Music
細野晴臣
この世界で、自由なダンスを。
みんなでチークタイムを。
2019年に音楽活動50周年を迎えた細野晴臣。長い年月、彼は音楽を通じて人々の心に灯をつけてきた。今年1年間の活動は、そのひとつの集大成であり、未来のほのかな“予感”に満ちたものだっただろう。音源のリリース、活動を振り返る展示、自身を追ったドキュメンタリー映画の公開、国内外でのパフォーマンス──。めくるめく日々を駆け抜けた細野が語り出したのは、この世界で楽しく、自由に「踊る」ことの可能性だった。
PHOTOGRAPHS BY KAORI NISHIDA
TEXT BY FUMIHISA MIYATA
2019.12.12 Thu
Profile
細野晴臣
HARUOMI HOSONO
1947年東京生まれ。音楽家。1969年「エイプリル・フール」でデビュー。1970年「はっぴいえんど」結成。73年ソロ活動を開始、同時に「ティン・パン・アレー」としても活動。78年「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成、歌謡界での楽曲提供を手掛けプロデューサー、レーベル主宰者としても活動。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント、エレクトロニカを探求、作曲・プロデュース・映画音楽など多岐にわたり活動。
プライヴェートスタジオのソファに、静かに座っている細野晴臣が目の前にいる。「このインタヴューシリーズは、答えのないような問いを伺うものなんです」と切り出すと、彼は「いえ、ぼくにも答えなんてありませんから」と呟いた。世界を、そこで紡がれてきた営みを見渡し、奏でられてきた音に耳をそばだて、対話と思考、そして行動を重ねてきた細野。彼の姿は、まるでタイムマシンのコックピットにいるようだった。その縦横無尽な“旅路”に、ひととき乗り合わせてみよう。
──つい先日、活動50周年を記念した2日間の公演を終えられました。この1年は怒涛の日々でいらしたと思います。ステージでは「半年前のニューヨークやロサンジェルスでのライヴからもあっという間だった」と話しておられましたが、いまの心境はいかがですか。
ようやく楽になりましたね。自分としては、特に50周年ということにそれほどの思いはないんですよ。誰だって長くやっていれば、50年くらい経っちゃうでしょうから。同世代のミュージシャンたちも50周年という話はけっこう聞きますし。自分から「50周年だ」という人はあまりいないんです。
優れた発想力と革新によって「新しい未来」をもたらすイノヴェイターたちを支えるべく、『WIRED』日本版とAudiが2016年にスタートしたプロジェクトの第4回。世界3カ国で展開されるグローバルプロジェクトにおいて、日本では世界に向けて世に問うべき"真のイノヴェイター"たちと、Audiがもたらすイノヴェイションを発信していきます。
ぼくも周りが盛り立ててくれて、「ああ、そうなのか」と思っているうちに巻き込まれていく、というパターン。ニューヨークとロサンジェルスのライヴを終えてから先は、もう何が何だかわからないままの毎日で、それがついこの間ようやく終わったんです。大丈夫だったのかな……と思いつつ、ホッとしていますね。
──パフォーマンスを拝見する側としては、細野さんの歩みや、そこで奏でられる古今東西の音楽も含めて時間の折り重なりのようなものを見てしまいます。演奏されるご自身としては、どのような感覚だったのでしょうか。
あんまり変わらないんですよね、若いころから好きなことだけをやってきましたから。ときどき、きつい仕事もありましたけど、ほとんど好きにやってきて、そのつどそのつど何か見つけてきては没頭して……そうやって続けてきたことなので。ただ単に、あんまり音楽以外のことをやらずに来ただけなんですよ。たぶん、音楽がひと一倍好きだったんでしょうね。いつの間にか長い時間が経っちゃったな、という感慨を抱いています。
音楽活動50周年を迎えた細野晴臣。この1年は多忙な日々が続いてきたが、ようやく落ち着いてきたのだと、ほっとした表情で語る。
──音楽に没頭されてきた細野さんにとっての「時代」、特に同時代とは、どういう存在なのでしょうか。目の前の時代の心をつかむ音楽をつくられながら、時代とスッと距離をとることもありますよね。1973年に初のソロアルバム『HOSONO HOUSE』を出される過程では、都会からフッと埼玉県の狭山に身を移して制作されました。それに90年代前半の世間が騒がしい時代には、アンビエントを探究されていました。
そうだね……。基本的には、とにかく影響されっぱなしですね、時代時代に。日々起こる出来事、世界がどうなっているかということは知りたいので、いつもチェックしているんですよ。人類みんな共通して「ますます状況は差し迫っているな」ということは感じているんでしょうけど、ぼくは強くそうしたことを感じたとき、距離を置こうとしちゃうんですね。時代の変わり目というのは巻き込む力が非常に強いですから、その中心からちょっと離れようかな、という気持ちがあるんです。アンビエントのときもそうだったのかな。世間がバブルで騒いでいるときは、いちばん距離を置いていましたね。
──本能的な行動なのでしょうか。
そうですね、本能に近いですね。
──そのようにして時を経ながら、音楽に対する関心も変化してきたことと思います。
20代のころは「地理的な音楽の広がり」というものに、すごく興味がありました。地球上の音楽──あらゆる場所にいろんな音楽があるということへの興味が強くて、いろいろ勉強していた時代ですね。中南米、インド、中国とか、そうした民族音楽の要素を非常に勉強していたし、好きだったんです。
その興味がだんだん、「時間軸」に変わっていった。次元が変わってきたと言いますか、過去の音楽って、いったいどんなものがあるんだろうと。「時間軸」に気が付いてからは、20世紀に生まれた文化全体、もちろん音楽も含めて、そういうものの豊かさに圧倒されるばかりで。いまはそういう状態ですかね。
──かつて「名曲以外に興味はない」と語っておられましたが、「名曲」と思われるものもご自身のなかで変わりゆくものなのでしょうか。
いや、それはそんなに変わらないんですよ。名曲というのは飽きないわけで、いつ聴いたっていい曲なんです。だんだん色褪せてくる、ということはない。ただし、それがどういう構造をしているのか……と思って分解しちゃうとだめなんです。飽きちゃうんですよ。だから、放っておくのがいちばんいいんです(笑)
──解剖しすぎてはいけないんですね。
うん、どこか大事なものが消えちゃうんですよね。
──しかしそれは、演奏をする立場としては、かなり難しい問いではないでしょうか。
そうなんですよ。好きな曲をカヴァーすることが最近多いのですが、そういうときはどうしたって分析的にアプローチしますから。だから、ある程度は大まかに分析するわけです。細部にいたるまで完璧には分析しないようにして、いちばん大切なもの──たとえば初めて聴いたときの気持ちのたかぶりを忘れないようにしている。カヴァーしたときに、そういうものをちゃんと出せるかどうかというのがいちばんの目的ですから、微に入り細に入り完璧にコピーするようなことはやらないんです。ざっとやるわけですね。いまもそうやって、ブギをやっていますけれど。
細野の音楽に対する関心は、地理的な広がりから時間軸へと移り変わっていった。いまは20世紀に生まれた文化全体の豊かさに圧倒されているのだという。
──近年は1940年代のブギにこだわっていらっしゃいますね。失ってはいけないものがあるからだ、という発言も過去にありましたが、それはどういったものなのでしょうか。
ひと口には言えないんですけどね。まず元の曲というのは、その音楽がつくられた時代の空気とか、文化全体、人々の心情などもすべてをひっくるめた結果が、音になっているわけです。スタジオで録ったにせよ何にせよ、その時代の空気の振動が音楽になっている。すべて音というのは空気を媒介にして伝わってくるし、空気なしでは成り立たない。その何かを含んでいるわけです。
ちゃんとは分析できませんが、各時代の音楽にはそういうものが全部含まれている。ホログラムみたいなものなんじゃないかな、と思います。それを丸ごと感じとるということがいちばん大事であってね。メロディーや和音、リズムというのは付随したものであって、それはさっき言ったように分析していけばある程度はわかってくるけれども、その時代の空気感はわからないわけです。分析しようがない。
──それでも、できるだけつかまえていく。
つかまえておくのも難しくて、すぐにできるわけじゃないんです。それもひとりでやるわけじゃなくて、ぼくよりずいぶん下の世代のミュージシャンと一緒にやることが多いですから。彼らの多くはロック世代ですが、ロックの時代の音ではないことをやろうとしているから、説明も難しい。うまく言えないですから、とにかくやってみて、コツを少しずつ修正していくんです。「もうちょっとリズムをシャッフル気味に」とかね。さじ加減を調節していくというか、調理の味付けのようなものですね。
そして、一緒にやっている演奏家たちの気持ちがたかぶったり、喜んだりしているのを見れば、「ああ、うまくできているんだな」と思うわけです。みんなが楽しみだすと、音楽自体が本当に楽しいものになってくる。
──50周年記念講演では、ご自身の音楽が「オリジナルをやってもカヴァーのように聞こえる」という発言がありましたね。
ぼくとしては、自分に対する皮肉として言っているんです。というのも、たとえば矢野顕子という人は、どんなカヴァーをやってもオリジナルに聞こえる。ぼくは逆だな、どんなオリジナルをやってもカヴァーに聞こえちゃうな、という卑下なんですよね(笑)
──しかし、オリジナルとカヴァーを往復するような営みのなかに、何か新しい発見や刺激があるからこそ、続けていらっしゃるのではないでしょうか。
若い時分には、いまカヴァーしているような音楽を聴いていて、たとえ「いいな」と感じても、自分でできるわけがない、と思っていたんです。ロックの文化に囲まれて育ってきたから、何をやったってロックになっちゃうんです。30代、40代になると、だんだんそれが嫌になってきて、ロックの枠組みから出たくなった。
そういう試みを常にやっていますけど、やっとロックから抜けたのが最近ですね。やっと抜けられたかな、という気持ちになったのは、ごく最近なんですよ。10年ぐらい前は、まだロックだったんです。
──「抜けた」という境地は、具体的にはどのように実感されるのですか。
自分の「視点」や「聴き方」なのかもね。ぼくはかつて、さまざまな音楽も全部、ロックのフィルターを通して聴いていたと思うんです。その聴き方が自由になってきたということかな。最近は「音楽そのものを聴いている」という気持ちになれるんです。若いときのように、それを自分の音楽に変換する、ということもあんまり考えない。そのまんまの息吹、たたずまいというか、音楽の響き方を自分のなかに再現できる要素が培われてきたというかな。
──なるほど。人が本当に自由になるには、30年、40年はかかるのでしょうか。
かかるのかもしれないね(笑)。50年やってきましたが、そういうことがわかってきたからよかったな、と思います。
──そうした細野さんの歩みにおいて、テクノロジーはどういう存在でしたか。現在のライヴでは、ほぼギターのみで演奏されますが、ずっと先駆的にテクノロジーを使った音楽をつくられてきました。『HOSONO HOUSE』をリメイクされた今年リリースの『HOCHONO HOUSE』では、おひとりで徹底してDTM(コンピューターによる音楽制作)に取り組まれたとのことですが。
生まれついてレコードを聴きだした瞬間から、すでにテクノロジーの産物の恩恵を受けています。ぼくはレコードで音楽を勉強してきましたから。小学校の高学年ぐらいからカタログを見て、レコードプレーヤーやアンプを探していました。ターンテーブルは30cmじゃなきゃLPは収まらない、再生するスピーカーも低音域を出すウーファーの口径は30㎝じゃなきゃ、と。生意気な子どもでしたね(笑)
そういうことも含めて、技術のお世話になっているわけです。音楽をやり始めたときも、スタジオという環境にはエンジニア、つまり技術者が座るコンソールの卓は、いわば“聖域”でした。技術者のほうが格上で、ミュージシャンは座っちゃいけなかったんですね。
──テクノロジーとの関係は、少年時代から続いているんですね。
いちばん大きな節目は、音楽用のコンピューターが商品化され始めたときですね。そのころ音楽にコンピューターを使っていたのは、冨田勲さん[編註:『月の光』などで知られる、70年代から電子音楽に取り組んだ音楽家]くらいでした。ぼくたちは何もわからなかったですし、マニピュレートする人が必要だったので、松武秀樹さん[編註:“4人目のYMOメンバー”として知られるシンセサイザープログラマー]をスカウトして、YMOもできたわけです。一緒にレコーディングしていると、これは自分で操作できないと今後行き詰まるだろうなと思って、自分もコンピューターを入手して、マニュアルを読んでやりだした。
それからはずいぶん没頭しましたね。コンピューターで音をつくるということはすごい、と。脳をそのままアウトプットしているような感覚になった。当時の音楽用のコンピューターは入力が非常に貧しかったんですけれど、それでも音楽は四声体があればできるということに気づきましたし、いろんなことがわかりました。
──いまはコンピューターとの距離感はいかがですか。
正直、いい時代が過ぎちゃったんだよ(笑)。当初は音楽用の電卓やレジのようなコンピューターだった。それからNECが98[編註:パソコンの「PC-9800」シリーズ]というのをつくって。音のデータを数値で入力していくんですが、面白くて長い間使っていましたね。そしてアップルのMacintoshが出てきた。「OS9」[編註:1999年にリリースされた「Mac OS 9」]の時代がピークでしたね。自由にできたし、いろんな面白いソフトがいっぱいあった。いまではそれがブラックボックス化してしまっている感じがありますね。
──細野さんとしては自由なコンピューターが欲しい、という感じでしょうか。
欲しいけど、OS9で動くものはとってあるので、電源を入れればそのころのアプリケーションも全部使えるんです。それはそれでいい。新しく進化したもののほうがいい面もありますから。ぼくも音楽以外の生活では新しいものを使っています。
──お話が現在に戻ったので伺いますが、米国では細野さんの過去の作品が再発売されて大きな話題を呼ぶなど、世界的な再評価が進んでいます。逆に細野さんが再評価しているものはありますか。
いままた30年代から50年代の古いハリウッド映画を見直しているんです。たとえば、フレッド・アステアの作品とかね。彼が映画の世界に進出して最高のパフォーマンスができたということ、そしてそれが残されているということに、すごく感動しているんです。
いまの時代、ああいう天才がいたとしても、表現する場、それを支える土台、トータルな文化がないだろうな、と思ってしまいますね。特に日本ではそうです。そういう時代にぼくたちは生きている。過去から何を学んでいくのか、自分で何ができるのかということを、考えているところです。
過去から何を学んでいくのか、自分で何ができるのかということを考えているという細野。まるで、さまざまな時代を俯瞰しているかのような語り口が印象的だった。
──何か突破口はあるのでしょうか。
うーん……。いま個人的に非常に後悔していることがあって。ダンスを習っておけばよかったな、と(笑)。タップダンスとかね。
──ダンスですか?
いまはもうなかなか体が動かないけど、少しやりたいな、と。帽子も買おうとしているんですよ。帽子の芸というものがあるんです。
──先日のステージでも、帽子を“くるりんぱ”とかぶるお茶目なシーンがありましたね。
そうです、くるりんぱ(笑)。自分にできることはあれくらいだな、と。ハットトリックと言いまして、もっとすごい人たちもいっぱいいるんですよ。
──なるほど。人によっては考え込んでしまうようなテーマに対しても、細野さんはどこか世界を喜劇的に見ていらっしゃるところがありますよね。
そうですね。アステアにしてもジーン・ケリーにしても、素晴らしいパフォーマンスをしていた人たちがいて、そんな時代があったということを残っている映像で観て感じることはできる。何か片鱗でもいいから、自分でそれを取り入れて伝えることができれば、と。自分のライヴでもときどきミラーボールを回して、「さあ、チークタイムです」と言ってメッセージは出しているんです。こういうのを好きだと思う人が増えればうれしい。楽しんでやるということは大事ですから、別に悲観的ではないんです。
チリのサンティアゴに行ったときも、いっぱいあるタンゴバーをのぞくと年配の夫婦が踊っていました。タヒチのホテルに泊まったときは、食後にみんな庭でダンスをしていた。イギリスの公民館でも、パリのアラブ街のカフェでも、町中の老若男女が集まってきて、みんな踊っていたのを見たことがあります。年齢層が広いわけです。
垣根を外して、みんなが踊れる楽しい場がつくれればいいな、もっとちゃんとできることをやりたいなという思いが、この年になってやっと芽生えてきましたね。理想、いや夢ですね、これは。
──来年の細野さんは、もしかしたら踊り出すかもしれないんですね。
ぼく自身、内にこもって生きてきた人間だけど、世界中の人たちが年齢を超えて踊りを楽しんでいる、そういう文化を見てきた経験があって、踊ってみたくなっているんです。長く生きていると、いろんな変化がありますね。音楽を中心にしながら、もしかしたらそういう方向にちょっと行くかもしれないね。いや、でもこんなことを言っちゃったら、本当にやらなきゃならないな(笑)
Audi Story 20
「Audi e-tron」が拓くEVの世紀
Audiにとって2019年の大きなトピックのひとつが、同社初の量産型EVであるSUV「Audi e-tron」を欧州で発売したことだ。20年春にはSUVクーペ「e-tron Sportback」の投入を欧州で予定しているほか、4ドアスポーツモデル「Audi e-tron GT concept」などをすでに発表している(日本導入は未定)。Audiは電動化やデジタル化、自動運転といった分野に、2023年末までに140億ユーロ(約1兆8,000億円)を投資する方針を明らかにしている。これらの勢いからは、EVが広く普及し、クルマがもっとインテリジェントになっていく社会の到来が容易に想像できる。しかも、それは遠い未来の話ではなくなっているのだ。(PHOTOGRAPH BY AUDI AG)
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