「モット・アンド・ベイリー式城塞(英語” Motte-and-bailey castle”,フランス語” Motte castrale”」は十世紀から十三世紀にかけて北フランスからブリテン島、さらにヨーロッパ各地に広まった築城形式。土・木製または石造の居館となる城塔を自然の丘陵地あるいは人工の盛り土(モット” Motte”)の上に築き、その周囲に木製の防御壁で囲まれた城庭(ベイリー” Bailey”)を持つ。
モット・アンド・ベイリー式城塞の構造
モット・アンド・ベイリー式築城のイメージ図
© Moreau.henri [CC BY-SA 3.0 ]
モットは自然の丘陵地の上に設けられる場合もあれば、盛り土を築いて造られる場合もある。高さは最大のもので約30メートル、平均すると6~9メートルのものが多く(注1)、形状は円形や楕円形など様々だが、頂上部を平坦に、斜面を急坂に造成して作られた。モットの頂上には土・木製の居館が築かれ後に石造の城塔へ発展した。通常、モットへは外部から直接行く通路が無く、周囲に築かれたベイリーを通る必要がある。
ベイリーは、モットの下部に位置する平地部分で兵士たちや職人、領主の使用人などの住居、馬屋、納屋、礼拝堂、広場などが築かれている。ベイリーの周囲には土塁と壕をめぐらし、土塁の上に木造のパリサードが設けられている。壕には通常跳ね橋が架けられ外部と繋がっていた。モットを持たないベイリーは「環状構築物(リングワーク” Ringwork”)」と呼ばれる。また、ベイリーは非常時には近隣住民の避難地としても機能していた。
モット・アンド・ベイリー式城塞の歴史
堀越宏一2013によれば、モット・アンド・ベイリー式城塞の最も早い事例は950年頃、フランス・アルデンヌ地方のタン・ル・ムーティエの沼地に築かれたシャントレーヌ城であるという(注2)。モット・アンド・ベイリーの起源については諸説あり、ヴァイキングの侵攻に対抗して従来の環状集落から発展したというものと、元々ヴァイキングによる築城形式が広まったとするもの、あるいは東欧でスラヴ人たちによって築かれていた「グラード」の影響を指摘するものなど(注3)あって定かではないが、少なくとも十世紀頃、おそらくアンジュー地方で誕生して北フランスで盛んとなり、各地に広がったという経緯を辿る。
このようなモット・アンド・ベイリー式城塞出現の背景として、堀越宏一2013では以下のように二つの点を挙げている。
『第一に、カロリング朝フランク王国の衰退と分裂の結果、有力な政治勢力がなくなり、地域の有力者が、自分自身と支配下の人々の生命と財産を守るために城を建てて自己防衛することを促されたという事情がある。ただし、この不安定要因は、九世紀後半にはすでにはじまっていた。それなのに城の登場が一〇世紀後半まで遅れたのは、おそらく地域社会が城を建設できるための経済力をもてるようになる時期に対応しているのではないかと推定される。それが、第二の城の誕生の背景となる。紀元一〇〇〇年頃のヨーロッパでは、中世農業革命とも呼ばれる技術革新とともに、開墾が盛んに行われるようになり、農業生産力の上昇がはじまっていた。その結果、人口も増大して、守るべき財産と同時に、それを守るための施設を建設し維持できるだけの社会的余力がようやく生まれたのである。』(注4)
ノルマンディー地方のモット・アンド・ベイリー式城塞
最初期のモット・アンド・ベイリー式城塞建築は十世紀から十一世紀にかけてノルマンディー地方からアンジュー地方にかけての北フランス一帯に築かれている。著名なものとしては現在のノルマンディー地域圏カルヴァドス県にあるファレーズ城” Château de Falaise ”やノルマンディー地域圏ウール県のジゾール城” Château de Gisors”、などがある。
ファレーズ城は史料上の初出は1027年、後のノルマンディー公ギヨーム2世すなわちイングランド王ウィリアム1世の出生地として知られ、公の居城となった。現存する建物で最古のものは1123年、ウィリアム1世の末子であるイングランド王ヘンリ1世が築いた石造の天守塔である。フランス王フィリップ2世が築いた天守塔も含め三棟の天守塔が築かれた。百年戦争、ユグノー戦争、ブルボン王家初代アンリ4世の国土統一戦争、そして第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦(ファレーズ包囲戦)まで戦乱の渦中にあり続けたが、奇蹟的に三棟の天守塔は無傷で残ることになり、モット・アンド・ベイリー式城塞の姿を現在まで残している(注5)。
「ジゾール城”Chateau de Gisors”」(Wikimedia Commonsより)
© Nitot [CC BY-SA 3.0 ]
イングランドのモット・アンド・ベイリー式城塞
イングランドでモット・アンド・ベイリー式城塞が広がったのは1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世)によるイングランドの征服(ノルマン・コンクエスト)を通じてのことだが、ノルマン・コンクエスト以前にもモット・アンド・ベイリー式城塞がブリテン島各地に築かれている。例えばウェールズと接するシュロップシャー地方のリチャードの城(”Richard’s Castle”)は1052年頃、当地を支配していたノルマン人リチャード・フィッツ・スクローブまたはフィッツ・スクロープ(” Richard Fitz Scrob or Fitz Scrope”注7)が築いたモット・アンド・ベイリー式城塞である。これはノルマンディーで育ったエドワード証聖王が自身に協力的なノルマン人を少なからずイングランドへ招いて領地を与えていたという背景がある(注8)。
1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世はヘースティングズの戦いでイングランド王ハロルド2世を破ってイングランド王ウィリアム1世(征服王)となると、イングランドを征服して各地にモット・アンド・ベイリー式城塞を築き支配体制を固めていった。
ヘースティングズ城”Hastings Castle”はウィリアム1世がイングランドに築いた最初の城である。1066年9月28日頃、ノルマンディー軍はイースト・サセックスの港町ペヴェンシから上陸すると、10月1日、ヘースティングズに進軍してここに拠点としてモット・アンド・ベイリー式城塞を築いた。築城の様子はバイユーのタペストリーにも描かれている。十四世紀頃までに戦乱と津波・風雨によって崩壊し、現在は遺構が残るのみとなっている。
コルチェスター城” Colchester Castle”は、1076年頃にウィリアム1世によって、紀元一世紀にローマ帝国によってブリタニア属州最初の首都が築かれた都市コルチェスターにあったローマ時代のクラウディウス神殿の上にローマ時代を石材を使って築かれた城である。ロンドン塔” Tower of London”よりも城塔の基底部の大きさが1.5倍に及び、ウィリアム1世の城としては最大のものとなる。これはウィリアム1世「過去の偉大なる帝国と自分たちを意図的に結びつけることで、自らがローマの後継者に値することを明白にしめそうとした」(注9)という。いわば、ウィリアム1世にとって征服の象徴たる最重要の城であった。十七世紀に大部分が取り壊され、現在の城は十八世紀以降修復・増改築されたものである。

「ロンドン塔のホワイトタワー」(Wikimedia Commonsより)
© Bernard Gagnon [CC BY-SA 3.0 ]
1066年12月、ロンドンを占領したウィリアム1世はロンドンに城を築くよう命じ、南にテムズ河を望む小高い丘(タワーヒル)に人工の盛り土(モット)を施し木製の城柵と空堀で周囲を囲んだ上で木造の城塔を築かせた。この最初のロンドン塔はすぐに取り壊され、1078年頃、後のロチェスター司祭ガンダルフに改めて石造の塔の建設を命じた。これが後のホワイトタワーである。ホワイトタワーは十一世紀末に完成しノルマン朝時代のロンドンで最も高い建物であった。十三世紀まで二百年かけて増改築を繰り返しヘンリ3世が完成させて、現在へと至る(注10)。
「ウィンザー城のモット上に建つラウンドタワー」(Wikimedia Commonsより)
© Petr.noha [CC BY 3.0 ]
ウィンザー城”Windsor Castle”もウィリアム1世が築いた城であった。1066年、ウィリアム1世はヘースティングズ城の大規模な増強とロンドンおよびドーヴァーに城の建設を命じたのに続いて、ロンドン周辺の防衛のためにウィンザーに城を築いた。ウィンザー城のモットは人工ではなく天然の丘陵を利用したもので当初は木造の城柵と木造の塔による簡易的なモット・アンド・ベイリー式城塞だったが、1075年に石造の壁を築いた。1170年、ヘンリ2世によって石造の中世城塞にリニューアルされ、後にイングランド王室最重要の宮殿へと発展する(注11)。
モット・アンド・ベイリー式城塞の展開と衰退
モット・アンド・ベイリー式城塞は北フランスとイングランドに続いてスコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランドル、ネーデルラント、フランス南部、神聖ローマ帝国、デンマーク、イベリア半島、そしてノルマン人によって南イタリアに広がった。

「カーディフ城(ウェールズ)」(Wikimedia Commonsより)
© amateur photography by michel [CC BY 2.0 ]
モット・アンド・ベイリー式城塞は特にウェールズとアイルランドでは十三世紀に盛んに造られたが、全般的には十二世紀前半頃をピークに、石造城塞が主流となる十二世紀後半以降、まずイングランドとフランスではほぼ造られなくなり、十四世紀末までにヨーロッパ全体でも新造されることはなくなった。中世ヨーロッパの城はモット・アンド・ベイリー式城塞から発展していくことになる。
中世ヨーロッパの城について、モット・アンド・ベイリー式城塞からの発展形ではなくビザンツ帝国の築城技術の影響下で発展したとする説もある。カウフマン2012によれば「ビザンツ帝国の築城”Byzantine Fortifications : An Intoroduction”」を著したクライヴ・フォスとデイヴィッド・ウィンフィールドは『城塞建築術は古代ローマの築城野営地や城壁要塞にまでさかのぼり』(注12)、『暗黒時代のヨーロッパ北西部ではモルタル作成術が失われており、大規模な石造構築物が建てられなくなっていた』(注12)として『ビザンツ帝国が中世世界に見事な古代ローマの石造築城を築き、それが後日の建築師たちの手本となった』(注12)と考えた。しかし、『圧倒的多数の証拠によりヨーロッパの城塞はフランスで』(注12)、特にアンジュー地方で誕生したというのが事実と考えられている。
『この地域では慎ましいモット・アンド・ベイリーから石造キープへ、さらには後の世紀の城壁と城塔からなる精巧な複合建造物群へと城塞が徐々に変貌していく様子をみることができる。ビザンツ築城の研究によってヨーロッパの建築師たちの技と知識は向上したかもしれないが、それが城塞建造のために必要不可欠な刺激を提供したとは考えられない。』(注12)
参考文献
・太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』(吉川弘文館 2010年)
・出口保夫『ロンドン塔―光と影の九百年 (中公新書)』(中央公論新社,1993年)
・堀越宏一著「第4章 戦争の技術と社会」(堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』(ミネルヴァ書房,2013年))
・森護著『英国王室史話』(大修館書店,1986年)
・J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)
・チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)
・マシュー・ベネットほか(浅野明監修、野下祥子訳)『戦闘技術の歴史2 中世編』(創元社,2009年)
・Motte castrale — Wikipédia
・Motte-and-bailey castle – Wikipedia
脚注
注1)太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』( 吉川弘文館 2010年)17頁
注2)堀越宏一著「第4章 戦争の技術と社会」(堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』(ミネルヴァ書房,2013年))92頁
注3)J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)11,19,90頁/Motte-and-bailey castle – Wikipedia
注4)堀越宏一著「第4章 戦争の技術と社会」(堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』(ミネルヴァ書房,2013年))93頁
注5)チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)114頁
注6)チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)118-119頁
注7)Richard’s Castle – Wikipedia
注8)太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』( 吉川弘文館 2010年)17-18頁
注9)チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)64頁
注10)出口24-48頁/チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)62-63頁/太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』( 吉川弘文館 2010年)38-43頁
注11)太田静六著『イギリスの古城 (世界の城郭)』( 吉川弘文館 2010年)21-24頁/チャールズ・スティーヴンソン 著(中島智章 監修/村田綾子 訳)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』(柊風舎,2012年)80-81頁
注12)J・E・カウフマン/H・W・カウフマン共著(中島智章訳)『中世ヨーロッパの城塞』(マール社,2012年)100頁