私と玉澤と吉田君は、盛岡一高の柔道部の同期として青春を共にした。玉澤は早稲田大学に進学し、昭和44年の衆議院選へ出馬することになる

 早稲田大学に進学した玉澤は、M・R・A(道徳再武装)という団体に入信、没頭して約2年間休学し、中南米を演劇等して回っていた。そんな玉澤の大学院時代に、私は、親も出さなかった学費を、手をドロにして野菜を作り、かせいだ金を願われるまませっせっと送っていた。

大学院を卒業後の昭和44年、衆議院選挙に出馬することになると、私は事務局長として、吉田君と共に選挙活動を行うことになった。

当時は1万円札が目立つ時代であった。 パチンコ屋で両替したりして、徹底してばらまいた。

投票日の夜、太田橋の下で事務所の紙類を全部燃した。 バラマキメモは隠し持ってた。何が起きても、玉を守るの一念からである。一万八千の得票であったが、小生誰も出来ないことを、やってのけたの気分で誇りであった。投票の翌日文章違反が一つ出た、来たなと思い、バラマキメモを水で溶かしトイレに流した。

 

 昭和47年、2度目の衆議院選への出馬を決めた玉澤は、会社設立して間もない私たちに選挙資金の融資を願った。

昭和四十七年七月、東京の右翼の超大物で、関山義人と云う人がいる。児玉誉士夫と同格の人物で、そのトップの番頭に、井上と云う大人物がいる、その人に選挙資金を願ったら、地元で金が出ないのでは出せない。地元で出るなら、出してやると云われたので是が非でも出してくれ、との話であった。

用事があって事務所をでたら道路まで追いかけてきて頼む頼むと何度も頭を下げられた

会社設立から一年そこそこ、余裕金等あるわけでない。 二三百の金では役に立つどころか、笑われると考えた。 誰彼に話せることでもない。経理の者が苦い顔をするなか、仮払金として壱千万円を小生名義に引出して、貴君の家に行き、借用証等、紙切一切無しで、小生の手から貴君の手に借した。

神農道では、この様な金は、命が担保だ。玉澤はこの一千万円を呼水に三千万円を借り入れた。一か月後位に、関山義人本人が来盛して主だった30名に檄をとばした。11月末になると選挙選が始まった。

高倉健や相撲の関取衆が来盛し、内部から派手すぎるの声も出た。法定費用約370万に対して
実際に要された金額は10倍を超えるものだった。

 結果は落選、しかしながらその後からの選挙資金は贅沢そのもので、法定費用は一度も守ったことはない。

 昭和51年の衆議院選に三度目の出馬で当選する。念願の議員となった玉澤であったが、やがて政治思想、哲学、大義を無くした醜塊となり下がる

 そこにいたのは、今となってみれば、私が知っている「玉」などではない。永田町に行って、金バッジをつけ、威張りチラシたいだけの、醜い野心の塊である。磨くなどしたら、ウンザリと、悪と害が、北上川のごとく流れ出す。防衛庁長官、農林水産大臣を努めたが、平成12年(2000)に落選する。「落選すれば引退」としていたが、引退を撤回した。

内容証明全文(甲第一号証書き起こし)-平成13年5月10日送付

前略

先日の三月二十二日の話し合は辛辣で、不愉快なものであり、小生承服できるもので無い、吉田潤一君の体調は週三回の透析、体重四十キロそこそこ、食も進まない状態。残念であるが現状維持が良しとしなければならない事は貴君も解っているはづだ。少年の頃から好きだった文学、詩の1つでもの気分なってユックリしたものにしてもらいたい、と云うのが小生の考えである。

ドロドロしたクソツボ様なところで彼を終らせたくはない。貴君は吉田とは死ぬも生きるも一緒だ、と目をむいて、大声で云うが意とするはなんだ。彼は貴君の政治思想、哲学、業績等に惚込んでそこにいることでないことは確認してから貴君を訪家している。彼は体力の限界を感じてやめると云ったのに対して、貴君は吉田の精神力は云々、北上川下り云々、と云ったと聞く。精神だ、魂だ。事実とすれば六十年前の、神風特攻と相通づるものだ。

吉田君が辞めると云ったら、事務所の全員がやめると云いだしたと聞く。これに対して、多賀さんは馴合、恁合と云うが、それは当らない。貴君の人間としての魅力のないこと、人徳の無いことの結果である。

 彼は少年の頃、ヘミングウェイに惚れ込んだ時期がある。 国家か、友か、又人殺をしてしまった者でも友は友だの思い、事務所の全員が辞めると云いだしたこと。これ等がゴチャゴチャになって身動きがとれなくなってしまっているのだ。人の生命をどのように考えているのだ。政治活動をやめることが、自分が死ぬことだなどと考えているのではあるまいな。貴様の政治家願望などそんなカチのあるものでない。野望に押し流され友に対しての涙(目から出ることでない)の一滴もなくなってしまったか。

宮守村長選のことはこのこと1つだけでなく同じようなことが小生の限られた知る内にも山のように多く聞こえて来るから勘弁出来ない。歴史を見れば親、兄弟を殺して権力の座についた者は多くいるだろうが、現今の日本では通る話でない。身内、友人、他人、みさかいなく踏台にして国会議員になって何をやると云うのだ。その様なことまでして推し進めなければならない政治思想、哲学、大義があるなら。小生白髪頭ではあるが、貴君の大きな目玉が飛び出るような大金を授業料として用意し、弁当を持って毎日教えを乞いに参上する。

最近吉田君に、高橋が金を借りて行ってから疎遠になったと云ったと聞く。金を返せなくなって寄付がなくなったとでも思ったか。お門ちがいもいいかげんにしたまえ。どっちが借りて、どっちが貸してると云うことだ。貴君に願われ何拾回も出しているが、一度でも借用証など口にしたことがあったか。先日会うまで催促したことがあったか。貴君は借用証を求め弐百五拾万円の書面を自分で確認し、明日東京から送金するとの約束で 借用書を吉田君に預けわかれた。翌日送金されたのは壱百五拾万円であった。あわてて電話したら、百万円はそっちでなんとかしろよ。との話であった。生れて始めての貴君に対しての金のたのみであった。貴君に何拾回となく用立しているが、この様なことをした覚えはない。一度でもあったら書面にて知らせてくれ。

 

 他の疎遠になった元原を記す。

昭和四十四年が貴君の結婚した年と記憶する、披露宴は盛大なものであった。その翌日菊池トラカヅは、結婚式が花だ、玉沢は演説乞食になるぞ、の捨台詞を残して去って行った。 晩秋と記憶する、福出町のシメさんが参百萬円持参、小生が受け取った。急ぎ貴君の父に連絡して事務所に来てもらい二人きりで話合いとなった、前半は喧嘩、後半はシンミリした話で同額の参百万円を了解してもらった。  今考えるとコッケイであるが出ないと後々貴君の立場がないと主張した。 後半のシンミリの話で権力の座(政治家)とは恐しいものだ秀吉の量後はみじめだ、の話が心に残る。菊池は逃げ失せ、吉田君は藤田喜平氏の会社に席を置いて、サボッての奉仕、ヤジウマ気分の学生供。一二月になって選挙が始まった。

当時は1万円札が目立つ時代であった。 パチンコ屋で両替したりして、徹底してばらまいた。投票日の夜、太田橋の下で事務所の紙類を全部燃した。 バラマキメモは隠し持ってた。何が起きても、玉を守るの一念からである。

もちろん俺の脳ミソだけで出来たことでない指導してくれたのは花巻の照井甲四郎氏。橋本翁がパリーに逃亡したときの参謀長が照井氏と高弥の先代であった。一万八千の得票であったが、小生誰も出来ないことを、やってのけたの気分で誇りであった。投票の翌日文章違反が一つ出た、来たなと思い、バラマキメモを水で溶かしトイレに流した。 しばらくして貴君にメモの提出を求められたが、あるわけがない。大声と目玉でムカッときたが大して気にもしなかった。

事務所解散。

新車に頭金も入れないで買入し、月賦の多大に残った車を引受け、事務所で使用した古ストーブ一個。約二年間の報酬が、ゼロでなくてマイナスなのである。途方に暮れる小生を拾ってくれたのが恵工業の菊地社長であった。この頃の恵工業は今の様に立派な会社になっていなかった、金貸が事務所に居座ることさえあった、そんななかで車の月賦を払うため何度も金を借りた。イヤな顔を一度もされたことが無い。今思い出してもハナ水が出て、頭がさがる。月給でなく、歩合給にしてもらい、働きまくって会社を設立した。この間の金品も、トータルすれば少ない物ではないが、思い起す気があれば解るはづだ。

 一件については思い出してもらう。

昭和四十七年七月、東京の右翼の超大物で、関山義人と云う人がいる。コダマヨシオと同格の人物で、そのトップの番頭に、井上と云う大人物がいる、その人に選挙資金を願ったら、地元で金が出ないのでは出せない。地元で出るなら、出してやると云われたので是が非でも出してくれ、との話であった。大変な話を持込まれたと思った。会社設立から一年そこそこ、余裕金等あるわけでない。 二三百の金では役に立つどころか、笑われると考えた。 誰彼に話せることでもない。  貴君の父に会って話そうか、とも考えたが、盛大な披露宴、参百万の件、等考え合せ、無理と思った。

  金は必要なとき、必要な額があって力があり、役立つものだ。

経理の者が苦い顔をするなか、仮払金として壱千万円を小生名義に引出して、貴君の家に行き、借用証等、紙切一切無しで、小生の手から貴君の手に借した。

神農道では、この様な金は、命が担保だ。(小生はヤクザでないから心配不要)

先日の話で、あの金は、お前だけの金でないから払わないとハッキリ云った。このことがどう云うことか、小生の目の黒い内に貴君に、しっかり教えてからでないと、小生は目を白く出来ない。

 大学院時代、親も出さなかった学費を、手をドロにして野菜作りで、かせいだ金を願われるまませっせっと送った。願われた手紙が膨大にあったが、小生北海道に駆ヶ落する前、こんなものが残っていては後々、玉にキヅをつけることになってはいけない、と考え全部燃やしてしまった。残念なことをしたものだ。

今になってみると、「玉」などではない。

永田町に行って、金バッジをつけ、威張りチラシたいだけの、醜い野心の塊である。磨くなどしたら、ウンザリと、悪と害が、北上川のごとく流れ出す。

 

貴君の祖父の葬儀の日は、晴れた冷たい風の日だった。 貴君は、MRA、なる新興宗教みたいなものに没頭して海外だったと記憶する。 貴君の居ない田老に何度か行った。裏のバス駅まで送ってくれ、涙しながらの笑顔で話してくれた。そのときの「トク」は今の貴様のようなものでない。

貴君の父の自殺については、ナニオカイワンヤ、であるが、このさいだから記す。葬儀に吉田君と小生が列席して、法事の膳にまで座した。残念でもあり、悔しかった。玉にキヅをつけることになりはしないか、と気にもかかった。無理して出してもらった、参百万円の件もあり、少々責任を感じた。俺も小豆相場等に手を出しことがある、もう少し足しげく来て合っていれば、こんなことをさせないで済んだかもしれないな、と云ったとき、貴様の顔が変にゆがんだので、気にはかかったが理解できなかった。

 何年後かになって解った。

議員会館の事務所で、貴様に、クソ、ミソに怒号され、ローソクの様な顔色と、脂汗で、帰って、四、五日後の首ツリだったと知ったときは、本当にウンザリした。田老の生家に、どれほどの荷を負わせて来たかを思う気持ちが少しでもあれば、 なにも知らづ法事の膳にまで座らされた者はピエロだ。

永田町で、豆ツブぐらいの金バッジを付ければ、体内に金色の血が流れるとでも考えているか。バカも休々考えたがよい。

全世界を探し回っても、死なない人間は一人もいないはづだ。 人の死を早めることを、人殺し、と云うのだ。法の以前に道義があるはづだ。他人をキヅ付けないで生きて行ける人間は居ない。 誰もが、効も、罪も、誇りも、ショボクレ、も引づって生きていると考えるが、貴様の行為、言動、はその範囲を越脱して、麻薬患者のごとく狂っている。

今度の選挙がだめなら政治をやめる、と云ったが、今やめても遅過ぎる。

今日の日本は平和を装っているからよいが、乱世、貧困等であれば、とんでもないことをやらかす素質と要素を持っている。共産主義は悪魔だ、悪だ、と大声で云うが何千年も前から悪魔がいたことは、政治学、政治史を、大学院まで極めた貴君に解らないはづがない。

俺が貴家を訪した後、吉田君に高橋が大分金に困っているようだ云々・・。

シメさんに、線香を手向けたことにまで猜疑の云あったように聞く、シメさんは俺の母二回、父のとき、三回も葬儀に来てくれた人だ。義理を欠くな、と云われるなら解る。猜疑の云があったとすれば論外だ。金に困って小銭でもセビリに来たとでも思ったか。畳のゴミも、北上川下りも、スリーピングバックでの星空も、何もかも、腹を立てることもやめだ。(軽いものではなかったぞ)

但し、このような者が、世に大きな顔をして、ノサバッていることは、社会の悪である。根こそぎ征罰しなければ、後々世に悪の繁茂をゆるすことになる。

訪家したあの日は、大学の卒業式に行ってると聞いた。  貴君の学問の高さ、見識、哲学のすばらしさ、等々から大学に招かれた、と考えてるか。選挙には莫大な資金を導入し、落選して、金もなく、仕事も無い貴様を、大学の講師にまで引き立ててくれた、井上さんとはどんな付き合いになってますか。吉田君から、自民党と社会党が連合したことでまづくなった、と聞いていたので、話したことがある。

「バカモノ、俺のケツアナがそんなに小さいと思っているのか。」 としかられる始末だった。又、玉沢・・・あんな者はブッ殺すカチもない、ともいっておった。

俺も今回で百パーセント理解できた。

 この様な者に、金を借しておく理由が無い、が、一度も呉れると行ったことはない。貴様も呉れろ、と云ったことは一度もない。

額は現今の価値にすれば多大なものであるが算出がめんどうだ。小生の借りは後にも、先にも弐百五拾万円が壱百五拾万円になってしまった、あの一件だけである。四十七年の壱千万円の件は別として、損になるが、壱百五拾万円と相殺して。 いやと云うなら、面倒でも算出する。

四十七年の壱千万円について、ここに新めて精算請求する。

現在の貨幣価値に換算すると、八千万とも、壱億ともなるであろうが、話が面倒になるだろう。 銀行定期金利計算でも四千万以上になる計算である。貴君の器量では面倒と考える。総務庁統計局の消費者物価指数年報に順じて(平成十年)算出すると、弐千八百八拾四万八千円となるので、この金額を、平成十三年五月末日までの期日として請求します。

誰の金だか解らないから返さない、等と田舎の詐欺師も用しないようなことを、大臣二期をやった人が云うものでない。 云われて引下る俺でもない。 又KSDと何億もの商取引をつなぐ貴君である、金が無い等とは云わせない。

 

 云った、云わないでは話にならないので、内容証明郵便で、今月の二十日までに返答を下さい。生ごみが腐って、ぶつぶつ音がしてる、等と思わないでくれ。これだけ赤裸々に書くにはそれだけの覚悟の上である。返答しだいでは、この内容、多数の第三者が目にすること、石割桜に記録として残し、日本国民の誰もがみれるようにすることを申しそえる。

 釈迦は、無知は罪悪だと説たと聞く。候補者の人間性の中身、実像を選挙民が知らないことは罪悪となる。選挙妨害等する気はサラサラ無い。尚、現時点で政治色、政党色は一切無いことを断言しておく。辛辣な文面であるが、ウソは書いていたいことも申しそえる。俺が手紙を書くことなどみたことのない妻が興味深々なので、鶴の恩返の昔話をして解らせた。人に見せられる代物でない。

追記

俺は小佐野ケンジに憧れたことは一度もないが、山下太郎(山師太郎、アラビア太郎)には芯から惚れ込み、憧れた。俺等が二十才そこそこの頃、六十才の山師太郎が、アラビアに石油を掘りに行った記事を読んで、胸が苦しくなり、涙が止まらなかった。後になって後押が岸信介と知った。人の縁を考えさせられる。

 

林、ヤブを開拓して、イモ、カボチヤ、モロコシ、等々を作付し、梨、ブドー、柿、等の枝を整え。

 鳥の声を聞き、

             ちるさくら    残るさくらも    散るさくら

の心境であったが、この件が決着つくまで、やめだ。老骨の血をこれだけ滾らせてくれるのだから友とは、有難いものである。

 

平成十三年五月十日

         高橋 脩

 

     玉沢 徳一郎 殿

 

玉澤からの返信(甲第三号証書き起こし)-平成13年5月17日付

高橋 脩君

五月一六日に貴君よりの書類一切を兼平君より受け取りました。

この件は、内容証明でやり取りすることよりも、お互いに直接会って話をすることが一番だと思います。
いつでも時間はとります。連絡を待っております。

二人で会うのが正確を期さないというのでしたら、吉田君も同席してよいと云っております。

この年齢になっても、お互いに昔から云っていたように、正面から向き合って堂々とやろうという精神は忘れておりません。

平成十三年五月一七日

 玉澤 徳一郎

平成 27年 1月 30日の口 頭弁論期日におい て、時効を援用するとの意思表示をした。

玉澤側の主張は、私が平成13年5月10日、上記1000万円を、同月31日までに返還するよう催告した内容証明により 10年が立った平成23年5月31日に時効が成立したとのものであった。

しかしながら当初は政治資金として頂戴したとの主張をおこなっていたが、翻し借入の事実は認めている。ここに裁判時の資料を掲載する。

 

陳述書(甲四号証)

 

原告と被告、玉沢徳一郎(以下被告)、(故)吉田君の3人が友人となったのは盛岡一高に入学し柔道部に入部した時から始まりました。2年生の時、ドラム缶で筏を組み盛岡~石巻まで6日間の冒険旅行をしたときに刎頸の友だ、死ぬも生きるも一緒だ、の誓いもしたものです。

卒業して十数年後、原告は(株)東日本開発を経営し、吉田君を専務として不動産、土木建設、温泉、掘削等広く事業を手掛け、東京にも子会社を設立するなどして順調に推移していた。

昭和47年秋口、被告が原告の事務所に来て近々衆院選が始まるので資金を井上さんという人にお願いしたところ「地元でまとまった資金が出るなら出してやる、地元から出せないのなら出せない。」と言われたとのことでした。

井上さんがどんな人なのかと聞いたらかつての大陸侵攻時代、満州国(時代)の関山機関の頭目関山義人の一番番頭とのことでした。

大学時代の友はいくら頼んでもだめだなどと愚痴を長時間話し続け、やっぱり高校の時の友は本当の友だ、などと話されたのですが、巨大、巨額な話なので返答に困り、用事もあって事務所を出たら道路まで追いかけてきて頼む頼むと何度も頭を下げられた。

私は情に折れやむなく承知して、次の日銀行から金一千万円を引出し(故)吉田君とともに被告宅へ赴き帯封を切らず貸し渡した。この時吉田君を交え借用証なし、領収証なし、支払いは無期限として被告が全額原告に支払いを終えるまでとした。

私が甲一号証を被告に送付して、甲三号証が私のもとに来てその数年後被告から1通手紙が届いています。その中身内容は「君から金一千万円等を借りた覚えはない、金一千万円は政治献金としてありがたく頂戴する。」 とのものでした。公序良俗に反しまさにゴロツキの論理そのものです。

私は腹が煮える思いで、そのまま行動すれば法廷に縄付きで、立つようになってしまうと思い「井上さんはぶっ殺す価値もなし」の言を心に念じ自分の心をセーブしました。こんなものを読み返していてはいけないと思い処分した気がします。

被告は大学時代M .R .A (道徳再武装)という団体に入信没頭して約2年間休学し中南米を演劇等して回りました。その聞も手紙のやり取りもありましたが、その中身内容に強い違和感があったので青年会の仲間と寺の住職を訪ね一晩中ディスカッションをしたことがあります。仏教等とは相いれないもので、識に薄っぺらなものだと今でも思っています。

政治献金等毛頭考えたことはありません。

 

 

甲第四号証 陳述書と準備書面に対する反論<玉澤からの反論>

 

原告 高橋 脩と被告玉澤徳一郎と吉田潤ーの三人は高校2年生の時盛岡から石巻まで北上川を下ったのは事実です。「死ぬも生きるも一緒」の誓いをして学友に見送られながら決行したのは事実です。三人は刎頸の友であり親友でありました。

玉澤が昭和44年に初立候補したときは、高橋君は事務局長として応援していただきました。吉田君は昭和51年の総選挙に初当選してから30年にわたって後援会の事務局長として勤めてくれました。

両君は昭和44年の総選挙が終わってから「東日本開発」と言う不動産を主として扱う会社を設立しました。その際高橋君は「この会社を作って玉澤の政治資金を作る」と明言してくれました。

当時の土地ブームもあり、高橋君、吉田君が一緒になって会社を経営して利益を上げ、その一部を政治資金として頂きました。それから29年経ち、平成13年になって、高橋君が玉澤に貸した金を返せと行ってきましたが、吉田君は借入金としては、一度も認めませんでした。

 準備書面の3に有るような三人で口頭で契約した事実は全くありません。

 更に陳述書では「大学時代の友人はいくら頼んでもダメだ」うんぬんが書かれていますがそのようなことは決してありませんでした。

早大雄弁会の学友中心に大変多くの皆様に支援して頂き、その中でも(マンション経営で成功し)事務所開設を応援してくれた小野寺直三君と高橋君とは3人で東京であった事実を指摘するだけで十分であろう。

昭和47年の総選挙は11月解散、12月選挙であり、この政治資金と東京からの支援で戦うことが出来たのであり、(準備書面にある)1千万円を原資として3千万円を借り入れた事実はない。

 

甲第五号証 陳述書

1.

被告の甲第4号証に対する反論が2月20日公判当日に提出されましたが内容があまりにも事実と相違するため改めて陳述します。

会社を設立して玉澤の政治資金を作るなどと話したことは一度もありません。昭和44年のときでコリゴリでした。吉田君は借入金を認めないとありますが事実は逆、玉澤自身が借入金を認めたのであるし吉田君立合いの上であった。

玉澤の借金が膨大で今はどうにもならないと何度か云われてます。

小野寺直三君は東京のハッタリ屋とみてました。込入った話をしたことはありません。大学時代の友人が怪しい仏像を持込み詐欺をしようとした者もいました。

金一千万円を原資(呼水)として金三千万円を借入れた事実はないと言っていますが、この件は事実です、私の知っている分が金三千万円です。私の知らない分もあるはずです。 

2.

私が被告に金一千万円を貸して一カ月後ぐらいに関山義人本人が来盛して主だった者30名に撒を飛ばしてました。1 1月末になって選挙が始まり高倉健や相撲の関取衆も来盛し、内部から派手すぎるとの声も出たくらいです。このとき(昭和47年12月)の法定費用は約370万円です。実際に用された金額はその10倍を超えるものでした。

落選でしたがその後からは選挙資金は潤沢そのものでした。法定費用等守ったことは一度もありません。吉田君は公民権停止になり、政治資金規正法に抵触する方々で被告にこき使われ悲鳴を上げてこの世を去りました。

3.

今年1月29日に初公判の前日、被告は盛岡市寺ノ下の高校の同期の工藤哲男君の家を訪家して私に借金があるとの話してます。にもかかわらず法廷に来れば政治資金だと頑張ります。人の道も信義も思義も恥も被告には信義誠実の原則も通用しないのでしょうか。

20年前の阪神淡路大震災のとき被告は防衛庁長官でした。選挙法は完全に無視したのに自衛隊法は固く固く守りました

自分のパッヂと椅子を守るためでしょう、自衛隊の出動は20時間以上ストップのままでした。

即時出動できれば6400名のうち2000名は助かっただろうといわれてます。被告の人間性の欠如です。

4.

被告は大学院卒業後すぐに国会議員千葉三郎の事務所に書生としていたことがあります。千葉三郎議員は知る人ぞ知る前大戦の時代からかなりのポストの人です。私も二度ほど被告と同行して事務所に入ったことがあります。

そのとき被告は「この前の大戦が終わるとき大陸から莫大な金塊・プラチナ塊を本土に持込んで、何人かの国会議員を生出してる大物がいるのでそこに行きっきたいがなかなか行きつけない」と云ったので私はマンガの話だろうと笑い飛ばしました。近年阿片王(新潮社佐野信一著) なる本に出会い事実と知りました。

5.

里見甫を頭目として東条英機、岸信介、笹川良一、児玉誉志夫、関山義人、大川周明、松岡洋介等々その内容背筋が凍る思いで読みました。

阿片が金塊・プラチナ塊に姿を変えて本土に飛行機で持ち込まれたことも記されてます。阿片の匂いがついてるような金に手を付けると脳みそも変質してしまうものとされています。

少年の頃の玉津徳一郎はどこにも居ません。

6.

前回平成27年2月20日裁判を行なった際被告らは、言葉をひるがえし借入れを認めた。そこで時効の採用はできない。

7.

政治資金の証明をせよ。

判決は、時効を認めるものであった

平成27年4月3日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官

平成26年(ワ)第273号 貸金請求事件

口頭弁論終結日 平成27年3月20日

 

判決

岩手県奥州市

原告 高橋 脩

盛岡市

被告 玉澤 徳一郎

盛岡市

被告 玉澤 多賀

 

主文

1 原告の請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

 

 

事実

第1 請求の趣旨

被告らは、原告に対し,連帯して、 1 0 0 0万円を支払え。

訴訟費用は被告らの負担とする。

仮執行宣言。

 

第2 請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。

 

第3 当事者の主張

1 請求原因

 

(1) 被告玉澤徳一郎(以下「被告徳一郎」という。)に対する請求原因

  ア原告は被告徳一郎に対し昭和47年7月末日、1 000万円を貸し付けた。

  イ原告は被告徳一郎に対し、本訴状送達(送達日平成26年12月27日)をもって上記金員を返還するよう催告した。

 

(2) 被告玉澤多賀(以下「被告多賀」という。)に対する請求原因

  ア上記(1) ア及びイと同じ。

  イ被告多賀は,原告との問で、同日、前項の借入金債務を連帯保証するとの合意をした。

(3) よって、原告は、被告徳一郎に対し、上記消費貸借契約に基づき、被告多賀に対し、上記連帯保証契約に基づき、連帯して1000万円の支払いを求める。

 

2 請求原因に対する被告らの認否

全て否認する。

 

3 被告徳一郎及び被告多賀の抗弁(消滅時効)

(1) 原告は被告徳一郎に対し、平成13年5月10日、上記1000万円を同月31日までに返還するよう催告した。

 

(2) 平成23年5月31日は経過した。

 

(3) 被告らは原告に対し平成27年1月30日の本件口頭弁論期日において上記時効をいずれも援用するとの意思表示をした。

 

4 抗弁に対する原告の認否

抗弁(1)のとおり原告が被告徳一郎に対して上記1000万円を含む金員の支払いを請求した事実は認めるがこれをもって催告とすることは争う。

 

理由

証拠(甲1)では原告の被告徳一郎に宛てた内容証明郵便として、「四十七年の壱千万円について,ここに新めて請算請求する。(…)消費者物価指数年報に準じて(平成10年) 算出すると、弐千八百八拾四万八千円となるのでこの金額を平成十三年五月末日までの期日として請求します。」

 と記載されている。そうすると、同郵便をもって、原告が被告徳一郎に対して催告したものとみるほかない。

その余の消滅時効の抗弁を構成する事実については、当裁判所に顕著な事実であるから,被告らの抗弁はいずれも理由がある。

よって、原告による被告らに対する請求原因について判断するまでもなく、原告の請求はいずれも理由がなし、からこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法61条を適用して、主文のとおり判決する。

 

盛岡地方裁判所第2民事部

裁判官 池上 弘

 

 

最後に・・

来年の参議選以降、18歳から選挙権が与えられるが、議会にこのようなサギシ、ゴロツキの類は入れることなく政治全体の健全化を図ることを切に願わずにはいられない。

 

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