全カルチャー好きが憧れざるをえないカップル
世間にはカルチャー好きが憧れるカップルというものがいる。古くはゲンズブール&バーキンからカート・コバーン&コートニー・ラヴ、僕たちの世代かつ国内だと、チャラ&浅野忠信やUA&村上淳がわかりやすいだろうか。たんにセレブ・カップルとかオシャレ・カップルとかいうよりは、お互いのクリエイティヴな才を認め合っている感じというか、お互いの個性を尊重し合っている感じにグッとくるものがあるのだろう。
僕はおっさん研究家ではあるけれど、パートナーシップにも関心があるので、カップルについても考えることが多い。とくに男女のカップルの場合は、そこに性差があるため、「対等」な関係をどのように築くのかは簡単な問題ではないだろう。ただ、「相手の個性を尊重する」というのはその入口のひとつではあるはずだ。
で、アメリカのカルチャー好き(とくに女性)の憧れの的だろうなあ……と僕が勝手に思っているカップルがいる。ミランダ・ジュライとマイク・ミルズである。
ミランダ・ジュライは、作家、俳優、ミュージシャン、映画監督、パフォーマーなど様々な分野で表現をおこなうアーティスト。若い頃からパフォーマンス・アートに取り組み、次第に映像制作に進んだのちに、長編映画デビュー作『君とボクの虹色の世界』でカンヌ国際映画祭で新人賞を受賞している。作家としても精力的に活動しており、初の長編作品『最初の悪い男』はふたりの女性のややこしい関係を突拍子もない展開とともに描いた独創的な作品だ。彼女の作品には生きることにどこか居心地の悪さを感じていそうな女性が出てくることが多く、その複雑な内面が繊細に描かれる。
ジュライはまた、フェミニストとしても知られている。1990年代初頭のパンク・シーン周辺で起きたフェミニズム・ムーヴメントであるライオット・ガールに影響を受け、女性が自分らしい表現をDIYでおこなうアイデアを学んでいる。女性の権利を訴えるウィメンズ・マーチでは、女性器のイラストを描いたプラカードを掲げていたとか。
一方のマイク・ミルズは、ミュージック・ヴィデオの監督やグラフィック・デザイナーとしてキャリアをスタートし、『サムサッカー』で長編映画デビュー。その後も順調に映画監督として活躍している。
ふたりは2009年に結婚していて、ミルズは自身の創作においてジュライから影響を受けていると率直に語っている。また彼女のことを「理想の女性」と言い切っていて、その理由を「彼女は強くて、予想がつかなくて、かわいくて、創造的で、それでいて僕の思い通りにはならない」からだという(※)。「思い通りにならない」女性を称賛できる男性って、じつはけっこうすごいと思う。
フェミニストでDIYアーティストの妻をその主張や表現も含めて受け止める夫、マイク・ミルズ。僕は「miranda july + mike mills」で画像検索して眺めているだけでポーッとしてしまうのだけど、ふたりのパートナーシップに憧れてしまうのは僕だけではないはずだ。ある評論家の女性とミルズの作品について対談したとき、「いやあ、カルチャー好きの女性で男性の良いパートナーを探している方は、マイク・ミルズみたいなひとと付き合うといいと思いますよ」とつい言ったら「そんな男いねえから!」(意訳)と言われてしまった。や、そうですよね、すいません(そもそも余計なお世話)。
一筋縄でいかない女性たちから少年が学び育つ物語
じゃあ、でも、どうやったらマイク・ミルズのような男が育つんだろう? そのヒントとなるのが、彼の監督した『20センチュリー・ウーマン』という映画である。
父をモデルにした『人生はビギナーズ』に続き、『20センチュリー・ウーマン』は彼の母の人生にインスパイアされた作品だ。映画には母も含めた3人の世代の異なる女性たちが登場し、主人公である15歳の少年ジェイミーは彼女たちから多大な影響を受けて成長していく。1979年の夏を舞台にした本作はこの手の映画にありがちな「少年がひと夏の恋を経験し、男になる」というような物語ではない。自分の意見をしっかりと言う女性たちから、少年が学ぶ話である。
母のドロシーは離婚しており、ひとりでジェイミーを育てているが、彼が思春期ということもあり、あまり関係がうまくいっていない。そこで彼女は下宿人の女性アビーと、ジェイミーの親友であるジュリーに彼を見守り、手助けするよう依頼する。ドロシーの家にはウィリアムというヒッピー崩れのおじさんも下宿しているのだけど、彼ではなく、女性たちに息子を助けてやってほしいと頼むのである。そして、ジェイミーは実際に彼女たちとの関係から様々なことを経験していく。
まず20代なかばで写真家でもあるアビーからは、パンク・ミュージックを教えられる。それも、ただマッチョで暴力的ではないパンク、たとえば女性たちで結成されたザ・レインコーツなどである。また、当時の先進的なフェミニズムを学んでいる彼女は『からだ・私たち自身』やケイト・ミレット『性の政治学』といったフェミニズムの名著をジェイミーに紹介する。
対するジュリーはもともと親友で、近所に住む彼女は夜な夜なジェイミーの部屋にやって来て彼のベッドで寝る。セックスはしない。ジュリーは他の男(たち)と積極的にセックスをしているのだが、ジェイミーとは「友だちでいられなくなる」からしないというのだ。これは思春期の男の子なら、けっこうキツいものがあるのではないだろうか。セックスへの興味は当然あるが、だけどその可能性が近い女子とは実現できない。それでも、ジェイミーはただただ彼女の話を聞くのである。
そんなジェイミーの態度を見て、「情けない」と内心思う男もいるのかもしれない。「据え膳食わぬは男の恥」だと。女性を「膳」扱いしている時点でものすごく前時代的な……というかヤバい言葉だけど、実際、男の側にはまだ残っている価値観ではないだろうか。「酒の席でふたりきりになった時点で、それはセックスのサインだ」などと思いこんで性暴力へと至る男はあとを立たないし、「集団レイプする人は、まだ元気があっていい」という政治家のトンデモ発言が糾弾されたのは15年以上前だけれど、「黙って女性を組み敷く男」が「元気」=「男らしい」とする勘違いはいまも根強いのではないか。
「男の恥」といえば、素直にフェミニズムの影響を受けたジェイミーはその知識を近所の悪ガキに披露して反感を買い、ボコボコにされる。フェミニズムを学ぼうとする男は同性に目の敵にされる……あるあるですよね。また、文化的なセンスの良さをやっかまれて「アート・ファグ(アートかぶれのカマ野郎)」と罵られる。「男失格」であると「男」から烙印を押されるのである。だが、それでもフェミニズムを学ぼうとする理由を母に訊かれたジェイミーはこう答えている。「僕はいい男になりたい。それだけさ」。
つまり、ジェイミーが15歳ながら「いい男」だと考えたのは、女性の話をちゃんと聞き、彼女らの主張を理解しようと努める男である。ジェイミーは個性的な女性たちと交流する過程で、たとえばアビーの子宮の検査に付き添ったり、ジュリーの妊娠判定に付き合ったりと、女性が直面している現実にも向き合っている。そして、次第に母親との関係を良好なものへと快復していくのである。
理解しえない問題を理解し続けようとすること
ミルズは父親のあまりいない家庭で育ち、彼の代わりにパワフルな母と姉たちの影響を受けて育ってきたそうだ。ジェイミー少年の姿はまるきりミルズのものだろう。
『20センチュリー・ウーマン』に登場する女性たちはみんな、欠点や弱さを持ちながら、自分の意見があり、一筋縄でいかない存在として描かれている。母親にしても、ドロシーは「何も言わずに息子のすべてを受け止めてくれる母」ではない。男の目から理想化された女性像ではなく、ミルズが実際に見聞きしてきたリアルな女性たちの姿が反映されている。
ジェイミーはおもにアビーとジュリーからフェミニズムを学ぶことになるが、母親のドロシーもまた、自分らしい生き方を模索した女性として映画では描かれる。ミルズはインタヴューで、自分の母のことを「ハンフリー・ボガートに愛されたかったのではなく、ボガートになりたかった」女性だったとのちになって気づいたと語っている。「男性のようなパワーを手にしたかった人」だったと。だが、時代が、社会が、女性にそれを阻んだ。
『人生はビギナーズ』という作品では、社会の不寛容によって若い頃はゲイとして生きられなかった父をモデルにしていたミルズだが、『20センチュリー・ウーマン』では親世代の女性たちの不自由についても考え、そのことであらためて母に感謝と敬意を捧げているのである。そして映画のラスト、ミルズは「母」に——「女性」に、とびきりの自由をプレゼントする。
男がフェミニズムを学ぶということは、立場の違いから完全に理解しえない(だろう)問題を、それでも理解し続けようとすることだ。「女は男にとって永遠のナゾ」とか言って勝手に神秘化するのではなく、女性たちのリアルな欠点や悩みを受け止めて、ともに考えること。
ミルズの映画には女性やゲイも含めた、アイデンティティの異なる他者への優しさがある。そこには対フェミニズムに限らない、彼の姿勢が表れているのだと僕は思っている。その姿勢とはつまり、自分とは違う立場の人の話をちゃんと聞くこと。当たり前のことだけど、きっとこれがパートナーシップの、そしてあらゆるリレーションシップの基本であるに違いない。