アルピニストとシェルパの娘との、世にも奇妙な「結婚生活」

第19回ゲスト:野口健さん(後編)
島地 勝彦 プロフィール

登山家も編集者も、疲労回復は「酸素に限る」

島地: その子が今どうしているのか、知ってるの?

野口: 父親とは今もネパールに行けば会うし、弟がいて、彼とは一緒に山に登ったりもしています。元奥さんといっていいのかどうか、その子は、ぼくが仕送りしていたお金を元手にして、今は飲食店を何件か経営する女性実業家になっているようですよ。

島地: 女が強いのはどこの国でも変わらないな。ところで、無酸素で登頂に挑戦する人もいるけど、野口はどうなの?

野口: 酸素ボンベは必ず持っていきます。無酸素で行く人は、常人離れした心肺機能を持っているか、ネジが何本か欠けているか、どっちかじゃないでしょうか。無酸素で8000メートル級の山に登ると、ボクシングの試合でKOされたときと同じくらい脳細胞が死ぬらしいですよ。

よく幻覚も見るようで、「山頂でイエティと宴会をした」と真顔で話す人もいます。酸素が足りないと視野が狭くなり、何をするのも考えるのも億劫になるから、相当にリスクは高いです。

島地: へえ。じゃあ、エベレストで吸う酸素は、さぞかしおいしいんだろうね。

野口: 8000メートルまでは酸素ボンベを使いわないでがんばって、キャンプに着いてから酸素を吸うと、これがすごい。ギューッと狭くなっていた視界が、パァーっと広がって、世の中にこんなにうまいものがあるのか!と涙が出るくらいおいしいです。今は日本にいるときも、家に酸素カプセルを置いて、時間があればそこに入っているから、まわりから見たら、相当変な引きこもりだと思いますよ。

島地: その感覚、わかるな。オレも集英社インターナショナルの社長時代、週一回のペースで銀座の酸素カプセルに通っていたからね。たった1時間入るだけで二日酔いは吹き飛ぶし、視界はクリアになるし、なんだか心も穏やかになって人格も変わる。ヒノ、酸素ってすごいんだぜ!

ヒュミドールをかついで登りたい?

日野: 酸素ってすごいんだぜ! といわれても、常人にはなかなか理解できないのですが、人格が変わったシマジさんには会ってみたいです。

島地: 煙草はどうなの? 父親の影響もあって、野口は葉巻、パイプを若い頃からやっていたんだよね。

野口: はい。最初は、エベレストの頂上で葉巻を吸うというのはどうだろうと思って、ウェットティッシュとラップで厳重にくるんで持って行ったことがあります。でも、いざ吸おうとしたら、カチカチに凍っていてとても吸えたものじゃない。少し下りても、極度に乾燥しているから葉巻はパサパサになってしまう。

島地: まさか、ヒュミドールをかついで上がるわけにはいかないからね。

日野: シマジさんならやりかねないですけど……。

野口: で、山ではパイプのほうがいいという結論に達しました。8000メートルの山から下りて来て、まず口にするのは水です。ゆっくりと、細胞の一つひとつにジワーッと染み渡るような感覚を味わい、一息ついたらパイプに火をつけます。煙をふぅ~~~~と長く吐き出すと、それまでの疲れがスーッと抜けていくようで、最高に気持ちいいですよ。

島地: それは確かにたまらないだろうね。今日は野口のために、特別な葉巻を用意してきたから、もう一本、一緒に燻らせましょう。

野口: ありがとうございます、ぜひ!

〈了〉

(構成:小野塚久男/写真:峯竜也)
〔撮影協力〕D'arbre's Bar

野口健(のぐち・けん)
アルピニスト、亜細亜大学客員教授、了徳寺大学客員教授。1973年、アメリカ・ボストン生まれ。亜細亜大学卒業。植村直己の著書に感銘を受け、登山を始める。99年、エベレスト(ネパール側)登頂に成功し、7大陸最高峰最年少登頂記録を25歳で樹立。以降、エベレストや富士山に散乱するごみ問題に着目して清掃登山を開始。2007年、エベレストをチベット側から登頂に成功。近年は清掃活動に加え、地球温暖化による氷河の融解防止にむけた対策、日本兵の遺骨調査活動などにも力を入れている。2008年植村直己冒険賞受賞。2015年安藤忠雄文化財団賞受賞。主な著書に『落ちこぼれてエベレスト』(集英社)、『写真集 ヒマラヤに捧ぐ』(集英社インターナショナル)など。