西武鉄道・ときどきの話題
~ 第7回 ~
◇ 清張生誕100年にちなむ …西武鉄道 ◇
巨匠・松本清張が、1992(平成4)年8月4日に82歳(肝臓ガン)でこの世を去ってから17年、今年(2009年)は「清張生誕100年」という節目の年を迎え、全国各地でさまざまなイベントが展開されている。
フィクション・ノンフィクションの垣根を超えた広大な文学の領域で、質・量ともに(約1,000篇)他の追随を許さぬ業績を遺した国民的作家・松本清張は、犯罪の動機と社会的背景を描写して日本の推理小説の歴史を塗り替え、「社会派推理小説」としての新機軸を打ち出して史上空前の推理小説ブームを到来させた。その起爆剤となったのが、作品の代名詞的存在ともいえる“疑惑の4分間”(東京駅の13番線ホームから線路二つを隔てた向かいの15番線ホームを見通せる時間)に代表される『点と線』(1957(昭和32)年)である。
終戦(太平洋戦争)から11年、当時の経済企画庁が出した「経済白書」が“もはや戦後ではない”と、大々的に戦後の終りを宣言したのは1956(昭和31)年7月のことであった。この頃から日本の経済は急速に安定期を迎え、国民の生活は日に日に豊かさを増して行く、未曾有ともいえる高度経済成長の時代へ突き進んだ。
そうした時代の風潮を先取りしたかの如くに登場したのが、日本で一番古い旅行雑誌「旅」(現在休刊中)に連載(1957年2月~1958(昭和33)年1月)され、光文社から単行本として刊行(1958年)されて記録的なベストセラーとなった、松本清張の処女長編推理小説「点と線」であった。そして、「点と線」は、その後に続く史上空前の社会派と呼ばれる推理小説ブームを巻き起こす発端となった。
清張没後17年を経るが、今もなお清張作品の多くが映画やテレビドラマ化されるなど作品に対する魅力は色褪せることなく、松本清張が作家として駆け抜けた昭和の時代と作品が再評価されている。かつて、多くの映画監督たちの制作意欲をかき立てた清張作品の数々、各映画会社が競うが如くに30を超える作品を映画化してきた。その一つ、「点と線」は日本映画全盛期の1958(昭和33)年に、当時は時代劇を主流に撮っていた東映によって制作(小林恒夫監督)されている。 (下の写真は東映「点と線」制作時の映画ポスター)
松本清張はまた、作品を通して多くの土地や風景、風習、風俗を全国に知らしめてきた。「点と線」の作品では、博多湾に臨む福岡県福岡市東区の「香椎潟」(通称“香椎海岸”)であろう。当然に、「点と線」の舞台となった当時の香椎海岸の今は大きく変貌し、当時の海であったところは埋め立てられて高層マンションが建ち並ぶ住宅地となって、作品の風情を味わうことは叶わない。
午後9時35分に、西鉄香椎駅で電車を降りた男女の一組が、かなり急ぐ足どりで浜(香椎海岸)の方へ出る寂しい道を歩いて行った。オーバー姿の男と防寒コートをまとった和服の女のカップルは、安田辰郎(機械工具商安田商会経営者(42))とお時(本名・桑山秀子(26)、東京赤坂割烹料亭「小雪」の世話係)であった。 (下の写真は映画「点と線」制作当時の西鉄香椎駅)
その少し前の午後9時24分にも、国鉄の香椎駅に降りたオーバー姿の男と和服の女のカップルが浜の方へ向かって行った。男は佐山憲一(××省課長補佐(31))と、女は安田亮子(安田辰郎の妻(32))の二人であった。 (下の写真は国鉄当時の鹿児島本線香椎駅)
それぞれのカップルは別々に香椎海岸に着いた後、佐山とお時は安田夫妻によって青酸カリ入りジュースを飲まされて絶命し、情死したかのように浜の岩場に並べられ心中に偽装されたのである。翌朝早く、出勤途上の一人の地元労働者からの通報によって、冬の海岸に横たわる男女二人の死体発見に至ったことが、「点と線」における事件の発端であった。
佐山とお時の死は、東京駅で特急<あさかぜ>に乗る二人を、お時の同僚2人が目撃していたことから事件は合意による心中として処理される。
しかし、頻繁に列車が発着を繰り返す東京駅で、二つの線路を隔てた向かいのホームを歩く二人(佐山とお時)を目撃できるのは17時57分から18時01分の“4分間”だけということを突き止めた刑事二人(福岡署の鳥飼重太郎刑事と警視庁捜査二課の三原紀一警部補)が、そこに事件に対する作為を感じ取る。
映画「点と線」(1958年)の中で、心中に疑問を抱く刑事二人が香椎海岸への最寄り下車駅である国鉄香椎駅(鹿児島本線)と西鉄香椎駅(西日本鉄道宮地岳線)の周辺で、聞き込みに入る場面がある。その一つ、西鉄香椎駅前の撮影場面には、西武鉄道の西武新宿線「東伏見駅」(現・東京都西東京市、西武新宿起点15.3㎞)が、1958年当時の西鉄香椎駅を模して使用された。 (下の写真は映画「点と線」のロケ地に使われた東伏見駅)
聞き込み中の二人の刑事が、東伏見駅の東部方(西武新宿方)の踏切を渡って駅(南口)へ向かう場面では、駅に停車中であろう当時の黄と茶の西武カラーをまとった311形電車の姿が見て取れる。また、駅前に立って路線駅名板(宮地岳線)を確かめている刑事たちの背後には、ツートンカラーの西武電車が到着するシーンも見られる。
東伏見駅の正面屋根部分には、西鉄香椎駅に模して大きな路線駅名案内の看板が掲げられ、改札口の上部に備えられている時計には西鉄の社紋が描き込まれているなど、映画の中では東伏見駅とはうかがい知れないほどに演出されていた。
「点と線」の撮影から50年を経た現在、当然に映像の中に在った当時の情景を偲ぶことは叶わず、駅周辺のたたずまいは一変してしまった。強いて、当時の映像の面影を感じ取ろうとするなら、駅南口の広場と周辺道路とのレイアウトと、刑事たちが渡って駅へ向かった踏切と線路に沿う道路の位置関係ぐらいではないだろうか。当時の、「点と線」の撮影風景を知る地元の人たちも、少なくなっていると聞く。
今また、清張生誕100年を機に再び映像の世界で清張ブームが起きているが、50年前に撮られた「点と線」に描かれた東伏見駅こと西鉄香椎駅の、その片鱗さえ現在の東伏見駅(1983(昭和58)年3月に橋上駅舎化)には見当たらない。
ちなみに、国鉄香椎駅の撮影には国鉄の佐倉駅(現・JR総武線、千葉県佐倉市)が使われた。同駅のホームには、香椎宮に因む赤い灯籠が飾られ、“香椎”の駅名標や名所案内板などで装われた佐倉駅には手の込んだ演出が施されたという。また、映画「点と線」縁の唯一の原風景として残っていた西鉄香椎駅ではあったが、線路の高架化に伴って高架の新駅となって(2006(平成18)年5月)消えていった。
松本清張の作品の中には、清張自身が杉並区荻窪や練馬区関町、練馬区上石神井、杉並区上高井戸などに住んでいたこともあって、いずれの居所も西武鉄道沿線に比較的近いことから西武沿線の駅名や風景などが時折織り込まれていた。そのことからも、私自身西武沿線に住んでいる関係から清張作品には前々から親しみを持ち続けており、今までに推理小説を含め400冊を超えて楽しませていただいている。
清張生誕100年に際し、改めて映画「点と線」に撮り込まれた昔日の東伏見駅に旧懐の想いを馳せてみた次第である。 (終)
◇ 清張生誕100年にちなむ …西武鉄道 ◇
巨匠・松本清張が、1992(平成4)年8月4日に82歳(肝臓ガン)でこの世を去ってから17年、今年(2009年)は「清張生誕100年」という節目の年を迎え、全国各地でさまざまなイベントが展開されている。
終戦(太平洋戦争)から11年、当時の経済企画庁が出した「経済白書」が“もはや戦後ではない”と、大々的に戦後の終りを宣言したのは1956(昭和31)年7月のことであった。この頃から日本の経済は急速に安定期を迎え、国民の生活は日に日に豊かさを増して行く、未曾有ともいえる高度経済成長の時代へ突き進んだ。
そうした時代の風潮を先取りしたかの如くに登場したのが、日本で一番古い旅行雑誌「旅」(現在休刊中)に連載(1957年2月~1958(昭和33)年1月)され、光文社から単行本として刊行(1958年)されて記録的なベストセラーとなった、松本清張の処女長編推理小説「点と線」であった。そして、「点と線」は、その後に続く史上空前の社会派と呼ばれる推理小説ブームを巻き起こす発端となった。
清張没後17年を経るが、今もなお清張作品の多くが映画やテレビドラマ化されるなど作品に対する魅力は色褪せることなく、松本清張が作家として駆け抜けた昭和の時代と作品が再評価されている。かつて、多くの映画監督たちの制作意欲をかき立てた清張作品の数々、各映画会社が競うが如くに30を超える作品を映画化してきた。その一つ、「点と線」は日本映画全盛期の1958(昭和33)年に、当時は時代劇を主流に撮っていた東映によって制作(小林恒夫監督)されている。 (下の写真は東映「点と線」制作時の映画ポスター)
松本清張はまた、作品を通して多くの土地や風景、風習、風俗を全国に知らしめてきた。「点と線」の作品では、博多湾に臨む福岡県福岡市東区の「香椎潟」(通称“香椎海岸”)であろう。当然に、「点と線」の舞台となった当時の香椎海岸の今は大きく変貌し、当時の海であったところは埋め立てられて高層マンションが建ち並ぶ住宅地となって、作品の風情を味わうことは叶わない。
午後9時35分に、西鉄香椎駅で電車を降りた男女の一組が、かなり急ぐ足どりで浜(香椎海岸)の方へ出る寂しい道を歩いて行った。オーバー姿の男と防寒コートをまとった和服の女のカップルは、安田辰郎(機械工具商安田商会経営者(42))とお時(本名・桑山秀子(26)、東京赤坂割烹料亭「小雪」の世話係)であった。 (下の写真は映画「点と線」制作当時の西鉄香椎駅)
その少し前の午後9時24分にも、国鉄の香椎駅に降りたオーバー姿の男と和服の女のカップルが浜の方へ向かって行った。男は佐山憲一(××省課長補佐(31))と、女は安田亮子(安田辰郎の妻(32))の二人であった。 (下の写真は国鉄当時の鹿児島本線香椎駅)
それぞれのカップルは別々に香椎海岸に着いた後、佐山とお時は安田夫妻によって青酸カリ入りジュースを飲まされて絶命し、情死したかのように浜の岩場に並べられ心中に偽装されたのである。翌朝早く、出勤途上の一人の地元労働者からの通報によって、冬の海岸に横たわる男女二人の死体発見に至ったことが、「点と線」における事件の発端であった。
佐山とお時の死は、東京駅で特急<あさかぜ>に乗る二人を、お時の同僚2人が目撃していたことから事件は合意による心中として処理される。
しかし、頻繁に列車が発着を繰り返す東京駅で、二つの線路を隔てた向かいのホームを歩く二人(佐山とお時)を目撃できるのは17時57分から18時01分の“4分間”だけということを突き止めた刑事二人(福岡署の鳥飼重太郎刑事と警視庁捜査二課の三原紀一警部補)が、そこに事件に対する作為を感じ取る。
映画「点と線」(1958年)の中で、心中に疑問を抱く刑事二人が香椎海岸への最寄り下車駅である国鉄香椎駅(鹿児島本線)と西鉄香椎駅(西日本鉄道宮地岳線)の周辺で、聞き込みに入る場面がある。その一つ、西鉄香椎駅前の撮影場面には、西武鉄道の西武新宿線「東伏見駅」(現・東京都西東京市、西武新宿起点15.3㎞)が、1958年当時の西鉄香椎駅を模して使用された。 (下の写真は映画「点と線」のロケ地に使われた東伏見駅)
聞き込み中の二人の刑事が、東伏見駅の東部方(西武新宿方)の踏切を渡って駅(南口)へ向かう場面では、駅に停車中であろう当時の黄と茶の西武カラーをまとった311形電車の姿が見て取れる。また、駅前に立って路線駅名板(宮地岳線)を確かめている刑事たちの背後には、ツートンカラーの西武電車が到着するシーンも見られる。
東伏見駅の正面屋根部分には、西鉄香椎駅に模して大きな路線駅名案内の看板が掲げられ、改札口の上部に備えられている時計には西鉄の社紋が描き込まれているなど、映画の中では東伏見駅とはうかがい知れないほどに演出されていた。
「点と線」の撮影から50年を経た現在、当然に映像の中に在った当時の情景を偲ぶことは叶わず、駅周辺のたたずまいは一変してしまった。強いて、当時の映像の面影を感じ取ろうとするなら、駅南口の広場と周辺道路とのレイアウトと、刑事たちが渡って駅へ向かった踏切と線路に沿う道路の位置関係ぐらいではないだろうか。当時の、「点と線」の撮影風景を知る地元の人たちも、少なくなっていると聞く。
今また、清張生誕100年を機に再び映像の世界で清張ブームが起きているが、50年前に撮られた「点と線」に描かれた東伏見駅こと西鉄香椎駅の、その片鱗さえ現在の東伏見駅(1983(昭和58)年3月に橋上駅舎化)には見当たらない。
松本清張の作品の中には、清張自身が杉並区荻窪や練馬区関町、練馬区上石神井、杉並区上高井戸などに住んでいたこともあって、いずれの居所も西武鉄道沿線に比較的近いことから西武沿線の駅名や風景などが時折織り込まれていた。そのことからも、私自身西武沿線に住んでいる関係から清張作品には前々から親しみを持ち続けており、今までに推理小説を含め400冊を超えて楽しませていただいている。
清張生誕100年に際し、改めて映画「点と線」に撮り込まれた昔日の東伏見駅に旧懐の想いを馳せてみた次第である。 (終)
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