プロローグ
「はあっ……!はあっ……!」
伸ばした手の指先すらまともに見えない程の深淵の闇に蝕まれたうっそうとしている森の中。草をかき分け腐葉土に足をとられながら走り抜ける一つの影。その頭には焦げ茶の兎の耳が一対生えそろい体の動きに合わせて上下している。まるで絵本の世界から抜け出てきたかのようなフリフリフリルの装飾過多な格好の少女。腰の紐に銀の鎖で絡みついた趣味の悪い光をギラギラと反射する金時計をガチャガチャ音をたてて振り乱しなりふり構わずどこかへと疾走していた。
少女は恐怖に彩られて今にも泣き出してしまいそうな顔を隠すこともせず後ろを振り返ると、その視界の中に恐怖の根源を探し当てたのか歪んだ顔を更にくしゃくしゃに歪める。
そして、振り返るために緩めた速度を元に戻し、走る。
森の中を走りなれていないのか地面から張り出した木の根につまづいては前のめりになり、転がるように前進しながら立ち上がったかと思えば木から下がる蔦にいい音を立てて顔を打ち付け、今にも力尽きてしまいそうな姿勢で走る少女の後ろに、黒い塊が。
「逃がさないのかー!」
「くっ……くるなあぁっ!」
まるで夜を切り取って濃縮したかのような。
黒い絵の具を薄めることなく空間へと丸く塗りたくったかのような。
そんな表現が正しいような黒い球体……闇を纏った塊がおとぎの少女を後ろから追い立てて居た。闇の中央にはほおづきのようにまん丸で怪しい紅色の二つの光珠が肉食獣の輝きを持って
少女はその行先も知らないまま、追い立てられる羊のようにただただみっともなく走る。そして、その逃走劇は唐突に終わりを告げた。
唐突に少女の視界が開ける。
少女の逃走を許さないように反り返った崖が行く先を囲い込んでいた。おとぎの国へ返さないように通せんぼうしているかのように行き止まりへ追い込まれた少女は、うろたえて頭を振り乱して他の逃げ道を探す。
が、その一瞬が命取りだった。
なぜなら……その一瞬は、その間だけは背後に存在した捕食者の事を忘れてしまっていたからだ。
「あっ」
おとぎの少女がそれに気がついた頃には既に決定的に遅すぎた。
音もなく少女との間を詰めた闇の球体から同じような色の黒い触手のようなものが生え、兎の少女の足にカズラの如くシュルリとしなやかに絡み付いた。
死への王手をかけられ、少女の顔が絶望に染まりかきむしるように足に爪を立て触手を外そうとする……が、渾身の指に爪にはソレに引っかからずにすり抜けるばかりで少女の抵抗は自身の足を傷付けるのみしか効果を持たなかった。少女に絡みついた触手は実体が無いにもかかわらず、締め付ける力を強め、確かに存在していた。
そして、抵抗で生まれた傷から染みでる赤色は捕食者を興奮させ、少女自身の望む脱失へは程遠い効果をもたらせていた。
「離してぇええっ!離してよぉぉおっ!」
自分のつるりと整った真っ白な皮膚が傷だらけになるのも関係なしに整えられた爪で何度も引っ掻き泣きじゃくるが、捕食者はそんな茶番を待つ気はさらさらない。
情けも容赦も無く触手が黒い玉へと収納され、少女を球体へと押し込もうとする。
「いやっ!いやぁっ!」
触手に引き倒されて少女は倒れ、引きずられないように地面にへばりつく。硬い茶色の地面に爪を立てて引く力に抗うものの、結局は力の差が大き過ぎて地面に十個の筋が引かれるだけ。爪を立てても十本の筋に赤色が足されてだけ。
結果はもはや決まっていた。
「うぐっ、ひぐっ……だれか、だれか助けてよぉおっ……!」
ポロポロと涙を流し続けながら指が擦り切れるのも構わず地面をかくものの触手が緩む時が来ることなく少女は黒い玉に引きずり込まれて足から飲まれていく。
ズブ、ズブ、と液体であるかのように玉に波紋をたてながら彼女の足は飲み込まれていく。膝下まで埋まった所でブツリ、という聞くもおぞましい音がしたのと同時に黒い玉の中から赤い液体が噴き出る。
ソレを信じられないような目で見つめた少女は、遅れてきた痛みに泣き叫ぶ。
「ッッッツツ!痛っ!痛いっ!
やめてっやめてぇえ!」
現代において普通に生きていればまず聞くことのない音。
飲まれた場所の骨が砕かれてそこから肉がむしりとられていく音。聴くもおぞましい水っぽい音を立てて少女は生きたまま真っ黒な何かに喰われていく。
「あぎっ!ああああああああああ!」
音が響くごとに絶叫が森にこだましていき、少女はそれのたびに息も絶え絶えに弱っていく。
痙攣するかのように赤をあたりへ激しく撒き散らしながらも生きようともがき、手の届いた蔦を引きちぎり木の根を掘り起こす。
けれども、それによって生まれたのは触手からの開放ではなく体力の無駄な消耗だった。
「ぎっ、あっ。ああ……」
あまりの痛みに体を震わせる以外何も出来なくなった少女を見て嗜虐の心を満足させたのか、ぶわりと広がった黒が服を赤黒く染めた少女を覆い隠し、足、腰、胸、頭と順々に飲みこむ。
くちゅり、くちゅり、とゆったりとした音がしばらく響いた後、これが最期だとでも言うかのように何か水っぽいものが破裂する音と、今までと比べて一段と大きい一輪の朱の華が黒い玉から狂い咲く。
「ああああああああっ!」
絶叫と共にビクンッと大きく身体が動き、かろうじて黒い玉からはみ出て見えていた腕すら生命の息吹を無くしてパタリと地面に投げ出されて赤黒い水たまりに袖を濡らす。
希望の光も届かぬ暗黒の森に肉を咀嚼する音だけが響く。満ちた月はただただ崖を照らし出す。少女の伸ばした指先へはその光が届くことは、永遠に来ることはなかった。
「うわぁあっ!」
僕は玉のような汗をにじませてベッドから飛び起きた。
これがまさか、あんな事を予見していたのだとは、単純に悪夢に怯えるだけの僕には到底考えつかないことだった。