機になったのだが、このままで行くと、どうなるか?
安倍政権はいつか終わるであろう。どれだけ頑張っても人間には寿命もある。
その場合、あとを引き継いだ人は必ず科学技術政策の手直しをするに違いない。その場合、安倍総理が科学技術政策などで行われた負の部分だけでなく、良い面も一挙に清算される可能性が大きいのである。
このことを私は恐れるのである。
したがって今回記事において、安倍科学政策のうちで、何が良い面であり何が悪い面だったかの整理を行っておきたい。そうでないと、全部悪いことにされる可能性が高いと私は思う。
1.さて安倍政権以前のわが国の科学技術が100%すばらしいものだったことはないであろう。したがって昔の姿に戻ってはならないのである。
では安倍さんは何をどう変えたのか?
1.第1に、安倍さんは大学予算を大きく削減した(良い面)。
第2に、理工系へはあまり予算を減らさず、文科系への予算をバッサリ切った(良い面)。
第3に、安倍さんは今後の国の発展に役立つ研究をやってくれるならば、そのことを国に申告し、そのことを国が選んだ判定者の科学者が認めるならば、そこにドカンと大予算を投じるとした(悪い面)。
1.私はこの第三の<国の発展に役立つ研究をやってくれるならば、そのことを国に申告し、そのことを国が選んだ判定者の科学者が認めるならば、そこにドカンと大予算を投じるとした>ということが最も悪かったと考える。
但しこういうやり方は全面的に否定は出来ず、国に役立つ研究をやらせるため、例えば一般の大学ではなく理化学研究所のようなごく一部の機関にそのようにやらせることは必要と考える。
また自衛隊の安全保障に役立つための研究を行うならば、審査の上でドカンと金を投じることも必要と考える。
しかし安倍さんのやり方はそういうことではなく、全体的に科学技術への予算を減らし、国の審査に受かればドカンと金が出るとしたため、そのような研究が主流になったことが問題なのである。全ての研究者が巻き込まれたことが問題だ。
1.その結果、第1にウソをつく研究者が続出した。
ウソをつかなければ予算が出ない。またウソをついても、それを見破ることは不可能に近い。
何故なら科学技術が進めば進むほど、専門分野が細分化され、少しでも外れた分野の人がそれを見破ることが困難になるからだ。
第2に、ほとんどの予算が(あるいは全部の予算が)、莫大な金がどぶに捨てられた。バラマキだ。
第3に、研究者が国への審査に受かるため大わらわとなり、研究どころでなくなり大疲弊を起こした。
第4に、大学内では研究者の地位が下がり、詐欺師・政治家(研究者の仮面をつけた)が実権を握り、贅沢三昧をするようになった。
まともな研究者は阻害され追放され、上にへつらう人間が跋扈している。人を騙すことの旨い人間が力を持った。そうでなければ国からウソで研究費を分捕ってこれないためだ。
第5に、大学・研究の目的が「金儲け」に一本化されるように変わった。
今我が国は明治以来の科学技術政策の成功により、ノーベル賞学者が続出している。
しかし安倍科学政策に変化したため、あと10年後以降に我が国がノーベル賞をもらえる保証はどこにもない
(ノーベル賞を目的とすることも変な話であり、それ自体が堕落であり、そういうやり方では失敗は確実だが)。
1.ではどう変えればいいのか?昔のようにまんべんなく審査なしに薄く広く大学にばらまくのがいいのか?
そういうやり方でも、明治以降そういうやり方で成功し、今日結果的にノーベル賞が相次いでいるのだから、まったくの間違いではないだろう。またそのように要求する声も強く、しかも安倍政策の行き詰まりによって必ずこのままでは昔に戻せとなるに決まっている。私はそれを恐れる。
1.そうではなく、今後とも大学や科学技術への予算は大きく削減していくのである。特に文科系への予算は皆無にしていかなければならない。
研究者とは清貧に甘んじさせるべきである。文科系へは一切金を出さず、理工系にのみ「生かさず殺さず」の程度で金を出す。そうしてこそ、そのような静かな生活を保障することこそ最も科学技術がより良く実る状態なのである。
国は研究者に金を出さず、研究者も基本的に国のための研究は行わず、自分が本当にやりたい研究を行うべきである。
1.つまり重要なことは、国に役に立つ研究を国が審査して金を出すということを基本的にやめる必要がある。研究者は国に頼ってはならない。そうしてこそ真に豊かな科学技術が実るのである。
1.今までの時代は、国が主導して国民を動かす、引っ張っていくというやり方の時代であった。これを護衛船団方式という。明治以来のやり方である。
しかしもはやこういうやり方は効果が無く、さっぱり効果が出ない。
バラマキをやればやるほど国の借金はかさむが国民の不安が大きくなるだけだ。
安倍さんが科学技術にばらまけばばらまくほど失敗がかさみ、研究者の疲弊は大きくなっている。
そうではなく、国が主導するのではなく民間にまかせるのである。
たとえば重要な研究成果が上がれば、国が金を出さなくとも、国民は自らそのような研究者を支援するはずである。
文科系の学問も私は最も重要なものと考えている。特に歴史研究は重要で、過去から教訓を汲むことが出来る。
だからこそ、国が予算を出さなくとも、国民が必要と考えるならば、自ら大学に金を投じて学生となって学ぶはずである。
そのようにしてこそ、国民を信じなければならない。小さな政府を作らなければならない。
役人が決めるのでは失敗しても責任を取ることがない。しかし国民は、自分がこの分野の勉強をしようと考えて金を投じれば、それが失敗であれば自分のカネを失うのである。
従ってそのようなやり方こそが確実であり、そのようにしていれば失われた30年はなかったのである。
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自由意志に関するメモ180806
(はじめに:
以下のメモには誤りが含まれている。だがわたしは何らかの「論文」をかいたのではなく、あくまでもこれは私の遺言であり、今後の私自身の思索を深めるためのメモだ。したがって、私は今時間的に非常にひっ迫しているため、以下のメモを全面的に書き直すのではなく、間違い部分に単に訂正線を引くだけにする)。
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1.自由意志が存在するかどうかは私が関心を持ち、1つのライフワークとして追及するところであるが、これに関し私の頭が(常にぼうっとしたモーロク状態の中で)最近極めて明確になったため、忘れないうちにメモとして残しておきたいと考えた。
したがって多くの読者の方々にわざわざ読んで頂く必要はない。
1.自由意志は存在しないと。各人がどういう人生を送るかは、神がこの宇宙を作ったときにすでに決定されているのであると。
このようにキリシタン内プロテスタント派の多くは主張した。
またニュートン力学においてもそのように結論付けられる。
ニュートン力学において自由意志が存在しないことは次のようにして証明される。
物理学における未来の予測とは、運動方程式を解くことによって得られる。
ニュートン力学における運動方程式(「力は質量と加速度に比例する」)においては、時間が2回微分される形で入っており、したがって時間(t)を反時間(-t)に置き換えて代入しても運動方程式の形は変わらない。
すなわちある運動がこれらの方程式の解であるならばそれの時間を逆にした運動(フイルムの逆回し)も同じ方程式の解であることを示しているのである。即ちある運動が存在しうるならば、それの時間を逆にした(フイルムの逆回し)運動も存在しうることになる。
1.以上のように時間において過去と未来が全く対称的であるということは、
すなわち自由意志は存在しないと。
したがってニュートンは、神が宇宙を作った後、「最初の一撃」を与えたと考えた。それによってその後の宇宙は神が望んだとおりに必然的に動いていくものと考えたのである。
1.以上のように、キリスト教プロテスタント派や多くの科学者は19世紀までは、この宇宙に自由意志は存在しない。もしあるとすればそれは神だけが持っていると考えた。
しかし20世紀になり量子力学が発見された。これによると、「観測をすると確率波が収縮する;これによって偶然が発生する」とされたのである。
だが実は量子力学の運動方程式(=シュレーディンガー方程式)は、時間反転に対し対称的である。つまり時間を反時間に置き換えても、運動方程式自体の形は変わるが、次元の軸をどう設定するかはこの宇宙においては自由であり、次元の軸をどう設定するか自体には意味がないことを考えると、結局運動方程式の意味自体は変わらないのだと解釈できる。
ここに大きな矛盾が存在し、一体量子力学とは内部に矛盾を持っているものなのかどうなのかと言うことが根本的疑問として残された。
ある物理理論が正しいものかどうかは、まず実験結果と合致するかどうかによって検証される。だが実験と矛盾していなくとも、論理構造に矛盾が含まれていては、やはりその理論は間違っていることになる。
ニュートン力学の場合は内部矛盾は含まれていなかったが、実験精度が向上することにより、実験結果と合致しないことが発見され、量子力学にとってかわられた。
相対性理論も内部矛盾はなかったが、次のように現実と矛盾していることが発見された。
だがそのことは本題からそれるため省略する。
多くの物理理論は内部に論理矛盾はなかったのだが、実験技術の向上によって実験結果との矛盾が発見されてさらなる進歩した理論によって置き換えられた。
ところが量子力学の場合は、実験精度が上がることで実験結果との矛盾はいくつも発見されたが、その都度改良がくわえられることで今日まで生きながらえてきた。
だが根本的に内部矛盾があるのではないかとの疑問が消えない。
この問題を解明する分野が量子力学の「観測理論」と呼ばれている分野である。
1.さて量子力学の「観測理論」と呼ばれている分野においては、これまでまさに戦国時代的に次々に新たな理論が構築され、実験と矛盾するとして否定されてきた。
まず、量子力学自体が間違っているのではないか。偶然と言ったものは実は存在せず、「隠された変数」によってすべては必然的にだけ生じているのではないかとの「隠された変数」論は、アインシュタインほか2名の頭文字をとって「EPRのパラドックス」として最初主張され、デイヴィッド・ボームによってさらに強力な形に改良されて主張された。
この隠れた変数があるかないかを確認する方法が「ベルの不等式」が成立するかどうかであり、アスペの実験によってこのベルの不等式は破られた。すなわち量子力学が正しく、「隠れた変数」理論は間違っていたのである。この宇宙に何らかの形で「偶然」が実在することは疑いないものとなった。
1.次に、唯物論的立場の多くの物理学者によって、「観測によって確率波が収縮する原因」を説明する多くの理論が編み出された。これらの特徴は、「観測によって確率波が収縮する原因は、人間の意識とか心とは全く無関係である」と説明しようとした点である。
ところが、このような唯物論的理論がたくさん編み出されたのであるが、全て実験と合致しないとして否定されるに至ったのである。
但し今日においてもこの手の理論は日々編み出され中であり、今後絶対に実験と合致しないとは断言できない。
多くの物理学者がなお、この方向に望みをかけていることも事実である。
しかし今日までのところ、ほぼすべての唯物論的理論は実験と矛盾して滅び去った。
そしてフォン・ノイマンが「量子力学の数学的基礎」(1932年初版)において主張した「観測によって確率波が収縮するという現象は、測定器が観測することで発生しているのではなく、また機械が測定した数値を人間の目が読み取るところにおいて発生しているのでもなく、神経で発生しているのでもなく、脳内で人間の心が数値を読み取る瞬間に収縮は発生している」との証明は、まだ誰によっても否定できていないのである。
ここからノイマンは、「確率波を収縮させる原因は人間の心である」とあたかも主張している如くである。そのように主張する派も存在はする。
しかし「確率波を収縮させる原因は人間の心である」ということはまだ証明されていない。ノイマンが100%証明したことは、あくまでも「観測によって確率波が収縮するという現象は、機械が観測することで発生しているのではなく、また機械が測定した数値を人間の目が読み取るところにおいて発生しているのでもなく、神経で発生しているのでもなく、脳内で人間の心が数値を読み取る瞬間に収縮は発生している」
という収縮が発生する時間と場所の特定にすぎない。
1.しかし私は、確率波が収縮する時間と場所が特定され、そこが人間の心であるのであるから、まさに人間の心こそがそのような現象を引き起こしているのだと解釈しても、間違ってはいないと考える。
すなわち、もともとこの宇宙とは、生物の心と言うものが確率波の収縮あるいはそれに匹敵する何かを引き起こすのだという本来的法則を持っていたのだと考えてよいと考える。
1.例えばキリスト教のように、まったく何もないところで神が命じたから宇宙が生まれたのだと考えることは「観念論」と言わざるを得ない。
しかし一方で、一切の宇宙における現象は物質的原因だけによって生じるとする機械的唯物論も量子力学の発見によって怪しくなった。
宇宙とは、物質的原因だけではなく、人間を含む生物の心によって動かされているはずである。
すなわち、物質は生物の心に作用し、一方で生物の心は宇宙の在り方に反作用を及ぼすととらえるべきである。
ここまではマルクス流の「弁証法的唯物論」も私の仏教的哲学も一致している。
問題は「反作用」とは何かである。
私の場合は、脳と心は区別されたうえで統一的にとらえなければならないとする。
すなわち「脳=心」ではない。
これが「不二」ということである。
そして外界は人間に刺激を与え、刺激は感覚器と神経を通して脳に到達する。そして脳が心を起動させ、心に一定の認識・欲望をもたらす。
さらに心は反作用として脳を起動させ、脳は神経によって筋肉を動かし、こうして外界に対する反応が行われると考える。
ここで、脳が心を起動させるという点は良いが、心が脳を動かすという点は、精神が物質を動かすというオカルト主義的考え方だとの反対が出る点については後で考える。
精神が物質を動かすというのはオカルト主義的考え方だとの主張も相当の合理性を持ち、2つの根拠を持っている。
第1に、精神によって念力的に物体を動かすということが実験によって再現が出来ない点である。ここにインチキ性があるとされる。
第2に、心が脳をいかなるメカニズムによって動かすのか?物体が物体によって動かされることは物理学的に証明されているが、物体が心によって動かされるという法則が未発見である点だ。
したがって心が脳を動かしているのではなく、外界からの刺激は感覚器>神経>脳>神経>筋肉と心を素通りして外界へ反応となって表れるのであり、心が認識や欲望を持つのは、外界への反応の原因なのではなく、反応が生じた後で事後的に発生する何らかの錯覚なのだ(「随伴現象説」)との考え方もある。
しかしそう考えると、まさに自由意志は全くあり得ないという結論になる。
1.され、私の考えでは、以上のように脳や心が反応するという点だけでなく、まさに心が認識することによって確率波の収縮もしくはそれに匹敵する何かが生じるということも、心の外界への反作用として考えてよいとする。
なぜなら、そう考えなければ、なぜ、どういうメカニズムによって、確率波の収縮がまさに心が観測を行ったその瞬間にだけ生じるということが説明できるのか?
1.またこのことは、観念論の場合のように、まったく何もなかったところから何らかの現象が生じるということではない。
たとえば、電子のスピンを観測し、右回りであるか左回りであるかを観測する。
そして事前の計算によってそれぞれが50%ずつであると分かっていた場合、どちらであるかは観測の結果定まる。
このことは、初めからどちらかに定まっており、単に観測の結果、人間がそのどちらであるかを知るという話ではない。観測前にはそもそもスピンの向きは右でも左でもどちらでもなく、人間の心がそれを認識した瞬間にどちらかに定まるのである。
このことがベルの不等式やアスペの実験によって証明されているのである。
つまり常識的な平板な機械的唯物論的考えでは、初めからどちらかだったのだろうと考えるのであるが、そういう常識的考え方は既に科学的に実験によって否定されているのである。
しかし人間の心は全くの無の状態から何らかの現象を作り出すのではなく、事前に計算された可能性のうちから現象を作り出すのであって、物理法則に逆らったことは不可能なのである。
以上のようにして物質界と生物の心は相互作用を行っていると考えても何らおかしくはない。
1.さて、量子力学の運動方程式であるシュレーディンガー方程式は時間反転に対し対称的である。
ここをどう考えるか?
この点を私は最近、非常に頭脳がさえていた瞬間に旨く説明できる可能性を発見した。
発見したというより、先進的物理学者のうちの多くの方々は既に発見されているのであろうが、したがって発見と言うよりも認識できたというべきであろう。
これまで私はいわゆる「多世界理論」に対し疑いを持ち且つここに一定の合理性をも見い出していた。
多世界理論の内容については後で説明するが、これを使えば、量子力学に一切内部矛盾は除去される。
しかし宇宙における「偶然性」の実在も否定される。
また、絶対に認識のできない他の世界が(しかも事実上無限個の世界が)実在すると考えなければならなくなる。
しかし量子力学の根本とは、素粒子の「位置と速度の両方の同時観測」が否定されたように、位置と速度の同時観測は不可能だし、また認識出来もしない「素粒子が位置と速度を同時に持つ」ということも実際はないことなのだと。
つまり根本的に観測されないことは実在し得ないと。
これが量子力学の根本だとするならば、多世界理論のように「絶対に認識できない他の世界(宇宙)が複数個ある」と言う主張は誤りなのではないか。
しかしそのような私の認識こそ誤っていたのである。
1.そのことの詳しい説明は後に回し、そこからどういう結論が生じるか。
第1に、この宇宙は時間反転に対し対称的と言うことである。
ただしこのことは、量子力学で考える限りはそう言えるということであり、本当に宇宙がそうなっているかは分からない。
量子力学も一定の近似理論であり、宇宙のすべてを説明できないであろう。
だが量子力学は相当にこの宇宙の根源に迫った理論と考えられ、たとえ量子力学が否定されても、量子力学的考え方は生き残るであろう。
そして量子力学の範囲で考える限り、この宇宙は時間反転に対し対称的であるから、したがって外界が生物の心に作用を引き起こせるならば、逆に心も外界に対し反作用を引き起こせることになる。
つまり脳が心に認識や欲望を引き起こしているならば、逆に心も脳を動かすことが可能だということになる。
つまり、どういう物理法則によって心が脳を動かすかは現在のところ未解明であるが、心が脳を動かすということは原理的には可能なことと結論でき、したがって「随伴現象説」に必ずしもこだわる必要はない。
むしろ随伴現象説では、そのような無駄な心と言うものがなぜ生物から退化してなくなってしまっていないかが説明できない。
したがって外界の刺激が生物の反応を引き起こすにあたり、心を素通りして起きていると考えるよりも、心を通過して起きていると考えた方が、生物学(特に進化論)や物理学的に合理的であることになる。
1.ところで次のように実験があるのである。
脳に電極を差し込み、目から刺激を加え、A,B,Cのいずれかを選択させる。
すると本人は自分が選択した後でボタンを押したと思っているのだが、実は、脳の反応から考えると、最初に反応するのは脳であり、ここがA,B,Cのいずれかの選択をまず行う。
そのあとで心において脳の指令通りにA,B,Cのいずれかの選択がおこなわれる。
そのあとでボタンが押される。
したがって心の反応よりも脳の反応の方が早かったと。
心は物質である脳の指令通り動いてるだけだったと
(測定技術の進歩により、心の反応時間と脳の反応時間を分けて測定できるようになり、且つ後者の方が早かったとされる)。
1.しかしこの実験は怪しいのである。
第1に、心の反応時間の測定は本当に正しいのか?
つまり本人が自分が反応したと感じた瞬間を測定できているのだが、心の反応とは、一挙に生じるものではなく徐々に強まりながら起きるものだとするならば、ある一定の強さに高まった瞬間を本人は自分が反応した瞬間と考えるかもしれないのである。
第2に、初めに反応したのは脳であった、ゆえに心ではなく脳こそが決定因だったと。
しかし本当に決定したのは脳であろうか?あるいは、最初の脳の反応こそが決定を行っていたのであろうか?
普通人間の決意や決定とは、時間をかけて行うものであり瞬間的に決定すると限らない。
それなのになぜ最初の反応によって決定されたと考えてよいのであろうか?
そもそも最初に反応したからこれが決めたと考えることがおかしい。
例えば会社組織の中で、情報を取って最初にプランを作る人間が決定者なのではなく、最後に反応する責任者が決定しているのである。
最後に反応する者こそが決定を行っているのだ。
したがって初めに反応したのは脳であった、ゆえに心ではなく脳こそが決定因だったと考えることは極めておかしなことであり、この実験はむしろ、最後に反応したのは心であった、ゆえに決定者は脳ではなく心であると結論してもいい実験なのである。
つまり仮に最初に反応するものが脳であったとしても、あとから反応する心はそれをチェックし、訂正する働きを持つはずである。
ゆえにこの実験が本当に正しければ(それ自体が疑わしいが)、むしろここから出る結論はこの実験こそが自由意志の存在を証明したということでなくてはならぬ。
1.元に戻る。多世界理論が正しいとして第2に出る結論は次のものである。
電子のスピンの観測により、確率波が収縮して右あるいは左のスピンが観測される。
このことは多世界理論では次のように解釈される。
世界が2つに分かれ、右のスピンを観測した人間が存在する世界と、左のスピンを観測した人間が存在する世界に分れるのであると。
つまり観測が行われるごとに世界が倍、倍と増えていく。
つまりそのスピンを観測する人間が私だったとしよう。
すると観測後、右のスピンを観測した安岡が存在する世界と、左のスピンを観測した安岡が存在する世界に分れるのであると。
この2つの世界の人間は互いに相手のことは絶対に知ることは出来ないとされる。
つまり確率波が収縮するということは多世界理論では考えなくていい。だが世界(宇宙)の数がどんどん増えると考えなければならなくなる。
こう考えるならば、確率波の収縮と言うことは存在しなくなるから、一切の偶然は存在しなくなる。すべては必然的にだけ動いていく。
こう考えても実験結果と矛盾することはない。
同時に、私がスピンの観測を行った後、右を観測する自分と左を観測する自分に分れるわけだが、両方を観測することは出来ないから、どちらかにならねばならない。
どちらにもなるのである。必然的・運命的にそうなるのである。
そして2つに分かれた後、そのどちらの私も、事前に自分がどちらに行くかは予想できなかったわけだ。
絶対にどちらに行くかは原理的に予測不可能なのである。なぜなら両方に行くのであるから。
したがってここに事実上の「偶然」が発生するのである。
1.このような偶然だけが実は重要なのである。
なぜなら、例えば入学試験を受けてある大学に入りたいと考えたとしよう。
その場合、多世界理論で考えるとき、私は数か月後どうなっているかは正しく予測が出来る。
つまり怠けていて落第している私と頑張って入学した私の両方が存在するのである。
そのように宇宙は分かれていくのである。
ここには何1つ偶然性は存在しない。
しかし私にとって重要なことは、そのような予測や認識ではなく、現実に宇宙が分裂した後で、私が大学に入学できている宇宙へ行けるか、落第している宇宙に行けるかがまさに問題なのである。
がゆえに実際問題としては偶然性は存在している。
私が頑張って合格できるか、怠けて落第するかはまだ決定されていないのである。
つまり多世界理論で考えるとき、必然性も偶然性も両立可能になるのである。
1.以上から結論としては自由意志とは存在すると考えても存在しないと考えてもどちらも正しいという結論となり、しかし人間があくまでも幸福を目指す限り自由意志が存在すると考えた方がいいことになる。
1.以上の多世界理論(=多世界解釈)しか今のところ、物理現象を合理的に説明できる理論はない。
機械論的唯物理論の人間の心と無関係に確率波が観測によって収縮するとの主張は実験によってすべて否定された(現在までのところ)。
これに属すると考えられる「並木=町田理論」も誤りを発見されている。
一方で心こそが確率波の収縮を引き起こすとの「完全コペンハーゲン解釈」(=「超絶コペンハーゲン解釈」「ウルトラ・コペンハーゲン解釈」とも呼ばれる)も、そもそも確率波が収縮すると考える点で、偶然性を主張していることになり、
したがって現在までのところ全てに矛盾の無いものは多世界理論だけである。
1.しかし多世界理論の難点は、第1に、なぜいくつかに分かれた世界は互いを認識できないか。
第2に、まったく認識できない世界が実在すると考えることは正しいのか。
この2点である。
1.第1の点から考えよう。
量子力学において何らかの測定値を得たい場合、それぞれの測定値に応じ、規則的にそれに対応する演算子(微分の形をしたものかあるいは行列)が選択される。
そしてそれぞれの演算子に対応する固有関数が存在し、現実世界は固有関数の重ね合わせ状態(確率波)であらわされる。
そして測定を行うと、得られる観測値は、上記のいくつかの固有関数に対応した固有値のうちのいずれかのみが獲得される
(以上が量子力学の基本法則である)。
以上の現象は、通常の教科書では観測による確率波の収縮として説明され、多世界理論では観測による宇宙の分裂(もしくは増殖)と説明される。
したがって量子力学の法則により、観測によって固有値に属するいずれかが得られるのであるから、例えばスピンの観測を行えば、右回りか左回りかのみが得られる。
両方が得られるということは出来ない。
したがって私が観測の結果左回りの結果を得るならば、右回りの結果を得ることはない。
したがって観測の結果、左回りとの結果を得ながら、同時に右回りの結果を得ないのであるから、左回りとの結果を得た私は存在するが、その人の回りに同じ人が右回りの結果を得たという現象は起きない。
もしも起きれば量子力学の法則と違ったことが起きたことになる。
したがってあくまでも私は電子のスピンを左回りだったと主張するのであり、これに矛盾する事実は出てこないはずである。
したがって私は全く違う経験を得たという私に出会ってはおかしいことになる。
以上から考え、2つに分れた宇宙は互いを知ることはないと考えるべきである。
1.第2の点を考える。
そもそも量子力学は、観測が原理的にできなければそれは存在しないのだと主張したのではなかったか?
ここで「シュレーディンガーの猫」と言う思考実験について考える。
密閉された箱の中に猫を一匹入れる。「箱の中には猫の他に、放射性物質のラジウムを一定量と、ガイガーカウンターを1台、青酸ガスの発生装置を1台入れておく」。
このとき、箱に入れたラジウムが1時間以内にアルファ崩壊してアルファ粒子が放出される確率が50%であるように量を調整しておく。
「もし、箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これをガイガーカウンターが感知して、その先についた青酸ガスの発生装置が作動し、青酸ガスを吸った猫は死ぬ。しかし、ラジウムからアルファ粒子が出なければ、青酸ガスの発生装置は作動せず、猫は生き残る」。
「この箱の蓋を閉めてから1時間後に蓋を開けて観測したとき、猫が生きている確率は50 %、死んでいる確率も50 %である。したがって、この猫は、生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なりあっていると解釈しなければならない」
(以上、ウイキペデア「シュレーディンガーの猫」)。
以上が何を言っているかは次のことである。
量子力学においては、観測されて初めて値が定まる。
したがって観測結果がまだ出ていない猫は、生きているとも死んでいるともいえないはずだ。
と言うよりも、生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせ状態であるはずであり、一時間後、箱を開けた時、生きていたか死んでいたかが定まるはずだが、本当にそうなのか?
と言う疑問をシュレーディンガーはこの思考実験で提起したのだと言われている。
1.この実験をもっと鋭い形にしたのが「ウイグナーの友人」と言われる思考実験である。
この実験の場合は、まったく同じ状況なのだが、猫の代わりにウイグナーの友人と言われる女性が放り込まれているのである。
するとまったく変なことが起きるのである。
1時間後箱を開け、ウイグナーの友人が生きていたとしよう。そして質問する。
「あなたは間違いなく1時間の間生きていたのですか?死んだことはありませんでしたか?」
当然友人は「私はずっと生きていました」と答えるだろう。
一体どこに重ね合わせられたはずの死んだ友人が存在したのか?
1.だが量子力学が正しいならば、ウイグナーの友人は死んだ状態と生きた状態の重なり合った状態のはずであり、箱を開けた時どちらかに決定されたはずである。
そして量子力学はやはり正しいと考えるべきである。
1.するとさらにおかしいことが起きる。
この宇宙を2つに分ける。
あるいは人類を2つに分け、それぞれが宇宙の果てに旅立つ。
そして一定時間がたった時、両者は再会する。
この時片方がまだ生存しているかどうかは、再開した瞬間に決定されることになる。
つまり人類Bは、人類Aに対し、「あなた方は今まで、生きていたのではない。生きた状態と死んだ状態の重ね合わせであった。再開の瞬間に生きるようになったのである」と言う。
しかし人類Aは、明らかに自分たちが今まで何も問題なく生きていたことを知っているのである。
逆に人類Bこそが今まで、生きているのでも死んでいるのでもなく、両者の重ね合わせだったのである。
1.しかし量子力学が正しいのであるから、人類Aの言い分も人類Bの言い分もどちらも正しいはずである。
このことが矛盾なく言いえるためには、多世界理論以外では不可能である。
つまり人類Aは、人類Bとの別離以降、自分たちが生きているか死んでいるかの確認(=観測)を当然行った。
これによって、人類Aが生きている宇宙と死んでいる宇宙に分裂した。
人類Bにも同じことがいえ、こうして宇宙は全部で4つに分裂した。
さらに両者が再会できた時、再開できない宇宙にも分裂し、全部で8つに分かれた。
そして両者が生きて再会できたというのは、この8つのうちの1つになったということである。
つまり確かに人類AやBは生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせだったのであり、且つ両者とも、「いや、自分たちは一貫して生きていたのだ」と主張することが真実でもあることになる。
以上のように、ウイグナーの友人やシュレーディンガーの猫と言ったパラドックスを矛盾なく説明できるものは多世界理論以外ない。
したがって決して別の宇宙と言うものは認識できないが、実在は疑えないのである。
1.つまり観測できないものは実在しないとの従来の説明は、次のように改めるべきであると考えるべきである。
すなわち、観測できないとは、たくさんの宇宙に分裂したため、同時に複数個の答えがある場合であると。
1個に決定できる量は実在しないのだと。
1.ウイグナーの友人やシュレーディンガーの猫と言ったパラドックスを説明しようと、これまでミクロの状態とマクロの状態では何かの本質的違いがあるのではないか。ミクロの状態が集積してマクロの観測器になるがために確率波の収縮を引き起こせる何かの原因が生じるのではないかと言った理論が沢山作られたがいずれも実験と矛盾して滅びていった。
したがってミクロの素粒子とウイグナーの友人やシュレーディンガーの猫と言ったマクロな存在には何も本質的違いはないはずであり、ウイグナーの友人やシュレーディンガーの猫は生きた状態と死んだ状態の重ね合わせであることは疑えない。
したがってこのパラドックスを解決できるものは多世界理論以外ない。
しかも量子力学の運動方程式=
したがってこれこそが正しい理論と考えるべきである。
したがって心は脳を動かすことが出来、自由意志は存在する。こう考えてよいのではないか。 |
iPS論文不正について180127
1.京都大学iPS細胞研究所で論文の捏造がある助教によって行われた。
「所長の山中伸弥教授は1月分から、給与を全額、研究所の基金に寄付するという。記者会見では進退にも言及したが、同教授に責任を負わせて済む話ではない」
と本日の日経社説は書かれているが、まったく同感である。
1.そもそも山中伸弥教授は全く悪くないのである。悪いのは犯人の山水康平助教だけである。今後京都大学では、実験ノートを提出させるだけでなく、内容をよく読むのだという。山中教授は研究者を信用されており、実験ノートが提出されていれば安心し、内容をチェックするまでは必要ないと考えておられたのであろう。この点を強く「反省」されて責任を感じておられるのであろう。
だが山中教授は一切悪くない。内容を点検しなかったことは正しい。そういう時間があるならば、教授はもっと時間を有効に使い、世界的な研究をされるべきである。
そもそもいくら管理を強化しても相手も頭のいい人がそろっているのだから、いくらでもアッと驚くような抜け道をいくらでも考え出せるであろう。
そういうイタチごっこは無益だ。
1.ではどうすればいいか?
そのことを考える前に、1つ重要なことを述べておく。この問題において山中教授が悪くないと思う点において誰もが同感されるのではないだろうか?
そしてどこの新聞もTVも、「犯人の山水康平助教は山中教授と親しかった(それは同じ研究所で働いていればある程度は親しくもなるだろう)。したがって助教は所長である山中教授に忖度して不正を行ったのであり、山中教授を国会証言に引き釣りだし、徹底的に不正を追及すべきである」と言っていない点である。
ではなぜ安倍総理はこれほど大規模かつ長期間にわたり、何1つ物証のないまま「疑惑疑惑」と攻撃され印象操作攻撃を受けなければならないのか?
またさまざまな企業において、下の人間が何か事件を起こすたびに経営陣が引きずり出されて謝罪を繰り返さねばならないのか?
何1つ自分の責任がないにもかかわらず、ただ運が悪く部下が事件を起こしたというだけで、日本経済にとって極めて重要な方々が人生を棒に振ることが繰り返されてきた。
そして理研においてはSTAP細胞を巡る犯人小保方晴子に巻き込まれ、世界的研究者と言われる理化学研究所元副センター長・笹井芳樹氏(享年52)を左派マスコミは徹底的に攻撃し自殺に追い込んだ。
このようなことを真に反省するならば我々は「証拠主義」に立たねばならないと思うのである。
すなわち、何らかの「疑惑」が出てきたならば、それが当たっている可能性も50%、当たっていない可能性も50%ということであるならば、そもそも印象操作に使うこと自体が極めて恥ずかしいことである。
また100%確実でないならば、中立的立場に立っていわゆる「疑惑」が当たっていない可能性についても力説すべきだ。
そもそもマスコミは事実を報道すべきであり、「疑惑」とか「単なる「可能性」を報じること自体が変な話である。どうしてもそういうことをやりたいならば、繰り返しになるが100%確実でないならば、中立的立場に立っていわゆる「疑惑」が当たっていない可能性についても力説すべきだ。
またそのような「証拠主義」に立ってもいわゆる「権力」に対する「監視」は出来るのであり、しかもより有効に行うことが出来る。事実ほど雄弁なものはないからだ。
このままでは朝日などは「フェイク・ニュース」として遠からず誰も見向きしなくなるだろう。
1.さて元に戻るが、ではこのような不正をなくすにはどうすればいいか?
ところで現在このような不正が相次いでおり、東大でもそうであった。
つまり政府が拠出する巨額の研究費が狙われ、不正が相次ぎ、莫大な予算がどぶに流されて消えている問題があるのである。そのことを報じた最近のものとして次のものがある:
「追跡 東大研究不正
~ゆらぐ科学立国ニッポン~」
(「NHKスペシャル」2017年12月10日(日))
「日本が進む科学「衰退国」への道
巨額「科研費」をただ浪費するのみ」
(「選択」2017.12月号)
また当HPでも次の記事を書いている:
「日本の今後の戦略について「13」180111」
1.そこでどうすればいいか?
この問題については既に多くが語りつくされているため、私が見て最も重要だと考える点を1点だけ述べる。
つまり、本当に研究に喜びと誇りを持っている人はこういうことをしないということである。
真理探究の神聖さを感じている人はこういうことをやらない。
ではなぜこういう現象が生じるのであろうか?
それは、自分が勉強を行うことに深い喜びを感じているがために勉強を行う、研究者になると限らないということである。
つまり親が大学で教授をやっている場合、子供に対する期待は高いであろう。こうして本人の適性と関係なく「学者」が作られていく。
それ以外にも「研究者」を目指す動機は存在し、例えば「地位」「名誉」「権力」のため学者になる人もいる。特に明治以降「末は博士か大臣か」と言われ、「学者」と言うことは実は大臣よりもよほど名誉なこととされている。
また「博士」とか、もっと俗に言えば「東大卒業者」と言うことに憧れる女性も多く、「あの人は博士号を持たれている」とか「どこどこの大学の教授だ」と言うことで結婚したいと思う人も多く、いわゆる「逆玉の輿」が簡単に実現するということがある。
そして現実に私のところには続々と、「大学の教授と言うことで結婚したが、結婚後分かったのだがあの人はまったく勉強をやらない人だ。人格を疑う。離婚したい」と言う相談が殺到していた時期があったのである。
そして現在、大学予算が削られ、だが国にとって役立つ研究に対しては莫大な金を出すという制度が行われている。
こうして真面目な学者は口下手で予算が貰えず、詐欺的な人だけが莫大な金をせしめるという完全な「金儲け」のための目的と化しているのである。
1.従ってではどうすればいいのか?
「国にとって役立つ研究に対しては莫大な金を出すという制度」はまったく本末転倒だということだ。
こういう制度は何を意味するのであろうか?
つまり国に役立つ研究を行いなさい。例えば癌撲滅の研究をやりなさい。
そうすればあなたは大変に儲かりますよと。
つまり金儲けのために研究しろと言うことである。
一般的にはこういう制度はいいことだとされる。社会のため役立つことをやることで儲かるのが資本主義である。
ところが「研究」と言うことは資本主義原則と相いれないのだと思えるのである。
つまり一般の商品は消費者が使い、役立つかどうかを判断できる。しかし「研究」の内容は、そう簡単に見抜くことは出来ない。
そこで国は別の研究者をバイトで雇い、本当に国に役立つ研究かを審査させる。しかしこれまでなかった画期的な国に役立つ研究なのだから、そう簡単に本当にそうなのかを判断できないのである。
つまり本当にそういう研究であるならば、その研究者のレベルは審査員のレベルをはるかに抜いているのである。
はるかに抜いているがゆえに審査から落とされることもあるであろう。逆に判断が出来ないがために合格させることもあるであろう。
いずれにせよ、不正を行う人間はそう簡単に審査員に見抜かれない用心を行っているはずである。
こうして続々と不正「研究」に予算が落ち、その大半は無駄に捨てられている。
それだけでなく、そもそもこの制度は金儲けのために研究しろと言うことである。
国がこういう制度を続ける限り、研究者は研究の目的を金儲けのためと考えることになる。
それだけでなく今後は学生・生徒も勉強の目的を真理の探究ではなく金儲けのためと考えるだろう。
ここで「研究」が資本主義と合致しない第2の点が生まれる。
つまり金儲けのためなら「研究」よりももっと簡単な方法があるではないか。
「研究」ではなく「研究するフリ」をすることである。
こうしてこの制度を続ける限り、本当に研究に喜びと誇りを持っている人、真理探究の神聖さを感じている人はどんどん減っていくと言うことである。
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