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郷育「お富士山古墳」

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  《写真は、伊勢崎市内で最大規模の「お富士山古墳」の全景。大半が平地の伊勢崎市では遠くからもすぐ古墳とわかる。古墳南側から富士神社の鳥居をくぐるとすぐに後円墳頂に出る。墳頂には、県内では、ここと太田市の天神山古墳のみという大型の長持石棺が設置されている》
 
  ふるさとの歴史、文化、名所などを訪ね歩く郷育活動で今回は、伊勢崎市内で最大規模の「お富士山古墳」を訪ねた。坂のない町・伊勢崎市にあって、市内北西部の田園地帯に小高く盛り上がった「お富士山古墳」(市内安堀町)があり、すぐわかった。JR両毛線沿いにあり、電車からもよくみえる。伊勢崎市文化財ハンドブックによると、お富士山古墳は五世紀中頃の前方後円墳(全長125㍍)。昭和38年、群馬大学の学術調査が行われ、墳丘は葺石を巡らせた三段築造、後円部から長持形石棺(全長258㌢、幅121㌢、重さ6.8㌧)や大型円筒埴輪配列などが確認された。お富士山古墳が造られたのは五世紀前半で、このころは、大陸や朝鮮半島から伝わってきた稲作が全国各地に広まり、稲とともに人々が定着するようになった(弥生時代)。そして、稲づくりを中心にした「地域圏」が各地に形成され、その地域を支配する首長が現れた。その首長が死ぬと首長の「力と権威」のシンボルとして大型古墳が造られるようになった(古墳時代)。
お富士山古墳は、当時、伊勢崎や近隣の前橋市、旧赤堀町、東村などの一部を支配していた首長の墳墓と見られている。古墳南側から富士神社の鳥居をくぐり上ると、後円部墳頂には県指定重要文化財となっている大きな砂岩製の長持形石棺が設置してある。この石棺は縄掛突起がついており、形態や製作技法などから近畿地方の仁徳天皇陵として知られる大型前方後円墳と同時代に築かれたものと考えられる。石棺は、恐らく畿内の工人が派遣されて製作したものと見られ、県内では、大田市の天神山古墳の二か所で確認されている。たまには、地域の古代人に思いを馳せるのもいいものだ。

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