私と鉄道模型の60 年 (2) — 松本謙一 小型蒸機の魅力


■ 小中型蒸機の魅力―――松本謙一(日本鉄道模型リサーチ‐A.B.C.)





気が付いたら汽車があった



「鉄道模型に興味を持ったきっかけは?」私自身、長年鉄道模型の専門誌の編集者として、多くのモデラーにこの問いを発しましたが、自分自身の場合は答えにちょっと困るのです。なぜならば、自分を自分として意識した瞬間から、そこに電気で走る小さな汽車があったからです。



私とHOと出会いは、逆算すると私の1歳半のころになるようで、その「60周年」は正確には再来年、2010年の末辺りに来るようですが、我が家に残っている写真を見ますと、それ以前に、当時販売されていたSゲージ相当の電動トイ・トレインで遊んでいる、首が立ったばかりの頃のスナップがあります。



どうも、昭和の初め、自分の少年時代にはついに買ってもらえなかった鉄道模型で一度遊んでみたいがために、私の父親は私が生まれ首が立つようになるやいなや、私にかこつけて、そういうものを買い込んできたようです。これが私の鉄道模型の前史時代。しかし、「レールに乗った小さな列車が目の前を走る興奮」との出会いでは2009年でいよいよ60年がやってくることになります。




松本家のHO



私の人生における楽しみごととか、好み、美意識、といったものには父から受けた影響が大変大きいのは事実です。



ただ、父と私の違いは、父は何においても即達型である代わりに飽きっぽく、私は大変に不器用で、父のように最初から上手くはやれない代わりに、失敗を繰り返しながらでも自分の納得いくところまでは経験してみないと気が済まない、たとえざっとでも、奥の院まで覗いてきたい、という性分で、一つのことに何年かかっても平気で。その中で常に興味が更新していきます。



父は天賞堂に特注して8畳間の壁際1周、HOの固定レイアウトまで造らせても2年ほどで飽きてしまいましたが、私は父がそれを取り壊したのちしばらく0番をやり、小学校3年でまた自分で一からHOを再開して、自分の固定レイアウト建設も14歳の時から、ほとんど切れ目無く、もう45年以上もハンド・スパイクで格闘しているしだいです。



商家の跡継ぎとして期待して育てた息子が、ついに自分の眼の黒い間には一銭たりとも家の資産を増やさなかったので、父は生前、私の家内や息子(つまり自分の孫たち)に「あのとき、あいつにHOを与えたのが松本家にとって没落の始まりで、自分の生涯の不覚だった」と悔やんでみせていたそうですが、おかげで私は、おそらく世界の鉄道趣味人にもここまで多岐な経験ができた例は希だろうと、自分でも思うほど、鉄道模型によって切り開かれた楽しい人生を過ごさせてもらいました。



さて、我が家にやってきた最初のHOは父が昭和26年のある日、天賞堂で買い求めてきたスターター・セットでCタンクの牽く米国型の貨物列車でした。幼児期ですが、この日のことだけは記憶にあり、薄曇の昼下がり、父がベニヤ箱に入ったセットを抱えてかえってきたのです。



どうやら、父はそのしばらく前に、天賞堂の存在に気が付き、そこで付加価値を存分に確かめた上で、この日、ついに購入に踏み切ったようです。



ちなみに、いまでは圧倒的に多くの鉄道模型ファンがご存知ありませんが東京タワーが完成したころまでは、天賞堂といえば米国型の専門店のイメージで、日本型オンリーのモデラーはほとんど行かなかったものです。(ついにその時代からの社員さんも居なくなりました)昭和30年ごろまでは屯しているのはほとんどが駐留米軍(講和条約後も世間では「進駐軍」と呼んでいた)の将兵でした。



このスターター・セットに入っていた赤いカブースのインパクトで、私はすっかり米国型の虜になってしまったのですが、もう一つ、「タンクロコの牽く短編成」というのにいまだに惹かれるのも、このセットの影響するところが大でしょう。




父の結論-「蒸機はスイッチャーに限る」



そこから数年間HOにのめりこんだ父は、鉄道模型社あたりにも出かけて手作りの大型機なども買ってきたようですが、上手く走らないといってすぐ返品してしまいました。そういう凝縮した模型経験の中で、父が行き着いた結論は「蒸機はスイッチャーに限る」でした。「スイッチャー」とは、0-4-0とか0-6-0とか、0-8-0とか、日本では本当に例が少ないですが、先従輪を持たないテンダー機です。父の意見は「先台車や従台車が無ければ急なカーヴでも脱線しない」という、まことに実用本位というか走行本位というか、昨今の実物指向のモデラーには考えられないような感覚でした。一方で父が上げていた蒸機模型の魅力の最たるものはロッドの動き、特にワルシャート式やベイカー式など、複雑なヴァルヴ・ギヤーの動きでした。急カーヴでも運転しやすいコンパクトな体躯にこの魅力を兼ね備えた、ということで「スイッチャーが一番」という結論が導き出されたようです。



父が「スイッチャーが一番好い」と言って評価したのは、正確には天賞堂のU.S.R.A.0-8-0でした。このモデルのプロトタイプは東部を中心に南部、中西部までの数多くの大手鉄道で愛用されたもので、どの鉄道のレタリングも似合う、癖の無い、しかし力強さを十分感じさせる、佳い罐です。



入換専用機、といっても、5-10輌ぐらいのボギー貨車編成にカブースを従えた姿は小鉄道の本線列車といっても通用するものです。



私も父があまり「佳い、好い」というのに刷り込まれたのか、やはり0-8-0が好きで、天賞堂製3輌をはじめ、U.S.R.A.とその一族、各鉄道のオリジナル形式でいつしか10数台がわが鉄道の車籍簿に載せているようですが、先のNMRAコンベンションでもオークションでまた2台競り落として連れ帰りました。




プライヴェート・レタリングの楽しみと中小型蒸機



アメリカでの鉄道模型の楽しまれ方には二通りあって、一つはプロトタイプに忠実なレタリングで行く方法、もう一つは「プライヴェート・レタリング」といって、想像上の自分の鉄道を経営して、レタリングもその鉄道オリジナルのものにする行き方です。昨今の日本で米国型ファンといえば圧倒的に前者ですが、米国では鉄道模型はコレクションの対象というより、「自分の鉄道を経営する」という夢を楽しむ人も多いのです。クラブ・レイアウトでメンバーが役割分担しての運転からDCC運転が普及した背景もそこにあるのですが、そのために1950年代60年代のブラス製HO蒸機製品は、一応プロトタイプはあるが、小型レイアウト向きで、かつ、プライヴェート・レタリングにすればあたかもローカル私鉄に大鉄道から譲渡された、というフィクションが自然にリアリティーを帯びてくるのです。



実のところ、日本でも1950年代に米国型のレイアウトを建設した先人たちの鉄道イメージもやはりプライヴェート・ロードネームを用いるのが圧倒的でした。




ブラスモデル・インポーターの雄、PFMの戦略



米国の鉄道模型市場でも、ダイキャストによるHOの普及版モデル、特に蒸機では、そうしたプライヴェート・ロードネームに向くような、癖の少ない小型機が有力メーカーからいくつも発売されました。ブラス・モデルでも明確にこの戦略を採ったのが、Pacific Fast Mail(通称PFM)社でした。



私自身、2代目社長のドン・ドゥリュー氏からかつて聞いたことですが、同社ではUnitedアトラス工業に発注する機種は有名なプロトタイプの正確なレプリカ、というよりも、なるべくどこにでも居そうな、むしろさほど有名でない、癖の少ないスタイルで小半径カーヴを通過できる中小型機を中心に選択し、これらはコレクターよりもレイアウト・ビルダーをターゲットに、なるべく低価格で、走行性能第1に、という方針の下に発売していたそうです。



同社では、有名な“クラウン・モデル”の方は、コレクターをターゲットの中心にした路線と位置づけ、こちらは鑑賞性優先で製作した、とドゥリュー氏は語っていました。このような明確な路線分けをしたことで、PFM社の普及版製品(同社では「プロダクション・モデル」と呼んでいました)は走行の点で定評を得て、米国で地域を問わず、多くのレイアウトに進出したのでした。



PFM社の代表的なレイアウト向けプロダクション・モデルといいますと、MA&PA鉄道の新旧2形式、B&OのE-27クラス、サンタ・フェ鉄道の1950クラス、UP6200のシリーズ
といったコンソリデーション(2-8-0)群、V&T鉄道の4-4-0、No.11“RENO”、それからSHAY、CLIMAX、HEISLERといったギヤード・ロコ各タイプあたりですが、実はC&OのH-6、SIERRA鉄道のNo.38という2形式の2-6-6-2、D&SL鉄道の200クラス2-6-6-0
もその範疇で、これらはすべて半径18インチ(約450mm)、4番ポイントを通過するように設計されています。




中小型機だけで不朽の名作レイアウト、G&D鉄道を演出したジョン・アレン



ここに挙げたような機関車たちを俳優に起用して独自のプライヴェート・ロードを実在の鉄道同等に有名にしてみせたのが、かの偉大なレイアウト・ビルダー、John Allenでした。彼のG&D鉄道は1940年代末に4×8フィート(およそ1200x2400mm)の米国規格定尺ベニヤのサイズからスタートして、1960年代後半には23×32フィート(およそ7x10m)のレイアウト・ルームに展開されていったのですが、そこまで巨大なレイアウトに成長しても、本線の標準カーヴ半径は18インチ(およそ460R)でした。



このような小半径に4%という急勾配を組み合わせることで、アレンは同じスペースにより雄大な線型を展開してみせ、そこに、最大でも貨車ならば、せいぜい単機で13輌程度、多くは7、8輌程度の編成を走らせることで、却って実感的な鉄道情景が創出できることを実証してみせたのでした。



そこに活躍した機関車はMantua、Roundhouse、Varney、Bowserといった米国メーカーのダイキャスト製品とPFMのプロダクション・ラインから選ばれた日本製ブラス・モデルの中小型機でした。アレンはこれらの製品に自分の鉄道のマークやロゴタイプを付け。さらに、テンダーを相互に交換したり、先台車を加えたり、撤去したり、ということもやって、「G&D鉄道の○号機」というイメージを創り出していったのです。



ジョン・アレンとG&D鉄道の名前は今日、日本の鉄道模型会で知らないモデラーも増えてしまいました。それどころか、米国にあってさえ、”John Allen? Who? ”という世代が現れています。



しかし、ジョン・アレンがわれわれに遺してくれた「HOで何ができるか」という可能性の実証、「鉄道模型を実感的に見せるものは、決して細密さではない」という真実、そして「小半径と中小型機の魔法」はレイアウトを視野に置くモデラーにとって、常に念頭におくべき永遠の指針です。




コアレス・モーターがもたらした中小型機への再評価



私自身は少年時代からジョン・アレンに憧れながら、40年以上に亘ってのレイアウトでの研究テーマは「超大型蒸機とそれにふさわしい長大編成が自在に走れるレイアウトは造れるのか?」というものでした。これは、父の持論であった「大型マレーなんてレイアウトではちゃんと走りっこない」に反発して、「それなら、やってみせようじゃないか!」と思ったことが最初の動機だったのですが、



しかし、その一方で父が0-8-0や2-8-0、さらには0-4-0や2-6-0、0-6-0をこよなく愛した気持ち、模型美としての捉え方も大いにうなずくところがあり、小型機の世界にもずっと目配りはしてきました。一昨年から家内とともに「JAMコンベンション」で展示している、ポータブルなシーナリー・ディスプレイによる擬似レイアウトの運転、製作実演している小型レイアウトも自分なりの「小型蒸機を主役にした鉄道表現」への挑戦です。



試行の一つは初期の韓国製を含めて、その後リメイクされていない多くの小型機を強力コアレス・モーターで現代的な走行性能を持たせたら、どういう情景がそこに生まれてくるだろうか、という研究です。事実、これによって、いままで棚の飾り物であった小編成が実感的な速度で安定した走り振りを見せてくれ、そのしみじみとした魅力に新鮮な感動を呼び覚まされています。やはり、鉄道模型はよく走ってこそ、そして、存分に走らせてこそ、真の満足が得られるものです。



単なるアンティーク・モデルへのノスタルジーや「お宝信仰」ではなく、彼らと共に何ができるか、という模索にワクワクするものを覚える、ここ数年です。