「ギグエコノミー」を語る言葉には奇妙な二面性がある。一方で、それは一つの避けられない「試練」であるかのように語られる――時代は変わった、好むと好まざるとに関わらず、私たちは新しい状況に適応しなければならない。
他方で、それは一つの「チャンス」であるかのようにも語られる――旧態依然たる仕組みの崩壊によって、自由で新しい稼ぎ方ができるようになった。成功したければ、乗り遅れるな。
果たして私たちはギグエコノミーを試練と見るべきなのか?それともチャンスとして見るべきなのか?
アマゾンなど、書籍の通販サイトで「ギグエコノミー」と検索すると、上位にはマルケイの本を筆頭に、「人生100年時代を幸せに暮らす最強の働き方」とか、「組織に殺されず死ぬまで『時間』も『お金』も自由になるずるい働き方」とか、ハイテンションでポジティブな言葉が並ぶ。
中には連鎖販売取引の形態を取る企業の自社宣伝本に竹中平蔵氏が帯を書いているようなものも出てくる。曰く、「成功者の条件とは時代の流れをつかむことである」、「被雇用者という立場を取らず柔軟な方法で収入を得る働き方は、今後世界的にますます広がっていく」――。
これらの言葉はギグエコノミーをポジティブな「チャンス」として語る。後ろ盾のないリッキーが飛び付き、車に投資するきっかけを与えた言葉と同じ種類のものだ。だが、それらの言葉はギグエコノミーの「試練」としての側面についてあまりに無頓着ではないだろうか。
普段、移民や外国人労働者のテーマについて書いていることもあり、私はリッキーの姿から日本で働く外国人技能実習生の姿を思い浮かべざるを得なかった。彼らの多くも、リッキーと同じように“働く前に”多額の借金を作る。ブローカーが要求する渡航前の費用を支払うためだ。
彼らはブローカーの言葉を信じる。日本で働けばこれくらいの借金などすぐに返せるはずだ。リッキーと同じである。賭けに勝つ条件は、“とにかく毎日働き続けられること”だけだ。それくらいなら、簡単だと思うだろうか?
だが、技能実習の現在のルールの中では、運悪くブラック企業に当たってしまえばおしまいである。転職の自由すら奪われた技能実習生は、借金を返すまでパワハラや違法な低賃金に耐え抜くか、あるいは多額の借金を抱えて逃げ出すしかない。
逃げ出した彼らを「犯罪者」かのように見なす社会、それから貧しいリッキーを怠惰な「ルーザー(敗者)」として見なす社会、それらは本質的に同じものを共有している。つまり、ゲームの結果だけを見て、ゲームそのものに組み込まれたアンフェアさを見ない。
あらゆる自己責任型の規範は、この世の不幸と悲惨をゲームではなくプレイヤーに帰責する。あなたは自由なのだから、あなたの責任なのだ。