私と玉澤と吉田君は、盛岡一高の柔道部の同期として青春を共にした。玉澤は早稲田大学に進学し、昭和44年の衆議院選へ出馬することになる
早稲田大学に進学した玉澤は、M・R・A(道徳再武装)という団体に入信、没頭して約2年間休学し、中南米を演劇等して回っていた。そんな玉澤の大学院時代に、私は、親も出さなかった学費を、手をドロにして野菜を作り、かせいだ金を願われるまませっせっと送っていた。
大学院を卒業後の昭和44年、衆議院選挙に出馬することになると、私は事務局長として、吉田君と共に選挙活動を行うことになった。
投票日の夜、太田橋の下で事務所の紙類を全部燃した。 バラマキメモは隠し持ってた。何が起きても、玉を守るの一念からである。一万八千の得票であったが、小生誰も出来ないことを、やってのけたの気分で誇りであった。投票の翌日文章違反が一つ出た、来たなと思い、バラマキメモを水で溶かしトイレに流した。
昭和47年、2度目の衆議院選への出馬を決めた玉澤は、会社設立して間もない私たちに選挙資金の融資を願った。
昭和四十七年七月、東京の右翼の超大物で、関山義人と云う人がいる。児玉誉士夫と同格の人物で、そのトップの番頭に、井上と云う大人物がいる、その人に選挙資金を願ったら、地元で金が出ないのでは出せない。地元で出るなら、出してやると云われたので是が非でも出してくれ、との話であった。
会社設立から一年そこそこ、余裕金等あるわけでない。 二三百の金では役に立つどころか、笑われると考えた。 誰彼に話せることでもない。経理の者が苦い顔をするなか、仮払金として壱千万円を小生名義に引出して、貴君の家に行き、借用証等、紙切一切無しで、小生の手から貴君の手に借した。
神農道では、この様な金は、命が担保だ。玉澤はこの一千万円を呼水に三千万円を借り入れた。一か月後位に、関山義人本人が来盛して主だった30名に檄をとばした。11月末になると選挙選が始まった。
実際に要された金額は10倍を超えるものだった。
結果は落選、しかしながらその後からの選挙資金は贅沢そのもので、法定費用は一度も守ったことはない。
昭和51年の衆議院選に三度目の出馬で当選する。念願の議員となった玉澤であったが、やがて政治思想、哲学、大義を無くした醜塊となり下がる
そこにいたのは、今となってみれば、私が知っている「玉」などではない。永田町に行って、金バッジをつけ、威張りチラシたいだけの、醜い野心の塊である。磨くなどしたら、ウンザリと、悪と害が、北上川のごとく流れ出す。防衛庁長官、農林水産大臣を努めたが、平成12年(2000)に落選する。「落選すれば引退」としていたが、引退を撤回した。