現パロの織田闇金時空です。森蘭丸くんの夢小説ですが極端な私小説です。
五月。午後の陽射しを背中に受ける。2LDKのリビングルームに置かれたソファの上で僕は微睡みながらクラウドに入っている写真たちをスクロールする。妻――こう呼ぶのはむず痒いけど。二年近く彼女だったわけだし――は友達とランチを食べに行くと言ってさっき部屋をでていった。
来月の挙式で使うスライドショーのために、僕は妻と出会った頃の写真を探していた。二年前にまでカメラロールを遡ると、懐かしい写真のあれやこれやが出でくる。あ、これはカラオケで撮った勝家さんの意味分かんない動画。二年前の春。
――良くないことが起こるのはわかってるのに
どうしてそう指が動いたのかは、好奇心と運命の悪戯、そう言うしかないんだけれど、僕の指は二年前の春を通り越して――三年前の冬に辿り着いていた。
あの子の写真。あの子と撮ったプリクラ。あの子が珍しく作ってくれた料理。あの子と行った遊園地の噴水。あの子の好きな本。あの子とのLINEのやり取り。あの子は黒髪で、かわいい服が好きで、インターネット中毒で、すぐ泣くし、すぐ怒るけど、笑い上戸で、楽しいことが好きで。
まだあの冬にはあの子がいた。あの子は僕に、一生僕があの子のことが忘れられない呪いをかけて僕の前から消えた。世界は全てあの子の予言した通りに回っている。
「蘭丸くんは私がいなくなってもどうせ三ヶ月くらいで新しい彼女ができて、それで案外その子がしっかり者で性格も合うから普通に幸せになって普通に結婚しちゃったりして。ふふっ、つまんないの」
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あの子に出会ったのは四年前の真夏のことだった。夕方、僕が事務所でいつも通り仕事を片付けていると、インターフォンが鳴った。取る。「本日丹羽さんに取材のお約束をさせて頂いております、XXXXと申します」
「信長様、取材ってなんですか?」
「かまわん、通せ」
思いっきり怪訝な表情になっていたであろう僕のことを一瞥しながら信長様はそう答えた。ドアを開けると、僕と同じくらいの背をした黒髪の女の子が立っていた。
「初めまして、私、XXXXなどで執筆させて頂いております……」
彼女はどうやら物書きらしい。差し出された名刺には彼女の個人事務所の名前と連絡先と、他もろもろが刷られていた。XXXXといえばアンダーグラウンド系のメディアじゃなかったっけ。うちの業界についても時々書かれている。その取材か、と納得がいった。
「社長秘書の森蘭丸と申します」
滅多に出すことのない名刺と彼女の名刺を交換し、彼女に「お茶とコーヒー、どっちがいいですか?」と訊く。
「お茶で……お気遣いなく」
「僕、まだ15歳ですし敬語無しでいいですよ。蘭丸くん、って呼んでください」
「蘭丸くん……あ、ありがとね」
「今日は何の取材に来たんですか?」
「最近の闇金業界について書くように、編集部から依頼があり……あって」
「興味ある人もいるものなんですね」
「闇金ネタは結構アクセス数高いらしい……よ。蘭丸くんは、丹羽長秀さんって知ってる?」
「知ってるっていうか、モロに同僚です」
「あー、はは。実は私の高校生の時の友達がホスト狂いなんだけど、丹羽さんのこと指名してたことあるみたいで、その紹介で今日はここに」
「へえ~、じゃあ長秀さんとは面識あるんですか?」
「面識というか、結構……」
がちゃん。ドアが開いたと思ったらそこに外回りから帰ってきたと思しき長秀さんがいた。かったるそうにアイコスを吸っている。
「おー、あんたもう来てたのか。待たせてたら悪かったな」
「いや全然、私もさっき着いたばっかりなんで」
長秀さんが応接間の椅子に座る。僕は気配を消してその場からいなくなり、また自分のデスクに戻った。彼女が長秀さんと知り合いなのがなんだか気に食わない、とその時の僕はわけもなく思った。事務所はそんなに広いわけじゃないから、パーテーションで仕切っただけの応接間からは会話が微かに聞こえてくる。……どうしてだろうか、僕は彼女が長秀さんに口説かれてるんじゃないかという被害? 妄想に囚われてしまっていた。僕がまだ彼女のことを好きなのかも解らないのに。
彼女からはいい匂いがした。……あとで聞いたらそれはフリージアの匂いだと言われた。「フリージアなんて、似合わないよね。花言葉いま調べたら、『あどけなさ』『純潔』『無邪気』だって。笑える」
彼女が帰っていくタイミングを見計らって、僕も荷物をまとめる。幸いなことに僕は社長秘書なので、信長様のお許しさえ出れば好きなときに退勤して構わない。かといって僕が信長様より先に退勤したことは今までに一度もなく、信長様が残業なされている時は(滅多にないけれど)徹夜だって付き合う覚悟だ。今日は信長様が既にお帰りになられていたのでもはやこのオフィスに僕がいる意味は無い。MCMのリュックにミルクティーやお菓子といった真面目に仕事をしているとは到底思えない(が、ちゃんと仕事はした)モノたちをしまって、彼女を追うように雑居ビルの階段を降りた。
彼女は駅の方に向かって歩いている。僕はほんの少しだけ走って彼女に追いつくと、「あの」と声をかけた。驚いた様子の彼女が僕の眼を射抜いて、それからすぐ逸らされた。
「僕も今仕事が終わって、帰るところなんですけど……良かったら、一緒にケーキを食べにいきません?」
「ケーキ? うん、いいけど……私と一緒でいいの?」
苦笑する彼女の顔にはまるで「他にもっといい相手がいるのでは……?」と書いてあるように見えた。
「はい! 僕はあなたと食べたいんです。ほら、行きますよ?」
彼女は白のブラウスにグレーのチェックスカートをはいて、黒のエナメルの靴にJILL by JILLSTUARTのリュックをあわせていた。事務所の近くで僕がいっちばん美味しいと思う内装の可愛いケーキ屋さんに彼女を連れて行くと、「綺麗だね。きらきらしてる」と言いながらショーケースを見つめていた。彼女は抹茶のケーキを、僕はいちごのショートケーキを注文した。向かい合わせになってみると、ケーキを見つめる彼女の表情は、嬉しそうだったり寂しそうだったりする曖昧なもので、僕はそんな曖昧な彼女のことが好きなのかもしれない、と思った。
「蘭丸くんはその、こういうこと言われるの嫌だったら申し訳ないんだけど、本当に綺麗なお顔をしてるね」
「ふふ、そうですかね? よく言われますけど……僕はあなたのこともとても可愛らしいと思いますよ」
「そんなわけないよ。もっと可愛い人が世界にはたくさんいる」
僕が彼女に好意を伝えたのは三度目のデートでのことだった。ケーキ屋さんに行った帰りに連絡先を交換して、僕は彼女に何度もどうでもいいことを連絡したけれど、彼女は見た目に反して素っ気なく、二度目のデートで「なんであんなに冷たい感じの文なんですかぁ」と訊くと、「うーん……なんかアプリ開くの面倒くさいんだよね」と困ったように笑っていた。好きだと確信したのはその時で、僕は彼女の困った顔をみて好きだと思ったから――だった。
付き合い始めてからしばらくして、僕は些細なことから家に居づらくなって――彼女の部屋にキャリーバッグひとつで押しかけた。
「家出してきちゃいました。ふふ、びっくりしました?」
彼女は呆気にとられていたけど、「こんな遅い時間にその辺をうろうろしちゃ駄目だよ」と僕を子供扱いして部屋に招き入れてくれた。何度か遊びに行ったことのある、駅から徒歩10分の1LDK。今は一人で住んでいるらしくて、その割に妙にベッドが大きいので問い詰めたら、「だれにでも過去はあるよ。蘭丸くんもそうでしょう?」と彼女はまた困って笑ってくれた。僕は名前も顔も知らない誰かに嫉妬した。
部屋は相変わらず殺風景で、黒いカーテンと黒いカーペット、スチールのデスクに置かれているのはノートパソコン、マグカップ、そして山積みになった本。部屋の隅には縦に長いスピーカーとCDラック。ベッドサイドのテーブルは薬のシートが何重にも積まれ混沌を演出している。クローゼットを開けるとそこだけは少女趣味になっていて妙だった。
家出した夜から、僕はずっと彼女の部屋に居続けることになる。
彼女を抱きしめて眠ると暖かくて、僕はとても安心した。家から持ってきた服をクローゼットに掛けると、ちゃんと同棲している感じが出て彼女も「なんか、いいね」と笑っていた。
僕と彼女はお互いに依存するようになっていった。彼女は僕がいないと薬を大量に飲んで前後不覚の状態になってしまうし、あるいは手首を切るし、僕と別れるのが怖いと泣いた。彼女は驚くほどに生活スキルが無くて、特に食生活は壊滅的に自堕落だった。僕は彼女の世話をして暮らした。僕は彼女に甘えることで安心感を得ていた。いま思えばこどもだったんだと思う。彼女がいなくなったらどうやって生きていくのか解らないという恐怖感があった。
僕たちはしょっちゅう喧嘩をして、既定路線の仲直りをするとまたお互いの寂しさを埋め合わせるように抱き合って眠った。僕は彼女がどこにも行ってしまわないように束縛していた。彼女のSNSにログインして、男の人と関わっていないか監視して、携帯に位置情報アプリを入れて、彼女が遊びに行くときはしつこいくらいにその場に男の人がいないか問い詰めた。それが原因で喧嘩になることも少なくなかったけれど、でも彼女がどこかに行ってしまうことが、誰かに取られてしまうことが何より怖かった。
彼女の調子がいい時には旅行にも行った。彼女は人混みが得意じゃないから遊園地なんかよりは温泉に行ったりすることの方が多かった。アジアが好きな彼女は僕を海外旅行に連れ回すこともあった。会社の飲み会にもたまに顔を出していて、それなりに同僚の皆さんとも仲が良かったように思う。
僕たちはお互いにお互いが誰かに取られてしまわないか必死で、仕事のことにはあんまり興味がなかったように思う。彼女が何をしているのかも最後までよくわかっていなかったし。
結局、似た者同士だったんだと思う。
今となってはそれもわからないけど。
付き合い始めてから二回目の秋、病に侵されていた僕の母親の余命が残り二ヶ月であることを彼女に伝えると、彼女は「そっか」と言って俯いた。
もともとそんなに長く生きられないことは解っていたから、僕にとっても余命宣告はショックなことではなかった。母親はもう苦しみたくないという理由で緩和ケアを選択した。僕にはそれを止める権利がなかったし、それでいいと思った。
「もうどこにも蘭丸くんの帰る場所はないんだね」
「そうですね」
そう言って彼女は寂しそうに笑った。
彼女は困ると笑ってしまうのが癖だった。
十月、彼女の体調は笑えないくらい悪かった。ベッドから起き上がれない日が何日もあって、深夜になると静かに両目からぼろぼろと大粒の涙を流していた。仕事もなかなか進まなくなって、読むのをやめた本がデスクには山積みになっていた。病院に付き添うこともあった。彼女は不安障害と診断されていた。HoneyCinnamonのパーカーを着て、ベンチに二人で並んで座って医師の診察を待った。彼女はその日とても辛そうで、なおかつ安定剤のせいで眠たそうにしていた。
「蘭丸くんは、私と付き合ってて可哀想だね」
「どうしてそんなこと言うんですか。僕は幸せですよ」
「君にはもっといい人がいるよ……可愛くて、おしゃれで、……とにかくすてきな女の子が」
彼女はある夜に泣きながら、ある夜に醒めながら、そうやって同じようなことを言った。僕は彼女がいないと生きていけなかったから、「僕を捨てるつもりなんですか?」と縋った。そのときは世界がそういう風に見えていた。彼女が僕を残して死んでしまうとしたら、神様は一体僕からいくつのものを奪っていくつもりなんだろう。僕には何も残らない。そう思っていた。
彼女は「蘭丸くんもひとりで生きていけるようになった方がいいよ、もうこどもじゃないんだから……」と安定剤のせいで弛緩しきった声で言った。
「なら僕は大人にならずに死にます」
「ふふ。どうだろうね」
彼女はそう言って、僕を放ってベッドの上で毛布を抱き込むようにして眠りに落ちていた。
彼女は子供みたいに駄々をこねるところがありながら、怖いくらいのリアリストで、可愛いものが好きなのに思想に入り込むという奇妙なギャップがあった。勝手に僕が以前お付き合いしていた女性たちのSNSを見ては、「こんなに可愛い、こんなに可愛い子たちと私は並べない」と言って泣くようなところがあった。
「自分が嫉妬をしていて、それがとても醜いことはわかっているけれど、それでもやめられないの。病気なんだと思う」
「僕は嬉しいですけどね? ふふ、嫌かもしれませんけど……嫉妬してくれたりするの」
「私、蘭丸くんのそういうところきらい」
そう言ってそっぽを向く彼女の泣き顔は可愛かった。
でも彼女はほんとうに元カノのことを気に病んでいたようで、彼女がいなくなった後に見た、SNSの鍵垢の投稿には、元カノのことを考えるだけで苦しくなる、過去は変えられない、過去と現在が同一の地平線に存在していることそのものが苦しみだと書いてあった。僕には難しくてよくわからなかった。彼女に、いつものように、「これってどういう意味なんですか?」って聞いてみたいけど、もう無理だ。
母親が余命宣告を受けた日には、彼女は僕と一緒になって夜通し泣いてくれた。ベッドの上で泣く僕の背中をさすって慰めてくれた。その夜に彼女が書いた投稿はこうだ。
『蘭丸くんのことをずっと慰めてた。私なら蘭丸くんのお母さんの代わりになれるかもしれないと思った。でも無理だ。いつかは別れなきゃいけないんだから』
気分の良い日には映画も観に行った。「ジョーカー」とか、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」とか。
公開から二ヶ月も経っていたから、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は日比谷シャンテでしかやっていなかった。阪急メンズ東京で彼女がタピオカを買ってくれて、僕は抹茶ミルクのタピオカを、彼女は黒糖ミルクティーのタピオカを買った。
「甘いものを飲んでるときの蘭丸くん、かわいい。世界でいちばん」
「ふふ。可愛いですか? いっぱい写真撮ってください!」
その日の彼女は元気そうで僕は内心ほっとしていた。イヴ・サンローランの商品ディスプレイを横目に見ながら、「蘭丸くんはあーいうの好き?」と彼女は訊いた。「あんまりですかね。もう少し可愛いやつが好きです」と僕は答えた。
「タランティーノの映画は本当に無駄話がおおいね」と帰り道に暗くなった銀座の街を歩きながら彼女は言った。「そうですね」「まあ、最後はおもしろかったけど」リック・ダルトンが火炎放射器を振り回すシーンで彼女は今月一番といえるくらいに笑っていた。
「笑えるのって素敵なことです」
その夜は新宿のダイソーで充電ケーブルを買ってから帰った。
その頃の僕はどこかが変になってしまったのか、一人では眠れなくなってしまっていた。彼女は僕の母親の余命宣告以降、アルコールを摂取している時間が長くなっていった。アルコールを摂取していると現実の解像度を低くできるから楽なんだと彼女は言って、少し調子が良い日は夜に飲みに出かけた。僕は「終電で帰ってきてくれないと嫌です」と言ったけど、それでも「ごめんね、終電無くなっちゃった」とメッセージが飛んでくる夜があって、僕は朝まで眠れず、テレビをつけてぼやける視界で平日帯のワイドショーを眺めていた。孤独は怖い。
「ひとりで生きていけるようになりなよ」
そう彼女は僕を突き放したけど、僕にとって一人で眠ることは怖いことだった。朝七時になって彼女が帰ってくると、僕は彼女に怒りをぶつけた。
「どうして僕のこと放っておけるんですか!? 酷い、酷いですそんなの……」
彼女は、ごめんね、ごめんねと言って僕のことを抱きしめてくれた。どうしてだか解らないけどそうやって抱きしめられた途端に糸が切れたように眠たくなって、彼女に寄り添ってもらいながら眠った。それ以来彼女はきちんと終電で帰ってくるようになった。代わりに安定剤の量が増えた。
十二月、彼女は「安心のために」という理由で、ぶら下がり健康器とクレモナロープを僕に無断で通販で買っていた。
「私には勇気がないからこれを使える日は来ないよ。だから大丈夫、心配しないで」
彼女はそう言って僕のことを抱きしめたけど、僕の気持ちが穏やかになることはなかった。僕には彼女の気持ちがわからなかった。わかれなかった、というのが正しい。僕は彼女のようにリアリストじゃないし、思想もない。僕は彼女と喧嘩になったとき、「恋愛脳」と罵倒されたことがある。その通りだと僕は思った。
「私と別れてもすぐ別の女の子のところに転がり込んで、ずっとずっと人生その繰り返しで、顔が綺麗だからそれでそれなりに生きられちゃって、蘭丸くんの人生なんてそれだけ、所詮それだけなんだよ」
彼女は泣きながら僕のことをこう罵った。僕はなにも言い返すことができなかった。今ここで部屋を飛び出したところで行く宛もないし、母親が病院にいる今となっては実家に帰ることもできない。きっと女の子のところに転がり込むだろう。今までもそうやって生きてきた。居場所は女の子のところにしか無かった。彼女はそれを見透かして僕を罵っていた。僕は涙さえも出なかった。
僕は彼女が自殺しないように、彼女が眠るのを見届けてから眠り、彼女が目を覚ます前に起きるという生活をしていた。
クリスマスイブはとても楽しかった。安いシャンパンをあけて、僕も少しだけ飲んだ。コンビニで買ってきたケーキを食べて、お互いにプレゼント交換をした。彼女は僕にMILKBOYのコートをくれて、僕は彼女にサルヴァトーレ・フェラガモのきらきらしたカチューシャをあげた。彼女はにこにこして、光に透かしてそれを眺めながら「きらきらしてるね」と言った。それから二人で手を繋いで眠った。
翌朝、目が覚めると彼女はリビングで首を吊って死んでいた。朝九時のことだった。
僕は宙に浮いている彼女を見た途端一瞬で目が覚めて――それから後悔に襲われた。昨日が最後の夜だったなんて何て寂しいことなんだろうと思って、ぼろぼろと涙が止めどなく溢れてきて、どうしようもない気持ちになった。パニックになって、まず信長様に電話をかけた。
「あの、信長様、あの」
「どうしたんだ。落ち着け」
「あの、彼女が、……自殺を」
こんなにどうしようもない気持ちになったのは人生で初めてだった。でも心のどこかで彼女はいつか死んでしまうと解っていたような気もする。このままずっと生き続けることは彼女にとって苦しいことだろうということは、解っていた。それでも僕のわがままで、僕の側にいてほしいから、死なないでって懇願して、縋って、束縛していた。本当にどうしようもない気持ちになる。僕はまたひとりになるんだと思った。僕を置いていくなんて酷い人だ。酷い。ほんとうに。
それからのことはよく覚えていない。彼女の身体はもう冷たくなっていて、僕は痺れる手足に鞭打って、苦しそうな彼女の首に巻き付く縄を切りほどいて身体を下ろし、ベッドに寝かせた。それが僕にできる精一杯で、過呼吸を起こしてフラフラになった僕は彼女の亡骸の横に倒れ込んでいた。信長様が呼んでくれたのか、家には救急と警察が来て、大人がいろいろなことをたくさん僕に聞いたが、記憶は途切れ途切れになっている。彼女は布をかけられて運ばれていって、僕は呼吸ができなくて、目の前が真っ白になっていて、救急車に一緒に乗り込んで病院へ向かった。
あとで聞いたことだが、推定死亡時刻は朝五時半頃で、死因は縊死だった。大量の安定剤を飲んだ痕跡があったらしい。彼女は臆病だった。シラフでは死ねなかったんだと思うと僕はより一層やるせない気持ちになった。
テーブルの上には昨夜のパーティーで交換したプレゼントの紙袋が置いたままになっていて、彼女はそれを見ながら首を吊ったことになる。
僕はそれから丸三日間、一睡もできなかった。
葬儀は彼女の実家が執り行うことになった。通夜は近親者のみで行われ、僕は少し挨拶をするのが精一杯で、十五分ほど滞在しただけで気分が悪くなって帰ってきてしまった。彼女の両親とは彼女を交えて一度だけ食事をしたことがあった。彼女のお母さんは、「最後まで面倒をかけて、申し訳ないです」と僕に謝った。僕はこういうときになんて返したら良いのかわからなかった。
彼女が亡くなった夜、信長様をはじめとする会社の同僚たちが僕の様子を見に来てくれた。僕はほとんど何も喋れなかった。後を追っては危ないからと彼女が首を吊った道具は勝家さんがバラして外のゴミ置き場に捨て、リビングはまたがらんと広くなった。
僕の携帯には彼女からの最後のメッセージが届いていた。送信時刻は午前5:12になっていた。
「昨日はとっても幸せで、いまも幸せだけど、また不安になったらと思うと、それがとても怖い」
他に遺書らしきものは見つからなかったから、これが遺書ということになるのだろうけれど、魅力的な文章を書く人にしては、あんまりな遺書だと僕は思った。もっと僕についての言葉をたくさん残してほしかった。僕のことなんか結局どうでもいいから僕を置いて死んだんだと思うとぼろぼろと涙が溢れて止まらなくなってしまう。
彼女が最後に聴いていた曲はiPhoneのロック画面に一時停止された状態でそのまま表示されていた。歌詞はこうだ。
ああ あなたの声 聞こえないままがいい
あんな気持ちはもう二度と戻らないままがいい
ああ あなたの声 一番光って 聞こえないままがいい
眩しすぎる時も
あんな気持ちはもう二度と戻らないままがいい
迷いも嫉妬も消えちゃって
楽になる ライクも増える
それが大人になるってことなら
あなたがこの世界にいる限り
あたしは少女 あたしは特別
あなたは少女 あなたは特別
LOW HAPPYENDROLL 少女のままで死ぬ
僕をひとりで置いておくと何をするかわからないとかいうふざけた理由で、その晩は光秀さんが僕の部屋に泊まっていった。光秀さんは早々にカーペットの上で眠ってしまい、僕だけが部屋の中にふたたび取り残された。彼女がいない現実をまだ受け入れられなくて、今もどこかに彼女が隠れているんじゃないかと思うたびに涙が止まらなくなった。
ひどい人だ、と泣き喚きたくなった。
自分が苦しいからって、僕にその苦しみを押し付けて、自分はさっさと死んでしまうなんて、本当にひどい人だ。彼女のいないベッドでわんわん泣いた。好きだったのに。僕はこんなに貴方のことが好きなのに。置いていくなんて。
その晩僕は手首をずたずたに切ってシーツを真っ赤に染め上げるほどの血を流したけれど、そんなんじゃ死ぬわけもなくて、ただそこにはじんじんした痛みだけがあって、彼女の言っていた、実存という言葉の意味が、ちょっとだけ解った気がした。
明け方、ログインしていたけれど用がないので滅多に見ることがなかった彼女の仕事用アカウントで彼女の訃報を告知すると、彼女は僕が知っているよりも交友関係が広かったようで、メッセージやリプライにはお悔やみの言葉が連なっていった。僕はそれらに返信する気力もなく、葬儀の案内をそのまま掲載してスマートフォンを伏せた。
葬儀のことはよく覚えていない。彼女の好きだった音楽を用意してほしいと言われて、よく家で流していたアルバム数枚を斎場に持っていった。My Bloody Valentine、Aphex Twin、他、ノイズやアンビエント。
「あの子の一番好きだった曲って、何ですか?」
彼女のお母さんが僕にそう聞いた。僕は精一杯考えた末、Aphex Twinの「Girl/Boy Song」を選ぶと、彼女はそれをBGMにして出棺されることになった。彼女らしいなと思った。それから僕は彼女に、彼女がいちばん好きだったAnk Rougeの黒いギンガムチェック柄のワンピースを着せることにした。髪型は二つ結びで、と注文もつけた。黒いリボンヘアゴムをつけて。僕が好きだった彼女の髪型。
僕は彼女が燃えて骨になるという事実を直視できなくて、出棺のあとは斎場の中にあった休憩室のような部屋でずっと休んでいた。気分が悪くて、出棺のあとはずっと立っていられなかったし、座っていても目眩がした。信長様をはじめとする会社の皆さんも彼女に線香をあげてくれた。信長様は僕の様子を見かねて、「あまり無理をするな」と優しいお言葉をかけて下さった。僕は申し訳なくてますます気分が悪くなるばかりだった。
彼女の柔らかい身体や体温を思い出すだけで、もうそれが失われているということに耐えられず、ぼろぼろと涙が溢れて止まらなくなる。僕はなんにも出来なかった。気づくと夜になっていて、丸二日何も食べていなかった。それどころか水を飲んでもトイレに駆け込んで吐いていた。僕の身体が生きていることを僕の精神が拒絶していた。
葬儀には業界のいろいろな人が訪れたらしいが、僕はよく知らない。僕にとっては僕の彼女でしかないあの子が、僕の彼女でない社会的立場から語られているのをあちこちで耳にするのは変な感じがした。
僕はその日、家に帰ることができなかった。
よく駅前で彼女を待っていたベンチで、そこにいれば駅の階段から、HoneyCinnamonのパーカーを着た彼女がいつものように、手をひらひらと振って歩いてくるような気がして、ずっとそこから動けなかった。彼女はもうどこにもいないのに。本当に酷い人だと思うとまた涙が溢れてくる。最低だ。僕をこんな気持ちにさせるなんて。
彼女がベッド脇のテーブルに置いたままにしていた煙草を、無意味に吸いながら彼女のことを待った。彼女は来なかった。僕はひとりぼっちに耐え切れず、何度も線路に飛び込もうかと思ったけれど――臆病な僕はベンチから立ち上がることさえできなかった。
明け方、僕はほとんど記憶にないが――ふらふらの状態で家にたどり着いて、ついに限界を迎えてベッドに倒れ込んで眠った。丸一日ほど眠っていたらしく、起きたときには今が何日なのかよくわからなくなっていた。電源を切っていた携帯には僕のことを心配した同僚から大量の不在着信とメッセージが残っていた。
「……い、き、て、ます」
面倒になったので、グループチャットにそれだけ送信してまたスマートフォンを伏せた。
この部屋には彼女の残骸だらけだ。積み上がった本も、CDも、毛布に染み付いた匂いも、クローゼットの中身も。いるだけで寂しくなる。やるせない感情になる。
それに僕はいつまでこの部屋にいられるんだろう。
僕を過酷な現実に放り出したのはあの人だと思うと、なんだか途端に憎くて憎くてたまらない気持ちになった。
信長様だけには電話をすることにした。優しい声色だった。僕は久々に安堵という感情を思い出した。
「申し訳ありません、僕、ずっと眠っていたようで……」
「事務所に来るのは年明けからで構わん。今はゆっくり休め」
僕は電気をつける気力もなく、毎日真っ暗な部屋で、彼女が鍵アカウントに書いていた日記を読んで過ごした。
彼女のSNSアカウントには殆どログインしていたけど、それでも僕の知らないアカウントがあったことにまず僕は驚いた。どうやら日記を書くたびにログインして、書き終わるとログアウト、というのを繰り返していたらしい。
彼女が僕のことをどう思っていたか知りたかった。どれくらい僕のことを好きだったのか知りたかった。だからひたすら読んだ。読んで、スクショを撮って、自分の携帯に送って。その繰り返し。僕はぽろぽろ泣きながら彼女の投稿を読んだ。フォロワー0人の鍵アカウント。彼女の感情の吐き出し場所。言葉の墓場。
『蘭丸くんが可愛すぎて不安になるし、他の女の子にもう取られてるんじゃないかなって思う。自分が自分のこと一番嫌いだから愛されてるって思えないしそんなわけないって思っちゃう。でもそう言うと蘭丸くんは傷ついちゃうみたいでなんか面倒くさい』
『生きてる意味わかんなくなっちゃった。こんなに蘭丸くんのこと好きなのに。こんなに蘭丸くんのこと好きなのにって思うから苦しくなるから好きなの辞めたら生きられるかもしれないけどこのまま好きなままだったらほんとに死ぬしかないのかなって思う』
『蘭丸くんがいない世界で私が1人で生きていくのは無理だから蘭丸くんを残して私が先に死のうかな』
『他の人と比べて一番愛されてる自信なんかないし死んで一番になるしかないのかな』
『もう一年も付き合ってるのにすぐ元カノと比べてこころを病んでしまう』
それから間もなくして、僕の母親も死んだ。危篤の知らせを受けて病院に駆けつけた時にはもう既に遅く、母親は亡骸になっていた。もともと遊び人だったので幼い頃から家事をしてもらった思い出さえも少ない母親だった。父親もいない僕にとっては唯一の拠り所になり得る人までもがいなくなってしまった。ほんとうに僕は一人になって、遺品を引き取り、久しぶりに実家に帰り、無心で掃除をした。彼女が亡くなったのと立て続けだったこともあり、感情らしい感情も湧いてこなかった。
神様がほんとうに善人ならばこんな酷い仕打ちはしないだろう。僕にとって母親はそんなに大きな存在というわけでもなかったけれど、僕はほんとうにこの世界に一人ぼっちになってしまったのだ。生前、彼女は「神様なんていないし、いたとしてもろくな人じゃないよ」と言っていた。神話を引き合いにしてそう言うからなかなかに説得力があったけれど、本当にその通りになってしまった。
「蘭丸くんは私がいなくなってもどうせ三ヶ月くらいで新しい彼女ができて、それで案外その子がしっかり者で性格も合うから普通に幸せになって普通に結婚しちゃったりして。ふふっ、つまんないの」
あの子が生前に残したその言葉通り、奇妙なもので、僕にはあの子が亡くなってからちょうど三ヶ月後に新しい彼女ができた。ごく普通のOLで、あの子みたいにメンヘラでも、独創的な人でもなくて、よく言えば普遍的、悪く言えばつまんない。あの子に比べれば、だけど。でもどんな人だってあの子と比べるのは可哀想だ。新しい彼女は、自殺したということ以外あの子のことを何も知らない。それでいい、と思う。
僕はまた女の人の家に転がり込んで社長秘書の仕事をしながら彼女の手の回らない家事をこなして生活した。あの子の言うような、穏やかで、「普通」の幸せを手に入れた。たまに夢にあの子が出てきて魘されることがあった。その時の僕は酷く汗をかいていて苦しそうな表情をしているらしい。内容はあの子と喧嘩する夢だったり、あの子が家出する夢だったり――あの頃によくあったことだ――する。
あの子の予言はどこまでも当たって、十八歳になった僕は彼女と結婚することになった。彼女は僕のお嫁さんになった。
あの子も祝福してくれている――なんて、全然思わない。そんなわけない。彼女は僕のことを今でも絶対に呪っているだろう。どうして後を追ってくれなかったのか、と。でもあの子のことだからそれだって解っていたんじゃないかとも思う。あの子はあの子の精神世界を完結させるために死んだと。現世の苦しみと自分の関係を断ち切るために死んだ。僕と付き合っていたときのあの子は、苦しくて、苦しくて仕方なかったんだと思う。僕が殺したようなものだ。ごめんなさい。でも僕はあの子を離したくなかった。好きだったから。今でもそう思う。きっと、だから悪夢に魘される。
「つまんないの」
やっぱりまだ僕にはあの子の声が聞こえる気がする。