==★★★ 旭川発つばさ号!★★★==

北の国から北海道と旭川の魅力を乗せ全国に向け発車します!・・・ since2011・2・14

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旭川市街軌道の自由な研究

旭川停車場から第七師団へのルートは第七師団が移転後は常に生活的にみてもまた政治的にも重要な路線であった・・・馬が往来する風景が明治39年には馬車鉄道が敷設され大正8年までそのルートを担っていた。大正9年からは一般民からも必要性が高まり自由に走れる乗合馬車にとって代わられる。



そんな中、昭和に入り電気軌道がその主役となってくる時代が来た・・・





昭和2年旭川では一足早く旭川電気軌道が旭川~東川線を開通させる

俗に言う「郊外電車」である

その2年後・・・

後に「市内電車」と呼ばれる路線が誕生する

昭和4年 旭川市街軌道が誕生

路線の敷設を競合申請していた軌道3社が合同での設立

旭川停車場~第七師団司令部の黄金路線中心の軌道として発展していった

開業当時の新聞です

イメージ 11


イメージ 12

同じ日に子供向けの記事も・・・
イメージ 13

一本角はエジソンんの発明なんですね



当然のことながらカラー写真は無い時代

イメージ 1

どんなカラーリングだったのかとても知りたくなってきた事はいうまでもない

余計に興味が沸いてきた

所蔵の旭川資料を片っ端から見ていくうちに観光パンフの表紙に絵画を発見

どうやら上の写真の反転を元にした手彩画みたいです


イメージ 2

結構派手な配色なんですね~


車両は一番多いときで29両
排雪車をいれると31両あったと思われる
特徴は屋根から飛び出る一本のシングルポール型集電装置


寒冷地ゆえに屋根も丸みがあり、運転席は独立密閉運転台だったそうです

電車も北海道は雪対策と寒さ対策の寒冷地仕様なんですね

後ろの車両はブルーとオレンジ
前はオレンジのツートン
スカイブルーの車両もあったとか・・・

どっちにしろ戦後の暗い雰囲気を打ち消すかのように派手な色を採用したんだね





旭橋の下をくぐる師団線ですね

旭川市街軌道は一条線・四条線・師団線

全線廃止の昭和31年まで市民の足として親しまれていました

残念ながら旭川で旭川市街軌道の電車車両を保存してはいません


写真も27年間 旭川を現役で走っていたわりに少ないと思います

イメージ 9

ロータリーにあった平和塔をくぐる市街軌道

現存車両はないのでしょうか・・・・

イメージ 8

いつの時代も花電車は子供達の楽しみでしたよね

【市街軌道の関連文】

~旭川の橋~ 関根正次氏 の一文より

【電車導入当時は最新鋭の電車であったが、戦後のそれはガタガタ電車で、走る速度も特別速いものではなかった。電車というと屋根の上のパンタグラフを連想するが、旭川の電車は屋根の上にポールがあり、それで電気を引いていた。線路が二股になると、後ろの窓から車掌が体を乗り出して、ポールを進行方向に切り替える、というもっとも「電車らしい」電車であった。冬の車内は寒かったが、大雪のために運休した、という話は聞いたことがなかったように思う。】




それ以外に多少ですが・・・当時の車両のデータは資料として残っておりました



旭川市街軌道車両データ

昭和4年のスタートは川崎車両の20両の半銅製車両
【1-20】

車番6番は事故が多かったため31番に変更
【31】

翌年汽車会社東京支店から6両を増やす
【22-27】

昭和9年に登別温泉軌道より京浜電気工業合資会社製の木造車両3両を譲り受ける
【28-30】
イメージ 7
昭和8年に幕を閉じた登別温泉軌道

戦後縮小で他社に譲渡を進める動きが盛んになる

結局 昭和31年全廃まで走ったのは


旭川で余生を送った川崎車両の16台
戦後は3桁の車番に変更
1→101
2→102
4→204
5→105
6→31→231
7→107
8→208
9→109
10→210
11→311
14→314
15→315
16→416
17→217
18→118
19→319

戦後更新時には順次頭の番号に更新年号の下一桁を取り入れていったんですとさ

そして昭和31年6月8日電車としての幕を下ろすことになります

その時の北海タイムス
イメージ 10

電車全廃後、旭川の学生のために東京と札幌に旭川寮を提供の記事です



ここで素朴な疑問

移籍した車両は残っていないのでしょうか?


そこで

譲渡先の元旭川市街軌道車両を追跡!


豊橋電気軌道に譲渡の4両
(12,13、24,27)

昭和24年2月25日付けで受け入れ
譲渡時点ではスカイブルー塗装だったらしいがオリジナルカラーかどうかは不明です。
豊橋電鉄の記事に面白いエピソードが書いてありましたのでご紹介します

「旭川市街軌道のあった旭川から豊橋への輸送手段は鉄道国鉄)であった。輸送途中、労働争議台風上陸に巻き込まれたため一時行方不明になり、発送からおよそ2か月たってようやく豊橋に到着した。到着時、車両はぼろぼろの状態になっていた。」
~ウィキペデア豊橋モハ200系より~

豊橋電鉄での車番が判りました
()内は旭川市街軌道時代
201(24)汽車会社
202(27)汽車会社
203(12)川崎車両
204(13)川崎車両

イメージ 3

豊橋電鉄の201

そう元旭川市街軌道 車番24 です

最終的には昭和40年に廃車となっているみたいです

汽車・電車1971~」に解体を待つ203の写真が載っております

許可が頂けましたらご紹介したいと思います



秋田市電に譲渡の4両
(22,23,25,26)

昭和23年に移籍です
こちらも昭和41年の廃線時に廃車となってます
イメージ 4


イメージ 6

秋田電鉄で余生を送った元旭川市街軌道 車番22

イメージ 5

こちらは元旭川市街軌道の秋田電鉄 車番26

写真は「news pig」から秋田電鉄時代の写真をお借りしました


北炭へ譲渡の4両

北海道炭礦汽船夕張鉱業所(28,29)北炭角田専用鉄道(3,20)

北炭ではこれらの専用鉄道を電化して電車を走らせるべく、夕張砿専用鉄道は1948年(昭和23年)7月、角田砿専用鉄道は同年10月に工事方法変更(電化)認可申請し、旭川市街軌道より夕張砿用に28と29(書類上は29と30)、角田砿用に3と20をそれぞれ購入したが、資金難により夕張砿専用鉄道の電化は頓挫、角田砿専用鉄道のみが電化され、砿員・家族輸送に電車が使用された。従前、夕張鉄道線の夕張市内で使用する目的で旭川市街軌道の電車を購入した旨の記述が見られるが事実かどうかは不明

~ウィキペディアより関係部分抜粋~

旭川市街軌道の資料は少なく現存保管車両も一台も無いはずです

今回ご協力いただきました図書館スタッフの皆さんありがとうございました


旭川市街軌道は昭和31年全線廃止

完全バス転換となる

それまではおそらくバスには「旭川市街軌道バス」と書かれていたはず


昭和31年以降は 旭川バス と名称改称して存続

これまた資料が少なく苦労しております・・・

よかったら旭川市街軌道の続編としてご覧ください




旭川初!つばさ号の旭川バス物語に関連記事あります

「幻の旭川バス」






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どうも。某所で迷列車で行こう・札幌市交通局編や路迷電車などの動画を上げているうp主です。
私個人で北炭譲渡の旭川市街軌道車に関しての動画を上げているので、ぜひ参考にしていただければ幸いです。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm19328954

2013/5/5(日) 午後 11:04 [ える子 ]

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える子さんありがとうございます。非常にありがたいです。参考にさせていただきます~

2013/5/7(火) 午後 4:33 [ つばさ号 ]


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