スイス政府編 原書房編集部訳『民間防衛』(原書房,1995)
総合評価 ★★★★☆
(スイス政府が全国民に配布したという小冊子。現代において予想される戦争について国民に政府の見解、基礎的な知識、対応方法を教えるという目的でつくられたものです。とかく「永世中立国」としてイメージだけで語られることの多いスイスという国が、実のところ普通の日本人の基準から考えるとかなり偏執狂的といってもいいような重武装中立主義を採用していた事がわかります。周囲を圧倒的に大きな国に囲まれて中立を主張する以上当然といえば当然なのですが…)
本書の概要
とりあえず、今回私が読んだのは1995年に出版されたもので2003年の新装版ではありません。その点ご承知置きください。
この本は阪神大震災の折に大きく取り上げられたからか、私が読む本としては珍しく有名で広く読まれておりあちこちでレヴューを見かけるのですが、この『民間防衛』は古い(本書の底本は1969年版です)、冷戦時代を前提にしているが当のスイスでは既にそうした危機がなくなったので大幅に改訂されているという批判的意見を時折目にします。
確かに事実問題として捉えれば本書の底本は古く、しかも新しい版が存在しているのは事実であり、スイスの現状を知りたいというのであればそのとおりなのですが、しかしスイスと異なり日本の周囲には中共、北朝鮮のような全体主義国家が現在に至るも存在しており、そうした国からは明らかにマスメディアへの工作が行われており、またそうした全体主義国家から政治資金の供与を受けていた社民党のような政党も一応存続している(たとえ党首の座を中核派シンパに奪われたとは言っても…)のですから、その点を考えれば、そうした全体主義国家の宣伝工作やスパイ活動、謀略について大きく取り上げているが故に、むしろこちらの版の方が日本の現状に適していると考えるべきではないかと思います(あくまでスイスに興味があり日本の問題を考えるために読むのではないという奇特な人は別ですが)。
さて、本書は新書サイズで2センチ近い厚さがあるのですがページ数は319ページ。見た目ほどページ数が多くないのは紙質のためです。しかも冒頭を除けば中身に文章は少なく、本というより小冊子とでも言うべき程度の文章量しかありません。読書が苦手という人でも苦になるような量ではないでしょう。さらに言えば文字ではあるのですが、例えば非常時に備えて備蓄すべき物品のリストのような読み飛ばしてもあまり支障が無いような文字も多いですね逆にいえば活字中毒者にとっては冒頭と後半の一部以外に詠むところが無いので物足りないでしょう。
次に本書の構成なのですが、まず冒頭の20ページほどは非常にあたりまえでつまらないのですが自由主義、そしてとかく日本では戦後悪役とされてきた国家主義(共同体の自由があって初めて各個人の自由がある、として国民の権利を他の国家から守れるものは国家しかないというあたりまえのことを言っているだけですが…)を掲げ、同時に全体主義を受容できないものとして斥けるとともに、自由と平和を維持するために努力する義務がありそのひとつとして軍事的防衛の準備があるとしています。
ちなみにここでは、平和を望んでいるからといって戦争に備える義務から解放されていると感じている人は誰一人としていないとか言い切られていますが、そういう頭のおかしい人間は日本の市民団体とか平和団体とかには一杯いるのですよねもしかするとスイスの基準では既に人じゃないのかも知れませんね。
で、その後に民間防衛組織や個人で行うべき備えなどのこまごまとした実務的な事柄が説明されているのですが、この辺は防災マニュアルみたいなものです。同じようなものを読んだことが無いなら一度読んでおいて損は無いでしょうね。およそ100ページくらいです。
そして後半は、実際に戦争に至る過程がどのようなものであるか、その過程で敵国からどのような宣伝や工作が行われるのか、戦争に一度敗れ国土が占領されたらどうすべきかということに充てられています。
実際に、読む人の問題意識によってこのうちのどこに価値を見出すのかは異なってくるのですが、あまり国家とは何かというようなことを深く考えたことの無い人には冒頭、左翼人士にはなんとなく不信感を感じるのだがそれを明確に表現できないというような人には最後の部分が印象的なのでしょうね。
本書の特徴として、非常に短い無駄のほとんど無い文章で重要なことを的確に伝えている点があると思います。特に秀逸な部分を引用しますと…
(以下「」内引用)
「国を内部から崩壊させるための活動は、スパイと新秩序のイデオロギーを信奉する者の秘密地下組織をつくることから始まる。この地下組織は、最も活動的で、かつ、危険なメンバーを、国の政治上層部に潜り込ませようとするのである。彼らの餌食となって利用される「革新者」や「進歩主義者」なるものは、新しいものを待つ構えだけはあるが社会生活の具体的問題の解決には不慣れな知識階級の中から、目をつけられて引き入れられることが、よくあるものだということを忘れてはならない。
数多くの組織が、巧みに偽装して、社会的進歩とか、正義、すべての人の福祉の追求、平和というような口実のもとに、いわゆる「新秩序」の思想を少しずつ宣伝していく。この「新秩序」は、すべての社会的不平等に終止符を打つとか、世界を地上の楽園に変えるとか、文化的な仕事を重んじるとか、知識階級の耳に入りやすい美辞麗句を用いて・・・・・・。
不満な者、欺かれた者、弱い者、理解されない者、落伍した者、こういう人たちは、すべて、このような美しいことばが気に入るに違いない。ジャーナリスト、作家、教授たちを引き入れることは、秘密組織にとって重要なことである。彼らの言動は、せっかちに黄金時代を夢みる青年たちに対して、特に効果的であり、影響力が強いから。
また、これらのインテリたちは、ほんとうに非合法な激しい活動はすべて避けるから、ますます多くの同調者を引き付けるに違いない。彼らの活動は、“表現の自由”の名のもとに行われるのだ。」
無駄の少ない、それでいて必要なことはきちんと盛り込まれている、簡潔でいい記述だと思います。ほとんど同内容の文章をどこかで見かけた事があるのですがどこだったか思い出せないのですが、多分元ネタはこの本なのでしょう。
また、後述しますが占領を戦争の終結とはみなしていないというのも特筆すべきことだと思います。本来あたりまえのことなのですがね…
しかし、私見ですが本書にも疑わしい個所はいくつかあります。その最たるものは占領からの解放闘争についての部分での国際法遵守に関する記述です。これは政府としては戦時国際法を遵守しようとしたという事後的な言い訳に利用するために書かれているように思えます。ちいさな中立国というのは(第二次世界大戦中のスイスや北欧諸国のように)奇麗事だけでは生きていけないのですから仕方ない部分なのでしょうが、しかしレジスタンスなどというものが実際には情報収集以外ではほとんど役に立たないということを明白に主張しているのは正しいと思います。
雑感(というか私見)
総力戦というのは敵国が再度戦争を遂行することが出来ないようにすることを目的としています。これってあたりまえのようですが、日本においては歴史学でも法曹界でもまったく理解されていません(というか意図的にこの問題を避けています)。
1945年8月15日は停戦受諾であって戦争は終っておらず(そもそも「終戦」って言う言葉自体が国際法上何の根拠も無い造語です)、サンフランシスコ講和条約締結までの間の占領統治こそ米国による総力戦の最終段階であり、日本の軍事的伝統、文化的伝統その他米国にとって将来競合者となりうる要素を徹底的に破壊する為のものだったと考えるのが本来妥当です。
そして、地位の保全や出世のためにそうした占領統治に嬉々として従ったのが岸信介のような革新官僚、8月15日革命説などという荒唐無稽な珍説を主張して今に至る東大法学部の一部(内閣法制局に居座り憲法解釈の権限を有すると主張して憲法の解釈権を何の法的根拠も無く独占しています)、そして戦後突然マルクス主義史観を主張し始めた学者といった、本来社会の上層にいて敗戦の責を負うべき人たちでした。
この国は、兵卒や庶民の生命と努力によって何とか勝ち得た停戦という成果を、こうした自称知的エリート達の、控えめにいえば総力戦に対する理解の不足、厳しく言えば保身や出世のための利敵行為によりまったく活用することが出来なかったと言うことが出来ると思います。多くの英霊は死んでいった時点で無駄死にであったのではなく、停戦後のこうした行いによって無駄死にとなってしまったと言うべきでしょうね。
この本でも、きちんとそうした占領政策への対応が書いてあります。独立を回復した後、調印した講和条約に従う義務はありますが、占領政策と一貫性がある政策を採用する義務はありませんし、ましてや占領政策を礼賛する義務など全くありません。さらに言えばそれ以外の事実認識や価値基準について相手側の主張を受容する必要など全く無いのですがね…
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