本回が取り上げる扶桑紙器は、1990年代初頭を境に乳栓製造から撤退したメーカーであるが、手元に集まってきた乳栓を観察すると、じつに個性的かつ機能的な特徴を有しているといえる。 牛乳栓に特化した古典サイト「牛フタ倶楽部」では、全国における耳(取って)付きキャップの分布状況について、中国・四国・東北・長野に多く見られることに言及されている。 参考:http://www006.upp.so-net.ne.jp/ushifuta/TOTT.HTM 耳付きキャップの分布について補足すると、エリアによりそれぞれの来歴が異なる。詳細は各県書庫の《2行でわかる乳栓分布》に譲るが、中国地方は前回触れた中国乳栓(広島)・明治工業総合印刷/いわゐ荷札印刷(岡山)、四国地方は関西キャップ印刷所(徳島)・大阪乳栓(大阪)の関係が大きい。 残る東北(厳密には南部中心)・長野はもともと撤退以前の扶桑紙器がシェアを広げていたエリアで、このほか富山・石川・福井を除く中部各県および関東各都県も扶桑紙器の採用例は多かった。東北・長野(+新潟)耳付きキャップについては、後述の紐付きキャップ(プルキャップ)からの移行例と扶桑紙器時代から耳付きであったものと両者が含まれるが、一方で扶桑紙器の撤退後は丸形(取ってなし)に移行している地域もある。 扶桑紙器は後年は東京都下に本社を置いていたが、「日本乳容器・機器協会」コラムによれば以下の記述がある(引用は原文のままだが適宜改行をすることがある。以下同)。
その後、当協会を設立するにあたって、さらに全国に散在しているキャップメーカーから発起人を 募った結果、高橋栄一郎(扶桑紙器)、小林英雄(東洋キャップ・故人)、押鐘正己(日本紙器工 業)、稲葉幸一(三陽紙器・故人)等の多彩な方々が参加することになった。 扶桑紙器については管見の限り社史などは公刊されていない模様だが、ホームグラウンド推測の傍証になりうる事例をいくつか挙げることができる。ひとつは愛知県宝飯郡小坂井町に所在した、扶桑乳業の存在である。 参考:「漂流乳業」サイト内 >全国のローカル乳業 中部地方の牛乳>扶桑牛乳 http://www.citymilk.net/bin/chubu/aichi/fusou.htm >名糖牛乳(協同乳業) http://www.citymilk.net/bin/ote/meito2.htm#04 扶桑乳業の沿革については「漂流乳業」に詳説されているのでここでは摘記にとどめるが、昭和23年に扶桑金属工業(旧・住友金属)の東海乳業所として発足、同26年に扶桑乳業として独立し市乳製造開始、同31年に協同乳業に合併し豊橋工場として再出発(市乳は翌32年まで扶桑ブランドとして続投)といった流れをたどっている。 参考:【愛知県/23-09】扶桑乳業・協同乳業豊橋工場(1/2:牛乳・加工乳) http://blogs.yahoo.co.jp/mtkazagasira/28720537.html 扶桑乳業名義の「扶桑牛乳」・協同乳業豊橋工場名義の「スーパー牛乳」が確認できる。 先述のように協同乳業に吸収合併されたブランドは、昭和32年の「名糖牛乳」誕生までは既存ブランド名のまま出ていたのであるが、名糖ブランドの確立と拡充に伴って開設された各工場で用いられる乳栓の供給元については、扶桑紙器がほぼ占有するにいたっている。 多数の分工場を抱える大手乳業にとって、包装資材の供給元の一元化が効率的なことはいうまでもないが、扶桑紙器の乳栓を同様に採用する雪印乳業や明治乳業ではこれほどの偏りはみられない。 弊ブログ収集品より帰納してみると、昭和時代に稼働していた協同乳業各工場の採用傾向は次のようである。扶桑紙器のうち○は耳付きキャップ採用、◎は後述のプルキャップ採用を示す。 ○【広島県/34-08】広島工場 ・・・・・・・・・・・・山王紙器 ○【大阪府/27-24・-25】大阪工場・・・・・・・・・・弘野牛乳用品 ○【愛知県/23-18-~19】豊橋工場・・・・・・・・・・扶桑紙器◎○→東洋キャップ ○【 同 -21~-22】名古屋工場・・・・・・・・・扶桑紙器◎○→東洋キャップ・尚山堂 ○【静岡県/22-08】浜松工場 ・・・・・・・・・・・・扶桑紙器◎ ○【岐阜県/21-10】名東酪農農業協同組合 ・・・・・・扶桑紙器◎ ○【長野県/20-22】上田工場 ・・・・・・・・・・・・扶桑紙器◎ ○【 同 -23】松本工場 ・・・・・・・・・・・・扶桑紙器○→東洋キャップ・尚山堂 ○【山梨県/19-03】甲府工場 ・・・・・・・・・・・・扶桑紙器○ ○【神奈川県/14-12】茅ヶ崎工場 ・・・・・・・・・・扶桑紙器 ○【 同 -13】神奈川県経済連中酪牛乳工場 ・・扶桑紙器→東洋キャップ・尚山堂 ○【 同 -14】津久井郡農協牛乳工場 ・・・・・扶桑紙器 ○【東京都/13-22・-23・-24】東京工場 ・・・・・・・扶桑紙器 ○【 同 -22】三鷹工場 ・・・・・・・・・・・・扶桑紙器 ○【千葉県/12-06・-07・-08・-09】千葉工場・・・・・扶桑紙器→東洋キャップ・尚山堂 ○【群馬県/10-11】群馬協同乳業】 ・・・・・・・・・扶桑紙器→東洋キャップ・尚山堂 ○【茨城県/08-07・-08】関東協同乳業・・・・・・・・寶冠 ○【福島県/07-01・-02・-03】本宮工場 ・・・・・・・扶桑紙器○→寶冠 ○【 同 -04】星ミルクプラント ・・・・・・・・扶桑紙器○ ここで荒唐無稽の謗りを顧みず推測するならば、扶桑紙器の社名は扶桑金属工業、すなわち住友グループとの関係に由来する命名ではなかっただろうか。扶桑乳業についても当初は住友グループの福利厚生事業としての役割が強かったが、おそらくは住友グループとしての紐帯に端を発した異業種間の相互扶助が、協同乳業にも引き継がれたと推測しうるのである。 このように考えてみると、そもそも乳栓製造には亜鉛版の作成や原紙裁断などの製造工程において金属製品が必須となる上、じっさいに扶桑紙器の乳栓を観察してみても、全体に高い技術力を誇る乳栓各社の中でも異彩を放っているといえるのである。 本稿では扶桑紙器の牛乳キャップについて、以下の鑑賞ポイントに沿って記述をすすめていく。 ①・紐付きキャップ(プルキャップ)の導入について ②・元紙切り出しと刷り加減について ③・機械フォントの導入・日付加刷について ④・扶桑紙器の乳栓製造撤退後について ①・紐付きキャップ(プルキャップ)の導入について
市販牛乳の需要が激増した昭和30年代においては、開けやすい工夫を凝らした牛乳キャップの開発がさまざま試行されたが、プルキャップはその一種でビニール素材の帯を牛乳キャップの表裏に回り込ませてあり、帯の先端を引っ張ると梃子の原理で容易に開栓することができる。扶桑紙器のものは併行する2本の糸を封入し強度をもたせてある。
特殊型牛乳キャップには多種多様なものがあったが、主要なものは以下の通りである。
1. 耳付きキャップ…現在も使用されているが、東京都と大阪府では不可。
2. 裏切れキャップ…当時は多用されたが、現在は使用されていない。 3. 針金つきキャップ…当時数社で使用されたが長続きしなかった。 4. 爪付きキャップ(針金なし)…当時数社で使用されたが長続きしなかった。 5. 平紐付きキャップ(プルキャップ)…使用されなかった。 6. 帯付きキャップ(プルキャップ)…当時数社で使用されたが長続きしなかった。 7. 花形キャップ…使用不可
かつてプルキャップを採用していた静岡県のミルクプラントの直話で、プルキャップのパテントは扶桑紙器が保持していたとうかがったことがある。特殊型キャップの開発が盛行した時期からすると後発の感もあるが、製造から50年近く経過した牛乳キャップの現物捕捉はなかなか難しい。他社でプルキャップを採用している例としては寶冠が挙げられ、こちらはビニル幅を広くして強度を確保している。 ②・元紙切り出しと刷り加減について 明治乳業についてはプルキャップ・耳付きキャップともに採用例は少ないが、関東地方・中部地方(東海・信越)・近畿地方では寶冠とシェアを二分していた。明治乳業の紙キャップには関西キャップ印刷所を除き、乳栓メーカーの識別符丁として1~2本のバーを周縁部に付してある。扶桑紙器の場合は左に1本あるのが原則で、寶冠は左右に1本ずつある。 両社のシェアは工場・品目ごとに異なり、「明治ラブエース」は寶冠のように棲み分けされている品目もある。ビン入りヨーグルトに用いられる大型の42.5ミリキャップについては現在は寶冠がシェアを担っているが、「明治ハネーヨーグルト」については長年のあいだ扶桑紙器が製造しており、撤退後は東洋キャップ→三陽紙器とリリーフしたのち終売にいたった。
一方で扶桑紙器と明治乳業との関係は小型キャップについても同様のことがいえ、今はなき60ml瓶入りの「明治パイゲンC」用の23.4ミリキャップは扶桑紙器が製造していた。昭和40年代前半に子供時代を過ごした方なら、キャップ裏面に空押し(エンボス)の「アタリ」が出れば、その場でもう1本もらえるキャンペーンを記憶されている方もいらっしゃるのではないだろうか。 余談ながら牛乳キャップのデザインは、乳栓メーカー各社がしばしばオリジナルの雛形を保有しているが、大手乳業のデザインに類似するものは意外に少ない。そのような中で扶桑紙器については、明治乳業のキャップに類似するデザインの牛乳キャップが散見されるのが特筆される。
③・機械フォントの導入・日付加刷について 「牛乳栓鑑賞概論その2―製造日表示への切替えと各社横断フォントの導入および推移―」で述べた通り、昭和40年代前半は牛乳瓶や牛乳キャップといった包装資材の表示変更が相次ぎ、同時に新機軸がさまざま盛り込まれた時期でもあった。 このときに示されたモデル図案ではいち早く機械フォントが採用されたが、牛乳キャップについては手書きフォントから機械フォントへの交替が本格化するのは平成に入ってからである。扶桑紙器は販売曜日表示から製造日表示への変更時期において、機械フォントを積極的に導入していた数少ないメーカーである。
販売曜日時代の牛乳キャップは、銘柄ごとに各曜日(工場休業の曜日を欠いたり別に賀正表示が存在するケースもあった)の元版を作成するケースが通例であったが、製造日表示の導入にしたがって1~31の日付をキャップに記載することになった。
尚山堂は東和製機(現トーワテクノ)と共同で、打栓された後、流れてくるコンベア上で印字する活 字組込式の印字機TDマシンを開発した。同機は現在も一部乳業メーカーで稼働している。 扶桑紙器の日付印刷機もロータリー式抜刃メーカーと共同開発で、打栓後に水車型のコンベア上で印 字するものだった。 一方、三陽紙器(現ソロカップジャパン)は深尾精機と共同でゴム印が回転し、打栓と同時に捺印す る印字機を開発し、商品名をミルマーカーと称した。同機も今なお、一部乳業メーカーで使用されて いる。 東洋キャップもまた中部機械製作所と共同開発し、打栓機の打栓棒に回転式のゴム印を組み込み、打 栓と同時に捺印する印字機を開発した。 ④・扶桑紙器の乳栓製造撤退後について 冒頭に述べたように扶桑紙器は90年代初頭に牛乳キャップ製造から撤退するが、扶桑紙器が手がけていたキャップは乳栓メーカー各社にリリーフされた。雪印乳業・明治乳業・協同乳業など大手乳業では東洋キャップ・尚山堂への移行が多く、地乳業については寶冠のほか好成堂への移行も出ている。 扶桑紙器の牛乳キャップに特徴的だった彫りの深い鉛版は、東洋キャップや尚山堂などに継承されたとみられる。たとえば東洋キャップに移行した「明治ハネーヨーグルト」などの印刷面は、扶桑紙器時代の面影をうかがうことができたが、このような扶桑紙器の遺産も90年代末の機械フォントの大量流入に伴い大半が淘汰されてしまった。
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