周知の通り、ここ日本でも1980年代には2割に満たなかった非正規雇用の割合がすでに4割に迫っている。今年の5月にはトヨタの豊田社長が、もはや企業の側には終身雇用を守っていくインセンティブなどないのだと明言した。
仕事は日増しにバラバラになり、一部の中核社員を除けば、必要なときに必要なだけ、できれば社会保障のコストも支払わず、プロジェクトごとに、作業ごとに、一時間ごとに、柔軟に利用できる労働力が求められる。果たして、この変化で本当に「自由」になったのは一体どちらの側なのか。
民主主義の起源の一つとして語られるフランス革命だが、その後のナポレオン民法典を準備したことによって資本主義や自由主義的な経済秩序にとっても最重要の契機の一つとなっている。そこで記された「契約自由の原則」によって、私人間の「契約」の内容は自由に決められる、そう宣言されたからだ。
しかし、その原則を「働く」という領域でも貫徹すれば、時給1円でも、月に何百時間働いても、本人同士の自由な契約によればOKだということになってしまう。だが、それでは社会が壊れてしまうだろう。だからこそ、その後の労働法の歴史はこの「契約自由の原則」に対する様々な修正の歴史となってきた。
8時間労働、残業規制、団体交渉権などの労働基本権――無数のリッキーたちを守るために、個々のプレイヤーの自己責任で終わらせないために、ゲームのルール自体が書き換えられてきた。雇う側が規制され、雇われる側に権利が与えられてきた。個人のため、そして社会のためにである。
しかし、今「従業員を独立請負人に切り替える流れがあらゆる業種で定着し、さらに加速している」(マルケイ前掲書)。そして、「自由な働き方」というメリットを享受しているはずの自営業者たちが、「契約自由の原則」を盾に様々な権利を喪失し始めている。リッキーの現実は、ここ日本でもそれほど変わらずに存在しているのだ。
歴史が巻き戻されている。持たざる者にとって、賭けられるものは自らの身体と精神しかない。時間しかないのだ。つまり、命しかないのである。『家族を想うとき』のラストシーンを観たあと、その不条理に震えない人はいないだろう。
自由の本当の条件は、一人ひとりがリスクの高い賭けに乗らずとも生きていけるだけの財産を持っていること、少なくともその利用へのアクセスが保障されていることではないか。労働法、福祉国家のあらゆる仕組み、そして企業による安定した雇用形態は、一見市場の自由なあり方に介入し、自由を規制するように見えて、実際には人々にとっての自由の条件となってきた。
今、奇妙なハイテンションと共に葬り去られようとしているのはこうしたバックアップの装置である。私たちは「不自由な自営業者」の時代に片足を突っ込んでいる。それは、バックアップを手放すことこそ自由の条件、そう錯覚を迫るような時代の別の名だ。
監督:ケン・ローチ『わたしは、ダニエル・ブレイク』『ジミー、野を駆ける伝説』、脚本:ポール・ラヴァティ『わたしは、ダニエル・ブレイク』『ジミー、野を駆ける伝説』、出演:クリス・ヒッチェンズ、デビー・ハニーウッド、リス・ストーン、ケイティ・プロクター
2019年/イギリス・フランス・ベルギー/英語/100分/アメリカンビスタ/カラー/5.1ch/
原題:Sorry We Missed You/日本語字幕:石田泰子
提供:バップ、ロングライド 配給:ロングライド
longride.jp/kazoku/