吉田茂は日米安保が日本社会で問題になることを知っていた
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講和条約の調印式が終わったのは昭和26(1951)年9月8日の午前であった。アルファベット順に調印していき、結局、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドは調印を拒否している。形の上では日本は全面講和を選択しなかったことになる。しかしともかくも、日本は国際社会で「アワー・フレンド・ジャパン」と言われるようになったのである。
こうして日本と各国との間で国交が回復された。しかしこれは第一幕に過ぎなかった。日本はもうひとつ大切な条約を結ばなければならなかった。日米安保条約である。この条約について吉田は、将来の日本社会で問題になることを知っていた。そこでサンフランシスコ市内に剛直な佇まいを見せている第6軍司令部の中でこの条約の調印式が行われた折に、吉田は全権委員の池田勇人や政府側の要人に対して、「将来、この条約が問題になるときに備えて、君らは調印しておかない方がいい。これは私の一存で決めたことにしておきたい」と伝えている。

















