※お世話になった方をとおして、ときど『世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0』の献本をいただきました。この文章は、それについての私個人の感想文です。
- 作者:ときど
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2019/12/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
筆者のときどさんは、三十代のeスポーツ現役プレイヤー。中学生時代から大船のゲーセンに通っていたというから、アーケードゲームのプレイヤーとして早くから鍛錬していたようだ。そういう経歴の持ち主だけあって、eスポーツ以前の時代、それこそ『ゲーメスト』や『アルカディア』でスコアを集計していた頃の話も出てきて、私は90年代のアーケードゲームシーンを思い出さずにいられなかった。
現代のeスポーツでは、20世紀よりもずっと試合の回数が多く、録画をとおしてプレイを分析することも当たり前になっている。才能任せなプレイや場当たり的な練習では戦いきれず、キチンと考えて練習しなければ勝ち続けられなくなっているという。ときどさんは、昔はそうではなかったことを踏まえたうえで現代のプレイヤーがどう努力すべきなのかを書いている。ひとつひとつの勝敗にこだわるのでなく、長い目で見て自分自身のスキルアップに繋がるような努力を積み上げ、それでいて情熱を枯れさせないようなクンフーを積まなければ、eスポーツの最前線で活躍し続けるのは難しいように読めた。
また、新人として脚光を浴びることと、長く現役のプレイヤーとして活躍し続けることはイコールでなく、長く現役のプレイヤーとして活躍するために様々な要素に注意を払っている様子も読み取れた。ときどさんが語るeスポーツ観では、実際にプレイしている時だけが勝負なのでない。自分の生活に負担をかけない暮らしをデザインすること、心身のコンディションを整えられるよう心掛けたりモチベーションを守ったりすることも、プレイを左右する工夫の範疇、あるいは努力の範疇となっている。
こうした『努力2.0』の話は、もちろんeスポーツに限定されているようには思えなかった。eスポーツであれ、創作であれ、その他の仕事であれ、他人にどうしても勝ちたい人は、プレイヤーとしての自分自身がいつも良い状態で戦場に臨めるよう、また、最も効率的に努力の成果を得られるよう、あれこれ考えておかなければならないのだと思う。才能を誇ったり努力をひたすら積み上げたりするだけでは、激しい競争世界で勝ち続けることなどできない。
本書は、そういう激しい競争世界で勝ち続けるための努力についての本、ということになる。
昔のトッププレイヤーに似ているところもある
内容のすべてが目新しいわけでなく、eスポーツ以前の、『ゲーメスト』や『アルカディア』の紙面でトッププレイヤーが全国一を競っていた頃と共通している、と感じる部分もあった。
たとえば強いプレイヤーとの対戦を求めて他所のゲーセンに遠征する点、「なんとなくできる」をキチンと言語化・ロジック化できるスキルに落とし込む点などは、20世紀のトッププレイヤーもしばしば注意しているものだった。私も近場のゲーメスト掲載店のトッププレイヤーから似たような話を何度も聞かされたし、彼らはいちように「努力は必要だけど」「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」と言っていた。
私に「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」と言っていた20世紀のトッププレイヤーの言葉を、より新しく、より精度の高いものにしたら、本書に書かれている内容になるのではないかと思う。
さまざまな面で、本書に書かれている努力や心構えに近いものを20世紀のトッププレイヤーたちは持っていた。おそらく、ときどさんは大船のゲーセン文化*1をとおして、そういったノウハウの一部を継承していたのではないかとも思った。
後で述べるように、ときどさんには努力の目利きをきかせる才能があると私は想定しているけれども、その才能の一部を大船の先達プレイヤーから譲り受けていたとしたら、「努力の目利き」には文化資本として継承できる余地がある、ということになる。
鍵を握るのは「努力の目利き」力
先週私は、コツコツ努力することへの違和感のなかで、こう記した。
努力には、信用ならないところがある。にも関わらず、たとえば丸の内の高層ビルで働くようなサラリーマンになろうと思ったら、やはりコツコツと努力を積み重ねないわけにはいかないし、そのような個人を輩出する大学が良い大学、とみんなが考えるようになっている。
たとえば学校で身につけさせられる努力の習慣、たとえば課題や宿題をこなすような習慣そのものにも一定の効果はあり、それは継承されやすい文化資本ではある。
ところが、みんなが努力しても最終学歴や年収や経歴がバラバラであるように、努力をとおして得られる実力や成果には恐ろしいほどの個人差がある。
だからこそ「ただ努力するだけではダメ」で、「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」なのだろう。
問題は、「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」の部分をどうやって鍛えていけば良いのかがわからないことだ。
さきに触れたように、大船のゲーセンのような生え抜きのプレイヤーが集まる場所に属していれば、どう努力すれば良いのか、いわば、努力の目利きをきかせる力が一定程度は継承されるのかもしれない。
けれども私はまだ、努力の目利きをどうやって鍛えれば良いのか、本当のところはわかっていない。トッププレイヤーの集まるゲーセンと同等程度の環境に属していれば、ある程度は努力の目利きがきくようになるだろう……という漠然とした予感はあるが、努力の目利きそのものを狙って鍛える方法論を私はまだ知らない。
『努力2.0』で述べられているさまざまな工夫やスタイルは、ときどさんがeスポーツの選手にならなかったとしても有効だっただろう。たとえばゲームについては徹底的に自分の道を追求する一方、受験勉強のメソッドは予備校に完全にアウトソーシングするくだりなどは、努力の目利きを利かせているエピソードの最たるものだと思う。
どの努力を・どんな風に・どれぐらいの割合でやっていくのかを選ぶセンスがときどさんにはあると思う。そのうえ、失敗や危機に直面した時にも、何が足りなくて、どのような努力が必要なのかを見抜き、それにふさわしい努力をビルドするセンスにも恵まれていると思う。こういう人なら、どこの戦場でも、勝っていても負けていても、その努力が無駄になることはない。
『努力2.0』には、自分を持つことの重要性も述べられている。が、私が思うに、自分を持って努力するのが効果的な人とは、自分でどんな努力をすれば良いのかがちゃんとわかる人、努力の目利きができている人ではないだろうか。努力の目利きができない人、つまりいくら頑張っても無駄な努力をそびえたつクソのように積み上げてしまう人は、自分に従って努力するより、努力の目利きをコンサルやコーチにアウトソースしたほうが良いと思う。
ときどさんにしても、受験勉強については予備校にアウトソースしてしまっているわけで、必要に応じて他人を頼るのはまったく恥ずかしいことではない。
ただし、「自分は努力の目利きが苦手」と自覚するのも、「この分野はコンサルやコーチにアウトソースしたほうがいい」と判断するのも、これはこれで簡単ではない。努力の目利きができない人ほど自分の苦手なところを他人にアウトソースしたほうがいいはずなのに、その判断自体、努力の目利きができなければ困難というパラドックス。
どんなジャンル・どんな境遇でも努力をとおして糧を得る人もいれば、努力と称して同じ回廊をぐるぐる回り続ける人もいる。ひとことで努力と言っても、努力の効率性や鑑識眼には大きな個人差があり、歳月の積み重ねをとおしてその差はどんどん大きくなっていく。
『世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0』は努力のノウハウについてプロゲーマーが語った本ではあるのだけど、私個人は、その語り口から努力の目利きの卓抜さ、いわば筆者自身の才能を見てしまった気がした。書かれている内容じたいはビジネスや創作にもよく当てはまるし、このような努力の積み方を知っている人が勝つというのはよくわかる。どういう努力を積む人が勝つのかを知るには、読みやすく、わかりやすい書籍だと思う。
残念ながら、私が長年わからないままでいる「努力の目利き力をどこでどうやって身に付けるのか」については、本書を読んでもまだ、わかったと言い切れない部分は残った。努力の目利き力やセンスに、天賦の才能が絡んでいるという印象は、いまだに拭えない。努力の目利き、努力をデザインする力を、人はどこでどうやって獲得すればいいのだろうか?
*1:注:大船にはアーケードゲームのトッププレイヤーが集まっていた