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 《写真上は、蚕種製造、養蚕飼育方法などをまとめた「養蚕新論」で飛躍的に伸びた養蚕。その碑が建つ》
 《写真中は、田島弥平とともに養蚕技術などの指導的役割を果たした小茂田籐橘の生家と養蚕農家室内》
 《写真下は、養蚕の発展で、伊勢崎銘仙として全国を一世風靡した伊勢崎織物。今や洋服に押され貴重》
 
  自分の住む故郷を見直して誇りを持つ「郷育活動」(私の造語)で故郷の歴史、文化を訪ね歩いている。今回は伊勢崎太織で全国に知られ、かつて「養蚕と織物」で栄えた過去の産業遺産というべき文化史跡や養蚕住宅を見てきた。絹糸を紡ぎだす養蚕は、種から蚕、繭、生糸の一貫生産に至る近代養蚕法を確立したのが伊勢崎市境島村の養蚕家、田島弥平(1822-1898)。その弥平が研究成果をまとめ発表したのが「養蚕新論」。この本は、蚕の実践飼育法を具体的に書いたもので現在、版木として田島家に保存されている。弥平は、利根川沿いにあった島村は度重なる川の氾濫で肥沃な土地だが作物の栽培が難しいため可処分所得(現金収入)の高い養蚕を研究し、自分で蚕を飼育したり、育て方の方法(養蚕新論)を考えるなど、島村地区を一大養蚕、蚕種製造地に変えた。弥平の「養蚕新論」は、従来の温暖育に代わ清涼育を考案したことで、それまで年一回の養蚕が数回できるようになり近代養蚕技術の発展と飼育拡大に大きく貢献した。弥平らは、清涼育が可能な蚕種をイタリアへ持っていくなど海外へも輸出し財をなした。その業績を物語る高さ3㍍はあろうと思われる大きな「養蚕興業碑」が弥平の実家入り口に建っている。島村とともに蚕種製造地帯を形成した長沼町には、近代養蚕農家の特徴を良く残している文化庁登録有形文化財「小茂田家住宅」(家族在住)がある。この住宅は、弥平とともに蚕種生産、養蚕発展の礎を築いた小茂田籐橘の生家。籐橘は明治初期、「長沼組」を設立、切妻造りの主屋(間口12間、奥行き6間)を養蚕伝習所として利用するなど蚕種製造、養蚕の先駆的指導者の役割を果たしていた。小茂田住宅は、近代的養蚕農家の歴史的景観として国の有形文化財に登録された。かつて国の産業を支えた養蚕業も他産業にとって代わられた(伊勢崎市の工業生産出荷高は、県内で太田市に次いで二番目)。今では、こうした住宅などから蚕種、養蚕が盛んだったことをしのぶ産業の変遷を知ることになる。

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